岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

小説、各記事にしても、生涯懸けても読み切れないくらいの量があるように作っていきます

闇 28(日本一汚い倉庫編)

2024年09月28日 11時44分46秒 | 闇シリーズ

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新宿セレナーデ 1 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

新宿クレッシェンド第5弾新宿セレナーデ2009年2月17日~2009年2月21日原稿用紙605枚最も古い用法でありながらこんにち口語に残っている「セレナーデ」は...

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翌日眠い目をこすりながら店に着くと、北中が散らかしたままのテーブルの上を掃除する。

北中は掃除というものをまったくと言っていいほどしない。

客のいない時間を利用して店のファイルを眺め、ビデオの種類を覚えるよう心掛ける。

ビデオの仕事さえ覚えてしまえば、あとは俺のパソコンタイムだ。

ゲームだけでなく、色々な事をできるようになっておきたい。

階段を降りる音が聞こえる。

客か。

俺は入口を見ると、シンシンがメロンへ入ってきた。

女性がここへ来る事なんてまずないのでビックリする。

「岩上さん、お願いある。いいか?」

「何でしょう?」

シンシンはセカンドバックから封筒を出し、テーブルの上に置く。

中身を見ると、婚姻届の保証人の名前を書く書類だった。

「パパと私、結婚する。でも保証人二人必要。一人、岩上さん頼む。いいか?」

「ちょ、ちょっといきなり過ぎますって」

「大丈夫。この書類、名前書けばいいだけ」

「いや、そういう問題じゃなくてですね……」

「いつになったら書く?」

何で保証人をお願いされているのに、こんな催促されるような言い方をされなきゃいけないのだ。

「待って下さいって。少し考える時間を下さいよ」

「分かった。また来る」

そう言って彼女はメロンをあとにした。

シンシンという名前しか分からないのに、何で俺が保証人にならなきゃいけなんだ?

新しい客が入ってくる。

俺は客の対応をしながら仕事をする事にした。

毎日こんな事をしていると、必然的にビデオの種類を覚えてくるものである。

出前を頼み食事を済ませると、北中が店に来た。

「あの北中さん。先ほどシンシンさんが来まして、結婚の保証人がどうとか……」

「ああ、あれか。じゃあ、名前書いとけ」

何なんだ、この言いようは?

自分たちの結婚なのに、何故俺が引きずり込まれ、こんな言われ方をされるのか。

常識がないにも程がある。

それに北中自身の結婚に関する事を言っているのに、どこか面倒臭そうに感じた。

「今日から岩上は、倉庫へ行ってくれ」

「え、俺が倉庫ですか?」

「たまには倉庫の野路さんをゆっくり食事でもさせてやるだよ」

野路という名前なのか。

あの倉庫の無愛想な人は……。

「食事って、一時的にって事ですか?」

「もちろんそうだよ。俺が店にいるから岩上は倉庫に行って、その間野路さんを食事へ行かせるだけだよ」

「でも、倉庫の場所…。自分は分からないですが……」

「ちょっと待ってろ。今、野路さんに電話してこっちに呼ぶから、倉庫の場所を教えてもらえ」

頭の中で想像してみた。

店だけで六百種類ぐらいのビデオやDVDがあるのだ。

倉庫はストックもあるはずだから、二千本ぐらいビデオがズラッと並んでいるかもしれない。

もし俺が倉庫にいる時に電話があったとして、注文したビデオを探す事ができるだろうか?

つい、妙な不安をしてしまう。

「だ、大丈夫ですかね? 自分なんかが倉庫で……」

「大丈夫だよ。野路さんにビデオの置いてある場所とか説明させてから食事に行かせるから。なあに、簡単な仕事だ」

「はあ……」

階段を「はぁはぁ」と野路が駆け下りてきた。

「野路さん、食事ゆっくりしてくればいいだよ。その間、岩上に倉庫をやってもらう事にしたから。今日だけ岩上に、倉庫の仕事を教えてから食事に行ってくれ」

「ああ、そう」

オーナーである北中に対してもタメ口の野路。

この人は言葉遣いというものを少しは勉強したほうがいいのではないだろうか。

そんな訳で俺は、これから野路と倉庫へ向かう事になった。

 

