2024/11/11 mon
前回の章
飛込みで中年女性患者が来た。
ダンスをやっている時に右足にズンとした痛みが走り、どこへ行っても治らないと言う。
一時的に良くなっても、すぐ痛みが戻ってくるようだ。
「とりあえずベッドに寝てもらえますか? 診てみます」
「お願いします」
「痛いのはどの辺ですか?」
「ここからここですね」
右足膝脇外側から骨盤までに走る痛み。
筋でも痛めたのかな。
各部分を押すと、もの凄く痛がる患者。
結構重症だな。
「ジャズとモダンダンスやっているんですけど、つま先でしばらく立つ状態が多いんです。でも、痛みでさすがに立っていられなくて。コーチの先生は、そんなの気合いでやれと無理にやるようなので、最近歩くのも辛いんです」
好きな事だから苦痛にも耐えられたが、そのせいで余計に悪化させている訳だ。
「膝横の部分と骨盤に高周波を当てますから。で、電気が流れますが、自分でその痛む部分は分かりますよね? そこに電気が当たるか言って下さい。微調整していきますから」
高周波は吸引によって患者の患部に吸い付く。
治療モードに合わせ、つまみを徐々にあげていく。
メモリーが三のところで患者は限界だった。
マックスで十二。
「どうです? 痛む箇所に当たっていますか?」
「はい、当たっています」
俺はその状態から、経絡を押す。
三点療法の利点で二点に流れる電気の流れに指を使って押す事で、違う箇所まで電気が届き治療効果を広げられる。
その代わり患者が感じる痛みは半端じゃないだろう。
できるだけ痛がらせたくないが、状態が悪ければある程度の痛みは我慢してもらうしかない。
押さえる支点を変える事で、悪い部分を徐々に治していく。
良くなった部分は血流が良くなる。
俺は患者の痛む箇所をいつも頭の中でイメージしていた。
真っ白な中に巣くうもの。
今回はささくれ立った黒い太い線をイメージする。
その根っこに高周波を当て、俺が指で黒い線を押し消していく。
現実に指先で触り覚える違和感。
それが無くなると、フワッとした血の流れを感じる。
するとその箇所は治っている証拠だ。
ここまで痛くて何とかしたくて、岩上整体までやってきたのだ。
当然痛みの根は深い。
部分的に治しても、また痛みの根がある限り再発する。
じっくり時間を掛け、痛みの根を消えさせた。
指先を徐々にずらし、違和感のある場所を探し当てる。
この人を治し、楽にしてあげたい。
そう心から想う事が大事だった。
「高周波の痛み、少しは慣れてきましたか?」
「ええ、慣れました」
「では、もう少しメモリーを上げますよ。出来る限り我慢して下さい。限界まで来たら言って下さい」
「分かりました」
つまみを少しずつアップしていく。
これを一気に上げると人間の身体は一溜まりもないだろう。
人間の身体の動きは、脳の命令によって動いている。
例えば指を開いたり閉じたりというのも、脳からの信号というか命令があって初めて動くものだ。
高周波はその脳から出ている命令を無視して、電気によって身体に命令をしている。
なので一気にあげると、その箇所が壊れてしまう場合もあるのだ。
「先生、限界です」
「はい、じゃあこのままもう少し頑張って下さい。指で押すから、痛みを感じるところがあれば言って下さい」
徐々に指先で感じる違和感が減っていく。
イメージしていたささくれ立った太い線も細くなり、途中で千切れていくような感じだ。
目を閉じながら俺は指先で患部を押していく。
一時間ほどそんな治療を続け、高周波を外す。
「一度立ち上がって足を動かしてもらえますか?」
患者は足のつま先を回したり、上に持ち上げたりして状態を確かめる。
ダンスでやらされるというつま先立ちをしばらくしてから急に笑顔になり、「先生、痛くない!」と大声をあげた。
「動かしていてどこか小さな痛みとかはありますか?」
