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壊れやすさ:そのプロセス Brokenness: The Process

2024-11-22 03:03:39 | 日記
壊れやすさ:そのプロセス
Brokenness: The Process

神が私たちに対して行う働きは、時には痛みを伴いますが、その結果は常に美しいものです。
Sometimes God's work in us is painful—but the result is always beautiful.

ローマ人への手紙 8:29-31 29 神は、あらかじめ知っておられた人々を、御子のかたちと同じものとなるようにあらかじめ定めておられました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 30 そして、あらかじめ定めておいた人々をさらに召し、召した人々をさらに義とし、義と認めた人々にさらに栄光をお与えになりました。 31 それでは、これらのことについて、なんと言おうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるだろうか。
Romans 8:29-31 29 For those whom He foreknew, He also predestined to become conformed to the image of His Son, so that He would be the firstborn among many brethren; 30 and these whom He predestined, He also called; and these whom He called, He also justified; and these whom He justified, He also glorified. 31 What then shall we say to these things? If God is for us, who is against us?

1コリント15:49 49 私たちは、地上の者の姿を帯びているのと同じように、天上の者の姿をも帯びることになります。
1 Corinthians 15:49 49 Just as we have borne the image of the earthy, we will also bear the image of the heavenly.

あまり改善する必要はないと考えるのは魅力的です。多くの人は、いくつかの分野では多少の「メンテナンス」が必要になるかもしれないと認めながらも、たいていは「でも私はいい人間です」と付け加えます。しかし、真実は、父なる神は人類の「十分いい」という貧弱なビジョンに甘んじることを拒んでいるということです。神は私たちにもっと良いものを望んでおられます。
It’s tempting to think we don’t need much improvement. While many people concede they could probably use a little bit of “maintenance” in some areas, they will usually add, “But I’m a good person.” However, the truth is that the Father refuses to settle for humanity’s meager vision of “good enough.” He wants something so much better for us.

神は、信者一人一人がキリストに完全に服従したときの姿をご覧になります。そして、現在の自分を御子の姿に変えることで、完全な刷新を成し遂げようとします(コリント人への第一の手紙 15:49)。神の刷新の重要なステップは、私たちの生活にある不敬虔なものをすべて取り除くことです。このプロセスはしばしば不快なものですが、それだけの価値があります。神は、神を敬わない習慣、態度、関係を標的にされます。神は、私たちが神に服従するように、それらの場所に私たちの注意を向けるよう圧力をかけます。
God sees each believer as the person he or she will be when fully yielded to Christ. He then sets about achieving that complete renovation by transforming the present self into the image of His Son (1 Corinthians 15:49). An essential step in God’s remodeling work involves removing whatever is ungodly in our life. This process is often uncomfortable, but it’s worth it! God targets habits, attitudes, and relationships that don’t honor Him. He applies pressure to direct our attention to those places so we’ll surrender them to Him.

神の意志に従うことで、私たちは変わります。私たちが変容する最中、神の道具による痛みが、神の設計の美しさを一時的に覆い隠すかもしれません。しかし、何があっても従う献身的な従者ほど、主にとって素晴らしいものはありません。主があなたを、主が思い描いている息子や娘に作り変えてくださるよう、主に服従してください。
Conforming our will to God’s changes who we are. In the midst of our transformation, pain from His tools may temporarily obscure the beauty of His design. But nothing is more splendid to the Lord than a committed, obey-no-matter-what follower. Submit to Him so that He might remake you into the son or daughter He has in mind.

あなたの例 Your Example

2024-11-21 20:36:16 | 日記
あなたの例
Your Example

フランシスコ法王は一般謁見会のあと、しばらく立ち止まり、神経線維腫症という外見を著しく損なう病気の男性に祈りを捧げ、抱擁し、手を置いた。男性の顔は腫瘍で覆われていた。サン・ピエトロ広場で法王が抱擁する画像はソーシャルメディアで拡散し、キリストの愛の感動的な例に何百万もの人々が感動した。
Pope Francis paused for a moment after one of his general audiences to pray, embrace and lay hands on a man with neurofibromatosis, a severely disfiguring disease. The man’s face was covered in tumours. The image of the Pope’s embrace in St Peter’s Square went viral on social media, inspiring millions by his poignant example of the love of Christ.

模範には大きな力があります。自分自身以外に従うべきモデルがなければ、向上することは困難です。良い模範はインスピレーションを与えるだけでなく、模倣して学ぶべきパターンも与えてくれます。他の人の模範に従うことで最大の利益を得られるだけでなく、他の人に影響を与えるにはあなたの模範が不可欠です。
There is great power in example. It is hard to improve if we have no other model than ourselves to follow. A good example is not only inspirational, it also gives us a pattern to copy and learn from. Not only do you benefit most from following the example of others, but your example is vital if you are to have any influence on other people.

フランスの神学者、哲学者、医師であるアルベルト・シュバイツァーは、「模範は他人に影響を与える上で最も重要なことではない。模範こそが唯一のものである」と述べています。話すことよりも行動、説教することよりも実践すること、言うことよりも行うことの方が重要です。人が見るものは聞くものよりはるかに重要です。人は見るものを行います。ジョン・マクスウェルは、「人が学ぶことの 89 パーセントは視覚刺激から、10 パーセントは聴覚刺激から、1 パーセントはその他の感覚から得られます... *人は聞くものを理解し、見るものを信じるのです!」と書いています。
Albert Schweitzer, the French theologian, philosopher and physician said, ‘Example is not the main thing in influencing others – it is the only thing.’ More depends on your walk than on your talk, what you practice than what you preach, what you do than what you say. What people see is far more important than what they hear. People do what people see. As John Maxwell writes, ‘Eighty-nine per cent of what people learn comes through visual stimulation; ten per cent through audible stimulation and one per cent through other senses... *What they hear they understand. What they see they believe!’*

昨日読んだように、あなたは人生においてイエスの模範に従うように求められています(ペテロ第一 2:21)。今日は、このことの意味のいくつかを見ていきます。
As we read yesterday, you are called to follow Jesus’ example in your life (1 Peter 2:21). Today we see some of the implications of this.

箴言 28:18-28 NIV
[18] 潔白な歩みをする者は守られ、曲がった道を歩む者は穴に落ちる。[19] 自分の土地を耕す者は食物に恵まれ、欲望を追い求める者は貧しさに飽きる。[20] 忠実な人は豊かに祝福されるが、金持ちになろうとする者は罰を免れない。[21] えこひいきは良くない。人は一切れのパンのために不正を行う。[22] けちな者は金持ちになろうとするが、貧乏が待ち受けていることを知らない。[23] 人を叱責する者は、へつらう者よりも、最後には好意を得る。[24] 父や母から盗んで「それは悪いことではない」と言う者は、滅ぼす者の仲間である。[25] 貪欲な者は争いを起こすが、主に信頼する者は栄える。 [26] 自分を頼りにする者は愚か者であり、知恵に歩む者は守られる。[27] 貧しい者に施しをする者は何も不足しないが、彼らに目を閉じる者は多くの呪いを受ける。[28] 悪人が権力を握ると、人々は隠れる。しかし、悪人が滅びると、正しい者は栄える。
Proverbs 28:18-28 NIV
[18] The one whose walk is blameless is kept safe, but the one whose ways are perverse will fall into the pit. [19] Those who work their land will have abundant food, but those who chase fantasies will have their fill of poverty. [20] A faithful person will be richly blessed, but one eager to get rich will not go unpunished. [21] To show partiality is not good— yet a person will do wrong for a piece of bread. [22] The stingy are eager to get rich and are unaware that poverty awaits them. [23] Whoever rebukes a person will in the end gain favor rather than one who has a flattering tongue. [24] Whoever robs their father or mother and says, “It’s not wrong,” is partner to one who destroys. [25] The greedy stir up conflict, but those who trust in the Lord will prosper. [26] Those who trust in themselves are fools, but those who walk in wisdom are kept safe. [27] Those who give to the poor will lack nothing, but those who close their eyes to them receive many curses. [28] When the wicked rise to power, people go into hiding; but when the wicked perish, the righteous thrive.

