岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

01 鬼畜道 悪魔的思想編

2023年03月01日 13時37分15秒 | 鬼畜道 各章&進化するストーカー女

鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~

悪魔的思想 (恋愛)

 

 運良く小説の賞を授賞し、全国書店にて出版を果たした俺。総合格闘技ディーファからのオファーを受ける形で、約七年半ぶりに現役復帰もした。

 準備期間一ヶ月もない状況の中、俺は『神威整体』を締める決意をする。良心的にやってきた整体は、自らの首を絞める結果になっていた。駅前の高額な家賃。様々な形で引かれていく経費や維持費。オマケに小学時代の同級生だった内野から騙し取られた金。精神的にもこれ以上『神威整体』を続けていく気力がなかった。本の校正作業、そして格闘技の試合と多忙を理由に、ようやく辞められるのだ。色々な事があったなと思い出しながら、整体の後片付けを始めた。

 二千十年一月十日。トレーニングする時間もないまま時間は過ぎ、処女作『新宿クレッシェンド』が全国発売される。

 地元のケーブルテレビの取材が来て、ニュースを流してくれた。

 試合前日には、総合格闘技団体ディーファでの記者会見。

 俺の人生にようやく転機が訪れ、上り調子に昇っていくのだろう。そう思うとしんどいけど、心地良い疲労感だった。

 しかし試合当日、出版社サイマリンガルの人間は、誰一人会場へ来なかった。ディーファの社長は「神威さん、何で出版社の人間が来ないんですか? それに『新宿クレッシェンド』はどうしたんです?」と試合前にも関わらず何度も言い寄ってくる。そんなものこっちが何故と聞きたいぐらいだ。

 スカイパーフェクトTVのテレビ中継も来ている中、俺はブランク七年半という期間があるのに、メインイベント扱いで試合の日程を組んでくれた。ヤフーやスポーツナビといった大型のマスコミも俺の試合を取り上げてくれ、多くの人の関心を集める事にも成功した。

 賞を獲ったばかりの小説家が総合格闘技のリングの上に立つ。人々は本当なのかと興味を抱くはず。すべて計算通りだったのだ、ここまでは……。

 思えば俺の本の担当編集者の今田はまるで覇気がなく、魂の欠片さえ感じさせない女だった。だから試合当日、会場にも来なければ、本だって持ってこないのである。何が「私は『新宿クレッシェンド』を世界で一番理解しています」だ? どこの世界に格闘技の試合へ出場し、タダで本を宣伝させようとする作家がいる? あの出版社自体、何で賞を設立し、わざわざ高い金を掛けて本を出版したのか、まったく理解できない。

 格闘技と本は、関係ない。そうあの女は俺に言った。じゃあ、他に宣伝方法を考えたのか? 何故あんな無能な奴を担当にしたのか意味が分からない。

 苛立ちと焦り、そんな混乱を抱えたままリングへ上がった俺は、フロントチョーク、ガッチリと両腕で首を極められ試合に負けた。

 リングに忘れたものを取り戻しに……。

 そんな目的で臨んだ復帰戦で得たものは、長年考えていた強さとは何かである。

 二十歳の頃から強さを目指す為にトレーニングを続け、答えが出なかったもの。その答えがようやく分かったのだ。

 

 久しぶりのリングの上。自分の入場テーマ曲『地球を護る者』に乗って入場した俺は、ワイヤーが中に入った最上段の黒いロープを右手でギュッとつかんだ瞬間、心が満ち溢れてしまったのだ。人生これまで生きてきて、最高に至福の瞬間。そう、試合が始まる前に俺はノスタルジーを感じ、そこで満足してしまったのである。

 とっておきの技『打突』をあの時相手の腹へぶち込んでいれば、今頃は……。

 いや、あの技を使わなかったからいいんだ。だからこそ胸を晴れる。天国にいるヘラクレス大地師匠も、きっとこんな俺を笑顔で見守ってくれたはず。

 カンカンカンカーン!

 試合終了のゴングが聞こえる。

 意識がなくなる前にタップした俺は、マットの上へ大の字で仰向けに寝転がり、天井の眩い光を見つめていた。負けちゃったか、まあしょうがねえか……。

 ゆっくり上半身を起こし、自分の入場した青コーナーの右側の席へ顔を向ける。最前列で応援していた先輩の長谷部さんは、泣きそうな顔をしながらも笑顔でリングのエプロンサイドまで駆けつけ、マットを両手でバンバン叩いていた。

「龍一っ! 良かった。本当に怪我がなくて良かった。お疲れさん! 頑張ったな」

 普段物静かな長谷部さんが興奮しながら声を掛けている。ずっと俺に対し、「頼むから死ぬなよ」とうるさいぐらい心配してくれた。本当に世話になってばかりだな……。

 先輩へ近づき、ロープ最下段を両手でつかみながら「すみません、負けちゃいました」と笑顔で自然と言えた。

 それから後方を向くと、重たいカメラを肩へ担いだまま最上さんが見える。彼は微動だにせず、黙々とカメラを向けたままだ。

 二十一歳の時に挑戦した大和プロレス。

 二十九歳の時に出場した総合格闘技の試合でのセコンド。

 歌舞伎町時代に教わったパソコン。

 三十一歳の時に出場したピアノ発表会。

 そして今……。

 俺の人生の要所要所で必ずそばにいてくれた頭の上がらない先輩だった。今日も俺の勇姿をカメラに収めようと、自分の感情を押し殺し、こうして俺をファインダー越しに撮っている。

 横には中学時代からの同級生の飯田誠。小学時代からの同級生、荻原強。そして歌舞伎町時代世話になった裏稼業大ボスの東海林の姿が…。他にも応援に駆けつけてくれた大勢の人たちの顔が、みんな俺を見ていた。

