2024/10/16 wed
前回の章
ひっそりと静まり返った建物内。
俺たちは階段を使って二階まで行く。
受付らしきものが見え、二名の人間が座っている。
「あ、本日予約された方でしょうか? お名前を最初に言ってもらえますか」
「あ、岩上智一郎で二名」
この野郎……。
勝手に俺の分まで予約しただけでも迷惑なのに、人の名前を使って予約してやがったとは……。
「かしこまりました。では、お二人で五千円ずつになります」
「おい、五千円だってよ」
ゴリは、当たり前のように手の平を開き差し出してくる。
ここで揉めても仕方がない。
俺は黙って五千円札をゴリの手の平の上に叩きつけた。
「はい、お二人でちょうど一万円お預かりします。では、中に入ってお待ち下さい」
学校の教室にあるドアのような入口を開いて中へ入る。
中はとても薄暗く、人影ぐらいしか見えない。
窓際にいる二人がシルエットで女性なのだと分かるぐらいである。
中にいた係員が、「まずはこちらをご記入下さい」と紙と懐中電灯を手渡してきた。
自分でこの暗闇の中、照らしながら記入しろって事か。
紙には簡単な自分の名前や、自己PRを書く欄がある。
適当に記入を済ませ、辺りを見回してみた。
少し暗闇に目が慣れてきたせいか、どこに誰かいるぐらいは分かるようになってくる。
二十畳ぐらいのスペースにパーティー参加者が、今のところ全部で十七名ほどいた。
しばらくして室内の明かりがつく。
係員が手を叩きながら、大袈裟なアクションで口を開く。
「はい、みなさま、お待たせしました! ちょっと女性の人数足りませんが、あとから遅れてくるらしいので、時間も押してる事だし先に始めたいと思います」
俺は中にいる人間を見てビックリした。
先ほど窓際にいた女性二名以外、すべて男ばかりなのだ。
二対十五……。
「ではみなさま、先ほど配った紙を俺に出してもらえますか?」
「ちょっと待て、コラ!」
思わず俺は怒鳴りつけていた。
「え、な、何でしょう……」
「おまえらな、こんな人数の比率で一体何をさせようってんだ、おい?」
「いえ、ですから、女性陣はあとから遅れてくるらしいので……」
「ふざけんなよ、おい。こんな馬鹿げたパーティーやってられるかよ!」
「……」
誰一人声を出す者はいなかった。
「ゴリ、帰ろうぜ」
「ん…、ああ……」
あまりにも馬鹿げた手口に呆れ、俺とゴリは部屋を出た。
受付にいた女が声を掛けてくる。
「あの、すみませんが、一度中に入ると代金全額お返しできませんが……」
「いらねえよ、そんなはした金なんかよっ!」
「キャッ!」
受付のテーブルを乱暴に蹴飛ばし、俺たちは会場をあとにした。
帰り道、俺はずっとゴリに文句を言っていた。
「何だよ、あのパーティーは? 半分詐欺じゃねえか」
「わりー」
「それにまだ行くかどうかも分かってないのに、何で俺のフルネームで登録してるんだよ?」
「いや、絶対に参加するだろうなって、確信があったんだよ」
「何が確信だよ。だいたい十回以上も行ってるならさ、もっとよく調べろよ」
「わりー、あんなのだとは俺も思わなかったんだよ」
「はあ……」
これ以上、ゴリに当たってもしょうがないか。
「このまま帰るのって嫌じゃね?」
「どこか行くのか?」
「ほら、駅の反対口。あそこにランジェリーパブが新しくできたじゃん」
「あー、そういえば。俺、入った事ないけど」
「俺もだけどさ、あそこ行ってみない?」
「いいけど、先に飯を食おうぜ。俺、腹減っちゃったよ」
「じゃあ、近くの居酒屋で軽く飲みながら食って、それからランジェリーパブ行こうぜ、な?」
確かに女のいる店に行きたい気分だった。
このまま家に帰っても、イライラは納まらないだろう。
「いいよ。早くその辺の店入ろうぜ」
駅の逆口へ出て、ランジェリーパブの方向へ向かう。
これからの事を考えると、先ほどの怒りが静まってくるから不思議だ。
未開拓の店は、男にとってちょっとした浪漫があるのだ。
ランジェリーパブの看板が見えてきた。
『ランジェリーパブ マンハッタン 4F』と大きく書いてあるので目立つ。
同じビルの一階に居酒屋があったので入ってみる。
「岩上、料金がさ、七時過ぎると急に高くなるから、七時前には上に行こうぜ」
「分かった。とりあえず腹減ってるから、適当に頼むよ?」
「ああ、俺は中生」
「すいませ~ん、とりあえず、ウイスキーのストレートと中生下さ~い」
メニューを見ながら、好きなものを個々に注文する。
先ほどのねるとんパーティーの愚痴を言いながら、俺たちは酒を飲んだ。
それにしても男が十五名に対し、女は二名……。
よくあれで始めようとしたものである。
ある意味感心してしまう。
あとで女性陣が遅れてくると言っていたが、サクラだと言っているようなものである。
もし、あのままあそこにいたら大激怒していただろうから、最初に帰って正解だったのだ。
「おい、岩上。そろそろ出ないと七時になるぞ」
「もうそんな時間か。じゃあ、会計しないと。ここはとりあえず俺が出しておくよ」
「いいよいいよ。こういうのは割り勘のほうがいい」
「いいよ。大した金額じゃないし」
「いや、こういうのは割り勘のほうがいいんだって」
ゴリが譲らないので、俺たちは割り勘で会計を済ませ、四階にある『ランジェリーパブ マンハッタン』へ向かった。
オレンジ色の妖しいライトが飛び交う店内。
とうとう俺たちは『ランジェリーパブ マンハッタン』へやってきた。
黒服の店員が、入口まで近づいてくる。
「いらっしゃいませ。お客さま、二名で?」
「そう」
「ご指名は?」
「初めてだから」
「ちょっと今、女の子の人数足りないんですよね~。一人しかつけられないのですが」
「別に構わないよ。とりあえず中に入れて飲ませてよ」
「かしこまりました。空き次第すぐにお席につかせますので」
「は~い」
「それでは料金のほうですが、前金で七千円ずつになります」
「え?」
俺は壁に貼ってある料金表を見ながら言った。
「七時からが七千円でしょ? 今、まだ六時五十八分じゃん」
「まあ、それですと七時料金になりますので……」
「はあ? おい、おまえふざけんなよ。女は一人しかつかない。それに時間にもなっていないのに、正規料金以上とるつもりかよ?」
「で、では六千円ずつで結構です」
「何が結構なんだよ? おまえ、感覚おかしいんじゃねえの?」
「す、すみません……」