知恵をもって歩む
Walk in wisdom

知識は水平です。知恵は垂直で、上から降りてきます。イエスの模範に従うということは、知恵をもって歩むことを意味します。イエスは幼いころから知恵をもって歩んでいました。「イエスは知恵に満ちていた」(ルカ 2:40)。「人々は言った。『この方に与えられたこの知恵は何なのだろう…』」(マルコ 6:2)。
Knowledge is horizontal. Wisdom is vertical – it comes down from above. To follow the example of Jesus means to walk in wisdom. Jesus walked in wisdom from his earliest days: ‘He was filled with wisdom’ (Luke 2:40). ‘People remarked, ‘What’s this wisdom that has been given him...?’ (Mark 6:2).

知恵をもって歩むとはどういう意味でしょうか。箴言の著者はこう言っています。「まっすぐに歩め。正しく生きれば救われる。よこしまな人生は破滅する人生だ」(箴言 28:18、MSG)。さらにこうも言っています。「すべてを知っていると思うなら、あなたは間違いなく愚か者だ。本当に生き残る者は他人から知恵を学ぶ」(26節、MSG)。
What does it mean to walk in wisdom? The writer of Proverbs says, ‘Walk straight – live well and be saved; a devious life is a doomed life’ (Proverbs 28:18, MSG). He goes on to say, ‘If you think you know it all, you’re a fool for sure; real survivors learn wisdom from others’ (v.26, MSG).

「夢を追いかける」よりも一生懸命働く方が賢明です(19節)。「庭で働きなさい。そうすれば、食べ物はたっぷりと手に入ります。遊びやパーティーをすると、お皿は空っぽになります」(19節、MSG)。
It is wise to work hard rather than to ‘chase fantasies’ (v.19): ‘Work your garden – you’ll end up with plenty of food; play and party – you’ll end up with an empty plate’ (v.19, MSG).

忠実であることは、「一攫千金」の態度よりも優れています(20節)。寛大であることは賢明です。「けちな人は金持ちになることに熱心で、貧困が待ち受けていることに気づいていません。貧しい人に施しをする人は何も不足しません。しかし、彼らに目を閉じる人は多くの呪いを受けます」(22、27節)。
Faithfulness is better than the ‘get rich quick’ attitude (v.20). It is wise to be generous: ‘The stingy are eager to get rich and are unaware that poverty awaits them… Those who give to the poor will lack nothing, but those who close their eyes to them receive many curses’ (vv.22,27).

時には対決も必要です。「人を叱責する者は、最後にはへつらう舌を持つ者よりも多くの好意を得る」(23節)。イエスは対決を決して恐れませんでした。「結局、おべっかを使うお世辞よりも、真剣な叱責の方がはるかに喜ばれるのです」(23節、MSG)。
Sometimes confrontation is necessary. ‘Whoever rebukes a person will in the end gain more favour than one who has a flattering tongue’ (v.23). Jesus was never afraid of confrontation. ‘In the end, serious reprimand is appreciated far more than bootlicking flattery’ (v.23, MSG).

主を信頼し続けなさい。主を信頼する人は繁栄し(25節b)、そして「知恵をもって歩む人は守られる」(26節b)のです。
Keep trusting in the Lord. The person who trusts in the Lord will prosper (v.25b) and ‘those who walk in wisdom are kept safe’ (v.26b).

主よ、あなたを信頼し、知恵をもって歩めるよう助けてください。
Lord, help me to walk in wisdom, trusting in you.

ペテロの手紙一 3:1-22 NIV
[1] 妻たちよ、同じように、自分の夫に従いなさい。そうすれば、夫のうちに御言葉を信じない人がいるとしても、妻の行いによって、言葉によらずに心を奪われるでしょう。[2] 夫は、あなたがたの清らかさと敬虔な生活を見て、心を奪われるでしょう。[3] あなたがたの美しさは、髪を派手に結んだり、金の飾りや、立派な衣服を身につけたりといった、外面の飾りであってはなりません。[4] むしろ、内面の美しさ、柔和で穏やかな心という、色あせない美しさが大切です。これこそ、神の目に非常に値するものです。[5] 昔の聖なる女たちは、神に望みを置いたので、このように身を飾りました。彼女たちは自分の夫に従いました。[6] サラもアブラハムに従い、彼を自分の主と呼びました。あなたがたは、正しいことを行ない、恐れを抱かなければ、彼女の娘なのです。 [7] 夫たちよ。同じように、妻と共に生活する時も、思いやり深くありなさい。妻を弱い者として、また、いのちという恵みの賜物を共に受け継ぐ者として、敬いなさい。そうすれば、何事にも祈りが妨げられることはありません。 [8] 最後に、あなたがたはみな心を一つにし、思いやり深く、愛し合い、あわれみ深く、謙遜になりなさい。 [9] 悪に対して悪を、侮辱に対して侮辱を返してはなりません。かえって、祝福をもって悪に報いなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために、そのために召されたのです。 [10] なぜなら、いのちを愛し、幸多い日々を見たいと思う者は、舌を抑えて悪を避け、くちびるを抑えて偽りのことばを避けなければならない。 [11] 悪から離れて善を行い、平和を求めてそれを追い求めなければならない。 [12] 主の目は正しい人に向けられ、その耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし、主の顔は悪を行う者に向かっている。」 [13] あなたがたが善を行おうと熱心に努めるなら、だれがあなたがたに害を及ぼすでしょうか。 [14] しかし、正しいことをするために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。「彼らの脅しを恐れてはならない。おびえてはならない。」 [15] むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。あなたがたが抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。ただし、柔和に、慎み深く弁明しなさい。 [16] きよい良心を保ちなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの良い行いについて悪口を言う人たちが、そのそしりを恥じるようになるからです。 [17] 神のみこころであれば、善を行って苦しむことは、悪を行って苦しむよりよいからです。 [18] キリストも、あなたがたを神のみもとに導くために、一度罪のために苦しみを受け、正しい方が不正しい者のために死に、御霊において生かされました。 [19] イエスは生き返ってから、捕らわれていた霊たちのところへ行って、福音を宣べ伝えた。[20] 昔、ノアの時代に神が箱舟を造っておられたとき、神が忍耐して待っておられたのに、不従順であった者たちに。その箱舟の中で、わずか八人だけが水によって救われた。[21] この水は、今やあなたたちも救う洗礼を象徴している。それは、体の汚れを取り除くことではなく、神に対してきよい良心を保証することである。それは、イエス・キリストの復活によってあなたたちを救うのである。[22] イエスは天に昇って、神の右に座し、天使たち、権威、力も従っている。
1 Peter 3:1-22 NIV
[1] Wives, in the same way submit yourselves to your own husbands so that, if any of them do not believe the word, they may be won over without words by the behavior of their wives, [2] when they see the purity and reverence of your lives. [3] Your beauty should not come from outward adornment, such as elaborate hairstyles and the wearing of gold jewelry or fine clothes. [4] Rather, it should be that of your inner self, the unfading beauty of a gentle and quiet spirit, which is of great worth in God’s sight. [5] For this is the way the holy women of the past who put their hope in God used to adorn themselves. They submitted themselves to their own husbands, [6] like Sarah, who obeyed Abraham and called him her lord. You are her daughters if you do what is right and do not give way to fear. [7] Husbands, in the same way be considerate as you live with your wives, and treat them with respect as the weaker partner and as heirs with you of the gracious gift of life, so that nothing will hinder your prayers. [8] Finally, all of you, be like-minded, be sympathetic, love one another, be compassionate and humble. [9] Do not repay evil with evil or insult with insult. On the contrary, repay evil with blessing, because to this you were called so that you may inherit a blessing. [10] For, “Whoever would love life and see good days must keep their tongue from evil and their lips from deceitful speech. [11] They must turn from evil and do good; they must seek peace and pursue it. [12] For the eyes of the Lord are on the righteous and his ears are attentive to their prayer, but the face of the Lord is against those who do evil.” [13] Who is going to harm you if you are eager to do good? [14] But even if you should suffer for what is right, you are blessed. “Do not fear their threats; do not be frightened.” [15] But in your hearts revere Christ as Lord. Always be prepared to give an answer to everyone who asks you to give the reason for the hope that you have. But do this with gentleness and respect, [16] keeping a clear conscience, so that those who speak maliciously against your good behavior in Christ may be ashamed of their slander. [17] For it is better, if it is God’s will, to suffer for doing good than for doing evil. [18] For Christ also suffered once for sins, the righteous for the unrighteous, to bring you to God. He was put to death in the body but made alive in the Spirit. [19] After being made alive, he went and made proclamation to the imprisoned spirits— [20] to those who were disobedient long ago when God waited patiently in the days of Noah while the ark was being built. In it only a few people, eight in all, were saved through water, [21] and this water symbolizes baptism that now saves you also—not the removal of dirt from the body but the pledge of a clear conscience toward God. It saves you by the resurrection of Jesus Christ, [22] who has gone into heaven and is at God’s right hand—with angels, authorities and powers in submission to him.

