おさえの腹痛は夕方までには治まり、ほっとした太吉はおさえの隣で寝てしまった。目が覚めると空がうっすらと明るくなっていた。おさえはすでに起きだして朝餉の支度をしている。
「おい、無理をするんじゃねぇよ……」
太吉の声にかまどの前に居たおさえは振り返る。いつものように可愛らしい笑顔を浮かべている。
「太吉さん、おはよう。もう全然平気、大丈夫よ」おさえは言うとぽんと腹を叩いてみせた。そして、ぺこりと頭を下げた。「……ありがとう……」
「夫婦じゃねぇか、いちいち礼なんかいらねぇよ」
「でもね、嬉しかったの。時々目が覚めると太吉さんがすぐそばに居てくれて……」
「まあ、あれだ!」太吉は照れ臭いのを誤魔化すように大きな声で言う。「直って良かったよ。オレはともかく、近所のおかみさんたちに礼を言っておいてくれよ」
「うん、わかった」
漁の時間になったので、太吉は家を出た。その時になって、藤吉の事を思い出した。……藤吉さんには漁の時にでも謝って、今夜こそは行くって言おう。太吉はそう決めた。
しかし、藤吉は漁に来なかった。
気になった太吉は長に声を掛けた。
「藤吉さん、来ないようですが、見に行ってみやしょうか?」
「そうじゃなぁ……」
長が答えあぐねていると、浜助が言い出した。
「長、藤吉は居ても居なくても変わらねぇ。漁が先だ。今日は大漁が見込めそうだしよ、早く繰り出そうぜ」
「そうだそうだ」別の者が言う。「風邪でも引いたんだよ。漁が終わってから見に行けば良いじゃねぇか」
「女衆に見に行ってもらえば良いんじゃねのか?」別の声も上がる。「あ、女子供は気味悪がっているからダメか」
笑いが起きる。長は笑いを制して言う。
「……じゃあ、漁が終わってから見に行くとしようかの」
確かに、漁の間は藤吉が居ない事での不便さは無かった。太吉もいつも気にしていた藤吉が居なかったので、いつも以上に漁に気が入った。漁を終え浜に戻って来て、改めて藤吉の居ない事に気が付いた程だった。
「太吉よう、一段落したで、藤吉の様子を見て来てくれるか」
長が太吉に言う。太吉は頷いて立ち上がった。それを見た鉄も立ち上がった。
「太吉、オレも行くぜ」
「へい、ありがとうごぜぇやす」太吉は頭を下げる。「獲れた魚を少し持って行きやしょう」
二人は並んで歩く。太吉は手に丸い魚籠を下げている。その口から魚の頭や尾がはみ出している。
「太吉、聞いたぜ。おさえちゃん、大丈夫だったか?」鉄が言う。「気になって行こう思ったんだがな、おみわに行くなって言われてよ……」
「すっかり良くなりやしたよ。おみわさんはじめ、おかみさん方のお蔭で……」
「そうかい、そうかい」鉄は嬉しそうに頷く。「藤吉もなあ、もう少し素直だと、女衆が見に行ってくれると思うんだけどなあ……」
「おせんさんって方はどうなんでしょうかね?」
「おせんか…… オレはやっぱり藤吉が頭でこさえた女だと思うがな」
「へい……」
太吉はそう答えたが、おせんの話をした時の藤吉の真剣な顔が忘れられない。
やがて、藤吉の小屋に着いた。引き戸が少し開いている。
「何でぇ、不用心だな」鉄が言う。「それとも、男一人だと、こんな感じになっちまうのか?」
鉄は引き戸を乱暴に叩いた。
「おい、藤吉、オレだ、鉄だ。居るんだろ?」少し待つ。返事がない。鉄は太吉に振り返る。「居ねぇのか? それとも動けねぇのか?」
「藤吉さん、太吉だ!」太吉が声を張る。やはり、返事が無い。太吉は鉄を見る、鉄は頷く。「……入らせてもれぇやすよ」
太吉は引き戸に手を掛けた。戸はすっと開いた。明かり取りの戸が閉まっていて薄暗いが、思いの外きちんとしている。
「ま、男所帯じゃ持ち物が少ねぇから、散らかしようもねぇか……」鉄は悪態をついて、太吉に振り返る。「太吉、明かり取り、開けてくれ」
太吉は言われるままに明かり取りの戸を開けた。小上りに床が伸べてある。掛かっているぼろ布が膨らんでいる。藤吉が頭からすっぽりとかぶって寝ているようだ。鉄はずかずかと上がり込むと、布をかぶっている藤吉を見下ろす。
「藤吉、いつまでも寝てんじゃねぇよ」
「鉄兄ぃ、藤吉さん、病でも患ってんじゃねぇですかい」土間から太吉が言う。「こんなに騒いでいるのに起きねぇなんてさ」
「……かも知れねぇな……」鉄は片膝を付いて、布の上から藤吉を揺する。「……おい、藤吉。具合でも悪いのかよ?」
藤吉は揺すられるままで、返事をしない。鉄は辛抱しきれずに布をめくった。
「わっ!」鉄は叫ぶと座り込んだ。と言うよりも、腰が抜けたようだった。「と、藤吉よう……」
太吉も藤吉を見た。思わず数歩後ずさった。
「藤吉さん……」
太吉はそれきり絶句した。
そこには、何も身に着けておらず、満足そうな顔をしたままで息絶えている藤吉がいた。
