それから僕の学校生活は非常に有意義なものとなった。クラスはあの件以来、一体感を出すようになっていた。
男は女を殴るものではなく、逆に守るものなのだ。そんな教訓が僕の中にできた。考えてみたら、いつも見ている仮面ライダーもウルトラマンもみんな、女を守っている。何でそんな簡単な事に気づかなかったのだろう。自分を恥ずかしく感じる。
家での生活も有意義なものになった。色々と僕ら兄弟を可愛がってくれたおばさんに、体育館での経緯を話すと、感心しながら笑顔で聞いてくれた。
「いい先生が担任で良かったね」
おばさんのユーちゃんは嬉しそうに言った。
「うん。一、二年の時の先生よりいいよ」
「あら、そんな言い方はよくないよ。みんな、ちゃんと頑張ってやってるんだから、先生を区別してはいけないよ」
「そっか」
「うん、その福山先生は立派だけど、前の先生だって立派なんだよ」
「そうだね。じゃあ、福山先生のほうが好きって言い方にするよ」
「うーん、それはしょうがないな…。ただ、福山先生以外の前とかでは言わないようにね。家で言うだけならいいわ」
「はーい」
毎日がとても楽しい。こんなに笑っていてもいいのだろうか。ママの事を思い出すと、少し不安になった。純治君のお母さんがあの時、流した涙が未だに分からなかった。
クラスで一番仲の良くなった斉木洋介君と、下校を共にする事が多くなった。お互いの家を行き来するようになり、洋介君は僕の知らない事をたくさん教えてくれた。いいコンビだと自分の中で思うようになっていた。
突然僕と洋介君の仲に、沼田正行君が割り込んできた。僕は嫌がり、洋介君は彼を受け入れた。必然的に三人で行動する機会が多くなったが、いまいちしっくりこない。正行君も僕を邪魔だと口には出さないものの、態度で何となく分かっていた。
クラスで席替えをする時も、正行君は洋介君の近くがいいとわがままを言い出す始末だ。強引に洋介君を独占させようという意思をクラスの男子は嫌った。僕は見て見ぬふりをした。給食を食べ終わったあと、何人かのクラスメートが僕の席にきた。
「ねえ、神威君」
「なに?」
「正行君さあ、ちょっと洋介君に対して、強引じゃない?」
僕は感情を出さないよう極めて冷静に話した。
「うーん、そうかもしれないね」
「前、あれだけ斉木君と神威君は仲が良かったのに、最近はいつも正行君がいるじゃない」
「そうだね」
「みんなで注意しようよ、正行君にさあ」
「注意?」
「うん、斉木君は正行君のものじゃないってさ」
「うーん。だって洋介君がそれでいいなら、仕方ないよ」
「そうじゃないよ。斉木君、困っているって言ってたよ」
初耳だった。てっきり洋介君は正行君を受け入れていると思っていた。
「みんで注意したほうがいいよ、絶対にさ」
「そうだね」
僕たちは話し合い、その五人で注意する事に決めた。ほかの四人は、正行君の目の前に立つのをどうしても僕にやってほしかったらしい。仕方なく引き受ける事にした。
「正行君、ちょっといい?」
洋介君の隣で話す正行君の前に僕たちは立った。不思議そうな顔で正行君は眺めている。
「正行君、斉木君は正行君一人のものじゃないよ。いい加減に独占するのやめなよ」
みんなで口を揃えてハッキリと言う。正行君は僕の顔を見て、キョトンとしていたのが印象的だった。
次の日から正行君は学校に来なくなった。それから正行君の親が、学校へ怒鳴り込みに来たらしい。僕と洋介君は福山先生に呼び出された。
「おまえたち、正行の件で何か関係あるのか?」
「関係あるじゃないですよ、先生。この子たちがうちの正行を苛めたんです。あの子、もう学校に行きたくないって、泣いているんです」
正行君のお母さんは僕を睨みつけてきた。何て過保護な母親だろう。内心、僕は思った。
「お母さん、落ち着いて下さい。今、私は生徒に意見を聞いているんです」
「でも、うちの子を苛めたのは……」
「お母さん、少し黙ってっ!」
福山先生の声が厳しく響いた。
「今、私は生徒に聞いているのです。あなたの意見ばかり聞いても、一方通行です。少し彼らの意見もちゃんと聞いてあげて下さい。…で、どうなんだ、神威? 斉木?」
僕から口を開き始めた。僕は正行君が強引に斉木君を独占しようとした事、それを五人で注意した事を順番に話した。
