冷たい夜風が頬を撫ぜる度、虚しさを感じる。まったく馬鹿な金の遣い方をしたもんだ。
元はといえば、社交辞令と感じたから患者の津田の寿司屋へ行ったのが始まり。ちょっと酒が入り陽気になると、すぐ歌舞伎町時代みたいに図に乗ってしまう。まるで成長していないなあ、俺は…。いや、そうでもないぞ。ワンタイムで切り上げて出てきているんだ。
「はあ……」
何だか情けなくなり歩きながら溜息をつく。せっかくこうして外へ出たのだ。他に社交辞令になっていた事ってないだろうか?
思い出した。『神威整体』を辞めるちょっと前、十二月末に、小、中学校時代の同級生だった藤木信行が顔を出してくれたっけ。
「久しぶり、神ヤン。誰だか分かる?」
そう言いながら突然整体へ入ってきた長髪の男。俺の事を神ヤンと呼ぶ人間は、小、中学時代の同級生だけだ。中学時代全員坊主頭だったので、少し顔を眺めてから口を開く。
「フジでしょ? 藤木信行」
「よく分かったねえ」
「フジこそ、よくここで俺がやってるって分かったね」
「だって『神威整体』って看板にあったから、絶対に神ヤンだなと思ってさ」
「俺以外にも神威はいるでしょ? まったくフジらしいな。でもさ、この有様を見れば分かると思うんだけど、今月で整体を辞めるから、後片付けしているところなんだ」
「そっか…、もうちょい早く来れば良かったよ。俺さ、この通りの先にある飲み屋ビルあるでしょ?」
「モスバーガーがあったところ?」
「そうそう、そこの二階の『スナック クロス』って店で働いているからさ、今度時間あったら飲みに来てよ。お袋がやっている店なんだけど、手伝ってんだ」
「分かった、今度顔を出しに行くよ。今日はごめんね」
あの時は整体の後片付けで、ちゃんと話せなかった。あれからもう二年以上経っているのだ。寿司職人津田に対してもそうだったが、俺はフジにも社交辞令を使っていた。
お触りパブなどで時間や金を遣ったんだ。せっかくだし、フジの店『クロス』へ寄ってみるか……。
俺はサンロードから左へ曲がり、本川越駅方面に向かう。
いきなりフジの店へ行ったら、きっとビックリするだろうな。駅の目の前の十字路の横断歩道を渡り、『神威整体』があった場所を通る。今ではチェーン店のたい焼き屋になっているが、こういった飲食店じゃないと借り手がなかったんだな。俺の時は絶対に飲食店は入れないと豪語しながら坪二万八千円ぐらいの高額な家賃を取りやがって……。
もう過去の過ぎ去った事だ。今さら思い出してイライラしても仕方ない。
社交辞令と気付き、そうしないよう動く。そうする事で、生まれる何かはある。津田のところへ行き、心につかえていた何かが溶け、楽になった自分がいた。きっとフジと会えば、またそういう感覚になれるさ。
今書いている『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』。自分が主人公の作品なんだから、これからはみんなが読んだ時「へえ~」って感心するように動いていかなきゃ、面白い物語にならない。
フジの働く店がある雑居ビルの階段を上がる。以前ここの二階にある『クダン』で知り合った百合子。あいつをここで口説き、辞めさせて以来になるのか……。
先日ハローワークの確定日で行った際、偶然見掛けた百合子。もの凄い確立だった。川越の職安へ給付金の手続きへ行く人間は、三十分単位で区切られる。設置してある椅子では足りないぐらいの人が集まり、百名ぐらいは常に並んでいた。月に一度の確定日、そして三十分刻み。そんな中での三年ぶりの再会。気付いたのは俺だけだったかもしれないが、嫌な場所で再会したものだなと感じた。
群馬の先生のところへ行く度、百合子とその娘たちの現状を聞かされていたが、何故あいつがこんな場所で失業保険をもらうような生活を送っているのか? その現実を目の当たりにした俺は正直ショックを覚えたし、先生がついていながら何でと思ったぐらいだ。
あと一週間ほどで、もう二月へ入る。久しく群馬の先生のところへ顔を出していないが、行ってみるか……。
