岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

闇 97(岩上整体開業編)

2024年11月10日 13時53分21秒 | 闇シリーズ

2024/11/10 sun

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二千六年十二月三日。

明日で開業だ。

やるだけはやった。

あとは発注したものが届くので、徐々に手直ししていけばいい。

地元川越でする初めての商売。

ワクワクした。

準備段階でたくさんの知り合いが顔を出しに来てくれた。

ひと通り現段階で準備を終えた俺は、整体のすぐ裏側にある行きつけのJAZZBarスイートキャデラックへ行く。

ここで流れるノンヴォーカルのジャズを聴きながらグレリンリベットを飲み、マスターこだわりのアイスコーヒーをチェイサー代わりにするのが大好きだ。

気がつけば、ここに九年は通っている。

酒を嗜みながらゆったりと過ごすのは、自己を振り返るにあたってちょうどいい。

だからセッションがある生演奏の混み合った日よりも、客がほとんどいない空間の通常営業のほうが好きだった。

たまに会話をする常連客。

あくまでもこの場で偶然会うから話すまでで、それ以上のつき合いはない。

基本的に一人が好きなのだ。

孤独とは寂しいもので、人間が成長し老いる過程の中で一番厄介なものでもある。

人間一人でいられても大丈夫なように作られていないからだ。偉そうにこんな事を考えている俺も、一人でいるのが辛く寂しいから、このようにジャズバーへ来ている。

以前三つ下の常連客と接するようになった。

よくお互い顔を見合わせていたが、礼儀のしっかりとした好青年だったので、こちらも自然と会話をするようになっていたのである。

彼の名は『古木英大』。

大手IT系企業に勤める三十三歳の独身。

この日もたまたま飲みに来ていた。

「岩上さん、ちょっとお話が」

古木は飲んでいたビールをカウンターの上に置き、真剣な表情で声を掛けてくる。

「何でしょう?」

「いや、あのですね。よく岩上さんってここへ、色々な女性を連れてくるじゃないですか?」

当時新宿歌舞伎町で裏稼業をしていた俺は、同世代と比べると話にならないぐらいの金を稼いでいた。

金があれば、それだけで女には必然的にモテる。

思い違いをしていた俺は、休みの度に違う女を連れ歩いていた。

自分のアクセサリー代わりに、女性と接していた時期でもある。

「随分前の事を言いますね。それが何か?」

「お恥ずかしい話なんですが、実は私、今まで彼女というものができた事がないんですよ」

俺は彼の顔をまじまじと見た。

男から見ても、そこそこの外見。

身長もあるし、仕事だって誰に言っても恥ずかしくない事をしている。

その彼が何故、今まで彼女ができた事がないのか不思議だった。

「本当に?」

「ええ、いいところまではいくんですが……」

古木英大のこれまでの人生について、そこまでの興味はない。

しかしそんな彼の女性癖には少しばかりの興味を覚えた。

「いいところまではと言いましたが、俺で良ければ聞かせてもらえますか。そのエピソードを」

古木は周囲を見渡し、小声で口を開く。

「ここじゃ話し辛いので、場所を変えませんか?」

常連で来ている彼にとっては格好のつかない話でもある。

その気持ちは分かった。

「じゃあ先に俺はチェックして、外で待っていますから」

俺はそれだけ言うと、マスターに勘定を済ませジャズバーから出て行った。

外へ出ると吐く息は白く肌寒い。

もうじき冬になろうとしていた。

五分もしないで古木が出てくる。

「すみません、お待たせしまして」

「場所を変えないと、言い辛い話なんですか?」

「ええ、あそこで話するにはちょっと」

「お腹は?」

「減ってます」

「いい店紹介しますよ」

俺たちは中央通り沿いにあるどさん子ラーメンへ移動した。

「おう、岩上さん、いらっしゃい!」

「今日は知り合い連れてきました」

「おうおう、岩上さん、ありがとうよ」

どさん子のマスターは江戸っ子かと思うほど、威勢がいい。

「マスター、ビールと烏龍ハイ、それとガーリック丼と餃子二つもらえますか」

「おう、合点でい!」

ガーリック丼…、このマスターが考案した焼肉丼なのだが、とても美味しい。

マスターは餃子を仕込み、ガーリック丼を作り出す。

眼鏡を掛けた中年客が「マスター御愛想」と声を掛けているのに、中華鍋を振っている。

「マスター! お会計!」

中年男が大声を出す。

「うるせぇっ! 俺は今な、岩上さんの料理を作ってんだよ。少しそのまま待ってろ!」

「す、すみません……」

マスターの切符の良さはこの店の売りである。

古木はこの状況を見て大笑いしていた。

酒が来ると、彼は早速話を切り出した。

「前にイベントで知り合った子がいましてね…。その子とは何度か食事に行き、もちろん私の気持ちも伝えてあります。だけどその子は彼氏という訳じゃないけど、私と同じような立場の男がもう一人いるらしく……」