「いえ、まったく無いです。それどころかウエストも縮んだような……」
「ああ、それは縮みますよ。高周波は筋肉も動かしているので、部分的にその箇所を運動しているのと同じなんです。先ほど腰回りにもしばらく当てていたじゃないですか? あれで辛かったでしょうけど、治すと同時にウエストも細くはなっているという効果もあったんです」
患者はもう一度つま先立ちをしたあと両手で顔を覆い、「私、ダンス続けられるんですね」とその場で泣き出した。
他に患者がいる訳でもないので、俺はテーブルまで行きタバコに火をつける。
しばらく黙ったまま、泣き止むまで放っておく事にした。
「すみません。私、毎日のように偏頭痛がしてちゃんと眠れないんです。医者から睡眠薬をもらって飲んでも、まったく駄目でして……」
三十代半ばの女性患者はうちの整体に入ってきた途端、そう一気に捲くし立ててきた。
「ちょっと落ち着いて下さい。そこへ腰掛けて。え~と偏頭痛が酷いんですね?」
「ええ、今もです。首を少し横に向けるだけでも辛いんです」
「触ってみます。動かないで下さいね」
岩のように凝り固まった肩や首回り。
これでは辛い訳だ。
「いつぐらいからそうなったんですか? 覚えてます?」
「会社で首を鳴らすのが好きな人っているじゃないですか?」
「ええ、いますね。あまりお勧めはしませんが」
「それで三年前の話なんですが、その人に首をやられた瞬間、目の前が真っ暗になって私、その場で倒れたらしいんです。それ以来、重度の肩凝りと鞭打ちみたいになりまして……」
「なるほど。首を鳴らすというか、あれって靭帯が鳴る音なのですが、何故良くないかと言うと、首には可動領域ってもんがあるんです。ある程度までなら、首を捻るのもいいのですが、そういった輩って鳴るまでやるでしょ? だから可動領域を超えるのを知らず、やってしまうんです。そうすると靭帯や頚椎を痛める可能性ありますからね。最悪骨がずれる場合だってあります」
俺はうつ伏せに患者を寝かせ、僧帽筋と呼ばれる首下辺りに高周波をつけた。
もう片方は広背筋の肩甲骨より下辺りにつける。うちの高周波は二人分あるので、左右同じようにつけた。
偏頭痛を引き起こす原因の大半が、俺から見れば首や肩の凝りからである。
高周波で電気を流しながら、鎖骨の上の辺りを押さえた。
ガッチリと凝り固まった筋肉。
これは中々手ごわそうな相手だ。
患者に言い聞かせながら、徐々にメモリーを上げる。
指先を身体の中へ入れていく。
高周波を嫌がる患者は多いが、利点として揉み返しになりづらいのだ。
今、患者に痛いと憎まれても、終わったあと笑顔でいてくれれば、それでいい。
気持ちよくさせる為ではなく、治す為にやっている。
それが俺の持論だ。
今回のイメージはガチガチの岩のような壁だった。
そこへ俺の指をめり込ませ、壁の奥を流れる高周波にぶつけるよう押していく。
しばらくその状態で押していると、頑固に固まっていた凝りがじわりとほつれるように柔らかくなっていく。
丁重に指先で血流の感じながら少しずつずらしていった。
目を開けているより、閉じて指先だけに神経を集中させる。
患者が高周波に慣れれば徐々に上げる。
凝りが無くなり楽になると、暖かくなるものだ。
この患者の場合、頚椎がずれている可能性もある。
まずは凝りを取り、偏頭痛を起こす元を無くす。
次に頚椎の何番目の骨が倒れているのかを調べる。
骨が曲がるという表現はよくあるが、みんな倒れるという事をあまり言わない。
もちろん曲がると倒れるは違う別物だ。
骨は普通立っている状態であり、それがバランスの悪さ、筋肉の強さなどでどちらかに倒れてしまうケースがあるのだ。
第七頚椎まである内、何番目が倒れているのかを見極める。
「三番目のところが右に倒れていますね」
「え、そうなんですか?」
「いや、そんな大した問題じゃないですよ。ちょっと我慢して下さいね」
