2024/11/1
前回の章
家に帰り部屋で寝転がっていると、一つ気になっていた事を思い出す。
俺の処女作『新宿クレッシェンド』が今『第二回世界で一番泣きたい小説グランプリ』で二次選考まで通過しているが、仮に内容を盗作されたらどうするかという点である。
自民党副政務官衆議院議員の中野清。
和菓子で多数の店舗を持つくらづくり本舗の社長でもあるが、その人の選挙の名誉会長を務めているおじいちゃん。
ここはコネを使っとくか。
俺は一階に降りて、おじいちゃんに声を掛ける。
「ねえねえ、おじいちゃん」
「ん、何だ、智一郎」
「今度さ、中野清さん家に呼んでくれない?」
「政治家を呼びつけて何を言うんだ?」
「ほら、俺小説書いているでしょ? 今ね、小説のグランプリってあるじゃない」
「直木賞とかああいうのか?」
「まああれとは種類違うけど、そんなようなもの」
「それで?」
「呼んで、清さんに証人になってもらいたいの」
「何だ、その証人って?」
「おじいちゃんの顔潰すような事はしないよ。だから家に呼んでよ」
不思議そうな顔をしながらも、おじいちゃんは家に中野清を呼んでくれた。
「甲子郎さんのお孫さんの智一郎君だね。今日はどうしたの?」
俺は『新宿クレッシェンド』を印刷して作った本、そしてデータの入ったCDをテーブルに置く。
万が一この作品が世に出ず、内容だけどこかで盗作された場合を考え、この作品の証人になってほしいと伝えた。
「はあ? 出版社を紹介しろとかじゃなく? これを私が持つのかい?」
「ええ、自分が言ってるのは、ただの保険なんですよ。もし盗作された時に政治家の中野清さんがこの時点で作品データ持っているから、これは間違いなく盗作ですよってなるじゃないですか」
「うーん、君の言ってる事が私には分からないが、これを持っていればいいんだね?」
「はい、よろしくお願いします」
腑に落ちない表情のまま、清さんは帰った。
よし、これで俺の長男であるクレッシェンドの盗作は何とか防げる。
あ、明日ノア来るから俺の小説『打突』を印刷して本にしとかなきゃ。
自身の現役時代を元にした作品『打突』。
これを明日三沢光晴さんにプレゼントしよう。
プロレスリングノアが川越にやってきた。
招待券をもらっていたので、俺は家の目の前にあった映画館ホームランの社長だった櫻井さんを誘う。
六つ上の先輩だし生まれた時から近所だが、これまで整体時医療機器メーカーを紹介してもらったくらいであまり付き合いはなかった。
櫻井さんと本川越駅ビルペペへ向かう。
前に全日本プロレスがやった興業と同じ場所である。
会場入口付近に永源遥さんがいた。
俺は久しぶりに会い、近況を報告する。
ジャイアント馬場社長らと悪役商会として戦っていた永源さんは、馬場社長と見比べるから背が小さく見えるが、実際は百八十センチちょうどの俺と身長は変わらない。
忙しそうな三沢さんとバッタリ会う。
「最近何してんの?」
「ここからすぐのところで整体を開業しまして、小説も書いています。あ、良かったらこれを三沢さん」
「へー、こんなの書いてんだ……」
三沢さんは『打突』を受け取り、俺を見ながらニヤリとする。
この日三沢光晴さんとのツーショットがほしかったが、ノアで第一試合目に出場し、そのあと新日本プロレスのメインで藤波辰爾とタッグを組んで戦いに行くので本当に忙しそうだった。
さすがに背中を見続けてきた偉大な先輩の大切な時間を俺との写真などと言い出せない。
一試合目に登場した三沢さんは、時間切れ引き分けまで戦ってから、急いで東京ドームへ向かう。
興業を終え、櫻井さんから「一杯飲んでから帰るか」と誘われたので、近くの飲み屋を探す。
クレアモールへ入る途中にひもの屋という居酒屋が二階にあるので、そこへ入る。
二人で結局十数杯ずつ酒を飲み、ついつい長く飲んでしまう。
そこへ中学時代の悪友ゴリから電話があり、ひもの屋で飲んでいると伝えるとやってきた。
俺は駄目男ゴリを先輩である櫻井さんへ紹介する。
悪ノリした櫻井さんは「そんな女日照りじゃ、川越市長の娘でも呼ぶか」と、現川越市長船橋功一の長女をひもの屋へ本当に呼んでしまう。
彼女の弟は小学時代の同級生だった船橋一浩であり、俺自体は昔から面識はある。
櫻井さんが酔い潰れ、会計をしようとすると四万八千円と請求された。
「はあ? 何でそんな行くの? 打ち間違えじゃない?」
俺と櫻井さんで多めに見て三十杯飲んだとして、舟ヤンの姉ちゃんとゴリは二杯程度しか飲んでいない。
居酒屋で五万近い金額なんていくのか?
