2024/10/16 wed
前回の章
家で塞ぎ込んでいた俺。
生きる希望を失ったのだ。
これ以上生き恥を晒すのも嫌だった。
そんな時、信頼の置ける先輩の坊之園智こと坊主さんが俺のところに来て、一週間会社を休んで一緒にいてくれた。
「生きなきゃ駄目だ」
そう坊主さんは何度も俺に言ってくれた。
大沢はあれから毎日のように謝りに来るが、いつも追い返している。
「智、おまえは友達の面倒を見過ぎなんだよ。あんな奴なんかと関わるから、せっかく全日本プロレス行けたのに……」
坊主さんからも再三付き合いを辞めろと注意された。
もちろん肝に銘じている。
トントン拍子に進みプロテストも受かり、これから合宿という段階を壊されたのだ。
大沢が酒乱でなければ……。
あの時助けに行かなければ……。
色々な人たちが俺に対して期待をしてくれていた。
それをあんな事で終わってしまったのだ。
これ以上、あいつに自分の人生の邪魔をされたくなかった。
ゴリが来て一緒に飲みに行こうと誘うが、そんな気分にもなれない。
部屋で塞ぎ込む日々が続く。
どのくらいの月日が流れたのだろう。
いつまでも塞ぎ込んでいる訳にもいかない。
ようやくそう思えるようになった頃、ゴリが別名『オロナミンジュニア』の同級生オッサを連れ、また誘いに来た。
最初は断っていたが、オッサはわざわざ名古屋からの帰郷との事で、仕方なく俺はOKする。
そういえばゴリの奴、眠いという理由であの時来なかったな。
俺は嫌味を言いつつ、次はオッサへ的を絞る。
現在オッサは名古屋在住だが、大学を卒業してクリーニングの機械を造る会社の営業をやっていた。
ある日の日曜、俺が家に帰ると何故かオッサがうちの工場にいる。
何をしているか尋ねると、俺に許可も無くおじいちゃんへ「智一郎君の同級生なんです」と取り入り、機械の営業を取ったらしい。
事前にまず俺に言うのが筋道じゃないのか?
人のいいおじいちゃんをうまく利用したわけである。
その時の事を思い出し、俺はオッサの右腕を掴み、雑巾を絞るようギューギュー絞ってやった。
「い、痛いっ! やめてよ、岩ヤン」
小狡い奴にはお仕置きが必要である。
痛がるオッサを見て、ゴリは嬉しそうに笑っていた。
少し家で話をしていると、二ノ宮から電話が入る。
「これからゴリさんたちと飲みに行くの? じゃあ、俺も行っていい?」
二ノ宮まで加わり俺たちは居酒屋へ飲みに行く。
坊主さんに諭され、俺はこれからも生きる選択をした。
過ぎた事をこれ以上嘆いても仕方がない。
地元の同級生たちと酒を飲み、気持ちを切り替える。
久しぶりの酒は楽しかった。
馬鹿話をして笑い、酒をかっくらう。
何度もゴリが席を立つので具合い悪いのか聞くと、少し下痢気味だと言ってくる。
「それなら無理して飲むの付き合わなくてもいいよ」
「いや、せっかく岩上もこうして出てきてくれたからさ」
ゴリはゴリなりに気を使ってくらているのだ。
友達というのはありがたいものだな……。
これで知り合いの子とか、偶然会えたらもっといいんだけど……。
入口の方向を眺めていると、そこへあの大沢が姿を現した。
何でこいつが来るんだ?
