2025/01/23 thu
前回の章
「岩ちゃん、パソコンでティッシュに入れるチラシのデザインやっといてくれや」
楊が当たり前のように命令してくる。
「はあ?」
「パソコン得意て自分で言うてたやないか。できるやろ?」
コイツ、頭大丈夫か?
そもそもこのノートパソコンといい、すべて俺が自分のを職場へ持ってきているだけだ。
何で時給千円でこんな事まで、自前のパソコンを使ってやらなければならないのか?
こういうところは裏ビデオ屋『メロン』の北中とそっくりだ。
本当にここも潮時だな……。
あまりにも前のデザインがダサかったので、仕方なく作る。
上は、これを作っても、当たり前って顔をしているんだろうけどね。
こういう細かい事だって業者に頼んだら、毎回お金が掛かるって事をいい加減分かってほしい。
入口のインターホンが鳴る。
スキンヘッドで中肉中背の男が映った。
あれ、これって村上さんじゃないのか?
俺はドアを開ける。
「岩上さん、どうも」
「いらっしゃいませ、村上さん」
「すぐ行こうと思ったんだけど、すみません。時間作るの遅れちゃって」
「いえいえ、顔を見せてくれただけで嬉しいですよ」
彼を席まで案内しながら笑顔で会話をする。
「あ、ここポーカー無いんだっけ! んー、じゃあこれだけ入れて下さい」
「はい、三卓様マイクロ千ドル。三卓様マイクロ千ドル、お願いします」
ドリンクを作り持っていくと、早速村上が話し掛けてくる。
「前向きに考えるって言ってたじゃないですか? 本当に来てくれます?」
酒井さんとの食事があって話を聞いてからにしたかったけど、もうこの店にいるのは限界だった。
先日のここのオーナーの態度。
あれはどうしても許せない屈辱だった。
俺のおかげでどれだけ客が入り、どれだけの売上ができたと思っているのだ?
「何だ、コイツ……」
人の顔に向かって指をさすような人間だ。
こんなところ、少しでも早く辞めたい。
新井社長は人当たりはいいが、かなり適当で自分の発言に責任感がまるで無い。
そして仕事を舐めている。
楊は上には媚びへつらい、下には理不尽な塊の偏屈男。
坂本にしても、楊の劣化コピーのようなゴミ人間。
下手したら『牙狼GARO』よりも酷い環境である。
それなら未知数であるが、俺をこうして買ってくれている村上の元で、裏スロット屋をやったほうが、絶対にマシだろう。
もうじき四月も終わる。
明日からゴールデンウイークだ。
月に百万円以上稼げるなら、連絡が無くなったあかりへ、また堂々と行ける。
一度関係のあった池田由香と、うまくいってもいい。
「岩上さん? 岩上さん? どうしたんですか? ここじゃ、この話さすがにマズかったすよね。すみません」
「村上さん、今日朝の十時に仕事終わるんで、それから連絡という形でもいいですか?」
「それは、前向きにという風に取ってもいいんですね?」
「……。はい、もちろんです……」
これで俺はここを辞め、村上のところへ行くと言ってしまったようなものだ。
できれば仕事終わりまでに酒井さんから連絡が来てなんて、都合いい方向で考えていた。
村上が帰ると、俺は新井社長が出勤するのを待って退職を願い出る。
必死に引き止める社長。
楊までもが驚き、止めようとした。
「辞めて何をすんのや?」
「知り合いから名義をしてくれと頼まれています。なので、できれば早めに辞めたいのですが……」
「もうちょっと待っとくれんか、岩ちゃん」
「急なのは承知なのですが、先方も困っている状況でして……」
「岩ちゃん、あのな…、世の中そんな旨い話なんて、そうそう無いで?」
楊が口を挟んでくる。
おまえと違って俺を必要としてくれるところはあるんだよ…、そう言いたいのを我慢した。
俺の成果を誤魔化してばかりいるからだ。
こんな屑共に辞めるのを惜しまれたところで、まったく嬉しくなかった。
仕事終わり、入江から飲みに誘われる。
これから村上へ連絡しなきゃならないので、丁重に断った。