大方余計に金を取った分は、あとで自分の懐にでもしまうつもりだったのだろう。
狡い野郎だ。
席に案内され、ゴリと向かい合わせに座る。
タバコを吸いながら待っていると、店員が女を一人連れてきた。
「お待たせしました、ゆーなさんでーす!」
「……」
席に来た女を見て、俺は口をあんぐり開けてしまった。
ランジェリーパブとは、店の女が下着姿で接客する店である。
当然、男はどんな格好で来るのだろうと期待はするものだ。
席についた『ゆーな』を見た時、頭の中でアントニオ猪木の入場テーマ曲である『イノキボンバイエ』が鳴り響いていた。
まったく色気を感じないガリガリなスタイル。
そして見事に突き出たアゴ……。
誰もいないところで「何だテメこの野郎」と、ファイティングポーズを取り、「シャー」とか言いそうなところが怖い。
俺の横へ腰掛けようとしたので、「あ、俺のほうが身体デカいから、向こう座りなよ」と自然に言葉が出てしまう。
ゴリは、非常に嫌な顔をしながらこっちを見ていた。
仕方ない。
今日、パーティーで不愉快な思いをしたのも、すべてゴリが原因なのだから……。
他の席に座る女の子を見ると、そこそこ可愛い子がいる。
よりによって何で俺たちには、イノキがつくのだ。
ここはゴリに犠牲になってもらう以外方法はない。
この店は、ワンタイムでとっとと帰ろう。
作ってもらった酒を飲みながらそう思っていると、店員がまた一人の女を連れてきた。
「大変お待たせしました。『マミ』さんです!」
「いらっしゃいませ、マミです」
メチャクチャ可愛い女が来た。
さっきイノキをゴリの席につけといて本当に良かったと心の底から思う。
運は誰にでも平等なのだ。
「君、可愛いねー。俺、滅茶苦茶好み」
「やだ、うまいですね~」
「本当だって」
「何か恥ずかしいなあ」
目の前のゴリの事などすっかり忘れ、俺はマミとの会話を楽しんだ。
完全に口説きモードに突入した俺。
時間が来ても、「延長、延長に決まってんじゃん」とゴリの分まで金を出し、ひたすらマミを口説く。
三回ほど延長をすると、財布の中の金が無くなってしまった。
ゴリの分も一緒に出しているから、結構な金額を使っている事になる。
途中でゴリはどうしているか、そっと見てみた。
「……」
つまらなそうに酒を飲み、タバコを吸うゴリ。
イノキも黙ってそばに座っているだけだった。
まるでお通夜みたいだ。
いくらこっちが金を出したとはいえ、ゴリに少し悪い事をしたかなと反省していると、ゴリがイノキを見て口を開いた。
「趣味は?」
「スノボー」
「そう。俺もスノボーやるんだよ」
「そうなんだ」
「今度良かったら一緒に行く?」
「う~ん……」
「電話番号教えといてよ」
「あ、私、携帯持ってないから」
きょうび、飲み屋の女が携帯を持っていないなどありえない。
この女、もう少しマシな嘘をつけばいものを……。
「あ、そう……」
そこでイノキとゴリの会話は途切れてしまう。
イノキにまで見切りをつけられるなんて、何て可哀相な男なんだ……。
時間が来て、俺たちは店を出た。
帰りのエレベータの中、ゴリが恨めしそうな顔で言った。
「わりーけど、おまえとは女の飲み屋は絶対に行かない」
この野郎、散々こっちが数万も奢ったというのに、「ご馳走さま」のひと言も言えないのか……。
俺とゴリは、気まずいまま外で別れた。
これが俗に言う『パーティーのあとイノキにアタック事件』である。
ゴリと会わなくなってから半年が過ぎた。
俺は二十七歳になっていた。
歌舞伎町での仕事も忙しく、なかなか休みのとれない現実。
予定も立てられないので、たまの休みなのに誰とも遊ぶ人間がいない。
あれから連絡をしてなかったので、久しぶりにゴリへ電話を掛けてみた。
「久しぶり、今日俺さ、休みなんだけど飲みに行かないか?」
「んー、俺、これからビアガーデンに行くんだよ」
「えー、いいなー。俺も連れていけよ」
「だって岩上が知らない奴だよ?」
「男だろ? じゃあ俺もいいじゃん」
「分かったよ。車で大宮に向かうから、途中で岩上の家寄って拾って行くよ」
「分かった。じゃあ、すぐ準備して待ってるよ」
まだこの頃、飲酒運転に罰金百万などふざけた罰金があった時代ではなかった。
軽い気持ちでゴリも飲みに行く際、車で行っていたのである。
ゴリの車に乗り、大宮へ真っ直ぐ向かった。
大通りを右折する為、信号が変わるのを待っていたが、信号が変わった途端、背後の車が無茶な運転をして飛び出し、俺たちを抜いていく。
「何だありゃ、とんでもねえ運転しやがるな」
「おい、ゴリ。あいつ、追っ駆けろよ。ひと言、俺が文句言ってやる」
「ああ」
ゴリは、無茶な運転をした多摩ナンバーの車を追い駆けた。
しばらく走っていると、ちょうど信号に引っ掛かり、前の車が停まる。
俺は助手席から急いで降り、多摩ナンバーの運転席の窓のところまで行った。
「おい、おまえ何を考えてんだ? 開けろよ、おら!」
ガンガン窓を叩きながら怒鳴る。相手は逆側を見ながら無視をしていた。
見た感じ、俺とそう年齢も変わらない奴だ。
「おい、開けろって言ってんだろ!」
すると窓が開き、運転手がゆっくり俺の方向を見ながら口を開いた。
「おい…、おまえ、多摩の青木って知ってっか?」
ボソッと呟くように抜かす馬鹿。
「はあ?」
「多摩の青木って知ってっか?」
この手のタイプが俺は一番嫌いかもしれない。
自分で理不尽な事をしておき、ピンチになると知り合いの名前を出す情けない男。
第一ここは川越である。
『多摩の青木』など知る訳がない。
「知らねえよ、ボケが!」
気付けば、不意に右ストレートを運転手にお見舞いしてしまった。
「ゲッ……」
そんな強く殴ったつもりはなかったが、相手はそれで気絶してしまった。
ヤバい……。
大騒ぎになる前にとっとと逃げたほうがいいだろう。
俺はダッシュでゴリの助手席に戻ると、「逃げるぞ、ゴリ」と促し、逃げるように大宮へ向かった。
何事もなく大宮へ着いた俺たちは、デパートの駐車場へ車を停め屋上へ向かった。
真夏の夜空の中、大勢の人がビールを片手に賑わうビアガーデン。
楽しそうな雰囲気がこちらまで伝わってくる。
ゴリは辺りを見回しながら、先を歩く。
すると向こうのテーブルから一人の男が「お~い」と手を大きく振っている。
真っ白のワイシャツ着て、ネクタイを締めている男。
同じテーブルの人間も似たような服装だった。
会社の同僚たちの集まりだろうか?
