岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

小説、各記事にしても、生涯懸けても読み切れないくらいの量があるように作っていきます

闇 30(月の光編)

2024年09月29日 22時35分20秒 | 闇シリーズ

2024/09/29 sun

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新宿セレナーデ 1 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

新宿セレナーデ 1 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

新宿クレッシェンド第5弾新宿セレナーデ2009年2月17日~2009年2月21日原稿用紙605枚最も古い用法でありながらこんにち口語に残っている「セレナーデ」は...

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この日から俺はドビュッシー作曲の月の光のレッスンを受けだした。

楽譜は相変わらず読めない。

ザナルカンドの時と同様、暗記しかない。

「男の子はみんな、ドビュッシーが好きね」

先生は笑いながら、そう言った。

「何でです?」

「だって私の教え子の半分以上が、ドビュッシーを弾きたいって言うんだもん」

「そうなんですか」

「ええ、あなたもその一人でしょ?」

「そうですね」

俺はドビュッシーの曲が大好きだった。

この月の光という曲。

俺は絶対に弾けるようにしてやる。

「先生、お願いがあるんですけど……」

「なあに?」

「この寂びの部分あるじゃないですか? 低音で、ジャーンってとこからです」

「あー、はいはい」

「そこから最初、教えてもらってもいいですか?」

「いいですよ」

先生はいつもこうだった。

俺の好きなように、弾きやすいように、嫌な顔一つもせずに教えてくれる。

静かに一番端の黒い鍵盤の『ミ』と次の『ミ』の上に指を添える。

軽く押してみた。

低く鳴り響く低音。

先生の出した音と同じ感じだ。

感情を込めて弾いてみる。

心に重く押しかかるような感じで低音が鳴り響く。

ピアノはいつだってそうだ。

弾く本人の感情を表現してくれる。

俺は必死に寂びの部分から習い始めた。

少しずつ弾けるようになるたび、新たな感動が俺を包み込む。

嬉しい。

ピアノをやって本当に良かった。

俺は部屋に帰っても弾き続けた。

行きつけJAZZBARスイートキャデラックへ行き、客が他にいなかったので店の音を消してもらう。

ピアノへ向かい俺を鍵盤の上に指を置く。

月の光の寂びの部分。

何度、弾いても飽きがこない。

これが全部弾けるようになったら、春美へ連絡してみよう。

俺はまだ、彼女にピアノを捧げていない。

ほんと女々しいよな、俺は……。

 