「岩ちゃん、ここ辞めたら淋しくなるのう。これまで仲良くなってこれたけんね」
「まあ今すぐ辞めるって訳じゃないし、入江さんとは、どうなっても付き合いは続きますって。今日は先方との約束あって都合悪いだけで、明日以降なら全然付き合いますから」
彼には本音で気持ちを話した。
俺が再びこの街へ復帰して九ヶ月半が経とうとしている。
『牙狼GARO』では伊達と渡辺。
『8エイト』では入江のみ。
仕事関係無くプライベートでもつるめる人間は、たった三人だけ。
裏稼業で働く奴なんて、本当にロクな人間がいない。
初期の裏稼業時代を振り返ってみろ。
未だ連絡がつくのは『チャンプ』の有路、そして『ワールドワン』時代なら島村、鈴木。
裏ビデオ時代は長谷川くらいだが、彼は現在刑務所へ服役している途中。
思い出せない奴がいるほど、たくさんの従業員たちと出会ってきた。
それでもたった三人だ。
裏稼業なんて俺も含め、所詮掃き溜めの集まり……。
唯一いい部分を挙げるなら、人を騙すような奴は少なかった。
むしろ表社会のほうが、酷い奴がいたくらいだ。
今度裏表合わせた今まで会った酷い奴ランキングベストテンとか作ってみるか……。
いやいや、早く村上へ電話を掛けなきゃ。
ついつい脱線するのが、俺の悪い癖だ。
西武新宿駅前通りへ来てから、電話をした。
『8エイト』関係の人間には、あまり聞かれたくない内容だからである。
「あ、岩上さん、どうも」
「すみません、お待たせしちゃって」
「いえいえ、それで岩上さん、裏スロの名義は大丈夫なんでしょ?」
「……。はい! 問題ありません。ただ、自分は裏スロ自体初めてだし、パチンコ屋行ってもスロットやらないんですよ。そんなんで、お役に立てるかどうか……」
「俺はね、岩上さんの接客スキルや人間性を買っているんです。スロットに関しては追々で構いませんから。詳しい奴ちゃんとつけますんで」
「お気遣いありがとうございます」
「それで明日からゴールデンウィークに入っちゃうじゃないですか」
「ええ」
「明けた頃、戸籍謄本、住民票など用意しといてもらいたいんですよね。あの店いつ頃辞められそうですか?」
「さっき退職したいという旨は伝えたので、早めにとは言ってあります」
「分かりました。じゃあ連休明けにまた話しましょう」
とうとうまた新しい生活が、これから始まろうとしている。
世間一般は明日から大型連休の始まり。
うちら日陰者は無関係。
群馬の先生に表舞台を歩けと言われた頃を懐かしく思う。
実際に俺は言われた通り歩いた。
しかし待っていたのは、茨の道だらけだった。
真面目にしているのに極貧生活。
タバコ代すら気にするような生活なんて、二度とごめんだ。
京子伯母さんには金を返せないまま亡くなってしまい、南大塚の伯父さんだって未だ八万円を返せていない。
総合格闘技の試合へ復帰する時だから二千八年。
今が二千十二年だから、四年以上も不義理をしている。
村上の裏スロで成り上がり、とりあえずこれまでを帳消しにしたかった。
金金と言う訳ではない。
ただ食うに困るような生活など絶対にもう嫌だ。
前回『8エイト』を飛び出した時を思い出せ。
双子のゆかの前で、みっともなく人目憚らず泣いた。
働いているのに、あんな情けない真似などもう嫌だ。
今度ゆかには、何か美味しいものをご馳走してやらないとな。
新井社長からは、せめて連休中までは店に出て欲しいと懇願された。
どうせ辞めるのだから、楊とは別の番にしてほしいと我儘を言ってみる。
「松尾と交代で、岩ちゃんは早番くればいいっちゃよ」
社長の鶴の一声で俺はゴールデンウィーク中、早番勤務になる。
こうして早番の面子は俺と新井社長、そして山下となった。
実質俺と山下で、早番を回す事になるだろう。
しかしそれも一週間程度で終わり。
そこから俺は新天地へと羽ばたく。
俺はこれまでたくさん騙されてきた。
そろそろ自身の理を考えながら動いてもいい。
遅番から早番への時間調整の為、降って湧いた休み。