 格闘技の試合は勝った負けただけがすべて。それなのに、応援へ来てくれた人たちの表情は無事で良かったと言うような笑顔だった。

 もう俺も三十六歳。気付けば年を取っていた。

「ありがとうございました」

 頭上で声が聞こえ見上げると、対戦相手だった権田雄三が近くに立っている。深々とお辞儀をしながら真剣な眼差しで俺を見ていた。『打突』をこの子に使わないで本当に良かった……。

 立ち上がり彼の肩を抱く。そして頭をポンポンと叩いた。馬鹿にしている訳じゃない。よくやったなという激励の意味合いだ。

 権田のセコンドがいる赤コーナーへ向かい、お辞儀をする。セコンド陣の二人も笑顔でロープ越しに握手をガッチリした。

 レフリーにうながされ、俺はリングを降りる。

【私は大会中の事故、怪我等に関して、主催者および関係者に一切の異議、責任を申し立てない事を誓います。

※万が一、大会中に体に障害を受けた場合、死亡した場合など、いかなる場合も一切の責任は自己責任となります。】

 こんな誓約書へ勢いでサインしてしまったが、無事生還できた訳だ。

 観客が手を出してくるので、一人一人握手をしながら花道を戻る。

「負けちゃってすみません」

 何度この台詞を笑顔で言いながら歩いただろうか。

 見せ場といえば、最後のフロントチョークを三十秒ぐらい堪えたぐらいかな。まあ、ちゃんとトレーニングもしていなかったんだ。怪我がなかっただけでも上出来だ。

 控え室のある幕をくぐり、薄暗く細い通路を右へ曲がる。

「悪かったな、たー坊……」

 セコンドへついてくれた後輩のたー坊へ、歩きながらボソッと言った。

「しょうがないっすよ。練習でできたものを本番で必ず出せる訳じゃないし」

「フッ…、今回その練習すらほとんどしないままリングへ上っちまった。情けない体の状態で」

「まあ、何にせよ、龍ちゃんの怪我がなくて俺は良かったっす」

 本当なら強かった頃の俺を目の前で見せたかった。二十九歳の極限状態だったあの頃が懐かしい。

「じゃあ、自分と龍也さんはここまでにしておきますね。自分は社長にも挨拶行ってきますんで。帰りは別々になっちゃいますけど、大丈夫ですか?」

「ああ、問題ないよ。俺も知り合い待っているだろうしね。たー坊、お疲れさま。今日は本当にありがとう」

 急遽セコンドへついた弟の龍也は仲間が待つ観客席へ、たー坊はディーファ社長の元へ消えた。龍也は俺の負けが気にいらなかったのか、終始無言で冷めた表情をしている。

 元はといえば、たー坊が『神威整体』へ顔を出したのが、この試合のきっかけだった。

 俺がリアルに戦う姿を見たい。以前からそう強く思っていたたー坊は、冗談で「試合へ出てもいい」と言った俺の言葉を真に受け、総合格闘技ディーファへ連絡を入れた。ディーファの社長は二つ返事でこれを了承。俺がサインをすれば会場も押さえてあるし、すぐ試合ができると伝えてきたのだ。

 準備期間一ヶ月じゃ、多忙過ぎて何の準備もできないまま慌しく試合へ臨む。それでも出場すると決めたのは自分だし、何を言ったところですべてが言い訳に過ぎない。

 通路を歩きながら、先ほどの試合を頭の中で振り返っていた。

 何故、試合開始と同時に相手の膝へ前蹴りをして膝を砕かなかった? 多分作戦上思ったところで、相手の関節を壊すつもりなど毛頭もなかったからだろう。

 力でコーナーへ押し込んだ時、何故『打突・改』を相手のこめかみにぶち込まなかった? 親指第一間接を折り曲げた骨の部分でなら、刺さる心配もない。一度権田の左腿へ打ち込んだ『打突・改』。それで彼の体は敏感に痛みを感じ、動きが一瞬止まった。脚でこうだ。とてもじゃないが、勝利の為にこめかみへ『打突・改』を打ち込むなどできなかったのだ。

 それに強引にコーナーへ押してから、受け狙いで逆水平チョップをやるぐらいのプロレス頭があっても良かったのにな。

 あの時強引に両腕を相手の体へ回し、ガッチリとクラッチを組めれば、そのままスープレックスで投げられた。しかし、実戦から遠ざかっていた俺は試合中思ったように行動できなかった。

 最後のフロントチョークを極められた時、思えば逃げようはあった。

 一つは禁断技の『スクリュー』。

 相手の手首を捻って関節を極め、あの体勢から脱出する。そして手首から肘、肘から肩をロックして腕を伸ばす。相手の真横へ来たら、俺が腕を軸に宙を回転する技。

 馬鹿な、そんな事をしてみろ。権田の手首、肘、肩はよくて靭帯が伸び、最悪すべてが複雑骨折になってしまう。観客のいるような試合で、そんな凄惨なシーンなど演出できない。やれば話題になり、観客は歓喜の声を上げるだろう。しかしそれを引き換えに対戦相手の体は再起不能になる。

 もう一つの方法は、首を絞められたまま持ち上げてしまう。以前の体力なら余裕でできただろう。高く持ち上げ、そのままマットへ相手を叩きつけてしまえばいい。だけど自分の首の心配もある。無茶をすれば頚椎損傷する恐れもある体勢なだけに、賢明な方法とはいえない。