言葉の有無にかかわらず、勝つ
Win over, with or without words

クリスチャンとしての生活を送ることは、あなたのすぐ近くに住んでいる人々に福音を伝える最も適切な方法です。これは、あなたの家族、学校の友達、仕事仲間、一緒に暮らす人々にも当てはまります。多くの場合、口で語るよりも、生活を通して語る方がより良い説教をすることができます。
Living out the Christian life is the most appropriate way of passing on the good news to those who live in very close proximity to you. This certainly applies to your family, school friends, work colleagues and those you live with. Often you can preach a better sermon with your life than with your lips.

あなたの夫または妻がクリスチャンでないなら、これはとても重要です。ペテロはクリスチャンの妻たちに、もし御言葉を信じない夫を持つ人がいたら、夫の生活の純粋さと敬虔さを見て、言葉によらずに心を動かされるだろうと励ましています(2節)。
This is of great importance if your husband or wife is not a Christian. Peter encourages Christian wives that if any of them have husbands who do not believe the word, they may be won over without words, when they see the purity and reverence of their lives (v.2).

彼らは神についての言葉に無関心かもしれませんが、「あなたの聖なる美しい生活に魅了されるでしょう。大切なのはあなたの外見ではなく、あなたの内面の性質です」(3-4節、MSG)。外見の美しさよりも大きな美しさがあります。「あなたの内面の美しさ、それは柔和で静かな霊の色褪せない美しさであり、神の目に非常に価値のあるものです」(4節)。
They may be indifferent to any words about God but they will be ‘captivated by your life of holy beauty. What matters is not your outer appearance… but your inner disposition’ (vv.3–4, MSG). There is a beauty greater than outer beauty, ‘that of your inner self, the unfading beauty of a gentle and quiet spirit, which is of great worth in God’s sight’ (v.4).

イエスと使徒たちの、夫がどう振舞うべきかについての教えは革命的です。妻だけが義務を持ち、夫だけが権利を持っていた社会において、ペテロはここで、夫と妻はお互いに対して義務を持っていると述べています。
The teaching of Jesus, and of the apostles, about the way in which husbands should behave is revolutionary. In a society where only wives had duties and only husbands had rights, Peter says here that both have duties towards each other.

妻たちに「良い妻」になりなさいと言っているのと同じように(1節、MSG)、夫たちに「良い夫」になりなさいと言っているのです(7節、MSG)。「妻たちを敬い、妻たちを喜びなさい。…妻たちを平等に扱いなさい。そうすれば、祈りが水の泡とならないでしょう」(7節、MSG)。夫たちは思いやりと敬意を示すべきだと、彼は言っています。この関係を正しく保たなければ、祈りは効果がありません(7節)。
Just as he tells the wives to be ‘good wives’ (v.1, MSG), he tells the husbands to be ‘good husbands’ (v.7, MSG). ‘Honour them, delight in them… treat your wives, then, as equals so your prayers don’t run aground’ (v.7, MSG). He says husbands should be considerate and show respect. Unless you get this relationship right your prayers will not be effective (v.7).

言葉なしで人々を味方につけるライフスタイルとはどのようなものでしょうか。それは、互いに調和し、思いやりのある愛、同情、謙遜をもって生きるライフスタイルです。悪に対して悪で報いず、侮辱に対して侮辱で報いず、祝福で報いるライフスタイルです(8~9節)。「報復はなし。辛辣な皮肉はなし。その代わりに祝福しなさい。祝福することがあなたの仕事です。あなたは祝福を与え、また祝福を受けるでしょう」(9節、MSG)。
What is the lifestyle that will win people over without words? It is one of living in harmony with one another, of sympathetic love, compassion and humility; where evil is not repaid with evil, nor insult with insult, but with blessing (vv.8–9): ‘No retaliation. No sharp-tongued sarcasm. Instead, bless – that’s your job, to bless. You’ll be a blessing and also get a blessing’ (v.9, MSG).

これには舌を制御することが含まれます。「悪いことや人を傷つけることを何も言わない」(10節、MSG)。常に前向きに、そして真実に話すように自分を訓練してください。あなたは「悪を拒み、善を育て、全力を尽くして平和を追い求めなさい」(11節、MSG)。これは恐れのない人生(14節)につながり、イエスがあなたの心の中で主として区別されます(15節)。
This involves controlling your tongue, ‘Say nothing evil or hurtful’ (v.10, MSG). Train yourself always to speak positively and truthfully. You are to ‘snub evil and cultivate good; run after peace for all you’re worth’ (v.11, MSG). This will lead to a life without fear (v.14), where Jesus is set apart in your heart as Lord (v.15).

「言葉によらない」ことは、あなたの近くにいる人たちを味方につけるための最良の最初の方法かもしれません。しかし、言葉も非常に重要です。話すことを恥ずかしがらないでください。「あなたがたが抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、敬意をもって弁明しなさい」(15節)。
‘Without words’ may be the best initial way to win over those in close proximity to you. However, words are also very important. Do not be ashamed to speak: ‘Always be prepared to give an answer to everyone who asks you to give the reason for the hope that you have. But do this with gentleness and respect’ (v.15).

傲慢さと無礼さでは、人々を納得させることはまずできません。言葉による弁護だけでなく、道徳的な弁護も必要です。それは、人々があなたについて好きなことを言っても問題にならないようにするための、良心の清さです。なぜなら、神は真実を知っているからです。「神の前で良心を清く保ちなさい。そうすれば、人々があなたに泥を投げつけても、その泥は何もくっつかないでしょう」(16節、MSG)。
Arrogance and rudeness will seldom win people over. As well as a verbal defence, you need a moral defence – a clear conscience, so that people can say what they like about you and it does not matter because God knows the truth: ‘Keep a clear conscience before God so that when people throw mud at you, none of it will stick’ (v.16, MSG).

