2025/01/17 fry
前回の章
天下鶏で酒を飲む休み。
俺は店の子たちにも酒を振る舞うから、若い子たちが「智さーん」と寄ってきてくれる。
これはこれで楽しいもんだ。
休みの日は問題ないが、出勤前に酒を飲む行為は危険な場合もある。
俺は去年の誕生日を過ぎた頃を思い出していた。
確か当時ミクシィでその記事書いていたっけな……。
携帯電話で、その記事を見つける。
二千十一年九月二十二日。
台風のせいで電車が中々出ず、待ちぼうけを食らう。
本川越駅前のロータリーは凄い量の水が溜まっている。
大丈夫なのか、川越……。
何度駅に行き、電車が出るようになったか確認したか。
基本的に夕方六時半の電車に乗る俺は、三十分置きに行く。
その度靴の中は水溜まりでグショグショになり、知り合いの店天下鶏で時間を潰した。
店へ連絡して電車が動かないから、出勤しようがないと伝える。
ようやく夜の十一時過ぎに電車へ乗り込む。
いい感じで酔い、足元の暖かい空気が心地良い。
気付けば俺は眠ってしまった。
目を覚ますと辺りは真っ暗。
駅員が必死に俺を起こしている。
「え…、どこ、ここは?」
真っ暗な駅構内の駅名を確認した。
何故西武新宿駅ではなく拝島駅に?
拝島って福生市じゃんよ~!
駅前にはコンビニ以外、何もない……。
駅で漫画喫茶はないか聞くと、昭島まで行かないとないらしい……。
位置を聞くと、線路沿い隣の駅だと言う。
タクシーなど一台も通らない辺鄙な場所。
暗い夜道を一人寂しく歩き続け、昭島駅近くの漫画喫茶をやっと発見。
まるで砂漠の中で干からびようとして最中、オアシスを発見したような感激。
…で、ようやくこの日記を書いている次第であります。
この時は本当に参った。
俺が遅れた電車に乗り、爆睡してしまい、おそらく何度か西武新宿線を行き来したのだろう。
だから一度は西武新宿駅に到着したのに起きず、拝島行きの電車へそのまま乗ったまま着いて起こされた。
あれ以来、出勤前の酒は要注意と思ったのだ。
あの日朝の始発まで昭島の漫画喫茶から動けず、六時前にようやく『牙狼GARO』へ到着した。
猪狩から責められたが、台風の影響で電車が出なかったと誤魔化す。
結局その日は二千円しか、日払いをもらえなかったのだ。
自分が悪いのは百も承知だが、あんな苦労してまで新宿へ辿り着いてたった二千円なら、素直に行けないから休みにしておけば良かったと今でも後悔している。
いい感じで酔ってきた。
俺は会計を済ませ、天下鶏をあとにする。
家に着き、布団に横たわる。
いつまで経っても、俺は馬鹿なままだなあ……。
この日はグッスリと眠れた。
太客高橋南が再度来店した。
「これ、お願いします!」
そう言って帯付き、百万円を出してくる。
「はい、四卓様マイクロ一万ドル。四卓様マイクロ一万ドルお願いします」
千円、二千円しか勝負しない乞食客はギョッとして高橋南を凝視した。
「南さん、お飲み物はどうしますか?」
「バナナジュース下さい。アイスココア下さい。コーラ下さい。烏龍茶下さい」
おいおい、そんな一気に飲んじゃ身体に毒だぜ、セニョリータ……。
内心そう思いつつ俺は注文を飛ばす。
また負けたらきっと号泣するのだろうな……。
どこからこんな大金を持ってこれるのか、本当に不思議だ。
ドリンクを並べながら出すと、凄い勢いで次々と飲み干していく。
「南さん、何かお持ちしますか?」
「えーと…、アクエリアス下さい。冷たいお茶下さい。リアルゴールド下さい。アイスコーヒーブラック下さい」
「はい、畏まりました」
ふた席隣で群がる乞食ホスト集団が、釣られて注文をしてくる。
「ホットサンドとフランクフルト」
「あ、俺も同じの」
「俺はカルボナーラとツナサンド」
ひと席に千円INのホスト一名に、ただの見学二名。
同じ空間でこうも両極端なのが、インカジの特徴でもある。
インターホンが鳴った。
ガジリ屋ヤスが登場。
初回IN千円を入れてブルーフラミンゴのポーカーを始める。