何度抗議しても、キッチリ金を取られた。
ひもの屋、ここは二度と行くのはやめよう。
自分自身の小説以外、ほとんど興味を示さない俺。
小説なんて書いている人間など五万といるだろう。
暇な時間を利用して適当にインターネットを見ていると、山雨乃兎という人のブログに辿り着く。
この人本を出しているのかと思い、書いた記事を数箇所読んでみる。
分かったのはマイナーな出版社で安い費用の自費出版で、金も人から頭を下げて借りた状態のようだ。
ただ自身の作品を世に…、という点については想いは共通しているなと思った。
俺は絶対に自費出版などしない。
去年の新風舎がいい例である。
それでも彼の執念めいた思考は勉強になった。
自費出版でさえ一冊の本にするのに、こんなに苦労するものなのか。
俺は素直な気持ちで、山雨乃兎のブログへコメントを書く。
すぐ彼から『智一郎の部屋』にコメントが返ってきた。
似たような価値観を十歳年上の彼に感じ、チャットを使い意見交換をするようになる。
山雨は「岩上君が山雨さんと言ってくれるのが、何か嬉しくてね」と何度も言う。
互いのいいところを尊重し合う仲なら、年齢問わず良いものだなと感じた。
深夜になり、岩上整体を閉めようとすると、大きな声が聞こえた。
その方向を振り向くと、親父の弟である修おじさんと仲のいい蓼沼さんがこちらへ歩いてくる。
酒を飲んで酔っ払い、甥っ子の俺のところへ顔を出しに来たのだろう。
蓼沼さんはレントールというレンタル会社の社長。
修おじさんはリフォーム会社、アオイトレーディングの社長。
岩上整体の看板や内装は、すべて修おじさんが業者を手配してやってくれた。
中へ招き入れると「智一郎、おまえのところの機械でダイエットできるそうじゃねえかよ」とご機嫌だ。
俺は簡単に説明すると、「いいからとっととつけてみろ」と腹に高周波をつける。
「じゃあ上げていきますよ」と電圧のボリュームを上げると、修おじさんは両手で腹を押さえながら「うぅ…、痛え…、痛えよ……」と呻き出す。
その様子に俺も蓼沼さんも我慢できず大笑いした。
この人たちには、俺が学生時代から色々世話になっている。
家の駐車場に修おじさんの車が深夜停まっていると、決まって隣のトンカツひろむにいた。
金も無い俺はひろむへ入り挨拶に行く。
すると「おう、智一郎。好きなもん食ってけ」とご馳走してくれた。
何度ご馳走になった事だろうか。
蓼沼さんも道端で俺と会うなり、拉致同然にキャバクラへ連れて行かれる。
もちろんすべてご馳走してくれた。
「修ちゃん、そろそろ帰ろうよ。もう眠い」
蓼沼さんが修おじさんを促す。
「おう、智一郎いくらだ?」
「いえ、修おじさんから代金なんて受け取れませんよ」
「馬鹿野郎、ちゃんと取っとけ」
そう言って俺に一万円札を渡してくる。
役員会議の時も、南大塚の支店問題の時も率先して背中を見せてくれる叔父。
俺はタクシー乗り場まで見送り、見えなくなるまで深くお辞儀をした。
「すいませーん」
元気いっぱいな声と同時にドア開けて入って来る子が来た。
「あ、似てるー!」
「似てるって何が?」
「先生の似顔絵、街中に貼ってあるでしょ」
そういえばコツコツ追加しつつ岩上整体川越名店街は協力店五十七店舗になっていた。
川越の中で五十七軒の店が、岩上整体の広告を貼ってくれているわけだ。