俺は先生へメールを送り、いつぐらいなら予約が取れるか聞いてみた。こんな飲み屋ビルの階段で、俺は何をしているんだろうな。携帯電話を見つめながら、自然と口元が吊り上がる。
「ん?」
先生はすぐメールの返信をしてくれた。
『二月三日の午後三時半なら予約は空いています。 群馬の先生』
あと十日後ぐらいか…。特に予定はないが、もう少し先がいいなあと感じ、メールを打ってみる。
『もう少し先だと、いつが都合いいでしょうか? 神威龍一』
何故群馬へ行こうと思ったのか、その意味合いが自分でもよく分からなかったのだ。百合子の件で、何故あんな風になっているのか? その文句をひと言伝えたという気持ちもある。別に百合子とよりを戻したい訳じゃない。あいつとの一件で、俺は女性と付き合うという事に対し、未だ距離を置くようになっているのも事実だ。じゃあ、何故そんな事にこだわるのだろう? おそらく別れた相手とはいえ、職安で給付金をもらうような生活を俺が望んでいないからだ。先生は百合子に男ができたと言っていたが、娘共々幸せにいてほしいという想いは今だってある。俺は無理だったけど……。
『二月十日の午前十時か、午後三時半なら空いています。 群馬の先生』
俺は十日の三時半を選択し、メールを返信した。約二週間後、そのぐらい時間があれば、自分の気持ちや考えも整理して先生へ伝える事ができるだろう。
メールのやり取りを済ませると、フジのいる『クロス』へ向かった。その手前にある『クダン』の前を通り過ぎる時、百合子を口説く為昔よく通ったのを再び思い出した。もうここへ行く事はないけどな……。
『クロス』と書かれた看板のドアを開け中へ入ると、客の数は二名だけしかいない。スナックの女は、中国人の女と俺よりも年上の女が二人。入って右手にあるカウンターにいる年配の女性が多分フジのお袋さんだろう。ずいぶんと寂れた店だ。
「いらっしゃいませ~。お客さん、初めて?」
年上の女が笑顔で近づいてくる。フジの姿は見えない。
「初めてだけど、ここに自分の小学時代同級生だった信行君…、働いているって聞いたんですけど」
「ママー、ノブ君の同級生みたいよ」
奥からフジのお袋さんが出てきた。
「うちのノブ君と同級生なんだ? あの子、金土しかここにはいないのよ」
彼が整体に顔を出してから丸二年以上経つ。状況も少しは変わっているだろう。
「そうなんですか…。じゃあせっかく来たし、軽く飲んで行きます」
「そう、何だか気を使わせちゃって悪いわね。真理さん、テーブルへご案内して」
「はーい、こちらへどうぞ」
十畳ぐらいのスペースにボックス席が全部で五つ。左壁際の席には中年男の客が、いい感じで酔いながらカラオケを唄っている。歌詞を映し出すモニターは全部で三台。俺は右側中央の席へ通された。
「何を飲みます?」
「ウイスキーをストレートで、あとチェイサーも」
「ストレートって、氷も何もいれないやつですよね?」
「うん、そうだよ」
女が酒を取りに消えると、タバコに火をつけ店内をもう一度ゆっくり眺める。昔ながらの古いタイプのスナックという表現がピッタリの店だ。ここで働く女の時間給はだいたい千五百円ぐらいが相場。そしてこういうタイプの店で働く日本人女性の九十パーセントが、バツ一で、ほぼ子供がいる。過去口説いて抱いてきた女たち、それから得たリアルな情報だ。
中国人の女がカラオケを熱唱する客の隣に立ち、一緒にデュエットをしているが、スカート越しに尻の辺りをモゾモゾと触られていた。こういうセクハラ紛いの行為にも笑って我慢しなきゃならない仕事ってのも大変なものだ。
軽く飲んで、また明日の金曜にでも来るか。
真理と名乗る女がテーブルに着き、適当に世間話をしながら一時間ほどいると、数名の団体客が入ってきた。店の女が慌しく動いているのを見て、会計を済ませ出る事にした。
「何だか気を使わせちゃってごめんね」
店の外の通路へ出ると、真理が声を掛けてくる。
「いや、また来るよ。フジにも会わなきゃいけないし」
「あ、神威さん、ちょっと携帯貸して」
「ん、これ?」
「こうして…、こうでしょ……。はい、私の番号入れておいたから、ちゃんと登録しといてよね」
「ふーん、ずいぶんと積極的だな」