「冗談じゃないですよ。うちの正行が……。」
「いいから、黙って」
先生は正行君のお母さんを一喝した。
「そうか、それから斉木は?」
僕はツバを飲み込んだ。洋介君の言葉一つで、状況が変わるのだ。彼に対する気持ちを僕はちゃんと確認しないでいた。あくまでも人づてに正行君を嫌がっているとしか聞いていないのである。
「ぼ、僕は……」
洋介君は静かに口を開いた。
「正行君がいつも遊ぼうと思って、確かに遊んでいました。もちろん龍一君とも遊んでいました。正行君は少し強引でした。僕はみんな仲良く遊びたいだけだったんです。でも、二人とも仲がいまいちで、正行君が龍一君とは遊ぶなって、僕に言いました。僕がそれは無理だと言い、教室で話しているところへ、龍一君たちがやってきました。それでみんなで、正行君に注意しただけです」
正行君のお母さんは悔しそうにハンカチを噛んでいた。
「分かった。確かにおまえたちの気持ちは分かった。だがな、同じクラスメートの正行は学校に来なくなっているんだ。おまえらもうちょっと考えてやれ。自分がもし、その立場になったらどうする? 嫌だろ? これから先生も一緒に行くから、おまえらも正行の家へ行こう。一緒に明るく迎えてやろう。仲良く先生はやってほしいし、常にそうありたいんだ。お母さんもそれで納得できますか?」
「はい…。ありがとうございます……」
さすが福山先生だ。正行君のお母さんはハンカチで目を覆いながら泣いた。
僕と洋介君は、先生と一緒に正行君の家に向かい、色々と話し合った。このクラスメートで、二年近くはやっていかないといけないのである。仲良くはしたい。でも、僕の心の中は、いまいち晴れなかった。
洋介君との間に割り込んできたのは正行君なのだ。強引に物事を進め、自分の好きなようにしたからこそ、みんなに注意されたのだ。確かに先生が言う事は理解できる。でも、母親に泣きつく正行君を卑怯だと感じた。
帰り道、洋介君と久しぶりに二人で帰った。やはりこのコンビが一番ピッタリなのだ。僕の相棒が洋介君で、洋介君の相棒が僕。それが正しいのである。僕は洋介君に尋ねた。
「ねえ、洋介君」
「なあに?」
「先生はああいう風に言ってたけど、やっぱりさ…。僕は正行君いまいち好きになれない」
「うん、それは分かるよ。しょうがない」
やっぱり僕の考えを一番理解してくれるのは、洋介君だと確信できた。
「洋介君だって、僕と一緒のほうがいいでしょ?」
「……」
洋介君は無言だった。何も気にせずに僕は尋ねた。
「ん、どうしたの?」
「い、いや……」
「なあに?」
「僕はさあ、誰々が一番とかそういう風には思ってないよ」
予想していた答えとはまったく違う洋介君の言葉が、心に突き刺さった。
「僕はみんなと仲良くやりたいだけ…。そういう意味では、龍一君も正行君も一緒だよ」
僕は言葉を失った。ショックだった。洋介君の言葉の意味が、よく理解できないでいた。
「ん、どうしたの、龍一君?」
「ううん、何でもないよ」
「だって様子が変だよ?」
「そんな事ないよ」
動揺を表情に出さないように必死だった。僕が洋介君にとって、一番の友達だと思っていた。恥ずかしい気持ちと、屈辱感が交互に行きかう。
「龍一君は何を今、考えているの? 教えてよ」
「う、うん…。洋介君にとって、僕は友達じゃないのかなって……」
「何、言ってんだよ。友達だよ。いつも仲良く遊んでるじゃん」
「でもさ、正行君と一緒ってさあ……」
「勘違いしないでよ。龍一君は大事な友達だよ。ただ、正行君を僕が悪く言った部分は、自分だけで、誰々とは遊ぶなって部分なんだよ。みんな、仲良くしたいのにさ。それでああいう風になっているのに…。さっき広一君、僕と一緒のほうがって言ったでしょ?」
「うん」
「それは龍一君と一緒にいたら楽しいよ。でも、僕のほうがとかっていう考えは、あまり好きになれないよ。僕はものじゃないし、自分の意思だってあるもん。龍一君だって、僕に例えば、純治君とは遊ばないでとか、純治君より僕といたほうがいいでしょって、言われてもいい気分にはならないでしょ?」
「それはそうだね」
福山先生を尊敬するような感覚。僕は初めて友達を尊敬していた。
「うん」
「それは気をつけるよ」