この日から俺の異常な毎日が始まった。

仕事に行く時も常にキーボードを片手に持ち、堂々と歩く。

裏ビデオを売りながら、店にピアノを持ち込んで弾いた人間なんて俺ぐらいのものだろう。

メロンから聞こえるザナルカンドの音色。

上からビックリしてヤクザ者まで顔を出したぐらいだった。

「岩上さん、何をしてんでっか?」

「いや、この度またピアノを始めましてね」

俺のパソコンのスキルの話を聞き、上のヤクザ者が色々相談に来るようになっていた。

何度か上の事務所でパソコンの設定をした事もある。

それから俺はビルの住人に一目置かれるようになっていた。

これも坊主さんのおかげである。

そんな俺が今度はメロンでピアノを弾き始める。

みんなは目を丸くして驚いていた。

そんな姿を見ると、痛快で溜まらない。

北中は小馬鹿にしたような表情で、俺の姿を見て笑っているだけだった。

別にこんな人間に理解してもらおうだなんて、微塵も思っていないから平気だ。

街で通り過ぎる人々が、不思議そうに俺を見てくる。

裸のまま、キーボードを持って歩く俺に対し、何者なんだという視線だった。

周りの視線など俺にはどうでもいい。

暇さえあれば、くっきぃずへ行き、先生にピアノを習った。

自分でもどんどん上達していくのが分かる。

春美の一件で気分は落ち込んでいたが、ピアノを弾いている時だけはすべてを忘れられた。

仕事とピアノだけの毎日といっても過言じゃなかった。

仕事帰りにキーボードを持ったまま、コンビニへ寄る。

レジにいる女店員が興味津々に話しかけてきた。

「あの…、ピアノを弾かれるんですか?」

「ええ……」

「何だか格好いいですね」

何が格好いいもんか。

俺は単なる裏ビデオ屋の従業員だ。

「良かったら、聴きたいですか?」

「え?」

「ええ、このコンセント繋いでくれれば、ここで弾きますよ」

俺が冗談でも言っていると思ったのであろう。

女店員は笑いながらコンセントを繋いだ。

キーボードをレジのカウンターの上に乗せ、俺は店内を気にせず弾き始めた。

本当に弾くと思わなかったのだろう。

女店員は目を丸くして驚いていた。

弾き始めた曲はザナルカンド。

俺は一切の雑音を気にせず、感情を込めて弾いた。

ある意味、こんな場所で演奏をした人間など、今まで誰もいないだろう。

多分俺が世界で初めてだ。

コンビニのレジでの演奏。

俺は恥ずかしさなどまったくなかった。

曲を弾き終えると、女店員は拍手をしてくれた。

それ以外にも店内にいた客まで、拍手をしだした。

中には、何だ、こいつ…、というような軽蔑の眼差しで見ているのもいたが、直接文句を言ってくる者はいなかった。

 

いつも俺の中に同居するせつない気持ち。

春美へ対する届かぬ想いからだった。

寂しい。

ピアノを弾いている時間だけが、その寂しさを忘れさせてくれる。

休みの日、部屋でキーボードを弾いていたが、頭の中は春美の事でいっぱいになっていた。

ここまで連絡もなく毛嫌いされるって事は、やっぱり駄目なのかな……。

一度ネガティブな思考になると、とことん悪い方向に考え出してしまう。

気分を紛らわせる為、キャバクラへ行った。

キーボードを持ちながら堂々と歩く俺にたくさんの視線が集まる。

俺は平然としながら席へ座った。

フリーのキャバ嬢がつくと、何故キーボードを持っているのか、不思議そうに聞いてくる。

ピアノを弾く為にだと、俺はシンプルに答えた。

「へえ、そこまで堂々としていると、なんか格好いいですね」

感心したようにキャバ嬢は微笑む。

最近女と接触がない。

寂しかった。

「ぜひ一度、聴いてみたいです」

「だったら、今、聴かせようか?」

「え?」

「俺さ、一人の女に格好をつける為にピアノを始めたんだ。三十を越えてからね」

「三十歳なんですか? もっと若く見えますよ」

「どう見えようと俺が三十一年間は生きている事には違いない。別に今の生き方が嫌いじゃないし、いい感じで年をとれたなって思うよ」

俺もよく平気で嘘を言えるものだ。

「何だかそういうの、いいですね」

「ありがとう。でも、レッスンに行ってちゃんと弾けるようになったんだけど、俺の身勝手なわがままでふられてしまってね…。結局、曲は完成したけど、その子には聴かせぬままだった」

