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怪談 幽ヶ浜 23

2020年09月09日 | 怪談 幽ヶ浜(全29話完結)
 その夜、太吉は浜にいた。
 細かい事は知らされてはいないが、とにかく、夜も更けた頃に浜に出ていてくれと坊様と長に言われ、それに従ったまでだった。
 右手に干し魚を持っていた。女房のおさえが持たせてくれたものだった。
 太吉は海に向かって砂浜に座り込み、打ち返す波音を聞いている。星の少ない夜だった。海と空との境目がはっきりしない沖を、太吉はぼうっと眺めていた。
「……長はともかく、あの坊様は何を考えているんだろう」太吉は独り言を言う。あまりに退屈だったからだ。「浜にいてくれろと言ったきりで、訳も言わねぇ。長も隣でうんうんと頷いているだけだし。坊さんにしつこく聞いても『良いから、良いから。お前さんは無いも知らん方が良いのだよ』なんて言うし。長を見ても頷いているだけだし。……オレを何だと思ってんだよ」
 思い出しても小馬鹿にされているようで、面白くない。太吉は恨みを込めて、手にした干し魚に齧り付いた。
「……もし……」
 後ろから声をかけられた。太吉は口をもぐもぐさせながら振り返った。
 声をかけてきたのは女だった。それも少し離れた所に立っていた。薄暗いので分かったのはそれくらいだった。太吉は立ち上がった。すると、女はそれをきっかけにして、一歩一歩、砂を踏みしめるようにしながらゆっくりと歩み寄ってきた。
 近づくにつれて、女の様子が知れた。年増だが、色香が匂い立っている。洗い晒しの髪が顔を覆っている。その隙間から覗く目には艶っぽい光がある。女は頭を振った。髪が大きく弾み、女の顔が晒された。ぞっとするほどの美人だったが、太吉には見覚えが無かった。女は唇を軽く開き、舌先で己が唇を舐めて見せた。淫靡な笑みが浮かんでいる。帯で辛うじて保っている着物の前は大きく開いていて、胸から股にかけてが白い肌と共に覗いている。女はそれを隠そうともせず、歩を進めてくる。
 太吉は慌てて目線を砂の上に落とした。
「どこを見てるんだい……」女は含み笑いをしながら艶っぽい口調で言う。「わたしを見ておくれよ…… あんたのためにこんな格好をしているんだよ……」
「お前、誰だよ!」太吉は顔を上げた。「オレはお前を知らねぇ。それにな、オレにはおさえって女房がいるんだ」
「ふふふ…… 女房だって? 女房なんて嫌なヤツらさ。わたしに言わせりゃ、邪魔ばっかりする嫉妬狂いさあね」女は一瞬険のある表情をしたが、すぐにまた艶然と微笑んだ。「……まあ、女房なんて、どうでも良いんだよ。……今だけを二人で楽しめりゃあ、それで良いんだよ。ね? 楽しもうよ……」
「ふざけんじゃねぇ!」
 太吉は怒鳴ると、手にしている干し魚を女に向かって投げつけた。女は少しからだをひねって、それを避けた。そして、変わらず艶っぽい笑みを太吉に向ける。
「危ないじゃないか……」女はじっと太吉の顔を見つめる。笑みの浮かんでいた顔が、すっと真顔になった。その途端、太吉は身動きが出来なくなった。女は再び笑みを浮かべ、太吉へと歩む。「ふふふ…… 初心な子供じゃあるまいし、何を嫌がるって言うんだよ……」
 太吉を見つめる女の双眼が鬼火を灯したように赤黒い光を放った。太吉の閉じることができなくなった目は女を見つめる事しかできず、からだも指先すら動かなかった。……長よう! 坊様よう! 太吉は心の中で叫んだ。
「まあまあ、そんなにかたくなっちゃって……」身動きのできない太吉の目の前に立った女は、笑みながらささやく。甘い息が太吉の顔にかかる。「かたくて良いのは、ここだけ……」
 女は太吉の股間に手を伸ばす。と、途端に弾かれたように砂地に転がった。
「何しやがんだい!」女は転がったままで顔を上げ、太吉を睨みつけた。「ふざけんじゃないよ!」
 女の目尻が吊り上がり、洗い髪が逆立った。鬼火の眼がさらに燃え上がる。
「はっはっは!」
 笑い声と共に、浜に上げてあった小舟の一艘から、むっくりと立ち上った者があった。うっすらと射してきた月明りに浮かんだのは大柄で厳つい人影だった。坊様だった。手にしている錫杖の幾つか掛けた鐶が月明りに鈍く光った。
「もうお前さんの正体は知れておる! 成仏せい!」
 坊様は言うと、身軽に船から飛び降りた。


つづく





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