「うん。じゃあ、何して遊ぼうか?」
ちょっとした会話で僕のモヤモヤはなくなった。そう感じた僕は自然と笑い顔になった。
そして数日後クラスのお芝居として『銀ギツネ』をやる事になったが、先生は国語の授業を中断して、「みんな、今度のおしばいの主役なんだけど、正行を先生は推薦したいと思うんだが、みんなはどうだ?」と大きな声で言った。クラス全員から拍手が起きる。
僕はこの先生に授業を教わっている事を誇りに感じた。
給食の時間がやってきた。今日は非常に楽しみだ。何故ならハンバーグが出るからである。ほとんどの人は好きなハンバーグ。みんな、この日を待っていた。
ハンバーグを間に挟むパンが、二つくっついた状態で、みんなに配られる。大抵の人はハンバーグを半分にして、それぞれのパンに入れて食べた。全員に給食が配り終わり席に着くと、先生は教壇からみんなに向かって話し出した。
「今日はな、先生がこのパンの正しい食べ方を教えてやる」
「正しい?」
「何だろ?」
「いつも決まっているのに……」
「何ですか?」
「そんなのないよ」
みんな好きな事を勝手に言い出した。それにしても正しいパンの食べ方とは何だろう。前にこの献立が出て時は先生、何も言わなかったのに……。
「はい、うるさいぞ。先生の話をちゃんと聞け」
「はーい」
「よーし、いいか。まずはみんな、ビニールに入った状態のパンを手に持って…。中から取り出して、くっついているパン同士を離してくれ」
言われた通りにした。しかし言われるまでもなく、いつも普通にやっている行為だ。
「いつもみんなはハンバーグを半分にしてるだろ? 今日はそのまま、一つのパンに挟んでくれ」
「もう一つのパンはー?」
「先生、駄目だよ」
「何でー?」
またクラスが騒々しくなった。僕は黙って聞いていたが、先生が何をしたいのか、何も分からなかった。
「うるさいぞ。いいから言われた通りにしろ」
仕方なく言われた通りにする。隣の生徒は小さな声で、何かをブツブツ言っていた。
「もう一つのパンがあるだろう? 今日はそのパンの正しい食べ方をこれから教える」
教室はシーンと静まり返った。
「まず、中にハンバーグを入れる前にやるように、中を開いてくれ。そしたらな……」
言い掛けながら先生は、後ろを向いてゴソゴソしている。それから教壇の机に白い紙が掛かった灰色の箱を勢いよく置いた。先生は上に掛かる白い紙を取りながら、笑顔で大きく言った。
「あとのパンは、今日、先生が用意したこのコロッケを挟んで食べるんだ」
「わー」
「いぇー」
「ほんとかよ」
「やったー」
「先生最高」
一気に教室の中は歓喜の声で充満した。先生は自腹でわざわざコロッケをクラスの人数分を買って、用意していてくれたのだ。喜ばない生徒など、誰一人もいなかった。こんな展開を誰も想像していなかったのだろう。その分、喜びは大きかった。
先生は満面の笑みで教室を見回した。あまりのうるささに、隣のクラスの担任が僕らのクラスを見に来たほどであった。僕はこの福山先生が担任で本当に良かったと、心の底から感じた。こんなにおいしいコロッケは初めて食べたような気がした。
うちの近所にはとてもおせっかいでいい迷惑のおばさんがいる。特に何をされたという訳じゃないけど、何だか苦手意識を覚えてしまう。
学校の帰り道にいつもそのおばさんの家の前を通っていた。いつも暇なのか、ほとんどおばさんは家の前にいる。寒い日だって暑い日だって外にいた。
「あら、今帰りかい? おかえり」
おばさんは僕を見掛けると、目を細めながら絶対に声を掛けてくる。僕はこのおばさんの笑顔を見ると、何故か寒気を感じた。
「う、うん。今帰るところ」
おばさんは家の前で焚き火をしているところだった。火に両手をかざしながら暖まっている。
「そうかいそうかい。ちゃんと勉強してきたかい?」
「う、うん……」
「僕、おばさんに何か一つ言い忘れている事があるでしょ?」
「え、言い忘れている事?」
「そう。これが当たり前のようにできないと、『いい子』とは呼べないわ」
「何だろう……」
別にいい子と思われなくてもいいから早く家に帰りたかったが、おばさんはなかなか帰そうとしてくれない。
「挨拶だよ。挨拶…。これができなきゃ駄目だよ」
