お坊様はついと立ち上がられました。
「ははは、厠じゃ」
お坊様はそうおっしゃいますと部屋を出て行かれました。わたくしは開いている障子戸から外を見ておりました。あれほど嫌悪していた花々が、今はとても愛おしく感じておりました。と、そこへ、おたきさんが徳利を二本と湯気の立つ山菜の煮物を盛った小鉢を乗せたお盆を運んでまいりました。開いたままの障子戸から、おたきさんはわたくしに頭を下げました。それから部屋に入って参りました。
「……おや、お坊様は?」おたきさんはお盆を持ったままきょろきょろと見回しています。「何だね、年寄りに用を言い付けておきながら……」
「いえ、お坊様は、その……」
わたくしが言い淀んでおりますと、おたきさんは察したようで、笑い出しました。
「ああ、厠でございますね。お坊様とは言え人でございますからねぇ……」
わたくしは庭での出来事を思い出し、お坊様に人を超えたものを感じておりましたが、敢えてその事を口には致しませんでした。
しばらく経っても、お坊様はお戻りになりませぬ。おたきさんは畳の上に置いたお盆の縁を指先でなぞっていました。
「はてさて、お腹の具合でも悪うなさったか……」おたきさんは呟きます。「……にしても遅うございますねぇ…… せっかくの煮物が冷めちまいますよ」
「そうですね……」
わたくしは開いた障子戸を見ながら言いました。すると、近づいてくる足音が致しました。お坊様とは違うようでございました。障子戸の手前で足音は止みました。
「……失礼を致します。よろしゅうございますかな?」
済んだ落ち着いた声が聞こえました。途端におたきさんが立ち上がり、障子戸を大きく開けました。
「お住職様……」おたきさんが頭を下げました。「わざわざのお越しで……」
このお寺のお住職様でございました。優しそうなお顔と柔らかな物腰の御年輩のお方でございました。
「おお、良うなられましたなぁ」お住職様は頷かれます。「これも、おたきさんのおかげじゃの」
「いえいえいえいえ、滅相もございませんですよ!」おたきさんは顔の前の手を振って否定します。「わたしゃ、あのお坊様の言う通りにしただけで。お住職様こそ、大変だったのではございませんかえ?」
「ははは、わしは何もしておらんよ」お住職様は笑いながらおっしゃると、わたくしの方をご覧になられます。「……だが、驚いたのう。あの御坊、傷を負うたそなたを肩に担いでふらりと現われまして、世話を頼むと言われましてな。その様子から、只事ではないと思い、近在のおたきさんに願いをしたのですよ。それに、坊主が無暗に女性(にょしょう)には触れられぬでな」
「いえいえ、先も申しましたが、わたしゃ、あのお坊様の言う通りにしたまでで」そこでおたきさんはぷっと笑い出しました。「わたし一人じゃ手が足りぬと思い、嫁のさきも呼びましてな、お坊様のおっしゃる通りに、床を延べたり、寝間着を用意したり、湯を沸かしたり、傷口に宛がう薬になる葉を集めたり。小坊主さんたちも駈り出して、そりゃあにぎやかでございましたよ。そして、その間中、お坊様はお嬢様を肩に担がれておりましてな。一段落して、着替えと言う段になりますと、お坊様は大慌てで姿をお隠しになりました。時々『もう良いか?』とお声を掛けて来ましてな。『いえ、まだでございます』とお答えしましたなぁ。すると、すぐに『もう良いか?』とお尋ねで。まるでかくれんぼでございましてな、嫁と笑ってしまいましたわ」
「それは、ご迷惑をお掛け致しました……」わたくしは改めてお住職とおたきさんに頭を下げました。「その様になっているとは存じ上げず……」
「お気になさらずに」おたきさんが言います。「あのお坊様のお指図が良かったので、お嬢様のご回復も早うなったと思いますぞえ。……ただ、あのお坊様の、あの時の様子がおかしくて……」
おたきさんはくすくすと笑っていました。
「あの御坊から、経緯は伺いました」お住職様はおっしゃいます。「面妖な事もあるものと思いましたなぁ…… まあ、御坊の話では、全て御仏の慈悲に依り鎮まったとの事」
「わたくしはいかほど眠っていたのでございましょうや?」
わたくしは訊ねました。不意に、燃え盛る青井の屋敷と、父とばあやの骸、井戸に落ちてしまった母の事が思いに浮かんだからでございました。
「うむ、今日で十日が経つかな」お住職はおっしゃいました。「そなたのお家の事は、全て納まる所に納まったよ。もう何も気に病む事は無い」
「母は……」
「おからだを出して差し上げ、他の方々と共にお納めしましたよ。あの御坊が全て執り行のうてくれた……」
母は井戸から出されて、父とばあやと共に葬られたと言う事を、お住職様はおっしゃっておいでなのでございます。それもあのお坊様がなさって下さったとの事でございました。わたくしは感謝で涙が溢れてまいりました。