また勝手に音量をマックスにして、周囲にアピールするかのように打ち出す。
賭け金は毎回五十円。
普段なら放って置くが、今は違う。
隣で高橋南が百万円の大勝負をしている最中なのだ。
俺は三卓まで行き「ヤスさん、悪いけどボリューム落としてもらえないかな」と注意した。
「え、それは客の自由じゃないですか?」
「他の客の遊戯の迷惑な音量だから言っているんです」
「だってクレームが入った訳じゃないんですよね?」
このクソガジリめ、本当に理屈だけは捏ねてくる。
もう少し強く注意しようとすると、隣の南がまた帯付きの百万円の束を出してきた。
「お願いします!」
「はい、四卓様マイクロ一万ドル。四卓様マイクロ一万ドルお願いします」
横で二百万円の勝負をしているのに、ヤスは相変わらず大音量で五十円勝負をしている。
「ヤスさん…、悪いけど、音を小さくできないなら帰ってもらいますよ?」
「え、自分客っすよ?」
「ちょっとこちらへ来てもらえますか?」
ヤスを引っ張って店の外へ連れて行く。
「いい? 隣で二百万円の勝負をしているのね、あの女性客は」
「え!」
「だからヤスさんが大音量でやりたいって気持ちはあるんだろうけど、本当に勝負の迷惑になっているんですね? その辺は察してもらわないと」
「でも…、自分だって客なんだから……」
「ヤスさん! IN千円ですよね? 隣は二百万円入れているんですよ! 俺が今こうして外へ連れてきてわざわざ言っている意味…、本当に分からないんですか?」
「す、すみません…、岩上さん……」
「分かってくれればいいです。じゃあ戻りましょうか?」
俺はインターホンを押して、ドアを開けてもらった。
店内へ戻ると大声が聞こえる。
猪狩に様子を聞くと、俺がヤスを説得している間、高橋南は二百万の金をマイクロで溶かし大泣きが始まったようだ。
これほどまで感情を剝き出しにしてギャンブルをやる人間を初めて見たような気がした。
財布の中には、もう金など一円も残っていないのだろう。
それほど鬼気迫るものが、彼女には感じられた。
泣いている横で、乞食ホスト三人組が指をさしながら笑っている。
俺は近くまで行き「少しは静かにしてろ、小僧共」と低い声で脅した。
「ちょっとー、俺たち客だよ?」
「うるせー、この乞食共が! 飯食ったらとっとと帰れよ」
「……」
俺が睨み付けるとホストは黙り、そのまま立って帰っていく。
猪狩が近付いて「ちょっといいですか、岩上さん」と肩を掴んできたので、手で払う。
厨房のほうまで連れて行き、耳元で「少しは空気ぐらい読んでやれよ」と脅す。
高橋南がのそっと立ち上がるのが見えた。
頭を項垂れたまま、ゆっくり歩き出す。
俺は用意してあった本を片手に入口まで見送る。
「大丈夫ですか、南さん……」
エレベーターを待つ間、傍で一緒に待つ事にした。
ゆっくり振り向き、ボソッと呟く。
「私が勝負に負けただけなんで……」
生も根も尽きた表情。
一冊の本を目の前に差しだした。
「良かったらこれ…、本を読みませんか?」
「私、本なんて読みません!」
俺は本を開き、著者紹介の写真を見せながら口を開く。
「これでも貰って頂けませんか?」
俺の処女作『新宿クレッシェンド』。
少し怒った表情の南は、本の写真と俺の顔を交互に何度も見比べて驚きの表情へ切り替わる。
「え…、これってひょっとして……」
人間の感情の起伏は、驚きから始まる。
その驚きから喜びへ…、または怒りへと切り替わるもの。
「ええ、一応私が執筆した著作になります」
一気に笑みを浮かべる彼女。
悲しみから驚きへ。
驚きから喜びに。
「もらう! 絶対にもらう!」
エレベーターが到着した。
「岩上君、今度もまたここに打ちに来るからねー」
南はドアが閉まるまで腕をブンブン振っていた。
この時ハッキリと自覚できた。
俺は、こういう風にしたかったからこそ、またこの街へ戻ってきたのだと……。
インターネットカジノ『餓狼GARO』は今日も忙しい。
相変わらずのゆのゆの、池田由香、佐藤あみの三人組。