「あ、そっか。こんにちは」
「よしよし、じゃあちゃんと挨拶できたご褒美に焼き芋をあげよう」
そう言いながらおばさんは壁に立て掛けてあった細い木の棒を取ると、焚き火の中をグリグリといじりだした。よくよく考えてみると、こんな普通の道路で焚き火なんかしていてもいいのだろうか? いつも冬になると、おばさんは焚き火をしている。
「別にいいよ」
おばさんは僕の話をまるで聞いていないのか、焼き芋探しに夢中になっている。よその人から物をもらっちゃいけないって、おばさんのユーちゃんからキツく言われているんだけどな……。
「お、出てきた出てきた。こんがり焼けてるよ」
真っ黒に焦げた焼芋を焚き火の中から取り出すと、しばらく棒でつつきながらゴロゴロ転がしていた。
ポケットから薄汚れた軍手を取り出すと、焼き芋を拾い上げ二つに割って「フーフー」と息を吹き掛ける。僕は何故この人はポケットに軍手が入っているのだろうという素朴な疑問と、このおばさんの吐息が掛かった焼き芋を食べたくないなあという思いでジッと見ていた。
「ほら、熱い内に食べちゃいな」
ニコッと笑うおばさんの笑顔は薄気味悪い。
「いい。僕、いらない」
「ちょっとあんたの為にこんな思いまでして焼き芋焼いてあげたのに、何さっ! 素直に食べなさい。ガキは黙って食べればいいのよ」
いきなり目を吊り上げながらヒステリックに叫びだすおばさん。別に僕は焼き芋が食べたいなんて頼んでないのに……。
「ほら、早く半分取りなって」
喋りながらおばさんのツバが焼き芋に降り掛かる。余計食べたくなくなった。
「早く! 冷めちゃうよ、フカフカの焼き芋が」
「い、いらないやいっ!」
手を払いのけ、僕は必死にその場から逃げた。
「あっ、待ちやがれ、このクソガキ!」
おばさんは細い棒を振り回しながら、追い駆けてきた。もの凄い恐怖感が僕の全身を覆う。家まですぐだったので、僕は何とかおばさんから逃げる事に成功した。
二階の窓からこっそり外の様子を伺うと、おばさんは仁王立ちしたまま僕の家を睨みつけている。いつまでそうしているんだろう? 生きた心地がしない。
結局おばさんは、一時間十分もその場から動かずにいた。去り際に、「けっ」と言いながら地面にツバを吐き捨て立ち去った。
次の日から僕は帰り道を変え、あのおばさんの家の前を通るのは出来る限り避けるようにした。
一月があっという間に過ぎ去り二月になると、クラスの様子がいつもと違った。妙にそわそわしているのだ。男子の中には辺に格好をつけようとする者が多く、反対に女子はおしゃれをしている者が多かった。
「ねえ、神谷君。あいつら、最近さー、変に格好つけてない?」
以前、激しい殴り合いをした神谷君に声を掛けた。
「ああ、バレンタインが近づいているからだろ」
「バレンタイン?」
「好きな男子に女子がチョコをあげるんだよ」
「ふーん」
「だからチョコがほしい奴は、ああやって辺に気取っているんだ」
「神谷君は?」
「うーん、俺は女子に嫌われているからなあ」
そう言って神谷君は不適に笑った。
「神威君は多分もらえるんじゃないかな?」
「は? 何で?」
何で僕がチョコをもらえるのだろう? 全然分からない。
「何人か、いつもさあ、神威君のほうを見てる女子がいるぜ」
「一体、誰よ?」
「そうだな…。例えば加藤とかさ……」
「加藤って、ちゃまか?」
ちゃまというあだ名の由来は簡単だった。加藤という苗字から、最初の頃はみんなに茶と呼ばれていた。本人が「私は男じゃない」と泣き出し問題になり、茶のあとに、『ま』をつけてちゃまというあだ名になったのである。それにしても何の身に覚えがなかった。確かに話ぐらいはした事があるが、特別に仲がいいという訳でもない。
「それ以外にも結構いるぜ。まあ、当日まで楽しみにしてなよ」
そう言いながら、神谷君は嫌らしい笑い方で僕を見た。好き嫌いの視点で女子を今まで見た事がない僕は、妙な気分になる。授業を受けていても、どこか上の空になっていた。
バレンタインデーがやってきた。この日だけは僕も女子を意識してしまっていた。学校に登校する途中、隣の二歳年上の良子ちゃんが僕に話し掛けてきた。
「今日はバレンタインね。龍也ちゃんはともかくとして、龍ちゃんみたいなウンチ漏らしには、誰もチョコなんてくれないわよ」