男だけでなく、女も似たような格好で一緒にいる。
それにしてはおかしい。
ゴリの仕事は印刷業でワイシャツネクタイとは無縁の職場である。
妙な違和感を覚えたのはそれだけじゃなかった。
二十名ほど同じテーブルで飲んでいるのに、たった一人の男しかゴリに手を振っていない。他の誰も、振り向こうともしないのだ。
「何、ゴリ。あそこのところでいいの、待ち合わせは?」
「ああ、そうだよ」
俺たちがそのテーブルまで行くと、数名がこちらをチラッと見ただけで挨拶一つしようとしない。
俺だけでなくゴリにも同じ態度なのだ。
明らかに変だ……。
「岩上、紹介するよ。俺の友達の上辺ね。年はうちらより三つ上だけど、気さくでいい奴だよ」
「どうもはじめまして、ゴリとは中学時代の同級生の岩上です」
三つ上と聞き、敬語を使い話した。
「そんな敬語なんて使わないでいいよ。岩崎と友達なら、俺とも友達だからさ」
「そうそう、この上辺は堅苦しいの嫌いなんだよ。タメ口で構わないんだ」
二人はいつぐらいからの付き合いなんだろう。
今まで聞いた事もない人間だったので、始めは大人しく様子を見たほうが懸命かもしれない。
「最近俺さ、競馬に凝っちゃっててね。先週も『GⅠ』外しちゃってさ」
単なる大ボラ吹きなだけかもしれない。
こんな真夏に『GⅠ』はやってないのだ……。
「仕事も最近忙しいしよー。まったくビールがうまいや」
話を聞いている感じ、悪い人間でもなさそうだ。
それにしても、この二十名ほどの集まりは一体何なのだろうか?
「ねえ、ゴリ。周りの人たちさ、誰も話してないけど、俺ら場違いなんじゃないの?」
「ああ、気にしないでいいよ。こいつらはそういう連中だからさ」
「気にしないでいいよって、そうもいかないだろ? 同じ席で飲む訳だしさ」
「いいんだよ。向こうが挨拶一つもないなら、こっちだって同じ。それが礼儀ってもんだろうが」
「いや、違うと思うけど……」
相変わらずゴリの理論はいまいち分からない。
「ところでこれって何の集まりなの?」
上辺に聞いてみた。
「ああ、結婚相談所の一次会のあと集まった同士たちなんだよ」
「……」
よく雑誌の折込みにある『結婚相談所』のハガキを思い出した。
なるほど、だからみんながみんなよそよそしいのか。
しかしゴリがこの集まりと、どう関係があるのだろうか?
