岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

小説、各記事にしても、生涯懸けても読み切れないくらいの量があるように作っていきます

闇 29(パソコンとピアノ編)

2024年09月28日 12時28分54秒 | 闇シリーズ

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新宿セレナーデ 1 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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新宿クレッシェンド第5弾新宿セレナーデ2009年2月17日~2009年2月21日原稿用紙605枚最も古い用法でありながらこんにち口語に残っている「セレナーデ」は...

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暑くなると俺は本当に憂鬱だった。

何故なら倉庫に行くと、前にも増して匂いが強烈になっているからだ。

入口に立っただけで吐き気を催すぐらい臭かった。

倉庫の住人である野路は本当に不潔な男である。

ゴキブリは季節のせいか倍以上部屋の中を動き回り、そんな中で彼は寝起きをして生活をしていた。

風呂にほとんど入っていないせいか、野路に近づくと何ともいえない匂いがする。

夏の暑い日差しの中を自転車で動き回り、裏ビデオを配達する野路。

こんな人生を送っていて楽しい事などあるのだろうかと余計な事を考えた。

メロンで働いていて、一つ気に掛かる点がある。

それは客が紙にビデオの題名を書き注文する際の事だが、DVDとビデオの両方同じ品物がある時だった。

いつも電話口で野路は不機嫌そうに「ビデオ? DVD? どっち?」と聞いてくる。

その度どちらかをワザワザ言わなければならないもどかしさを感じていたのだ。

これは倉庫に行ったから分かった事なのだが、商品管理がちゃんとできていない。

それが明らかな原因だった。

ザナルカンドも完成しピアノに一区切り置いている俺は、仕事以外特にするべき事がない。

初めにパソコンを教えてくれた先輩の坊主さんへ連絡を取り、何かうまい方法がないか聞いてみる事にした。

快く先輩は俺の願いを承諾し、時間を作ると言ってくれる。

坊主さんとの付き合いは十数年以上になる。

彼はIT系の会社で働く日本でも有数のプログラマーをしていた。

地元という接点がなければタイプも違うので、まったく交わる事がなかっただろう。

俺はこの人と同じ地元に生まれ、仲良くなれた事を誇りに思っている。

それだけじゃない。

この人には数知れない恩義もあった。

二十一歳の頃、全日本プロレスを目指していた俺は念願のプロテストにも受かり、有頂天になっていた。

同級生たちが祝賀会をやろうと祝ってくれ、調子に乗っていた俺は全日本プロレスの合宿前日だというのに飲みに行った。

そこで酔った同級生の大沢が大暴れし、ヤクザ者十五人と乱闘騒ぎを起こす。

止めに入った俺まで警察に捕まり、プロ入りは却下された事があった。

それまで応援してくれていた人も警察に捕まった事で、俺を白い目で見るようになる。

あれだけ願い、それだけの為に頑張ってきた俺は限界だった。

自殺すら考えるようになった。

その時そばにいてくれたのが坊主さんである。

落ち込み塞ぎ込んでいた俺に、坊主さんは言った。

「何があっても生きてくれ。おまえは生きなきゃ駄目だ」

思わず号泣した俺。

あれから十年近く経つ……。

早くから結婚をしている坊主さんと時間を作るのは難しい。

仕事と家庭でいつも忙しそうだった。それでも坊主さんはいつだって俺に優しい。

「智はいつ休み?」

「え~と今だと日曜日ぐらいですかね」

「仕事が終わるのは何時ぐらい?」

「日によってまちまちですが、通常なら夜の七時。遅い時で夜の十一時半になります」

「じゃあ、毎週金曜と土曜日は夜、そっちへ行くよ」

「そっちへって歌舞伎町へですか? 裕子さん、大丈夫ですか?」

「だっておまえがパソコンに対し、やっとやる気を出したんだ。こうなるとおまえは絶対パソコンが使えるように自分の気が済むまで、しつこく電話してくるだろうからな」

「へへへ……」

「時間を決めて、その時間帯を集中してやっとほうがいい」

「ありがとうございます」

こうして俺と坊主さんは金曜と土曜の夜になると歌舞伎町の漫画喫茶に入り、野郎同士カップルシートでパソコンの勉強をした。

専門的な坊主さんの教え方は非常に難しい。

それでも朝になるまでひたすら習い、俺はエクセルやワード、そしてどうやって映像を編集し、同じ物を作れるかを頭に叩き込んだ。

 