「ははは、元気がいいねえ。どうしたの?」
「先生、あのね…、私エステシャンやってるんだけど、首とか肩とかもうバリバリに凝っちゃって」
「そこへ座って。では、問診表書いてもらえるかな?」
「ねね、先生」
「はい、何でしょう?」
「チラシに書いてある千円ってほんと?」
「嘘ついたらマズいでしょ。本当だよ」
「やったー。じゃあ私書くね」
エステシャン福本英美、十九歳。
「今日は何でうちに?」
「先生の顔がチラシにそのまま載ってるでしょ? 似顔絵のもあるよね。結構私のタイプだったの」
まだギリギリ十代の子から堂々と言われると、さすがに照れてしまう……。
うつ伏せになってもらい、岩上流三点療法を使う。
首や肩凝りは、この方法が一番治すのが早い。
「多分首元が縮んでいるだろうから、仰向けになって」
「えー、何かドキドキするー」
俺は彼女の後頭部の首元へタオルを引っ掛ける。
「ではゆっくり深呼吸して。大きく息を吸って」
首元のタオルの根元を持ち、右へゆっくり首を捻る。
次は左へ。
「はい、また息を吸って…。はい、大きく吐いて……」
英美の身体がリラックスした瞬間、俺はタオルをクイッと引っ張る。
バキバキバキ……。
「うわー、何これー」
「首の牽引したの。それだけ縮んでたって言い方のほうが、分かりやすいかな?」
「凄い気持ち良かったー」
若いのに妙に色気のある子だ。
「はい、起き上がって大丈夫だよ」
「んー、もうちょっとこのまま先生の顔見てるー」
ひょっとして誘われているのか?
「ごめん、君みたいな若くて可愛い子にそんな風に言われると、狼になっちゃうから勘弁して」
「えー、やだー。でも先生なら狼になってもいいかな」
そう言いながら、ジーッと俺の顔を見ている。
うん、俺は独身だし彼女も現在いない。
これって大チャンスな感じなのか?
「君の唇、凄い魅力的だね」
「えー、本当に?」
「うん、見ているとキスしたくなっちゃうくらい」
「してもいいよー」
一回り以上年下の子と、しかも風俗とかでなく普通の一般の子とこんな機会、今後絶対無いような気がした。
顔を近付けるとそのまま優しくキスをする。
まったく嫌がる素振りも無い。
「ちょっと待っててね」
俺は整体のドアの鍵を閉め、札をひっくり返して休憩中にした。
「最初見た時、先生セックス上手そうだなーって思ったの」
据え膳食わぬは男の恥とはこの事か……。
三十四歳にして、とても貴重な体験ができた。
勢い良くドアが開く。
「あー、やっぱ先輩だ!」
突然岩上整体に顔を出したのは、後輩でありコテコテヤクザ山田弘也だった。
他の患者の施術中だったので、「少々お待ち下さい」と言い、慌てて外に連れ出す。
「今、患者来てんだよ」
「先輩水臭いっすよ」
「馬鹿野郎、おまえみたいなコテコテのヤクザが中にいたら、患者がビビって来なくなるだろ!」
「あ、そうっすよね。すんません」
「まあ、来てもいいけど、夜な。店閉めてからならいいよ」
「分かりました。じゃあ、夜来るようにしますよ」
悪い奴じゃないんだけどな。
どうもあいつは、ヤクザとしての自覚が欠け過ぎる。
いや、ヤクザなんだから悪い奴か。
うちの整体にヤクザが運びってるなんて噂が立ってみろ。
ただでさえ暇な整体が、よりヤバくなる。
山田にはキッチリ言っとかないとな。
暇を持て余しているのか、山田は夜の十一時に店を閉めているとやって来る。