自然と真理の肩を抱き寄せ、ソフトなキスをしようとする。
「待って! まだ会ったばかりでしょ? 今日は駄目」
「その言い方だと、プライベートで会った時ならいいのかい?」
「……。馬鹿……」
頬を赤らめる真理に背を向け、高笑いをしながら階段へ向かう。俺の口説き癖も、ここまで来ると病気に近いかもな。
寿司屋、お触りパブと来て、スナック……。
ついでだ。久しぶりに長谷部さんへ電話をしてみよう。
「もしもし、龍一か、久しぶりだなあ。どうしたの?」
「何だかんだで一年ぐらい長谷部さんとも会っていないなあと思って、ふと電話してみたんですよ」
「ちょうど今、仕事終わって本川越駅に着いたところだよ。飯でも食うか」
久しぶりの再会。俺たちは二十四時間営業のファミリーレストランへ行き、近況を話し合った。俺の話題はどうしても、家の現状に対する話になってしまう。
五、六年前まで家の隣の『よしむ』で働いていた長谷部さんは、三村がどれだけ酷い女かをよく理解している。白蟻が家の屋台骨を食い尽くすような現状を聞き、気難しい顔になっていた。
「俺は商売柄色々な人間を見てきたけどさ、二人…、ああこの人には関わりたくないなって思った人間がいる。以前話したと思うけど、一人はおまえのお袋さん……」
俺が歌舞伎町時代に、『よしむ』のおばさんが寿司屋で偶然再会した件を思い出す。おばさんはお袋が家を出て行った以来だったので、二十年ぶりの再会だったと言う。それまではよくある話だが、そのあとが問題だったのだ。
俺が新宿から帰り、家まで歩いていると数年ぶりにお袋とバッタリ再会した。何故か久しぶりに見る我が子の顔を見て、睨みつけてくる。「あんた、あの『よしむ』の若いのに何て言ったのか知らないけどね……」と意味不明の事を語り出すお袋。何だ、この人はと冷めた目で見ている内、周囲に通行人が野次馬のように集まってきたので、お袋は「覚えてらっしゃい」と捨て台詞を吐きながら去っていった。
後日、長谷部さんにその状況を伝えると、おばさんと会ったあと『よしむ』へいきなり来たようだ。「おばさんは?」と尋ねるお袋に対し、家の事情を知る長谷部さんは居留守を使う。すると一週間の間に三回も店へ来たと言う。そんなお袋を見るに見かねて、長谷部さんは「龍一を始め、隣の家とはいい付き合いをさせてもらってます。なので、ここにはあまり来ないほうがいいと思うんですが」と言ってくれたのだ。
何度もその件について、長谷部さんは俺に謝ってきた。お袋の件を持ち出すと、俺が嫌な気分になってしまうんじゃないかと、『よしむ』のおばさんと相談し合ったと言う。そんな経緯もあり、長谷部さんはお袋へ苦手意識を持ったそうだ。
「あの件は一方的にお袋がおかしいだけで、長谷部さんやおばさんが気に掛ける問題じゃないですよ。逆にあの時ああ言ってくれて、俺は嬉しかったですしね」
「そう言ってもらえると、少しはこっちも楽になるような出来事だったしなあ。あとの一人はやっぱり三村さんなんだよ。近所周辺にあれだけ嫌われていた人も珍しいよな。当時『よしむ』に来ていた客、ほとんどがあの人来ると、みんな波が一気に引くように帰ってしまったし。誰も関わりになりたくなかったんだろうな」
長谷部さんは当時を思い出すように、しみじみと口を開いている。
「三村が来ると、みんな『Mが来た』って隠語を使って逃げたって有名な話じゃないですか。三村弥生で、六月。六月はマッチ。その頭文字でって」
「あんな人が、戸籍上とはいえ、おまえの母親になってしまったんだもんな……」
「まさかここまで酷い展開になるとは予測できませんでしたが、やっぱりあの女は、金と財産目的だけなんですよね」
「龍一の親父さんが気付かない以上、手の出しようもないしな…。でも、あの三村さんはきっといい死に方しねえぞ。あんな周囲の人を気にしないで自己都合だけで生きている人も、そうはいないもんな」
「長谷部さん…、俺、家をこんな状態で継ぐべきなんでしょうかね?」
ここ数日真面目にその事を考えていたが、あの親父と一緒に仕事をしていくという事に関しては想像もつかないでいる。
「うーん、向こうからまた言ってくるまで、様子を見といたほうがいいんじゃねえか?」
