岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

03 鬼畜道(始めの一歩編)

2023年03月01日 13時21分09秒 | 鬼畜道 各章&進化するストーカー女

 さて、これからどうなるやら……。

 部屋で一人、ボーっと考え事を夜までしていると、ノックをする音が聞こえる。

「はい」

「あ、龍ちゃん。お風呂、いいお湯だから入っちゃいなさいよ」

 甲高い三村の声。今まで散々湯船の風呂栓まで隠しておいて、いきなりこれか。まったく面白い反応をしてくれるものだ。しかも、自分たちが入ったあとの残り湯で俺の機嫌を取っているつもりなのである。

 部屋から出ると、三村は廊下で待ち構えていたかのように話し掛けてきた。

「龍ちゃん、今日は本当にありがとうね。あなたがこうして継いでくれるなら、『神威クリーニング』も安泰だわ」

「三村さん…、いつ俺が継ぐとか言いましたか? それに運営資金もすべて把握しましたよ。何でこの三年間、売上自体落ちていないのに、あと四百万しかないんですか?」

「経理の事は幸ちゃんに聞いてよ。私じゃ分からないし……」

 都合が悪くなると、いつも中曽根のせい。本当にこいつは骨の髄まで腐ってやがる。

「俺が継ぐ以前に、親父が今の考え方を改めない限り、何も変わりませんよ?」

「だから龍ちゃんが継いで、親子二人三脚で頑張って家を盛り立てて……」

「三村さんっ! いい加減にして下さいよ、あなた、おじいちゃんに何て言いました? 私は頼まれてこの家に入ってきた。ずっとそれを言い続けていましたよね? それを今じゃ、おじいちゃんや家族に認められないから家を出て行く。この際ハッキリ言いますよ? 危篤だったら、何ですぐにでも母親の元へ駆けつけていないんですか? あなたの言っている事は、おかしな事だらけなんですよ。それにおじいちゃんが、三村さんにうちに入ってくれなんて、言う訳ないじゃないですか。あなたの事を嫌っているんですから。おじいちゃんだけじゃないですよ。俺も、龍也も、龍彦も…、ユーちゃんだって、親戚関係だって、誰一人賛同なんてしていませんよ? あなたがこの家に入ってきた事に…。朝、おじいちゃんは掃除をするのが日課になっていますが、あなたが朝早く起きて、一度でも掃除を代わりにした事ってありますか? 三村さんがした事って、親父を社長にってゴリ押しして、周りの従業員が辞めていき、龍彦まで辞めていき、俺が南大塚の土地をまとめて作った四千万円の金をこの三年間で、十分の一にしただけじゃないですか。それで今年になってすぐ、お母さんの具合が悪いから家に帰る? こっちの仕事は辞める。しかもおじいちゃんのせいにして。それをかばった伊橋さんはクビ。それで俺に継げ?」

「だ、だからとりあえずお風呂冷めちゃうから、先に入ったほうが……」

「ふざけんなっ!」

 俺は渾身の力で廊下の壁を叩く。三村はビクッとして、親父の部屋へ逃げるように消えた。都合が悪くなると逃げるクズ。

 大きく息を吐く。もっと冷静になれよ……。

 過去どうしたという事よりも、今『神威クリーニング』がピンチなんだぞ? 必死にそう自分へ言い聞かせる。

 三村と親父には、個人的に借金をしてもらう。それが今一番大事だろ? あいつらには、そのぐらい腹を括らせないといけないのだ。

 肝心な事を言う前に、また逃げられた。

 三村が家に入ってからだけでも、言いたい事はたくさんあり過ぎる。過去を遡れば、俺が小学校三、四年生まで振り返るようなほど、因縁があるのだ。

 親父が遊ぶのは構わなかった。でも、あの女だけは昔から嫌だった……。

「龍一、おまえ、もうあの家から出て、別のところで暮らしなよ。おまえにとって、あの家は環境が悪過ぎる。何もいい事がない」

 先輩の最上さんがずっと俺に対し、言い続けていた言葉。

 本当にそうだ。おじいちゃんに何かあったら…。ずっとそう思い、歌舞伎町時代でも家から新宿まで通っていた。あの頃は腐るほど金があったのだ。マンションだっていくらでも買えた。この忌々しい川越など、離れようと思えば離れる事ができたのだ。

 裏稼業を辞め、家にいる時間を多くして、今の俺に何が残っている? 何一つ残っちゃいない……。

 お家騒動に振り回され、俺が動いて結果を出すと、いつも親父と三村がその汁をうまく吸っているだけ。

 おばさんのユーちゃんには「おまえが余計な事をするからだ」と責められ、じゃあ家族に俺の存在を必要とされているかと思えば、まるで必要とされていない現実。

 それを今になって家を継げ? ふざけやがって……。

 右の拳の甲にズキンとした痛みを感じる。先ほど感情に任せて叩きつけた裏拳。廊下の木の壁は割れ、その破片が甲に刺さっていた。左手で破片を取ると、うっすら血が滲んでいる。

 何度こうしてこの家を殴ってきた事だろう。おじいちゃんが必死に頑張って大きくした家なのに……。

 馬鹿はこの俺だ。一体仕事もせず、何の役に立っている?

