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怪談 青井の井戸 38

2021年10月20日 | 怪談 青井の井戸(全41話完結)
「……旦那様…… 旦那様……」
 聞き覚えのある声に、わたくしは振り返りました。轟々と音を立てて燃えている屋敷から、母が出てまいりました。炎の中をくぐってきたはずですのに、どこも燃えてはおりませぬ。
 母は右半分の欠けた顔に残った左の眼を凝らして、動かぬ父を見つめております。 あらぬ方向に曲がった右の腕をそのままに、廊下から庭へと降り立ちました。そして、脚を引きずりながら、父の方へと進んでいます。
「旦那様…… どうして、わたくしを井戸へと落とされたのか……」
 これは母ではございませぬ。骸の鬼たちの恨気を吸い込んで現われた亡者でございます。
「むっ、いかん!」
 お坊様は亡者の母を見て険しいお顔をなさいました。わたくしに投げつけた錫杖を拾い上げようとなさいますが、それより先に、わたくしから出てきた黒い汚泥のようなものが、母の方へと向きを変えて動き始めました。わたくしはもう動くことが出来ず、成り行きを見ているだけで精一杯でございました。
 お坊様が錫杖を手にした時、黒いそれは亡者の母の足元まで迫っておりました。わたくしはお坊様にお知らせしようと思いましたが、声が出ず、指先すら動かせませぬ。ではございますたが、目だけは、その黒いものを追っております。
 その黒いものは、母の素足に絡みつき、ゆっくりと破れて膝頭まで見えている着物の内を這い上って行きます。黒いものは母の内股を這っております。しばらくすると、亡者の母が恍惚とした顔になり、喘ぎの混じった吐息を漏らしました。わたくしは、あの忌々しい下腹部の甘い疼きを思い出しておりました。
 と、母のからだに変化が起こりました。あらぬ方に曲がっていた腕は元に戻り、引き摺っていた足は真っ直ぐとなり、欠けていた顔の右半分にむくむくと黒いものが盛り上がり、頭を形作りました。そこの右の眼が生じました。目尻の吊り上った瞳の無い赤い眼でございました。その眼でお坊様を睨み付けました。
「糞坊主! どうだ? 亡者に錫杖は通じぬぞ!」
 低くて地から湧いてくるような音声で母は言いました。鬼が憑いたのでございます。わたくしは肝を冷やしておりました。
「ははは!」驚いた事に、お坊様はお笑いになられました。「戯けた鬼よな! お前は亡者に縋るしかない憐れな鬼よ!」
「ぬかせい!」
 鬼は叫ぶと、両の手の爪を先端鋭くなったものを長く伸ばし、鬢窓から角を伸ばしました。胸が悪くなるような、ものの腐ったような悪臭が立ち込めます。先程までにわたくしの姿でございましょうや。怖ろしく、醜く、嫌悪の情しか浮かびませぬ。 
「坊主! きさまを道連れる!」鬼はそう言うと、開いた口から蒼白い炎が煙の様に立ち昇ってまいりました。「覚悟しろ!」
「覚悟をするのはお前だ!お坊様はそうおっしゃると、錫杖を地面に突き立て、袂から数珠を取り出して錫杖に打ち付け始められました。「もはやお前の居所は無い! 素直に消え去る事だ!」
 お坊様は目を閉じてお念仏を唱え始められました。
「痴れた事を!」
 鬼は言うと、お坊様の方へと歩みます。ですが、足が思うように進んでおりませぬ。強烈な向かい風を受けているかのように足取りが重く、乱れた鬢が逆巻き、着物の裾ははだけ、袂が後ろへと流されていました。
「御仏の慈悲の風じゃ!」お坊様は目を開け鬼を見つめます。「お前すらも御仏は慈悲の心で逝かせてくださるのじゃ!」 
「黙れい!」鬼は抗うようにお坊様へ歩を進めます。ではございますが、ついには足が止まってしまいました。「おのれ、おのれ、おのれいぃぃぃぃ!」
 鬼は断末魔の叫びをあげると、動きを止めました。そして、砂山が風に流されて崩れるように、鬼もさらさらと崩れて風に飛ばされていきました。
 わたくしは流れ去るそれを目で追いながら、いつの間にか気を失ってしまたのございました。 


つづく


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