「何がウンチ漏らしだよ。取り消せよ」
「ふん、冗談じゃないわ。あなたがウンチを漏らしたのは、事実なんだからね。だから龍ちゃんは、ウンチ漏らしって呼ぶ事に決めたの」
「ふざけんな」
「もし、龍ちゃんがね、誰かからチョコをもらいそうになったら、龍ちゃんはウンチ漏らしだと、私はその子にちゃんと言うわ」
同じ班の班員は、会話を聞いてクスクスと笑い出した。僕は恥ずかしくなり、顔を赤くさせたが、反撃に出た。何年も前の事をほじくり返しやがって、僕はムカついた。
「ふざけんなよ、おまえなんかとっても臭いクソもらす、クソ女じゃねーかよ」
「そんな事してないよ」
「良子のパンツはクソつきパンツ。いつもビチグソ漏らしてるー。だからクソ女と呼ばれてるー。いつでもクソクソビチグソだー」
僕は適当にリズムをつけて歌うように話した。
「キー、何が、クソ女よ。私は漏らしてないわ」
僕の歌は、見事に良子ちゃんの心に響いたようだ。
「嘘つきー。みんな、聞いてよ。良子ちゃんはねー、クソ女なんだよ」
「ち、違う。私はクソなんてもらしていない」
「あー、女のくせにクソって言ったー」
「い、言ってない」
良子ちゃんは赤いペンキを塗ったように、真っ赤になって一生懸命否定していた。滑稽な姿である。
「やーい、クソ女―。クソ女やーい。うんちをもらしたクソ女。臭い、臭い」
「良子ちゃんはクソ女―。臭い、臭い」
兄弟だけあって、龍也まで僕に続いて攻撃しだした。血の繋がった絆の連携プレーは、バッチリである。
「何だと、このクソガキ」
興奮した良子ちゃんは、龍也の頭を叩いた。すぐに泣き出す龍也。
「よくも弟をやりやがったな。このクソ女め。くらえっ」
僕は仕返しに、飛び膝蹴りをお見舞いする。良子ちゃんは道路に倒れ、ランドセルの中身が散らばった。その時地面でいいものを発見した。僕は犬のウンチを手でつかむと、良子ちゃんのランドセルに放り込んだ。
「あー、良子ちゃんのランドセルから、ウンチ発見。ずいぶん経っているみたいで、ウンチがすっかり固まってるぞー。ほら、みんな見ろよ。クソ女のランドセル」
「わ、私のじゃない。私のじゃない」
僕はまた良子ちゃんを泣かしてしまった。でも、仕方のない事だと感じた。向こうから上級生のくせに、仕掛けてきたのだから……。
学校に着くと、僕は水道で手を念入りに洗った。石鹸をつけて何度も丹念に洗った。先ほど良子ちゃんのランドセルに放り込む際、拾った犬のウンチ。すっかり乾燥して固まってはいたが、手に臭いがついたままでは嫌だ。
「神威くーん」
名前を呼ばれ、後ろを振り向くと、クラスメートのちゃまが立っていた。
「なーに?」
「何、そんなに手を一生懸命洗っているの?」
「うるさいなあ、ちゃまには関係ないだろ」
まさか、ウンチを触ったので手を洗っているとは、口が裂けても言えない。僕の返答に、ちゃまは突然泣き出した。
「はぁ、何で泣くんだよ?」
「ちょっと神威君、酷くない?」
いきなり、ちゃまの仲良しの田中栄子が近くにやってきた。なにやら嫌な展開になってきたものである。
「今、手を洗ってるから、僕は忙しいんだよ」
「もう充分、洗ってるでしょ?」
「充分かどうかは、僕が自分で判断するよ」
「ちょっと話があったの。だからこっちに来てよ」
「何だよ、話って? ここでしろよ」
「いいから来てよ」
一度、手の匂いをチェックしたい僕は、どうしても一人になりたかった。
「じゃあ、次の休み時間にしてくれよ。今は気の済むまで手を洗いたいんだ」
ウンチをつかんでしまったという事実を誰にもバレないようにするには、完全犯罪にこだわらないといけない。
「分かったわよ。絶対に休み時間には来てよ」
「ああ、分かったよ」
「絶対にだよ?」
「しつこいって…、早く向こう行けよ」
心の底から言った。いい加減、手が水の寒さでかじかんできている。
「やったー、ちゃま。神威君が次の休み時間ならいいって」
「ほんと?」
泣いていたちゃまも、急に嬉しそうに笑顔になった。不思議な女子たちだ。
「わかったら、早く向こう行けよ」
「はーい」
約束をすると、二人はすぐに教室へ消えた。僕は周りを見回してから手の匂いを嗅いだ。
「うん、大丈夫だ」