単なる力自慢だった男が、ホテルで接客術と酒の知識を覚えた。

それは歌舞伎町という街で最大限発揮された。

いい地位を築き、いい金をもらう生活の日々。

そのシステムが崩壊し、一からの出直しとなった。

新たな裏稼業である裏ビデオ屋を始めた俺。

自分がどんどん嫌いになっていく。

どうにかして現状を打破したかった。

そんな時期、一人の女と出逢う。

美しくはかなさを感じさせる女だった。

今の自分の生き方を恥じる俺は、彼女に捧げたいという名目でピアノを始めた。

一心不乱に練習し、一つの曲を完成させる。

しかしその曲は、その子へ捧げる事すらできていない。

プライベートで特に何もする事がなく目的意識を失っていた俺に、坊主さんからパソコンを教えてもらえる時間は至福の時だった。

週末になると始まる坊主さんのパソコンのレッスン。

ザナルカンドを覚え、ピアノが弾けるようになった俺だが、春美との一件以来どうも気が乗らないでいた。

俺にとって新たなスキルが備わる。

どんな難しい事でも根気よく食らいついていく。

仕事明けで正直眠かった。

しかし坊主さんはどうなる?

仕事を済ませ、これから本当なら家族サービスの時間なのに、犠牲にして俺にパソコンのスキルを教えてくれているのだ。

俺は貪欲にパソコンのスキルを吸収していった。

どこへ習いにいったところで出会う事のない最高の先生に今、こうして教わっているのだ。

今までゲームしかできなかった俺だが、ようやくパソコンの本質というものを少しは理解できるようになる。

パソコンは赤ん坊と同じ、但し知識の非常に高い赤ん坊。

坊主さんの言っていた台詞の意味合いが少しずつ分かってきた。

今のパソコンはどれだけアプリケーションソフトを自由に使いこなせるか。

プログラムとかシステムでない限り、そこに尽きる。

そう坊主さんは言う。

今せっかく裏ビデオとはいえ、映像に携わる仕事をしている。

これまでDVDは映画などを買うものという認識しかなかった。

どうやったらDVDができるのか?

その細部に渡る仕組みまで理解したら、客に質問されても何だって答える事ができる。

パソコンというものを俺の中で突出したスキルの一つにしたかった。

市販されているDVDのほとんどは、プロテクトといってコピーができないようガードされている。

そのプロテクトをどう解除し、中身をどうするべきか。

坊主さんは専門分野でもないのに、俺が質問した事を自分で調べ上げ、次に会う際には必ず答えられるように努力してくれた。

幸い漫画喫茶には各種のDVDがそろっている。

俺たちは一枚ずつ借りて、同じものを作れるよう色々と試してみた。

空のDVDーRメディア。

この当時安くても、一枚三百二十円ぐらいした。

俺はメロンでもらう『デズラ』から惜しみなく数十枚、何度も購入した。

DVDをコピーするのに分かった事。

まずはプロテクトを外す作業から始まる。

市販されているDVDの容量は七、八メガぐらいある。

本来DVDは四・七メガしか入らない。

これは片面二層と呼ばれる方法で焼くからできる事であるようだ。

俺の場合、片面二層にはできないので、この大きなデータを四・七メガ以内に縮小しなければならない。

この時データは三つに分かれる。

映像部分、音声部分、字幕部分。

これらの中で例えば中国語の字幕はいらない。

音声もいいかといった具合に選んでいくのだ。

その点でいえば、裏ビデオは単純明快だった。

本来の四・七メガ以内に映像は納まっており、プロテクトもついていない。

ただそのままコピーすれば同じ物が作れた。

ワードを使った企画書の使い方。

そしてエクセルを使った表計算。

様々な事を俺は坊主さんから教わる。

段々とパソコンが手放せなくなってきた自分がいた。

 