「……それと、例の井戸ですがな」お住職様は続けておっしゃいます。「これも御坊が丁重に供養して、埋め立てたそうじゃ。お家は片付けられて、今の殿の馬場の一つとなるそうな」
「左様でございましたか……」わたくしはお住職様を見つめました。「からだが癒えましたら、尼寺へと参りたいと存じまする……」
「左様か。まあ、あの御坊もそうするように勧めてくれとは言っておったがの。では、わしの存じて居る尼寺を紹介いたしましょう」
「ありがとう存じまする……」
「……ところで、お住職様」おたきさんが割って入って来ました。「あのお坊様は、まだ厠から戻って来ませんがなぁ……」
「ほう……」お住職様は、わたくしとおたきさんとの顔を交互に見ていらっしゃいました。「あの御坊、全ては済んだ、後はよろしくと言って出て行きましたぞ……」
「そんな!」わたくしは声を強めました。「ご迷惑をお掛けしてばかりで、まだ、何もお返しが出来ておりませぬ! 何処へ行かれたか、ご存じではございませぬか?」
「何も言うておらなんだな。てっきり、そなたと話がついているものと思うておりましたわい」
わたくしは肩を落としました。
「……そう言えば、まだお名前も伺っておりませんでした……」
わたくしは呟きました。
「あら、わたしも聞いておらんかったですわ……」
おたきさんもそう呟くと、徳利から猪口へとお酒を注ぎ、ぐいっと一息の飲み干しました。少し淋しそうな顔をしていました。
「あのお坊様、戯れ事ばかりおっしゃって……」おたきさんが口を尖らせました。「お坊様らしからぬ様子でしたなぁ。最後の挨拶もなさらぬとは……」
「いやいや、おたきさん」お住職はおたきさんに向き直られました。「あの御坊は、相当な方ですよ。わしなど足元にも及びますまい……」
それから後、わたくしはお住職様の伝手で、ある尼寺にお世話になりました。後に得度し、青井の代々の者と、青井の手で落命した方々の供養を日々行うております。一度、かつて青井の屋敷のあった所を訪ねた事がございましたが、面影はすでに無く、更地を馬が駈けておりました。
わたくしをお救い下さったお坊様の行方やお名前を方々手を尽くして調べましたが、残念ながら杳として知ることが出来ませんでした。ではございましたが、今も何処ぞで、わたくしのようなものをお救いなさっておいでと存じ上げている次第でございます。
おしまい
「ははは、厠じゃ」
お坊様はそうおっしゃいますと部屋を出て行かれました。わたくしは開いている障子戸から外を見ておりました。あれほど嫌悪していた花々が、今はとても愛おしく感じておりました。と、そこへ、おたきさんが徳利を二本と湯気の立つ山菜の煮物を盛った小鉢を乗せたお盆を運んでまいりました。開いたままの障子戸から、おたきさんはわたくしに頭を下げました。それから部屋に入って参りました。
「……おや、お坊様は?」おたきさんはお盆を持ったままきょろきょろと見回しています。「何だね、年寄りに用を言い付けておきながら……」
「いえ、お坊様は、その……」
わたくしが言い淀んでおりますと、おたきさんは察したようで、笑い出しました。
「ああ、厠でございますね。お坊様とは言え人でございますからねぇ……」
わたくしは庭での出来事を思い出し、お坊様に人を超えたものを感じておりましたが、敢えてその事を口には致しませんでした。
しばらく経っても、お坊様はお戻りになりませぬ。おたきさんは畳の上に置いたお盆の縁を指先でなぞっていました。
「はてさて、お腹の具合でも悪うなさったか……」おたきさんは呟きます。「……にしても遅うございますねぇ…… せっかくの煮物が冷めちまいますよ」
「そうですね……」
わたくしは開いた障子戸を見ながら言いました。すると、近づいてくる足音が致しました。お坊様とは違うようでございました。障子戸の手前で足音は止みました。
「……失礼を致します。よろしゅうございますかな?」
済んだ落ち着いた声が聞こえました。途端におたきさんが立ち上がり、障子戸を大きく開けました。
「お住職様……」おたきさんが頭を下げました。「わざわざのお越しで……」
このお寺のお住職様でございました。優しそうなお顔と柔らかな物腰の御年輩のお方でございました。
「おお、良うなられましたなぁ」お住職様は頷かれます。「これも、おたきさんのおかげじゃの」
「いえいえいえいえ、滅相もございませんですよ!」おたきさんは顔の前の手を振って否定します。「わたしゃ、あのお坊様の言う通りにしただけで。お住職様こそ、大変だったのではございませんかえ?」
「ははは、わしは何もしておらんよ」お住職様は笑いながらおっしゃると、わたくしの方をご覧になられます。「……だが、驚いたのう。あの御坊、傷を負うたそなたを肩に担いでふらりと現われまして、世話を頼むと言われましてな。その様子から、只事ではないと思い、近在のおたきさんに願いをしたのですよ。それに、坊主が無暗に女性(にょしょう)には触れられぬでな」