これで完全犯罪が成立した。これで僕もいっぱしのワルの仲間入りだ。授業のチャイムが鳴り、慌てて僕は教室に飛び込んだ。
教室に福山先生が入ってくる。日直が礼の号令を掛け、道徳の時間が始まった。
「えー、いつも先生は学校にお菓子を持ってきてはいけないと注意している。だけど今日だけは特別だ。チョコだけは許可してやるぞ」
先生の言葉にクラスの女子は歓喜の声をあげた。男子はほとんどがそわそわしている。教壇に向かって歩き出す数人の女子が見えた。その子たちは福山先生にチョコをプレゼントしていた。先生の顔はだらしなくニヤニヤしている。
女は恥ずかしがり、男は照れて顔の締まりがなくなる。
これがバレンタインというものか。そう僕は感じた。
全部で七つのチョコが入った箱を教壇の上に置き、先生は自慢げに教室を見回した。
「もう他に先生にくれる生徒はいないか。いないなら、この授業はこれで実習とする」
大事そうにチョコの箱を持ち、先生は教室を出て行った。
「きっと、福山先生は職員室に自慢しにいったんだぜ」
後ろの席の神谷君が耳打ちしてきた。
「何で?」
「バレンタインっていうのは、男がどれだけモテるかっていうのを決める日なんだ」
「ふーん、そんなに大事な事なんだ」
「ああ、一大イベントだろう」
「そっか」
「神威君はもう、もらったかい?」
「いや」
「斉木君や森野君なんて、すでに三つはもらってるぜ」
「へー、モテるねー。神谷君は?」
「ゼロに決まってるだろ」
「そっか」
「ああ」
男らしく話す神谷君の表情は、どこか哀愁を漂わせていた。
休み時間が終わり、僕はちゃまと栄子のほうへ行こうとした。
「ねえ、神威君。ちょっと、いい?」
クラスで一番人気の高い吉川美咲から声を掛けられた。さすがに僕はモジモジした。顔立ちの整った美咲は恥ずかしそうにしている。
「なんだい?」
出来る限り平静を装いながら気取って僕は言った。
「これ、もらってくれるかしら……」
美咲は下を向いて、小さな赤い箱を差し出してきた。白いリボンまで丁寧に巻かれていた。僕は小さな声で、「ああ」と言うのが精一杯だった。
教室の隅でちゃまと栄子が、僕を恨めしそうに見ていた。僕は慌てて近寄った。
「なによ、神威君。デレデレしちゃってさ……」
「別にしてないよ」
「してたじゃないのよ」
ちゃまは僕に食って掛かってきた。そこまでいちいち言われる筋合いないどこにもない。ヤキモチ以外の何ものでもなかった。
「うるさいよ、そっちが話があると、言っていたんじゃないか」
一刻も早く僕は、美咲からもらった箱の中身を確認したかった。
「別に用がないなら席に戻るよ」
「待ってよ」
「何だよ?」
「こ、これ……」
ちゃまは恥ずかしそうに、僕へ緑色の包み紙を渡してきた。こいつもチョコか。
「ちゃんとお返ししなさいよね」
横に立っていた栄子が僕を睨みつけながら、青い包みを前に差し出してくる。僕は二人からチョコを受け取り、席に戻った。神谷君がニヤニヤしながら近づいてきた。
「モテる男は違うなあ、神威君よー」
「ば、馬鹿、そんなじゃないよ」
「エヘヘヘ……」
「…んだよ、変な笑い方しやがって……」
「やっぱ違うなあってさ」
「もううるさいよ。あっち行けって」
「はいはい」
神谷君は嫌な含み笑いをしながら自分の席に戻った。すでに一時間目が終った時点で、僕は三つのチョコを手にしている。放課後までには一体、何個のチョコをもらえるのだろうか? クラスの女子を変に意識してしまう。胸の奥がくすぐったい。これがバレンタインか……。
この日は機嫌のいい男子、悪い男子の両極端に別れた。ある意味、バレンタインというものは非常に恐ろしい日なのかもしれない。
結局家に帰るまで、もらったチョコの数は三つのままで変わりはなかった。
家の玄関を開けようとすると、隣の食堂の入り口に良子ちゃんが立っていた。ヤバい。朝の仕返しでずっと待ち伏せされていたのだ。また右手には包丁を持っているのだろうか。
「おかえり、龍ちゃん」
「お、おかえり」
予想に反して良子ちゃんの声は明るかった。朝の事はすっかり忘れてしまったのだろうか? いや、そんなはずはない。昔に漏らしてしまったウンコ話を未だに、根強く覚えている良子ちゃんだ。これは絶対に罠だ。罠に違いない。警告音が頭の中でこだました。