早速坊主さんから教わった事を仕事に活かしてみる。

まずはエクセルを使っての商品管理だ。

俺はメロンへ到着すると、ノートパソコンを開き、壁に貼ってあるDVDのジャケットをコピーしたお粗末なものを眺める。

エクセルを起動し、作品ごとのタイトル、出演女優、ジャンルなどをどんどん打ち込んでいく。

番号つける事で商品は整理され、電話口で「『人妻の乱れ』をお願いします」なんてもう言わず番号を言えば済むのだ。

しかし壁に貼ってあるものを一つ一つ見ては打ち込む作業は、とても面倒で非常に時間が掛かった。

北中が降りてきて、パソコンで作業をしている俺を見る。

何をしているのかさえ理解できない北中は、小馬鹿にした表情で「おまえ、何をしてるだよ」と言った。

「作品の整理をしているんです。エクセルを使って商品を整理すれば、注文の際や客に聞かれた時、一目瞭然ですからね」

せっかくここでこうして働いているのだ。

ブツブツ不平不満を言うぐらいなら、売り上げ向上に一役買い、前向きに仕事をしたほうがいい。

表社会でパソコンを導入している会社は当たり前にあるが、裏稼業でこうしてパソコンを導入したのは俺が初めてだろう。

「さっぱりおまえの言ってる事は分からん」

どうでもいいといった感じで北中は、上にあるフィールドへゲームを打ちに行ってしまう。

あんたの店を儲けさせようと自分のパソコンまで持ち込んでデータ整理をしているのに、何て言い草だろうか?

イライラしたが今は我慢しとこう。

このデータが完成されたらどれだけ便利なものなのか、あの北中も分かるだろう。

運びの野路は店に商品を持ってくる度、俺のしている事に関心を示し、「何をやってんの?」と毎回同じ事を聞いてきた。

商品を分かりやすいよう管理する為だと説明しても、野路には理解できなかったようである。

「例えば野路さんに注文の電話を入れる時ですね、いつも『ビデオ? DVD?』って聞いてくるじゃないですか? これが完成すれば、DVDに関してだけは番号を言えば分かるようになるんですよ」

「う~ん、よく分からないや」

照れ笑いを浮かべながら、野路は倉庫へ戻っていく。

何故これだけ分かり易く説明しているのに分からないのだろうか……。

春美にふられた事で、俺は仕事に対し意欲的になっていた。

もうとれだけの時間が流れたのだろう。

未だ彼女からの連絡は一切無い。

仕事にでも打ち込んでいないと、精神的におかしくなりそうだったからである。

北中の理不尽さには苛立つ事も多い。

それでも自分の好きでやっているのだと割り切るように考えた。

 

金曜の夜から土曜の朝まで坊主さんと一緒に漫画喫茶へ入り、カップルシートを選ぶ。

その状態でずっとパソコンについて習う週末。

朝になるとさすがにフラフラになっていた。

坊主さんはこのまま会社へ出勤して、仮眠室があるからそこで寝ると言って別れる。

時計を見ると朝の五時。

いつもこの曜日は徹夜で仕事だ。

俺もメロンに行き、ソファの上で少し横になるかと思ったが、あそこは汚くて嫌だ。

十一時手前までどこかのサウナで過ごすか。

いや、待てよ……。

たまには風俗でも行ってみるか。

気だるい体で街中を歩き、こんな朝早くでもやっている風俗があるか探す。

コマ劇場横のビル入口に、『ヘルス ポップコーン 三千八百円』という看板が目に入る。

ありえない金額のヘルス。

三千八百円で、女が客のチンチンをくわえるとでも言うのだろうか?

そういえばワールドワン時代の従業員で、こんな安いヘルスで働いていたという奴を思い出す。

「確かに金額が安いから、ロクな女がいないですよ。だって他の普通の風俗で断れまくった女共が最後に行きつく店でもありますから。でもですね、中には当たりがあるんですよ」