「…ですね……」
「そんな酷い状態になっているとはなあ…。龍一、力になれなくてすまないな……」
「何で謝るんですか。やめて下さいよ。まあ三村をリアルに知る長谷部さんに、現状を伝えておきたかっただけなんですから」
誰が聞いてもジレンマが溜まる嫌な話だろう。この世の中にあんな物の怪のような醜い生き物が生息し、おじいちゃんが必死に築いてきた家を貪り尽くそうとしている現実。
あの女が家に棲みついた時、やっぱり強引にヤクザ者に頼んで殺しておくべきだったなあ……。
再びパソコンの前に座り、ひたすらキーボードを叩く日々。小説を書いていてここまで楽しいなんて、いつ以来の感覚だろうか。
初めてパソコンへ触れた頃執筆した『新宿クレッシェンド』は、右の人差し指一本で、一生懸命キーボードの文字を探しながら書いた。今じゃ、画面を見たままの状態で両手の指を器用に動かす事ができる。これを巷で言うブラインドタッチと呼ぶのだろうが、自己流でここまで早く打てる奴も珍しいだろう。
何となくピアノを弾く感覚と、小説を書く感覚は似ている。
ピアノは音符が読めなかったから、指先で曲を暗記し、目で鍵盤の押さえる位置を把握し、奏でる音を耳でズレがないか確認した。
小説は何度も文字を叩いた指先でキーボードの位置を覚え、目でモニターを見ながらたまに指も見る。耳はあまり役に立っていないか。でも、少しピアノを弾く作業と似ているように思えた。
時間がもっとほしい。それが叶わないなら、時間が止まってほしい。
今こうしている自分の考えや感覚が真新しいものになるにつれて、『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』は距離が開く。過去を振り返り、文字に変えていく事は楽しい。だけど、早く今の自分の心境へ追いつきたい。時間がいくらあっても足りないぐらいだ。
長い長い時間を掛けて、俺は人生最大のマスターベーションをしているのだろう。
完成を目指している訳でもない。
賞へ応募する為に書いている訳でもない。
ただ、ひたすら書きたいから書いているだけ……。
今年の一月十日から書き始め、気付けば原稿用紙千枚以上になっている。まだ書きたい事の二十分の一も書けていないから、どれぐらいの長さになるのかさえ分からない。
長い応募枚数の賞だと、小松左京賞が三百五十枚から八百枚。ポプラ社小説大賞が二百枚から八百枚。きらら文学賞が三百枚から八百枚。角川の日本ホラー大賞が百二十一枚から千二百枚なので、どこにも応募先がないのだ。
まあ、そんな事はなっから気にもしないでやっているから、どうだっていいか。
この作品が、もしも完成しちゃったら、俺…、小説をまだ書くのかな? 多分、これが最終作品となるような気がした……。
ワードで四百字詰め原稿用紙に換算させる。さすがに処理が重くなっているな。果たしてこれで、四万枚以上なんて書けるのだろうか? いや、ギネス世界記録を意識するようなレベルでもあるまい。気にせず好きなように書けばいいさ。
ミクシィで偶然出会ったマイミクの詩織さん。彼女からいただいた貴重なアドバイス。
これまでの自分を振り返ると、本当に甘っちょろいなあって痛感させられた。自信あったはずの『忌み嫌われし子』でもあそこまで言われてしまう。まだまだ未熟である証拠だ。
そんな状態なのに運良く賞を獲ってしまうから、変にプライドだけが先行していた。そんな気がする……。
競馬に例えるなら、まるで調教を受けていない馬が、いきなりレースで走り出し、たまたま勝ってしまったようなものだ。
これまで書き終えてきた作品の枚数は、三百枚から五百枚前後のものが多く、勢いだけで執筆してきた。自分で長距離タイプだなんて思っていたけど、馬鹿だなと感じる。文学界という舞台へ立っていたつもりなのが、まるでそこへ立っていない状況だったと自分を大いに恥じた。
あそこまで丁重にアドバイスをくれた詩織さんには、感謝してもし切れない気持ちでいっぱいだ。もっともっと頑張らないと……。
思った内容を素直に記事として書いてみる。すると詩織さん以外に、『ロクス』という男性からコメントが書き込まれていた。