リック・ウォレンはこう言っています。「人々があなたについて語る嘘はコントロールできないが、真実はコントロールできる。人々があなたを告発するために嘘をでっちあげざるを得ないような生き方をしなさい。」 十字架と復活によって、清らかな良心が可能になるのです。イエスは、あなたを神のもとへ導くために、一度限り、罪のために死なれました(18節)。
As Rick Warren says, ‘You cannot control the lies that people may speak about you, but you can control the truth... Live so that people have to make up stuff in order to accuse you.’ It is the cross and resurrection that makes a clear conscience possible. Jesus died for sins, once for all… to bring you to God (v.18).

これが洗礼が象徴するものなのです。「体の汚れを除去することではなく、神に対する良心の誓約です。」(21節)
This is what baptism symbolises: ‘not the removal of dirt from the body but the pledge of a good conscience towards God.’ (v.21).

主よ、清い良心をもって生きられるように助けてください。
Lord, help me to live with a clear conscience.

エゼキエル 45:1-46:24
Ezekiel 45:1-46:24
エゼキエル書 45:1 新共同訳
[1] 「あなたたちが、国を嗣業として割り当てるときは、土地の一部を聖なる献げ物として主にささげねばならない。その土地は、長さ二万五千アンマ、幅二万アンマであり、この領域は周囲全体にわたって聖なるものとなる。


主の道に従って礼拝する
Worship in the way of the Lord

エゼキエルは幻の中で「神のための聖なる場所」を見ます(45:1、MSG)。その地域全体が聖地であり(1節)、祭司たちが主の前で奉仕する聖域(2~4節)と、レビ人、君主、そしてすべての民の財産が含まれていました。それは、社会のあらゆる階層や階層が互いに調和し、公平に暮らす、平和な人々の幻です。
In his vision, Ezekiel sees a ‘sacred space for God’ (45:1, MSG). The entire area was holy (v.1), and included a sanctuary where priests minister before the Lord (vv.2–4), and property for the Levites, princes and all the people. It is a vision of a people at peace with itself, in which all the different sections and levels of society live harmoniously and fairly with one another.

しかし、それは単に人々が仲良く暮らすということではなく、「その地の人々が主の前で礼拝する」場所なのです(46:3)。人々の間の調和は神から生まれ、すべての中心にあるのは礼拝です。
But it is not just about people living well together – it is a place for ‘the people of the land… to worship in the presence of the Lord’ (46:3). The harmony between people stems from God, and at the heart of everything is worship.

主の道に従って礼拝するには、2 つのことが必要です。1 つ目は悔い改めです。神が指導者 (「イスラエルの君主」) に伝えたメッセージは、「私の民をいじめたり利用したりするのはやめなさい。今度こそ、公正で正しいことをしなさい。正直な秤、正直な重量、正直な量りを使いなさい」というものです (45:9–10、MSG)。
Two things are required to worship in the way of the Lord. The first is repentance. God’s message to the leaders (the ‘princes of Israel’) is, ‘Quit bullying and taking advantage of my people. Do what’s just and right for a change. Use honest scales – honest weights and honest measures’ (45:9–10, MSG).

2 番目は、贖罪です (15、17 節)。「過越祭」は、イエスの犠牲のおかげで神があなたの罪を見逃してくださることを象徴しています。キリストの血を予表する血が戸口の柱に塗られなければなりませんでした。
The second is atonement (vv.15,17). The ‘Passover’ symbolises that God passes over your sin because of the sacrifice of Jesus. Blood had to be put on the doorposts prefiguring the blood of Christ.

7 という数字は完全数です。「第七日目... 七日間続く祭り... 祭りの七日間の間に、七頭の雄牛と七頭の雄羊を傷のない状態で用意しなければならない... 七日間... 第七の月に始まる...」(20,21,23,25節)。
The number seven is the perfect number: ‘The seventh day... A feast lasting seven days... during the seven days of the Feast he is to provide seven bulls and seven rams without defect... during the seven days... which begins in the seventh month...’ (vv.20,21,23,25).

それは、イエスがあなたのためになされた唯一の完全で十分な犠牲と償いを指し示しており、それによってあなたは主の御前に出て礼拝の生活を送ることができるのです。
It points to the one perfect and sufficient sacrifice and atonement made by Jesus for you, which enables you to come into the presence of the Lord and live a life of worship.

イエスの十字架と復活の道を歩んでください。人々の支持を得るような人生を送ってください。清い良心を保ち、恐れずに生きてください。イエスの完璧な模範に従えば、あなたの人生は他の人々の模範となるでしょう。
Walk in the way of the cross and resurrection of Jesus. Live a life that will win people over. Keep a clear conscience and live without fear. Follow Jesus’ perfect example and your life will be an example to others.

主よ、私を神のもとへ導くために、義なる者が不義なる者のために死んでくださったことに感謝します。あなたの完璧な模範に従い、礼拝の人生を送れるよう助けてください。
Lord, thank you that you died, the righteous for the unrighteous, to bring me to God. Help me to live a life of worship, following your perfect example.

ピッパが付け加えます
1 ペテロ 3:6 には、「サラはアブラハムを主と呼んで従いました」とあります。(RSV)

私はニッキーを「主」と呼んだことが何度かありましたが、それは間違いでした。また、「パパ」や「ママ」とも呼んだことがありますし、他にもいろいろな呼び方をしました。
Pippa Adds
1 Peter 3:6 says, ‘Sarah obeyed Abraham, calling him lord.’ (RSV)

I have, on a couple of occasions, called Nicky ‘lord’ – but only by mistake. I have also called him ‘Daddy’, possibly ‘Mummy’ and quite a few other things besides!

目に見えないものを信頼する Trusting the Unseen

2024-11-21 13:55:11 | 日記
コリント人への第二の手紙 4:16-18 NIV [16] ですから、私たちは落胆しません。たとえ外側は衰えていても、内側は日々新しくされているのです。[17] 私たちの軽い、つかの間の苦難は、それらすべてにまさる永遠の栄光を私たちにもたらすからです。[18] ですから、私たちは見えるものではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠だからです。
2 Corinthians 4:16-18 NIV [16] Therefore we do not lose heart. Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day. [17] For our light and momentary troubles are achieving for us an eternal glory that far outweighs them all. [18] So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen, since what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.

目に見えないものを信頼する
Trusting the Unseen

経験豊富なパイロットによると、飛行する上で最も困難で危険な状況の 1 つは、霧や雲に完全に囲まれていることです。視覚的な基準点がないため、方向を見失いやすくなります。パイロットは、上昇しているのか、下降しているのか、さらには逆さまに飛んでいるのかさえわからないと報告しています。調査官は、この種の混乱が、1999 年にジョン F. ケネディ ジュニアとその妻を死に至らしめた飛行機墜落の原因であると考えています。ケネディはパイロットとして VFR (有視界飛行方式) の資格しかありませんでした。しかし、飛行機は霧に巻き込まれて墜落し、乗員全員が死亡しました。
Experienced pilots say one of the most difficult and dangerous conditions for flying is being completely surrounded by fog or clouds. With no visual points of reference, it is easy to become disoriented. Pilots report not being able to tell if they are climbing or falling, or even flying upside down. Investigators believe that this kind of confusion was responsible for the plane crash that killed John F. Kennedy, Jr. and his wife in 1999. Kennedy was only rated for VFR—visual flight rules—as a pilot. But the plane was caught in fog and crashed, killing all those on board.

道がはっきりと見えないとき、前進するのは非常に困難です。しかし、神は私たちに、見えないものを信じて生きるよう呼びかけておられます。聖書と教会の歴史には、神の約束が実現可能であるという具体的な兆候がまったくないにもかかわらず、神の言葉をそのまま信じた人々の例があふれています。神の言葉を信じた人は、だれ一人失望したことはありません。
It is very difficult for us to move forward when we cannot see the path clearly. But God calls us to live by faith in what we cannot see. The Bible and church history are filled with examples of people who simply took God at His word, despite not having any tangible indication that what He promised was even possible. No one who has trusted what God said has ever been let down.