「でも何度かデートをそれでも重ねてはいるんでしょ?」

「ええ、それで急に彼女が向こうを選ぶと言い出しまして」

「う~ん、原因は?」

「分かりません」

これだけの状況じゃよく分からないが、何となく分かった事がある。

俺はそれを確かめてみようと思った。

「その子にキスぐらいはしましたか?」

「いえ、タイミングと言うか、中々合いませんでして」

なるほど、これでハッキリした。

「分かり易く言えば、古木君は判断力に欠けている。だから獲物…、あえてその子を獲物と呼ばせてもらうけど、途中で逃げられたんですよ」

「え、どうして……」

「まず一つ言える事は、男と女がプライベートに一対一の状況を作ってくれる。口に出さないまでも、セックスというものは意識します。実際に古木君、その子と会う時それを意識はしてたでしょ?」

「え、ええ、まあ……」

「それに関しては、向こうも同じだと思うんですよ。実際にセックスするかどうかではなくね。それにお互いが好意を持っていなければ、そのようなシチュエーションは成り立ちません」

「それはそうですね」

「この件に関して言えば、数回デートを重ねたのに何もそれをアピールしなかった古木君が悪い。多分、もう一人の相手が野獣になって彼女の心を射止めたのでしょう」

「そんな……」

「俺の感覚で言えば、デートなんてセックスの始まりですよ。それをいつまでもじらすから、こういう事になったと思います」

「でも彼女は……」

「その辺が女って生き物の難しいところなんですよ。要はうまくいくタイミングを自分で知らない内に逃していた訳です」

彼は感心したような表情で俺を見ている。

もっと話をしたかったようだが、明日は開業日である。

俺は彼と別れ、寝る事にした。

 

二千六十二月四日。

岩上整体開業日がやってきた。

近所で親父と仲の良い元雀會の小林澄夫さんが、祝い金を持参して一番始めに来てくれる。

この日は身内や知り合いがドッと押し寄せ、祝い金や花をもらい、たくさんの人たちと話をしている内に一日が終わった。

この中で唯一不機嫌な事は、憎き加藤皐月が来た事だ。

ノックもせずドアを開け、「まったくあなたは偉いわ。どっかの誰かさんみたいに保証人なってくれとか来ないし、自分の力でやってんだもんね」と訳の分からない事を言っている。

そして「はい、これお祝いね」と祝儀袋を渡してきた。

当然俺は「入りません」と言う。

「お父さんからだから」と食い下がる加藤。

「結構です」と俺。

「中身は私からだから」と加藤。

「なら余計に入りません」といった押し問答を繰り返す。

結局加藤は祝儀袋を投げ捨てるように置き、去っていった。

中身を見ると、一万円しか入っていなかった。

こんな金額を渡すぐらいなら、はなっから来なければいいものを……。

今まで引っ張ってきた因縁が、こんな形でチャラにできると思うなよ。

俺は加藤皐月が置いていった祝儀袋をそのままゴミ箱へ捨てた。

金を粗末にするのは良くないというぐらい承知している。

しかし時には例外だってあるのだ。

いくら白い目で見られようと、俺の考えは変わらないだろう。

 

そういえば日々の多忙により、パソコンのメールを全然チェックしていなかった。

メールを確認すると、たくさん届いている。

一つ気になるメールがあった。

ブログ『新宿の部屋』時代に知り合った中野の教会の神父の妻の望。

日時は十一月九日、時間帯的にちょうど親父の首を掴み、殺そうとした時に、届いたメールだ。

あの群馬の先生から初めて電話が掛かってきて、俺を止めた時、こんなメールを送ってくれたのか。

 


二千六年十一月九日。

 

