井戸の大石が跳ねあがらんばかりに動き出しました。それを見た父は井戸に駈け寄り、庭に刀を突き立てると、からだ全体を覆い被せて石を押さえ付けました。ではございましたが、石の動きは止まず、押さえ付けていた父を跳ね飛ばしました。父は庭に無様に転がされました。わたくしはその様に笑い声を上げておりました。父は立ち上がり、再び石を押さえます。歯を剥きだしに食いしばり、こめかみに青筋を立てた必死の形相でございました。鬼になれぬ父が、石を押さえつけるなど出来ようはずがございませぬ。父は再び無様に庭に転がりました。
「きくの!」父の矛先はわたくしに向きました。血走った眼、わなわなと震える唇、こめかみの青筋もひくついています。突き立てた刀を抜き取りました。「そこに直れい!」
「ははは…… 直ってどうするのじゃ?」わたくしの口はわたくしの声では無い声を発します。「鬼でないお前には、何もできぬ。石一つ押さえられぬお前ではな!」
「おのれぇ……」
「それにな、直るのはお前だ。骸の鬼たちに『相済まぬ事を致しました。存分になされませ』と土下座をするのだな!」
「痴れた事を申すな!」
父は刀を振り上げました。大石が歓喜する様にがたがたと揺れています。
「鬼でも無いお前に斬る事など出来ぬわ!」わたくしの口がそう言うと、わたくしは両手を広げ、父を小馬鹿にします。「ほうれ、斬れ、斬ってみろ!」
「痴れ者がぁ!」
父は叫ぶと刀を振り下ろしました。肩口が斬られ、血が流れました。わたくしに甘い疼きが広がります。
「ははは…… もっと斬れい! この娘は血を流すほどに悦楽を彷徨うのじゃ!」
「やかましい!」
父はさらに刀を振ります。刀が振られる度に、わたくしのからだのどこかしこから血が流れ、甘い疼きが走ります。
「旦那様! 旦那様! なりませぬ!」母は父の腰に縋りました。「これ以上は、なりませぬ!」
母は、血に染まったわたくしの様子を見て叫びます。
「ええい、放せ! これはきくのではない! 分からぬのか!」
「なりませぬ! なりませぬ!」
母は馬鹿の一つ覚えかと思えるほど「なりませぬ!」を繰り返していました。その滑稽で無様な様にわたくしの口は笑い声を上げます。
わたくしの発する笑い声に応えるように、大石が大きく揺れ びっしりと苔の生えた井戸の木組みの脇へ落ちました。誤って落ちぬようにと乗せてあった厚手の板が、風で飛ばされたかのように捲れ上がり、庭の植え込みの中に落ちました。噎せ返るほどの臭気が井戸から立ち上ってまいりました。それは骸の臭い、鬼の棲家の臭いでございました。
「放せ!」
父は母を蹴り付けました。母はよろめき、わたくしの方へ足をもつれさせながら迫ってまいります。わたくしは無様な母を避け、一歩下がりました。母はそのまま足が止められずに、ついには井戸の木組みに当たりました。そして、体勢を崩し、宙をつかむように左右の手を握りしめたまま、井戸の中へと落ちて行きました。母は声を上げる間もありませんでした。しばらくして、重いものが潰れるような音が井戸から致しました。
「ははは…… 妻を殺してしまったか!」わたくしの口が言います。「今宵に死を迎えるつもりが、ばあやと妻とは早まったようだな」
わたくしの口は笑い出しました。父は無様な顔で井戸とわたくしとを交互に見ております。
「不意討ちが得手のお前らしいではないか」
わたくしの口が言います。と、井戸から、低く、唸るような声が響いてまいりました。井戸の底の骸の鬼どもが這い出そうとしているのでございます。
つづく
「きくの!」父の矛先はわたくしに向きました。血走った眼、わなわなと震える唇、こめかみの青筋もひくついています。突き立てた刀を抜き取りました。「そこに直れい!」
「ははは…… 直ってどうするのじゃ?」わたくしの口はわたくしの声では無い声を発します。「鬼でないお前には、何もできぬ。石一つ押さえられぬお前ではな!」
「おのれぇ……」
「それにな、直るのはお前だ。骸の鬼たちに『相済まぬ事を致しました。存分になされませ』と土下座をするのだな!」
「痴れた事を申すな!」
父は刀を振り上げました。大石が歓喜する様にがたがたと揺れています。
「鬼でも無いお前に斬る事など出来ぬわ!」わたくしの口がそう言うと、わたくしは両手を広げ、父を小馬鹿にします。「ほうれ、斬れ、斬ってみろ!」
「痴れ者がぁ!」
父は叫ぶと刀を振り下ろしました。肩口が斬られ、血が流れました。わたくしに甘い疼きが広がります。
「ははは…… もっと斬れい! この娘は血を流すほどに悦楽を彷徨うのじゃ!」
「やかましい!」
父はさらに刀を振ります。刀が振られる度に、わたくしのからだのどこかしこから血が流れ、甘い疼きが走ります。
「旦那様! 旦那様! なりませぬ!」母は父の腰に縋りました。「これ以上は、なりませぬ!」
母は、血に染まったわたくしの様子を見て叫びます。
「ええい、放せ! これはきくのではない! 分からぬのか!」
「なりませぬ! なりませぬ!」
母は馬鹿の一つ覚えかと思えるほど「なりませぬ!」を繰り返していました。その滑稽で無様な様にわたくしの口は笑い声を上げます。
わたくしの発する笑い声に応えるように、大石が大きく揺れ びっしりと苔の生えた井戸の木組みの脇へ落ちました。誤って落ちぬようにと乗せてあった厚手の板が、風で飛ばされたかのように捲れ上がり、庭の植え込みの中に落ちました。噎せ返るほどの臭気が井戸から立ち上ってまいりました。それは骸の臭い、鬼の棲家の臭いでございました。
「放せ!」
父は母を蹴り付けました。母はよろめき、わたくしの方へ足をもつれさせながら迫ってまいります。わたくしは無様な母を避け、一歩下がりました。母はそのまま足が止められずに、ついには井戸の木組みに当たりました。そして、体勢を崩し、宙をつかむように左右の手を握りしめたまま、井戸の中へと落ちて行きました。母は声を上げる間もありませんでした。しばらくして、重いものが潰れるような音が井戸から致しました。
「ははは…… 妻を殺してしまったか!」わたくしの口が言います。「今宵に死を迎えるつもりが、ばあやと妻とは早まったようだな」
わたくしの口は笑い出しました。父は無様な顔で井戸とわたくしとを交互に見ております。
「不意討ちが得手のお前らしいではないか」
わたくしの口が言います。と、井戸から、低く、唸るような声が響いてまいりました。井戸の底の骸の鬼どもが這い出そうとしているのでございます。
つづく
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