「…で、ゴリは何で彼と仲良くなった訳?」
「いや~」
「それじゃ分からない。何で?」
「俺も実はちょっと前に入っちゃってさ……」
「……」
半年間、ゴリを放っておいた俺自身に何故か責任を感じた。
まさか『結婚相談所』にまで手を出していたとは……。
「で、上辺とは気心が合ってね。なかなかいい奴だよ、彼は、うん」
うんじゃねえよ、ボケ……。
「いい奴は分かったけどさ、肝心の相手はどうなってんの?」
「何か高い金だけ取られてさ。やっている事、ねるとんパーティーと変わらないんだよね。いや、まだあっちのほうが親切かな。だから俺は最近この集まりには行ってないんだ」
「いくら払ったの? この相談所に……」
「入会金で五十万だよ。高いだろ?」
「……」
「ん、どうした?」
「あのさ……。何で俺にひと言、入る前に言わないんだ?」
「いちいちおまえの許可取らなきゃ、俺は自由に行動もできないのかよ?」
「いや、そういう問題じゃなくてさ……」
「何だよ?」
「いや、いい……。とりあえず俺たちも何か飲もうよ……」
こうして不思議な結婚相談所の二次会に、俺たちは紛れ込んだ。
先に言っておいてほしかったが、ここまで来たら仕方ない。
俺は、このような相談所に集まった人間を一人一人観察する事にした。
まず女性陣。
ハッキリ言って大して可愛くもないのに、みんながみんな気取っている。
俺が軽く声を掛けると、「ふん」って感じでそっぽを向かれるぐらいだった。
そして男性陣。
ハッキリ言えば、気持ち悪い連中ばかりだった。
みんな、どこかナヨナヨしていて、女の顔色ばかり伺っている。
面白いと感じたのが、女一人を挟むように二人の男が座っている席だった。
互いにその女を狙っているのがはたからも見え見えだ。
普通に考えたら、男同士は一人の女を巡るライバル同士である。
それが会話を聞いていると、不思議な行動をしていた。
「よく芸能人の『加藤紀子』に似てるって言われません?」
右側の男がニヤニヤしながら話す。
普通ならもう一人の男など会話に入れないようにするだろう。
邪魔な存在でしかないのだから。
それをその男は、ライバルの男に向かって、「そう思いませんか?」と笑顔で話し掛けているのだ。
もう一人の男も似たようなもので、「ええ、似てますね~、へへ」と答えている。
間に挟まれた女も、「うん、よく言われる~」と鼻を高くして自惚れていた。
普通に考えれば、『加藤紀子』にそっくりなら、わざわざこんな結婚相談所などに登録などしないだろうし、こんな集まりのビアガーデンにも来ないだろう。
それにどう見ても、『加藤紀子』とは程遠い顔立ちだった。
例えるならハナクソの塊のような顔立ちだ。
まあ貴重な集まりに参加できたのだ。
俺も適度に楽しめばいいか。
ゴリと上辺は何の話をしているのか知らないが、夢中になって熱く語り合っていた。
暇を持て余していた俺は、近くにいた女に声を掛けてみる。
「お姉さん、あのさ……」
「……」
完全に無視状態の女。
一瞬だけこちらを向いて、すぐ向こうを向く。
確かにこの中で俺だけカラーが違うのは分かる。
それにしても少し失礼じゃないだろうか。
「ねえ、あの……」
もう一度声を掛けてみるが、女は完全に無視をしている。
さすがに苛立ってきた。
「おまえ、馬鹿じゃねえの。ドブスが気取ってんじゃねえよ。おい、ゴリ。こんな腐った場所にいると、おまえまでおかしくなるぞ。野郎同士で飲んでいるほうがまだマシだ。とっととこんなところから撤退しようぜ」
「あ、ああ……」
「他に俺らと一緒に飲む奴いるか? まあ、いねえか。じゃあ、行こうぜ」
俺が背を向け歩き出すと、ゴリと上辺が黙ってあとをついてくる。
そのあとから一人の男がついてきた。
「あ、あのー」
「ん?」
「あなたは底が知れない。聞いててスカッとしました。良かったら俺も一緒にいていいでしょうか?」
「別に構わないけど」
「よろしくお願いします」
また変なのは加わってきたなあ……。
とりあえず俺たちはビアガーデンをあとにして、近くのバーへ入った。
俺と結婚相談所所属メンバー三名による奇妙な飲み会が始まる。
ゴリと上辺は、気が合うのかいい感じで会話が弾んでいた。
あとからくっついて来た妙な目の細い男が、俺の顔をまじまじと見ている。
「いや~、あなたは本当に底が知れない。あのタイミングであの台詞、なかなか言えるもんじゃないですよ」
「別にそんな驚くような事じゃないから……」
「いえいえ、俺はですね。あなたのあの台詞から、只者ではないなと悟りました」
結婚相談所で女を捜している奴から、そんな褒められてもあまり嬉しくない。
「あのさ、あんたも高い入会金を払ってあそこにいた訳でしょ?」
「ええ、払う事は払いました。でも、俺は伊達にお金を払った訳じゃありません。例えば今日のパーティーですが、スタッフがちんたらと怠慢なんですよね。そこで俺はハッキリと金を払ってんだからと文句を言います」
「……」
この男はどうでもいい事を何故、ここまで熱を入れ話すのだろうか?
「ちゃんと聞いて下さい! 俺はいつも感情のままに行動できたらって考えていたんですよ。だから先ほどのあなたの台詞に痺れた訳で」
「ねえ、ゴリ……」
相手をするのが面倒になってきたので、俺はゴリへ話を振った。
「あ、何?」
「おまえ、何であんなのに入る訳?」
「う、いや……」
「五十万も払ったんでしょ?」
「だからそれは最初だけで、あとでパーティーとかあると、また逐一金を取りやがんだよ。阿呆らしいから、俺はそれ以来行ってないんだって」
だとすれば、ゴリは五十万をドブに捨てただけのような気がする。
「今日いた女の面子見たけど、あんな程度の女しかいない訳でしょ?」
「まあ……」
「せめて入る前にひと言、相談してほしかったよ」
「済んだ事だ。もういいじゃねえかよ」
「まあ、いいけどさ……」
俺とゴリの会話を聞いて、他の二人はシーンと黙ってしまった。
「あの岩上さんって言いましたっけ?」
「ん?」
「良かったら、これからも会って色々とお話しませんか? 良ければ電話番号の交換をしたいなと思いまして……」
「あ、俺、携帯電話持っていないんだよね」
「え、その胸ポケットにある携帯は?」
「あ、これは会社から支給されているやつだから、番号教えちゃ駄目なんだよね」
「じゃあ、次に会う日にちを決めて」
「ごめん、俺、そこそこ忙しいからさ」
「じゃあ、自宅の番号でも……」
「おまえ、うるさいよ。ゴリ、帰ろうぜ」
「ん…、ああ……」
こうしてゴリの『結婚相談所事件』は幕を閉じた。
あれから二年ほどゴリの伝説的な事件は何も起きず、平和な時を過ごした。
気付けば俺たちは、二十九歳と三十路まであと一歩になっている。
一つ自分の中で変わった事といえば、再び身体を鍛えだし、七年ぶりに総合格闘技の試合へ出場した事だ。
その間の五月にジャンボ鶴田師匠が亡くなった。
この冷たい世間の中、プロレスの地位がどんどん虐げられていく。
それが黙っていられなくての復帰だった。
しかし自分一人が奮闘したところで、何一つ変わらない現実。
こんな時、ゴリとくだらない会話をすると、気分が非常に紛れた。
そんなゴリは相変わらず彼女がいない状況である。
今までのゴリが起こした女絡みの件を頭の中で整理してみた。
『雪の振る中四時間待ちぼうけ事件』……。
通勤時、同じ電車に乗ってくる女をひょっとして自分に気があるんじゃなかと思い違いから始まった悲劇である。
男らしくアタックしたはいいが、雪の中で四時間も待たされた挙句すっぽかしを食らう。
『横田ルミ子事件』……。
中学一年の時同じクラスだった彼女。
たまたま廊下を通り掛かったところを横田の友達が、「ゴリさん、通ったよ」のひと言で惚れていると勘違い。
しかもそれを十九歳になって、中一の事を蒸し返す。
俺が電話で彼女を誘ったまではいいが、次の日しつこく電話して断られた。
『垂直落下式ブレンバスター事件』……。
まあ、これはゴリのフラれ話とは少し違うな。
『バレリーナ事件』……。
レストランで働く大曽根奈美にひと目惚れ。
俺まで付き合わせ協力させるが、本人目の前にすると何も言えずじまい。
あとになって勝手に電話を掛けまくり、ジ・エンド。
『パーティーのあとイノキにアタック事件』……。
これは場の流れでしょうがなかったのだろう。
『結婚相談所事件』……。
思い出す必要もないな。
これ以外にも、所沢の三人娘の件など数えればキリがない。
様々な動きを見せてきたものの、彼は未だ彼女ができていなかった。
ゴリに彼女ができない問題点はどこだろう?