トモさん。

昨日の晩はよく眠れたでしょうか。

相手の心を理解したり、自分の気持ちをわかってもらうことはとても難しいですね。

『忌み嫌われし子』の最後の部分を付け加えることを話してくれましたが、トモさんが最初に書こうと思っていた設定(河合のブログ名と、主人公が『忌み嫌われし子』という名前のブログを作る)のままで終わる小説になっていたら、もしかしたら、お互いに「恨み合い」「憎しみ合い」の関係で何も生み出されずに終わってしまっていたのかなぁ…、とふと思いました。

あのような状況にあって、主人公が父親としての責任を果たそうとしていること、そして自分はこの世に生まれたのは必然ではなく失敗作として生まれてきてしまった、といままで自分の出生を呪っていた河合が、生まれて初めて自分の実の父親から「愛される」という経験をしたこと、今までからっぽになっていて満たされることのなかった愛のタンクにあたたかいものが注がれて、河合は一瞬にして自分の名前を伝えたんだと思う。

聖書の言葉に……。

「愛されること知っている人は、(自分も他人も)愛することができる」とあります。

最後の部分が急に変更されたけれど、小説全体を通してこのメッセージをトモさんは伝えたかったんじゃないかなと思います。

トモさん、あなたが生まれてきたのは、何かの間違いでも、不運にして不幸な出来事でもありま
せん。

自然のいたずらによるのでもありません。

例えあなたの両親があなたの誕生を計画に入れていなかったとしても、神はそうではありませんでした。

神はあなたの誕生を心待ちにしていました。

お母さんがあなたを身ごもるずっと前から、神はあなたのことを心に思い描いていました。

他の誰よりも先に、まず神があなたのことを考えていたと思います。

今あなたが息をしているということは、宿命によるのでも、何かのめぐり合わせでも、運がよかったからでも、偶然の一致によるのでもありません。

あなたが生きているのは、神があなたを造ったからなのです。

神はあなたの身体全体を細かく設計されました。

神は、私たちの人種、肌の色、髪の毛の色、その他すべての特徴を慎重に決定されました。

あなたの身体をオーダーメイドで造られたのです。

それと同時に、あなたの才能とユニークな人格をも決定されました。

成り行きではなく……。

非合法の親というのはありえますが、生まれてきた子供に非合法も何もありません。

多くの子供たちが望まれない子として生まれてきます。

しかし、神にとってはそうではありません。

神は、人間の失敗や罪さえもその計画の中に含めています。

神は気まぐれではないし、間違いを犯すこともありません。

神が造ったすべてのものには意味があります。

あらゆる動植物を、神はその自分の計画に従って造り、すべての人間をその目的に従ってデザインされました。

神があなたを造ったのは、ただ神の愛によるのです。

神は、その愛を与えるためにあなたを造りたいと思いました。

聖書の言葉に……。

「あなたが生まれた時から、わたしはずっとあなたを導いてきた。あなたが誕生した時から、わたしはあなたの面倒を見てきた。あなたが年をとってからも、わたしの態度は決して変わらない。あなたが白髪になっても、わたしはあなたの世話をしよう。わたしがあなたを造ったのだから、わたしがあなたの面倒をみよう」

もし人間を超えた存在、神がおられないとしたら、わたしたちは皆「偶然」、宇宙において天文学的数値の無作為による偶然の産物ということになります。

そしたら、人生には目的も意味も重要性も無くなるでしょう。

何が正しくて、何が間違っているのかと問うことにも意味が無くなると思うんです。

でも、理由があってあなたを造られた神がおられます。

トモさんの人生には深い意味があると、わたしはそう思います。

わたしの信じている部分を書いてしまったので、もしかしたら、気分を害してしまったらごめんなさい。

もう一つの聖書の言葉。

「自分を理解するための唯一にしてもっとも正確な方法は、神がどういう方であって、わたしの為に何をしてくださったのかを知ることである」

トモさんゆっくり休んで下さいね。

 

のぞみ


牧師妻の望。

彼女はこんな長文のメールをあの日、俺に送ってくれていたのだ。

一ヶ月ほど返事をしていない事になる。

俺は宗教などまるで興味は無い。

群馬の先生の一件があるから、神という存在は何となく信じている。

そういった内容の事よりも、望の優しい気持ちがとても心に染み渡り、また嬉しかった。

このメールを百合子に見られるわけには絶対いかない。

修羅場が待っているだけだ。

俺は別のフォルダを作り、メールを保存した。

それから感謝の意を込めた返信メールをする。

こういう子と結婚できたら、幸せな家庭が作れるんだろうな。

 