それまでの気分は一気にトーンダウンされ、俺は苛立ちを覚える。
大沢は怯えた表情をしたまま、恐る恐る俺の前に来た。
「何でおまえがここにいる?」
「いや、ゴリに言われて……」
俺はゴリを睨みつける。
「おい、ゴリ! どういうつもりだ? 何であんなのを呼ぶ?」
「い、いやー、大沢から何度謝っても許してくれないって相談を受けてさ。みんながいる時なら、岩上も大丈夫かなと思ったんだよ」
何が下痢気味だよ……。
大沢へ連絡しに電話ボックス行っていただけじゃねえか。
「ふざけんな、俺は帰るよ」
「ちょっと待ってよ。オッサだって名古屋から遥々地元に帰ってきたんだぜ。おまえが帰ったら気分台無しじゃん」
「……」
確かにオロナミンジュニアことオッサには何の罪もない。
純粋に同級生との再会を楽しみにしていたのだ。
「大沢とはそのまま縁を切ったほうがいいぞ」
先輩の坊主さんの言葉が蘇る。
大沢だけなら絶対断っている。
しかし席には他の同級生たちも楽しんでいるのだ……。
俺一人の感情で、場の雰囲気を壊すのは違う。
「分かったよ……」
仕方なく俺は怒りの刃を納めた。
飲んでいる最中、大沢はしつこく謝ってくる。
「もう俺、酒をやめる。本当に岩ヤンには悪い事をしたと思ってる。とても反省してるんだ。謝っても取り返しのつかない事をしたのは事実だし、でも、他に謝るしか方法がなくて……」
「話し掛けんなって言ったろ? また殴るぞ」
「岩ヤンが殴って気が済むのなら、俺はいくらでも殴られるよ…。本当に反省していんだ」
しつこい大沢。
だけどこれ以上、大沢を責めたところでどうにもならないのは分かっていた。
ゴリがこいつを気遣う気持ちを汲んでやるか……。
「もういいよ。済んだ事だ。これからは酒を飲まないじゃなく、飲まれないようにしてくれ。おまえだって大学を卒業したら、新人歓迎会とか上司と嫌ってほど酒を飲む機会があるだろ。だから飲まないなんて無理なんだよ。もうあんな訳の分からない状態にならないように気をつけて飲めよ。分かったか?」
「うん、本当にごめん。これから俺、気をつけるよ」
坊主さんの忠告を無視する形になってしまう。
自分でも甘いと思ったが、いつまでも恨みつらみじゃ何も成長はしない。
ここらで水に流すのもタイミング的にいいかなと感じた。
大沢は親が出してくれた金で都内にマンションを借り、一人暮らしを始めたらしい。
名古屋に住むオッサは明日向こうへ帰らなければならないようだったので、大沢のマンションへ今晩泊めてもらう約束をしていた。
久しぶりの同級生同士の再会は大いに盛り上がり、結局終電間近まで飲んでしまう。
「大沢、おまえそろそろ出ないと電車に間に合わないぞ。オッサを今晩泊めるんだろ?」
「ああ、そうだね。じゃあ、これを一気に飲んじゃおう」
そう言いながら大沢は目の前にあるビールや焼酎の入ったグラスを一気に飲みしだした。
少し目が据わっているように見えたが、あれほど俺に謝罪したのだ。
いくら酒癖が悪くても自重しているだろう。
会計を済ませ、俺とゴリは駅までオッサたちを見送りに行く。
二ノ宮は明日早いからと先に帰った。
「あ、ごめん。俺、実家に忘れ物あったんだ。ちょっと取ってくるから、ここで待っててくれない?」
大沢はそう言うと、実家の方向へ走り掛けていく。
駅から徒歩五分ぐらいの距離なので、往復で十分程度。
忘れ物を取る時間を入れても、終電には充分間に合う時間だ。
俺とオッサ、ゴリの三人は駅の改札で話しながら待つ事にした。
暇なのでオッサの右腕を掴み、また雑巾を絞る。
「痛っ! 痛いよ、岩ヤン!」
「岩上、左腕もバランスよく絞ったほうがいいんじゃね?」
「余計な事言うなよ、ゴリさん!」
俺とゴリは大笑い。
オッサは泣きそうな顔をしている。
「それにしても遅いなあ……」
オッサが時計を見ながら呟く。
あと十分で最後の電車が出てしまう時間になっていた。
大沢が忘れ物を取りに行ってから、三十分の時間が経つ。
いくら何でも遅過ぎる。
十二時を回っていたが、大沢の家に電話を掛ける事にした。
三回ほどコールが鳴り、大沢の母親が電話に出る。
「夜分遅くすみません。あの、史博君いらっしゃいますか? と言うか、家に戻ってきましたか?」
「え、うちの史博? いえ、全然うちには来てませんが……」
「え?」
「何か?」
「さっきまで一緒に飲んでいたんですけど、ちょっと家に忘れ物があるから待っててほしいと言ったっきり戻って来なかったので、心配で電話したんですけど」
「おかしいわね~。全然うちには来ていないけど……」
「そうですか。ではその辺をちょっと探してみます」
電話を切ると、もうそろそろ終電の出発する時間だった。
「オッサ、あいつがいなきゃ、ここにいてもしょうがないだろ」
「そうだね。俺、明日早いから、実家に帰って先に休ませてもらうよ」
「うん、分かった。俺たちは少しあいつを探してみるよ」
オッサと別れを済ませ、ゴリと二人で大沢を探しに行く事にした。
五分で家に着くのに、三十分経ってもあいつは帰っていない。
どういう事か想定してみる。
多少酔ってはいたので、帰り道誰かに絡まれたのだろうか?