「私も最近、彼氏と失恋したばっかりだから、少し気持ちが分かります」

最近、女を抱いていない。

春美からあれ以来、連絡はなかった。

もういいんじゃないか。

自分の女という訳でもないのに、いつまで義理立てしていればいいのだ。

目の前にいる女。口説いてやるか……。

「そっか…。俺のピアノって多分、傷ついた人は癒せると思うんだ。君に俺のピアノを捧げようかな?」

「本当ですか? でもいつもそうやって女の子を口説いているんじゃないんですか?」

「俺の弾くピアノはそんな軽くないよ」

真顔で言うと、キャバ嬢は真っ赤になった。

「君の心を癒したいんだ。迷惑かな?」

「いえ、聴いてみたい……」

酒が入っているせいかヤケクソになっている。

どうせ春美は俺のピアノを聞いてくれやしない……。

「悪いけどさ、このコンセントを差し込んでくれる?」

近くを歩く従業員を呼び止める。

「え、あの~……」

「店の迷惑になるようなら、すぐにやめるよ」

「は、はぁ……」

俺はキーボードをテーブルの上に乗せ、鍵盤を叩きだした。

横にいるキャバ嬢の為に弾く。

嘘だった。

俺のピアノはそんなに軽くない。

春美へ聴かせたいだけだ。

でも、そんな機会すら訪れない。

やるせなさをキーボードに込める。

せつなさを音で表現した。

キーボードの便利な点。

それはピアノの音源だけじゃなく、様々な音を出せるというところだ。

DUALと書かれた場所の音色。

俺は九十二番のボタンを押した。

悲しげな曲を弾く時は一番ピッタリとくる音色だった。

ただでさえ悲しいメロディのザナルカンド。

電子音で調整すると、さらに悲しく聴こえてくる。

キャバ嬢は真剣に俺を見て、頷きながら聴いていた。

演奏が終わると、店内にいる客の白い目が目立つ。

俺は気にせず堂々とした。

「素敵…、本当にうまいですね。感動しちゃいました」

「俺はこれしか弾けないからな…。でも、君に捧げられて良かったよ」

「でも、私なんかでいいんですか? 本当は大好きだった子に……」

「きっかけはそうでも、今は君の為に心を込めて弾いた」

いくらキザで臭いと言われても、目の前でそれをやられたら女は弱い。

今までの俺の哲学だった。

「バラの花なんか持ってこられたら、笑っちゃう」そんな事を言う女に限って、俺が実際にそれをすると、コロリと落ちた。

下をうつむくキャバ嬢に俺はそっと手を重ねる。

女は嫌がるそぶりも見せず、さらに頬を赤らめた。

「今日、何時に上がるの?」

「じゅ、十二時……」

「そのあと、俺と会えないかい?」

「……」

「嫌ならいいんだ。もう君の迷惑になるだろうから、ここにも二度と来ないようにする」

「迷惑じゃない…。でも、今日会ったばかりで……」

「確かに会ったばかりかもしれない。でも、運命的に感じるよ。俺、初めて人の為にピアノを弾いたんだ」

「嘘……」

確かにに弾いたのは嘘ではない。

しかしこの子の為ではない。

「嘘はつかない。そこまで俺のピアノを弾く精神は腐っていない。俺を信じなくても構わない。でも、俺の奏でた音は信じてほしい」

次の日、俺は強引に仕事を休んだ。

店で口説いた女とホテルへ行ったからである。

北中は電話口でブツブツ文句を言っていたが、どうでもよかった。

久しぶりに他の女を抱く。

春美との一件で傷ついた心。

俺は他の女を抱く事で、その傷を埋めようとした。

 

違う女を抱くのは気持ちがいい。

その分だけ俺の魂は腐って汚れていくような気がした。

本当は春美一人でいい。

でもその願いは通じない。

だから、たくさん女を口説いて抱いた。

心も通わさせず、体だけを重ね合わせた。

どの女を抱いたかなど、記憶に何も残っていない。

適当に飲み歩いては口説き、抱くだけだった。

ピアノのレッスンに関してだけは真面目に取り組んだ。

以前のように突発的な習い方ではなく週に一度、ちゃんと時間を作って行くようにした。

俺は月の光を着々と仕上げていく。

それ以外の時間は部屋でひたすらキーボードを弾いた。

夜になると、抱く女を求め、夜の街を彷徨い続けた。

俺の心はどんどん腐っていく……。

ある日のレッスン中、俺は先生に言った。

「先生、ピアノって素晴らしいですね」

「でしょ?」

「ええ、この前、目の前でピアノを演奏したら女を五人抱けました」

俺の台詞に先生の顔つきが変わる。

「私はそんな事の為に…、あなたにピアノを教えたんじゃありません」

それだけ言うと、先生は俺に背を向けた。

図に乗った俺の台詞が、先生を傷つけてしまったのだ。

先生の背中は小刻みに震えている。

それで初めて俺は悪い事をしたと感じた。

春美に捧げる為に始めたピアノ。

本当は俺にとってもっと崇高なものじゃなかったのだろうか?