 家を継ぐか、継がないか。

 人生の正念場だ。

 もっと深く考えよう……。

 

 

 二千十年一月九日。

 考え事をしている内に、十二時を回っていた。布団に入り、目を閉じる。この先サラリーマンをしたとして、明るい未来など俺にはない。いい意味でも悪い意味でも、俺は地元で生きているのだ。

 もっと俺が早く家を継いでいたら、三村など入ってくる余地すら与えなかっただろうな。いくら考えたって遅い。もう過ぎ去った事なのだ。

 目覚めると朝の十時になっていた。

 一人で考えていても仕方がない。俺は中学時代の同級生である飯田誠へ電話をしてみた。

「どうしました、神ヤン」

「いや、良かったらランチでもどうかなと思ってさ」

 大手企業で経理部の課長を務めている飯田。その几帳面な性格は、俺と真逆である。友人の中で最も真面目で信頼の置ける彼の意見を聞いてみたかったのだ。

「全然構わないですよ」

 仕事柄常に敬語を使う癖のついた飯田は、俺や同級生のゴッホと話をする時も敬語が混じった話し方をするのが特徴的である。

 車で彼の家まで迎えに行き、ゆっくり話せるステーキ宮へ向かう。昨日もそこへ中曽根と行ったばかりだが、肉食の俺はまったく気にならない。

 今年に入ってからの家の内情を簡潔に話し、俺が家を継ぐ事に対し、どう思うか率直に意見を聞いてみる事にした。

「会社がこの世の中の不景気にも関わらず、三年間売上が落ちていないという点では非常に魅力的な会社ですよね」

「うん、それは確かに」

「それに仕事をする上で土地も持ち家だし、工場も設備も整っている事を考えると、一から事業を起こすというよりも、遥かにいい条件ですよね。従業員もそろっているし、顧客もついている状態なんて」

「そういえばそうだね」

 飯田の意見を聞いていると、潰れるのを覚悟でというつもりでいたのが全然マシな状況だという事に気付く。確かに一からクリーニングを起こすとすれば、一体どのぐらいの設備投資費が必要なのか? そんなものを考える必要などないのである。

「あとは長く商売をしているという点でも、信用や実績というものがあります」

「着眼点が全然俺とは違うなあ。相談してみて良かった。だとすると、やっぱ俺はこのタイミングだし、家を継ぐべきなのかな?」

「う~ん……」

 しばらく飯田は腕を組み、難しそうな顔をしながら考え出した。気遣いのできる彼の事だ。きっと言いづらい何かがあるのだろう。

「飯田君。何を言ってもらっても構わない。飯田君の意見はとても参考になるし、いい点だけでなく、悪い点もぜひ聞いておきたい」

「そうだよね…。気になる点と言うと、やはり神ヤンの言う通り、神ヤンのお父さんと、その奥さんの三村さん。今までのようなやり方をしていたんじゃ、去年と何も変わらないだろうし、神ヤンが入ったところでそう大差はないと思うんですね」

「でしょ? 親父がこれまでの事を悔い改めないと、何の意味もないと思うんだ」

「それと一番問題なのが、その三村さんって人ですよね。お父さんの実印まで家に置かず、どこかへ隠し持っているような人ですし、家から離れてと言っても、現実的に金銭管理はその三村さんがしているはずだと思います」

 自分である事ない事を言い触らし、常に正当化しようとする三村。誰が聞いても、あの女が裏で私腹を肥やしているのは一目瞭然である。

「金の問題を不透明でなく、表立って誰の前でもできるようにしなきゃ駄目って事だよね」

「ええ、もちろんそれはそうですね」

「それであいつら馬鹿夫婦に対し、個人で借金をして腹を括らせるって事にはどう?」

「神ヤンや家族の人たちにしてきたこれまでの行為を思えば、全然いいと思いますよ」

「そうだよね。じゃあ、飯田君的には継げと言う感じかな?」

「う~ん、そうですね。今言った問題点をクリアできたなら、そんな感じですよね。前にも言ったと思うんですが、例えば僕のいる会社に神ヤンが入社したとしたら、どこどこの部署へ配属というよりも、この仕事をすべて任せるから予算はいくら掛かって、どのぐらいでできるのか丸投げすると思うんですよね。完全な委託です。唯一問題点を挙げるとすれば、神ヤンの場合勢いであるのですごい突っ走ると思うんです。だからもし最悪、任せた仕事が駄目になる時は、完全に駄目になる前にひと言伝えてほしい。そのぐらいですね、心配な点は」

「そっか、状況に応じて継ぐかどうかを決めるしかないってところだね」

 あとは親父や三村に、どうやって話を切り出すかだな。

 話を聞いておいて良かった。性格的に飯田と中曽根は同タイプであり、俺とは正反対である。自分では気付かない部分を知るにはうってつけの相談相手だ。

 

「このあと、どうします?」

 ステーキ宮を出て宛てもなく車を運転していると、飯田が質問してくる。

「そうだなあ……。う~ん、特にこれといった予定ないんだよなあ。飯田君は?」

「僕も特にこれといった予定は」

 せっかく外にいるんだから、肉を食っただけじゃつまらない。どこかへ行くか。じゃあ、どこに?