俺は三番目頚椎の左根元に左親指を添え、右側から右親指を当てる。
「フッ」とという気を込めつつ右の親指に力を一瞬だけ入れた。
真上から指を当て、真ん中になっているか調べてみる。
続いて患者を仰向けにして、ベッドの端に膝が来て足をダランと下へ垂らした状態にさせた。
後頭部を一瞬だけ上げてもらい、タオルを入れる。
頭蓋骨後頭部耳の下辺りに固定し、患者には力を抜いてもらう。
軽く左右に首を捻り、ゆっくり患者の呼吸のリズムをつかむ。
一気にタオルを後方へ引き、首の牽引をした。
ピキッという音が聞こえる。
レントゲンなど無いから実際には分からないが、首が縮んでいる感じがしたのだ。
「起き上がって首や肩を回して下さい。どうでしょう?」
「あれ、偏頭痛しない? 肩も軽いです。首も…。先生、ありがとうございます」
「良くなったようで良かったです。しばらくは大丈夫だと思いますが、また具合悪くなりそうだなと思ったら、その時連絡下さい」
患者は何度もお礼を言いながら、笑顔で帰っていった。
金額の大小でなく、こういった笑顔を見るのはとても気持ちがいい。
最低でもあの患者、一ヶ月は持つだろう。
知り合いには、一気に治さず何回も来させろとアドバイスを受けていた。
しかし治せる自信があるのに、治さず次になんて真似はできなかった。
いつか俺の行為を多くの人が気づいてくれるさ。
今は経営状態が難しくても、その内嬉しい悲鳴をあげるようになるはずだ。
俺は微笑みながら患者の後ろ姿を見送った。
正月も返上し、整体をしていると、幼少時代のピアノの恩師である飯島敦子先生が顔を出してくれた。
豪華な花まで持って。
「あけましておめでとう、智君。これ、どうぞ」
「あけましておめでとうございます。敦子先生、そんな気を遣わなくてもよかったのに」
「ごめんね、顔を出すの遅くなっちゃって。私も年末で会社の事とかで色々忙しくてね」
「いえいえ、気にしないで下さい。先生、お茶がいいですか? それともコーヒー?」
俺は来客や患者用に、お茶、玄米茶、ほうじ茶、コーヒー、紅茶など飲み物は色々なものを揃えておいた。
夜仕事が終わって、ここで飲めるようにウイスキー、焼酎などのアルコールも完備してある。
バーテンダー時代に使ったシェイカーまで置いてあった。
「今日はさ私、患者として来たんだよ。前々から首痛くて、右腕まで痺れるんだ。やっと正月で暇取れたからさ、来てみたんだ」
「あらら、じゃあ飲み物飲んだら、診てみますね」
先生と数ヶ月ぶりの再会で心が弾む。
お互いの近況を簡単に話し、先生の娘の話題になった。
「うちの子さ、友美って言うんだけど、バトントワリングやっているでしょ?」
「ええ、日本代表選手なんですよね」
「そうそう。で、また選ばれそうでさ。そしたら今度カナダ大会へ行ってくるんだ」
「へえ、そりゃ凄いですね」
バトントワリングという競技が、どんなものかよく分からなかったが、俺は素直に応援したいなと思った。
「あの子、幼稚園からやっていたけど、本格的に始めたのは小学校からかな。だから自分の事のように嬉しくてね」
「当たり前じゃないですか。先生の旦那さんも天国で喜んでいますよ、きっと」
敦子先生が旦那さんを亡くして二年半の歳月が経っていた。
「よし、じゃあ診てもらっちゃおうか」
「はいはい、ではこちらのベッドへどうぞ」
俺は誠心誠意真心を込め、先生の身体を施術する。
小学校一、二年生の頃から間を空け、またこうして接点が持てる事が嬉しかった。
先生は「おお、体が楽になったぞ」と元気一杯に笑い、三千円でいいと言うのに、一万円も置いていってくれる。
ありがたい事だ。
翌日、先生はまた整体へ顔を出してくれた。
今度は娘の友美ちゃんまで一緒だった。
「私、これから用事あるから友美だけ置いていくけど、智君お願いね」