「ゴリ…、大沢、どの辺にいると思う?」
「う~ん、とりあえずあいつの家の方向を真っ直ぐ行ってみようぜ」
「そうだな」
駅から大沢の家までの道のりは、一度曲がればほとんど一本道である。
深夜なので人通りもまばら。
辺りをキョロキョロと見回しながら探しているが、一向に大沢の姿はどこにもいない。
別の通りや人のいそうな場所を探しに行くが、それでも大沢はいなかった。
時計を見ると一時を回っている。
一時間もこうして探しているのに見つからない。
失礼だとは思ったが、心配でもう一度大沢の家へ電話を掛けてみる事にした。
「はい、大沢ですが……」
また大沢の母親が出る。
「夜分遅くすみません。あれから探したんですが……」
こっちが話をしていると、向こうの電話口から大声が聞こえてきた。
ハッキリと聞き取れないが、母親の「史博、いい加減にしなさい」と言う声が聞こえる。
何やら揉めているようだ。
「もしもしー!」
大声で電話に向かって叫ぶ。
「あ、ごめんなさい。うちの史博が、知らない女の子連れて家に帰ってきて、その子を上げようとしているから、今、怒っているところなんです」
「……」
母親の台詞を聞き、俺の視野が一気に狭まる。
あの馬鹿…、あれほど謝っておいて、また似たような事を繰り返しているのか……。
先日の警察署の件が、頭の中で鮮明に蘇った。
「今からそちらへ行きます……」
できる限り冷静に言うと、俺は一点を睨みつけながら歩き出した。
「お、おい、岩上。どうしたんだよ?」
「ゴリ、おまえはもう帰っていいよ」
「何があったんだよ?」
「いいから、帰れよ……」
「ん…、ああ……。わ、分かったよ」
人のプロレスを潰し、あれだけ謝っておいて、またこの愚行。
怒りが全身を包んでいた。
大沢の家の目の前まで来る。
深夜だろうが何だろうが、そんなものどうでもよかった。
玄関の扉を開けると、入口で大沢と母親が言い争っている。
大沢の横で、家出娘のような若い女が困った顔をしながら黙って立っていた。
「おい、どういうつもりだ……」
俺は静かに言った。
「岩上君、うちの子、本当に酷いのよ。こんな知らない子を夜中に連れてきて、勝手に上げようとするから駄目って言ってたところなの」
母親が助けを求めるように言ってくる。
「うるせえなあ~」
大沢はこちらを見ても、まったく悪びれる様子がない。
「おい、おまえは一体何を考えているんだ?」
「関係ねえだろ」
気だるそうに口を開く大沢。
それまでずっと抑えていた感情が一気に爆発した。
「ちょっと来いや」
髪の毛を鷲掴みにしたまま、玄関先から路上へ連れ出す。
右の拳を力一杯握り締め、もう一度だけ言った。
「おまえ、まったく懲りていないんだな?」
完全に大沢の顔は酔っ払っていた。
「関係ねぇ…、ぶぇっ!」
言い出している途中で、顔面に思い切り右の拳を叩きつけた。
血しぶきが舞い、大沢は真後ろへぶっ倒れる。
「何が関係ねえんだ、おい」
そのまま引きずり起こし、また殴りつけた。
たった二発で、大沢の顔はグチャグチャになっていた。
横で母親が見ていたが、何も言えずただ黙って見守っている。
こんな奴の為に、俺の人生が狂ってしまった……。
苦渋の思いで一度は許した。
それをよくも口先が乾く前に、こんな行為をしでかしてくれたものだ。
目の前が涙で滲む。
自分自身がもの凄く情けなく感じた。
ひたすら大沢の顔面を殴り続けた。
完全に大沢は気絶していた。
ゆっくりと立ち上がり、大沢が途中で引っ掛けた家出娘を睨む。
「おい、今すぐ俺の目の前から消えろ……」
「は、はいっ」
家出娘は、一目散に駆け足でその場から逃げていく。
もう一度、伸びている大沢の顔を見る。
唇は潰れ、至る所から血を流していた。
それでもやり過ぎたという感情など、微塵もなかった。
もうこの男とは生涯関わらまい……。
右の拳を真っ赤にしたまま、俺は大沢の家をあとにした。
悪夢の日から二年が過ぎた。
あれから俺はプロレスを断念できず、再度挑戦した。またプロテストに合格し、何事もなく合宿へ入れた。
しかしスパーリング中に左腕を壊し、引退を余儀なくされた。
引退なんて言葉は格好つけ過ぎだ。
使い物にならなくなった俺は、ジャイアント馬場社長から、放り出された。
一時は自殺も考えた俺であるが、散々考え悩み、周囲の人にも説得され、結局生きる道を選んだ。