神がその計画の一部を示してくれたら、あるいは物事がうまくいく方法を自分たちで考えることができたら、もっと神を信頼できるだろうと、私たちは時々考えます。しかし、神の計画はそのようには進みません。私たちには従うべき聖書という手段があり、他に何も見えず、どの道を進むべきか分からないときは、ただ神の言葉に従わなければなりません。
We sometimes think that we would trust God more if He showed us part of His plan or if we could figure out for ourselves how things might work out. But God’s plan does not work that way. We have the instruments of the Bible to follow, and when we cannot see anything else and do not know which way to go, we must simply follow His Word.

成長の原則: 神の働きが見えないからといって、神が私たちの生活に積極的に関与していないということではありません。
Growth Principle: Just because we cannot see God at work does not mean that He is not actively involved in our lives.

許しのなさに対する勝利 Victory Over Unforgiveness

2024-11-20 23:43:55 | 日記
許しのなさに対する勝利
Victory Over Unforgiveness

傷ついたときは、その痛みを神に委ね、残っている間違った態度を克服するために神の助けを求めてください。
When you are hurt, trust God with your pain, and ask for His help to overcome any wrong attitudes that linger.

マタイ 6:9-15
9 「だから、このように祈りなさい。『天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 10 『御国が来ますように。御心が天で行われるとおり、地にも行われますように。 11 『わたしたちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。 12 『わたしたちの負債をお赦しください。わたしたちも自分に負債のある人を赦しましたように。 13 『わたしたちを誘惑に陥らせないで、悪からお救いください。[国と力と栄光は、とこしえにあなたのものです。アーメン。]』 14 『もしあなたがたが他人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪を赦してくださいます。 15 『しかし、もしあなたがたが他人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪を赦してくださらないでしょう。
Matthew 6:9-15
9 ``Pray, then, in this way: `Our Father who is in heaven, Hallowed be Your name. 10 `Your kingdom come. Your will be done, On earth as it is in heaven. 11 `Give us this day our daily bread. 12 `And forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors. 13 `And do not lead us into temptation, but deliver us from evil. [ For Yours is the kingdom and the power and the glory forever. Amen.'] 14 ``For if you forgive others for their transgressions, your heavenly Father will also forgive you. 15 ``But if you do not forgive others, then your Father will not forgive your transgressions.

マタイ 5:38-40
38 「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたも聞いているところである。 39 「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かってはならない。あなたの右の頬を打つ者には、他の頬をも向けなさい。 40 「もし誰かがあなたを訴えて下着を取ろうとするなら、上着も与えなさい。
Matthew 5:38-40
38 ``You have heard that it was said, `AN EYE FOR AN EYE, AND A TOOTH FOR A TOOTH.' 39 ``But I say to you, do not resist an evil person; but whoever slaps you on your right cheek, turn the other to him also. 40 ``If anyone wants to sue you and take your shirt, let him have your coat also.

ヨハネ 8:31-32
31 そこでイエスは、自分を信じたユダヤ人たちにこう言われた。「わたしの言葉にとどまるなら、あなたたちは本当にわたしの弟子です。 32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にするでしょう。」
John 8:31-32
31 So Jesus was saying to those Jews who had believed Him, ``If you continue in My word, then you are truly disciples of Mine; 32 and you will know the truth, and the truth will make you free."

イエスは弟子たちに祈りを教えた後、許しの気持ちを心に留めておくことについて警告を与えました。イエスは、他人を許すことを拒む者は父なる神に許されないと言いました。ここでイエスが意味していることを誤解しないように注意してください。他人を許すことを拒んでも、救いを失うわけではありません。むしろ、悔い改めない態度が定期的な告白と罪からの離脱を妨げるため、神との交わりが断たれるのです。
After teaching His followers to pray, Jesus gave a warning about allowing unforgiveness to reside in the heart. He said that those who refuse to forgive others won’t be forgiven by the Father. Be careful not to misunderstand Jesus’ meaning here. We don’t lose our salvation when we refuse to pardon others. Rather, we break fellowship with God because an unrepentant attitude interferes with regular confession and turning away from sin.

許しは、心の行為というよりも意志の行為です。私たちは、自分を傷つけた人に慈悲を示す気持ちになることはめったにありませんが、まさにそうするように求められているのです (マタイ 5:38-40)。恨みの心は、ひどい重荷になります。主は、たとえ難しいことであっても、許すことが最善であることをご存知です。主が与えてくださる神の慈悲を求め、怒りや恨みを捨てることができるよう主に求めてください。恵みの中で前進するという決断の一環として、あなたを傷つけた人のために祈る習慣をつけてください。そして、神がそうするように導かれるなら、あなたの間違った態度や行動に対する彼らの許しを求めてください。
Forgiveness is an act of the will more than an act of the heart. We don’t often feel like showing mercy to someone who’s wronged us—but that’s exactly what we’re called to do (Matthew 5:38-40). A resentful spirit grows into a terrible burden. The Lord knows that forgiveness is best, even when it is difficult. Claim the divine mercy He offers, and ask Him to enable you to lay aside anger and resentment. As part of the decision to move forward in grace, make a habit of praying for those who hurt you. And if God so leads, seek their forgiveness for your wrong attitude or actions.

苦々しい心は、キリストにある私たちの姿には合いません。だからこそ、聖書は許すことの必要性を強調しているのです。重荷から解放されることを選びましょう。イエスは、私たちが彼を信じ従うことを選ぶなら、私たちを自由にすると約束されました(ヨハネ 8:31-32)。
A bitter spirit doesn’t fit who we are in Christ. That’s why Scripture emphasizes the need to forgive. Choose to be liberated from your burden—Jesus promised to make us free when we choose to believe and obey Him (John 8:31-32).

神はどこにいますか? Where is God?

2024-11-20 11:59:15 | 日記
神はどこにいますか?
Where is God?

エリ・ヴィーゼルはルーマニアのユダヤ人家庭に生まれた。家族とともにナチスに連行され、アウシュビッツ、次いでブーヘンヴァルトに連行されたとき、彼はまだ十代だった。著書『夜』で、彼は両親と8歳の妹の死、野蛮な手によって純潔を奪われたことなど、彼が耐え忍んだ増大する恐怖について、恐ろしくも個人的な体験を綴っている。この本の序文で、フランソワ・モーリアックはエリ・ヴィーゼルとの出会いについて次のように書いている。「他のあらゆる悪い日々の中でも、もっとも恐ろしいその日に、子供が、悲しげな天使のような顔をしたもう一人の子供が絞首刑にされるのを目撃したとき(そう!)、彼は背後から誰かがうめくのを聞いた。「神様、神様はどこにいるんですか?」そして私の内側から、声が答えるのを聞いた。「神様はどこにいるんですか?ここです。この絞首台に吊るされているんです。」
Elie Wiesel was born into a Jewish family in Romania. He was only a teenager when he and his family were rounded up by the Nazis and taken to Auschwitz, and then to Buchenwald. In his book, *Night*, he gives a terrifying and intimate account of the increasing horrors he endured – the death of his parents and eight-year-old sister, and the loss of his innocence by barbaric hands. In the foreword to the book, François Mauriac writes of his encounter with Elie Wiesel: ‘On that most horrible day, even among all those other bad days, when the child witnessed the hanging (yes!) of another child who, he tells us, had the face of a sad angel, he heard someone behind him groan: “For God’s sake, *where is God*?” And from within me, I heard a voice answer: “*Where He is*? This is where – hanging here from this gallows.”