月末でちょうど給料も出たので、社交辞令にならないよう地元川越のコロボックル真紀美へ、飲みに行かないか誘ってみる。
仕事で夜からなら大丈夫と了承をもらう。
場所は行きつけの天下鶏。
暇を持て余したので、先輩の神田さんのゲームセンターへ行き、時間を潰す。
五時で神田さんは仕事が終わるので、食事のあと軽く飲まないかと天下鶏へ誘ってみた。
二人で飲んでいると入口に小人のシルエットが見える。
コロボックル真紀美だった。
神田さんは突然現れた真紀美を俺の彼女と勘違いしたようで「あとはお二人でごゆっくり」と五千円札を置いて先に帰ってしまう。
彼女でも何でもないと何度も説明したが、幸せになってよ的な笑みを浮かべながら消える。
そもそも真紀美は人妻なのに……。
「優しそうな先輩だねー」
「いつも神田さんにはお世話になっていて、頭が上がらない先輩の一人ですね」
「そういえば智君は連々会、私が雀會だから、連々と雀の混合飲み会だね」
真紀美はこのような飲み会の輪を広げて行きたいと言う。
同じ川越祭りの町内でも、お囃子連の雀會と、山車を引く集団の連々会では組織形態もメンバーも全然違う。
格でいえば栗原名誉会長が作った雀會のほうが断然上である。
二代目会長に俺の親父が就任し、三代目はチビの高橋さんが務めていた。
もう数年で四代目会長となるが、候補者として以前知子のスナックでバッタリ会った副会長のタンベさんか、真紀美の旦那である快治さんのどちらかになる予定だそうだ。
日頃働きながら、男三兄弟の息子たちの面倒を見ながら生活に追われる彼女。
家族には言えないストレスもたくさんあるのだろう。
真紀美との会話を楽しく思う自分がいた。
こうして異性と普通に飲んで話すような事を俺は久しくしていなかったのだ。
もちろん俺は男なので、会計はすべて出しご馳走する。
そういった事に慣れていない真紀美は、割り勘でとしつこかったが、強引に奢った。
気遣いのできる彼女は、翌日俺の吸うタバコ、セブンスターを何個も買ってプレゼントしてくれる。
このような気遣いの仕方をされたのは、人生で初めてだった。
感動すら覚える。
和裁もできて、以前俺の祭り用の着物も縫い直してくれた。
尊敬の念を抱ける女性は、本当に数少ない。
同世代なら尚更である。
次回も時間を合わせて是非飲みたいと伝えた。
同じ町内で先輩の嫁だから、さすがに手は出せないが、こういう子と付き合っていたら、俺もさぞかし幸せだったのかなと感じた。
旦那である快治さんを羨ましく思う。
眼鏡屋の家業をそのまま親からバトンタッチされ、地元で生活して美人の嫁さんをもらい、子宝三人も恵まれているのだ。
俺の家とは大違いである。
いや、むしろ俺以外の家が普通なんだ……。
「先生ね、一人でこの整体開けてさ、小説だって賞取って、こう本になっている。俺だってそうだけと先生の施術が好きで、ここへ来る患者だってたくさん見てる。でも先生はもうここを辞めて、格闘技のほうへ行っちゃう……」
岩上整体時代、熱心に通ってくれた銀行員の渡辺信さんの台詞を思い出す。
「あんたね、普通じゃない事やってんだよ! だから俺だけでなく色々な人が先生のところへ集まってる。それを辞めて好きな格闘技へ行くんだろ? 何で全然嬉しそうじゃないんだよ!」
あの時俺は、思わず泣いてしまった。
あの人、本当にいい人だったよな……。
元気でやっているのかな?
何だかまた会いたいなあ……。
トヨタの主幹だった中原さんもそう。
あれだけ俺を贔屓にしてくれたのに、裏切る形で岩上整体を閉めた。
あのクソヤクザ内野正人のせいで……。
いや、違う。
いい加減人のせいにするなよ。
俺が甘くて馬鹿だったから。
整体の家賃を払う金までヤクザに貸す馬鹿なんて、世の中俺一人くらいだろう。
本当に行き詰まり、だからまたあの時リングへ上がろうと七年半ぶりに復帰した。
本を出版した四日後に、総合格闘技のメインで戦う。
マスコミは話題になると食いつき、あの時だけは様々な人が群がった。
しかし結論はどうだ?