死を選ぶより、生きるほうが大変である。
違うな。
俺は自分自身で命を断つ事もできない臆病者なのだ……。
華やかな眩いスポットライトの浴びる空間に生きられなくなった俺。
ホテルにあるラウンジのバーテンダーとして働き、自分の居場所を探した。
だけどそんなものは無くて、その後新宿歌舞伎町へ渡った。
二十一歳の悪夢から、五年が過ぎようとしていた。
すっかり俗世に染まった俺は、またゴリと一緒につるみだした。
久しぶりに会うゴリはまるで変わっていない。
それが逆に俺をホッとさせ、安心させてくれる。
ゴリから聞いた話だが、大沢は五つ年上の女と結婚をしたらしい。
しかし今の俺にとって、どうでもいい事であった。
歌舞伎町でそこそこの金を稼いでいた俺は、よくゴリを連れ飲みに行った。
二十六歳になった現在であるが、未だゴリに彼女はできていない。
また世間で携帯が徐々にだが普及し始めた頃でもあった。
休みの日、特にする事もなかったので、ゴリを食事に誘う。
「どこかリクエストある?」
「ある。あそこの川越街道沿いにあるとこなんだけどさ」
「じゃあそこ行こう」
ゴリが行きたかった場所は、びっくりドンキーだった。
「何を食べたかったの?」
「いや、特別ここの料理を食べたいって訳じゃないんだよね。あ、いたいた」
「ん、何が?」
ゴリの指差す方向を見ると、一人のウエイトレスが歩いている。
ここへ来たお目当ては、あの子って訳だ……。
とても目のパッチリした子で、健康そうな肌、真っ赤な唇はプチトマトを連想させた。
背は小さく長い黒髪を一本に束ねている。
清潔感にあふれているようなフレッシュさを感じた。
年齢はまだ二十歳ぐらいだろうか。
「ああいう子もタイプな訳ね」
「ああ、ああいうの溜まんねえな」
「で、何? 今日、あの子に声を掛けようと考えているの?」
「いや~……」
「『いや~……』じゃ分からないよ。どうすんだよ?」
「岩上に声掛けてほしいなと思ってね」
俺は深い溜息をついてから言った。
「あのさ、いきなりこんな場所で、あの子に俺から声を掛けろって言うの?」
「悪いけど頼むよ」
「嫌だ!」
「そこを何とかさ、な?」
「嫌だ!」
「何だよ、冷てえ野郎だな」
冷たいのはどっちだろうか?
七年前、俺のプロレスの祝賀会にも「眠いから」のひと言でお祝いにも来なかったのは誰だ……。
「とりあえず腹減ってんだよ。先に注文しようぜ。その時、あの子がオーダーを取りに来たら、自分から言えばいいじゃん」
「ん…、ああ……」
オーダーを頼む為手を上げると、むさい男のウェイターがやってくる。
ゴリはガッカリした表情で料理を注文した。
このレストランに入ってから、一時間半が経過していた。
食後のコーヒーを飲んでから、四十分近い時間が経っている。
何故かといえば、ゴリはなかなか帰ろうとしないのだ。
俺はというと、暇を持て余しテーブルの上に置いてある紙ナプキンで、バレリーナを作っていた。
「ん、岩上、さっきから何を作ってんの?」
「何に見えるよ?」
「どう見てもバレリーナだろ?」
「ああ、そうだ」
「器用なもんだなあ~」
ゴリは紙ナプキンで作ったバレリーナを手に取り、不思議そうに眺めている。
「ゴリにも作り方教えてやろうか?」
「俺は無理だよ」
「簡単だって、やってみな。まずナプキンを一枚に広げるだろ?」
「ああ……」
「で、半分に折るようして、一度折り目をつけるの」
「それで?」
「次に上側をさ、ちょうど真ん中ぐらいから切っていくでしょ。この時、さっきの折り目の四センチ手前ぐらいにしとくんだよ」
「ああ」
「それから今度は下のほうね。こっちは三分の一ぐらいの感覚で二箇所切れ目を入れるの。さっきより真ん中の折り目に近づけるように」
「それで?」
「そしたら上は二箇所、下は三箇所に分かれるでしょ?それを指でグリグリ捻っていくんだよ。細くなるように」
こうしてゴリにレクチャーしながら男二人でバレリーナを作っているが、周りから見たらどう思われているのだろうか……。
「意外と難しいな」
「あーあー…。おまえ、いつも指先汚いから、ナプキンを捻っている内に黒くなってきちゃったじゃないかよ」
「しょうがねえじゃねえか」
「まあいいや。で、五箇所ちゃんと捻ったらさ、三つ捻ったほうの真ん中の捻りを上のほうで出来る限り小さく結ぶの。それから三本をまとめて軽く根元を捻り、ぐるっと一回転させて」