 ここ数ヶ月、失業保険の給付金で暮らしているせいか、部屋に籠もっている事が多い。ただ時間が過ぎるのをボーっとしている日々である。幸い今日は天気もいい。壮大な自然に囲まれるような場所で、天を見上げ、両腕を大きく広げたかった。

「そうだ! 俺が以前行った事のある群馬の榛名神社や、茨城の鹿島神宮のような大きい神社へ行って、自然に身をゆだねたい。川越の近くでそんな神社あったっけ?」

「神社ですか…、う~ん……」

「考えてみると、そういうところってないんだよね」

「そうですね」

「別に榛名神社でも鹿島神宮でもいいんだけど、ここからじゃなあ……」

 神秘的な群馬の榛名神社。これ、本当に昔の人が造った増築物なの? そう思うぐらい感心してしまう建物。自然に囲まれた静かな道を歩いていると、ところどころにある毘沙門天や恵比寿たち七福神の像。中でも俺は『双龍門』と呼ばれる場所が好きだった。他の建物と比べると地味に見えるが、龍の彫刻や水墨画が描かれており、しばらく双龍門に見とれてしまったほどである。

 群馬の鹿島神宮は、俺が『神威整体』を開業時経営に困り、群馬に住む不思議な先生に助言をもらいに行った事から知った場所である。

「時間を作って鹿島神宮へ行って下さい」

「はあ、それってどこです?」

「茨城の潮来ですね」

「先生…、俺は整体の経営危なくて、ここへ相談に来たんですよっ! 神社にお参りするような時間なんてありませんって」

 当時精神的に余裕がなかった俺は自分から相談に行ったくせに、突拍子もない事を言い出した先生を責めた。

「あなたが自分で始めた事じゃないですか。まず鹿島神宮へいいから行って下さい」

「だからそんな余裕なんて……」

「いいですか? 神様が呼ぶなんて滅多にない事なんですよ? 呼んでいるのを私はそのままあなたに伝えただけですから」

「神様って…、じゃあ、一体何の神様が俺を呼んだんですか?」

「たてみかづちのおのかみ…。漢字ではこう書きます」

 群馬の先生は『建御雷之男神』と俺の目の前で書いた。

「何ですか、これは?」

 胡散臭そうに先生の書いた漢字を見ながら呟く。

「雷神様ですよ」

「雷神? そんなもん本当にいるって言うんですか?」

「私はあなたに建御雷之男神の言葉を伝えただけです」

「……」

 簡単に言えば金がないから困っているのに、茨城の神社へ行け? 冗談じゃない。俺は適当に返事をして帰った。二千七年六月十四日の話である。

 この年になってから、まだ二回しか休みを取っていないが、結局自分で何とかするしかない。そう思った俺は、休みも取らず日々整体を続けた。しかし患者が丸一日来ないもあり、どんどん俺の精神は病んでいった。本川越駅前の高い家賃が重く圧し掛かる。

 俺は知り合いを頼り、整体の開業を週に三日間。残りの四日間はアフィリエイトのシステム管理の仕事をするようになった。

 一ヶ月ほど時間が経ち、群馬の先生からメールが届く。

『鹿島神宮へ行きましたか? 群馬の先生』

 その文面を見て、苛立ちを覚える。こっちの苦労など知らずに…。現実に経営に困っているのは俺なのだ。

『そんな暇なんてありませんよ! 俺は休まず整体をしているのですから。それでも家賃さえ作れないから、週四日、別の会社で働きだしているんです。 神威龍一』

 先生に八つ当たりしたところで何も変わらないのにな……。

 メールを送り返してから、少し反省する。しかし、もう遅い。送ってしまったのだ。またすぐにメールが届く。

『神様がお呼びになるなんて滅多にない事なんですよ。いいから早く鹿島神宮へ向かって下さい。 群馬の先生』

「……」

 深い溜息をつく。先生に相談に行ったのは、この俺なのだ。もうヤケクソで行くだけ行ってみるか……。

 重い腰を上げ、ようやく向かった鹿島神宮。神がかり的な何かがこの身に起きると思っていたが、壮大な自然に包まれただけだった。それでも常日頃イライラしていた俺の心は癒されていた。二千七年七月十三日の事である。

 それから約一ヵ月半、特に変わらない日々を過ごす俺。一つ変わった事と言えば、初めて書いた処女作の『新宿クレッシェンド』が賞を受賞したという事ぐらいだった……。

 あの頃からもう二年半以上の時が過ぎている。

 未だ入ってこない印税。今の俺は無職で失業保険をもらうまで落ちた生活をしていた。

 こんな俺に作家として期待する人間なんて、誰もいないだろう。

 無気力のまま振って沸いたお家騒動……。

 何となく鹿島神宮へ行った頃を思い出し、あの壮大な自然にもう一度この身を包まれたかったのだ。

「できたら鹿島神宮へ行きたいけど、茨城じゃ遠いんだよね」

「確かに男二人でこれから行くにはちょっと遠いですね」

「そんなところへ俺と飯田君でいきなり行ったのをゴッホに知られたら、あの馬鹿、『とうとう神威もあっちの世界に目覚めやがったなあ、ゲヒヒ』ってくだらない事を言い出しそうだし」