今日はお祝いの日。

本当の本番は明日以降からである。

夜になれば、営業代わりに川越の街を彷徨い飲み屋へ行く。

長距離で有名な商店街クレアモールを歩いていると、中国人の女の客引きが「お兄さん、マッサージ、マッサージ」と声を掛けてきた。

「いいよ、間に合ってるから」

素っ気なく断り歩いていると、その女はしつこくあとをつけて「マッサージ、マッサージ」と繰り返してくる。

ウザかったので俺はその女を肩で担ぎ上げ、「そんなにマッサージって言うなら、俺の整体に来やがれ」と強引に岩上整体へ運んだ。

「いや~、降ろして~」と背中をポカポカと叩きながら叫んでいたが、俺も酔っていたので周囲など何も気にしなかった。

整体につくと、中国人の肩を触った。

寒い時期に立ちっ放しの仕事である。

非常に肩が凝っていた。

「私、仕事中ね。もう行くよ」

「うるせー! 目の前に交番あるんだから、デカい声出すなよ」

「私、帰るね」

「安心しろ。変な事しないから。肩を楽にしてやるよ。一切金はいらないぞ。暖かいお茶でも飲むか?」

白衣に着替えると、安心したのか中国人女は大人しくなった。

高周波と手技と使い、肩の凝りをほぐしてやる。

足の長さが若干違うので調整し、骨盤のズレを治す。

「お兄さん、凄いね。私、体楽になった。お金払うよ」

中国人女はグルグル両腕を回しながら喜んでいる。

「いいよ、いいよ。俺が勝手にやったんだから。その代わり、君のところに来る客に宣伝しといてくれよ」

「OK、OKね。私、ちゃんと紹介する」

「ははは、ありがとう」

彼女が道端で声を掛ける「マッサージ、マッサージ」が、如何わしいものなのは分かっていた。

ただ実際に行った事がないので、リアルにどんな事をしているのか分からない。

「ねえ、君のマッサージってどんな事をしているの?」

「私、お客さん捕まえる。店に連れて行けば千円ね。一日五千円だから五人連れて行けば、一万になるね」

「いや、そういう給料的なものじゃなくさ。マッサージ内容って?」

「一時間一万と、一万五千円ある。一万円、マッサージ。あと手だけね。一万五千円、マッサージ。あと本番ね」

「思い切り違法じゃねえかよ。どのくらいやってんだ、商売は?」

「う~ん、五年はやってるね」

道路一本超えただけの近距離で、よくそんな商売をやるものだ。

川越は風俗に関して非常にうるさい街である。

以前ファッションヘルスができた事があったが、一ヶ月もしないでパクられたぐらいである。

そういえばあの時の風俗嬢のマドカ、今頃何をしているのだろう?

世界各国にチャイニーズタウンがあるが、中国人の凄さが少しだけ分かったような気がした。

「だから私、おまわりさん来るか、ちゃんと見張ってるよ」

「そういう問題じゃないけどな…。まあいいや。せっかく日本に来たんだ。つまらない事で捕まるなよ?」

「おお、気をつけるね。ありがと、ありがと。私、仕事中ね。そろそろ行くよ」

「ちょっと待って。これ、持ってきな。外は寒いだろ」

俺は来客用に買っておいた使い捨てカイロを二つ渡した。

「お兄さん、いい人ね。ありがと、ありがと」

「パクられるなよ」

「大丈夫。頑張るね」

こうして岩上整体の初日が終わった。

 

開業二日目。

岩上整体の隣の街中華料理の王賛へ挨拶にいく。

 

王賛マスター直伝:茄子の辛味炒め - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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これまで何度も客として行っていたので、王賛マスター夫婦は俺を見て驚いている。

「岩上さん、これからお隣同士よろしくね」

マスターはご機嫌だ。

整体に戻り、患者を待つ。

知り合いは顔を出してくれるものの、肝心の患者が来ない。

始めたばかりなのだ。

仕方がない。

俺は暇な時間、小説をひたすら書いていた。

夜になって見知らぬ中年男性が入ってくる。

「先生、やってんの?」

「ええ、どうしましたか?」

「いや~、一ヶ月ぐらい前なんだけどさ。車運転してて、横から激突されちゃってね。俺の車三回転ぐらいしたんだ。その時左肩を強く打って、肩から上にあがらないんだ。医者も毎日行っているけどね」