「こうか?」
「そうそう。で、残った二本のほうを軽く結んで、根元の四センチぐらい余った部分あるでしょ? ここを指でうまく膨らませるんだよ。こうやってさ。そうすると、ほら、バレリーナの出来上がり」
「うまいもんだな」
ゴリのバレリーナは捻った先っぽが黒くなっており、しかも面倒臭がって捻りが足りないもんだから、変な形になっていた。
「そろそろいい加減帰ろうよ。野郎二人でバレリーナ作っているのも虚しいよ。それにあまりレストランに長時間いても、いい顔されないよ?」
「ん…、ああ……」
「じゃあ、行くよ」
「もうちょっと待ってくれよ、な?」
「何で待つんだよ?」
「いや~、あの子がこっちに水を注ぎに来ないかなあと思ってさ」
「あのさ……」
「もうちょっとだけ、な? 頼むよ」
これ以上、ここで長居するのは嫌だった。
「じゃあ、俺があの子をテーブルに呼べば、おまえちゃんと話すんだろうな?」
「ああ、話すよ」
ゴリは俺が動いてあの子を呼んでくれるのをずっと待っていた訳だ。
こうなると、いくら俺が言ったところでゴリは意固地になるだけ。
あの子をここへ呼ばない限り、ゴリは閉店時間まで動かないつもりだったのだろう。
バレリーナを作りつつ、ゴリお気に入りの子が近くを通るのを待つ。
「しょうがねえ奴だな。ちょっと待ってろ……」
俺はあの子が近くを通り掛かるのをジッと待った。
わざわざ席を立って話し掛けに行くのも嫌だしな……。
「岩上早くしろよ」
「うるせぇ、この馬鹿!」
自分じゃ何もできない癖になんて言草だ。
少ししてあの子が通り掛かったので、「すみません」と声を掛け、目を合わせる。
「はい」
よし、うまくいった。
ようやくゴリお気に入りの子が席までやってくる。
名札を見ると、『大曾根奈美』と書いてあった。
ゴリはというと、何故か下をうつむき黙っている。
「お待たせしました。ご注文でしょうか?」
「……」
お目当ての子が来たというのにずっと黙ったままのゴリ。
何を緊張しているのだ。
「あ、あの~……」
シーンとした時間が流れる。
このままではマズい。
「あ、あのですね。失礼ですけど『おおそね』さんって読むんですか?」
「え、はい。そうです」
「こいつが大曽根さんに、お話ししたい事あるそうでして……」
ちょっと強引だったが、ゴリにうまく話を振る。
しかし、肝心のゴリが先ほどと同じように下を向き黙ったままだ。
早く何か喋れよ……。
何の為にここまで時間粘ったんだよ。
二十秒ほどして、ゴリがテーブルの上を指差し、「これ、何に見えます?」とだけ言った。
またちょっとした静寂が訪れる。
「え…、あの……。バ、バレリーナですか?」
「はい……」
そこでまた会話が途切れた。
ゴリの限界。
彼女は困った顔をして、じっと立っている。
まったく世話の焼ける奴だ……。
仕方なく俺が口を開く。
「実はですね。俺、こう見えても『バレリーナ愛好会』の会長でして……」
ここは俺が強引に乗り切るしかない。
半分ヤケクソだった。
「はあ……」
「大曽根さんを呼んだのは、今度もしよろしければ、バレリーナについて色々語りたいなと思いましてね」
あまりにもくだらない俺の言葉に、大曽根は吹き出す。
よし、このままいっちゃおう。
「それで大曽根さん、今日何時頃、仕事終わります?」
「え、俺ですか。え~と十時半ですけど」
時計を見ると、十時十分だった。
「じゃあ、俺たち外の駐車場で待っているから、良かったらちょっとだけお話できません? 迷惑じゃなかったら」
「は、はい…。分かりました」
「仕事中、つまならい事言ってごめんなさい」
「いえ……」
「では、のちほど」
大曽根奈美がテーブルから去ると、ゴリはようやく顔を上げた。
「おまえ、何だよ。何も話さないじゃねえかよ」
「う、ああ……。わりー。緊張しちゃってよー」
「何が『これ、何に見えます?』だよ? あの子がバレリーナって言わなかったら、どうするつもりだったんだよ?」
「……」
「ったく…。まあとりあえず彼女、これから外で待っていれば来てくれるから」
「あ、ああ…。岩上、わりーな」
「そろそろここを出ようよ。これ以上、白い目で見られたくないからな」
「あ、ああ……」
「おまえのせいでこんな時間になったんだから、ここぐらい奢れよ」
「いや、わりーけど、そんな金ないんだわ」