何をもって当たりなのか分からないが、確かそんな台詞を言っていたっけな。

こんな暑い季節なので汗だって掻いている。

すごい女が来たら、三千八百円でシャワーを浴びにきた。

そう思えばいいだろう。

俺はこの安いヘルスへ入る事に決めた。

入口は不思議な事に道路に面したエレベーターしか見当たらない。

通常ならどこか階段ぐらいあってもよさそうなものだが……。

睡魔が襲ってくる。

何でもいいか。

俺はボタンを押して、エレベーターへ乗り込む。

七階のボタンを押し、狭い小さな箱は上昇していく。

七階へ到着すると、俺は細い通路をそのまま進んだ。

受付がその先に見える。

「ん?」

受付にいる男。

どう見ても堅気には見えなかった。

「あ、いらっしゃいませ」

男は俺に気付き、挨拶をしてくる。

受付頭上には料金表が貼ってあった。

《三十分一万円 四十分一万二千円 五十分一万四千円》

「外の看板に書いてある金額と違うじゃん」

すると男はビックリした表情になり、「あ、外の看板見ていらしたのですか?」と聞いてくる。

「外の看板以外、何を見て来るんだよ?」

「あ、そうですね。じゃあ、お客さまは外の料金通り、三千八百円でいいですよ」

どうもキナ臭い店である。

あとになってボッタクリされるんじゃないだろうな。

歌舞伎町に来て五年以上になるが、俺は一度もボラれた事がなかった。

「いいよ。そこに書いてある料金通り払うよ。それなら文句ないだろ?」

そう言って俺は財布から一万二千円を出した。

「あ、はい。四十分コースでいいですね?」

「疲れてすぐにでもシャワーを浴び、横になりたいんだ。早く案内してくれ」

「分かりました。それではこちらへどうぞ」

男は受付横にあるカーテンを引き、俺を促した。

 

目の前に見えるのは薄暗い木造の床だった。

ヘルスには何度も来ているが、こんな古めかしい作りの店なんて初めてである。

「左手の三番目の部屋を開けて、中で待機してて下さい」

言われた通り、俺は薄暗く狭い廊下をゆっくり進んだ。

旅館のような襖が左右に見える。

変な造りの店だ。

両サイドからは女の呻き声が聞こえてきた。

途中「フッフッ」と何かを嗅いでいる音が聞こえ、足元に何かがまとわりついてくる。

足で軽く振り払うと「キャン」という泣き声がした。

犬か……。

それにしても何でこんなところに犬がいるのだろう?

左手三番目の襖を開けると、畳四畳の部屋に到着する。

せいべい布団が引いてあるだけで、あとは横に丸い小さなテーブルが一つ。

その上にきゅうすと湯のみ、ポットが置いてあるシンプルな部屋だった。

ほんと大丈夫なのか、この店……。

腰掛けタバコを吸っていると、襖がガラッと音を立てて開く。

振り向くと五十代後半はどう見てもいっているおばさんが入ってきた。

ふざけんじゃねえよ。

こんなおばさんが相手か?