顔が悪いとか性格が駄目とかひとまず置いといて、どうすればいいのか考えてみる。
一番簡単なのは、真面目に仕事して金を貯める事。
これが一番の近道だが、彼は同じ業種を三回も転々としていた。
一番初めの凸版印刷でずっと頑張っていれば、今頃給料も待遇も良かっただろうに……。
まあ辞めてしまったものを振り返っても仕方がない。
ここまで彼に関わってきた。
俺はどうしてもゴリに彼女を作らせたいという気持ちが潜在意識の中にあるのだろう。
久しぶりの日曜休みに、そんなくだらない事を考えていると、ゴリから電話があった。
「あ、岩上さ。俺、DVDプレイヤー買ったんだけど、よく接続の仕方が分からないんだよ。ちょっと家まで来てくれないかな?」
「簡単だよ。ビデオの端子あるでしょ?」
「口で言われたんじゃ分からないって。とにかく来てくれよ」
「しょうがねえなあ」
俺はブツブツ言いながらも、ゴリの家へ向かった。
ゴリの家へ入るのは久しぶりである。
ひょっとしたら、垂直落下式ブレンバスターをした以来かもしれない。
玄関先まで迎えに来るゴリ。
「おう、よく来たな。まあ上がりなよ」
居間まで案内されると、ゴリの母親である『ゴリママ』もいた。
「あら、いらっしゃい」
「あ、お邪魔します」
ゴリが言うには、このゴリママはよく俺の事を「本当に岩上君は変わっているわね」と口癖のように言っているらしい。
この男は自分の母親に、俺の事を何と説明しているのか。
「何、ゴリ。プレイヤー取り付けるの、居間のテレビでいいの? 部屋じゃなくて」
「ああ、ここでいい」
俺はゴリの耳元で、「いいのか? ここだと、エロDVD見れないだろ?」と囁く。
「いいんだよ。お袋もパートで出掛ける事多いから」
「いいのか、それで?」
「ああ、いいんだよ。お袋の金で買ったんだし」
「そ、そっか……」
取り付けを始める事にした。
端子を繋げばいいだけなので、すぐに終わる。
「こんな簡単なんだ?」
「だから言ったじゃん、電話で」
「ちょっとこの映画見れるかやってみて」
俺はリモコンの説明をしながら、色々と教える。
元々来た時間が夕方だったので、いい時間になっていた。
その時お盆に夜食を乗せたゴリママが来て「はい、勉君」と言いながらテーブルの上に置く。
ゴリは、「ああ」とだけ言い、無言でそのままご飯を食べ始めた。
「……」
しばらくその様子を見ていたが、どうやら俺の分の食事はなさそうだ……。
常識的に考えて、お世辞でも普通は「岩上君、食べてく?」ぐらい聞いてもいいんじゃないだろうか?
俺の考えが間違っているのか?
いや、今回に限っては岩崎家からわざわざ来てくれと呼ばれているのだ。
俺の分くらい用意してなきゃ変だろ。
もし俺のところにゴリが来た場合、腹が減って食事する時はもちろん彼の分まで出す。
ゴリもゴリである。
俺を目の前にしているのに何も気付かず、しかも今日に限って言えばわざわざプレイヤーの取り付けで呼び出されたのである。
少しぐらい「こいつの飯は?」ぐらい言ってくれても良さそうなものではないだろうか。
いや、親も親なら子も子……。
彼の駄目っぷりは、親から受け継いでいるのかもしれない。
さすがにこの場に居づらくなり、「俺、そろそろ帰るよ」と立ち上がった。
「あ、ちょっと待ってよ。もうじき食べ終わるから」
「……」
この男はこんな台詞しか出ないのだろうか……。
だとすれば、人として非常に悲しいものがある。
「ちょっと待ってて、一緒にコーヒー飲みに行こうぜ」
「……」
いや、こっちは腹減ってんだけど……。
今さら何を言っても、彼には伝わらないだろう。
俺は諦め、ゴリが食事を済ますのを待った。
ゴリと近所のファミリーレストランへ行く。
俺が食べ物のオーダーをすると、「何だ、岩上、腹減ってたの?」と涼しい顔で聞いてくる。
「何も食ってないからな」と、嫌味っぽく言うと「俺はコーヒーだけでいいや」と悪びれる様子もない。
注文した品が届き食事をしていると、ゴリはニヤリとしながら一枚のプリクラをテーブルの上に置いた。
「何これ?」
「よく見てみろよ」
「……!」
俺は、自分の見たものが信じられなかった。
何とそのプリクラには、ゴリと女が一緒に写っていたのだ。
仲良さそうに肩を組んで写っているものもある……。
「へへへ……」
「何だよ、これ? いつ撮ったんだよ? 誰、この子?」
「おいおい、聖徳太子じゃないんだから、質問は一つずつにしてくれよ」
何故か余裕ぶっているゴリに殺意を覚えた。
ゴリの家で帰ろうとしたのを無理に引き止めたのは、これを俺に見せたかったのだ。
「じゃあ、聞くけど、この子は誰?」
「あ、俺の彼女に決まってんじゃん」
「え、いつの間に……」
「まあ、一昨日だな」
「どこの子よ?」
「今の会社で一緒に働いている子なんだけどさ」
「何歳なの?」
「何歳に見える?」
「ちょっと下ぐらい?」
「いや、うちらより一つ上なんだよ」
「って事は三十か」
「見えないだろ?」
「ああ……」
「可愛いだろ?」
「ま、まあ、そうだね……」
よく見れば、ごく普通の顔立ちである。
しかしゴリと楽しそうにプリクラを撮る女なので、何故か非常に綺麗に見えた。
「何だよ、ちゃんと言えよ」
「ああ、可愛いんじゃないの」
「だろ?」
「やったの?」
「当たり前じゃねえか」
知らない内にあのゴリがここまで進んでいたなんて……。
「同じ会社って事は、OLなんだ。まだ独身なんでしょ?それともバツイチ?」
「いや、人妻なんだけどさ」
「ふ~ん……。えっ! 何だって?」
「まだ人妻なんだけど、まあ俺にぞっこんだからさ」
「あ、あの……」
「よく今の旦那の悪口を聞くんだ。だから今度、家まで行ってさ、ひと言ガツンって何か言ってやろうかなと思ってんだよ」
「いや、あのさ……」
こいつ、自分でとんでもない事を言っているのを気付いているのか?