 最後の手段として真横へ上げた右腕。ゆっくりと突き出した親指。がら空きの胴体に向かって鍛え抜いた親指を突き刺せば『打突』が決まり、勝利を得られたはずだった。でも『スクリュー』同様、相手を壊してまで得た勝利に何の意味がある? 生前、大地師匠に『打突』を編み出した事を伝えると「馬鹿野郎、おまえは相手を殺すつもりで試合をするのか」と殴られた。この試合の勝利に、そこまでして勝つ価値などない。

 頚動脈を締められ意識が朦朧としていく中、俺はそんな事を考えていた。だから『打突』の握りを解き、その右手でポンポンと二回タップして負けを宣告したのだ……。

 もう試合は終わった。今さら内容を悔やんでも仕方がないじゃないか。

 本気で相手を殴れず、戦う為に編み出した『打突』さえも躊躇してしまう性格。

 一つ分かった事。それは俺がいかに戦う事に向いていないかという事実だけだった。

 階段を降りて通路を進み、右へ曲がったところにある選手控え室へ辿り着く。流した汗をタオルで拭い、オープンフィンガーグローブに巻きついているテーピングを取る。かなりキツい状態だった両手。グローブを外すと周囲の空気に触れ、小気味がいい。

 部屋に設置してあるテレビには、現在の試合が生で映るようになっている。同じ控え室にはスピリットにも出場をした経験のある『世界のTK』という異名の高山もいた。彼は俺を嫌いなのか、一別をしてそっぽを向く。試合前、陽気に選手たちへ冗談を言っていた俺だが、高山だけは一切笑いもしなかった。おちゃらけたように見える俺を面白く思っていないような態度だった。

 俺も小馬鹿にしたように鼻で笑い、着替えを済ませる。テーブルの上に置いてある出版社サイマリンガルから届けられた花束。こんなもん贈ってくるぐらいなら、本を持って応援に駆けつけてくればいいものを……。

「あ、いたいた! 龍さ~ん」

 自分の名前を呼ばれたので振り向くと、同じ町内に住む四つ年上の枝沢が立っていた。彼とは地元の川越祭りで知り合い仲良くなり現在に至る。冷たいもので、同じ町内の連中で試合にこうして駆けつけてくれたのは枝沢だけであった。

「枝沢さん……」

「いや~、興奮しましたよ! 龍さん、無事で良かった」

「試合には負けちゃいましたけどね……」

「いえいえ、知り合いがこうやって大舞台で試合するなんて、見るの自分は初めてだったんで、本当に興奮しました。ありがとうございます。あ、記念に一緒に写真撮ってもいいでしょうか?」

 枝沢の行為が素直に嬉しかった。俺は近くにいた人間にカメラを渡し、二人並んで写真を撮ってもらう。

 再び控え室へ戻ると、携帯電話にすごい数のメールや着信履歴があった。ほとんどが俺の体の無事を心配した内容のメールで、中には勝ち負けを知りたがる人間もいる。ゆっくり一つ一つメールを眺めていると、突如携帯電話が鳴り出した。着信は歌舞伎町時代のゲーム屋『ワールド』で俺の右腕だった島根から。

「久しぶり、島根君」

「神威さん、大丈夫でしたか? ブランク七年以上もあって…。あ、電話にこうやって出ているぐらいだから、まあ無事なんでしょうね」

「はは、試合には負けちゃったけどね」

「ブランクあるからしょうがないっすよ。神威さんが全盛期の時だったらなあ……」

 俺の二十九歳だった全盛期を身近で見てきた島根は、とても残念そうに電話越しで声を漏らす。

 キャッチホンが入り、島根に断って出ると、『神威整体』整体の患者だった大川京子からだった。

「先生~、お体大丈夫でしたか?」

「問題ないですよ。試合には負けちゃいましたけどね」

「もう…、先生に何かあったら、私が旦那と別れたあとどうするんですか!」

 彼女は少しユニークなところがあって、整体時代から施術へ来る度「私が別れたらよろしくお願いします」と言っていた。何でも好みの男性のタイプは痩せた男らしいが、俺と接する内に「ガタイが大きい人もありなんだなと思いました」と突然言い出し、それ以来「何かあったら、私と子供をもらって下さいね」と、こっちの気持ちなどお構いなしに喋っている患者だった。

 それからも歌舞伎町時代の仲間や、患者たちから連絡があった。それぞれの対応を済ませ、ようやく控え室を出る。

 試合がすべて終わった会場はほとんどの観客が帰り、まばらに人が残っているだけだ。会場へ姿を出すと、通路そばの座席に座っていた女の子二人が近づいてきて「お疲れさまでした」と声を掛けてくれる。俺は持っていた花束を「良かったらどうぞ」と名も知らない子へプレゼントして、知り合いがいた席へ向かう。

 歌舞伎町の大ボスである東海林がニコやかな表情で立っている。

「おお、神威ちゃん。お疲れさま。本当にバチバチ殴り合うような試合だったから、見ていて面白かったよ。あ、これ、試合のチケット代だ。気持ち多めに入れてあるから」

 自分で席を取った席のチケット代は、あとで俺がまとめて興行側へ支払うようだった。東海林は祝儀袋へ金を入れた状態で手渡してくる。

「ありがとうございます、東海林さん」

「また試合あるようなら呼んでくれよな。じゃあ、ワシは仕事あるからこれで行くけど」

「忙しいところ、本当にありがとうございました」

 東海林と取り巻きの部下連中は、頭を下げて会場から消える。俺は後姿に向かって深々とお辞儀をした。

 辺りを見回すと、応援に来てくれたほとんどの人は帰ったようで、残っていたのは同級生の荻原と、従兄弟の直ちゃん、そして先輩の最上さんだけだった。

「おぎゃんに直ちゃん…、今日は来てくれてありがとう」

「いやいや、お疲れさま。本当に無事で良かった」

「俺、今までさ、格闘技の試合観に行っても、観客の目線で好き勝手に思っていたけどさ、身内である龍ちゃんが試合しているのを見て、本当にハラハラしちゃってさ。怪我がないようで良かったって」