「はぁ…、まあいいや。とりあえず出よう」
レストランに二時間近くいた事になる。
会計を済ませ、外の駐車場まで行った。
俺たちは車の中で、大曽根が出てきた時の作戦を練っていた。
「岩上、今度は俺がちゃんと話すからさ」
「いや、また土壇場で黙られても困る。面倒だから、ここは俺が話すよ。一対一って言うと構えるだろうから、『友達も誘って今度二対二で食事でもどうだい?』ってうまく話してみるから。それがベストだろ?」
「ん…、ああ……」
どこか不満そうなゴリ。
しかしこいつに舵を取らせたら、すぐに船は座礁する。
十時四十分を過ぎたぐらいに大曽根奈美が、店の裏口から出てきた。
車の中にいたんじゃ気付かないだろうから、俺たちも外へ出る。
「ごめんなさい。ちょっと遅くなっちゃって」
大曽根奈美が小走りに駆けてくる。
この子は笑顔がとても似合う。
ゴリが気に入るのも分かる。
性格もさっき話した感じ悪くない。
「ゴリ、ちょっと待ってろよ。うまく話をまとめてくるから」
ゴリを置いて、俺が近づく。
「ごめんね、大曽根さん。無理いっちゃって」
「いえいえ、さっきとてもおかしかったです」
「奈美ちゃんって呼んでも構わないかい?」
「え、あ、はい!」
「もし良かったら、今度一緒に食事にでも行かないかい?」
「え…、はい……」
奈美の頬が少し赤くなった。
俺がこの子を誘っていると勘違いされても困る。
あくまでもメインはゴリなのだ。
「一対一じゃなんだし、奈美ちゃんも友達連れてでどうかな?」
「え、お友達もですか?」
「迷惑だったかな?」
「い、いえ。そんな事ないです」
「もし良かったら、電話番号教えてもらってもいい?」
「は、はい!」
手帳に丁寧な字で家の電話番号を書いてくれる奈美。
まだ自分の携帯電話持ってないか……。
いや、仮に携帯電話を持っていたとしても、家の電話番号を教えてくれたいるのだ。
初対面なのに、俺をそこそこ信用してくれたいるという証拠か。
こういう子と付き合ったら、毎日が新鮮で楽しいかもしれないなと思った。
「俺の番号携帯のだから、いつ電話しても構わないよ」
「はい、ありがとうございます」
お互いの番号交換を済ませると、俺たちは奈美と別れる。
帰り道、車の中で俺はゴリに言った。
「とりあえずおまえにも奈美ちゃんの番号教えておくけどさ。くれぐれもはしゃいで勝手に電話したりするなよ? 俺がうまくまとめるから」
「何で俺が電話しちゃいけないんだよ?」
「当たり前だろ? あの子の番号は俺が聞いた訳なんだからさ。おまえが彼女の電話番号を知っている事自体、おかしい事だろ」
「電話ぐらいしたっていいだろ!」
「駄目だ! それなら今渡した紙返せ。大曽根から自分で番号聞いてきな」
「あ、ああ…。分かったよ。俺からは電話我慢するよ……」
ゴリは不服そうな表情をしながら、車を走らせた。
翌日、奈美から携帯に電話が掛かってきた。
俺たちはお互いの近況などを話し、一週間後二対二で食事へ行く約束をする。
彼女の事で大まかに分かった事。
まだ奈美は短大生で十九歳。
就職活動の合間にあそこのレストランでアルバイトをしている。
現在彼氏はいない。
しかし、問題な部分もあった。
ゴリが気に入ったから俺が動き、こうなった訳だが、奈美は俺の事を結構気に入っていた。
会話の節々にその気持ちがこちらにも伝わってくる。
彼女の気持ちをうまく交わしつつ、ゴリとの仲を取り持つ。
果たしてそんなうまくできるだろうか……。
奈美にしてみれば、最初に声を掛けたのも誘ったのもすべて俺なのだ。
ゴリがというより、俺が気に入っているからと見られても仕方がない。
すべては一週間後の食事次第である。
奈美が連れてきた子を俺が目の前で口説いてしまえばいいのだ。
毎日のように奈美から連絡はあった。
他愛のない話ばかりだが、「岩上さんの声が聞けて嬉しい」といつも言っている。
ゴリが気に入ってさえいなければ……。
そんな気持ちも内心あった。
しかしゴリの気持ちを踏みにじる事はできない。
ちょっとした葛藤の中、時間だけが過ぎていく。
明日は奈美と食事の日。
ゴリからあれ以来連絡がないが、今頃楽しみにしているだろう。
少し早めに寝ようとした時、奈美から電話があった。
心なしかいつもより声のトーンが暗いような気がした。
「岩上さん、明日なんですけど……」
「うん、どうしたの?」