ビデオ屋メロンを出て、花道通りを風林会館方面へ向かって真っ直ぐ歩くと、一軒の古いマンションがある。

一階は古そうな造りのラーメン屋。

倉庫はその四階の一室にあった。

野路がドアを開けた瞬間、俺は目を丸くした。

「……」

鼻が曲がりそうな何ともいえない腐った臭い。

口で吸っても味がしそうな臭いである。

そんな悪臭が鼻をつく。

倉庫は玄関先から、とてつもなく散らかっていた。

「早く上がりなよ」

入口で上がるのを躊躇っている俺に、野路は声を掛けてきた。

俺は一瞬だけ外に出て、目一杯息を吸い込んだ。

こんな事をしても、しばらく倉庫の中にいるようだから無意味なのは分かっていたが、それでも新鮮な外の空気を吸いたかった。

入ってすぐキッチンがある。

まずビックリしたのが、ガスコンロに出しっ放しのフライパン。

よく見ると、ゴキブリの死骸が何匹かいた。

ゾゾッと鳥肌が立つ。

「何か飲むかい? コーヒーなら冷蔵庫にあるから、勝手に飲んで」

「ありがとうございます」

思ったより野路はいい人なのかもしれない。

喉の乾きを覚えていたので冷蔵庫を開けた。

「ゲッ……」

季節は冬。

この時期にゴキブリなど普通は出ない。

それが倉庫の冷蔵庫には、ウジャウジャとゴキブリが徘徊していた。

缶コーヒーの口をつけるタブのところにも、構わず動き回っている。

さすがに水で洗っても口をつける気はしない……。

「遠慮しないで飲みなよ」

「あ、今、喉乾いてないから大丈夫です……」

野路さんは何も気にせず、このコーヒーを飲んでいるのか?

そういえばDVDやビデオをメロンに持ってくる時、いつも客用に買ってあるコーヒーを持っていく。

…という事は、普通に飲んでいるという事なのだ。

大丈夫なのか、この人は……。

倉庫の部屋は十畳一間で、壁に沿って棚がズラッと置いてある。

一つ一つの棚には、各ジャンル別にビデオが並べられてあった。

「一番右の棚から『和物』ね。タイトルで、あいうえお順に並んでいるから。次が『熟女』、『盗撮』、『SM』、『スカトロ』ね。『レイプ』は『和物』と同じにしてある」

「……」

何を言っているのか、さっぱり分からない。

野路さんは構わず話を進め、「最後が『洋物』だから」と言って食事へ行ってしまった。

部屋の中にはテレビが二台とビデオデッキが全部で九台置いてある。

ひょっとしてこんな小汚い環境で、あの裏ビデオのダビングでもしているのだろうか?

それにしても臭い部屋だ。

ボロボロの絨毯の上には、ゴキブリが我が物顔で歩き回っている。

とてもじゃないが、地面に腰掛ける気になれない。

かといってそのまま立っている訳にもいかない。

部屋に転がっているダンボールの一つを潰し、座布団代わりにして腰掛けた。

携帯の電池が少なくなっていたので充電をしようとビデオデッキで一杯の蛸足に、コンセントを挿そうとした時だった。

絨毯の汚れと思っていた黒いものが、一斉にサササと動く。

「うわっ!」

思わず出る叫び声。

黒い汚れ……。

それはゴキブリの塊だった。

蛸足のコンセントに籠もった熱で、温まっていたのだろう。

野路という人間は、どんな生活をしているのか……。

尿意を感じトイレへ向かう。

床にゴキブリがいないか注意しながら、常に慎重に一歩一歩進む。

トイレの中へ入ると、思わず鼻を押さえてしまう。

ムワッとする物凄い臭いだった。

手探りで電気をつける。

「ゲッ……!」

中はユニットバスになっており、左手にトイレ、右手が浴槽になっていた。

手を洗うはずの洗面器の上は、漫画本が積み重ねられている。

異臭を放つ元は便器だった。

水の溜まる部分はこげ茶色に染まり、掃除をまったくしていないのか便が固まってついたままである。

そして尻をつく部分のカバーの片側は、何故かガムテープでグルグルに巻かれている。

カバーが折れるなんて聞いた事もないが、実際に折れたからこその処置なんだろう。

浴槽を覗いてみると、普段使っているという気配がない。

底は黒い細かいものがまばらにある。

ひょっとしてゴキブリの糞だろうか?