 最上さんが釈然としない表情で近づいてくる。

「龍一ー…、おまえ、負けやがって……」

「すみません……」

「負けたら、この撮った映像は消すって言ったろ?」

「面目ないです……」

「はあ……、だからもっと時間を取って、以前のおまえの姿に戻ってから試合に出ろって、あれだけ言ったのに……」

 全盛期の俺の試合のセコンドについていただけに、最上さんの言葉はさすがに手厳しい。負け戦と分かっていながら強行出場した俺に対し、腹が立つのも無理はなかった。

「本当におっしゃる通りです、はい……」

「まあいいや…、とりあえず外へ出よう」

 他の人間は先に帰ったようで、俺ら四人はそろって会場をあとにした。

 

 解散する前に食事でもと提案してみたが、最上さんは、奥さんである有子さんと息子の麗一君が高田馬場駅で待っているらしく、「悪いけど、今日はこのまま帰るよ」と先へ姿を消した。

 残った俺と荻原と直ちゃんの三人で食事へ行く事にする。行き場所は一つしかない。歌舞伎町時代から十年以上の付き合いがある激うま中華料理『叙楽苑』だ。試合会場が新宿コマ劇場目の前にある『新宿フェイス』なので、店まで徒歩五分も掛からない場所にあった。

 一月十四日の成人式。まだ世間的には正月気分が抜けきっていない時期でもある。この年、二十歳になる若者たちが大はしゃぎで歌舞伎町の町並みを占領していた。

 俺もこのぐらいの頃を過ごしてきたのだ。川越の市民会館へ成人式へ向かい、当時の彼女だった美千代がわがままだったので、顔だけ出してすぐに会場をあとにしたっけな。

 しばらくして広告代理業の会社を辞め、横浜へ渡る。

 それからだった、俺の格闘技人生は……。

 当時誰でも簡単に入れるような時代じゃなかったプロレス界。大和プロレスの今は亡きヘラクレス大地師匠と、エース伊達さんの試合を見て、この世界へ行きたいと思うようになった。日々その想いは強まり、会社に辞表を出してトレーニングに励む日常が始まる。まだ体重が六十五キロしかなかった俺。いくら食べてもなかなか体重など増えなかった。

 稼いだ金をほぼ食費に回し、必死に鍛錬していたあの頃。あの時代があったから、今日のこの試合だって怪我もなく頑丈な体でいられたのだろう。

 左肘を壊さなかったら、ずっとリングの上にいられたのにな……。

 でも、今日でくすぶっていた想いが叶ったじゃないか。またリングの上に立てただなんて。勝ち負けよりも、俺はリングの上に立ちたかったのだ。だから入場し、上がった瞬間、満足してしまった。

 もうこれでリングに立つ事は二度とない……。

 現実が分かっただろ? もう年なんだって。

 でも、やっぱ勝ちたかったなあ……。

 清々しさと、悔しさが混沌した不思議な感覚。トレーニングは裏切らない。七年半、何もトレーニングしてこなかった俺が、ぶっつけ本番で勝てるほど格闘技の世界は甘くないのだ。ステージから、とっく降りたんだろ? 自分にそう言い聞かせた。

 また電話が鳴る。『神威整体』の裏にあった駅前のジャズバーで知り合った木崎修也からだった。

「神威さん、今日は本当にお疲れさまでした」

 負けた事を詫びると、彼はまったく責めず、かえって慰めてくれたほどだ。

「幸代もすごいって言ってましたし、最後のフロントチョークで首を絞められているのに、ずっと神威さん、ギブアップせずに頑張っていたじゃないですか。周りの観客からもどよめきが起きていましたよ」

 木崎の気遣った言葉に少しだけ救われた気分になる。

 当時、彼はそこそこいい男なのに三十二年間彼女ができた事がなかった。昔からの悪友である岡崎勉ことゴッホも三十六年間と記録を更新中だが、彼に彼女ができないのとは意味合いが違う。

 木崎の現状を当時ジャズバーで聞いた俺は、彼に決定的な決断力が欠けている点を指摘し、アドバイスを与える。元はいい男なので、それ以来簡単に女性を抱けるようになった。『神威マジック』と興奮しながら懐いてくる木崎。そんな彼は「まだ食事へたまに行くぐらいなんですが、結婚を考えている女性がいるんです」と相談を持ち掛けてきた。俺は快く協力し、木崎の意中の人だった森山幸代と彼をくっつける為にシナリオを描く。その日、幸代の誕生日だった事もあり、彼女は俺が用意したシナリオに深く感動し、最後に木崎が連れて行った店では大泣きしてしまったぐらいである。そして二人はめでたく結ばれた。

 ここまではいい話だったが、一つだけ見落としていた点があった。それはこれまでモテないと自覚していた木崎に、妙な自信を与えてしまった事である。

 調子の乗った木崎は、他の女へ手を出し遊ぶようになった。整体を開業していた頃、彼は得意げな表情でそれを俺に報告しに来たぐらいだ。

 浮気経験がある俺は、木崎を責められなかったが、「遊ぶのは男の甲斐性だけど、心まで持ってかれちゃ駄目だよ」とアドバイスする事だけは忘れなかった。

 整体を閉める十二月末。また木崎は俺の元へ相談に来る。案の定手を出した女性にも情が移ってしまい、二股状態となった現状。しかもそれが相手にバレてしまったのだ。どうしたらいいかと迷う彼に、俺は「理想は二人とも切るのがいい。だけどそれができないなら、どちらかをハッキリと選ぶべき」と伝えた。