フランソワ・モーリアックはこう続ける。「神は愛であると信じる私には、この若い対話者にどんな答えを返すべきだっただろうか。私は彼に何と言っただろうか。あのもう一人のユダヤ人、おそらく彼に似ていて、その十字架で世界を征服した十字架にかけられた兄弟について話しただろうか。彼の信仰にとっての*つまずき*であったものが、私の信仰にとっては*礎*となったことを説明しただろうか。そして、十字架と人間の苦しみの関係は、私の見解では、彼の幼少期の信仰が失われた計り知れない謎を解く鍵であり続けていることを。それが私がユダヤ人の子供に言うべきだったことだ。しかし、私にできたのは彼を抱きしめて泣くことだけだった。」
François Mauriac goes on, ‘And I, who believe that God is love, what answer was there to give my young interlocutor... What did I say to him? Did I speak to him of that other Jew, this crucified brother who perhaps resembled him and whose cross conquered the world? ‘Did I explain to him that what had been a *stumbling block* for his faith had become a *cornerstone* for mine? And that the connection between the cross and human suffering remains, in my view, the key to the unfathomable mystery in which the faith of his childhood was lost... That is what I should have said to the Jewish child. But all I could do was embrace him and weep.’

彼の言葉は、「神はどこにいるのか」という問いに対する最も深い答えを示しています。*神はキリストの中におられます*。彼は私たちの罪をその身に負って十字架に架けられました。今、十字架につけられた彼は彼の民の中にいます。彼はあなたのために苦しんだだけでなく、今はあなたとともに苦しんでいます。旧約聖書では、幕屋(後に神殿)は人々が神に会うために行く場所でした。
His words point to the most profound answer to the question, ‘Where is God?’ *God is in Christ*. He was on the cross bearing our sins in his body. Now the crucified is among his people. Not only has he suffered *for* you, but he now suffers *with* you. In the Old Testament, the tabernacle (and later the temple) was the place where people went to meet with God.

今日の旧約聖書の箇所(エゼキエル 43:5)に見られるように、ここは神の住まいでした。しかし、新約聖書の箇所のメッセージは、神の栄光と存在はイエスにおいて最高に見出されるということです。イエスが拒絶され、十字架につけられたまさにその瞬間に、人々の間での神の存在が最終的に完全に実現されました。その時点から、物理的な神殿は必要ありません。新約聖書が語る唯一の教会の建物は、人々で造られた建物(エペソ 2:20–22)であり、隅の親石であるイエスの上に築かれ、建てられたものです。新約聖書の聖なる神殿は、「生ける石」(ペテロ第一 2:5)で造られたものです。言い換えれば、あなたや私のような人々です。ここが神の新しい住まいです。
This was God’s home as we see in our Old Testament passage for today (Ezekiel 43:5). The message of our New Testament passage though is that the glory and presence of God is to be found supremely in Jesus. It is at the very moment that Jesus is rejected and crucified that God’s presence among people is finally and fully realised. From that point on there is no need for a physical temple. The only church building the New Testament speaks about is a building made of people (Ephesians 2:20–22), founded and built upon Jesus, the chief cornerstone. The holy temple in the New Testament is one made of ‘living stones’ (1 Peter 2:5) – in other words, people like you and me. This is God’s new home.

詩篇 132:1-18 NIV [1] 主よ、ダビデと彼のすべての自己否定を覚えてください。[2] 彼は主に誓いを立て、ヤコブの全能者に誓願を立てました。[3] 「私は家にも入らず、床にも就きません。[4] 目には眠りを、まぶたにはまどろみを許しません。[5] 主のために場所を見つけ、ヤコブの全能者のために住まいを見つけるまでは。」[6] 私たちはエフラタでそれを聞き、ヤアルの野でそれを見ました。[7] 「私たちは彼の住まいに行き、彼の足台を拝んで言いましょう。[8] 「主よ、立って、あなたの安息所においでください。あなたとあなたの力の箱は。[9] あなたの祭司たちがあなたの正義を身にまといますように。 あなたの忠実な民が喜び歌いますように。』[10] あなたのしもべダビデのために、あなたの油そそがれた者を拒まないでください。[11] 主はダビデに誓いを立てられました。彼はその誓いを決して破ることはありません。「わたしはあなたの子孫のひとりをあなたの王座につかせる。[12] もしあなたの子らがわたしの契約と、わたしが教える掟を守るなら、その子らはとこしえにあなたの王座に座するであろう。」[13] 主はシオンを選び、それを御自分の住まいとして望んでこう言われました。[14] 「ここは世々限りなくわたしの安息の地である。わたしはここに王座に座する。わたしがこれを望んだからである。[15] わたしは豊かな食糧をもってシオンを祝福し、貧しい者を食物で満たす。[16] わたしはその祭司たちに救いを着せ、その忠実な民はとこしえに喜び歌う。」 [17] 「わたしはここにダビデのために角を生やし、わたしの油そそがれた者のためにともしびを立てる。[18] わたしは彼の敵に恥を着せるが、彼の頭には光り輝く冠を飾る。」
Psalms 132:1-18 NIV [1] Lord, remember David and all his self-denial. [2] He swore an oath to the Lord, he made a vow to the Mighty One of Jacob: [3] “I will not enter my house or go to my bed, [4] I will allow no sleep to my eyes or slumber to my eyelids, [5] till I find a place for the Lord, a dwelling for the Mighty One of Jacob.” [6] We heard it in Ephrathah, we came upon it in the fields of Jaar: [7] “Let us go to his dwelling place, let us worship at his footstool, saying, [8] ‘Arise, Lord, and come to your resting place, you and the ark of your might. [9] May your priests be clothed with your righteousness; may your faithful people sing for joy.’ ” [10] For the sake of your servant David, do not reject your anointed one. [11] The Lord swore an oath to David, a sure oath he will not revoke: “One of your own descendants I will place on your throne. [12] If your sons keep my covenant and the statutes I teach them, then their sons will sit on your throne for ever and ever.” [13] For the Lord has chosen Zion, he has desired it for his dwelling, saying, [14] “This is my resting place for ever and ever; here I will sit enthroned, for I have desired it. [15] I will bless her with abundant provisions; her poor I will satisfy with food. [16] I will clothe her priests with salvation, and her faithful people will ever sing for joy. [17] “Here I will make a horn grow for David and set up a lamp for my anointed one. [18] I will clothe his enemies with shame, but his head will be adorned with a radiant crown.”

神の家を見つける
Find God’s home

ダビデの心の願いは、神を敬い、すべての物質的な快適さよりも神を優先することでした。「私は神のために家を見つけるまでは、家にも行かず、床にもつかず、眠らず、休む時間さえも取らない」(3-5節、MSG)。
The desire of David’s heart was to honour God and to put him above all material comfort: ‘I’m not going home, and I’m not going to bed, I’m not going to sleep, not even take time to rest, until I find a home for God’ (vv.3–5, MSG).

民は言った。「主の住まいへ行き、主の足台で礼拝しましょう。主よ、立ち上がって、あなたの安息の所においでください。主はシオンを選び、そこを住まいとして望まれたからです。」(7-8節、13節)。神は言った。「…ここはいつまでもわたしの家である」(14節、MSG)。
The people said, ‘Let us go to his dwelling-place; let us worship at his footstool – arise, O Lord, and come to your resting place… For the Lord has chosen Zion, he has desired it for his dwelling’ (vv.7–8,13). God said, ‘… this will always be my home’ (v.14, MSG).

主よ、私はあなたの臨在を待ち望んでいます。あなたの足台で礼拝するのはとても素晴らしいことです。ペンテコステの日に神の霊が注がれ、あなたの臨在があなたの民の中に、そしてあなたの民の間で生きるようになったことを感謝します。
Lord, I long for your presence. It is so good to worship at your footstool. Thank you that on the day of Pentecost, when the Spirit of God was poured out, your presence came to live in and among your people.