先生への恩義はいつも感じていた。

わがままな俺をいつでもニッコリ笑って受け入れてくれた。

しかし今、その先生が泣いている。

ひょっとして俺にピアノを教えた事を後悔しているのかもしれない。

俺は謝って、くっきぃずをあとにした。

部屋でひたすら考えた。

俺にとってピアノってなんだろう……。

最近抱いた女たちからの着信が鳴る。

俺は電源を切り放り投げた。

先生の言葉がずっと頭に残っている。

音楽とは感動。

それは弾いた俺が一番理解している。

どれだけ俺を癒してくれたのか。

ピアノを始めて良かった。

でも、この心の奥のどこかで何かが詰っている。

あれだけ週一で真面目に行ったくっきぃずも行かなくなった。

先生に習った部分だけを反復しながら部屋で弾いた。

ザナルカンドを弾くと、春美の寂しげな横顔が浮かぶ。

月の光を弾くと、先生の悲しそうな表情が思い浮かぶ。

俺って最低だ……。

 

複雑な心境のまま毎日を食い縛って生きる。

そんな俺に対し、北中の対応は酷いものだった。

ビデオを買った客にサービスする缶コーヒー。

いつも業者から買っていたが、ほとんど定価と変わらない値段だったので、俺は北中へ百円ショップなら二本百円で売っていると伝えた。

すると北中は「どこにある? これからはそこで買ってこい」と即決した。

金に目がない男である。

少しでも自分の取り分が増えると思ったのだろう。

俺は西武新宿駅前の通り沿いにある百円ショップへ行き、缶コーヒーをケースごと買いに行かされるハメになった。

今まで掛かっていたドリンク代が半分になったと分かった北中は味を占め、それからというものドリンクを買いに行く事まで俺の仕事となってしまう。

余計な事を言ってしまったなと後悔したが、もう遅い。

人に頼むからどうでもいいと言った形で、北中はいつも無茶な要求をしてきた。

俺一人で十五ケース運んで来いと抜かす始末である。

北中の自転車を借りて百円ショップまで行く訳だが、どうやって自転車に十五ケースも積めるのだろうか。

俺は店の店員に頼み、台車を借りる事にした。

メロンに到着しても、まだ地下まで運ばなければならない。

面倒な作業だった。

ある日北中の自転車がパンクしていた事があった。

自分に見に覚えのない北中は俺のせいだと喚き、「早く自転車を直して来い」と命令する。

「どこでパンク修理なんてしてるんですか?」

「職安通り沿いのドンキホーテでしてるだよ。早く行って来い」

パンク代も渡さず、俺は自腹で自転車の修理をしてきた。

あとで請求する為に領収書をもらっておく。

メロンへ帰り、北中へ「六百円でしたよ」と領収書を見せる。

北中は領収書だけ奪い、「おまえがパンクさせたんだから、おまえの自腹だ」と訳の分からない事を言い、店を出て行ってしまう。

メチャクチャで酷い男だった。

客がいない状態で俺と北中二人きりの時は最悪だった。

奴の自慢話を延々と聞かされるハメになるのである。

「俺はなあ~、色々なヤクザに顔が利くだよ。真庭組だろ? 橘川一家だろ? 西台もそうだし富士見興業もそうだ。まあ上の沖田会と笹倉連合もそうだな。唯一顔が利かないのが、城北ぐらいだな」

ヤクザ者にまったく興味のない俺にはどうでもいい話だった。

それにヤクザに顔が利くからって一体何になるというのだろうか?