つづく
「おい、無理をするんじゃねぇよ……」
太吉の声にかまどの前に居たおさえは振り返る。いつものように可愛らしい笑顔を浮かべている。
「太吉さん、おはよう。もう全然平気、大丈夫よ」おさえは言うとぽんと腹を叩いてみせた。そして、ぺこりと頭を下げた。「……ありがとう……」
「夫婦じゃねぇか、いちいち礼なんかいらねぇよ」
「でもね、嬉しかったの。時々目が覚めると太吉さんがすぐそばに居てくれて……」
「まあ、あれだ!」太吉は照れ臭いのを誤魔化すように大きな声で言う。「直って良かったよ。オレはともかく、近所のおかみさんたちに礼を言っておいてくれよ」
「うん、わかった」
漁の時間になったので、太吉は家を出た。その時になって、藤吉の事を思い出した。……藤吉さんには漁の時にでも謝って、今夜こそは行くって言おう。太吉はそう決めた。
しかし、藤吉は漁に来なかった。
気になった太吉は長に声を掛けた。
「藤吉さん、来ないようですが、見に行ってみやしょうか?」
「そうじゃなぁ……」
長が答えあぐねていると、浜助が言い出した。
「長、藤吉は居ても居なくても変わらねぇ。漁が先だ。今日は大漁が見込めそうだしよ、早く繰り出そうぜ」
「そうだそうだ」別の者が言う。「風邪でも引いたんだよ。漁が終わってから見に行けば良いじゃねぇか」
「女衆に見に行ってもらえば良いんじゃねのか?」別の声も上がる。「あ、女子供は気味悪がっているからダメか」
笑いが起きる。長は笑いを制して言う。
「……じゃあ、漁が終わってから見に行くとしようかの」
確かに、漁の間は藤吉が居ない事での不便さは無かった。太吉もいつも気にしていた藤吉が居なかったので、いつも以上に漁に気が入った。漁を終え浜に戻って来て、改めて藤吉の居ない事に気が付いた程だった。
「太吉よう、一段落したで、藤吉の様子を見て来てくれるか」
長が太吉に言う。太吉は頷いて立ち上がった。それを見た鉄も立ち上がった。
「太吉、オレも行くぜ」
「へい、ありがとうごぜぇやす」太吉は頭を下げる。「獲れた魚を少し持って行きやしょう」
二人は並んで歩く。太吉は手に丸い魚籠を下げている。その口から魚の頭や尾がはみ出している。
「太吉、聞いたぜ。おさえちゃん、大丈夫だったか?」鉄が言う。「気になって行こう思ったんだがな、おみわに行くなって言われてよ……」
「すっかり良くなりやしたよ。おみわさんはじめ、おかみさん方のお蔭で……」
「そうかい、そうかい」鉄は嬉しそうに頷く。「藤吉もなあ、もう少し素直だと、女衆が見に行ってくれると思うんだけどなあ……」
「おせんさんって方はどうなんでしょうかね?」
「おせんか…… オレはやっぱり藤吉が頭でこさえた女だと思うがな」
「へい……」
太吉はそう答えたが、おせんの話をした時の藤吉の真剣な顔が忘れられない。
やがて、藤吉の小屋に着いた。引き戸が少し開いている。
「何でぇ、不用心だな」鉄が言う。「それとも、男一人だと、こんな感じになっちまうのか?」
鉄は引き戸を乱暴に叩いた。
「おい、藤吉、オレだ、鉄だ。居るんだろ?」少し待つ。返事がない。鉄は太吉に振り返る。「居ねぇのか? それとも動けねぇのか?」
「藤吉さん、太吉だ!」太吉が声を張る。やはり、返事が無い。太吉は鉄を見る、鉄は頷く。「……入らせてもれぇやすよ」
太吉は引き戸に手を掛けた。戸はすっと開いた。明かり取りの戸が閉まっていて薄暗いが、思いの外きちんとしている。
「ま、男所帯じゃ持ち物が少ねぇから、散らかしようもねぇか……」鉄は悪態をついて、太吉に振り返る。「太吉、明かり取り、開けてくれ」
太吉は言われるままに明かり取りの戸を開けた。小上りに床が伸べてある。掛かっているぼろ布が膨らんでいる。藤吉が頭からすっぽりとかぶって寝ているようだ。鉄はずかずかと上がり込むと、布をかぶっている藤吉を見下ろす。
「藤吉、いつまでも寝てんじゃねぇよ」
「鉄兄ぃ、藤吉さん、病でも患ってんじゃねぇですかい」土間から太吉が言う。「こんなに騒いでいるのに起きねぇなんてさ」
「……かも知れねぇな……」鉄は片膝を付いて、布の上から藤吉を揺する。「……おい、藤吉。具合でも悪いのかよ?」
藤吉は揺すられるままで、返事をしない。鉄は辛抱しきれずに布をめくった。
「わっ!」鉄は叫ぶと座り込んだ。と言うよりも、腰が抜けたようだった。「と、藤吉よう……」
太吉も藤吉を見た。思わず数歩後ずさった。
「藤吉さん……」
太吉はそれきり絶句した。
そこには、何も身に着けておらず、満足そうな顔をしたままで息絶えている藤吉がいた。
つづく
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