「え、先生行っちゃうんですか?じゃあ俺、友美ちゃん口説いちゃいますよ?」と意地悪そうに言うと、先生は「うん、全然いいよ」と笑顔で行ってしまう。
冗談が分かるというか、信用されているのか……。
友美ちゃんの身体は代表選手に選ばれるだけあって、いい筋肉をしていた。
通常柔らかく力を入れた時に凝縮して固くなれる筋肉。
まだ二十歳なので、これからが楽しみである。
「俺は小さい頃、先生にお世話になってね」
「母から聞いてますよ、色々と。智一郎さん、全然ピアノなんてしなかったって、いつも笑いながら言うんですよ」
「二十五年ぶりに再会したら、こんなおっきな娘さんと息子さんいるって聞いてビックリだったよ。友美ちゃんの写真、いつも先生は持ち歩いているんだよ」
「やだ、恥ずかしいな」
「選考が決まるのはいつぐらい?」
「三月の末だからもう少しですね」
「応援するから頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
過去に大きな実績を残しているのに、横柄にならず礼儀もある。
明るく元気で本当にいい子を娘さんに持ったもんだと感心した。
究極の駄目男岩崎努ことゴリが、岩上整体にやってきた。
彼は俺の中学時代の同級生。
「おう、智いっちゃん。腰が悪いんだ。一丁頼むよ」
来るなり診察ベッドへ寝転がる。
その時ゴリの汚れた足が、ベッドのシーツに黒い線を引く。
「あ、ゴリ、テメーこの野郎!」
彼の靴下は汚れ過ぎていて、真っ白なシーツに一本の黒い線を引きながら汚していた。
「あー、せっかく綺麗なシーツに変えたばかりなのに……」
「わりーわりー、ワザとじゃないんだよ」
「ちょっとここで留守番してろ」
「いっちやん、どこ行くんだよ?」
「目の前のぺぺの四階にある百円ショップで、大きな桶買ってくるんだよ」
「そんなもん何に使うの?」
「おまえの汚い足を洗う為だよ!」
どうもあいつは抜けているところがある。
俺の智一郎の智と一郎のいを取って「智いっちやん、馬鹿いっちやん、クソいっちやん、阿呆いっちやん…」と自ら手拍子しながらくだらない歌をよく唄う。
ダミ声のくせに自分じゃカラオケ旨いと思っているんだから、始末におえない。
桶を買ってきて足をよく洗わせる。
高周波を腰に当て、必要以上に電圧を流してやった。
「あー、いでででー……」
エアーコンセラーを使い、脚から腰に掛けての治療を行う。
俺が彼の姿を撮影しようとすると、手で顔を隠しながら「やめろ、やめろ」と連呼している。
腹がガラ空きなので、「ワチョー」と手刀をお見舞いした。
本来なら五千円のところを三千円に負けてやる。
「ありがとう、いっちやん。痛かったけど、腰が楽になったよ」
ゴリがトイレを借りると言うので、俺はデジタルカメラを持って撮影した。
「えー、ゴリッチョが岩上整体へトイレを借りに来ました」
ドアを押さえながら撮影していると、「早く離せよ、離せよ!」と漏れそうなので必死だ。
この映像は最近流行りだしたユーチューブに絶対載せてやろう。
どうせゴリは馬鹿で機械音痴なので、生涯気付かず終わりそうだ。
俺にパソコンのスキルを教えてくれた先輩の坊之園智こと坊主さんが、息子の怜君を連れてきた。
「智、顔出すの遅くなって悪かったね。あ、これ開業おめでとう」
そう言いながら祝い金をくれる。
「何を言ってんですか。坊主さんすみません、何だか気を使わせてしまって」
全日本プロレスが駄目になり自殺を考えた時、坊主さんは仕事を一週間休んで傍にいてくれた。
「おまえは絶死んじゃ駄目だ」と、何度も言いながら……。
俺が二十九歳の総合格闘技へ初挑戦の時もセコンドについてくれた。
その時奥さんの裕子さんは、生まれて間もない一歳の怜君を連れて、俺の試合を見ている。
その怜君も小学生。
子供の成長は早いものだ。
俺はゲームボーイアドバンスのソフト、ファイアーエムブレム烈火の剣をあげた。
「整体の経営状態はどうだい?」