 飯田はゴッホの顔を想像したのか、腹を抱えて笑っている。

「でも、この辺だとそこまで大きな神社って、なかなかないですよね」

「じゃあ、ちょっと待って…、うーんと……」

 川越から下った方面に行けば、栄えていない分広い場所はあるはずだ。何かなかったっけ? その時、探偵時代に何度か通った事のある変な場所を思い出した。

「あのさ…、場所だと東松山? 駅だと東武東上線の高坂って駅の近くだったと思うんだけど、『神秘珍々ニコニコ園』ってすげー怪しい変なところがあったんだ」

「し、神秘珍々? 何ですか、それは?」

 彼は驚いたような表情に変わり、眉間にしわを寄せている。

「いや、俺も分からない。前にさ、俺が十九歳の頃なんだけど、原一探偵事務所で探偵をしていた時代があったのね。ほとんど張り込みや尾行ばかりのくだらない仕事だったけど。それで高坂駅の近くを車で尾行して追い駆けていた時、変な大きい建物の前を通ったの。思わず何だこりゃって振り返るぐらい、奇妙なところでさ。汚い字で『神秘珍々ニコニコ園』って書いてあったんだ。仕事中だったから、気になったけど寄れず、それから二十年ぐらい経ったんだけど、今それをふと思い出したんだ」

「神ヤンって本当にすごい記憶力ですよね……」

「うん、だから小説を書けるのかもしれないね。ここしばらく書いていないけどさ」

「作品は神ヤンが書きたいって思った時に書けばいいと思いますよ。乗っちゃえばいくらだって書くのも知っているし、今は充電している期間なのかなぐらいに、僕は思ってますから」

「そうだといいんだけどね。しかし、去年の初めぐらいに『新宿フォルテッシモ』や『新宿セレナーデ』を完成させたぐらいで、最近は新しいの全然書けなくなっているしなあ」

「だから充電しているってだけですよ」

「ありがとう…。じゃあ、その『神秘珍々ニコニコ園』へ行ってみようか?」

「行ってみますか」

 俺たちは東松山市方面へ向かって、車を発進させた。

「ところでその神秘ニコニコ園って、どんな場所なんですか?」

 飯田は大のホラー嫌いである。過去俺が書いたホラー小説の『ブランコで首を吊った男』を読んだあと、夜中トイレに行けなくなったと言うぐらいだ。

「心配しないで。奇妙で変だけど、怖いところじゃないから。表からパッと見た感じ、変な人形が並んでいたり、変な絵が貼ってあったりと、妙な場所だったんだ」

「それってかなり怖くないですか?」

「いや、それが怖いとかじゃなくて、変なんだよね」

「はあ……」

 俺は高坂駅に到着すると、昔の記憶を頼りに周辺を徘徊してみる。

 運転していて違和感を覚える。おかしい……。

 何故、何度も国道二五四号線に出てしまうのだ? 確か駅からだと、四〇七号を通り過ぎて少し行った先にあの『神秘珍々ニコニコ園』はあったはずなんだけどな。

 助手席で飯田は携帯電話を使って場所を確認してくれる。

「おかしいですね~。神ヤンが何回も通った場所に、その何とかってものがあるはずなんですけど……」

「だよね? 俺の記憶違いかなと思ったけど、やっぱり位置はあの辺で正しい訳か」

「小さい建物だから見逃してしまったんですかね。ちょっと別のサイトを調べてみますね」

「いや、全然小さくないよ。だって運転中そこを通って、何だこりゃって振り向いてしばらく運転しながら眺めていたぐらいだから、結構大きな敷地だったはず」

「う~ん……、あっ! これの事ですよね?」

 飯田が携帯電話を覗き込みながら、大きな声を上げる。

「ん? 何か分かった?」

「『老若男女憩いの場 神秘珍々ニコニコ園』って黒の大きな字で書かれた看板が目印らしいです」

「そうそう、それの事だよ」

「えーと『東日本のアウトサイダー・アート・インスタレーション空間』。あとは『ダークな彫刻の森』と表現されていますね。超B級テーマパークと紹介されています。中には、奇怪な木像が六百体…。お釈迦様がキノコ頭になった仏像や、異形な妖怪、マッカーサーやヒトラーとかもあるようですね……。その像の隙間にはマジックで書いた短歌や、春画のコピーもあるようです」

「そうそう、中へ入った事ないけどさ、絶対にそこだよ! ここからだとどの辺になるんだろ?」

「でも、地図によると、この辺りなんですよね……」

「でしょ? おっかしいなあ……」

「あっ! 二千四年で、ニコニコ園は閉園してしまったみたいですね……」

「嘘? そんなあ~……」

「残念でしたね」

 あの奇妙な空間が六年前になくなってしまったのか。二千四年といえば、俺はまだ歌舞伎町にいて『新宿クレッシェンド』を書き始めた年でもある。

 しかし何で俺は壮大な自然に包まれた神社から、神秘珍々ニコニコ園になったんだ? 同じ『神』という字繋がりだからかな。

 どちらにせよ、あの異様な像が無数に並ぶ空間は、もう見られなくなってしまったのである。

 道路を左折し、再び国道二五四号線に出る。宛てもなくただ車を走らせていると、吉見の看板が見えた。

「飯田君は『吉見百穴』って知ってる?」

「聞いた事あるぐらいで、行った事ないんですよね」

「山に百個以上の穴が開いているんだよ。近くだし、せっかくだから見てみようよ」

 俺は二五四号線を右に曲がり、吉見方面へ向かう。

 無数に空いた穴の山が見えてくる。辺りは何もないへんぴなところだが、大きな看板で『ようこそ吉見町へ ジンギスカン』と書いてあった。さっきステーキを食べたばかりなのに、もう腹が減ってくる。