俺は警戒しながら立ち上がる。

「お兄さん、勘違いしないで。私じゃないから」

おばさんはそう言うと、畳の上に座り出した。

「お兄さん、タバコないかい? ちょっと話があるんだけどさ」

俺はタバコを一本差し出す。

おばさんは火をつけながら、さらに喋り続けた。

「これからお兄さんにはエース級の子をつけるからさ。本番しても構わないから、あと一万円もらえるかい?」

「いや、今日はシャワー浴びに来ただけだからいいよ」

「何言ってんの。エース級だよ? エース級」

この小うるさいおばさんには早く消えてもらいたい。

早くシャワーを浴びて横になりたかった。

「分かった。分かった。もしその子が来て気に入ったら一万でも二万でも渡すから。それならいいでしょ?」

「そう。じゃあ女の子来たらよろしくね。あ、そうそう。もう一本タバコもらえるかな?」

「さっきからうるせえよ。早く消えろって!」

寝不足で不機嫌だった俺は、おばさんを怒鳴りつけた。

おばさんは一目散に部屋から出て行く。

本番専門の売春ヘルスか。

どうりで如何わしい空気が漂っているはずだ。

少しして襖が再び開く。

俺は入ってきた女を見て、動物のトドを連想させた。

「あの~……」

「俺さ、徹夜ですごい疲れてんだ。シャワー室、案内してくれないかな?」

「分かりました。通路を真っ直ぐ進んで突き当たり左手にあります」

普通のヘルスなら女も一緒にシャワーへ行き、客は立っているだけで女が身体からすべてを洗ってくれる。

ここでは客一人に勝手に行かせるのか。

まああんなトドのような女に身体を洗ってもらいたい訳じゃないので、俺は黙ってシャワー室へ向かう。

薄暗い廊下を歩くと、さっきの犬がまた「キャンキャン」言いながら足元にまとわりついてきた。

シャワーを浴び、じっとりした身体を洗い流す。

終わると部屋に戻り、女に伝えた。

「俺さ、これから眠るから。四十分でしょ? 何もしなくていいからさ、その代わり時間になったら起こしてくれるかな?」

「分かりました」

そこまで言うと俺は横になり、すぐに寝てしまった。

 

ん?

何だか変な感じだぞ……。

俺はふと目を覚まし、足元を見た。

するとさきほどのトドが俺のチンチンをしゃぶっていた。

「何をしてんだ!」

すぐ起き上がり、女を突き飛ばす。

春美を想い、純潔を貫いてきたのに汚された気がした。

「いや、あの…、一万で本番……」

「うるせー! 何もするなって言ったろうが」

時計を見るとまだ二十分しか経っていなかった。

俺はスーツに着替えながら、まだ時間はあったが店を出る事にした。

部屋を出ようとすると、先ほどのおばさんがやってきて「どうしたんだよ、お兄さん?」と声を掛けてくる。

「もう帰る」

「まだ時間じゃないよ?」

「うるせー! 何がエース級だ? 本当のエース級なんかつけやがって。どけよ!」

俺はおばさんを乱暴にどかし、廊下へ出た。

他の部屋からは変わらず女の喘ぎ声が聞こえる。

こんな店、来るんじゃなかった。

無性にイライラしている。

その時、受付のところから先ほどの男が道を塞ぐように出てきた。

ボッタクリをする店の常套手段だ。

何か俺に文句でもあると言うのだろうか?

男は俺の顔をジッと睨んでいる。

この俺から金をボッタクろうとしているのか?

上等だ。

最近ずっと暴れていない。

俺は右の拳を壁にフルスイングで叩きつけた。

すごい音が聞こえ、女たちの喘ぎ声は一斉に止んだ。

構わず拳を壁に叩きつける。

右拳の皮が破れ、血が滲み出す。

受付の男の前まで来ると、「何か文句でもあんのかよ?」と凄む。

男は無言のまま下を向き、道を譲った。

こんな朝っぱらから下手に大勢のケツモチでも呼ばれたら洒落にならない。

俺は平然としながらエレベーターまで向かい、外へ出た。

コマ劇場横の通りに出ると、一気に駆け出しその場から逃げる。

そのままメロンまで行き、ドアに鍵を閉めたままソファーの上で倒れるように眠った。

 

パソコンを覚える為、仕事に没頭するしかなかった。

エクセルデータをようやく完成させる。

月に二回ほどDVDの新作は増えるので、全部で三百種類ほどあった。

世の中もようやくDVDプレイヤーが安価で出回り、ビデオからDVDに移り変わろうとしている。

今まで裏ビデオを買っていた常連客も、徐々にDVDへと移行していく。

家に帰り、プリンターでエクセルデータをプリントアウトする。

倉庫の野中は俺の作ったエクセルデータを見て、最初は意味が分からなかったが、各DVDへ番号を割り振り整理して、初めてその便利さを理解したようだった。

北中もプリントアウトされた用紙を見て、なるほどと思ったらしい。

パソコンの中なら、女優別、ジャンル別にすぐ分かるようになっている。

客に誰々の女優物は何作あるかと聞かれても、すぐに答える事ができるのだ。

当然DVDの売り上げは、今までと比べ三倍も増えた。

番号の若いDVDは古い作品。

新作になるほど番号は増えていくので分かりやすい。

北中は新作が入る度、俺に「おい、岩上。早くデータにしろ」と偉そうに言ってきた。

考えてみれば、これは俺自身のパソコンで行っている善意である。

それをありがとうの言葉もなく、当たり前のように何を威張っているのだろうか?