家賃を払えないから焦ってリングの上がるとサイトして、足元を見られてファイトマネーはたった三万円。
しかも試合にまで負け、それから俺の人生は坂道を転がるように転落した。
だからみんな、俺に呆れて離れていった。
印税も未だ払われず、寄ってくるのは俺を利用とする変な人間だけ。
思えば古木が持ちかけてきた三角関係の相談。
あの辺から本当に運気がおかしくなったような気がする。
挙句の果て影原美優に惚れ、彼女からフラれるという無様な俺。
家の中ではどうだ。
クソみたいな扱いしか受けていない。
心なんて何度も切り刻まれズタズタだ。
川越は生まれ育った場所。
だが、もうここは俺の居場所ではないのかもしれない……。
早番の生活が始まり、夜と昼が逆転する。
朝の十時から夜の十時までの十二時間。
昼間は暇な時間が多いし、楊のような偏屈がいないので、本当に気楽だ。
「岩上さんてパソコンのスキル凄いじゃないですか」
山下が話し掛けてくる。
俺をパソコンのエキスパートだと勝手に勘違いしているようだ。
「いやいや、俺よりもパソコンが達者な人間など五万といますよ」
「でも岩上さん、ホームページとか作れますよね?」
「まあそれくらいなら……」
「自分、いいアイデアがあるんですよ! 岩上さんと自分が組めば、いい金儲けできますよ?」
妙にハイテンションな山下。
俺は暇な時間を利用して、パソコンで絵の続きを描きたかったのに、彼のおかげで何もできない。
「まずですね…、ここから先を見るには登録料三千円掛かりますみたいなサイトを作って欲しいんですよ」
「え? そんなもの作ってあとはどうするんです?」
「それでおしまいです」
「はあ?」
「興味本位な人たちは三千円払い、それを俺たちで山分けして終わりです」
「……」
コイツ、極度の馬鹿だったのか……。
開いた口が塞がらない。
「あれ? どうしたんですか、岩上さん」
「仮にそんなもの作ったところで、誰が金を払うんです?」
「世の中の馬鹿な連中ですよ」
「逆に聞きますよ? 山下さんがそんなサイト見掛けて、中へ入るにはとりあえず三千円払って下さいって書いてあったら、金を払うんですか?」
「何言ってんですか、岩上さん! そんな怪しいサイトに誰が金を払いますか」
「……」
あまりコイツとは会話しないほうがいいな……。
「だからとりあえず岩上さんは、そのサイトを作ってもらって……」
「山下さん、詐欺罪で捕まりますよ?」
「え、何でですか?」
頭がおかしくなりそうなので、話題を変えた。
このように裏稼業は馬鹿な人間が本当に多い。
楊が馬鹿五段なら、山下は馬鹿三段というところか。
仕事を終え家に帰る。
暇疲れというのもあるが、山下のくだらない会話に何度も付き合ったのが、この疲労の原因だろう。
新井社長は俺の顔を見る度、何か料理を作ってくれとうるさい。
以前なら喜んで作った。
しかしこの人は面接の時、俺に時給千五百円と謳いながら、結局蓋を開けたら千円。
坂本と松尾の金を重ねたミスで生まれた二万円を揚は俺の責任にして埋めさせた。
その一件を新井社長が知った時「次は気をつけんといかんちゃね」の一言で済ませた。
あの伝説のクソまみれ事件だってそうだ。
俺と入江で巻き散らかしたクソを掃除したのに、翌日「すまんちゃね」の一言のみ。
人間性を今では疑うようになっている。
そんな人にあえて腕を振るった料理など作りたくもない。
おそらくこの先、入江以外の人間は「ああ、昔酷い店で馬鹿な従業員ばかりだったなあ」と嫌悪感を示しながら過去を振り返るだけになるのだろう。
俺は早くこの肥溜めみたいな空間を脱出する事だけ専念すればいい。
ゆっくり睡眠を取ろう。
いい感じで寝ているところを携帯電話の音で起こされる。
今何時よ……。
時計を見ると夜中の三時。
着信は『8エイト』から。
「はい、もしもし……」
「今な、あの酒井さん来とるんや」
楊の大声が耳元で聞こえる。
コイツ、何時だと思ってんだよ……。
ん…、酒井さん?
酒井さんって、あの酒井さんか?