駄目だ……。

これ以上、ここにいると気が狂う……。

俺は一度倉庫から出る事にした。

ドアを開けた瞬間、心地良い新鮮な空気が鼻に飛び込んでくる。

空気がこんな美味くものだなんて、生まれて初めて感じた。

歌舞伎町で空気がこんなに美味く感じるなんて初めての経験である。

 

倉庫の外でタバコを吸っていると、野路が帰ってきた。

「おまえ、何をしてんの?」

「あ、タバコ、中で吸っちゃいけなかったかなと思いまして……」

適当に言い訳をでっち上げた。

「そんなのは全然構わないよ。外にいちゃ寒いだろ。中に入りなよ」

久しぶりにゆっくりできたのがそんなに嬉しかったのか、野路は上機嫌だった。

笑顔でドアを開け中へ入っていく。

俺はタバコを消し、あとに続いた。

またあの臭いを嗅がなくてはならないのか……。

「北中さんから電話は?」

「特にないです」

「相変わらず暇だな~。まあいいや。とりあえず倉庫でやってもらいたい仕事ね。電話来たら店にビデオを運ぶっていうのが第一だけど、いる間は少なくなったビデオのダビングをやってほしいんだよね」

「はあ……」

野路はダビングについて色々何かを話していたが、そんな事ぐらい聞かなくても分かる。

彼の言葉は俺の右耳から左耳へそのまま通過した。

そんな事よりも、これからこの倉庫へ毎日来るようなのである。

この臭さをどう対処したらいいか。

そんな事ばかり考えていた。

「野路さん、俺、倉庫にはだいたいどのくらいいればいいんですか?」

「俺が飯に行く間だけだから、一時間から二時間ぐらいだろ」

「そうですか」

少しだけホッとする。

ここ専門になったら、俺は窒息死してしまう。

「明日も出勤だろ?」

「いえ、明日はお休みなんですよ。ではそろそろ俺、メロンに戻りますね」

「もうちょっとゆっくりしていけばいいじゃんか」

親切心で言ってくれるのは充分分かるが、ノーサンキューである。

一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。

「いえ、北中さんが一人で店番をしてるでしょうし……」

「倉庫にさ、人が来たなんて久しぶりだよ」

野路は俺の台詞など聞いてないかのように喋り出している。

横にあるテーブルの上を一匹のゴキブリが走り出す姿が見えた。

野路は普通に話しながら素手でゴキブリを潰し、ゴミ箱へ放り込む。

見ていて吐きそうになった。

「……。久しぶりって、前にいた浦安さんは来てなかったんですか?」

「あいつはいい加減だろ? だいたいうちで働く人間って北中さんから金を借りて返せなくなり、その肩代わりに安い金で働かせられるだけだからさ。倉庫はビデオ屋にとって命綱だし、そうそう簡単に教えられるもんじゃないんだよ」

こんな汚い場所がメロンの命綱……。

「そういうもんなんですか」

「まあおまえは、北中さんから信頼されているんだろうな」

「どうなんでしょうね。とりあえず今日は帰りますね」

「明日もよろしくね」

「だから明日は休みですって」

視線をずっと下を向けたまま湿った床を歩く。

うっかりゴキブリを踏んでしまったじゃ、洒落にならない。

 