双子ののりさとゆか。
パンチ。
女性客だけで六名もいる。
さらにガジリ屋ヤス、加藤明、松本次郎、ホストクラブ『愛本店』の湊。
総勢十名。
二卓でブルーフラミンゴのポーカーをやっていた松本次郎は、マウスを放り投げて入口へ向かう。
慌ててドアを開け、エレベーターのボタンを押す。
「ほんと出ねえ店だなっ!」
癇癪を起したようにエレベーターへ乗り込む次郎。
負けは負けなので、丁重に頭を下げて見送る。
感情的になると、次郎は途端に態度が急変する客だ。
負けたといっても二万円なんだけどな……。
しかし負けた客には丁重に、勝った客には共に喜んで気分良く見送るのも、インカジの仕事内である。
どの店も内容はそう大差はない。
接客の対応一つでまたこの店へとなってくれるなら、いくらでも俺は尻尾を振ろう。
キャッチが新たな新規客を連れてきた。
真庭誠司、年は俺よりも一回り上だろうか。
彼は初回INで三十万円を入れて、食事を新メニューの鳥の味噌焼きプレートを注文した。
「谷田川、味噌ダレは作ってあるから鳥の味噌焼きプレートお願いね」
「はい、任せて下さい」
数分して谷田川がまずパンチセットを作り終える。
「はい、前田。これを四卓さんへ」
「はい!」
パンチが舌なめずりしながら炒飯と焼きそばを掻き込む。
本当に髪型同様、品のないおばちゃんだ。
「鳥の味噌焼きできました」
俺が五卓へ持っていく。
真庭誠司はバカラをしながら食事を取る。
一口食べて、突然立ち上がった。
坊主頭に大柄な体格なので、近くにいた双子は驚いている。
「どうかされましたか?」
ひょっとして谷田川が作り方失敗したのか……。
内心冷や冷やしながら声を掛けた。
「この料理…、誰が作ったんですか?」
「あ…、お口に合いませんでしたか…。大変申し訳……」
「いえいえ、違いますって! これ、作った人呼んでもらっていいですか?」
「はあ……」
怒っている訳ではなさそうだ。
俺は厨房にいた谷田川を呼んでくる。
「彼がこの料理を作りましたが……」
「いえ…、実は私、都内で数軒のバーを経営している者でして。今日はここへちょっと遊びに来たんですが、この味噌味のタレ…、ずっとこの味を出せと部下たちに言ってきたんですね。もしよろしければ、このタレのレシピを教えて頂きたいのですが……」
「あ、あの…、その素のタレを作ったというなら、こちらの岩上さんが……」
口下手な谷田川が、俺の方へ手をかざす。
真庭は深々と何度も頭を下げながら、俺にレシピを聞いてきた。
「真庭さん、頭をお上げ下さい。レシピなんて全然大丈夫ですよ。教えますし…、あ、そうか…。クックパッドって知っていますか?」
「はい…、それが何か?」
俺は自分のプライベート用の名刺を渡し、名前をフルネームで教えると「多分ネットで私の名前を検索すると、クックパッドでも出てくると思うんですね。そこへこの味噌ダレのレシピ載せておきます。それでよろしいでしょうか?」
三十万円も負けたというのに、真庭は何度もペコペコしながら帰っていった。
翌日の夜になって出勤すると、早番の責任者である山本が俺に声を掛けてくる。
「岩上さん、岩上さん! 真庭さんってご存じですか?」
「真庭…、真庭……。あー、昨日来た新規の人ですね?」
「それが昼間うちに見えて、岩上さんはと聞いてくるんですよ」
「ええ、それで?」
「夜の時間の出勤ですと答えると、七十万円うちで使ってくれて」
「え? 昨日の倍以上じゃないですか」
「帰り際に『岩上さんへお伝え下さい。昨日のお礼代わりです』と言っていました」
「……」
猛烈に嬉しい。
しかしあくまでそれは店への売上に過ぎない。
真庭さんは気を使って七十万使ってくれたのだろうが、俺の懐には一円すら入ってこないのだ。
ああ無情……。
これってこんな時に使っても正しい言葉だったよな。
業務中、番頭の根間に外へ呼ばれた。
随分経つが、俺が店を継続するかの確認を今さら確認でもしようというのだろうか?