そんな自慢話をする北中は、滑稽にしか見えない。

「俺はな、昔暴走族に入っていてな。東京を制覇したホワイトブラックって族だ。だから喧嘩だって半端じゃねえぞ」

五十代になって何を言っているのだろうか?

ひょっとして俺をビビらせるつもりで言っているのか分からないが、それだけ強いなら格闘技の世界でも行ってみればいいのだ。

それにプロレス、格闘技の経験がある俺に対し、俺は喧嘩が強いぞなんて、馬鹿にされているようにしかとれなかった。

いつも札束を三つほど持ち歩き、事あるごとに見せびらかす北中。

そんな彼を歌舞伎町の住人たちは陰でこっそりと言う。

「金を持っているのは分かるけど、ああまでして金なんてほしくないよな~」

北中の評判は歌舞伎町でも話題に登るほど悪かった。

俺がパソコンを開きデータを入力していると、客が来た。

「お兄さん、あのさ、深川アリスの裏ってあるかな?」

「ちょっと待って下さい。今調べますから」

俺がエクセルデータで検索をすると、三点見つかる。

客はパソコンを使いながら仕事をする俺を見て驚いていた。

「すごいね、君。ビデオ屋でパソコンを使っている人間って初めて見たよ」

気に入られたのか、その客は椅子に座り込んでずっと話し掛けてきた。

その時北中が店に降りてくる。

客がいるというのにバックから三百万円を取り出し、俺のパソコンの上に放り投げてきた。

「何をするんですか?」

「数えろ」

北中は客がいると、自分は金を持ってんだぞと言いたいが為にワザとこのような行為をしてくる男だった。

「社長さん、儲かってるんだね~」

客がそう言うと、北中は笑顔になりながら「そうでもないだよ」と嬉しそうに答える。

こんな日常にウンザリしながらも、俺はメロンで毎日のように働いていた。

 

仕事を終え、店の近くの焼鳥屋で酒を飲む。

あれからくっきぃずには気まずくて顔を出していない。

だから当然月の光は完成していないままである。

酒を飲む事で自分を誤魔化していた。

気分が良くなるまで飲み続け、おみやげに焼鳥を十本頼んだ。

北中の性格。

あれは生涯直らないだろう。

嫌なら俺があの店を辞めればいいだけ。

それよりももっと仲良くするように接したらどうだろうか?