「今、帰ってきたの?」
「う、うん……」
「チョコはもらえたかしら?」
「う、うん…。三つもらった」
「嘘、だって龍ちゃん何も持ってないじゃない」
正直に答えたのに、良子ちゃんの顔色は少し変化させ、僕を疑った。
「あるよ。あるって」
「ふん、そんな嘘つかないでいいわ。一つももらえないんじゃ、可哀相だから私がチョコあげるわよ。しょうがないから……」
偉そうに言い放つ良子ちゃん。僕がチョコをもらったことなど、信じる様子は何もない。ランドセルの中に入れているだけなのに……。
「いらない……」
「何よ、可哀相だから私があげるって言ってるの。だから、ありがたくもらいなさい」
癪に障る言い方をする良子ちゃん。上から見下す言い方に僕は苛立ってきた。
「いらないって言ってんだよ。このブスッ!」
「ブ、ブス……」
「おまえのウンチのついたチョコなんかいらねーよ」
「ウ、ウンチなんてついてない……」
良子ちゃんは金魚のランチュウように頬をプクッと膨らませた。
「い、いいから素直に受け取りなさい」
「いらないよ。ウンチ臭いチョコなんていらない」
「いいからもらいなさいよ」
良子ちゃんは僕のランドセルへ強引にチョコを入れようとしてきた。
「や、やめろよ。何すんだよ」
「もらいないさい」
「やだって言ってんだろ」
僕は良子ちゃんを突き飛ばした。
「よくもやったわね……」
「さわんなよ。僕は何回も言ったぞ」
また僕たちは取っ組み合いの喧嘩になった。腕を散々引っ掻かれたが、最後に僕の飛び膝蹴りが良子ちゃんの背中に命中して僕は勝った。
「……」
目に涙をこらえながら、家に入る良子ちゃん。今日一日だけで二発も僕の飛び膝蹴りを食らっているのだ。僕は隣の食堂のドアの前に立ち、すぐに逃げ出せる体勢で様子を伺った。彼女がもし、奥の手を出すならすぐに逃げないと危ない。
「良子、あんた何やってんの?」
隣のおばさんの声が聞こえてきた。嫌な予感がする。身の危険を感じた。
「包丁を放しなさい、良子」
隣のおばさんの声が聞こえた瞬間、ダッシュで僕は家に逃げ込んだ。
バレンタインから一ヶ月間が過ぎる。
学校に行くと、この日は妙に女子全体がそわそわしていた。照れ臭そうにしている男子も多かった。僕は何なのか訳も分からずに授業を受けて帰った。
普通に次の日、学校へ登校すると、クラスの女子の視線が僕に集中しているのが、何となく分かった。何故か冷たい視線のような気がする。特に気にせず授業を終えて、給食の時間になった。
「龍一君、マズいんじゃないの?」
隣の洋介君が声をこっそり掛けてきた。
「何がマズいの? 今日の給食?」
「いや、昨日さ、お返ししてないでしょ? ホワイトデーなのにさ」
「何、ホワイトデーって?」
「バレンタインのお返しだよ。ちゃまや吉川さんとか、田中さんにもらってたでしょ?」
「ああ、確かにチョコはもらったよ。それで何、お返しって?」
「え、知らないの? お返しも……」
「うん、知らないよ。何かあげないといけないの?」
「そうだよ、普通は飴とか返さないと駄目なんだよ」
「へー、そうなんだ」
「そういうもんだよ」
女子から向けられる冷ややかな視線の意味が納得できた。バレンタインデーって好きな男子にチョコをあげるだけじゃなかったのか? いまいち腑に落ちない。それだったら断ってもよかったのにな……。
僕は仕方なしに一週間ほど、何も買わずに小遣いを貯めた。インベーダーができないのは非常に苦痛だった。その間クラスでは女子の大半が、僕に対して口をきいてくれなくなった。
もらった女子にキャンデーを買ってあげると、三人とも嬉しそうにはしゃいでいた。
女って単純だなって思う。でも、バレンタインはもう懲り懲りである。
チョコをもらう代わりにインベーダーやお菓子買うのを我慢しないといけないのなら、チョコなんて欲しくはない。
以前より陰りの見えためんこブーム。
最近、僕は全然やっていなかったが、龍也が袋一杯に入っためんこを眺めていた。
「お兄ちゃん、このめんこ、どうしたの?」
「二年生の頃、勝負して勝ったんだよ。お兄ちゃん、一番強かったんだ」
「へ、すごいねー」
「おまえにもあげようか?」
「ほんと?」