仕事帰り、ミサキへ電話をしてみるが出なかった。

キャバクラへ出勤しているのだろう

仕方なく月に一度ぐらいの割合で行くスナックへ飲みに行った。

本当に暇な店で、二十五歳前後の女が三人で働いている店。

「あ、岩上さん、いらっしゃい」

「おう、久しぶり」

「いつもので、いいんでしょ?」

「ああ」

「グランリベ……」

「グレンリベット。いい加減、覚えろって……」

「あー、ごめんごめん」

女の質は落ちるが変に気を使わないでいいので、俺は気に入って通っていた。

俺はグレンリベットの十二年が大好きでたまらない。

目の前にこの酒を置かれるだけで、ニコニコしてくるから不思議だ。

以前ホテルで働いていた時の話だが、色々な酒を飲み、自分にあった酒を探していた時期があった。

何万種類の酒を飲んだか分からないぐらい、様々な種類の酒を飲んだ。

その時に俺はグレンリベットに出会った。

俺が一番、日本でこの酒を飲む。

みんなにそう思われるぐらい飲んだ。

この酒に出会ってからは、とんかつ屋へ行こうが、焼肉屋に行こうが、行きつけの店にはすべて、グレンリベット十二年を置かせてもらうように頼んだ。

店内は、相変わらず観光鳥が鳴いていた。

俺が来た時点で、客が一人だけいた。

しかし三十分もすると帰ってしまい、とうとう俺一人だけになる。

「ねえ、岩上さん」

「何?」

「私たち、ビールもらってもいい?」

「はいはい、どうぞ」

「わーい、ありがとう」

これで会計にビールが三杯分足される事になる。

三千円は掛かるという意味だ。

「いただきまーす」

俺の持つグラスより、女たちはグラスを上に高くした状態で乾杯してきた。

サービス業をやるなら、絶対にやってはいけない行為である。

でも俺は何も言わず、笑顔で乾杯した。

「それにしても、本当に暇な店だな」

無駄に広い店内をゆっくり見渡す。

閑古鳥が鳴いているとはこういう事を指すぐらい、暇な店である。

よくこんな状態で店がもっているものだ。

ある意味、感心する。

「ほんと、そうなんですよ。岩上さんって、前にホテルでバーテンダーやってたんでしょ? 何か私たちにカクテル作ってよ」

「悪いけど仕事以外じゃ、俺はシェーカーを振らない。それに今はバーテンダーじゃない」

「えー」

昔は違った。

ホテルで働き出した頃は、給料が入ると色々な酒を買った。

部屋にたくさん色々なボトルを並べ、友達が来るとカクテルを作ってやった。みんな、おいしいと喜んでくれた。

ただそれを数年繰り返して、気がついた事がある。

何年にも渡って、俺は友達たちにタダで酒をずっと振舞っていただけなのだ。

実際に多数のカクテルを家で作れるようにするには、メチャクチャ金が掛かる。

でも誰一人として金を払ったり、酒を差し入れしたりしてくれた奴はいなかった。

タダ酒だから、みんな喜んで来ていただけなのだ。

別のスナックに通っていた頃、ちょうど口説いている女にいいところを見せようと、カクテルを作った事がある。

散々飲んでみたいとせがまれ仕方なしにといった形の上だが、店の女全員が飲みたいと言い出した。

ママが「悪いけど岩上さん、みんなの分も作ってあげてくれないかな?」と言うので作った。

帰る時になって会計を見てビックリ。

店の女全員に頼まれて作ったカクテルの分まで会計に上乗せされて請求されたのだ。

これに懲りてカクテルは仕事以外、二度と作らないようにしていた。

今となってはどうでもいい話である。

「何で、うちの店ってお客がこないのかなあ?」

「簡単だよ、原因は……」

「えー、何で?」

目の前に座る女三人は、俺の顔を真剣に見ている。

「まず、聞くぞ。今だったら、キャバクラってもんがあるよな?」

「うん」

「でも、おまえたちが水商売で働こうって頃は、まだなかった商売だよな?」

「そうだね…。スナックか、クラブか、キャバレーぐらいだね」

「私は熟女パブにいたよ。二十一の頃だけど……」

「まあいい、よく聞けよ。もし、おまえたちが高校を卒業して、水商売をやるとしたら、それが今だとしたらの話だけど、そこにキャバクラという選択肢もある。そしたらどこで働く?」

「キャバクラ」

 三人は即答で声をそろえて言った。

「何で?」

「だってぶっちゃけ、ここの時給千五百円なのよ。キャバクラなら、最低でも二千五百円はもらえるでしょ」

こんな適当な仕事ぶりで、時間給千五百円ももらえているという事に感謝すら覚えない馬鹿な女たち。

「私もー、スナックって大勢の団体さんが来ると、忙しくても基本的に一人で全部こなすようでしょ。キャバクラなら、一人だけ相手すればいいわけだしね」

「ここはママって存在がいないから気楽だけど、普通はいるでしょ? 前にいた店でいつもうるさいぐらい怒られてね。だからやっぱ、金もよくて、うるさいママのいないキャバクラがいいな」

こいつらは、恥という言葉を知らないのだろうか。

「何でこの店が暇かって言ったろ?」

「うん」

「そんな考え方で仕事をしているから、いつまで経っても流行らないんだよ。それにさっきの乾杯。客である俺のグラスの位置より、上でグラスをつけたろ? それって飲み屋の女として、一番やっちゃいけない事だぜ。ただ、店に女がいるってだけで客が来るほど、今の世の中甘くないぜ」

「すいませ~ん」

「すいませんじゃなく、すみませんが正しい日本語だ」

俺の指摘を受け、三人はしゅんとなっていた。

今日の酒は、非常に不味く感じる。

 

休み明けなので新宿へ行くのが気だるい。

悩みの種はあの不潔極まりない倉庫である。

あそこへ入った瞬間、汚れた匂いが鼻から毛穴から、全身に沁みていくような気さえした。

それに北中のあの意地汚さ。

まさに掃き溜めの巣窟という表現がピッタリの場所である。

あんなところで働いていて、果たしていいものだろうか?