店を出てエレベーターへ乗る。
外へ出ると、根間が立っていた。
「どうも根間さん、どうしましたか?」
「いえ、岩上さんにね。ちょっとお願いしたい事がありまして」
とうとうボンクラ猪狩をクビにするから、俺に店長になれとかって話かも?
「何でしょうか?」
「歩きながら話しましょう」
根間はビルを背に右方向へ向かう。
少しして十字路に差し掛かる。
この角の地下一階にはインターネットカジノ『ポン』がある。
前にうちで揉めて猪狩の顔をビンタした桜田が番頭をやっている店だ。
「ここの『ポン』の看板あるじゃないですか」
「ええ」
「この系列って一番街通りやさくら通りにもあり、今の歌舞伎町で一番情報を持っているところなんですよ」
「一番街って『トンカツにいむら』の隣のところとかですか? あの海老通りを過ぎた先の」
「ああ、そうですそうです。それでですね、たまにでいいんですが、岩上さんそういった他のインカジの店の看板…、これをチェックするようにしてもらいたいんですよ」
「つまり…、看板を表に出しているかどうかという事ですね?」
「はい。うちって警察関連の情報が本当に弱いんですよね。それでこの系列の看板が閉まってある時って、警戒しないといけないんですよ」
「……」
他の店の看板を見て、警察に備える。
そんな方法で本当に大丈夫なのか……。
一抹の不安を覚えた。
まあ頼まれた以上、これも仕事の内だ。
「そこまで神経質にやらなくてもいいんですが、岩上さんも適度にその辺をお願いしますね」
「了解しました」
どちらにしても歌舞伎町内のどこ辺りに、他のインカジがあるかというのを把握しておくのは悪い事ではないだろう。
わざわざ外に呼び出すから、猪狩と店長交代かと思った。
しばらくはまだあのボンクラ猪狩が店長で『餓狼GARO』をやっていかなければならない。
部屋に帰り、ミクシィで記事を書いてみた。
最後の新宿
二千十二年一月三十日。
色々な経緯あって、本日出勤して今の店は最後になる。
従業員からは惜しまれたってのが、俺にとっての勲章だ。
そしてこれまでの経験が、作家としての俺の肥やしになる。
さて、明日はどこぞの風が吹くやら。
自我を通すという事は、己の人生において様々な犠牲が付きまとう。
だが、義侠という一本筋の入った自我なら、代わりに他の者たちの心を知る事ができる。
はたから見れば、無駄で馬鹿な生き方かもしれない。
でも、だからこそハッキリ言える。
俺はそんな自分が好きだと。
すべての事柄に対し、すべての信頼を得る事は不可能である。
賛否両論があって初めて、それは一つの形になる。
明日からまた新しい人生が始まる。
ならば、これまでのすべてに感謝をしよう。
人の痛みをいつまでも忘れない自分でいたい。
そしていつかこれらの事柄は、活きた一つの作品として我が分身となる。
もちろん不満点など腐るほどある。
納得いかない部分なんていっぱいだ。
でも、だからこそ言える。
ありがとう。
真っ当な人生など元から歩もうと思っていない。
人並みの幸せなど、俺には分不相応だ。
そこだけは自覚している。
俺もすでに四十。
年を取った。
でも、俺の芯は変わらない。
俺であり続ける為にも。
この日、俺は自分自身が居たたまれなくなり、こんな記事を書いた。
現在の俺の精一杯の強がり。
読んだ人々は、クエスチョンマークだろう。
裏稼業という性質上、赤裸々にすべてを書ける訳ではない。
まあどちらにせよインターネットカジノ『餓狼GARO』での生活は、終わりを告げたのだ。
携帯電話が鳴る。
元従業員である渡辺から。
「もしもし、どうしたの?」
「岩上さん! 自分は納得いかないです」
普段大人しい彼が声を張り上げている。
「しょうがないよ。上の決定だ」
「岩上さんをね…、自分、あまり人の事に口を挟まない性格なんですけど、ちょっと今回の事はさすがに納得できなくて……」
「ありがとう…。その気持ちだけで充分だよ」