『二千十年一月二十二日。
はじめまして、ふらっと立ち寄らせていただきました。最近小説の応募を始めたのですが、八百八十四枚ってすごいですね。
まだ僕は五十枚ぐらいしか書いた事がありません。
枚数制限ですが、ジャンルの問題は別としてメフィスト賞は上限がなかったような気がします。応募する気がないそうなので、余計なお世話かもしれませんが。 ロクス』
ありがたいコメントだ。どうも俺は作品を書くだけで、他の賞へ応募しようという意欲が希薄である。しかし書くだけは早いので、現時点で千四百七十四枚という数を彼が確認したら、もっと驚くんじゃないか。
ロクスのページを見てみると、細かい地方の賞などまでチェックして、貪欲に応募していた。すごい努力家なんだと素直に感心する。こういう人が賞を獲るんだろうな。
書きたいから書くなんて気取っているが、賞を獲れるものなら獲りたい願望はある。ただ面倒な原稿用紙三枚程度のあらすじや、応募に必要な項目などを用意するのが嫌なのだ。鬼畜道なんて、プリンターで印刷するだけで、どれだけの枚数とインク代、そして時間を要するのだろう。
枚数制限なしのメフィスト賞か……。
理想は新聞や雑誌で連載をしながら収入を得るというのがいい。だけどこの現状でどうやってそんな風に持っていける? 少し調べてみるか、メフィスト賞ってやつを。
大手出版会社である講談社主催の『講談社ノベルズ原稿』へ応募して、その中からメフィスト賞が選ばれるようだ。
この賞が求めている作風は、ミステリー、ハードボイルド、ファンタジー、SF、伝奇など広義の意味でのエンターテインメント。パソコン、ワープロで作成し、一ページ目にタイトルと作者名を表記。A4サイズの用紙に、三十字四十行で縦書きで印刷したのもを送るのか。しかもページ数も入れ、右端をダブルクリップで綴じる?
おいおい、どうやって鬼畜道を綴じろっていうんだ……。
しかも、他社デビューの方は遠慮しろって? 『新宿クレッシェンド』を出した出版社のサイマリンガルは現在賞からも手を引いているし、俺の場合デビューなんて言わないんじゃないのか? まだ印税だってもらっていないのに…。あー、本当にあのクソ会社、俺の脚を引っ張るだけ引っ張りやがって……。
やっぱり面倒臭いから、今のままでいいや。ただ思うまま書き綴ろう。
別に自分じゃプロ作家だなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、そんな待遇すら受けていない。まあ処女作が本になったのは嬉しいが、一体あの馬鹿会社、どういうつもりなんだ。本当にいい迷惑だ。担当編集だったあのブス女は、偉そうにほざきながら辞めてしまったしな。
過ぎた話だ。今は過去を思い出しながら書けばいいや。そして『神威整体』編ぐらいまで来た時、あの頃のやるせなさを文章に打ち込めばいいんだ。すべて赤裸々に……。
そういえばあれ以来、三村の奴、家を継ぐ件を話してこないな。また何か企んでいるのか? 向こうから言ってくるまで、執筆に没頭していればいいか。
あの女の所業は、俺が文章で裁いてやる。
心の奥底にある憎悪や怒り、葛藤を人に話せば、それはただの愚痴に過ぎない。しかしそれらを文字に投影すれば、まるで違うものになる。『新宿クレッシェンド』を書いた時、それを肌で感じた。
トイレ以外、部屋から出ない日々が続く。食事はあらかじめ買っておいたクラッカーのみ。食欲がない訳じゃないが、この勢いを止めたくなかったのだ。できれば小便さえ、垂れながらしながら書き綴りたい気分である。
視界がボーっとして、その場で真後ろへ倒れる。目を閉じると、あっという間に睡魔へ引きずり込まれた。
目を覚まし、すぐ時間を確認する。三時間も寝てしまったのか。再びパソコンの前に座り、物語の続きを始めた。この間外へ出た以来、風呂にも入っていないなあ……。まあいいや。風呂へ入らなくても、人間は死なない。巣鴨留置所時代は、風呂なんて五日に一度だったしね。
パソコンのアドレスへメールが届く。友人のゴッホからだった。