「あらら、それは大変でしたね」

「で、あそこの商店街のところで客引きしている中国人のお姉ちゃんいるでしょ?」

「え?」

「ほら、マッサージって通行人に声を掛けてる子」

「ああ、はいはい」

昨日俺が、拉致同然にここへ連れてきた中国人女だ。

「あの子がさ、肩痛いならここ来ればって言うからさ」

「……」

冗談で言ったつもりなのに、本当に宣伝してくれていたのか。

俺は中国人女に感謝を覚えた。

「あれ、黙ってどうしたの? もう終わり?」

「いえ、肩より腕が、上にあがるようになるまでやらせて下さい」

「頼むよ。どこ行っても駄目でさ」

俺は患者の痛む患部を診て、様々な治療法を試した。

身体の奥まで指を入れるには限界がある。

こういう時こそ高周波の本領が発揮されるのだ。

手技で『二点療法』というものがある。

これは痛むところを指で押さえ、別の経絡を押してそこの痛みを感じなくさせる方法だった。

身体はすべての場所に通じ合う箇所があり、その経絡を押すと、痛みが最悪でも治まるのだ。

コツは指先で、相手の血の流れを感じ取れるかどうか。

この辺の感覚はバーテンダー時代の決め細やかな作業に通じるものがあった。

痛みを引き起こす箇所をトリガーポイントと言う。

例えば脇の下。

この箇所は色々な筋肉の繋ぎ目である。

首、背中、腕、胸などすべての筋肉が脇の下と繋がっている。

肩が凝っている人の脇の下を押すと、大抵が痛がるはずだ。

言い方を代えれば、ここを治すとそれだけで楽になるケースもある。

左脇の下を右親指で押さえ、痛がる患者。

トリガーポイントだ。

この時肘より下の部分、総指伸筋というところを左親指で押さえる。

人によって微妙に場所は違うが、そこの経絡を押さえる事で脇の下の痛みはかなり引く。

その右親指で押さえた場所をグリグリ動かしマッサージをするのだ。

すると血流が良くなり、脇の下を押さえる辺りまで血が流れ込む。

血行が良くなれば、凝り固まっていたものが自然とほぐれる。

俺はこの二点療法で押さえる指の部分に高周波をつけた。

電気を流し、さらに指で悪い箇所を見つける。

高周波の二点プラス指を加えた新しい療法。

『三点療法』と名づけ、得意技にしていた。

医者は知識があるが、原因が分かっても一回で治そうとする人は少ない。

俺は医者ではない。

だからこの一回で治すぐらいの気構えで患者に接した。

「あれ? 肩より上に腕があがっているよ? 先生、大したもんだ」

患者は嬉しそうに腕を上げ下げしている。

一時間半ぐらい時間を掛けた甲斐があったものだ。

「それは良かったですね」

「何で? 何回も医者にも行ったし、接骨院だって行った。でも、こんなに腕が上がる事なんて一回もなかったぞ?」

「だから私がこうやって整体を開業したんじゃないですか」

「申し訳ないなあ…。あ、先生、いくらだい?」

「えっと五千円ですが、新規キャンペーン中ですので三千円でいいです」

「一時間半もやってもらって、何を言ってんだよ。先生、少ないけど取っといてくれ」

そう言いながら患者は一万円札を手渡してきた。

二日間で患者が一人。

それでも充分過ぎるぐらい嬉しかった。

こうやって心を込めてやっていけば、いつか報われるさ。

嬉しそうな表情で出て行く中年患者を見て、俺は深々と頭を下げた。

 