「明日の食事…。中止にしてもらえませんか?」
「え、何で?」
「……」
「何かあったのかい? 言いたい事があるなら言ってみて」
「岩上さん…、何で岩崎さんに俺の家の番号教えたんですか?」
「え……」
ひょっとしてゴリの奴、また勝手に彼女の家に電話したのか……。
「今日だけじゃなく、昨日も一昨日も…。最初は普通に話していたんですけど……」
しかもほぼ毎日のよう電話していたとは……。
「あいつと何かあったの?」
「迷惑じゃなければ、明日の食事、二人だけで行かないかって言い出して……」
「そ、そうなんだ……」
あのクソ馬鹿野郎め。
またしてもフライングか。
「岩上さん、俺と食事したいって言ってたのに、何で岩崎さんが連絡してくるんですか?」
「え、いや、その……」
弁解のしようがなかった。
元々ゴリの為に動いていただけなのだ。
「私をからかって、遊んでいたんですね……」
「いや、そんなつもりは……」
「酷い……」
ガチャ……。
電話が切れる直前、奈美のすすり泣く声が聞こえた。
すぐ掛け直そうとしたが、思い留まる。
俺が今、電話をしてどうなるというのだ。ゴリとのやり取りを正直に話したところでどうなる?
また奈美を傷つけるだけなのだ。
彼女の事を俺だっていいと思った。
しかし、元々ゴリが気に入っていたから始まった事なのである。
俺が奈美に「好きだ」と掛け直すなら話は別だ。
それだとゴリの想いを踏みにじる事になる。
しばらく考えていたが、俺からリアクションはしないほうがいいと決めた。
どこか納得いかない自分がいる。
非常に歯痒い。
何故だ?
決まっている。
またしても俺の言いつけを守らず、勝手に奈美へ電話していたゴリ。
あいつのフライングがなければ、少なくとも明日は楽しく食事ができたのだ。
ゴリに電話を掛けてみた。
「あー、もしもし」
何事もなさそうにいつものダミ声で出るゴリ。
「おまえさー、何で奈美に勝手に電話してんだよ?」
「あー、わりーわりー」
「ふざけんなよ! 明日の食事、彼女から断られたぞ?」
「え、何で?」
「知らねえよ!」
ゴリのあまりの無神経さに苛立ち、俺は電話を切る。
すぐゴリから電話が掛かってきた。
「おいおい、何で急に切るんだよ?」
「何でおまえは言う事を利かないんだよ?」
「だって番号を教えてもらったんだから、我慢するの難しいだろ」
「はあ~……」
「何、溜息ついてんだよ」
「すべて台無しじゃねえか」
「だからわりーって」
「もういいよ……」
再度、電話を切った。
またゴリからの着信。
面倒なので携帯の電源を落とす。
俺は布団にゴロリと横になり、目を閉じている内にいつの間にか寝てしまった。
『バレリーナ事件』から一ヶ月が経つ。
あれ以来、大曽根奈美から電話がある事はなかった。
俺からも掛けづらいものがある。
多分このまま自然消滅していくのだろう。
ゴリにはあれから連絡をしていない。
あまりの馬鹿さ加減にイライラしていたのだ。
忙しい日々の中、仕事に精を出していると、ゴリから電話が入った。
「何だよ?」
「つれねえな。せっかく人が電話してるのに」
「何の用だよ?」
「今度の日曜日さ、『ねるとん』申し込んだんだ。で、岩上の分も一緒に予約しといたから、空けといてよ」
「はあ?」
「だから岩上の分まで一緒に予約しといたからさ」
「あのさ、ちょっと待って。何で俺まで行かなきゃいけないの?」
「だって俺一人じゃ行きづらいじゃん」
「だからって何で俺まで一緒に行く必要がある? それに何で俺の返事も聞かず、勝手に頼むんだよ? 俺が休みじゃなかったら、どうするつもりだったんだよ?」
「まあそんな事言わず、頼むよ」
「だいたい『ねるとん』って何だよ?」
「まあそりゃあ男と女の出会いのパーティーってやつだよ」
「何が『出会いのパーティー』だよ。もう大曽根奈美の件は吹っ切れたのかよ?」
「だって最近電話しても、親がいつも『奈美は出掛けてていません』って居留守なんだもん。何度か電話して、時間もズラしているのにいつもいないんだ。あれってきっと居留守使ってんだよな」
呆れた……。
この男はまだ奈美に電話をしていたのである。
しかも何度も……。
どおりであれ以来、彼女から連絡が無いはずだ。
「もう電話するのやめとけよ」
「何で?」
「それだけして出ないって事はさ、向こうは嫌がっている証拠だから」