そう思って俺はメロンへ焼鳥を持っていった。

「ん、何だおまえ? 今まで帰らず飲んでいたのか?」

「ええ、たまにはと…。おみやげで焼鳥持ってきましたが、よかったら食べますか?」

「俺は二本ぐらいでいい。あとは上の連中に持っていってやれ」

ありがとうのひと言ぐらい言えばいいのに……。

期待した俺が馬鹿だっただけか。

諦めてフィールドへ焼鳥を持って行く事にした。

インターホンを押すと、タイ人のレクがドアを開ける。

店内は珍しく多数の客がゲームをして忙しそうだった。

「何?」

「いや、良かったら焼鳥食べるかなと思いまして」

レクは黙って受け取ると、礼も言わずにドアを閉めた。

この野郎……。

まったく礼儀のないタイ人である。

こんな連中に何かをしてあげようだなんて思う俺がどうかしているのだ。

再び飲みに行く。

今日はこのまま歌舞伎町に泊まる事にしよう。

明日はフィールドへヘルプに行く日だ。

家に帰るのが面倒だった。

フラフラ道を歩いていると、同じビルの三階にある〇〇連合の組員とバッタリ会う。

「お、岩上ちゃんじゃないの。何してんの?」

「あ、三井さん。いや、これから飲みに行こうかなと思いまして」

「じゃあ、その辺で一緒に飲もうぜ」

「いいですよ」

あのビルの人間で一緒に酒を飲むのは、このヤクザ者の三井が初めてだった。

三井は気さくなオヤジで、年齢をハッキリ聞いた事はないがおそらく四十後半ぐらいだろう。

毎日フィールドに千円だけを持ってくるポン引き連中が数名いたが、その金を徴収する係でもあった。

何故ポン引きたちがフィールドへ千円を渡しに来るのか不思議だった俺は、三井に聞いてみる事にする。

「ああ、あれはさ。うちで金を貸しているからだよ」

「ポン引きにですか?」

「そうそう。最初に五万円という契約で金を貸すわけね」

「ええ」

「ポン引きに手渡す時は利子の五千円を引いて、四万五千円を渡すの」

「利子が十パーセントって事ですか?」

「最初だけね。あとは毎日フィールドへ千円ずつ持ってこさせるの」

「それを何日やればいいんですか?」

「ん、そんなの五万全部を一気に返すまでに決まってるじゃん」

「え?」

「毎日千円っていうのはただの利子分だけだよ。ヤクザ者から金を借りているんだぜ。そのぐらい当たり前だろう」

「……」

つまりポン引きたちは五万円を一括で返さない限り、永遠に千円を毎日持ってこなければならないのだ。

さすがはヤクザ者のやり口だなと感心する。

「連中はさ、毎日客からちょっとずつボッタクっているからさ。毎日日銭はあるんだ。だから簡単にゲーム屋とか飲みにに行って使っちゃうわけね。だから五万円って金額を持っているポン引きはそういないもんなんだ」

絶対にこの筋から金を借りるのはやめよう。

そう心に固く誓った。

 