真っ当な就職口でも探そうかな……。

そんな事を考えている内、電車は西武新宿駅へ到着した。

一番街通りを通過しコマ劇場横へ差し掛かった時、俺はふとロッテリアの看板を見てハンバーガーが食べたくなった。

出勤時間までまだ余裕はある。

北中も食べるだろうと、二人分をテイクアウトで注文した。

その時だった。

どう見ても堅気ではない二人が怒鳴り合いを始めた。

一人は短い茶髪の男で、もう一人はメガネを掛けた口髭の男。

ロッテリアのアルバイトの子は、その光景を見てビックリし固まっている。

やがて二人は怒鳴り合いからエスカレートし、フルスイングでの殴り合いをおっぱじめた。

道の向こうで三名の警察官の姿が見えた。

茶髪の男の鼻から血が滴り落ちる。

口髭メガネのレンズにヒビが入る。

ヤクザ者同士が勝手に因縁をつけあって争うのは自由だ。

しかしこんな店の近くで白昼堂々というのがマズい。

しかし警官もヤクザ同士の喧嘩に気付いている。

その内止めに入るだろう。

口髭メガネの動きが止まり、連続で茶髪のパンチが炸裂した。

そのまま口髭メガネは仰向けに倒れ、茶髪は馬乗りになる。

まさかまだ殴るつもりか?

俺はダッシュして間に入った。

茶髪が追撃しようと右腕を後方に開いた瞬間、横から俺は右腕を首に回しガッチリとロックする。

相手の右腕も一緒に挟み込んだ状態で、そのまま力づくで引き剥がす。

「何だ、テメーは!」

いくら喚かれても暴れても俺は手を離さない。

茶髪は右腕の自由を奪われた状態のまま、必死に振りほどこうとしている。

「離せ! 離しやがれ!」

「おい、あんま暴れると、このまま頚動脈絞めて落としちまうぞ」

脅しじゃないのを分からせる為に、俺は茶髪の頚動脈を軽く力を入れ絞めた。

そこでようやく茶髪も大人しくなる。

「これ以上こんな状態で殴ったら、下はアスファルトだぞ? 死んじまうだろうが」

「分かったよ。分かったから離せよ」

「もう暴れるなよ?」

ロックを外すと、茶髪は右肩を押さえながら黙っていた。

その時、仰向けで倒れていた口髭メガネが「まだ終わってねえんだよ!」と顔面血だらけのまま立ち上がる。

メガネは両方とも割れ、酷い有様だ。

「黙ってろ。おまえは俺が止めなかったら、死んでいたかもしれないんだぞ?」

「うるせー!」

「うるせーじゃねえ。こんな白昼堂々喧嘩をおっぱじめやがって。今頃起き上がっっといて、やる気になってんじゃねえぞ。おまえの負けなんだよ。それぐらい認識しろ」。それに他の人間に迷惑だろ。喧嘩やるなら目立たない隅っこで遣り合えよ」