時間が経つと、善意でした行動に対し苛立ちを感じている自分がいた。

いや、違う。北中の態度がおかしいから苛立っているのだ。

あまりセコい言い方はしたくないのであえて黙っていたが、パソコンだってプリンターだってタダではない。

俺は数十万円も掛けて、一式を揃えたのだ。

それはあくまでも自分の為であり、メロンや北中の為ではない。

そういった事に一円の経費すらくれない北中。

ここではやる気を出して頑張っても、うまく利用されるだけなのだ。

そう思った翌日から俺は、パソコンを仕事場へ持っていくのをやめた。

馬鹿らしくなったのである。

北中は新作が入ると、「早く作れ」と命令してきた。

「すみませんが、パソコンの調子が悪いんですよ。今、修理中でしてね」

「いつ直るんだ?」

不機嫌そうに北中は言った。

おいおい誰のパソコンだと思っているんだ、この男は……。

「北中さん、申し訳ないですけどね。この紙を一枚プリントアウトするんだって、金が掛かっているんですよ。例えば店に一台プリンターがあれば、俺だって何とかしたいなって思います。でも全部俺が金を払って店の事をしてるんですよ? 少しは考えて下さい」

ムッとしながら話すと、北中は財布を取り出し「じゃあ、プリンターでも何でも買って来い」と言った。

珍しい事もあるもんだ。

でも北中はプリンターの仕組みなどまったく分かっていない。

機械だけでなく、インクだって用紙だってなければ印刷はできない。

そこもちゃんと言っておいたほうがよさそうだ。

「プリンターだけでなく、用紙もインクも消耗品なので揃えないとプリントできませんからね」

「紙でも何でも買ってくればいいだよ」

そう言いながら北中はテーブルの上に、千円札を一枚だけ放り投げた。

「……?」

一体どういうつもりなんだろうか?

この千円札の意味が分からなかった。

「あの~、北中さん……。この千円って一体何でしょうか?」

「だからそれでプリンターでも紙でも買ってくるだよ」

たった千円でプリンターを買ってこい?

ムチャクチャだ……。

「お言葉ですが、一番安いプリンターでも最低一万円ぐらいしますよ?」

「何だ、じゃあいい。ほら、よこせ」

そう言うと北中は俺から千円札を取り上げた。

本当にこの男、底なしのケチである。

少しでもこんな男に期待した自分が馬鹿だったのである。

 

春美から連絡が来なくなって数ヶ月。

俺は三十二歳になっていた。

寂しさを感じながら日々を過ごしている。

でもどうする事もできない。

いくら俺が努力しても、春美はこちらを振り向いてくれなかったのだから……。

その代わりパソコンのスキルはかなり上達した。

週末になると坊主さんとのパソコンレッスン。

どうにかして自分を変えようと必死だったのだ。

一度だけ春美のいるキャバクラへ行ってみる事にした。

しかし春美はもう店を辞めていた。

もうどうする事もできない。

俺は落胆する。

春美への想い。

日に日に募るばかりだった。

「岩上君、今、帰り?」

仕事帰り道を歩いていると、ピアノの先生が声を掛けてきた。

手にビニールの買い物袋を持っているので、買い物の途中だったのだろう。

いつもピアノを教えてもらっている姿しか見ないので、その家庭的な姿に違和感を覚えた。

「ええ、今帰りです。先生こそどうしたんです?」

「たまには買い物をしないとね。一応主婦ですから。最近岩上君が来ないから、どうしたのかなと思ってたのよ」

「いや……」

春美にふられたからだなんて、恥ずかしくて言えやしない。

「もうピアノが嫌いになっちゃった?」

「いえ、そんな事はないです。逆に新しい曲を習いたいなあって思っているぐらいです」

「ほんと?」

嬉しそうな先生の顔。

俺がまたピアノを始めるのが、そんなに嬉しかったのか。

こんな不肖の弟子に対し、ありがたいものである。

「ええ、やっぱり先生の弟子だし、クラシックを一曲弾きたいなって……」

また頑張ってみようか。

そんな気持ちになっていた。

「よ~し、じゃあ、このまま教室まで行こうか」

「はい、お供します」

くっきぃずへ向かう。

先生は歩くというよりも、楽しそうにスキップをしていた。

 