「飯田君、ジンギスカン行っちゃう?」

「いや…、さすがに無理です」

「じゃあさ、今度時間作ってジンギスカン行ってみようよ」

「そうですね」

 柵で簡単に侵入できない作りになっている吉見百穴。入り口で入園料を払えば中へ入れる。天然記念物のヒカリゴケが自然に発生している穴に対してだけは柵で張られ入れないようになっているらしい。

 この辺の地元の連中から百穴の近くに『岩窟ホテル』とホテルがあったいう噂話を聞いた事もある。真偽の程を確かめてみたかったが、飯田が怖がるだろうし今回はやめておく。

「へえ、面白い作りなんですね」

「金ちょっと掛かるけど、中に入ってみる? 入場料三百円だって」

「いえ、もうこうやって見れただけで充分です」

「そう、じゃあ俺、携帯で写真だけ撮っておこっと」

 車に乗り帰り道、またジンギスカンの看板を見る。さっき誘っても、もう食えないって断られたしなあ。

「たまにはさ、温泉浸かって、ジンギスカン食べて、酒飲んでへべれげになって、モヘーってその場で寝られたら、すごい幸せじゃない?」

「そうですね。でも、今は嫌ですよ」

「そうじゃなくってさ、今度独身男集めて小旅行なんてどう?」

「いいかもしれませんね」

「じゃあさ、家に帰ったら俺、インターネットで調べてみるよ」

「楽しみにしています」

 家を継ぐ継がないで会っていたはずなのに、いつの間にか温泉でモヘーって話になっているな。まあ、楽しいからいいか。

 

 飯田を送ってから家に着くと、早速パソコンで温泉宿などを調べてみる事にした。

 百穴辺りだと温泉はないが四千円ぐらいで泊まれるようだ。但し別途にジンギスカン代やバーベキュー代は掛かる。それだったら別のところでもいいよな。

 畳の部屋で温泉に浸かったあと、料理を食べ、酒を飲み、その場で寝ちゃうのもいい。待てよ、そうするとバーベキューがないからいまいちだな。理想は俺が料理を作って酒を飲んでその場で寝るって感じだから、キャンプ地でバンガローみたいなところもいいなあ。

 そういえば最後に旅行したのって、いつだ?

 えーと、百合子と俺の三十三歳の誕生日に、秩父の温泉へ行ったのが最後か? あの次の日、いきなり警察にパクられたんだよな……。

 違う。そのあとも百合子に引きずられるような形で、三十四歳の俺の誕生日に長野の軽井沢のペンションへ行ったんだよな。あれが実質最後か?

 待てよ、そのあとも、百合子の娘たちと全員で那須の温泉に拉致されたよな。あれが最後だから、俺がSFCG時代。つまり『神威整体』を始める前だから、三十五歳の秋ぐらい。三年ほどどこにも行っていないのか。

 別に素泊まりでどこかへ行って、大好物のグレンリベット十二年も持ち込んで浴びるほど飲み、その場でキューって倒れるのも悪くない。

 元々社会人になってから、遠くに行ったなんてあまりないのだ。

 高校を卒業してすぐ、自衛隊。後期教育で班長に嫌われていたから、北海道へ志願。

 辞めて帰ってきて、自動車の運転免許の合宿で静岡の浜松自動車学校。

 そのあと探偵を始め、一度相手を追い駆けて、軽井沢の奥の小諸市まで行った事もある。

 探偵も辞めて、広告代理行の仕事。それさえも辞めて、神奈川の横浜金沢区で八景島シーパラダイスの仕事……。

 おいおい、それって全然旅行と違うじゃん。確かに若い頃は色々飛び回っていたような気がするが、成り行きに身を任せていたら、そうなっていただけだ。俺って百合子以外、純粋な旅行ってないのか? いや、あるぞ。

 まずは新宿歌舞伎町時代、出会い系サイトで知り合った酢好きの女と、秩父の温泉に一度行っている。しかも百合子には内緒だったが、同じ宿でだ。あの酢女、まだラーメンにドバドバ酢を入れてんのかな? 思い出しただけで鳥肌が立ってしまう。性格は本当にいい子だったが、あの無類の酢好きだけはどうしても駄目だった。どうか幸せにね。

 それ以外だと同じく出会い系で知り合った火の国九州鹿児島の友香。俺の人生の汚点だよな、あれは…。何であんな写真一枚で、あそこまで興奮して九州までいきなり行っちゃったんだろ。よくよく冷静に考えてみたら、性格だってあの女はかなり痛い女だったぞ。おかげで会った瞬間、写真とはまるで別人の詐欺が発覚し、頭が真っ白になった俺はそのまま犯されたじゃねえか。下半身で物事を考えると痛い目に遭う。俺があれで得た教訓だ。

 必死に過去を思い出しても、ロクな思い出がない。本当にクズみたいな人生だな。タイムマシーンがあったら、あの頃に戻り、昔の俺に対し「無駄遣いしてんじゃねえ」と横っ面を張り倒したいものだ。でも、あの当時は強さでいうと全盛期だから逆に、「何だ、オメーは?」って今の俺が簡単にやられてしまうな……。

 だいたい旅行の件から何でこんな風に脱線してしまうのだ?