「ん? 何だよ。人が気持ちよく話しているのに」
「それはさすがにやめとけよ」
俺は心の底から心配して言った。
「何で? 男ってのは、やらなきゃいけない時ってあるだろ?」
「いや、そういう事じゃない。そんな事してみろ。おまえ、莫大な金を取られるだけだぞ?」
「だから、俺は……」
「とりあえず落ち着け、な?」
「充分落ち着いているよ」
「いや、そうじゃなくてさ。落ち着いて俺の話を聞け。別に俺は何も浮気が悪いだなんて崇高な事を言うつもりはない」
「ふざけんなって。おまえ、俺にヤキモチでも焼いてんのか? 俺のは浮気じゃねえよ」
「じゃあ、何だって言うんだ?」
「れっきとした恋愛だよ、恋愛。お互い相思相愛ってやつかな」
「言いたい事は分かる。そうじゃなきゃ、こうはならないからな。でもさ、落ち着いてきいてくれよ。いくら相思相愛でも相手が人妻な以上、これは誰がどう見ても浮気なんだ」
「何だよ、空気の読めない奴だな」
「読めなくてもいいよ。俺が言いたいのはさ、旦那のところへ怒鳴り込むなんて息巻いているけど、それだけはやめろって言いたいだけ」
「うるせえな。そこまで言うならやめといてやるよ」
この男、人が心配で言っているのに何て言い草だ……。
このあとゴリは、永遠と自分の自慢話を夜中までした。
ゴリの浮気発覚から、一週間が過ぎた。
彼の初の彼女…、いや、彼女と呼んでいいのだろうか
何はともあれ、人並みの幸せを初めて味わった事には違いない。
そういう意味では、良かったと感じる。
それにしても、物好きな女もいたもんだ……。
朝から俺は競馬新聞を読みながら予想していた。
平の一レースから予想を立てている内に、ひょっとしたら今日はバンバン当たるんじゃないだろうかという錯覚にとらわれてくる。
今日は休みで家にいたので、馬券を買うのが難しい。
今から新宿へ向かってもいいが、それも面倒だ。
そんな訳でゴリを場外競馬売場まで誘う事にした。
彼も多少は競馬をやるのだ。
「あ、ゴリ。今日って暇?」
「何で?」
「競馬を予想している内に、どうしても買いたくなっちゃってね」
「おう、奇遇だね。俺もこれから立川に、馬券買いに行こうと思っていたんだよ」
「じゃあ、一緒に乗っけてってよ」
「別に構わないよ」
「今日は例の人妻と一緒じゃないの?」
「人妻なんて呼び方するなよ」
「他に何て呼べばいいんだよ?」
「『美穂』って名前だから、美穂さんとか言えばいいよ。俺は『ミポリン』って呼んでいるけどね。ほら、『中山美穂』に似てるだろ?」
あの時プリクラを見ただけだが、どう考えても似ていなかった。
人間のぼせ上がると、怖い台詞を普通に言えるものなのか。
俺も気をつけないと。
「それって名前だけじゃん……」
「そんな事言うと、迎えに行かないからな」
「分かったよ。で、そのミポリンさんとは今日会わないの?」
「今日はさすがに家にいないとマズいらしいんだ。あとで電話するとは言ってたけどね」
「できれば一レースからやりたいから、早めに迎えに来てよ」
「分かった。すぐ家を出るよ」
今日の休みはゴリと一緒に立川競馬場へ。
行く途中、ゴリののろけ話を散々聞かされるのは勘弁だが、一人で行くよりはいい。
競馬新聞を片手にゴリの車へ乗り込み、俺は何度もレースデータを見直した。
「おいおい、そんなしけた新聞なんて見てないで、俺の話を聞けよ」と上機嫌のゴリ。
「何だよ?」
「いや~、今週も一回会ってさ、またホテルへ行ってバコバコだよ」
「いいよ、そんな話…。特に聞きたくもない」
「冷てえ野郎だな~。人がどれだけ幸せかっていうのを聞かせてやろうと思ってんのに」
「そういうのをのろけって言うの。第三者からしてみれば、聞きたくないの当然でしょ」
「俺が初めて彼女作ったもんだから、ヤキモチ焼いてんだろ?」
「あのさ……」
「あ、ちょっと待って。ミポリンから電話だ。話し掛けるなよ」
話を遮り、ゴリは満面の笑みを浮かべながら人妻からの電話を取った。
まったく自分勝手な奴だ。
俺は放っておく事にして競馬予想に集中した。
一体、この男はどれだけ話せば気が済むのだろうか?