俺は、先生のところの楽譜を色々と眺めていた。

「あなたがどれだけ苦労して、あそこまでピアノを弾けるようになったのか。その努力を理解できる女のほうが、あなたにはいいんじゃない?」

JAZZBARスイートキャデラックにいたピアニストの女の台詞を思い出す。

確かに分かってくれる女のほうが、俺にとって幸せかもしれない。

しかし、俺がピアノを始めたのは春美に聴かせたいからだ。

懸命に努力して練習したのも、彼女に捧げたい一心。

春美以外に捧げる相手など、どこにもいやしないのだ。

では今、何の為に俺は新しい曲を習おうとしている?

春美の為でも誰の為でもない。

自分の為に弾いてみたい。

それだけだ。

綺麗な音色のドビュッシーの曲を弾いてみたかった。

「先生、ドビュッシーの曲を何曲か弾いてもらえますか?」

「ドビュッシー? いいわよ。どの曲がいいの?」

俺は楽譜を取り出して、先生に手渡す。

「できれば適当に俺が似合いそうなやつを色々と」

「う~ん、そうね。分かったわ」

先生はピアノを弾きだした。

いつものように表情はとても楽しそうに弾いている。

ピアノを弾くのが私の生き甲斐。

見ていて本当にそう感じた。

身体を弾ませながら、ピアノを弾く先生。

ドビュッシーの曲だからといって、すべての曲がお気に入りという訳ではない。

俺は一曲一曲聞き耳を立てしっかり聴いた。

舞曲スティーリー風のタランテラが流れる。

アラベスクが流れる。

二曲とも弾いてみたい曲ではある。

もし俺が弾けたら格好いいだろう。

でも俺には無理だ。

それぐらい分かる。

漫画のドラゴンボールのキャラクターで以前、クリリンがこんな俺でも相手の強さぐらいは分かるとか言っていたが、それと似たような感覚だった。

これ以外で何かいい曲がないだろうか……。

先生は、別の曲を次から次へと自由自在に弾きこなす。

ある時はゆったりまろやかに、またある時は激しく指が狂いだしたかのように鍵盤の上を動き回る。

「……!」

俺の背後に誰かが立ち、暖かい手で背中を軽く押されたような気がした。

振り返っても、誰もいない。

何だ、今の感覚は?

綺麗なゆっくりとした音色が聴こえる。

先生がまた新しい曲を弾きだした。

澄み切った乾いた音。

ゆっくりとスローテンポに鳴り響く。

少し悲しげなメロディ。

先生が左の方の黒い鍵盤を二つ叩く。

地の底から鳴り響くような低音。

そこを境にして一気に激しく聴こえるリズム。

軽く鍵盤を叩いているので、アップテンポな曲になるが、多数の和音を奏でる指がメデューサの蛇の髪の毛のようにうごめいている。

この曲の寂びの部分を聴いた瞬間、鳥肌が立っていた。

これだ……。

これしかない。

はやる心を懸命に抑えた。

「先生、俺、この曲がいい!」

失礼な行為だったが我慢できなかったのである。

先生の演奏中にも関わらず叫んでいた。

今までクラシックなど興味のかけらもなかった。

でもこの曲は違う。

俺は絶対にこれを弾けるようになりたい。

心の底からそう思った。

「ベルマガス組曲の月の光って曲よ。綺麗でしょ?」

「はい。俺もこの曲、頑張れば弾けるようになれますか?」

「そうね、ザナルカンドの七倍ぐらい頑張ればできるわ。神威君は小さい頃からやっていれば、今頃すごいピアニストになっているわ」

「お世辞なんてやめて下さい」

「本当よ。いい? ザナルカンドの時に出した集中力をもっと出しなさい。そうすれば、あなたならきっと弾ける」

「こんな俺が弾ける……」

「センスだけは持って生まれた天性の才能なのよ」

 

全身に電撃が走った。

俺が真剣に真面目にやれば、本当にこんな難しい曲も弾けるようになるのか?

いや、先生は嘘を言わない。

ザナルカンドだって四回のレッスンで弾けるようにしてくれたじゃないか。

やってやる。

春美の為にじゃない。

自分自身の為に……。

 

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