「先輩、もういいっすよね」
「まあいいけど、結構おまえも暇なんだな」
「酷いっすよ。可愛い後輩が先輩慕って顔出しに来てるのに」
「まあいいや、上がりな」
近年の暴対法でヤクザの締付けは年々酷くなり、青色吐息の人間が増えたようだ。
「まあただうちらも黙って弱る訳には行かないすからねー。いずれ機を見て……」
「気持ちは分かるけど俺は一般人なんだから、ここでそういう会話はやめろって」
「あー、すんません、先輩。ところで整体の経営のほう、どうなんすか?」
「うーん、やっぱ厳しい事は厳しいよね」
「先輩! 俺の顔の広さを舐めないで下さいよ」
「そんな張り切らなくても徐々に広がっていくから大丈夫だよ」
きっとヤクザな患者だろうから、遠回しに断っておく。
「あ、そういえばさ、山ちゃん」
「はいはい、何でしょう?」
「いくら金積んだら、殺しとかってするの?」
山田は吸っていたタバコをポロッと落とす。
「何すか、いきなり物騒な…。誰を殺るって言うんですか?」
俺は家の現状を教え、親父と極秘で籍を入れ、家に入り込んできた加藤皐月の事を簡単に話した。
「いやいや、先輩ね…。うちらの稼業でご法度なのが、親殺しなわけなんですわ。一応その人、戸籍上は先輩の母親になるんですよね?」
「まあ世間一般で見たら、そうなっちゃうね。本当に虫酸が走るけどね」
「一旦落ち着きましょう、先輩! やっぱ親殺しは駄目ですって」
後輩であり、ヤクザ者に諭される俺。
何だか複雑な心境だった。
徹也の結婚式以来休んでいない。
開業して休んだのはたったその一日だけ。
それでいてイマイチ収入に繋がっていないジレンマが、俺を疲れさせているのだろう。
一回ゆっくりしてみるか。
俺は群馬の先生へ連絡を入れ、行く日にちを決める。
ちょうど明日が空いているというので予定を入れた。
うん、明日は休もう。
リピートする患者も増えつつあるが、どうしても整体へよく来るのが、ただ顔を出しに来るだけのチャブーくらい。
あの野郎…、先日うちに川越商業の女子高生三人組がいた時、ウハウハしながら入ってきやがって。
そのあとも「何で岩上のところに、女子高生が三人もいるんだよ」としつこかったな。
初診千円だからだよと言いたかったが、高校生相手に商売するわけにまいかないので、俺は彼女たちのみ毎回千円でいいよとは言っていた。
チャブーがまた岩上整体にやって来た。
コイツは暇潰しに来ているだけで、一度も施術を受けた事さえ無い。
「やーやーやー、どうもどうも」
「患者来たら、とっとと帰ってくれよな」
「分かってるって。そんな冷たい事言いなさんなよ」
「冷たいとかそういう問題じゃなくてね……」
「あ、すっかり忘れてた!」
「何が?」
「今日は写真撮影の日でね」
「はあ? 何の?」
「いやいや、ネットでそういう掲示板があるんだよ」
そう言いながらニヤけるチャブー。
何となくだが理解できた。
だからコイツ、ネット上で『写真家』って名乗っているのか。
「いししし…、今日の子は一万二千円で撮影OKなのよ」
「裸の写真撮るだけ?」
「手でやってもらうには、別途料金が掛かるんだよね。相場だとプラス三千円くらい」
「まったくしょうがない奴だな…。昔みたいにドラム叩いていればいいのに」
「いやいや、ドラムはもう懲り懲りだって」