そこまで言われると、口髭メガネは黙ってしまう。

道の向こうにいる三名の警官は、俺たちの様子を黙って見ているだけで近づこうとしない。

「あんた、どこの組の人間だ?」

茶髪が声を掛けてくる。

「おいおい、俺は一般人だって。一緒にすんなよ」

「俺はよ、昨日務所から出てきたばかりなんだ。あんた、〇〇連合の宮部組長って知ってっか?」

「ああ、名前ぐらいは聞いた事ある」

「言っといてくれ。この根岸安治が昨日務所から出てきたって」

「おまえ、人の話をちゃんと聞いているのか? さっきから俺は、一般人だって言ってるだろうが。そんなの勝手に伝えに行けよ」

まったく人の話を何も聞かない男だ。

こんな馬鹿共は放っておいて、さっさとメロンへ向かうか……。

俺はテイクアウト用に包まれたビニール袋を受け取ると、ヤクザ者二人を置いて仕事へ行く事にした。

その場から俺がいなくなると、二人は睨み合い、再び胸倉をつかみだしている。

もう勝手にしやがれだ。

俺は気にせず歩く。

すると前方にいた三名の警官が「ちょっと君」と声を掛けてきた。

「何だよ?」

「職質だ」

こいつら頭がおかしいんじゃないだろうか。

「職質? おまえらふざけんなよな。あそこで今もそうだけど、さっきもヤクザ二人がフルスイングで喧嘩をしていたの見てるだろうが? それを見ないふりして職質だ? ほれ、まだあの二人、胸倉をつかみあってるぞ? さっさと注意しに行けよ」

街の治安を本来守るはずの警察。

それがこのザマは一体何だろうか?

こういう連中は税金泥棒と呼ばれても仕方がない。

俺は警官を乱暴にどかし、メロンへと向かった。

 

店へ到着するのを待っていたかのように、北中の女シンシンが下に降りてくる。

「岩上さん、サインいいか?」

例の婚姻届の保証人の用紙をテーブルの上に置き、名前を書けと言ってくるシンシン。

この保証人という事を少し調べてみたが、結婚の保証人に関してだけ言えば、大した責任などないらしい。

ここで保証人になっておき、少しぐらい北中へ恩を売っておくか。

そう感じた俺は用紙を広げ、名前を書こうとした。

「ん?」

用紙をちゃんと見てビックリした。

中国人の女性の名前で片側のみ細かく記載してあるだけで、男性の記入欄は空白のままだった。

肝心の北中の名前がどこにもないのだ。

こんな訳の分からないものに、自分の名前などサインできるか……。

「ちょっと、シンシンさん。これ、北中さんの名前ないじゃないですか?」

うっかり名前を書いたばかりに気付けば偽装結婚なんてハメになっていたら、目も当てられない。

一体どういうつもりだ、この女……。

「早く岩上さん、名前書く」

「これじゃ書けませんって……」

「あとでもうじきパパ、ここに来るでしょ? その時、それに名前書く。そう言っといて」

そう言いながらシンシンは用紙を置いたままメロンを出て行ってしまう。

何ていい加減な人間なんだろうか?

ここまで非常識な人間がいるなんて信じられなかった。

誰がこんなものに名前など書くかってんだ。

客が入ってきたので、俺は用紙をテーブルの引き出しへしまい、仕事をする事にする。

夕方頃になってやっと北中が店に来た。

俺はシンシンから言われた事を告げ、用紙を見せると「そんなの早く名前を書いておけ」と不機嫌そうに言われた。

何様のつもりなんだ、この男は……。

あまりの理不尽さに苛立ちが走る。

「あのですね、肝心の北中さんの名前が書いてないじゃないですか? そんなものに何で俺がサインできると言うんですか」

「うるせー、早く名前書けばいいだよ」

「申し訳ありませんが、北中さんがご自分の名前を書かない限り、お断りさせていただきます」

「じゃあ早くそれを寄こすだよ」

ひったくるように用紙を取り上げる北中。

何でこいつは自分の結婚なのにここまで偉そうなんだろうか?

本当に神経を疑ってしまう。

恩を感じるどころか逆に怒っている北中は、人間的に絶対間違っている。

「ほら、これでいいだろ。早くおまえも名前を書け」

あくまでも偉そうな北中。

俺はボールペンをひったくるように取ると、イライラしながら保証人の欄へ自分の名前を書いた。

こんな事、俺がする義理なんて何一つないというのに……。

 