「え、どうしてです?」
「岩ちゃんいるかなと店に打ちに来たけど、いないから今日は休みか聞かれてのう」
「俺から酒井さんの携帯電話へ掛けると、伝えて下さい」
「え? 何や?」
面倒臭いので楊からの電話はそのまま切る。
すぐに酒井さんへ掛けた。
「すみません、酒井さん。岩上です」
「ああ、何だかすみませんね、こんな夜中に。早番へ行ったと聞いたので、出直そうとしたら岩上さんに連絡されてしまって」
「自分から一言伝えておけばよかったですね。わざわざご足労頂き、本当にすみませんでした」
「全然構わないですよ。明日ってお仕事ですか?」
「はい、朝十時からです」
「終わるのは夜の十時でしょうか?」
「ええ」
「それから少し食事の時間作れますか?」
「もちろん問題ありません。是非作らせて下さい」
電話を切り、再び横になる。
中途半端な時間帯に起こされた。
明日…、いや、もう今日か。
酒井さんと食事。
どう考えても仕事の誘いだろう。
しかし先日村上の裏スロの話を承諾してしまっている……。
これはしょうがないよな、村上のほうが先に話を降ってきたのだから。
正直に現状を話せばいい。
そんな事を考えている内に俺は深い眠りに包まれた。
今日も山下はホームページ云々がどうたらこうたら話し掛けてくるが、俺は適当に相槌を打つだけで、これからの事を考えていた。
ゆのゆのが来店する。
「もう岩ちゃんが早い時間になったから、この時間に来たわよー!」
「そんな気を使わなくても……」
「今日は勝負しに来たからね!」
彼女はそう言って四十万をINしてくる。
まだ二十代半ばの女の子が、こんな金を自由に動かしている現実。
四十にもなって俺は、一体何をしているのだろうか?
こんな場所で働いているから、いつまで経っても燻っているのだ。
連休明けに市役所へ行き、戸籍謄本と住民票の用意をしないと。
これで村上のところで、月百万円超えの給料をもらう。
いい意味で生まれ変わらなきゃ。
ゲーム屋『ワールドワン』時代の時と、今の俺は何も変わっていない。
仕事に対する意識は昔からのままである。
昔はそれですべてうまくいっていた。
それが今ではこの停滞楽。
時代の流れなのか?
もしくは俺自身が劣化しただけなのか?
いや、劣化はさすがに無いだろう。
そんな事を考えている内に、仕事は終了する。
俺は外へ出て酒井さんへ電話を掛けた。
花道通りと区役所通りが交差する場所、風林会館。
そこで酒井さんは待っていると言っていた。
『8エイト』からなら、五分も掛からない距離。
ホストクラブ『愛本店』の前を通ると、姫川が他のホストたちと談笑しながら立っている。
「あ、岩上さん、どうも」
「姫川さん、お疲れ様です」
「また店打ちに行きますね」
「あ、それが…、あと数日であの店辞めてしまうんですよ」
「え、何でです?」
「知り合いから店の名義を頼まれまして」
「凄いじゃないですか! 五十万はもらえるじゃないですか」
「いえ、多分その倍はもらえそうかなと……」
「いいなー! 岩上さん、今度うちへ飲みに来て下さいよー」
「姫川さんとこ、ホストクラブじゃないですか」
「じゃあ、うちも兼業でちょっとやってみたら、どうです?」
「俺はホスト? 無理に決まっているじゃないですか。それに俺は四十歳ですよ」
「いえいえ、岩上さんって、客凄い持っているじゃないですか! それって凄い財産なんですよ」
「別に客なんて持っていないですよ」
「何を言ってんですか! あの店で打ってて、どれだけ岩上さんに会いに客が来てると思ってんですか。そういうのを客を持つって言うんですよ。女性客も多そうだし、うちでも岩上さんなら大歓迎ですよ」
「嬉しいけど、お気持ちだけ頂いておきますよ」
「えー、一緒に働いたら面白いと思ったのにー」
携帯電話が鳴る。
酒井さんを待たせたままだった。
「ごめんなさい、姫川さん。これから新しい仕事の件で話し合いがあるんですよ、また」
「すみません、呼び止めちゃって」
俺はダッシュで風林会館へ向かった。
「すみませーん、酒井さん……」
短い距離とはいえ、全力で走ったので息切れがする。
「いえいえ、そんな待っていないですよ。この通りにちょっと面白い店を見つけましてね」
区役所通りに出て横断歩道を渡り、左手に曲がる。
少しして、暖簾の出ていない店のドアを開く。
中はL字型の寿司屋だった。
「最近ここがお気に入りでよく来るんですよ」
奥に個室でもあるのだろうか。
店内はそこそこの賑わい。
「何を飲まれます?」
「あ、ではウイスキーのロックを頂きます」