「でも、どっちを選んだらいいのか、自分でも分からなくて……」

「最終的には自分で決める問題だけど俺から考えると、二人目のほうがいいと思いますよ」

「何でですか?」

「一人目の幸代さんとはずっと異性と付き合いたいという念願が叶ったけど、実際に付き合うと、どうも自分とは合わない部分があると気付いた。だから他の女に手を出した訳で、二人目とは遊びのつもりが、思ったより性格が合う為、心まで惹かれてしまった。そんな感じの二股だと思うんですよ」

「なるほど……」

「だから選ぶなら二人目のほうが木崎君には合ってんじゃないかなと。まあ、決めるのはあくまでも自分自身だし、これは一つの意見としてとらえてもらえばいいけどね」

「よく自分自身で考えてみます……」

 去年の年末に話した会話を思い出す。

 今日の試合で彼は、最初に紹介した守山幸代と一緒に応援に来た。試合前だったので何も話せなかったが、これが彼の出した答えなのかと思った。

 

 コマ劇場を左折し、レンガでできたセントラル通り、さくら通りを通過し、行き止まりの東通りへ差し掛かる。

 どうもこの通りを歩くと、あの忌々しい風俗店『ガールズコレクション』を思い出してしまう。歌舞伎町交番のある花道通りへ向かって進むと、途中に右折する細い路地がある。黙ったまま先へ行くと、背後から直ちゃんが声を掛けてきた。

「ねえ、龍ちゃん……。大丈夫なの、こんな細い道を歩いて……」

 確かに初めての人間だと心細くなるだろう。道は人が一人通れるぐらいの狭さで、歌舞伎町の中でもコア的な場所だ。左手には裏ビデオ屋が密集し、右手の壁側には客が二、三人しか入る事のできない掘っ建て小屋のような飲み屋もある。そのせいか、ほとんどの人間はここを歩かない。

「まあ普通ならこんな場所、誰も歩かないだろうね。安心して、俺と一緒なら問題ないから」

「う…、うん……」

 直ちゃんと萩原は、不安そうに肩を狭めてついてくる。

 少し道に沿って曲がると、すぐ『叙楽苑』はあった。店に入る前、さらに細い道を指で示し、「ここが『新宿クレッシェンド』の著者写真の撮影の時撮った場所だよ」と説明した。

「へえ、こんなところで撮影したんだ。出版社の人、怖がってなかった?」

「怖がるより、こういうコアな場所があったんだって感動のほうが強かったみたいだね。そろそろ叙楽苑に行こうか。ここの中華、本当においしいよ」

 中へ入ると、中国人のママが笑顔で出迎えてくれる。

「おう、神威さん。お久しぶりね。元気だったか?」

「元気ですよ。さっき新宿で試合をしてきたばかりですよ」

「おう、そうかそうか。神威さん、私の息子みたいなものね」

 どこまで俺の日本語を分かっているのか知らないが、ママが好意を持って接してくれるのだけは、この十年以上の時が教えてくれる。

「ママ、とりあえずビールとトウミョウを下さい。あと春巻きも」

「あい、トウミョウね。ビール、私、サービスする」

「そんなに気を使わないで、ママ」

「大丈夫、大丈夫ね。神威さん、ビールサービスするね」

 陽気なママは、ニコニコしながら階段を上がっていく。

「ねえ、龍ちゃん。トウミョウって何?」

 従兄弟の直ちゃんが不思議そうに聞いてくる。トウミョウとは日本語の料理名ではなく、向こうの呼び方なのだ。

「ああ、こっちで言うエンドウ豆の芽炒めだね。ここのは本当にうまいんだ。前菜にはもってこいだよ。料理は俺が適当にチョイスするからさ。味はすべて保障するよ」

「へえ、それは楽しみですね~」

 荻原強が興味津々に頷く。

「あ、直ちゃん、遅くなったけど紹介するね。こちらは俺の小学時代の同級生の荻原強さん。昔っから仇名で『おぎゃん』って呼んでいるけどね。彼とは小学校を卒業して以来、ほとんど面識なかったんだけど、『神威整体』を閉めると告知した際、すぐ電話で予約して来てくれてね。それからまた昔のようによく会うようになったんだ。…で、おぎゃん。こっちが俺の従兄弟の神威直道。直ちゃんって呼んでるんだ。親父の弟の子供になる」

 二人が挨拶をしている間に、ビールが運ばれてくる。俺たちは乾杯をしてビールを飲み干す。

 トウミョウが出されると、二人は恐る恐る口へ入れた。

「何これ? すごいうまい!」

「本当においしい!」

 二人とも驚愕の声を出しながら舌鼓を打ち、あっという間にトウミョウを平らげてしまう。さっぱりとした味付けの中、歯ごたえのあるシャキシャキ感。なかなか日本ではこういった味付けの料理には出会えない。

「だからとりあえず食っとけって言ったでしょ。あとは肉や腹に溜まるものを頼むから」

 マーボーチークワィ(若鶏の唐揚げの麻婆和え)、台湾風骨付き豚ロースの唐揚げ、五目やきそば、絶品の麻婆茄子を注文し、紹興酒もボトルで頼む。

 うまい料理と酒を胃袋へ入れながら、俺たちは試合の話を中心に盛り上がり、楽しい宴を過ごす。

 途中、先に姿を消した先輩の長谷部や、同級生の飯田、歌舞伎町時代の仲間たちから連絡があった。みんな、気を使って仲間と試合後は打ち上げでもするのだろうと先へ帰ってしまったようだ。まあ、俺が試合に勝っていれば、また違った展開になっていたかもしれないが。飯田は、新宿駅近くの紀伊国屋書店へ行き、『新宿クレッシェンド』を購入したらしい。