少ないながらも患者が徐々にやってくるようになった。

それでも正直物足りなさを感じる。

考えてみればインターネット上のブログで整体開業と告知し、あとは駅前とはいえ店頭に自分でデザインしたものを貼っているだけ。

まともな宣伝を何もしていないのだ。

何かを考えていると、弟の徹也が来てあれこれと口うるさい事を言い出してくる。

やろうと思っているところへ似たような事を言われるのは、非常にやる気を削がれるものだ。

「自分の店なんだから、俺の好きにするよ」

「それは分かるけど、兄貴は自分のしたいようにじゃなく商売なんだから、もっと新聞広告を打つとかさ。それにもうちょっと人の意見聞いたほうがいいよ」

良かれと思って言うのは分かる。

しかし時としてそれが邪魔に感じる時だってあるのだ。

「だからいいって! 俺の店なんだ。好きなようにやるから」

「家族だから心配して本当の事を言っているんだぜ?」

一見言っている事は正論だが、徹也の口癖でもあった。

「家族だから」という言葉で自分の主張を通し、俺を思うように操りたいようにしか感じない。

それにオープン間もないのだ。

自分の自由にしたっていい。

あまりにもしつこかったので、話の途中怒鳴りつけ、会話を終わりにした。

弟が帰るとイライラしながら、患者が来るまでの時間を潰す。

精神が安定していない時に小説は書けない。

文章をまとめるという部分で、どうしても別の事が頭をよぎりうまく文字に魂を込められないのである。

来年の一月で小説を書き始めて丸三年。

結果が出る訳でもないのに、俺は何故小説をこうしてずっと書いているのだろうか?

処女作『新宿クレッシェンド』は歌舞伎町時代、急に書き始めた小説だった。

どうしても人間的に許せないオーナー北中の元で、当時働いていた。

激しい怒りを感じていた俺は、従業員の山本に「あの馬鹿のやっている事をそのまま小説にしたら面白くない?」と聞く。

山本は「岩上さんならできますよ」と何の確信もない事を澄ました顔で言っていた。

俺にパソコンのスキルを授けてくれた先輩の坊之園智こと坊主さん。

パソコンを知れば知るほど、坊主さんのスキルの凄さが分かった。

絶対に追いつけないほどの距離を感じ、どうしたら少しでも追いつけるか考える。

それがパソコンを使って絵を描くという部分と、小説を書くというものだったのだ。

もう一つの理由。

ピアノを捧げたいと弾くきっかけになった女性品川春美。

その子にただ格好をつけたかったのだ。

書く前に『俺、小説をこれから書いてみる』と短いメールを送った。

しかし当然返事はこなかった。

しばらく考える。

腐ったオーナーのありのままを書いたとして、それが世に出たとしよう。

リアルに書いたはずなのに、読者は漫画か映画の世界だと思い込む恐れがある。

何故なら歌舞伎町という街に対し、世間一般は怖い街程度の知識しかないからだ。

それでは書く意味合いが何もない。

始めは歌舞伎町の入門編的な作品を書き、それが世に受けるとしたらどうだろう。

ほんの序の口の部分だけで作品を成り立てさせる。

それでも読者が面白いと感じてくれるなら、そのあとの続編はすべて受け入れられるんじゃないか?

歌舞伎町の一角にある雑居ビルの地下一階で、俺はワードを起動し小説というものを何の知識もなく初めて書き始めた。

主人公には俺の幼少時代の虐待部分をプレゼントしよう。

執筆期間十八日間。

歌舞伎町にある事務所で書き、地元の行きつけのJAZZBarスイートキャデラックでひたすら書き続けた。

間で三日ほど徹夜もした。

こうして『新宿クレッシェンド』は完成したのだ。

当時スイートキャデラックのマスターの奥さんに罵倒された事がある。

こいつは客で通う俺に対し、何か勘違いというか思い違いをしているようだ。

「あんた、いきなり何、小説なんて書いているの?」

まず客に向かって『あんた』という言い方、大きな間違いである。

そして俺よりも一つ年下なので、タメ口を聞かれる筋合いもない。

過去ちょっとした経緯があった。

俺が三十歳になってピアノを弾き始めた頃、このスイートキャデラックでよくピアノを弾かせてもらった事がある。

いきなりピアノを始めた俺に対し、常連客は驚きと共に「何でリングの上にあがらないんだ?」と文句も言っていた。

それはここの客だけでない。

多くの知り合いに言われた事だった。

闘う事よりも一人の女の為に格好をつけたかったのだ。

この時もマスターの奥さんは、対抗意識を妙に燃やし「私も常連客のピアニストにピアノを習う事にしたの。だからあんたより私のほうが先に曲を弾けるようにするから」と酒を飲んでいる最中に言ってきた。

