「慈愛だとぉ? それこそたわけの戯言じゃ!」
「忘れおったのか…… 何とも悲しい事よのう……」
「泣き落としなど利かんぞ」
「思い出せ。いつもお前に添い、お前と共に絶えた者がおったろうが……」
「……」おてるの鬼の形相が鎮まる。「おっ母さん……」
「そうじゃ。お前を助けることができなんだ母御は、今、深い悲しみの中におる。死して尚、お前の身を案じておるのじゃよ」
「嘘じゃ、嘘じゃ、嘘じゃ!」
おてるは叫ぶと、再び鬼の形相となった。角が長く伸び、呼気の腐臭が増す。黒い邪気がおてるを包む。邪気は生き物のようにうねりながら坊様へと向かって蠢き出す。坊様はそれを見て念仏を唱え出した。邪気は坊様の手前まで伸び、行き場を失ったようにその場でもがいている。
「ははは、お前の鬼の力も所詮はわしの念仏の敵ではないわ!」坊様は笑うと、すっと真顔になった。「お前は鬼になどなれんし、鬼になってはならん!」
「おのれぇ……」
「気付かぬか! 後ろを見てみい!」
おてるが振り返った。
優しい笑みを満面に湛えた女が、月明かりのような柔らかい光を背にして立っている姿が見えた。おてるの母だった。
「……おっ母さん……」おてるはよろよろと母に二、三歩近付く。それからふと足を止めると、坊様に振り返る。「……おのれ、謀ったか!」
「たわけ! 母御が分からぬか! 謀りか否かも分からぬか!」
「……おてる……」
母が語りかけた。その声におてるは母を見る。
「おっ母さん……」
おてるの邪気が薄らいで行く。声もおてる本来のものになった。それに連れ、形相も鎮まって行く。
「すまなんだなぁ、おっ母さんが弱いばかりに、こんな目に遭わせてしまってなぁ……」母は涙ぐんでいる。「でもなぁ、もう良い。もう、こっちへ来いや」
「でもな、どうしても、村のヤツらが許せないんだ、憎いんだよう!」おてるも泣きながら言う。「おっ母さんまでひどい目に遭わせたこの村がよう!」
「辛かったのう…… 苦しかったのう…… だがの、もう良い、もう良いのじゃ……」母は両手をおてるに向かって伸ばす。「母はの、美しい娘が持てて幸せじゃ。そんな娘が鬼になってはいかん。こうしてお前に会えたは、仏様の慈悲じゃ。もう、こっちへ来い」
一歩一歩とおてるは母の方へ向かう。柔らかな光がおてるを包んだ。光に包まれたままでおてるは美しい娘の姿に、本来のおてるの姿に戻っていた。
坊様は手にした数珠で突き立てた錫杖を打ち始め、穏やかな声で念仏を唱え始めた。念仏に押されるようにおてるの歩が速まる。おてるも母に向けて手を伸ばす。母は涙を流しながら何度も頷いている。おてるも頬に涙を流している。二人は手を取り合った。
「うむ!」坊様はそれを見て大きく頷き、突き立てた錫杖を左手で抜き取り、右手の数珠と共に天に向かって高く差し上げた。「休まれい! 休まれい! 御仏の腕の中で休まれい!」
母と娘は、互いを優しい笑みを浮かべながら見つめ合い、慈愛の光の中へと静かに消えて行った。
つづく
「忘れおったのか…… 何とも悲しい事よのう……」
「泣き落としなど利かんぞ」
「思い出せ。いつもお前に添い、お前と共に絶えた者がおったろうが……」
「……」おてるの鬼の形相が鎮まる。「おっ母さん……」
「そうじゃ。お前を助けることができなんだ母御は、今、深い悲しみの中におる。死して尚、お前の身を案じておるのじゃよ」
「嘘じゃ、嘘じゃ、嘘じゃ!」
おてるは叫ぶと、再び鬼の形相となった。角が長く伸び、呼気の腐臭が増す。黒い邪気がおてるを包む。邪気は生き物のようにうねりながら坊様へと向かって蠢き出す。坊様はそれを見て念仏を唱え出した。邪気は坊様の手前まで伸び、行き場を失ったようにその場でもがいている。
「ははは、お前の鬼の力も所詮はわしの念仏の敵ではないわ!」坊様は笑うと、すっと真顔になった。「お前は鬼になどなれんし、鬼になってはならん!」
「おのれぇ……」
「気付かぬか! 後ろを見てみい!」
おてるが振り返った。
優しい笑みを満面に湛えた女が、月明かりのような柔らかい光を背にして立っている姿が見えた。おてるの母だった。
「……おっ母さん……」おてるはよろよろと母に二、三歩近付く。それからふと足を止めると、坊様に振り返る。「……おのれ、謀ったか!」
「たわけ! 母御が分からぬか! 謀りか否かも分からぬか!」
「……おてる……」
母が語りかけた。その声におてるは母を見る。
「おっ母さん……」
おてるの邪気が薄らいで行く。声もおてる本来のものになった。それに連れ、形相も鎮まって行く。
「すまなんだなぁ、おっ母さんが弱いばかりに、こんな目に遭わせてしまってなぁ……」母は涙ぐんでいる。「でもなぁ、もう良い。もう、こっちへ来いや」
「でもな、どうしても、村のヤツらが許せないんだ、憎いんだよう!」おてるも泣きながら言う。「おっ母さんまでひどい目に遭わせたこの村がよう!」
「辛かったのう…… 苦しかったのう…… だがの、もう良い、もう良いのじゃ……」母は両手をおてるに向かって伸ばす。「母はの、美しい娘が持てて幸せじゃ。そんな娘が鬼になってはいかん。こうしてお前に会えたは、仏様の慈悲じゃ。もう、こっちへ来い」
一歩一歩とおてるは母の方へ向かう。柔らかな光がおてるを包んだ。光に包まれたままでおてるは美しい娘の姿に、本来のおてるの姿に戻っていた。
坊様は手にした数珠で突き立てた錫杖を打ち始め、穏やかな声で念仏を唱え始めた。念仏に押されるようにおてるの歩が速まる。おてるも母に向けて手を伸ばす。母は涙を流しながら何度も頷いている。おてるも頬に涙を流している。二人は手を取り合った。
「うむ!」坊様はそれを見て大きく頷き、突き立てた錫杖を左手で抜き取り、右手の数珠と共に天に向かって高く差し上げた。「休まれい! 休まれい! 御仏の腕の中で休まれい!」
母と娘は、互いを優しい笑みを浮かべながら見つめ合い、慈愛の光の中へと静かに消えて行った。
つづく
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