「いえ、明日にでも猪狩さんへ文句言います」
「馬鹿野郎。おまえはまだ働いていくんだぞ? 余計な真似はやめとけよ」
「納得いかないんですよ! 岩上さんがいたから、あの店は持っていたんです。それを何ですか、あの猪狩さんの対応は…。あんまりだし、こんな酷い店初めてです!」
「……」
ここ数日での店での動き。
これまでにないような酷い流れだった。
俺は数日前を思い出す。
ぎーたかへ、あの時リングへ上がると宣言した俺。
何をするわけでもなく、ただ悪戯に時間が過ぎていくだけの無駄な休日が終わる。
いつからだろう、こんな面倒臭がり屋になったのは……。
確かに日々のプライベート時間は、八、九時間しかない。
その中で睡眠も取らなければならないので、必然的にトレーニングする時間は割かれる。
違う…、そんなんじゃない。
俺が…、年を取り、できない事への言い訳を常に考えているだけなのだろう。
昔は違った。
今以上忙しくても、一日の睡眠時間を一、二時間にし、日々トレーニングに明け暮れていたじゃないか。
いい加減自覚しろって。
今の俺は腑抜けになってしまっているのだと……。
やるせない気分のまま駅へ向かい、新宿歌舞伎町へ向かう。
歌舞伎町へ到着すると、底冷えする風を振り払うように真っ直ぐ店へ歩く。
ビルのエレベータに乗り、最上階まで。
すぐ目の前のインターホンを鳴らす。
「ん?」
ちょっとした違和感を覚えた。
いつもなら、ものの数秒で鍵が開き、開くドア。
それがもう一分以上経っている。
ガチャ……。
そんな事を思っていると、ドアがゆっくり開く。
隙間から従業員の川上の顔が見えた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
川上の顔には明らかな疲労があった。
珍しく店内には十名の客がいる。
入ってきた俺の姿を見て「岩上さ~ん」と手を振ってくる女性客もいた。
「あ、いらっしゃいませ」
俺は営業スマイルを作りながら、キャッシャーへ向かう。
キャッシャーには早番の責任者の山本が座っているが、どうも疲れた表情をしている。
もう一人の従業員の姿は見えなかった。
「お疲れ様です、山本さん」
「お疲れ様です……」
「あれ? もう一人ってどこ行ったんですか?」
「いや…、それが辞めてしまいました……」
「はあ? 今日ってどっちが出勤でしたっけ?」
「鐘ヶ江さんです」
「何で辞めたの?」
「う~ん、いや、自分も引き止めたんですけどね……」
「…って事は、この状況を早番二人だけでやってたって事ですか?」
「はあ……」
なるほど、だから疲れが顔に出ていたのか。
それにしても鐘ヶ江の奴、何だって突然辞めるような真似を……。
黒のロングコートとジャケットを袖を通したまま一緒に脱ぎ、ハンガーに掛ける。
近くで川上が立っていたので、小声で聞いてみる事にした。
「鐘ヶ江辞めたって、どうしたの?」
「いえ…、朝はちゃんと来たんですが、すぐ帰ってしまって……」
「何で?」
「『ボヤッキー』の吉田さんが昨日なんですけど、突然店に来て、キャッシャーに座ったんですね」
「吉田君が? 何で?」
まるで展開が読めない状況に、俺は質問ばかりである。
うちの店は、系列で『ボヤッキー』という同じインターネットカジノの店があった。
そこの店長が吉田という二十代後半の男である。
俺もこの店のオープン一ヶ月前に、『ボヤッキー』で働いた時期が一ヶ月ほどあったので、この吉田という男をよく知っていた。
ひと言で表現すれば、仕事の判断基準は間違っていないが、随分と思い違いをし態度がデカい性格だというもの。
『いいか? 俺には間違いはねえ。だから、こうしてこの店が一年もっているんだ』
これが彼の口癖でもある。
俺の見解で言えば、これまで痛い目に遭った事がないからそんな図に乗った台詞を吐けるのだ。
間違いがないというなら、何故彼は裏稼業まで落ちてきたのか?