隣に助手席で俺がいるというのに、さっきから五十分ほどニヤニヤしながら電話をしていた。
普通なら「今、横に友達いるから」と手短に用件だけ言って済ませればいいものを……。
完全に俺が横にいるなんて頭の中から忘れているのだろう。
「そうそう…。でね、俺的にはやっぱこう思うんだよね。メンチカツに醤油を掛けて食べても、それはそれでいいんじゃないだろうかとね。うん、そうそう。人それぞれ、価値観は違うだろうし、俺は俺だもん。ミポリンも自分の考えってあると思うしさ。うんうん。あ、それでね……」
さっきからずっとこんな調子で、どうでもいい話を延々と繰り返している。
もうじき一時間が過ぎようという頃、ゴリの声のトーンが下がってきた。
「え……。あ、ああ…。でもさ…、まあそうかもしれないけど……。え、ん…、ああ……。それにしたってさ…、えっ? まあ言いたい事は分かるよ? でもさ……」
俺は競馬新聞を読みながら、聞き耳を立てていた。
「えー、ちょっとそれは無いんじゃないの? うん、それは分かるけど……。うん。ああ、そうだけどさ…。ああ……。うん、分かった……」
一時間が経過して、ようやく電話を終えるゴリ。
左手で携帯電話を握り締めたまま、この世の終わりとでもいうような暗い顔をしている。
傍から見ていて、今の電話でフラれたんだなと分かった。
いつもの見慣れた光景。
いつものゴリ。
そう、それが今回だけたまたま何か運命の歯車が狂い、十日ほど神様が幸せな時間を与えてくれていただけなのだ。
ゴリはひと言も発しないまま、黙々と車を運転していた。
もうじき立川に到着する。
「おい、ゴリ」
さすがに見ていられないので、横から声を掛けた。
「ん?」
「今日は俺の予想に全部乗れ。ひと通り、全レース馬連三点で予想したから、全部俺の予想通り買えよ。絶対に当ててやるからさ」
「ん…、ああ……」
「何だよ、暗いな」
「ああ…、突然終わりにしようってさ……。いきなりあんなのありかよ……」
そう言ってゴリはうな垂れた。
「おいおい、ちゃんと前見て運転しろって」
「あ、ああ……」
「まあ、しょうがないよ。相手は人妻だ。そういう場合もあるよ」
「でもさ、俺たちあんなに愛し合ったんだぜ?」
どれだけ愛し合ったかは分からない。
しかしそれをいくら力説したところで、向こうが終わりと言っているのだから、ゴリは受け入れるしかないのだ。
「気持ちは分かるよ」
「最初はあんなに楽しそうに話をしていたのによ」
そう、俺を一時間も放置した状態でな。
多分、天罰だ。
「向こうも何か都合があるんだろうよ」
「それにしたってよ。あれだけ愛し合い、俺は向こうの旦那にも怒鳴り込んでやろうってぐらい意気込んでいたのに……」
何を言おうが、たった十日しか会っていないのである。
それに実際に会った回数は二回ぐらいだろうか?
それをいかにも自分の女扱いしては駄目だろう。
相手は人妻なのだから。
「いや、だからそれはマズいって」
「ん…、ああ……」
おそらく俺の考えでは、相手のミポリンとかいう人妻は遊び慣れた人間で、ゴリのような素人童貞タイプを弄んでみたかったんじゃないだろうか。
弄んだはいいが、案の定ゴリが一気にハマりだしたので、これは危ないと思って急遽別れを告げたと……。
「まあとにかく立川に着いたら、俺の予想通り、マークシートを塗り潰しな」
「ああ……」
少しして俺たちは立川の場外馬券売場へ到着した。
俺の指示通り、マークシートを塗り潰していくゴリ。
俺のマークシートと違う部分は賭ける金額だけだ。
俺は各三千円ずつ購入していたので、一レース三点で九千円。
それを十二レース分だから、純粋に十万八千円掛かっている。
ゴリは各五百円ずつなので一万八千円。
一レースが惜しくも外れ、二レース、三レースと立て続けに外れる。
「何だよ、全然おまえの予想、当たらないじゃないかよ」
「そんなのしょうがねえじゃねえか。すべて当たってたら、誰も仕事なんかしてねえよ。まだたった三レースだろ。もうちょっと我慢しろよ」
「もう四分の一消化だぞ」
「いいから見てなって」
続いて四レースが始まる。
ここでドラマチックな結果が生まれた。
三点予想の一番倍率の高い二頭が、鼻差でゴール前に突っ込んできたのだ。
俺とゴリのその時の興奮といったら、言葉じゃ言い表しようのないものだった。
ついた倍率は七十八倍である。
互いに飛び上がって喜び、ゴリから先ほどフラれたショックなど微塵も感じなかった。
「やったー、やったよ。俺、こんなすごいの当てたの初めてだよ」
いや、ゴリが当てた訳じゃなく、ただ単に俺の予想に乗っただけでしょと言いたかったが、野暮な事はやめておく。
ゴリは五百円買っているから、七十八倍で三万九千円。
馬券を機械に入れ、現金を手にすると「やったよ!」とはしゃいでいる。
こちらは三千円買っているのだ。
計算すると、二十三万四千円になる。
「へ、その程度で浮かれやがって。ゴリとは違うのだよ、ゴリとは」
俺は意気揚々と馬券を入れた。
『この投票券は的中しておりません』
機械の音声が聞こえてくる。
「へ?」
もう一度入れ直してみた。
『この投票権は的中しておりません』
「……」
そんな馬鹿な。
何度入れても機械は金を吐き出してくれない。
馬券を手に取り、じっくり見てみる。
「そ、そんな……」
本来なら二十三万円以上に化けるはずだった肝心な自分の馬券。
マークシートのつけ間違いで一つ違う番号になっていた……。
ゴリでもしないような凡ミスをしてしまった俺。
とて自己嫌悪に陥り、錯乱しそうになる。
何故、あの時ちゃんと確認しなかったのだ?