「うーん、正直厳しいですね……」
「まあ聞いてると、智は何も宣伝一つしてないからな」
「ブログの『智一郎の部屋』では色々告知しているんですけどね」
「そんな個人ブログを何人が見るのよ。新聞の折り込み広告とか、あとはそうだな……」
「何かのアイデアとか?」
「例えばだけど、まずここを知ってもらわなきゃいけないし、来てもらえば智の腕はいいから定着すると思うんだよ。だから初診に限り千円でとインパクト狙って集めて、あとは各患者の状況を知る為の問診表だな」
「なるほど、それなら人が来やすいですね」
俺は早速新しいキャンペーン用の岩上整体広告をデザインしてみた。
自身の写真を使ったものと、似顔絵バージョンの二つ作る。
それからブログ『岩上整体』、そし広告を川越の街の中で貼って宣伝してくれる店用のブログ『川越新宿名店街』を作る。
俺の広告を貼ってくれれば、このブログに店の名前が載るわけだ。
俺は整体を開ける前に、川越の知り合いの店を一軒一軒回って歩いた。
岩上整体に面した通りに、浅草ビューホテル時代よく通ったスナックアップルがあった。
隣に小学生三年生の時にできたモスバーガーがあったが、つい最近撤退してしまう。
アップルではオーナー長沢という剥げたオヤジが経営していたが、その娘久美子はとても美人だった。
通って口説き、ビューホテルでデートした事がある。
帰り道向こうから俺の胸に顔を埋めてきて、そのままホテルへ行って抱いた。
そこまでは良かったが、当時女にあまり面識の無かった俺は、不器用過ぎてフラレる。
だからそれ以来格好悪くて、アップルには行かなくなった訳だ。
歌舞伎町の前、二十代半ばだから十年くらい前か。
どうせ暇だし患者もいない。
いずれ患者紹介してくれるかもしれないし、営業がてら店をちょっと抜け出して顔を出してみるか。
アップルのドアを開けると、オーナーの長沢の顔が見えた。
「おう、岩上君じゃないかよー。元気でやってるのかい?」
「ええ、実はこの通りの駅前の角…、ぺぺ出て真っ直ぐ進んだところで岩上整体を開業したんですよ」
「おお、岩上って書いてあったから、まさかと思ったけど、岩上君のところだったんだ」
「まあお近くでオープンしたので、挨拶をと思いまして」
「何だよ、それじゃお祝いしなきゃな。相変わらずウイスキーか? まあ座りなって。おい、ウイスキー持ってきて」
挨拶だけのつもりが強引に座らせられる。
「岩上君、昔レスラーだったろ? うちもさ、女子レスラー入れたんだよ。おい、雪江。おまえ、この席着け」
奥のテーブル席からのそっと大柄な女が立ち上がる。
「はじめまして、雪江です」
「あれ? ひょっとして大仁田厚のFMWにいた鍋野ゆき江だろ?」
「え、分かるんですか?」
嬉しそうな鍋野。
週刊プロレスは若い頃さんざん読み漁ったので、インディーのレスラーまでほとんど知っていた。
「何だよ、知り合いだったのか。まあレスラー同士ゆっくり飲んでってよ」
長沢のオヤジは上機嫌で自分の席へ戻る。
参ったな…、整体鍵は掛けているけど、明かり点けっ放しだし……。
「鍋野さん、悪いけど俺ね、整体そのままで来てるんだよ。挨拶だけ来るつもりで、悪いけど今度ゆっくり来るわ」
「はい、分かりました。マスター岩上さん、おかえりでーす」
「おう、岩上君もう帰っちゃうのかよ」
「すみません、整体そのままなものでして……」
「あ、会計一万八千円ね」
何だ、コイツ……。
お祝いで飲んでけと強引に座らせといて、ウイスキーのボトル代込みで金を請求してきやがった。
黙って金を払い、アップルをあとにする。
あんなクソスナック、二度と行かねえと心に固く誓いながら。
俺の作ったブログ『川越名店街』。
気付けば三十店舗が岩上整体の広告を貼ってくれ協力してくれる。
一つ一つ協力店の写真を撮って、説明文付きで紹介していく。
整体の電話が鳴る。
予約の電話か?