真面目に勉強せず、真っ当なレールから外れたからこそ、新宿歌舞伎町へみんな集まってくるのである。
たかだか二十代後半の若僧が偉そうに……。
不思議なのはその彼が、店の中に入ってきたという事実だ。
オーナーサイドから、キツく言われていた事項があった。
それは経営者は同じでも、絶対にうちの店『餓狼GARO』と『ボヤッキー』は客に対し、系列店だと言ってはいけないというもの。
以前山本と仲がいい『ボヤッキー』の従業員である荻野が店に顔を出しただけで、後日番頭の根間からこっ酷く怒られたぐらいである。
「何で吉田君がうちの店に来たの?」
「全然分かりません。ただ、おまえらは接客でああしろこうしろと色々言われ、暇なんだから二人ともティッシュ撒きに外へ行けって、自分も鐘ヶ江さんも外へ出させられて……」
「何だ、そりゃ?」
ちょっとした怒りの感情が全身を包む。
余所の店に来て、無関係の人間がうちの従業員へ偉そうに指図する。
到底あり得ない事だからだ。
その時店のインターホンが鳴った。
モニターに映ったのは、この店の店長である猪狩。
俺は足早に入口へ向かい、鍵を開ける。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。猪狩さん! 鐘ヶ江が今日で辞めたって、どういう事ですか?」
「ああ…、鐘ヶ江はもうクビなんで」
「クビ? 何があったんです?」
休み明け早々ひと悶着か。
面倒な事態にならなきゃいいけど……。
俺は早くもこれから起こる状況に対し、一抹の不安を覚えていた。
遅番の従業員が揃ってから、俺は猪狩に何故こうなったのかの状況を聞く。
「鐘ヶ江は早番の時間帯でフルーツポンチを作っといてと言ったのに、何もしていなかったんですよ」
店長の猪狩は無表情を崩さず、淡々と口を開く。
何がフルーツポンチだよ、この馬鹿。
「フルーツポンチを作っていないのは、『ボヤッキー』の吉田君が店に来て、やれティッシュ行けだ何だって指図したからでしょ?」
「いえ、吉田君が店に来たのはその前の日で、昨日は入客もそんな入っていないし、いくらでもフルーツポンチを作れる時間はあったはずなんです」
「……」
コイツ、筋金入りの阿呆だった。
「今日の朝、鐘ヶ江が出勤してきた時に何故フルーツポンチを作っていないのか聞いたんですよ。そしたら『何で他店舗の店長が来て、うちらにテイッシュを二人共配ってこいとか命令されなきゃいけないんですか?』と言うから、そんな事よりもフルーツポンチを作らない理由は? …と聞いたら突然切れ出したんで、クビにしました」
「……」
開いた口が塞がらない。
確かに鐘ヶ江でなくともキレるだろう。
「あ、岩上さん、フルーツポンチって作れませんか?」
「作れませんねっ!」
俺は怒鳴るように返答した。
明日は連休だった江尻が出勤するだろうから、早番は三人で回せる。
料理を作りながらの二名じゃ、この店を回すのは不可能に近い。
「渡辺…、サイダー二本、それとフルーツの缶詰買ってきて。紙に何の缶詰か書くから」
「はい……」
表情を曇らせながら渡辺は買い物へ向かう。
どうやら猪狩自身でフルーツポンチを作るらしい。
店内は十二名の客。
細かい乞食客が多く、食事の注文もかなりある状況。
俺は前田へオーダーを通しながら、ホールを一人で駆けずり回り接客をする。
前田は厨房で、注文の料理を順番に作っていく。
「入れてー」
「はい、十一卓様マイクロ五百ドル。十一卓様マイクロ五百ドルお願いします」
「入れてよ」
「はい、えー二卓様マイクロ百ドル。二卓様マイクロ百ドルお願いします」
「OUTしてー」
「はい、五卓様マイクロOUT。五卓様マイクロOUTお願いします」
「オムライスできました。コーラもOKです」
さっきから何の返答もキャッシャーから無い。
何をやってんだよ、猪狩は……。
一瞬だけ振り返る。
厨房前のカウンターテーブルで、猪狩はフルーツの缶詰を大きなボールに入れ、渡辺に「はい、ここでサイダー入れて」とほざいていた。
こんな時に何を二人でフルーツポンチなんて作ってんだよ?