後悔してもしきれない自分がいた。
落ち込むだけ落ち込むと、そばで無邪気にはしゃいでいるゴリを見て苛立ちを覚える。
「人がこんな無様な負け方をしているのに、おまえはよくそこまではしゃげるな!」
「だって嬉しいもんは嬉しいじゃねえかよ」
「さっきまでフラれて泣きそうだったくせに」
「勝っちまえば何だっていいよ」
「おまえ、目の前のピンサロぐらい奢れよな」
「ああ、お安い御用だ」
余裕のあるゴリを見ていると、何故かイラっとする自分がいた。
『只今の時間 四千円』
デカデカと書かれた料金の看板。
俺とゴリは、今ピンサロの前にいた。
俺の予想で三万九千円の金を手にした彼は、大喜びで店へ入っていく。
「早く来いよ。金は出すからよ」
ここまで太っ腹なゴリを見るのは初めてだった。
薄暗い店内の中を歩き、各自別々の席へ案内される。
俺が手前の席で、ゴリは少し離れた前のほうの席に座った。
俺からはゴリの後ろ姿が見える位置である。
それぞれピンサロ嬢がつき、他愛ない会話が始まった。
俺の席についた子は、ロングヘアーの似合う綺麗な子だった。
競馬があのような結果になったとはいえ、こんな子がついてとてもラッキーである。
「お兄さん、今日は競馬?」
「まあね」
「浮かない顔をしてるけど、外れちゃったの?」
「外れたといえばそうなんだけどさ。聞いてくれる?」
俺は先ほどの手短に悲劇を話した。
「あらー、それは残念ねー」
「でしょ? まったくあそこにいるの俺の連れなんだけどさ、あいつだけはしゃぎやがってさ。嫌になっちゃうよ」
「それはそうでしょ」
「さっきまで女にフラれて泣きそうになってたんだぜ」
「えー、そうなの?」
「そうそう」
つい彼女との会話が弾みだし、ゴリ話になってしまう。
「あのさ、話が盛り上がっているところ悪いんだけど、そろそろズボン脱がないと。じゃないと時間なくなっちゃうよ?」
こんな子に口でくわえてもらったら幸せなのは分かる。
しかし今、それ以上にゴリの事を語りたかった。
「う~ん、今日はそんな気分でもないし、このまま話ししようよ。駄目かな?」
「えー? そんなお客さんって初めて見たよ、俺」
「ちゃんとしないとお店に怒られちゃう?」
「ううん、そんな事ないけど」
「じゃあ、純粋に君と話しがしたいな」
「何か照れちゃうな」
「良かったら今度、一緒に食事でも行こうか?」
「えー」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないけどさ……」
俺とピンサロ嬢は別の意味で盛り上がっていたが、ついゴリが気になった。
彼の後ろ姿を見ると、しっかりくわえてもらっているようだ。
「良かったら連絡先の交換しようよ」
「う、うん」
少しして時間が来る。
俺は彼女の書いてくれた電話番号の紙を財布にしまうと、店をあとにした。
ちょっとしてゴリも出てくる。
「どうだった?」
「いやー、なかなかテクニックあって、すぐにいっちゃったよ」
「そっか。じゃあ、そろそろ帰るか」
「え、あとのレースを見てかないの?」
「明日、新聞でも読めればいいよ。もし他のレースが当たってても、新宿にだってJRAあるし、いつでも換金できるからね」
「まあそうだけどさ」
「おまえもいい気分転換になったんだろ?」
「まあね。でもやっぱ心にまだしこりはあるよ」
「それはしょうがないよ。帰り道うまいもんでも食って帰ろうぜ」
「そうだな」
こうして俺たちは立川をあとにした。
無言で車を走らせるゴリは、信号で一旦停車する。
ふいに俺の股間辺りに左手が伸びてきた。
「ほれ、一速。二速……」
「いきなり何しやがんだよ!」
俺の股間を握ろうとしたゴリの手を払いのける。
「いてーなー……」
「女が駄目だから、とうとう男に目覚めやがったのか?」
「冗談に決まってんだろ、エヘヘ……」
「どうしようもねー馬鹿だ」
まあどんな形にせよ、いつものゴリに戻ったようだ。
先日の競馬から二日経ち、ゴリから電話があった。
「ん、どうした?」
「岩上、何かさ、小便すると先っちょが痛いんだよ」
俺は、たまたま飲んでいたコーヒーをつい噴き出してしまった。
「岩上、何、笑ってんだよ?」
「何おまえ、あの店で淋病移されたの? それとも人妻からか?」
「しょうがねえだろ。痛えもんは痛えんだよ」
ゴリの運の無さと言ったら、ある意味世界最強かもしれない。
たった一日で女にフラれ、競馬に当たりピンサロへ。
しかしついた女が病気持ち……。
「じゃあ、埼玉医大にでも行きな。泌尿科っていうのがあるはずだから。そこで抗生物質の注射打ってもらわないと、腐って使い物にならなくなるぞ」
「嘘だろ?」
「本当だよ。淋病って放っておくとヤバいんだぞ」
「痛いかな?」
「知らないよ。そんなところに注射なんかした事ないし」
「参ったなあ~。あの店め」
「でもさ、ピンサロって言うよりさ、あの人妻が病気持っていたって事はない?」
ゴリと寝るような物好きな人妻である。
性行為の対象相手が、他にもたくさんいると考えるのが自然だ。
「う~ん、分からない」
「もし人妻が持っていたならさ、あの店はヤバいね。元々ゴリが淋病になっているところをあの店の女に移した訳だし。もし、違うならあの店自体ヤバいね」
そ考えると電話番号を教えてくれたピンサロ嬢も、ヤバい可能性がある訳だ。
俺は財布から番号の書いてある紙を取り出し、灰皿の上で燃やした。
「まあ、とにかく明日にでも病院へ行ってみるよ」
「ああ、そうしたほうがいい」
こうして『幻の初彼女事件』は幕を閉じた。
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