「もしもし…、岩上さん、今どこですか? アップルの鍋野ゆき江です」
「今どこですかって整体の電話に掛けて俺が出ているんだから、整体にいるに決まってるじゃん。何か用?」
ちょうど川越名店街の記事を書いているところだったので、急かして聞く。
「あ、すみません…。もし良かったら私も店出ていますので、飲みに来られたらどうかと思いまして」
鍋野の台詞に対し、苛立ちがマックスになった。
「あのさ…、俺がここにいるって事は、今仕事中なのね? それを飲みに来い? 随分馬鹿にしてるな」
「あ、すみません…。それがオーナーからそう連絡しろと言われまして……」
「今近くに長沢さんいるの?」
「は、はい……」
「じゃあ、一回しか言わないからちゃんと伝えといて」
「はい」
「ハッキリ言って非常に不愉快だ。仕事中にこんな電話掛けて、舐めてんのかっ! こっちが甘い顔してるからって、ふざけんじゃねえぞ! あんま舐めた真似すると、店潰すからな! そうあのオヤジに言っといて」
「分かりました!」
電話を叩きつけるように切った。
本当にああいったスナックの手合は、常識が無い。
初診千円の広告を見る人が増えたのか、徐々にではあるが患者が来るようになった。
最大の欠点は、一日八人診ても、八千円の売上しかない事だ。
リピートしてくれなきゃ、ヤバいだろ。
むしゃくしゃしながら裏にあるJAZZ BARスイートキャデラックへ飲みに行く。
カウンター席に腰掛け、グレンリベットを煽っていると、常連客の日野が隣に座ってきた。
日野は大学の教授をやっているらしく、現役時代の俺を見ると「筋肉触らせてもらっていいですか?」と格闘技も好きな五十代のオヤジだ。
「岩上さんのホームページ、楽しく見させてもらってますよ」
「ああ、それはどうも」
「初診千円のアイデア。とても面白いなと興味深く見ていますが、今度うちの大学でも岩上さんの整体を宣伝したいなと思っているんですね」
それが実現したら、ピチピチ女子大生がわんさか来るかも……。
「是非お願いします」
「ただ…、ちょっとインパクトが足りないんですね」
「…と言うと?」
「初診千円でなく、効果を感じなかったら千円あげますに変えられませんか?」
何言ってんだ、このオヤジ……。
何で俺が無料で施術して、しかも相手が気に食わなかったら千円あげなきゃいけないんだ?
頭にボウフラでも沸いてんのか?
「結構です。日野さん、悪いけど俺遊びで整体やってる訳じゃないんで」
「いやいや…、統計で言うとですね。そう表記したところで、中々千円くれなんて言ってくる人は、いないものですよ」
そんな事言うヨゴレなんて、歌舞伎町で腐るほど見てきたわ、ボケ。
駄目だな、このオヤジ。
使いものにならない。
せめて出した千円分の総額を大学のほうで埋めるとかなら、まだ分かるが……。
「そういえば話は変わりますが、私最近極真空手をやり始めましてね」
百八十センチ、九十二キロの俺よりも、日野は五センチ高く、体重も百キロを超えている。
「極真空手の重量級はくっついてド突き合うので耐久戦になるんですよ」
静かに酒を飲みたいのにうるさいオヤジだ。
「日野さん、ちょっとそこ立ってもらえますか?」
「ここでいいですか?」
「はい、そしたら頭の上で両手組んで下さい」
「こうですか?」
俺は背後に回り腕を回しながら、日野の両腕事クラッチを組む。
「え、岩上さん、私百以上あるんですよ?」
「俺はですね…。こうやってクラッチさえ組めれば……」
気合い入れて日野の身体を持ち上げ、宙に浮かす。
「相手が嫌がっていても、百二十キロまでなら、強引に持ち上げて投げる事ができるんですよ」
ゆっくり日野を地面に下ろしてやる。
「マスター、チェックいいですか?」
目を丸くした日野を置き去りにして、俺はスイートキャデラックを出た。
小学二年生までのピアノの恩師である敦子先生と久しぶりに会った時、紹介された店ぼだい樹。
料理も美味しいし、何よりぼだい樹は、俺の好きなウイスキーのグレンリベットを置いてくれた。
それから適度に通うようになる。
店のオーナーは中原奈美。
ふっくらしているがとても愛想のある可愛い子で、母親と共に居酒屋を営んでいる。
値段も良心的で原価三千円のグレンリベットのボトルを置けるか頼んだ時、「うーん、じゃあボトル代で五千円もらっちゃうよ」とか商売にならない事を言い出したので、俺からもっと高く請求しろと言ったほどである。