「了解しました。店員さん、生ビール一つに、ウイスキーロックを一つ下さい」
乾杯し、タバコへ火をつける。
「何握りやしょ」
板前が注文を聞いてくる。
「私はお任せで一人前下さい。岩上さんはどうしますか?」
「あ、えーと…、マグロの赤身を一人前もらえますか」
「あらら、すみません…。岩上さん、魚介類苦手だったんですね」
「いえいえ、マグロの赤身だけは大好物なんですよ」
「焼き魚は大丈夫ですか?」
「ええ、焼いてあれば……」
俺の目の前にはマグロ赤身八貫。
少ししてハタハタのような焼き魚が置かれる。
「それで岩上さん、今度もう一人と共同経営で池袋にインカジの新店を始めるんですね。そこで岩上さんにも、入ってもらえたらなと思いまして」
「すみません、酒井さん…。実は知り合いから裏スロット屋の名義の話が来てまして……」
「うーん…、確かに他からも誘いあるりすよね。残念です」
ほんのタッチの差だった。
何だか申し訳ない気分になるが、酒井さんは終始にこやかに会話をして食事を終える。
寿司屋の会計金額を見て驚いた。
俺はマグロ赤身八貫に、酒井さんはお任せ握りで一人前。
それに焼き魚二人前と酒をお代わり入れて四杯。
しめて合計額八万五百二十円。
思い切りボッタクリ料金だろ……。
誘いを断ったんだ。
俺も食べたので出す義務がある。
財布から四万円を取り出し、酒井さんへ手渡そうとすると、手で制された。
「私が誘っているのに駄目ですよ。ご馳走させて下さい」
酒井さんの言葉に内心ホッとした。
こんな寿司屋で四万の支出は痛過ぎる。
「これ、ちょうどとかオマケしてくれますよね?」
笑いながら話す酒井さん。
「いえ、キッチリの会計でお願いします!」
融通の利かない若僧の寿司屋店員。
これで八万も取り、端数の小銭までしっかり回収……。
外へ出ると、深々と頭を下げた。
「すみません…、こんな高級なお寿司をご馳走になってしまいまして」
「岩上さん、魚苦手なの知らなくてすみませんでした。素直に焼肉にしておけば良かったですね」
終電は過ぎた時間だった。
今日はサウナかどこかで泊まり、そのまま仕事へ行けばいいか。
「岩上さん、少し飲み足りないので、もう一軒行きましょうか? お時間あればですが」
「え? 時間は大丈夫ですけど……」
酒井さんは風林会館の向かいにある大番寿司の入ったビルのエレベーターへ促す。
店の話を断ったのに、何故まだ俺に対して良くしようとしてくれるのか、まったく分からなかった。
クラブ『ルベス』。
三階にある高級キャバクラ。
ここでも酒井さんは顔が利いているようで、ビップルームへ通される。
「すみませんね、岩上さん。お付き合い頂いて。ここの社長と知り合いなので、こういうタイミングでもないと、中々顔を出せなかったので」
「いえいえ、とんでもないです。お話も協力できない状況なのに、こうまでご馳走になってしまって申し訳ないです」
小綺麗に着飾ったキャバ嬢たちが四名入ってくる。
最後に大柄の男が入ってきて酒井さんと笑顔で話していた。
「一応当店のナンバーワンを置いて行きますので、あとは楽しみ下さいませ」
大柄な男が出て行くと、酒井さんは他の女性には目もくれず、俺との会話を楽しんでいる。
「根間から岩上さんの履歴書拝見させて頂きましたが、以前全日本プロレスにいらっしゃったんですね? それに本まで賞を取って出版されているなんて素晴らしいじゃないですか」
「昔の話です。結局取り柄も何も無いので、こうして歌舞伎町へ戻り、また誰かに使われる日々を送っているだけです」
たまたま全日本プロレスに受かり、たまたま小説で賞を取れただけ。
今の俺には何も無かった。
酒井さんの隣に座っていたナンバーワンキャバ嬢が、必死に名刺を渡そうとしながら話し掛けている。
金の匂いを嗅ぎ付けたのだろう。
確かに綺麗に着飾り美人であるが、大物に盛り付く様子は、傍から眺めていて盛りのついた犬のようにしか見えない。
結局酒井さんは、名刺すら受け取らなかった。
「私のどこが不満ですか?」
自分に自信満々なキャバ嬢は納得いかないようで、まだ酒井さんへアピールしている。
「私は以前一人の女性をここで指名していましたが、その子が辞めたので、もうそういうのはやめているんですよ。分かって下さい」
とてもスマートな飲み方。
凄いと思ったのが、ビップルームにいるのに、キャバ嬢たちへドリンク一杯も飲ませていないところである。
ただ、俺とここで飲む為だけに来ただけ。
どんな世界にいたら、こんなスマートな遊び方をできるようになれるのか?