倉庫は変わらず悪臭を放っていた。

この臭さが俺の体臭に入り混じったら、どうしてくれるんだ。

そう文句を言いたくなるぐらいである。

テーブルの上から床、至るところすべてにゴキブリが這っている恐怖の部屋。

ここでは嫌悪感しか覚えない。

俺はメロンから缶コーヒーが入っていた空のダンボールを持ってきて、いつも床の上に置き、その状態で座るようにしていた。

これでもまだ安心はできない。

ゴキブリの奴らはこの上だって平気で、ノソノソと這い回ってくるのだ。

倉庫の電話が鳴る。

配達の注文だろう。

受話器を取ると、北中の声が聞こえた。

「ビデオ……。『バカン、イヤン、もう駄目』、『レイプレイプレイプ』、『缶コーヒー入るかしら?』…。以上、三本」

「はい、了解です」

俺は、各棚の中から注文されたビデオを名前順で探す。

どうもこの作業が苦手だった。

野路さんの割り振りでジャンル別に分かるよう置いてあると言うが、何が『和物』でどれが『熟女物』なのかが分からない。

こんな全部で何百種類の中から、三本のビデオを探せと言うのだ。

慣れないとできない作業である。

それでも何とか探し出し、黒いスポーツバックにビデオをしまい込む。

倉庫を出て外へ出ると、俺は自転車へ飛び乗りメロンまで急いで向かう。

これが運びの仕事だった。

裏ビデオ屋は大きく分けて二種類のタイプに分かれる。

一つはメロンのように商品の受け渡しを別にする店。

もう一つは店内にすべての商品を置き、その場で客へ渡す店である。

金は店で受け取り、品物は外から。

北中曰くこれが警察に捕まらない一番いい方法だと、以前豪語していた。

確かにそれはそうだろう。

普通に考えれば想像がつく。

裏ビデオを売っているという事が『猥褻図画』という犯罪になるのだ。

ビデオの場合も現行犯逮捕。

店に品物がなければ警察も売る現場を押さえない限り、安全だと北中は言っていた。

こんな裏ビデオを売っている仕事で捕まりたくなんかない。

常々そう思う自分がいた。

仕事自体は非常に楽な仕事だ。

来た客にだけビデオやDVDを売ればいい商売なのだから。

この街へ最初に来た時働いたゲーム屋ベガのオーナーである鳴戸が言っていた台詞を思い出す。

「女のあそこで、飯なんか食いたくないじゃないですか。その点ゲーム屋は賭博。風俗やビデオと比べても格好いいですよね」

確かにその通りだと感じる。

ビデオ屋で働いているなんて知人には言えない。

ましてや春美や妹代わりに可愛がっているミサキには絶対に知られたくない……。

つまり俺は、今しているこの仕事を格好悪い商売だと思っているのだ。

どんな形でもいい。

現状を何とか打破したい気持ちでいっぱいだった。

 

暇なメロンの仕事。

ピアノはあれだけハマって一心不乱に弾いていたのに、このところまったく弾かなくなった。

俺はこの時間を使い、絵を描いてみる事にした。

学生時代、美術部ではなかったが不思議と絵は得意分野だった。

但し写生会のような決まりきった背景を描く事や人物画は苦手である。

想像で好きなように描く。

そうして出来上がった作品のほとんどは入選し、上野美術館にも飾られた事があった。

得意分野な絵をまず描こう。

それにしても絵を描くなんて春美にプレゼントした以来だな。さてどうするか?

俺は出勤前、東急ハンズに寄り、発泡スチロールでできたボードの板を買ってきた。

これはワールドワン時代、ビンゴを作ったり店頭の告知用に使えたりする優れもので、発泡スチロールの上に上質紙が貼ってある。

みんな、この上にカッティングシートで切り文字をして貼っていた。

カッターを使ってこのボードを横七センチ、縦十センチの大きさに切り分けた。

さすがに仕事中なので、すぐ片付けられないとまずいだろう。

だから絵の具で描くのは難しい。

じゃあ何で描こうか?

ゲーム屋でよく使っていたポスカ。

ロイヤルを撮ったプリンターの感熱紙によくポスカで日付と出した客の名前を書いていたっけな。

あれを使おう。

どんな絵を描いてみるか?

頭の中で思い浮かぶシーンをそのまま描くしかないだろう。

星の奇麗な夜空の草原の絵を思い浮かべる。

俺は水色のポスカをボードの上に塗っていく。

薄い色から塗っていき、渇くと次の色を重ねていくというやり方で絵を描いていった。

幻想的な絵にしたい。

慎重に色を塗っていく。

細かい部分は余ったボードの上にインクだけ出すようにして、楊枝やティッシュで丁寧に細かく描き込んでいった。

何日も時間を掛け、絵は完成する。

カッティングシートの透明タイプのもので絵を包み込み、渇いた布で何度も優しく擦っていく。

こうする事で水に濡れても大丈夫な絵になった。

星が無数にある夜空の公園。

そこに一人の人影がタバコを吸っている。

自分で見ても、いい感じの絵だと思う。

 

 

 

闇 29(パソコンとピアノ編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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