チャブーは小学中学とブラスバンド部の部長を務め、屈指のドラマーだった。
あのヤマハからスカウトされ、講師をしていたほどだ。
「何で懲り懲りなのよ?」
「ほら前にヤマハでやってたじゃない。結局ドラムやる奴なんて少ないからさ、講師って言ったって週に二回くらいしか無い訳よ。そんなんじゃ食えたもんじゃないよ」
確かに食っていけないんじゃ、肩書きなんて意味が無い。
だから俺は歌舞伎町での生活が、一番長かったんじゃないのか。
チャブーは話すだけ話して帰る。
入れ違いに中学時代の同級生飯野君が顔を出す。
チャブーと違って真面目な彼はとても親孝行だ。
女手一人で彼とその妹を育てた母親と一緒に住んでいる。
凄いのが三十四歳の年で、一軒家をローンとはいえ買った事だ。
真面目に仕事一辺倒で来た飯野君は、俺ら世代の模範になるべき存在だと思う。
中学の時弁当を持って来て、彼は弁当の中に入っている生姜焼きと卵焼きをくれた事もある。
それを話すと「とにかく母に弁当には生姜焼きと卵焼きだけは、絶対に入れてくれと頼んでいたんですよ」と恥ずかしそうに言う。
彼の母親も岩上整体へ連れてきてくれ、施術を受けた事もあった。
クソ野郎ばかりが不思議と集まる俺の中で、飯野君だけは特別な存在だ。
「明日も早いので」と飯野君は帰っていく。
俺は見送ると整体を閉める。
さて、明日は群馬か。
群馬の先生のいる高崎市へと向かう。
前までは百合子が隣にいたが、今は一人。
少し寂しい気分にもなるが、もうあの精神的な苦悩は味わいたくなかった。
「整体の開業おめでとうございます。まずはこれを……」
そう言って群馬の先生は祝儀袋をテーブルの上に置く。
「え、ちょっと待って下さいよ! 駄目ですって、こんなの」
「いえ、これはお受け取り下さい。そして好きな事にパーッと使って下さい」
おそらく中身は一万円入っている。
群馬の先生のところの料金は二時間で三千円しか取っていない。
さすがに受け取れないと言うも、頑として先生は受け付けなかった。
ありがたく頂戴する事にする。
「あ、報告遅れましたが、百合子とは別れました……」
「ええ、聞いてますよ」
「え、誰にです?」
「あの子もここには来ますからね。岩上さんにあまり強要しないほうがいいですよとは、散々言っていたのですが……」
そう、先生の言う通り俺は自由にやらせてもらうのが、多分一番力を発揮すると思う。
「さすがに限界でした…。娘の里穂と早紀には申し訳ない事をしたなとは反省しています」
「あなたはもうステージを降りたのです。だからまずは自分の事を気にしましょう」
それはそうだ。
俺の言った事など、ただの奇麗事である。
「そうですよね…。整体と小説…、これを頑張るしかないんですよね」
「うーん、あなたはこれから愛に苦しむでしょう」
「え、どういう事ですか?」
「私から言えるのはそれだけです」
愛に苦しむ?
一生彼女できないとか?
いや、それは無いだろ。
先日だってエレベーターガールとか美味しい思いはしているもんな……。
「あ、先生! そういえば処女作の『新宿クレッシェンド』が賞に出してて今、二次選考通過しているところなんですよ」
「ですから前に数年後面白いですよと、言ったじゃありませんか」
「賞取れるって事ですか?」
「そんなの私が関わっている訳じゃないから分かりませんよ」
分からないけど、面白い?