『神威、携帯電話止まってるよ? ゴッホ』
料金を払う事さえ忘れていたのか……。
しばらく携帯電話を眺めるが、今メールや電話が掛かってきても返信が面倒なだけである。どうせコンビニなんて徒歩二、三分の距離にあるんだし、しばらく放っておこう。
寝る時間は自分の限界が来た時。それ以外はパソコンの前でひたすら執筆のみ。
一月二十五日で、とうとう原稿用紙二千枚突破。
腹が鳴った。いい加減クラッカーだけじゃ、マズいな。たまには胃袋にマシなものを入れておこう……。
万が一数日間に渡って栄養を取らないせいで倒れ、執筆が遅れるケースはだけは避けたい。腹が減ったら、すぐ目の前に食べ物があるというのが理想だ。
ついでに、そろそろ風呂にも入っておこう。熱い湯に浸かり、体をよく洗う。鏡を見ながら丁重に髭を剃った。
久しぶりに部屋をトイレ以外の用で出て、階段を降りる。ずっと座った体勢のままだったせいか、足元が妙にフラつく。外に出て、携帯電話の料金も払っておくか。
何で俺はあんなに集中して作品を書いている? それを幸せだなと感じられるからか? ちょっと違うな。今これを書かなきゃ、あとで後悔するのを本能的に理解しているからこそ、こうやって書き続ける事ができるのだ。多分、こうやって自分を吐き出す作業が必要なんだろう。
現在過去最大枚数更新中。あの分厚い『バトルロワイヤル』ぐらいは枚数で超えたかな。どっちにしても、まだまだ物語は続くし、そんな事どうだっていいか。長けりゃいいってもんじゃないだろうけどね。
まあ色々なものを排除したおかげで、魂だけは作品に乗せる事ができた。いや、まだ途中なんだから、できているか。
台所で料理をしながら、不思議と一月って時期は執筆意欲がはかどるなと感じる。
まず二千四年に始めた『新宿クレッシェンド』が一月スタート。
二千七年の『神威整体』時代は第三弾『新宿プレリュード』。
去年の二千九年の一月も第四弾『新宿フォルテッシモ』を書いた。あの時は集中し過ぎてドソアを一週間も無断欠勤したっけなあ。上司の田山が逆に心配して「神威さん、会社を辞めてしまうんですか?」と聞いてきた時は、内心吹き出しそうになったものだ。一日単位の無断欠勤は許されない罪でも、一週間となると勝手に会社側は心配する。一部上場企業でそんな無茶をしたら、どういう処遇が待っているのか実験してみたという意味合いもあった。
図に乗って翌月の二月中旬から始めた第五弾の『新宿セレナーデ』をやった四日間の無断欠勤は、さすがにいい訳が大変だった。体調が悪いという嘘を理由にしてみたが、あれで俺の信用はほとんどゼロに等しいものとなった。作品を完成できたから良かったけど。
あの時はしばらく執筆を休もうと思っていたはずなのに、我慢できずに初めてしまったのだ。何故小説を書き始めたのか? その初心である熱い想いを勢いある内に書きたかったからである。賞を獲るとか、本にするとか、そういった事すらどうでもよくて、根底に眠っていた想いを書き綴った作品。これまではずっとセレナーデが自分にとってベストの作品だと実感があった。
しかし、それすら勘違いだった事に気付く。今『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』を書き始めてしまったから……。
思う、考えるだけでなく、実際にやり始めてしまったからこそ分かる。
パスタの麺を茹で、フライパンにバターを入れる。細かく刻んだニンニクを炒め、ベーコン、タマネギを飴色になるまで炒め、少量の湯で溶かしたコンソメを投入する。湯をきった麺を入れ、塩コショウ、ケチャップで味付けをして『エキゾチックナポリタン』を作り終える。他にも豚肉の生姜焼きや唐揚げを作り、弁当としても作り置きしておく。
居間から廊下に出ると、店の受付に見慣れない女性の姿が見える。誰だろう? すぐそばで三村が仕事を教えていた。自分の代わりになる新しい従業員を入れたのか。どうりで最近俺に家を継げと言わなくなった訳だ。
しかし三村は抜け、中曽根も抜ける。そして伊橋さんはクビ。そんな状況下で、一人女性従業員を入れて、どうにかなると思っているのだろうか?
