「もし、ラビ……」
夜闇で不意に背後から声をかけられた。ラビと呼ばれた老人は立ち止まり、振り返る。
「誰か?」
うっすらとした月明かりの中に細身の男の立ち姿が見えた。
「お迎えに上がりました」穏やかな声で言うと男はお辞儀をした。「お出かけの姿を見た別のラビが、わたしに迎えに行くよう仰せになりましたので」
「そうか…… 誰にも見られていないと思っていたのだがな」
男は老人に近寄る。逆光となって男の顔は良く見えない。
「どちらへ行かれていたのです?」
「いや、それは…… 別にお前とは関係なかろう」
「あの人、の所ではありませんか?」
「あの人……」月明りに浮かぶ老人の目が泳ぐ。「はて、誰のことやら……」
「ほら、神殿で売り子たちを蹴散らし、さまざまな不思議な業を行なった人ですよ」男は深いため息をついた。「……実はわたしも関心を持っているのです」
「……」
老人は男の顔を覗く。しかし、男は顔を伏せる。
「お前を信じることとしよう……」
老人は言うと道端の木の下に座った。男は促されたが、座らずに老人の傍らに立った。
「……わしは、お前の言うように、あの人の所へ行った。色々と聞きたいことがあってな。あの不思議な業は人からのものとは思えなくてな……」
「どんなことを話されたのですか?」
「『再び生まれなければ,だれも神の王国を見ることはできません』と言われたよ」
「神の王国、ですか……」
「しかも『水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできない』とも言われたよ」
「水と霊……」
「ああ、そうだ」老人はうなずいた。「でも、よく分からなくてな……」
「再び生まれるなんて……」男は困惑したような声を出す。「一度死ななければならないみたいですね。水と言う事は入水自殺でも示唆しているのでしょうか。霊だなんて、死んだ後に霊が神の王国に行くと言う事でしょうか…… 神の国って言ってますが、本当は地獄なんじゃないですか」
「落ち着きなさい。霊と言うのは、恐らくは神からの力の事だ。水はバプテスマの事ではないか」
「……他に何か言っていましたか」
「『モーセが荒野で蛇を挙げたと同じように,人の子も挙げられねばなりません』と言っていた」
「蛇ですか…… 初めにエバをたぶらかしたのは蛇でしたよね。それと同じようになんて…… その人は、本当に神の人なんでしょうか」
「あれは民数記の中で、言い逆らった民に神が怒り、毒蛇を送り、多くの民が咬まれて死に、そこで執り成しを求めた民のために、神がモーセに命じて作らせたものだ。『モーセは直ちに銅の蛇を造り,それを旗ざおの上に取り付けた。すると,蛇が人をかんだ場合でも,その銅の蛇を見つめると,その人は生き長らえるのであった』と書かれておる。……そうか、あの人はこの銅の蛇か…… 見つめることが大切か…… 『だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされない』とはその事かも……」
「他にも何かありましたか」
「『光が世に来ているのに,人々が光よりむしろ闇を愛した』とも言っていたな」
「闇って言いますと、このような夜分の事でしょうか? ラビの事を当てこすっているんじゃないですか?」
「少々後ろめたい気持ちがあって、こんな時間を選んでしまったのは確かだ…… だが、光…… そうか、正しいことと確信しているならば、こそこそとする必要はないな。こそこそするのはまさに不正と思っているからだ。こうも言ってたな。『真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします』 ……確信が持てるならば、人目など恐れず、気にもしないものだ」
老人は立ち上がった。そして、男の手を取った。
「ありがとう。お前のお蔭で、あの人への信仰がはっきりとした。とてもさわやかな気分だよ」老人は懐から金袋を取り出し幾枚かの硬貨を男に渡した。「これは礼だ。取っておいてくれ。……わしは一人で帰るよ。闇など恐れるに足らずだ。お前はどこかで一杯やりなさい。……ああ、送らばせだが、わしはニコデモだ。お前は?」
「いえ、名乗るほどのものではありません。強いて言えばあの人の敵対者でしょうかね」
「……ふむ、なかなか面白い冗談を言う奴だな。ま、とにかくありがとう」
ニコデモは言うと男に背を向け、軽やかな足取りで去って行った。
残された男は手の平の硬貨を見つめた。
「くそっ! あんな年寄りなら簡単に転がせるかと思ったが……」男は硬貨を握りしめた。それから、思い返したように笑みを浮かべた。「仕方がない、次の硬貨の時まで待つか…… 銀貨三十枚の時までな……」
不気味な笑い声を残し、男はすっと姿を消した。
夜闇で不意に背後から声をかけられた。ラビと呼ばれた老人は立ち止まり、振り返る。