龍也の顔は輝いた。めんこをジッと見ている。
「いいよ、好きなだけあげるよ。そっか、たまには公園で、めんこでもしに行こうか?」
「ほんと?」
「ああ、お兄ちゃんの腕前を見せてやるよ」
僕たちは袋の中からめんこを十枚ほど適当に取って、公園に向かう。
「お、龍ちゃんじゃん」
「純治君、一緒に入れてくれる?」
「いいよ。久しぶりだね、めんこやるの」
「そうだね」
しばらくやっていなかったせいか、僕の独壇場という形にはならなかった。取って取られての繰り返しがしばらく続く。
一進一退の攻防が続き、一時間が経過した。
勝負に白熱していたが、気がつくと僕たちのすぐそばで、その様子を見ている顔の知らない子が二人いた。
二人とも顔が非常に似ているので兄弟なのだと理解できる。二人は白いTシャツに学校の体育の時に使う短パンを履いていた。白いTシャツはところどころ黒いシミがあり、兄らしき人物は、右手でハナクソをほじっていた。
「な、なあ…、俺たちも仲間に入れてくれよ」
薄汚い兄弟は話し掛けてきた。左手に一枚だけボロボロに汚れためんこを持っている。誰もこんな汚いめんこは欲しがらないだろう。
「いいだろ?」
僕たちは、この見知らぬ兄弟をめんこの勝負に入れるかどうか相談した。純治君以外の人は、嫌そうな顔をしている。
「入れてあげようよ。僕だってあんな汚いめんこ欲しくないけど、なんか可哀相じゃん」
優しい純治君はみんなを諭した。兄弟はずっとこっちを真剣に見ている。
「あっ……」
龍也がビックリした声を出した。兄弟の兄のほうが、ほじっていたハナクソを口に入れたのを見たらしい。恐るべき禁断の行為である。
「ど、どうする……」
「うーん……」
恐ろしい行動を目撃してしまった僕たちは、再度考え込む。
「おい、入れてくれないのか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。今、話し合いしてるから」
さすがに純治君も考えを改めたみたいだ。ずっと困った顔をして黙っていた。
「何だ、ビビッて勝負を受けられないのか?」
「何だと?」
つい僕は、兄弟の挑発に乗ってしまった。
「負けるのが怖いなら、別に俺たちを入れてくれなくてもいいぜ」
「負けないよ。そんなに言うなら入れてやるよ」
「よし、へへ……」
とうとう僕は勝負を受けてしまった。みんなはやりたがらず、一対一の勝負となった。お互いの後ろに弟がつき、正に兄弟対決の模様を彩っていた。
「いいか、兄ちゃんがめんこ増やしてやっからな。見てろよ、へへ……」
「うん、いっぱい取ってね、兄ちゃん」
「任せとけよ。兄ちゃんがよー、増やしてやっからよ」
不適に笑う新参者の不気味な兄弟。僕は龍也と目を合わせた。軽く微笑むと、岩の上にめんこを一枚置いた。
「そっちから先やっていいぜ」
「け、そっちが先行でいいぜ」
新参者の兄のほうはボロボロのめんこを岩の上に放り投げた。純治君をはじめ、周りの友達も静かに見守る。
「ふん、あとで吠え面かくなよな」
僕は言われた通り、先行になる。一発で絶対に決めてギャフンと言わしてやる。めんこを持った右腕を斜め上に振りかざし、ボロボロのめんこに向かいシャープに振り下ろした。
「てやっ」
「あっ」
一発でボロボロのめんこは岩から地面に落ちた。
「ほら、おまえらの負けだ」
兄は悔しそうにうつむき、弟は泣き出した。
「兄ちゃーん……」
「ちきしょう…、クソッ」
「兄ちゃん…、うう……」
たった一枚のめんこをとられて、ここまで悔しそうに感情を出す奴を初めて見たような気がする。見ていて哀れに感じた。先ほどの虚勢からは考えなれない姿だった。天国から地獄にといった表現が適切なように思えた。
「何か可哀相じゃね?」
純治君が、僕にそう言ってくる。
「うーん、確かに……」
話している間に、龍也は泣いている兄弟へいつの間にか近づいていた。
「ねえねえ…。これ、あげるよ」
龍也の言葉に顔をあげる兄弟。不思議そうな顔で、龍也を見ていた。
弟は、自分の持っているめんこをすべてあげようとしていた。非常に微笑ましく美しい光景に見えた。
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