社会不安障害:SAD、ボランティアとセカンドライフ

SADで会社を休職したが、一年で復帰し、無事定年を務めて、その後の生活とボランティアについて気ままに掲載中

2009年6月20日be on Saturdayその4 風に乗り、生み渡った魂 ザ・ブーム「島唄」

2009-06-25 07:40:44 | 趣味(楽器、音楽)

島唄.jpg2009年6月20日be on Saturdayその3「心のすきが狙われている」の同じ記事からの掲載であるが、朝日新聞『懐かしの戦後日本賛歌 藤山一朗・奈良光枝『青い山脈』に続いて、本タイトルの唄の紹介となる。

実はこの唄は以前に良くカラオケと言うかスナックで歌っていたが、沖縄の人が作った曲だろうとしか思っていなくて、しかも色々な人が歌っているようだと言う事ぐらいの知識しかなかった。今回の2009年6月20日be on Aaturdayで初めて、誰が作ったのか?その背景も含めて知る事が出来た。そういう意味では、余りにもこの曲を軽く(とは思っていなかったが)考えて歌っていた事に対して恥ずかしい思いがした。この唄は沖縄の太平洋戦争終結間際を謳った悲しい歴史の曲であり、平和を求める反戦の曲でもある。しかも作ったのは、東京のロックバンド「ザ・ブーム」の宮沢和史氏と言う方だった。

氏は、沖縄音楽にのめりこんでいた91年、初めてひめゆり平和記念資料館を訪れ、学徒隊の生き残りの女性の話を聞いた。当時の軍事教育と、その悲劇を知らなかった自分の無知さに猛烈に腹が立った。無言で資料館を出て、とぼとぼと歩き始めた。近くの畑でサトウキビが風に揺れていた。東京に戻り、すぐに曲を書いた。「レ」「ラ」を抜く琉球音階でメロディーを作ったが、ガマでの集団自決の悲劇を描く「ウージの森で・・・」の部分だけは日本的な音階に戻した。「彼らを死に追いやったのは当時の日本の軍事教育だ。沖縄音階では歌えない」~~~「時を経ても、島の人たちが歌えるような歌を残せたら」。この曲を沖縄限定でで出せないかと、レコード会社に持ちかけた。92年末やっと沖縄限定で発売が決定。喜納昌吉さんのささえと沖縄言葉の指導で、録音し直した。あとは周知の通りのヒットにつながり、93年に標準語盤を全国発売し130万枚を販売した。

既に12カ国でこの島唄はカバーされており、そのファンの方は世界中に広がっているのではないかと思うが、その背景の戦争の意味に付いて考える事の意味の方が大きいと思う。64年前の沖縄での戦闘で島の4人に一人が亡くなった(殺された)事実が、残っていると言う事である。これがこの「島唄」と言う歌の持つ本来の意味なのだろうが、64年後となった今では、それを理解する事は、かなり難しい気がする。太平洋戦争の責任は一体誰にあったのかを問うような物だから。


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