1ペテロ2:4-25 NIV [4] あなたがたは、人には捨てられたが、神には選ばれ、尊い生ける石である彼のもとに来るとき、[5] あなたたちも生ける石として霊の家に建てられ、聖なる祭司となり、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげます。[6] 聖書にこう書いてあります。「見よ、わたしはシオンに石を置く。これは選ばれた尊い礎石である。これに拠り頼む者はいつまでも、はずかしめられることがない。」[7] 信じる者にとっては、この石は尊いものです。しかし、信じない者にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石が、礎石となった」のです。[8] また、「つまずきの石、倒れる岩」とも言われています。彼らは御言葉に従わないのでつまずきますが、それはまた、彼らが定められていたことなのです。 [9] しかし、あなたがたは選ばれた民、王である祭司、聖なる国民、神の所有物です。それは、あなたがたを暗やみからその驚くべき光の中に招き入れてくださった方の栄光を、あなたがたが語り伝えるためです。[10] あなたがたはかつては神の民ではありませんでしたが、今は神の民です。かつてはあわれみを受けませんでしたが、今はあわれみを受けました。[11] 愛する兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。在留異国人であり捕囚の身であるあなたがたに、魂に戦いを挑む罪深い欲を避けなさい。[12] 異邦人の中にあっても、善良な生活を送りなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪事で告発しても、あなたがたの善行を見て、神が私たちを訪ねてくださる日に、神をあがめるでしょう。[13] 主のために、すべての権威に服従しなさい。最高の権威である皇帝にも、また、悪事を働く者を罰し、善事を働く者をほめるために皇帝から遣わされた総督にも、服従しなさい。 [15] 善を行って愚かな人々の無知な話を黙らせることは、神の御心だからです。[16] 自由人として生きなさい。しかし、その自由を悪の隠れ蓑にしてはなりません。神の奴隷として生きなさい。[17] すべての人を敬い、信者の家族を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。[18] 奴隷たちよ。神を畏れて主人に服従しなさい。善良で思いやりのある主人だけでなく、厳しい主人にも服従しなさい。[19] 不当な苦しみを神を思って耐え忍ぶ人は、称賛に値します。[20] しかし、悪を行って鞭打たれ、それを耐え忍んだところで、あなたがたの誉れになりましょう。しかし、善を行って苦しんだのに、それを耐え忍んだなら、それは神の御前で称賛に値します。[21] あなたがたはそのために召されたのです。キリストはあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 [22] 「彼は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」 [23] 人々が彼をののしっても、彼は言い返さず、苦しんでも脅かさず、正しく裁く方に身をゆだねました。 [24] 「彼は自ら私たちの罪を負い」、十字架の上でその身に負われました。それは、私たちが罪に死んで、義のために生きるためです。「彼の傷によって癒されたのです。」 [25] 「あなた方は迷い出た羊のようでした。」 しかし、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに戻っています。
1 Peter 2:4-25 NIV [4] As you come to him, the living Stone—rejected by humans but chosen by God and precious to him— [5] you also, like living stones, are being built into a spiritual house to be a holy priesthood, offering spiritual sacrifices acceptable to God through Jesus Christ. [6] For in Scripture it says: “See, I lay a stone in Zion, a chosen and precious cornerstone, and the one who trusts in him will never be put to shame.” [7] Now to you who believe, this stone is precious. But to those who do not believe, “The stone the builders rejected has become the cornerstone,” [8] and, “A stone that causes people to stumble and a rock that makes them fall.” They stumble because they disobey the message—which is also what they were destined for. [9] But you are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, God’s special possession, that you may declare the praises of him who called you out of darkness into his wonderful light. [10] Once you were not a people, but now you are the people of God; once you had not received mercy, but now you have received mercy. [11] Dear friends, I urge you, as foreigners and exiles, to abstain from sinful desires, which wage war against your soul. [12] Live such good lives among the pagans that, though they accuse you of doing wrong, they may see your good deeds and glorify God on the day he visits us. [13] Submit yourselves for the Lord’s sake to every human authority: whether to the emperor, as the supreme authority, [14] or to governors, who are sent by him to punish those who do wrong and to commend those who do right. [15] For it is God’s will that by doing good you should silence the ignorant talk of foolish people. [16] Live as free people, but do not use your freedom as a cover-up for evil; live as God’s slaves. [17] Show proper respect to everyone, love the family of believers, fear God, honor the emperor. [18] Slaves, in reverent fear of God submit yourselves to your masters, not only to those who are good and considerate, but also to those who are harsh. [19] For it is commendable if someone bears up under the pain of unjust suffering because they are conscious of God. [20] But how is it to your credit if you receive a beating for doing wrong and endure it? But if you suffer for doing good and you endure it, this is commendable before God. [21] To this you were called, because Christ suffered for you, leaving you an example, that you should follow in his steps. [22] “He committed no sin, and no deceit was found in his mouth.” [23] When they hurled their insults at him, he did not retaliate; when he suffered, he made no threats. Instead, he entrusted himself to him who judges justly. [24] “He himself bore our sins” in his body on the cross, so that we might die to sins and live for righteousness; “by his wounds you have been healed.” [25] For “you were like sheep going astray,” but now you have returned to the Shepherd and Overseer of your souls.

イエスの中に神を見つける
Find God in Jesus

イエスはすべてを変えました。

イエスは人々で成り立つ新しい家の礎石です。「あなたたちは、人間には拒絶されたが神には選ばれ、神にとっては尊い生ける石である彼のもとに来るとき、あなたたちも生ける石として霊的な家に建てられるのです」(4-5節)。
Jesus changed everything.

He is the cornerstone of the new home, which is made up of people: ‘As you come to him, the living Stone – rejected by human beings but chosen by God and precious to him – you also, like living stones, are being built into a spiritual house’ (vv.4–5a).

イエスは、礎石であるか、あるいはつまずきの石であるかのどちらかです(7-8節)。今日でも多くの人がイエスをつまずきの石と見なしています。しかし、イエスを人生の礎石とし、イエスに信頼を置くなら、「決して恥をかくことはありません」(6節)
Jesus is either the chief cornerstone or he is the stumbling-block (vv.7–8). Many today still find Jesus a stumbling-block. But if you make him the cornerstone of your life and put your trust in him, you ‘will never be put to shame’ (v.6)

ペテロは、信じる者すべてに、私たちはイエスの周りに建てられた霊的な家を構成する生きた石となるよう召されていると語っています。私は最近、教会が神の家であるというこのイメージに心を打たれました。イエスに出会うと、家に帰るのです。
Peter is saying, to all who believe, that we are called to be the living stones that make up the spiritual house that is built around Jesus. I have been struck recently by this image of the church as the household of God. When you encounter Jesus, you come home.

これらの節には、この移行に関する一連の説明があります。「しかし、あなた方は神に選ばれた者、祭司の仕事という高い召命に選ばれた者、聖なる民となるために選ばれた者、神の道具として神の仕事を遂行し、神のために語り、神があなた方のために成し遂げた夜と昼ほどの違い、つまり無から有へ、拒絶から受け入れられへの変化を他の人々に告げ知らせる者なのです」(9節、MSG)。
These verses have a whole string of descriptions of this transition: ‘But you are the ones chosen by God, chosen for the high calling of priestly work, chosen to be a holy people, God’s instruments to do his work and speak out for him, to tell others of the night-and-day difference he made for you – from nothing to something, from rejected to accepted’ (v.9, MSG).’

このことを踏まえて、周りの世界とは違った生き方をしてください。「友よ、この世界はあなたがたの家ではないので、そこに居心地よくいてはいけません」(11節、MSG)。
In light of this, live differently to the world around you – ‘friends, this world is not your home, so don’t make yourselves cozy in it’ (v.11, MSG).