「龍ちゃん、お風呂いいお湯だから入ったら?」

 また三村が俺の部屋のドアをノックして声を掛けてくる。昨日は俺が痛いところを突いたら、逃げやがったくせに……。

 俺は無視をして飯田へ電話を掛けた。

「先ほどはどうも。どうかしましたか?」

「いやね、色々見ていたらさ、これまで俺の人生って楽しむって事をあまりしてこなかったなあと、大いに反省した訳ね」

「はあ……」

「ずっと働き通しだったり、無駄に金を遣ったりとロクなもんじゃないって事を振り返っていたの。だからこれからはもっと人生を謳歌して、楽しむのもいいんじゃないかって。今まで損をしていたんだから」

「ま、まあそうですよね」

「だから野郎同士で近くの旅行。まあ旅行というか、バーベキューみたいなのもやりたい」

「僕は神ヤンの作るちゃんこ鍋を寒い内にまずやりたいですね。まだ食べた事ないし」

 以前『神威整体』を閉めると決めた頃、中でちゃんこ鍋をやろうという話があった。しかし電気代すら払えなくなった俺は、電気すら止められてしまう。さすがにそんな事を言えなかったので、多忙を理由にちゃんこ鍋を中止にした経緯があったのだ。

 飯田にしてみれば、あれから二年も待たされていた訳である。

「そうだね。じゃあ、近い内ちゃんこ鍋をしよう」

「場所は僕の家でも構いませんから」

「了解。ゴッホも誘って、俺と飯田君と三人でいいでしょ?」

「そうですね。ぜひ近い内に」

 料理は未だ続けている。ちゃんこ鍋だけでなく腕は以前よりもグンと上がっていた。飯田家でやる前に、醤油ベースのタレだけでなく、味噌ダレも開発しとかなきゃな。

「それとは別にさ、バンガローのところでバーベキューとか、温泉浸かって酒を飲んでモヘーとか色々企画しようよ」

「いいですね」

「あっ! そういえばさ、川越街道沿いのところに何とかブッフェっていうバイキング形式のいいお店があるんだよ」

 俺はブッフェ形式のレストランの詳細を教えた。和洋中すべての料理があり、全部で三十種類ぐらいあるのだ。ラーメンを作るコーナーから、カレー、パスタ、ピザ、フライもの、うどんかそば、ソフトクリームやデザートなどもあり、ドリンクも飲み放題なのである。時間帯によってはローストビーフのサービスまであった。あれはまずかったけど。

「ひょっとしてカーニバルブッフェじゃないですか?」

「多分そう。あそこも行こうよ」

「そうですね。そういえば宅配のピザハットがレストランを出したみたいですよ。川越街道を真っ直ぐ行ったところに」

「ピザの食べ放題か何かかな?」

「スパゲッティもピザも食べ放題みたいですよ」

「へー、じゃあ今からそこ行ってみる? それかカーニバルブッフェ」

「い、いえ…、さっきステーキ食べたばかりじゃないですか」

「そっか。じゃあ今度ね」

 電話を切ると、布団に寝転がる。

 一冊の本が目に入る。そばで床の上に置いたままの『カンナぶし』。この作者である山中恒は、とても読みやすくユーモアな書き方をする作家だ。

 小学生だった頃から約三十年経って読み返した今、昔とは違う感想があった。

 児童作家なのに、当時を振り返ると酷く反社会的なのである。作品に登場する小学生の台詞で「何でも俺の知り合いのお姉ちゃんが言うには、学校の先生ってのが一番変態なんだってよ。乳だとか尻をしつこく触ってくるんだってさ」と子供同士の会話の中に、こんな事を平気で入れてしまうのだ。世の中を皮肉っている部分があるなあと感じる。作品のテーマとはまるで違うどうでもいい部分で、こういった台詞を入れる山中恒がさらに好きになった。

 学校の先生だからというだけで恐縮する人間が多いが、自分が子供だった頃を思い出してほしい。どれだけ尊敬に値する教師がいたかを。

 少なくても俺には高校時代世話になった亀田先生や、小学三年生時代の恩師福山先生がいる。あの二人の先生は俺の中で別格だし、未だ尊敬をしていた。

 言い換えれば、あとの先生はどうなのかという事である。

 マスコミが面白おかしく教師の猥褻なニュースをよく取り上げているが、教師の採用条件を一から考え直さないといけない時期に来ているんじゃないかと思う。勉強面では頭がいいかもしれないが、しょせん教師は世の中を何も経験していないのだ。大学を出て、学校で働きだし、周りから先生と呼ばれる仕事。よくこんな制度を今まで取り入れてきたなあと驚いてしまう。

 世の中で働くという事は、馬鹿にされる事もあるし、辛い事だってある。だからこそ、人間は本当の痛みを知る事ができる生き物だ。生徒に手を出したというケースをよく聞くが、相手の立場になって考えられないからこそ起きる事件である。何故何度も似たようなニュースをみんな見ているのに、根本を改善しようとしないのか不思議でならない。