敦子先生には本当にいい店を紹介してもらったものだ。
奈美の母親に俺は気に入られたらしく、昼間整体にいると手作りの弁当を持ってきてくれる事もあった。
酒だけ飲みたい時はスイートキャデラック。
腹減った時はぼだい樹と、自然に使い分けるようになる。
奈美の母親は雀蜂の入った酒をご馳走してくれたり、マグロの兜焼きをサービスしてくれたりと色々良くしてくれた。
なので同級生のゴリやチャブーといったクズ連中も連れて、よく行った。
いつも暇といえば暇だが、正月の三が日は本当に暇だ。
整体の中でボケーッとしていると、営業マンが入ってきた。
「すみません、全日本プロレスの南と申します」
「え、全日本?」
過去俺が目指したプロレス団体だった。
あそこで俺はジャンボ鶴田師匠と出会い、様々なものを学んだ。
主力選手である三沢光晴さんが抜けると、多くの選手があとをついていってしまい、一時は存続のピンチとなったところでもある。
残った選手は川田利明さん、渕正信さん、そして俺がいた一年あとに入ってきたハワイ出身のマウナケアモスマン…、今は太陽ケアと名乗っているんだっけ。
しかし新日本プロレスのスーパースター選手である武藤敬司が移籍し社長となった事で、テレビもつき今でも団体は存続していた。
「ここの整体、駅の目の前じゃないですか。で、今度の興業のポスターを貼らせてもらえないかなと思いまして」
「いいに決まってんじゃねえか。何枚でも持ってきなよ。いくらでも貼っていいよ」
俺は二十歳頃、全日本プロレスに携わった事を話した。
そして二十九歳で総合格闘技にも出た事を伝えると、営業マンは笑顔で打ち解けてくる。
「だから先生、身体が大きいんですね。良かったら七日に興業あるので来ませんか? もちろん招待しますから」
「えー、悪いよ。ちゃんと券を買うって」
「いえいえ、宣伝まで協力をしてもらっていますから」
その時いいアイデアが浮かんだ。
今流行のお笑いブームで、芸人が物真似をするぐらい有名な武藤敬司選手。
彼と白衣姿の俺が、一緒に並んだ写真を岩上整体の宣伝に使えたら面白いんじゃないだろうか。
俺はそれを彼に伝えた。全日本プロレスの営業の南は、嫌な顔もせず「うちの社長に話しておきます。多分先生なら問題ないと思いますよ。また連絡しますね」と帰っていく。
もうプロレスと関わる事なんて、無いと思っていた。
まさかここに来て、再びプロレスと接点を持つだなんて。
二十数年ぶりの敦子先生との出会い。
そして十数年ぶりに全日本プロレスとの接点……。
岩上整体を開業し、色々なものが繋がってくるような気がした。
白衣姿の俺と、武藤敬司選手とのツーショット。
面白いと思われるだろう。
スタートして約一ヶ月。
こうやって徐々に積み重ねていく事が、整体の経営を成功させる秘訣かもしれない。
翌日、全日本プロレスの南はすぐ興行用のポスターを持ってきた。
俺は外の壁に数枚貼り、宣伝に協力する。
招待券ももらい、当日武藤敬司選手との撮影の許可も出た。
これまでまったく休んでいなかったので、ちょうどいい骨休みになりそうだ。
入口が開く。
患者だ。俺は笑顔で出迎える。
「どこか具合悪くしましたか?」
「ええ、最近寝ている時に足がつるんです」
「そうですか、ではそちらへお掛け下さい」
岩上整体を選び、来てくれた一人一人の患者に感謝を覚える。
俺は本当に治してやると心を込めながら、患者と向き合っていけばいい。
とうとう全日本プロレスが興業でやってくる日が来た。
場所はうちの整体目の前にある本川越ぺぺの五階アトラスホール。
少し早めに行こうと思ったが、前日に患者から予約の電話があったので受ける事にする。
午前中から昼に掛け、施術を済ませ、観戦に行く準備をした。
久しぶりのプロレス観戦。
一試合から最前列の席で見ていると、全日本の営業が「先生、控え室のほうへどうぞ。社長が待っています」と小声で囁いてくる。
俺と武藤敬司選手のツーショット写真。
ワクワクしながら控え室へと向かう。
中へ入ると、武藤敬司選手が股割りをした状態でストレッチをしていた。
体重百十キロ以上の巨体なのに随分柔らかいものだ。
俺は二十一歳の頃、全日本の合宿へ行った時の事を思い出していた。
「よし、ストレッチからやってみよう。おーい、秋山。あとそこの三人も、こっち来てくれよ。股割りやるから」
師匠のジャンボ鶴田さんが、秋山さんらレスラー四人を呼び寄せる。
股割り…、一体、これから何が始まるのだろうか?