先生の言葉はいまいち分からない事が多い。
「今の整体はあなたにとって天職ですよ。流れを大切にしなさい」
「うーん…、でも経営が難しいんですよね……」
「あら、珍しく暗いですね。大丈夫よ、あなた、とても白衣似合いますから」
「先生、俺の白衣姿なんて見ていないじゃないですか」
「とにかく流れを大事に。それは覚えておいて下さい」
「流れを大事に…。了解です」
帰り道、一つの言葉がずっと引っ掛かっていた。
俺は愛に苦しむ……。
まあ今は一人になって気楽さを楽しんでいる部分がある。
愛か……。
俺は品川春美の顔を思い浮かべた。
そういえば整体開業したとメールしたけど、連絡一つ無いなあ。
近所の小林澄夫さんが広瀬病院へ入院したと聞いた。
俺の母校中央小学校の目の前にある病院だ。
岩上整体からも、家からも徒歩五分程度の距離なので、お見舞いに行く。
俺が生まれた時から色々面倒を見てもらった澄夫さん。
お囃子の雀會騒動の時は、俺の話を真剣に聞いてくれ協力もしてくれた。
澄夫さんにしても、奥さんの加代子おばさんにしても、俺は小さい時から無償の愛をもらっている。
岩上整体開業時だって祝い金を持って来てくれた。
加代子おばさんは、たまに施術を受けに来てくれている。
「澄夫さん、入院生活じゃ退屈でしょ? 何か食べたいものとか買ってきてほしいものってありますか?」
澄夫さんは舌を見せる。
「智ちゃんよー、俺はさ、舌を手術で切っちゃったから、ものもロクに食えなくなっちゃったんだよ。欲しいものも特に無いから大丈夫だよ。ありがとう」
何かしてあげたかった。
あ、そうか。
俺は処女作の『新宿クレッシェンド』を印刷し、本にして澄夫さんへプレゼントした。
「智ちゃん、気持ちは嬉しいんだけどさ。俺はもう目も悪くなってしまって、文字が小さくて読めないんだよ」
A5のサイズで作っているから字が小さい。
それならプリンター用紙の標準サイズのA4でなら文字は二倍の大きさになる。
俺がその大きさで印刷し、再び本を持っていく。
澄夫さんはちゃんと読んでくれ、感想まで言ってくれる。
「智ちゃんよー。俺はポーカーとか新宿とかはよく分からないけど、話は面白かったよ。自分の子供の頃の経験を元にしたんだなあ」
出て行ったお袋の事も澄夫さんは昔から知っている。
年を取ってどんどん弱ってしまっているけど、長生きしてほしいなあ。
暇な時は小説の執筆をする。
疲れた時は気分転換も兼ねて、隣の王賛へ食事に行く。
王賛の料理は中々絶品である。
茄子の辛み炒めも気に入っているし、茄子の味噌炒めも大好きだった。
味噌の使い方が絶品なので、俺は生姜焼きでなく肉を味噌焼きバージョンも作ってみたらと助言すると、マスターは快く作ってくれた。
メニューが手書きなので、俺は整体に戻りデザインしてプリントをする。
席に置いてある透明のケースにちょうど入る大きさで作って持っていくと、マスターも奥さんも大喜びしてくた。
それからというものマスターは新しいメニューを作ると、まず俺のところへ試食で持ってきてくれ味見を頼む。
「岩上さん、これメニューに出して大丈夫かな?」
「もちろん大丈夫ですよ。マスターの料理美味しいですからね」
「申し訳ないんだけど、この料理の写真撮って、またメニュー作ってくれる?」
「いいに決まってるじゃないですか」
こんな感じで隣とはいい関係を築いている。
そういえば上の二階の焼肉炙りやのメニューも作ってやるか。
あの無愛想なおばさんも、少し鼻の穴広げて喜ぶだろう。
透明のケースにパウチして持っていくと「あら、まー」と無愛想ながら鼻の穴が少し膨らませながら喜んでいる。
近所付き合いは大切にしなきゃね。
そこへ飛び込みで、中年の女性患者が入って来た。
話を聞くと、一本向こうの通りクレアモールにあるナガサワビルのオーナーのようだ。
地下で床屋もしていて、腰が悪いので来たようだ。