まだ継ぐと決めた俺が気にする事ではないか。部屋に戻り、執筆を開始しようとすると、携帯電話が鳴る。
「もしもし、あ、龍ちゃん。やっと繋がった」
「伊橋さん、どうしたんですか?」
「いや、あんたにお昼でもご馳走しようかなと思ってさ。ちょっと龍ちゃんに話したい事もあったしね」
「先日ご馳走になったばかりだし、今日は俺が出しますよ」
「今、あなたはお金なんてないでしょ。そんな無理しないでいいよ」
「いいえ、今日ぐらい俺が出しますよ。どこかリクエストありますか?」
「龍ちゃんなら、いっぱいお店知っているでしょ。任せるわ」
「じゃあ、すぐ車で迎えに行きますよ」
ちょうど風呂も入ってさっぱりしたところだし、いい気分転換になるだろう。待てよ…、部屋に籠もり不健康な日々を送っているが、こうやってうまい具合に誘いがある現実。そういった流れに乗る形で、外へ出る必然性。
時流の流れに沿って行くというのは、こういう事なのかもしれないな。
あまり根を詰め過ぎず、流れに沿って動く。そう、自然体でいれば、何かしらが生まれるかも……。
先日飯田と話した内容で、カーニバルブッフェかピザハットのレストランが話題に出たが、どちらかを行ってみよう。できる事から一つずつやっていく。そうシンプルに生きてこそ、いい方向へ行ける気がする。
家から徒歩一分の場所なので、車ですぐ伊橋さんの住むマンションへ到着する。伊橋さんを乗せ、川越街道を真っ直ぐ走り、富士見市のエリアに入るとピザハットのレストランが見えてきた。
ピザ、パスタ共に十数種類の中から注文し、ブッフェ形式で並ぶ料理は豊富な種類が並ぶ。サラダだけで十数皿あり、肉や魚、野菜料理の他に、カレーやうどん、そしてドリンクバーまでついていた。これでランチ時の値段は一人千五百円。下手にデリバリーでピザを頼むぐらいなら、ここへ来たほうが断然お得感がある。
メニューからピザを注文し、好きな料理を取りに行く。テーブルの上に乗せきれないぐらいの料理を並べ、片っ端から食べ始めた。
「今日ね、三村さんが私のマンションまで来たんだよ。一月分の給料を渡しにって」
「全額もらえましたか?」
「一月分はね」
「不当解雇の分はどうなってます? あと会社都合の離職届けは?」
「それはあとで中曽根さんが事務手続きをするって言ってたよ」
「本来、離職届けって最後の給料が出てからすぐ出すものなんですね。自分から辞めた場合ならともかく、親父が言い出した事なんで。離職届けを受け取り、職安へ持っていって受理して初めて、失業保険の対象になるんです。出してから何日分という形で金をもらえるので、初回だけはどうしても日数足りないから、もらえる金額が少ないですけどね。二回目からは普通にもらえます」
「う~ん、あの人、三村さんは明後日にはもう長野へ帰るとか言っていたよ。面倒な事は中曽根さんに全部押し付けるつもりでしょ? 私も妹が同席してあの人の相手をしたけど、本当にとんでもない人だよね。今まで神威家で私はどうやって虐げられてきたか。それをずっと延々と喋って帰ったんだ」
「虐げるも何も、元から歓迎されない場所へ強引に入り、メチャクチャにして金を持ち出したのは全部あいつじゃないですか」
「私もあの人が帰ったあと、妹と一緒に話してさ。よく都合いいようにああまで自分を正当化できるもんだよねって呆れちゃってさ。それでね、、私に会長…、あなたのおじいちゃんね。会長と私が結婚するのかどうかを執拗に問い詰めてきたの」
以前家で昼食時、冗談で話していた伊橋さんの会話。おばあちゃんに先立たれ、独身のおじいちゃんの年金がもったいないから、籍だけ入れておこうかという笑い話を何故あの女はそんなに気にするのだろう? 俺にもその事を数日前聞いていたけど。
「本当あの女って馬鹿と言うか、金や財産目当てなだけなんですね。もし、おじいちゃんが亡くなったとしても、三村になんて遺産相続する訳ないのに」
「龍也ちゃんのところでも、わざわざそれを確かめに行ったらしいのよ。本当にがめついと言うか……」
「俺だってあの時笑いながら聞いていたし、冗談話ぐらいは分かりますよ。馬鹿ですね、あいつは…。まあ、事情は何にせよ、俺は三村が家からいなくなるという点についてだけは、せいせいしていますよ」
会話の最中、向かい側の席に制服を着た女子高生三人組が座る。顔はとてもブサイクだったが座る際、大きく足を開いたのでパンティが見えそうになった。あんなブサイクなパンツを見ようと、つい視線で追ってしまうのは男の悲しい性だな……。
「あんな性格の人だったなんて、本当に信じられなかったわ」
「だから言ったじゃないですか。家には入らないほうがいいですよって」
「あそこまで酷いなんて、外からじゃ誰も分からないよ」