「いえいえ、先も申しましたが、わたしゃ、あのお坊様の言う通りにしたまでで」そこでおたきさんはぷっと笑い出しました。「わたし一人じゃ手が足りぬと思い、嫁のさきも呼びましてな、お坊様のおっしゃる通りに、床を延べたり、寝間着を用意したり、湯を沸かしたり、傷口に宛がう薬になる葉を集めたり。小坊主さんたちも駈り出して、そりゃあにぎやかでございましたよ。そして、その間中、お坊様はお嬢様を肩に担がれておりましてな。一段落して、着替えと言う段になりますと、お坊様は大慌てで姿をお隠しになりました。時々『もう良いか?』とお声を掛けて来ましてな。『いえ、まだでございます』とお答えしましたなぁ。すると、すぐに『もう良いか?』とお尋ねで。まるでかくれんぼでございましてな、嫁と笑ってしまいましたわ」
「それは、ご迷惑をお掛け致しました……」わたくしは改めてお住職とおたきさんに頭を下げました。「その様になっているとは存じ上げず……」
「お気になさらずに」おたきさんが言います。「あのお坊様のお指図が良かったので、お嬢様のご回復も早うなったと思いますぞえ。……ただ、あのお坊様の、あの時の様子がおかしくて……」
おたきさんはくすくすと笑っていました。
「あの御坊から、経緯は伺いました」お住職様はおっしゃいます。「面妖な事もあるものと思いましたなぁ…… まあ、御坊の話では、全て御仏の慈悲に依り鎮まったとの事」
「わたくしはいかほど眠っていたのでございましょうや?」
わたくしは訊ねました。不意に、燃え盛る青井の屋敷と、父とばあやの骸、井戸に落ちてしまった母の事が思いに浮かんだからでございました。
「うむ、今日で十日が経つかな」お住職はおっしゃいました。「そなたのお家の事は、全て納まる所に納まったよ。もう何も気に病む事は無い」
「母は……」
「おからだを出して差し上げ、他の方々と共にお納めしましたよ。あの御坊が全て執り行のうてくれた……」
母は井戸から出されて、父とばあやと共に葬られたと言う事を、お住職様はおっしゃっておいでなのでございます。それもあのお坊様がなさって下さったとの事でございました。わたくしは感謝で涙が溢れてまいりました。
「……それと、例の井戸ですがな」お住職様は続けておっしゃいます。「これも御坊が丁重に供養して、埋め立てたそうじゃ。お家は片付けられて、今の殿の馬場の一つとなるそうな」
「左様でございましたか……」わたくしはお住職様を見つめました。「からだが癒えましたら、尼寺へと参りたいと存じまする……」
「左様か。まあ、あの御坊もそうするように勧めてくれとは言っておったがの。では、わしの存じて居る尼寺を紹介いたしましょう」
「ありがとう存じまする……」
「……ところで、お住職様」おたきさんが割って入って来ました。「あのお坊様は、まだ厠から戻って来ませんがなぁ……」
「ほう……」お住職様は、わたくしとおたきさんとの顔を交互に見ていらっしゃいました。「あの御坊、全ては済んだ、後はよろしくと言って出て行きましたぞ……」
「そんな!」わたくしは声を強めました。「ご迷惑をお掛けしてばかりで、まだ、何もお返しが出来ておりませぬ! 何処へ行かれたか、ご存じではございませぬか?」
「何も言うておらなんだな。てっきり、そなたと話がついているものと思うておりましたわい」
わたくしは肩を落としました。
「……そう言えば、まだお名前も伺っておりませんでした……」
わたくしは呟きました。
「あら、わたしも聞いておらんかったですわ……」
おたきさんもそう呟くと、徳利から猪口へとお酒を注ぎ、ぐいっと一息の飲み干しました。少し淋しそうな顔をしていました。
「あのお坊様、戯れ事ばかりおっしゃって……」おたきさんが口を尖らせました。「お坊様らしからぬ様子でしたなぁ。最後の挨拶もなさらぬとは……」
「いやいや、おたきさん」お住職はおたきさんに向き直られました。「あの御坊は、相当な方ですよ。わしなど足元にも及びますまい……」
それから後、わたくしはお住職様の伝手で、ある尼寺にお世話になりました。後に得度し、青井の代々の者と、青井の手で落命した方々の供養を日々行うております。一度、かつて青井の屋敷のあった所を訪ねた事がございましたが、面影はすでに無く、更地を馬が駈けておりました。
わたくしをお救い下さったお坊様の行方やお名前を方々手を尽くして調べましたが、残念ながら杳として知ることが出来ませんでした。ではございましたが、今も何処ぞで、わたくしのようなものをお救いなさっておいでと存じ上げている次第でございます。
おしまい
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