俺は二曲だけだが、目をつぶっても弾けるまでのレベルになり、二年半の時間を費やした。

毎日同じ曲を七時間弾いた事もある。

そして市民会館で発表会をやり、ピアノを封印した。

それで食っていけるレベルでないのは自覚している。

それに捧げるべき彼女が会場へ来なかったのが、一番の原因だった。

逆に奥さんは曲が完成せず「私は歌を唄うほうが合っているから」と、ピアノを途中で辞めていた。

俺から見れば、逃げたようにしか見えなかった。

このような経緯があったので、俺は怒鳴りつける。

「うるせえ! 俺がどれだけ魂込めて書いているのか分からねえ奴が、簡単に口を挟むんじゃねえ。偉そうな事を抜かすなら、途中だけど、読ませてやるよ。読んでから抜かしてみろ」

「私は完成したちゃんと本になったものしか読まないの」

「だったら偉そうに言うな」

「あんたの集中力は認めるよ。ピアノを弾いた時もね。でもね、一つぐらい生涯掛けてこれだってものを持ってみなさいよ?」

「何も知らずに物事を抜かすな!」

こんなやり取りがあった。

リラックスして飲みに行くはずの酒が、酷く不味くも感じた。

つい俺は過去の嫌な事を思い出してしまうところがある。

そういった陰なものが、憎悪という形で醜く心の奥底に蓄積されていく。

俺にとって小説は、それを浄化する為に必要な作業なのかもしれない。

暇だからこんなネガティブな事を思いつくのだ。

患者が来たら、笑顔で迎えないと駄目だろう。

このままじゃ経営など成り立ちはしないのだ。

窓を開け、室内の空気を入れ替える。

軽く伸びをして椅子へ戻ると、弟の徹也が「兄貴、これ使ってよ」と整体に入ってきた。縦六十センチ横四十センチぐらいの黒い器械を腕に抱えながら持っている。

「ん、何それ?」

「空気清浄機。結構高かったんだぜ。俺、あまり金ないからさ。これ兄貴にあげるよ。整体なんだから、空気だって良くなきゃいけないだろ」

「……」

先ほど弟に対して恨みつらみを思っていた自分が恥ずかしくなった。

「早く設置しなよ」

「あ、ああ…。徹也、ありがとうな」

今度ばかりは俺の負けだ。でも心地が良かった。

 

駐車場の管理から転職し、家で働くようになった伊藤久子が整体へやってきた。

小説を貶された過去が、どうしても俺には引っ掛かりがある。

「智ちゃん、開業おめでとう。遅くなったけど、これ」

そう言いながら伊藤は俺に祝い金を手渡してくれた。

彼女なりの心遣い。

俺は過去の小説の事をずっと拘っていたが、もうそろそろこの辺で水に流そう。

伊藤の行為に感謝を覚え、見方を変える事にした。

「智ちゃん…、私、肩と首が凝っちゃってね…。お願いできる?」

「もちろんですよ、伊藤さん」

誠心誠意施術する。

ちょうどその時百合子が整体へ来たので、映像を撮ってもらう。

施術代を払おうとしたが、祝い金までもらっているのにそれは受け取れないと丁重に断る。

伊藤は身体がとても楽になったと喜んで帰っていく。

「智ちんの小説を貶した人だよね、今の人」

そうだ、俺は『新宿の部屋』で酷評という記事を書いた際、百合子にそれを知られていたっけ。

伊藤との仲が雪解けになった今、それを説明するのが難しい。

「色々あったけど、伊藤さんも家で働く事に葛藤あったみたい。俺にも気遣って、こうやって祝い金まで持って来てくれたし、俺も過去のいざこざはもういいかなとね」

「ふーん、そうなんだ」

小説『忌み嫌われし子』をあそこまで罵倒した百合子。

俺の中であの日から百合子に対し、どこか冷めた自分がいる。

「あの人のせいで智ちんは一年ぐらい小説書けなかったんでしょ?」

「まあ、そうだけど…。いつまでもそこに拘っていてもさ、向こうだってこうやって誠意持ってわざわざ整体に来てくれたんだし……」

伊藤を責める百合子だが、それ以上に俺の小説を罵倒したじゃないか。

それを言うと揉めるのが分かるので、自分の中で収める。

何となく二人の間がギクシャクしていた。

 