理不尽にクビとなった伊橋さんの件で動くとすれば、まずは離職届けを会社都合にさせる事と、不当解雇の保証金についてだな。
食事を済ませ、車へ乗り込む。帰り道を運転していると、伊橋さんが話し掛けてきた。
「龍ちゃんさ、私、たまに考えるんだ…。こんな状況になって初めて人間の心が分かるんだって」
「龍也や龍彦からは連絡は?」
「全然ない……」
そう寂しそうに伊橋さんは呟いた。
「ひと言連絡ぐらいあってもいいもんですよね。俺だけじゃなく、うちら三兄弟、みんな伊橋さんの世話になっているし」
「龍彦ちゃんが、『神威クリーニング』を辞めてレストランへ行くんで家を出る時ね、私、頑張れって祝い金を包んだら、『こんな事してくれたの、伊橋さんだけっすよ』ってすごい喜んでくれてね…。あ、これ龍彦ちゃんに言わないでよ?」
俺も龍彦が脇の下を怪我し家で引き籠もっていた頃、毎日のように小遣いをあげていた時期があった。歌舞伎町で稼いでいた俺だが、弟が鬱病のように引き籠もっているのを何とかしたかったのだ。金を受け取りはしたが、まるで感謝を覚えない龍彦。「兄貴は金だけは持っているからな。金を遣い方を分かっていない」と方々で言い触らし、俺は自分のした事が馬鹿らしくなって金を上げるのをやめた経緯がある。それの件で文句を言うと、「兄貴はすぐにそうやって見返りを求める」と言っていたが、何の見返りなのだろうか? 金は受け取るけど、感謝もせず言いたい放題。それのどこに正論などあるのか。
伊橋さんの件にしても、今あいつは家の敷地内でレストランを始めているのだから、せめて「金などいらないから食べにおいでよ」と、連絡をするぐらいの器量もないのだろうか? 龍彦はそういうどこか冷めたところがある。
「そんなトラブルの原因になりそうな事なんて、わざわざ言いませんよ。龍彦だけじゃなく、龍也が車屋を始めた時も、俺が整体を始めた時も、伊橋さんは生活を切り詰めても、祝ってくれたじゃないですか」
「だってあなたたちの事は息子みたいに思っているから、お祝いするのは当たり前の事でしょ」
「だから困った時はお互い様なんじゃないですか」
「でもね…、龍ちゃんがもし、今みたいに失業保険なんてもらっていなくて、外へ働きに出ていたら、こうやって連絡とかくれたのかなと、頭が混乱しているからつまらない事を考えちゃったりしてね……」
「まあ外へ働きに出ていたら、忙しいからこうやってゆっくり飯を食う時間なんて作れないかもしれないですよ? でも、伊橋さんがそういう目に遭ったのを聞いたら、電話の一本ぐらいすぐ掛けますよ。当たり前じゃないですか。ずっと家で頑張ってくれた功労者なんですよ? それにもしと言いましたが、最近小説をずっと書いていて、何となくだけど感じた事があるんです」
「どんな?」
「時流の流れに沿う…。俺、できればひたすらパソコンの前で小説を書いていたんですね。でも、そんな生活ばかりしていたら、体だってほとんど動かさないし、不健康です。でも、今日みたいに伊橋さんから連絡あって食事行ったり、友達から電話あって遊びに行ったり、うまい具合に外へ出るようバランスって取れているんだなと。それも俺が頑なに誘いを断らず、流れに沿っていくからこその現状なんです。だから物事に逆らわず、自然体で受け入れる。そうした流れに身を任せるって、結構大事な事なのかなと最近思うんですよ」
「なるほどねえ……」
「伊橋さんも逆転の発想で考えれば、この三年間ずっと働き詰めだったじゃないですか。少なくても半年間は、国から金が出るから自由な時間を満喫できるんですよ? これから職がって変に焦って行動するよりも、デーンと構えているぐらいのほうがきっといい結果になりますよ」
「そうだといいんだけど、私も龍ちゃんのお父さんと同じ年で、もう六十二歳なんだよ。こんな状態で老後はどうなっちゃうのかなって不安はやっぱりあるよ」
「まあいつになるか約束はできませんが、いずれ俺の作品がまた世に出る機会あると思うんですよ。そうすれば今度は金が色々入るでしょうから、その時は何か店でも経営して、そんな老後の心配なんてなくなってますよ。だから俺の作品が世に出るよう祈っといて下さい」
「ほんとそうなったら楽しみだね~」
「でしょ? 俺の作品は読む人を元気にさせる…、ん、ちょっと違うか……。馬鹿を気付かせる作品なんですよ。今、気合い入れて書いていますから、『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』という作品を」
「頑張ってね!」
「任せといて下さい。俺は処女作で賞を獲り、本にした男ですよ」
また一つ、これで俺は人の想いを背負った事になる。必ずやり遂げなきゃ。
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