 もはや生徒に手を出したというニュースぐらいじゃ、見せしめにもならないから、似たような件が増発しているのだ。

 改善するには二つほど方法がある。

 一つは社会経験を十年以上積んだ人間が、教員試験を受けられる制度を設ける事。精神的にガキな先生じゃ、教職なんて本来勤まらないものじゃないのか。真面目にやっている若い先生方には申し訳ないが。

 もう一つは極論だが、公務員すべて、もっと厳しい法律で縛る必要性がある。政治家の汚職問題だってあとを絶たない。命があるから、みんな欲を張る。地位を得ると初心を忘れ、金に走るのが人間の性。国民の汗水垂らして働いた金を横領しようだなんて、本当なら日本の国民たちはもっと怒るべきなのだ。汚職が発覚したら死刑、もしくは無期懲役。こんな事を実際にしたら、人権がどうのこうのとうるさい輩もいるだろう。だけど、国民の血税を悪用するって、このぐらいの覚悟は持たせたほうがいいんじゃないか。命が惜しいから、後続する人間にもいい見せしめになる。

 何で山中恒の事から、こんな事を俺は考えているのだ? 反社会的というところから脱線している。

 それよりも今度、俺も児童小説でも書いてみようかな。面白くテーマがあり簡単な子供でも理解できるような作品を……。

 俺の座右の銘の一つである『仁義礼智心、厳勇』。

 仁とは施しの心。つまり優しさ。

 義とは義侠心。つまり人助けの心。

 礼とは礼節の心。つまり礼儀作法。

 智とは正義を真に理解できる知恵。

 信とは言葉と言動が一致する事。つまり人を欺かぬ事。

 この五つの事をするのに必要なのが、厳と勇。

 厳とは自らを厳しく勇める事。

 勇とは自ら勇気を持ち行動をする事。

 この言葉、『南総里見八犬伝』に出てくる『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の八つの玉と似ているんだよな。

「ん?」

 ピンと閃くものが頭の中を走る。聡美という名前の『南総里見八犬伝』好きな女の子が主人公で、ビー玉に八つの文字をマジック書いて、仲のいい友達に渡す。するとビー玉を持ったそれぞれの友達が、八犬士の能力を持つスーパー小学生になってしまう物語。子供向けで面白いかもしれない。

『平成聡美八犬伝』なんて題名をつけちゃったりして。

 何だか久しぶりに執筆意欲が出てきたぞ……。

 何故小説を書いたか? 根底に眠っていたお袋への憎悪を書きたかったから。だから『新宿クレッシェンド』は生まれた。俺は書く事で自己を浄化している。

 本題に頭を切り替えよう。

 今俺は何の件で頭を抱えている? 親父と三村だ。お袋以上にどうしょうもない親父。戸籍上母親というだけの憎しみさえ抱く三村。

 俺はパソコンのフォトショップを起動し、これから書きたい作品の扉絵をデザインする事にしてみた。

 以前自殺しそうになった時マウスで描いた『月の光』。二千六年十一月十六日に描いたものである。二千三年に行ったピアノ発表会で自分が弾いた曲と同じ名前の絵。

 自暴自棄になり、親父を殺そうとした時、群馬の先生から一通のメールが届いた。

『前にも言ったでしょ? 絵を描きなさい。 群馬の先生』

 頭が混乱している状態では小説を書けない。でも、絵は描けた。『心の絵』、『旅立ちの絵』、『森と山の絵』とひたすら描き、気付けば俺の心は落ち着いていた。そして『神威整体』を開業しようと場所を探している最中、急にザーザーと大雨が降り出した。駅前の物件を見つけた時、大地を揺るがすかのようになった稲光。俺は家に戻り、『雷の絵』を無心で描いたっけ。

 この『月の光』の絵を背景に、手描きの天使の絵を加える。以前群馬の先生に、こういうイメージで天使の絵を描いて下さいと言われた絵。

「いつか数年後、あなたは『天使の羽を持つ子』というタイトルで作品を書くでしょう」

 前にそう言われ、すぐ書き始めたが、千六百十枚まで書いて途中で辞めてしまった。何故なら自分の自伝だから、行き着く先には『新宿クレッシェンド』シリーズと内容がかぶってしまうからだった。

 今、俺が一番書きたい作品……。

 それは自分が生きてきた道。

 家の事だけでどれだけ書く内容があるだろう。

 歌舞伎町の話もそうだ。

 それだけじゃない。人生体現してきたすべてを文字に…、文章にしてみたい。

 どんなジャンルか、どんな物語か。そんなつまらない事なんて気にしないでいいのだ。

 自分が書きたいからこそ、書く……。

 そうする事によって、何故今こうなっているのか。それがきっと分かるはずだ。

 現時点での問題点は、親父と三村。

 俺があの時お袋と親父を離婚させてしまったから、三村はその隙をつき家に入ってきた。

 お袋は虐待し、親父は育児放棄、そして三村みたいな女が母親になってしまった現実。なかなかこんなのないぞ。人間としては嫌な人生かもしれないが、作家としては最高に恵まれた環境である。

 うん、人間気の持ちようでいくらだって生きていけるんだ。

 頭の中に浮かぶ映像をそのまま文字にしよう。

 心の中にあった葛藤、渇望、憎悪…。そのすべてを赤裸々に書いてみようじゃないか。

 題名はどうする?