「神ヤンの名前を言い掛けた途端、店員が『ああ、新宿クレッシェンドですね』ってすぐ出してくれましたよ。今度会う時、二冊買ったんで、二つともサインもらえますか?」

 心優しい彼の気遣いには、本当に感謝である。

 また電話が鳴る。ずっと俺の事を心配していた葵からだった。

「もしもし、龍さん…。試合…、無事でしたか?」

「うん、全然問題ないよ。試合には負けちゃったけど、体はまったく怪我も何もないぐらいだ」

「良かった……」

 電話口ですすり泣く葵。

 二千六年の九月、俺がインターネットで初めて『新宿の部屋』を始め出した頃、仲良くなった教会の神父の妻。最初は俺の小説の読者としてだったが、チャットをするようになった頃、食事へ行く約束をする。この頃付き合っていた百合子とは、本当にうまくいっていない時期でもあり、俺は他の女性と会ってイライラを消したかったのも手伝った。

 初めて俺と会った彼女は、旦那と結婚して十年間、他の異性と一対一で会った事すらなかったらしい。教会の神父の妻である。とても清楚で真面目な子だというのが第一印象。普段大人しいが、一旦火がつくと気性が荒く、とことん俺を罵倒してくる彼女だった百合子と比べると、話をしているだけで自然と心が落ち着いた。

 食事を終えたあと、プリントクラブでも撮ろうと誘い、肩を組んで映っている間、俺は彼女の唇を奪ってしまった。小動物のようにか弱い体。ほのかに発する女の匂い。食事へ誘ったのも、こういう女を抱いてみたかったからなのだと自覚した。

 キスをされた葵はほんのり頬を赤らめ、無言で下をうつむく。俺はあごに指を差し入れて、顔を上に向かせ、何度もキスをする。葵はそんな俺の行動を拒まないでいた。まだ暑い時期でTシャツ一枚だった彼女の服の上から胸をまさぐりだし、半ば強引に乳首を触る。そこで現実に戻ったのか、葵は少しだけ抵抗をした。

 笑顔でその場は別れたが、俺はどうしても葵を抱いてみたかった。それから約一ヶ月後、再び俺と葵は会い、とうとう抱いてしまう。お互い旦那と彼女がいるのを分かっていての行為なので、完全な不倫と浮気である。

 真面目だった葵は、他の男に抱かれたという事実を受け止めようとするあまり、かなり悩んでいたようだ。それまで毎日のようにあった連絡も日に日に少なくなり、俺が『神威整体』を開業していた二千七年の一年、行きたいとは言っていたが、とうとう来なかった。

 しかし年が明けようとする十二月末、俺が整体を閉めようと決意した頃、久しぶりに彼女から連絡があり、「食事へどうですか?」と誘いがある。本の出版、格闘技の試合前と様々な事で疲れていた俺は、救われたような気分で葵と会う。夜道をドライブしながら、一年ぶりの会話を楽しんだが、彼女は「そろそろ帰らないと」と言い出した。正直に「また君を抱きたい」と想いを伝えた俺は、朝まで葵を抱いた。

 小説や格闘技に対する話をしながら過ごし、何度も抱いて、俺の心はとても癒されていたのだ。命がなくなっても主催者側へ責任の追及をしないという誓約書の事を話すと、泣きながら「お願いだから無事でいて」、そう言ってくれた。この日からメールを打つ際も、会いたいという言葉から、逢いたいと自分の中で意識して変えるようになる。

 一年経っても未だ忘れられない百合子の罵倒の数々。そのせいか整体時代たくさんの女性を口説き抱いたが、ほとんど心は満たされず、また異性と付き合いたいとまるで思わなかった俺。葵のような心優しい女性だったら、一緒にいてもいいなと感じるようになっていた。

「また近い内逢って色々話そう。今さ、友達と中華料理食べているから、また落ち着いたら連絡するよ。連絡ありがとう」

「はい…、連絡待ってます」

 人妻という立場を忘れ、完全に一人の女となっていた葵。罪悪感を覚えながらも、俺は彼女を求めている。

 叙楽苑での食事を終え、西武新宿線へ乗って帰ると俺たちは別れ、各自家に戻った。帰り道電話が鳴る。整体時代よく通ってくれた小料理屋『こしじ』の女将である石沢からだった。

「先生…、お怪我はなかったでしょうか?」

「ご心配掛けて申し訳ありませんでした。無事、何とか試合を終え、これから帰るところです。試合には負けてしまいましたけどね」

「勝ち負けよりも、先生のお体に何もなくて、本当に良かったです」

 自分の親世代ぐらい年が離れた女性である石沢は、いつもこうやって俺の事を心配してくれる優しい人だった。『新宿クレッシェンド』が賞を授賞した時も、俺の大好きな酒『グレンリベット十二年』のボトルを七本もお祝いに持って駆けつけてくれたぐらいだ。

 頭が上がらない患者さんの一人である。また時間を作って『こしじ』へ顔を出しに行かないとな……。

 たくさんの知り合いからの連絡をもらい、試合には負けたが得たものも大きいような気がする。本当に大切な人間は、俺の勝ち負けよりも、体の安否を気遣ってくれるのだ。

 これからは小説家として別の人生を歩む。もう人を殴ったり、蹴飛ばしたりするような世界とはこれでお別れだ。周りを心配させてしまう。

 一つだけ苛立つ事があった。中学時代からの悪友ゴッホである。

 俺は誰一人「試合へ応援に来てくれ」と言わなかった。唯一言ったのはゴッホだけだ。何故なら奴には来なければいけない義理があるからである。しかし奴は「仕事だから無理だよ」と素っ気なく断った。