四人の先輩レスラーたちは俺を強引に座らせると、股を強引に開かせる。
俺も自己流ではあるが、散々ストレッチはやってきた。
痛みはあるが、我慢できるレベルだった。
「お、こいつ、結構身体柔らかいぞ」
「まだまだこれからだよ」
「よし、秋山と大森は、膝を曲げないようにしっかり押さえてろよ」
「はい。おい、おまえ。後ろから押すぞ。腹までペッタリ地面につけるぞ」
柔軟で股を全開に開いた状態から、強引に押された。
頭は何とか地面についたが、そこからさらに力強く押される。
この状態で、腹までペッタリ地面につけるつもりなのか……。
膝を曲げようとしても、片膝ずつレスラーがしっかり押さえているからまったく動かない。
思わず声を上げてしまうが、みんなお構いなしに強引に背中を押してくる。
「ギャー……」
左腿の筋が、何ともいえない嫌な音を立てる。
激痛が全身に走り抜け、俺は悲鳴を上げた。
火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。俺は無我夢中で、秋山さんをぶん投げていた。
「この野郎」と秋山さんに頭を引っ叩かれる。
こんなに激しいストレッチを毎日、プロレスラーはしていたのか……。
地獄のストレッチから解放されても、左ももの筋が切れてしまったような痛みがずっと走っている。
鶴田さんは笑いながら俺を見ていた。
「股のとこの筋が切れたみたいだな。大丈夫、大丈夫…。体操選手なんかも、よくそこは切るんだよ。そこは切れても大丈夫な筋だから」
何かもの凄く物騒な事を笑顔で話している。
俺はとんでもない所へ、来てしまったんじゃないか……。
早くも音を上げそうだった。
不意に肩を叩かれ現実に引き戻される。
営業が武藤敬司選手に「社長、こちらがこの間ポスターを貼ってくれた整体の先生です」と紹介していた。
「はじめまして、武藤敬司です」
手を差し出してくる武藤敬司選手。
俺はガッチリと握手しながら、「はじめまして、岩上智一郎と申します」と力強く言った。
「じゃあ先生、撮影しますので」と営業が言うので、俺は用意してあった白衣に着替える。それを見た武藤敬司は「お、お医者さんなんすか?」とビックリしていた。
「いえいえ、すぐそこで整体を開業しているだけです。怪我したら、いつでも来て下さい」と笑顔で答え、撮影を行う。
この日、俺はゆっくり試合を観戦し、会場をあとにした。
ただ武藤敬司の公式発表の身長は百八十八センチ。
俺よりも八センチ高いはずが、並んだ写真を見ると、どう考えても八センチ差は無いと思った。
大きなレスラーでもサバを読むんだなと実感する。
> 全てを飾ることのない独白、闇シリーズにものすごく引き込まれています。執筆大...... への返信
ありがとうございます
実はこれが初めてのコメントなので、自分のマスターベーションとして書き続けています(笑)
新宿クレッシェンドの印税入らなかったり、中々芽が出ない人生を送っていますが、14年何も書かなかったので、一度このタイミングで半生を振り返ろうとここ数ヶ月は執筆モードに入りました
でもまだ闇100になって34歳なんですよね(笑)
あと二十年分書くのにどれだけ長くなるの?と思いながら日々書き続けています
コメント本当にありがとうございました
素直に嬉しいです
> ありがとうございます... への返信
わざわざご返信ありがとうございます!
小説というよりはドキュメンタリーをみているような気分です。私は岩上さんのようには生きられませんが、こういう生き方、こういう世界があるのかとエンタメ半分、緊張半分で読んでいます。
そして、34歳から先に幸せな展開があれば、と願いながら読んでいます。
過去記事で心筋梗塞を患ったと読みました。お体無理のない範囲で続きをお願いいたします!
> わざわざご返信ありがとうございます!... への返信
14年も応援してくれた人たち蔑ろにしていたので、こうしてやり取りできて嬉しいです(笑)
心筋梗塞は三年前ですが、コロナワクチン打った翌日ですからね
その時我慢して一週間後二度目の心筋梗塞の時死ぬかと思いましたが、結局それから三年ピンピンしてますよ
早く国がコロナワクチンの認定して、四千万もらって、引きこもって小説とピアノだけやって暮らしたいものです(笑)
闇シリーズは自分への課題として掻いているので、多分このままやり続けると思います
前に一人で読んでくれる人がいる限り俺は書き続けるなんて、格好つけてしまいましたからね(笑)
もう戦う事もできなくなったし、あとは書くしかないんでしょうね
今は安定していますけどね