患者が来なければ、小説を書けばいい。

そんな単純な理由で始めた岩上整体。

実際に患者が来ないと、イライラで小説を執筆するどころじゃない。

もっと経営に関して色々と考える必要があった。

ここは新宿歌舞伎町ではないのだ。

金を持って使いに来る街ではない。

頭を切り替えなければいけなかった。

平均で患者数が一・五人。

二日で三人ぐらいくればいいぐらいだった。

駅前で高い家賃を払っているというのに、これでは駄目だ。

知り合いはよく顔を出してくれるが、それは最初の内だけである。

JAZZBarスイートキャデラックのマスターが来て、俺の大好きなウイスキーのグレンリベット十二年を持ってきた。

「お店抜け出して来てるのでゆっくりできませんが、これ、おめでとうございます」と言い、酒だけ渡して帰ってしまう。

マスターの心遣いが嬉しかった。

暇なのでウイスキーのグレンリベットをコルク栓を抜き、ラッパ飲みしていると、入口が開く。

「すみません、肩が痛くて…、あっ!」

「あっ!」

中年女性の患者はまともに俺がグレンリベットをラッパ飲みしているところを見て、固まっていた。

さすがにマズい。

俺は酒をテーブルの上に置き、「どこか具合悪いところありますか?」と優しく聞きながら立ち上がったが、その女性はすごい勢いで逃げてしまう。

まあしょうがないか……。

あの女性、うちに二度と来る事ないだろうな。

さて気持ちを切り替えるか。

まだ一週間なのに、ご祝儀だけで二十万円を越していた。

ありがたい話だ。

だが、これに甘える訳にもいかない。

駅前なので様々な営業マンだけは来る。

駅のホームにある大型看板の営業が来た。

暇だと言うのもあって、話だけは聞く事にする。

ああいったところで広告を打てる商売なんて、塾や大学の教育関係、そして大手企業や病院などぐらいだ。

こんな個人でやっている商売が打てるような金額ではないのだ。

しかし物書きの端くれとして、後学の為に金額ぐらい知っておくのは悪くない。

「ぶっちゃけあれ一枚でいくらぐらいするの?」

「ええ、以前は高かったんですが、こんな時代ですので当社もかなり安くしたんですよ」

営業マンはバックを開け、値段表を渡してきた。

『現在三割引きセール中。一ヶ月八十万円が五十六万』

目玉が飛び出そうなぐらいビックリした。

ホームにある大きな板に広告を一枚打つだけで、こんなにするのか……。

歌舞伎町のぼったくりが非常に可愛く見えた。とんでもない金額である。

「どうです、先生?」

どうやってうちの商売で、こんな金額を出せと言うのだろうか?

「ふ~ん、駅のホームにうちの看板が出て、五十万ちょいでいいのか……」

ワザと言ってみた。

「いえ、最初に看板のデザイン料も掛かるので。二十万ちょっとでできますが」

「あのさ、どうやって五十万ちょいの金を捻出するのか教えてくれよ」

駄目だ。

こんな奴と話していると、イライラする。

「先生、電車で通うみんなが先生の整体を見るんですよ?」

「だからね。うち、ベッド二つね。でも俺の身体は一つ。せいぜい一日で多くても七名診れば、一杯一杯な訳ね。どうやって五十万もそれで捻出するのよ?」

今、勝手にキャンペーン中とやってしまったから、七名×三千円で一日二万一千円だとする。

休まないでそれぐらい来たとして、三十日で六十三万円。

いや、言い方を代えれば今のやり方だと必死に休まずやって、六十三万なのだ。

しかも開業時間から終わりまで、まったく患者が途切れない状態でである。

五十万ちょいの駅看板なんかの事を考えるより、自分の店の心配をしないと駄目だ……。

「悪いけど、帰ってくれ。今、仕事中なんだ」

「え、先生。急に冷たくしないで下さいよ」

「うるさい。帰れ。こっちはそれどころじゃないんだ」

一番良くて六十三万円。

しかし現状を考えると、一日で三千円から六千円程度の売上しかないのだ。

休まずやっても、よくて九万円から十八万円……。

家賃で十三万六千五百円。

高周波のリース代で三万四千五百円。

電気代や水道代なども入れたら、首を括るようじゃないか。

これはヤバい。

ヤバ過ぎる。

一週間経つが、飲み屋の女どもは誰一人来やしない。

あいつらは本当に口先だけだ。

「先生、広告ですが……」

「うるさい。あっち行け!」

俺は営業マンを追っ払う。

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