『親は選べない』

 これにしよう。

 この日、俺はこの作品の扉をデザインしている内に眠くなり寝てしまった。

 

 二千十年一月十日。

 久しぶりに目的ができたような気がする。

 どんなに小馬鹿にされようと、俺は作家だ。何を言われようと、処女作で賞を受賞し、それが本屋に置かれたという現実は変わらない。

 自信を持とう。そして書きたい事を書こう。

 この日から俺は、『親は選べない』の執筆を開始した。

 長い長い作品になるはずだ。以前挑戦した時は千六百枚以上書けたんだ。今回はもっとさらに多くを。

 ならばどうせなら各賞の応募規定枚数など超えてしまうのだから、世界で一番長い作品を書いてみるか。

 便利な世の中。インターネットで調べてみると、一人の作者で長い作品のギネスブックレコード世界記録は『グイン・サーガ』の栗本薫。複数の人間だと『失われた時を求めて』というマルセル・ブルースト著作の作品が世界最長記録になっている。これは複数の人間によってなので、俺の目指す方向とは関係ないだろう。

 千九百七十九年の九月。昭和だと五十四年。『グイン・サーガ』シリーズ一巻の『豹頭の仮面』が刊行。そして三十年後の二千九年五月二十六日。著者の栗本薫は、すい臓癌の為五十六歳でこの世を去る。

 彼女が残した記録は正伝で百三十巻と外伝で二十一巻の全部で百五十一冊分。

 一冊辺り原稿用紙三百枚だとして、もの凄い量じゃねえか……。

 一気に気持ちがトーンダウンする。原稿用紙千六百枚ぐらいじゃふんぞり返れない現実を直視して考えてみた。

 一体、何十倍書けば追いつけるのだ?

 まあこの際、ギネスの世界記録は置いておこう。

 一番大切なのは、俺が書きたいから書く。その事なんだから。

 金を自在に操り逃げようとする三村。そんな事がまかり通る現実。

 幼少時代から振り返り、全部を思い出そう。そしてそれを文字に……。

 親父と結婚してしまった三村は、法じゃ裁けない。

 だったら俺の小説で裁こう。赤裸々に書く事で、いつか世に出た時、読んだ人々に勝手に思ってもらえればいい。

 小さい頃世話になった坂井さんが亡くなった時、俺は奥さんに約束した。『鬼畜道』という作品を書くと……。

 だったら『親は選べない』という題名はふさわしくない。幼少時代の話だけじゃないのだから。

『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』

 このタイトルで、長いここまでの自分の歴史を書こう。

 幸い今の俺には腐るほど時間がある。ひたすら書きたい事を思う存分書き綴ろうじゃないか。

 一つ気に食わないのが、結局あれから数年後に俺は、こうしてこのタイトルで作品を書き始めてしまう事だな……。

 まあいいさ。そんなちっぽけな問題なんて、まるで気にならないだろ。

 ゆっくり目を閉じ、出だしを思い浮かべる。

 おとぎ話のようなスタートにしないと、多くの人間が凄惨過ぎて読めないかもな……。

 うん、坂井さんの葬式の時、小説ってこう書くんだって決めていたじゃないか。素直に今、そうやって書こう。

 俺は雷神と風神の会話から『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』を書き始めた。

 プロローグは決まっている。俺が本当に自殺を考えた時、包丁を手首に当てた時を振り返り、何故思い留まったのか? 生きようとしたのか? どうせ死ぬなら過去をゆっくり振り返ろうと物語を開始させよう。

 ガンガン執筆が進む。これほど無我夢中で書いた事なんて今まであっただろうか? 初めて書いた『新宿クレッシェンド』の時よりも文字を書き連ねる事に餓え、もっと先へと指先がどんどん動いていく。

 オチも構成も何も関係ない。自由に書きたい事を書くって、こんなに素敵で幸せな事なんだ。初めてそれを知った。

 小説を書き続けて本当に良かった。

 まだまだ俺はいっぱい書けるんじゃないか……。

 頭の中では昭和の古い映像が、映画館のスクリーンに映っているかのように鮮明だった。

 早く今のこの心境になっている自分を書きたい。だからこそ昔を振り返り、一切の手抜きなくずっと書こう。そして早く今の自分に追いつきたい。

 時間が経つのを早く感じる。

 このまま時なんて止まってしまえばいいのに……。

 夜中になり家族が寝静まると、部屋を出て台所へ向かう。

 シーンとした空間。目を閉じ左手を胸に当てると、自分の心臓だけが規則正しく動いているのが分かる。

 物音を立てないよう静かに包丁を右手で持ち、左手首に押し当てた。

 ひんやりした感触で、全身に鳥肌が立つ。

 うん、当時はこれを本当にやろうとしていたのだ。それを考えたら今の俺って一体何なのだろう。

「アハハハハ……」

 気付けば笑っていた。過去の自分を振り返るって非常に面白い。

 もう感触は肌で実感できたんだろ? 部屋に戻って書こうよ、鬼畜道を……。

 

 

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