この日はサウナへ泊まり、朝になるとフィールドへ向かう。

今日は山本とのタッグでゲーム屋をやらなくてはならない。

俺が出勤すると、遅番の小泉と秋葉が笑顔で迎える。

「おはようございます」

「昨日は忙しかったようですね」

「珍しくですけどね。でもそうなると北中さん、INOUT差を丹念にチェックして、また抜けそうな台から抜けるだけ取りますから困ったものです」

この店の店長である小泉も、北中の事をよく思っていないようだ。

山本が出勤すると、〆をして遅番は上がる。

俺はゴミ箱を見て愕然とした。

昨日の夜おみやげで渡した焼鳥が、まったく手付かずのままゴミ箱へ捨てられていたのだ。

レクの奴……。

あの腐った性格のタイ人はいつかぶっ飛ばしてやりたかった。

朝は変わらず暇な店だった。

負けの込んだシンシンが、ふて腐れてゲームをしているぐらいだ。

「山本、マッサージして」

「えー、勘弁して下さいよ~」

ワガママな中国人のシンシン。

北中の女というだけで、回りも一目置いている。

俺はいい事を思いつく。

「山本さん、俺がマッサージ行ってきますよ」

「すみません、岩上さん」

「いえいえ」

総合格闘技へ復帰した二十九歳の頃、俺は家の近所のTBB総合整体の先生に体のメンテナンスをしてもらっていた。

その時その先生からの好意で治す技も教わる。

一度だけ先生は意地悪そうな顔をして、「岩上さん、実は眠くなるツボっていうのがあるんですよ」とその場所を教えてもらった事があったのだ。

あれからまだ一度も試した事がない。

本当に眠くなるのか半信半疑だった。

シンシンみたいな女なら、試してみてもいいだろう。

「岩上さん、マッサージうまいね」

「随分と肩が凝ってますね」

最初は普通にマッサージをしてやる。

シンシンは気持ち良さそうな顔をしていた。

十分ぐらいしてから、眠くなるツボを試す事にした。

「シンシンさん、ずっとゲームしているから目も疲れてますね。ちょっと痛いけど我慢して下さいよ?」

俺は右耳の後ろにある凹んだ部分を親指で押した。

時間にして三十秒ほど押し続ける。

「どうですか? 楽になりましたか?」

「スッキリしたあるよ」

俺はリストへ行き、山本へ「シンシン、もうじき寝ちゃいますよ」と言った。

意味が分からない山本は不思議そうな顔をしている。

ノートパソコンを開き、ゲームをして時間を潰す。

あと五分もしないでシンシンは眠くなるはずだが……。

「岩上さん、岩上さん。見て下さい。シンシンの顔」

山本が小声で話し掛けてくる。

見るとシンシンは今にも眠りそうな顔でうつらうつらしていた。

かろうじてゲームをしようと目を懸命に見開くが、眠くて体がいう事を利かない。

そんな感じに見える。

「見て下さい。シンシン、すごい顔をしてますよ」

俺は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

 

テーブルの上で涎を垂らしながら眠るシンシン。

客がいないのと同じである。

「すごいですね、岩上さん。眠くなるツボなんてあるんですね」と山本は感心していた。

俺は以前シンシンに頼まれた保証人の話をしてみる。

北中の名前が書いていない状態なのに、平気でサインしろと抜かす礼義知らずの女。

「それにしてもあんな北中さんの奥さんになろうなんて、やっぱ金目当てなんでしょうね」

「北中さん自体、結婚に関してはあまり乗り気じゃなかったみたいですから」

あの時の事を思い出すと腹が立ってくる。

「やっぱ世の中、金なんですかね」

「いや、そんな事ないと思いますよ」

「でも、北中さんを始め、歌舞伎町の人って、ほとんど奥さん外人ばかりなんですよ。ここのオーナーの金子さんの奥さんも中国人ですからね」

奥さんか……。

春美が俺の奥さんになってくれるなら、すぐにだって結婚してもいいのにな。

久しぶりに春美の事を思い浮かべた。

もう俺の事なんてすっかり忘れてしまっているんじゃないだろうか。

月の光もあれ以来進んでいない。

俺はいつだって中途半端な人間だった。

パソコンはある程度使いこなせるようになった。

だけど上には上がいる。

坊主さんなんて、俺のスキルを一としたら、千ぐらいの違いがある。

あんな腐った性格の北中に扱き使われ、俺はこれからもずっとこんな調子なんだろうか。

「岩上さん、どうかしましたか?」

「え、いえ、何でもないですよ。北中のやってきた事をそのまま書いたら、面白い小説になるんじゃないかなと思いましてね」

「なかなかあんな酷い人間いませんからね」

「今度、北中のこれまでの所業を書いてみましょうか?」

俺は冗談で言ってみた。

「岩上さんならできますよ」

「え?」

「岩上さんって努力家じゃないですか。そう思ったら小説も書けるんだろうなって」

「俺が小説? 今までそんなのやった事もないですよ。冗談で言ってみただけです」

今まで真剣に打ち込んできたもの。

プロレスラーを目指し、日々トレーニングに打ち込んできた。

絵は学生時代、センスだけで描いていた。

春美と出逢う事で少しでも喜ばしたい。

そんな気持ちから久しぶりに描いた。

彼女はとても喜んでくれたっけな。

浅草ビューホテルでバーテンダーとしての技術、心構え。

いつだって酒に対しては真面目に取り組んで勉強してきた。

ピアノ……。

春美と出逢い、俺は彼女に聴かせたいという想いからピアノを始めた。

未だ彼女にはザナルカンドを捧げていない。

パソコンは、坊主さんから徹夜で週末になると教わっている。

あまりにも色々な事ができるパソコン。

俺は何をしたいのかある程度目標を絞り、坊主さんから色々教わっていく。

詳しくなる度、この人は本当にすごいという事が分かる。

少しでも追いつきたかったが、無理だと感じた。

これほどレベルの違いを感じるのも珍しい。

「俺は中学生の頃から毎日のようにいじってんだぜ? 差があって当たり前じゃん」

そう言って坊主さんは笑っていた。

ん、待てよ?

パソコンのスキルなら坊主さんに追いつけなくても、ワードを使って小説を書いてみたらどうだろうか?

