最近、「感動を与える、与えたい」という言い回しをよく聞く。なんとも気持ちが悪い。感動は、個人の感情であり、他人が意図的に与えられるようなものではない。だから同じことを見聞きしても、人によって感動したり、しなかったりする。
辞書によれば(goo辞書(デジタル大辞泉))、感動とは「ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること」だそうである。
この定義の『ある物事』がどのようなものであるかは、一括りに言いうことはできない。
人が感動することを数式風に表すと次のようになると思う。
M = f(O, E, P)
ここで、
M:感動
O:感動を引き起こした事象
E:事象の環境
P:感動を受けた人の経験、考え方
「感動を与えたい」という言葉をよく見聞きするスポーツの世界で言えば、Oはスポーツの種目であり、Eはその種目をどのような機会にどのように実践したかということであろう。多くの人が似たような経験を持ち、似たような考え方をするのであれば、多くの人が感動することになるのだろう(P)。
「事象の環境」の中で最も重要なものが「一生懸命、あるいは、一心不乱に、無心に」ということであろう。
だから、「感動を与えたい」というのではなく、「全力で一生懸命やる」というのが正しい言い方のように思う。その結果が人々の「感動」であると考える。「感動を与える」というのは、ある意味おこがましいのであり、できないことである。
似たような意見をフリーアナウンサーの小島慶子さんがSNSに書いていた。