長澤さんはおっとりしたとても優しい方で、施術しながらも色々な事を教えてもらう。
俺は長澤さんの床屋で髪を切りに行く事にした。
「すみません、肩が凝ってしまって…。予約していないんですけど、大丈夫ですか?」
黒髪ショートカットの奇麗な子が入ってくる。
美容師をしているようで、名を小輪瀬絵里と言う。
岩上整体の目の前の十字路の向かいで美容師をやっているらしく、「今度髪切りに伺いますね」と言ってしまう。
あ、長澤さんのところ行っているのに小輪瀬さんの美容室も行ったら髪の毛どんどん無くなるやんけ。
まあ順番で行けばいいか……。
「あら、先生のところのアイスコーヒーって、氷までコーヒーで作っているんですね」
「ああ、新宿プリンスホテルのロビーラウンジで出すアイスコーヒーが、そんな感じなのでパクってみたんですよ」
オープン前に二リットルの器にコーヒーを淹れ、ついでにそれで氷を作るだけの事である。
ワールドワン時代、番頭の佐々木さんと行った時を思い出す。
あの時もらった金をもっと大事に使っていれば、今頃こんな苦労しなかったのにな……。
そういえば奥さんと言うか一緒に住んでいる彼女が自費出版で本を出したとか言っていたけど、どうしているんだろうな。
小輪瀬さんは俺の施術を気に入ってくれ、頻繁に岩上整体へ来てくれるようになった。
「先生、これ有名なお菓子なんですよ。良かったら食べて下さい」
来る度ちょっとしたものを差し入れしてくれるので、施術料金五千円のところを彼女だけ特別三千円にした。
先日来た床屋の長澤さんも、一週間に一度は来てくれる。
そこへ川越祭りの同じ町内の連々会メンバーの橋口さんまで患者としてきてくれた。
先輩である彼も美容室を営んでいる。
髪切りメンバーの連鎖。
流れを大事に…、そう群馬の先生が言っていたが、この流れはたまたま偶然なんだろう。
同業の人多くなってきたけど、立ち仕事だから肩凝りは永遠のテーマなんだな。
和菓子屋を営む先輩の始さんが岩上整体にやって来た。
風俗のガールズコレクションの時はホームページ作りや、長谷川の事務所裏ビデオ時代にもパソコンを組んでもらったりで、色々お世話になっている。
「悪いな、智一郎。来るの遅くなっちまって」
「仕事で忙しいんだから、しょうがないじゃないですか」
「腰が辛くてよー。ちょっと頼むわ」
和菓子作りに配達と様々な事を毎日のようにこなす始さん。
腰は慢性的に悪いようだ。
高周波を長時間当てて、まずは周りの筋肉を柔らかくする。
骨の調整はある程度柔らかくなってからでないと、痛める可能性もあるのだ。
「智一郎、終わったら一杯飲みに行くか」
「いいっすよ。呑龍辺りですか?」
「まあこれ終わってから考えるよ」
特に予約も入っていないので、時間を掛けて施術をする。
「どうですか?」
「うん、かなり楽になった。ありがとう。いくらだ?」
「始さんからは金なんて取れないですよ」
「馬鹿野郎、ほんとおまえは変なところで親父さんとそっくりだな」
始さんはそう言いながら五千円を手渡してくる。
「智一郎、悪い。ちょっとおまえの気持ち良すぎて凄い眠くなった。すぐ帰って横になって寝たいから、飲みに行くの今度な」
「全然構わないですよ。帰ってゆっくり休んで下さい」
俺の施術は身体の血行を良くするもの。
なので終わった後は身体がポカポカしているはずだ。
必然的に眠くなるのは当たり前の事である。
始さんを見送ると、俺は小説の続きを書き始めた。
短編『酢女と王様』を完成させる。
次はどうしようかな?
突如閃きが頭の中に走る。
チャブーのあの滅茶苦茶加減。
女でも容赦なくケツへ膝蹴り。
あのどうしょうも無さは関わると面倒だが、第三者的に見ている分には笑えるはずだ。
俺はチャブーをモデルに『膝蹴り』の執筆を開始した。
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