「誰か?」
うっすらとした月明かりの中に細身の男の立ち姿が見えた。
「お迎えに上がりました」穏やかな声で言うと男はお辞儀をした。「お出かけの姿を見た別のラビが、わたしに迎えに行くよう仰せになりましたので」
「そうか…… 誰にも見られていないと思っていたのだがな」
男は老人に近寄る。逆光となって男の顔は良く見えない。
「どちらへ行かれていたのです?」
「いや、それは…… 別にお前とは関係なかろう」
「あの人、の所ではありませんか?」
「あの人……」月明りに浮かぶ老人の目が泳ぐ。「はて、誰のことやら……」
「ほら、神殿で売り子たちを蹴散らし、さまざまな不思議な業を行なった人ですよ」男は深いため息をついた。「……実はわたしも関心を持っているのです」
「……」
老人は男の顔を覗く。しかし、男は顔を伏せる。
「お前を信じることとしよう……」
老人は言うと道端の木の下に座った。男は促されたが、座らずに老人の傍らに立った。
「……わしは、お前の言うように、あの人の所へ行った。色々と聞きたいことがあってな。あの不思議な業は人からのものとは思えなくてな……」
「どんなことを話されたのですか?」
「『再び生まれなければ,だれも神の王国を見ることはできません』と言われたよ」
「神の王国、ですか……」
「しかも『水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできない』とも言われたよ」
「水と霊……」
「ああ、そうだ」老人はうなずいた。「でも、よく分からなくてな……」
「再び生まれるなんて……」男は困惑したような声を出す。「一度死ななければならないみたいですね。水と言う事は入水自殺でも示唆しているのでしょうか。霊だなんて、死んだ後に霊が神の王国に行くと言う事でしょうか…… 神の国って言ってますが、本当は地獄なんじゃないですか」
「落ち着きなさい。霊と言うのは、恐らくは神からの力の事だ。水はバプテスマの事ではないか」
「……他に何か言っていましたか」
「『モーセが荒野で蛇を挙げたと同じように,人の子も挙げられねばなりません』と言っていた」
「蛇ですか…… 初めにエバをたぶらかしたのは蛇でしたよね。それと同じようになんて…… その人は、本当に神の人なんでしょうか」
「あれは民数記の中で、言い逆らった民に神が怒り、毒蛇を送り、多くの民が咬まれて死に、そこで執り成しを求めた民のために、神がモーセに命じて作らせたものだ。『モーセは直ちに銅の蛇を造り,それを旗ざおの上に取り付けた。すると,蛇が人をかんだ場合でも,その銅の蛇を見つめると,その人は生き長らえるのであった』と書かれておる。……そうか、あの人はこの銅の蛇か…… 見つめることが大切か…… 『だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされない』とはその事かも……」
「他にも何かありましたか」
「『光が世に来ているのに,人々が光よりむしろ闇を愛した』とも言っていたな」
「闇って言いますと、このような夜分の事でしょうか? ラビの事を当てこすっているんじゃないですか?」
「少々後ろめたい気持ちがあって、こんな時間を選んでしまったのは確かだ…… だが、光…… そうか、正しいことと確信しているならば、こそこそとする必要はないな。こそこそするのはまさに不正と思っているからだ。こうも言ってたな。『真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします』 ……確信が持てるならば、人目など恐れず、気にもしないものだ」
老人は立ち上がった。そして、男の手を取った。
「ありがとう。お前のお蔭で、あの人への信仰がはっきりとした。とてもさわやかな気分だよ」老人は懐から金袋を取り出し幾枚かの硬貨を男に渡した。「これは礼だ。取っておいてくれ。……わしは一人で帰るよ。闇など恐れるに足らずだ。お前はどこかで一杯やりなさい。……ああ、送らばせだが、わしはニコデモだ。お前は?」
「いえ、名乗るほどのものではありません。強いて言えばあの人の敵対者でしょうかね」
「……ふむ、なかなか面白い冗談を言う奴だな。ま、とにかくありがとう」
ニコデモは言うと男に背を向け、軽やかな足取りで去って行った。
残された男は手の平の硬貨を見つめた。
「くそっ! あんな年寄りなら簡単に転がせるかと思ったが……」男は硬貨を握りしめた。それから、思い返したように笑みを浮かべた。「仕方がない、次の硬貨の時まで待つか…… 銀貨三十枚の時までな……」
不気味な笑い声を残し、男はすっと姿を消した。
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