 そんなゴッホが試合二日前の夜になって突然連絡を入れてくる。あいつが三年間通い続け、ずっと口説いていた飲み屋『エルミー』の女、武村奈々。源氏名は『ゆな』。その女から三行半をつきつけられ、焦って連絡をしてきたのだ。

 散々利用され、金まで貸していたという事実を知った俺は、試合前にも関わらずゴッホの話に付き合った。俺らより一回り年下の武村奈々は、本当にふざけた女だった。金も返してもらえず、図に乗らせたまま終わりではあまりにもゴッホが可哀相だ。せめてギャフンと言わせなきゃと、俺は悪魔的思想を練り込み、武村奈々をが怯えさせるような作戦を思いつく。

 焦った奈々は、すぐゴッホに「今から会えない」と電話を掛けてきた。ゴッホは「今月十四日に神威の試合があるから、一緒に応援しに行かないか?」と言い出したので、俺はやっぱり応援に来てくれるんだと嬉しく思っていた。

 しかし奈々がゴッホの申し出を断った為、「ゴッホさ、そんな事よりも俺の試合一緒にって誘ってたけどさ。もし、ゆなが行くって言ったらどうするつもりだったんだよ? 仕事なんでしょ?」と確認してみる。

「ああ、そしたら仕事なんか休むよ」

 こいつ、あれだけ仕事だからと抜かしていたくせに……。

「じゃあ試合のチケットは、ゴッホの分一枚だけでいいの?」

「いや、仕事だから試合には行けないよ」

「……」

 ゆなとなら仕事を休んでくるが、一人だと来られないとでも言うのだろうか……。

「さーて、明日はゆっくり休んで仕事に備えるか」

 長年の付き合いだったが、この男とはこれ以上一緒にいても意味がない。そう感じた俺は、そのまま帰ってしまったほどである。

 せめて今日の試合のあと、電話一本ぐらいあれば、水に流そうと思っていたのだ。

 しかしこの日、ゴッホから電話の一本すらなかった。試合前、あんなに俺を引っかき回しといて、試合がどうなったのか、それに怪我がなかったのか、などの心配を一つもしないのだろうか? 先日の件で呆れてはいたが、さらに呆れてしまう。

 もうじき夜の十二時を回る。あいつからの連絡はなかった。そんな気遣いすらできないなんて、どうしょうもない奴だ。

「あの野郎…、ふざけやがって……」

 俺は夜道を歩きながら、通り掛かりにあったコンクリートの壁に向かって思い切り回し蹴りを打ち込んだ。

 

 家の近くまで来ると、応援に来てくれた弟の龍也とその後輩たちが道端でだべっている。

「あ、龍一さん、今日はお疲れさまでした」

 後輩たちが俺に気付くと、一斉に礼儀正しくお辞儀をしてきた。

「みんな、応援に来てくれてありがとう。悪かったな、いいとこなしで負けちまって」

 十名はいる後輩たちと家の近くの道端で話し、夜中になって解散する。龍也だけは無表情のままで、つまらなそうにしていた。

 後輩たちがそれぞれ帰ると、「どうだ、セコンドについた気分は?」と明るく話し掛ける。

「……」

 無言のまま一別する龍也。

「何だよ? 言いたい事あるなら言えよ」

「おかげでいい赤っ恥を掻いたよ」

「何だと…、このクソガキ……」

 無意識に龍也の胸倉をつかんでいた。

「ロクにトレーニングにしないで試合に出て、あっさり負けてしまうんじゃ、セコンドについていた俺は、恥ずかしくてしょうがなかったよ」

「おい…、別にテメーなんぞ、セコンドについてほしいなんて、頼んだ覚えなんぞねえぞ。あれはたー坊が『弟さんなんだから、一緒についてもらいましょう』って入場する前、いきなり言い出すから仕方なくつけてやっただけだ」

「昔の体ならともかく、今の兄貴の体を見て、呆れていた観客だっていたぜ」

「じゃあ、俺の目の前に連れて来いよ、そいつら。結局目の前じゃ何も言えない奴らじゃねえかよ。そんなもんの対応をいちいち気にしてどうする?」

「兄貴はそうやって、いつも人の意見を何も聞こうとしない」

「ふざけんなっ! やったのは俺だ。文句がある奴は、直に言いに来ればいいだろうが」

「もういいよ…。兄貴が聞く体勢にないなら、俺からはもう何も言わない」

「ケッ! じゃあ、とっとと俺の目の前から消えろっ!」

 リングに立った事がない奴に、そんな言われ方をされる覚えはない。親しい仲にも礼儀ありと言うが、相手の気持ちを考えず世間的な悪い評価しか気にできないのは、人として悲しく思う。

 俺の安否を気遣い、無事を笑顔で喜んでくれた人たちと比べると、龍也の発言は許せないものがあった。

 そういう俺も、世間体を気にしている……。

 整体の経営を続けられないほどの状況に追い込まれていたとはいえ、辞め際を本の校正と格闘技の復帰を理由に閉めた。本当は金が続けられる金がなかったらとは、恥ずかしくて口が裂けても言えなかったのだ。

 最後の最後で騙して二十万円を持っていったヤクザの内野。家賃すら払えない現状。手っ取り早く金になる何かにすがりつくしか方法がなかった。

 そして急遽決まった一ヵ月後の試合。俺には受けるしか道はない。

 もちろんコンディション不足で試合に臨んだのは、自分自身一番理解している。だけどこのケースではしょうがないじゃないか。そんなもの自分が一番分かっているんだ……。

 やはり『打突』を使い、試合に勝てば良かったのか? 違うって。そんなチンケな勝利と引き換えに得るものなど、俺の人生の汚点にさえなるだろう。

 戦いの本質は相手を壊せばいい。だけど、俺はそのステージに上がっても、人間を思い切り殴れなかった。ナイフを押せば簡単に人に刺さってしまう理屈。『打突』の使用はそれに近い感覚がある。刺さると分かりながら刺せる人間は、ただのクズだ。