さすがの坊主さんも小説を書くなんて思ってもみないだろう。

正攻法で駄目なら、違う角度で追いつければいい。

これは全日本プロレス時代に知り合った偉大なる師匠、ジャンボ鶴田師匠を見てそう思った事である。

今は亡き、鶴田師匠。

初めて接した時あまりのスケールの大きさに対し、いかに自分がちっぽけな存在かを思い知らされたものだ。

追いつきたかった。

しかしまともに同じ事をしていたのでは永遠に追いつけない。

完全なる善玉だった師匠。

だから俺は真逆であるヒール、悪党の道を意識して歩んできた。

プロレスが駄目になってからも、ヒールでいようと決めた。

どんな形でもいい。

俺は鶴田師匠に少しでも追いつきたかったのだ。

あの人が生きていたなら俺は、未だ頑張ってリングの上で戦う事を選んでいたかもしれないな……。

全日本プロレス時代にいた誇りを最近忘れていたようだ。

決して自分を見失うな。

俺はあくまでも俺でしかない。

だから自分なりの亜流で頑張ってみればいい……。

「山本さん、俺、小説をやってみますよ」

俺は新たなジャンル、小説に挑戦してみようと決めた。

 

家に帰ってから作品の内容を考えてみる。

北中の所業をいきなり書くのは簡単である。

しかしもし仮にそれが世に出たとして、読者はこれを信じるだろうか?

絶対に漫画のように空想の話だととられるだろう。

それじゃ小説を書く意味合いがいまいちだ。

では、どうする?

俺が人と違う経験をしてきた事を活かし、話を作るしかない。

まずは歌舞伎町を知ってもらわないと話にならないだろう。

この街に一番始めに来て働いたゲーム屋ベガ。

あそこのオーナー鳴戸は本当に酷かった。

北中とはまた違う種類の酷さである。

俺を気に入ってくれたまでは良かった。

しかし、ヤクザ者の親分のところへ連れて行かれ、危うく組員にされ掛けたのだ。

これを元に書いてみるかな……。

いや、まだあの時の事をそのまま書くには刺激が強過ぎる。

主人公はもっと大人しい性格にさせて、あの鳴戸の怖さを引き立てるように書く。

そして幼少期、母親に虐待された俺の過去。

あの時の思いを主人公へ託そうじゃないか。

まだ小説を書き始めてもいないのに、俺はどんどん先の話を膨らませていた。

よし、書こう。

小説を……。

山本と冗談で話していたものが、本当にする事になるとは。

だから生きるって面白いんだ。

完成したら真っ先に春美へ報告しよう。

そしてもし彼女が逢ってくれるなら、俺はザナルカンドを捧げたい。

主人公の名前はどうするか。

まだキーボードをブラインドタッチできない俺。

メロンで商品の入力をする時だって、人差し指でアルファベットを探しながら打つ始末である。

それなら打ちやすい苗字がいいだろう。

まずは同じ母音を使う苗字がいい。

右の人差し指でほとんど入力する訳だから、左手は一つの母音を常に押せる位置がいい。

すると『AIUEO』の中で一番邪魔にならないのが『A』である。

「あ、あから始まる苗字……。相田、赤間、浅生、浅野…。どうもしっくり来ないな。荒幡、新井、違う…。あ…、赤崎…、ん?」

赤崎だと母音の『A』を三回も使えるぞ。

こりゃあいい。

『A』が三回に『K』が二回も使えるから非常に打ちやすいはずだ。

決まり。

主人公の名前は『赤崎』にしよう。

名前はどうするか?

俺がつけてほしかった名前でいいや。

こうして主人公の名前は『赤崎隼人』となった。

年齢の設定はどうしよう?

やっぱ俺が歌舞伎町に来たのと同じ年の二十五歳がいいかな。

出だしはどうしよう?

小説を書く作業って、思ったよりも数倍楽しいかもしれない……。

 

 

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