「だって番号を教えてくれたじゃん」
「だからそれは俺にだろ? おまえにはそのあと勝手に俺が教えただけじゃねえか。違うかよ?」
「ん…、ああ……」
「とにかく一度も彼女は電話に出ないんだろ?」
「ああ」
「じゃあ、やめとけよ」
「今度またあの子のレストラン行ってみるか」
こういう時のゴリは冗談で言っている訳じゃない。
本当に行きだしかねないので、俺は慌てて言った。
「だから、そういうのもやめろって」
「だって人が気持ちを伝えたいのに、出ないなんて失礼じゃねえか」
失礼も何も最初、奈美を席まで呼んだ時、何一つろくに喋れなかったのは誰だと言いたい。
「いや、失礼なのはおまえだ」
「おまえと俺は考え方が違うからな」
いや、そういう問題じゃないと思うが……。
「考え方というか常識的な判断が違うだけだろ」
「じゃあ、こうしよう。岩上がねるとんに付き合うなら、俺は今後奈美に電話しない。ねるとんを断ると言うなら、俺は奈美のレストランへ行く」
「おまえ、汚いぞ」
「いや、北はあるよ」
背中に冷たいものが走った。
自分では最高のギャグだと思って言っているのだ。
「あのさー、そういう寒いギャグは笑えないから」
「だって北あるじゃん」
「分かった分かった。ねるとんに俺も出ればいいのね……」
仕方ない。
これ以上大曽根奈美に嫌な思いはさせたくなかった。
「そうそう最初から素直に出たいって言えばいいんだよ」
またしてもゴリペースになっている。
まあ仕方ない。
俺は諦め、今週のねるとんパーティーに備える事になった。
場所は地元川越の公民館で夕方六時開始。
会費は五千円。
以前、『ねるとん』という番組をテレビで見た事があった。
男と女を同じ数だけ集め、集団お見合いをするような内容だが、それと同じような事をするのだろう。
問題はいい女がいるのかという点である。
テレビだからあれだけ綺麗な子も出るけど、現実問題で考えれば、いい女は男が放っておかない。
従って自らねるとんパーティーなどに出る必要性などないのだ。
しかも洒落たバーやレストランでというなら分かるが、場所は公民館。
夢も期待も持てないだろう。
当日になり、五時頃ゴリが家まで来た。
「ちょっと時間早いんじゃねえか?」
「いいんだよ。先に行って待ってるぐらいがちょうどいいんだ」
「おまえ、この手のパーティー、今日が初めてじゃないだろ?」
「まあな」
「何回目?」
「う~ん、十二回から先は覚えていない」
何を気取って抜かしているのだ。
「そんな行ってんの?」
「ああ」
「成果は?」
「あったらまたパーティーに行こうだなんて言わないだろ」
「まあそれはそうか」
ゆっくり歩きながら川越駅西口の公民館へ向かう。
以前県立図書館があった辺り。
徒歩二十分ぐらいの距離なので、ゆっくり歩いても随分時間的に余裕がある。
「実際ああいうパーティーってどうなの?」
「う~ん、当たりもあれば外れもあるな」
「で、ゴリは一度もカップルになれていないんでしょ?」
「ああ」
「外れの時はどうしているの?」
「とりあえず誰かしらの名前は書いているよ」
「どういう事?」
「最初は順々に一人ずつトークタイムってのがあるんだよ。一分ずつぐらいかな」
「ふんふん、それで?」
「それからフリータイムって言って、好きな子に自分から話し掛けられる自由な時間があるんだ。最後に紙に自分の第一希望の子から第三希望の子まで書いて、パーティーの主催者側がそれを集める。それでお互いの希望が男女共に合えば、めでたくカップル成立になるんだよ」
なるほど…、強制お見合いパーティーみたいなノリって訳だ。
「でも、ゴリは十回以上行っても、一度も成功していないんだろ?」
「しょうがねえじゃねえかよ」
「何でまた今日に限って行こうと思ったの?」
「岩上がいれば、うまくフォローしてくれるだろ?」
「……」
「だから一緒に申し込んでおいたんだよ」
「じゃあ、今日の分はもちろんおまえが全部出すんだろうな?」
「いや、それはまた別の話だろ」
何ていう傍若無人ぶりなのだ。
勝手に人を巻き込んでおき、代金は自腹……。
まあ、これがゴリがゴリたる所以なのである。
「ほら、あそこの場所で今日はやるんだぜ」
パーティー会場である公民館が見えてきた。
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