店を出ると「岩上さん、また食事へ付き合って下さいよ。今日はありがとうございました」とスマートに帰っていく。
『8エイト』では五百五十万使い、今日だけでいくら使ったのだ?
こういう人もいるのだな……。
不思議で貴重な時間を過ごせたのは間違いない。
新宿へ舞い戻って約十ヶ月。
正確には九ヶ月半。
自身で体現し、実感した事は、まず理不尽だなという点。
店を流行らせるとは、客をたくさん入れる……。
これは多くの商売の基本的な必勝法でもあり、一番四苦八苦する部分ではないだろうか?
様々な気遣いをし、客の信頼を得て、ずっとやってきたつもり。
だからこそ、俺が店を移動すれば、多くの客が来てくれた。
でも、評価対象基準は違った。
いかにゴマをすれるか。
上と元々の知り合いかどうか。
こんなくだらない点だったというのが自身の見た結論。
一昔前の表社会企業が失敗し、倒産してきた道を、多くの裏稼業は気付かずに同じ轍を踏もうとしている。
多くの重従業員たちが、様々な理不尽さによって苦汁を舐め、時には失望し、時には去っていく現実。
ずっと歯痒かった……。
自分自身の力の無さが……。
いくら理論を唱えたところで、理不尽な輩たちは耳を貸さない。
いくら物を申したところで、邪魔者扱いされるだけ。
相手は変えられない。
でも、自分は変えられる。
それなら力を持とうじゃないか。
俺自身が……。
世の中本当に理不尽な事だらけ。
だからこそ、俺は多くの人を少しでも救う為に、いい王国を作っていこうじゃないか。
大正浪漫通りの化粧品店加賀屋のおばさんから珍しく連絡があった。
「どうしましたか?」
「何だかおばさんね、肩が凝ってしまって仕事で立っているのも辛い状態で……」
『8エイト』を揉める事なく辞めた俺は、すぐ向かう。
触診し、肩だけでなく首や背中全身が酷い状態なのが分かる。
「こんな状態になる前に、もっと早く連絡下さいよ」
「何だか悪くてね」
「おばさんの具合が悪くなるほうが、俺にとっては嫌ですよ」
久しぶりに施術をする。
ここへ高周波を持ってくる訳にはいかないので、あくまで手技のみでの治療。
二点療法や鎮定法、様々な技術を活かして身体を楽にしていく。
「今どんな感じですか?」
「ありがとう、智ちゃん。凄い楽になったわー」
「今日はゆっくり休んでしっかり寝て下さいよ」
「いくら払えばいい?」
「何を言ってんですか。もう看板出していないんだし、お金なんていりませんよ」
「じゃあ、智ちゃん。前の小川菊で鰻頼んでおくから、せめて食べていって」
「いやいや、そんなつもりじゃないし、別にいいですって」
おばさんは向かいの鰻屋小川菊のドアを開け、従業員へお金を渡しながら注文をしてしまう。
「もう…、今回だけご馳走になりますが、もう本当に大丈夫ですからね」
久しぶりの小川菊の鰻。
川越だとこの店の鰻が一番美味しいだろう。
池田由香から「お店辞めちゃったのー?」と連絡があった。
彼女だけでなく様々な客からの電話。
こんな俺でも必要とされていた現実に感謝を覚えた。
由香にこうした方が良いと言われた髪型は、やはり少し恥ずかしかったので、自分で調整する事にした。
ゴールデンウィーク明け、また新たな形で俺は歌舞伎町へ戻る。
明日からの生活が、とても楽しみだ。