 それに人間を殴る事に何の矛盾を感じない者同士が、勝手に殴り合えばいい。

 恨みも苛立ちもない相手に対し、俺は殴る行為などできやしないのだ。

 金がないから出場せざるおえなかった俺。

 命を張ってまで得たファイトマネーは、たったの三万円だった……。

 会場は満員御礼で、立ち見の観客まで多数いた。それでもこの程度の金しかもらえない現実。でも、そんな条件でさえ、俺は出なきゃいけないような状況だったのだ。

 世間体を気にしたせいで……。

 俺の処女作『新宿クレッシェンド』が全国書店に発売される中、赤字経営で『神威整体』を潰す。それだけは言えなかった。

 しかもスズメの涙ほどのファイトマネーや、試合に向かうまでの経緯などを説明したところで自分が惨め過ぎる。

 今年に入り、ずっと上昇気流に乗っているつもりが、この日を境に落下していくような感覚がした。

「俺たちの世代は、横の繋がりがあまりねえ。同級生の絆ってもんが薄いんだ」

 よくこの台詞を多用した内野。あの馬鹿はヤクザになっていつも人を威嚇するような行動しているので、他の同級生からは相手にされていない。

「神威だけだよ、俺と普通に話してくれるのはよ」

 そんな事を言いながら、よくも困っていた俺から金を騙し取りやがったな……。

 先ほどの龍也の言葉でイラついていた俺は、内野とバッタリ会ったら渾身の力を込めて横っ面を殴り飛ばしてやろうと心の中で固く誓う。

「クソがっ!」

 思わず家のコンクリートの壁に右の拳を叩きつける。拳から伝わる衝撃と痛み。そして流れ出る血。記念すべき日が、最後で最悪の気分になっていた。

 

 ヤニで少し黄ばんだ白い天井を見ながら、しばらくボーっと寝転がる。

 戦いのステージからは遠ざかり、代わりにピアノを弾くスキルと、小説を書くスキルを得た。

 初めて書いた作品が賞を獲り、世に出る。そしたらもっと明るい未来が待っているはず。ずっとそう想い描きながら頑張ってきたつもりだった。

 群馬に住む不思議な先生からは、当時歌舞伎町で裏稼業をしていた俺に対し、「あなたはもっと光輝く表の道を歩きなさい」。そう言われた。

 戦う道を再び選ぶとは、自分でも想定外だったのだ。

 壊してきた代わりに、多くの人を治す整体。しかしそれさえも自分の生活を苦しめるようになってしまった現実。

 一体俺って、何なのだろう?

 たまたま運良く賞を獲り、たまたま昔の貯金で試合に復帰しただけ。今の俺の価値など、せいぜいそんなものか。

「おかげでいい赤っ恥を掻いたよ」

 先ほどの龍也の言葉が蘇る。

 試合に出て負けた事が、そんなに赤ッ恥だと言うのか? 鋭利な刃物で心の中をズタズタにされたような気がした。

 慌しかった日常も、今日でやっと終わる。これから俺はどうすればいいのだろうか?

 新たに小説を書くような気分でもない。かといってまたトレーニングをして、リングの上へ立つつもりもない。

 格闘技と小説は関係ないと言い切った担当編集者の今田。

 絶対にそれは違う。少なくても書く事で、俺はこれまでバラバラだった点が、一つの線になりつつあるのだ。小説家がリングに上がる。格闘技界は興味を示し、マスコミも飛びついた。本を売るといった点では、宣伝効果として最高のものなはず。

 出版社のサイマリンガルからは特に何の連絡もない。命を懸けて行った宣伝を無下にした馬鹿な連中たち。自分たちで金を出して本を作ったのに、何で何も動かない? 売る気がないのか? あの会社は今日の祭日は休みだったはず。それなのに何故誰一人、俺の応援に来なかった? せめて『新宿クレッシェンド』を会場に運んでくれていれば、ディーファの社長もサイン会をしてほしいと言っていたほどだから、もっといい展開になれたのだ。多くのマスコミ関係者も来場する場所で、絶好の宣伝になったものを……。

 それにクレッシェンドの表紙や、本につく帯にも未だ苛立ちを隠せないでいる。

 作者自身が描いた表紙を使えば、小説、扉絵、格闘技と、三つの話題になれたのだ。それを今田のくだらない意見一つ、「ピアノを弾く物語じゃないので」と、あっさり没にしやがって……。

 帯だって社長が「神威さん、誰を表紙に使いたいですか?」と聞いてきたのだ。俺は現大和プロレス社長である天才レスラーの武道剣を使いたいと言ったはずである。それさえも「神威さん自身が表紙になっているので、芸能人を使うと表紙がボケます」と言い出し、『生きた新宿を書く新星、神威龍一』と文字だけのつまらない帯を勝手に作ってしまった。

 あの無能な女のせいで、すべてが台無しになった気がする。

「フー……」

 ゆっくり深呼吸をして息を整えた。

 もうやめよう。

 マイナス的な事を考えると、イライラが募るばかりでキリがない。

 みんなの前で大々的言ったものを一応すべてちゃんとこなしてきたじゃないかよ。もっと自分を誇れ。そして今はゆっくり休めばいいんだ。

 目を閉じると、あっという間に睡魔へ引きずり込まれた。

 

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