私たちは神の民です。あなた方は憐れみを受けました(10節)。今、あなた方は戦いに直面しています。それは非常に現実的なものです。あなた方は、自分の魂に戦いを挑む罪深い欲望を慎まなければなりません(11節)。
We are the people of God. You have received mercy (v.10). Now you have a battle on your hands. It is very real. You have to abstain from sinful desires that wage war against your soul (v.11).

不正行為の告発に驚かないでください(12節)。神に栄光を帰すような生活を送るよう努めてください。これには、権威を尊重すること(13節、MSG)、善を行うこと(15節)、出会うすべての人に尊厳を持って接すること(17節、MSG)、霊的な家族を愛すること(17節、MSG)、報復しないこと(23節)、善行のために苦しむこと(20節)、そして「正しく裁く方」を信頼すること(23節)が含まれます。
Do not be surprised at the accusation of wrongdoing (v.12). Seek to live a life that glorifies God. This will include respect for authority (v.13, MSG), doing good (v.15), treating everyone you meet with dignity (v.17, MSG), love for your spiritual family (v.17, MSG), non-retaliation (v.23), suffering for doing good (v.20) and trusting ‘in him who judges justly’ (v.23).

私たちは罪深い人間なのに、どうしてこんなことが可能なのでしょうか。ペテロの答えはイエスを指し示しています。「イエスは、私たちが罪から解放され、正しい生き方ができるように、ご自分のしもべの体を使って私たちの罪を十字架まで運んでくださいました。イエスの傷が、あなたたちの癒しとなったのです」(24節、MSG)。
How is this possible when we are sinful human beings? Peter’s answer is to point to Jesus: ‘He used his servant body to carry our sins to the Cross so we could be rid of sin, free to live the right way. His wounds became your healing’ (v.24, MSG).

イエスはすべてを変えます。ペテロはイザヤ書 53 章から引用します。そこには、救世主が民の代わりに死ぬ様子が預言されています。礎石が拒絶されるということは、まさにこのことであり、これが信仰の礎石であり、こうして神の御前に連れ戻されるのです。十字架において、苦しみの場所は救いの場所となったのです。
Jesus changes everything. Peter draws from Isaiah 53, which prophesies the way in which the Messiah will die in place of his people. This is what it meant for the cornerstone to be rejected, this is the foundation stone of your faith, and this is how you are brought back into the presence of God. At the cross, the place of suffering has become the place of salvation.

主よ、私が神の存在を体験できる新しい精神的な家を建ててくださり感謝します。
Lord, thank you for the new spiritual house you are building where I can experience the presence of God.

エゼキエル 43:1-44:31
Ezekiel 43:1-44:31
エゼキエル書 43:1 新共同訳 [1] それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた。 https://bible.com/bible/1819/ezk.43.1.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3

主の「家」で神を見つける
Find God in ‘the house’ of the Lord

神の霊は、あなたにとってイエスを現実のものにしてくれます。「すると、霊はわたしを引き上げ、内庭に連れて行った。すると、主の栄光が神殿に満ちた」(43:5)。
The Spirit of God makes Jesus real to you: ‘Then the Spirit lifted me up and brought me into the inner court, and the glory of the Lord filled the temple’ (43:5).

イエス・キリストは神の栄光です。「言は肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその栄光を見た。父のみもとから来られた唯一の方の栄光である。この方は恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネ1:14)
Jesus Christ is the glory of God: ‘The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the One and Only, who came from the Father, full of grace and truth’ (John 1:14).

エゼキエルは幻の中で、イエスを「イスラエルの神の栄光」として見ます(エゼキエル 43:2)。「その声は流れ水のとどろきのようで、地はその栄光で輝いていた」(2節)。イエスがいるところでは、周囲のすべてが輝きます。イエスの御前では、ひれ伏して礼拝することしかできません(3節)。「私は見ていると、主の栄光が主の家に満ちていたので、ひれ伏した」(44:4、AMP)。
In his vision, Ezekiel sees Jesus, ‘the glory of the God of Israel’ (Ezekiel 43:2). ‘His voice was like the roar of the rushing waters and the land was radiant with his glory’ (v.2). Where Jesus is, everything around becomes radiant. In Jesus’ presence, all we can do is fall down and worship (v.3): ‘I looked, and behold, the glory of the Lord filled the house of the Lord, and I fell upon my face’ (44:4, AMP).

日曜日の礼拝など、神の民が礼拝に集まるたびに、「主の栄光」が家を満たすことを期待してください。教会が刺激的で、力強く、人生を変えるものであるべきなのは、そのためです。
Every time God’s people gather in worship, for example at a Sunday service, expect ‘the glory of the Lord’ to fill the house. This is why church should be exciting, powerful and life changing.

旧約聖書で、彼らが罪のために捧げなければならなかったすべての犠牲について読むとき、ヘブル書がこれは例えであると語っていることを思い出してください(ヘブル人への手紙 9 章)。これらは天にあるものの「写し」でした(23 節)。それらは来るべきものの「影」でした(10:1)。彼らは清めと償いをするために(20 節)、血による罪の捧げ物(エゼキエル 43:19)を捧げなければなりませんでした(20 節)。ヤギは傷のないものでなければなりませんでした(22 節)。
As you read in the Old Testament of all the sacrifices they had to make for their sins, remember that the book of Hebrews tells us that this is an illustration (Hebrews 9). These were ‘copies’ of the heavenly things (v.23). They were a ‘shadow’ of what was to come (10:1). They had to make a sin offering (Ezekiel 43:19) with blood (v.20) to purify and make atonement (v.20). The goat had to be without defect (v.22).

これらすべては、イエスがあなたの罪のために完全に犠牲になることを予示しています(ペテロ第一 2:24)。
This all foreshadows Jesus’ perfect sacrifice for your sins (1 Peter 2:24).

エゼキエル 44 章の聖なる祭司職は、ペテロの手紙 1 章 2 節で説明されている聖なる祭司職を予示しています。これは今やすべてのクリスチャンの務めです。「祭司」としてのあなたの第一の義務は、あなた自身が聖なる者となり、主に用いられるように自分を清く保つことです。あなたの第二の義務は、あなたの教えと模範によって、他の人も同じようにするように助けることです (エゼキエル 44:23)。
The holy priesthood of Ezekiel 44 foreshadows the holy priesthood described in 1 Peter 2:5. This now is the task of every Christian. Your first duty as a ‘priest’ is to be holy yourself, to keep yourself pure so that you can be used by the Lord. Your second duty is to help others to do the same by your teaching and by your example (Ezekiel 44:23).

神は今どこにおられるのでしょうか。神は御霊によってあなたの中に住んでおられます。私たちが神の名のもとに集まり、礼拝、崇拝、賛美をもって神の前にひれ伏すとき、神はそこにおられます。
Where is God now? He lives in you by his Spirit. He is there when we gather in his name and fall before him in worship, adoration and praise.

主よ、私はあなたの霊によって住まわれる聖なる神殿であることを感謝します。聖なる生活を送るためにあなたの助けが切実に必要です。
Lord, thank you that I am a holy temple in which you live by your Spirit. I desperately need your help to live a holy life.

ピッパはこう付け加えます
ペテロの手紙一第2章24節には、「… 彼の傷によってあなた方は癒されたのです」とあります。

私たちが人生で受けた傷はすべて十字架にかけられ、イエスに捧げられます。私たちは過去にしがみつく必要はありません。イエスは私たちが肉体的にも、感情的にも、霊的にも癒されるために苦しみ、亡くなられました。
Pippa Adds
1 Peter 2:24 says, ‘… by his wounds you have been healed.’

All the hurts we pick up in our lives can be brought to the cross and given to Jesus. We don’t have to hold on to the past. Jesus suffered and died that we might be healed physically, emotionally, spiritually.