「おい、猪狩さんよ! INだよ。IN!」
「あ、ちょっと待って下さい」
「待てねえよ! 早くキャッシャーやれよ!」
ボールをスプーンで掻き回す猪狩の手が止まる。
「ちょっと岩上さん…、曲がりなりにも自分はこの店の店長ですよ?」
「いいから早くキャッシャーやれっ!」
俺が怒鳴ったので、ホール全員の客が一斉に振り向く。
「渡辺も早くできた料理をお客様に持ってって」
「はい」
何とも言えない気まずい空気の中、遅番の時間だけが過ぎていく。
朝になり早番の山本と川上が出勤してきた。
もう八時五分前。
連休だった江尻はまだ来る気配がない。
「山本さん、俺が残ってホール見てるから、江尻へ電話して下さい」
「はい」
渡辺と前田は着替えた状態で、俺を待っている。
「ナベリン、前田。先上がっちゃっていいよ。まだ忙しいから、俺は少し残るよ」
「分かりました。すみません、岩上さん。お先に失礼します」
渡辺、前田の二人は店を出る。
猪狩は一人でフルーツポンチの続きを作っていた。
川上が着替えを済ませ、ホールに出てくる。
「すみません、岩上さん。変わります、ゲホッ……」
「大丈夫か、川上? 顔色良くないぞ」
「ちょっと風邪引いたっぽくて……」
早番は現時点で三名しかいない。
休ませたいが、そうなると遅番から誰かしら一時的に早番へ送らないと、店が回らない。
「岩上さん! 江尻の奴…、電話出ないです」
山本が困った表情のまま声を掛けてくる。
時刻は八時を過ぎた。
江尻は連休後にいきなり遅刻。
猪狩がキャッシャーへ来る。
「俺から江尻に電話してみますよ」
元々江尻は猪狩の紹介で入ってきた男。
「何だよ、あいつ……」
「ん、どうしました?」
「あいつ、携帯の電源切りやがって!」
こんな状況下に置いて、さらに江尻の離脱濃厚。
「猪狩さん…、俺、今日このまま残りましょうか?」
「江尻の奴、飛びかよ…。あー、ぶっ殺してー」
コイツ、自分で江尻を入れていて何の責任も感じないのか?
俺がおまえを殺したいよ、ほんと。
昨日で鐘ヶ江が辞め、今日江尻が飛んで、早番の人間は山本と川上のみ。
遅番は猪狩、俺に、谷田川、渡辺、前田と五人はいる。
早急に人員のバランスを取らないといけない。
「あー、江尻の奴、ぶっ殺してー」
「猪狩さん! 今はそれよりも、遅番から誰か人を回さないと。とりあえず俺がこのまま残って早番をやり、人が入ってくるまで早番手伝いますか?」
「いや、岩上さんは遅番の事だけを考えればいいですから」
「……」
コイツ、筋金入りの馬鹿とは思ったが、ここまで想定外とは……。
「岩上さんはもう時間なんで、上がっていいですよ」
コイツと話をしていると頭がおかしくなりそうだ。
俺は荷物をまとめて、店を出た。
猪狩があのまま店に残り、早番をやるという事だろうか?
家に着いても店の様子が気になっていた。
まあもう俺は帰ってしまったのだから、必要以上に気に掛けたところでどうにもならない。
しっかり睡眠を取っておこう。
夕方になり出勤準備。
今日から新人が入るまで、遅番は俺、谷田川、渡辺、前田の四名で回さないといけない。
みんなには申し訳ないが、人が来るまで休みを返上して働いてもらう事になるようだ。
『牙狼GARO』へ到着。
インターホンを押すと、咳払いをしながら川上がドアを開ける。
朝の状態からより酷くなっている感じだ。
「大丈夫?」
「やるしかないですからね、この状態じゃ……」
中へ入ると意識朦朧とした山本の姿しか見えない。
「おはようございます。あれ? 猪狩さんは?」
「岩上さんが帰ったあとすぐに帰りましたよ」
「じゃあずっと二人で?」
「ええ……」
入客数を見ると、現時点で六十三名。
山本と川上の二人だけで、この人数を捌いたのだ。
さぞかし大変だっただろう。
渡辺と谷田川、前田が出勤。
すぐ早番と代わり、早めに仕事を上げてあげた。
猪狩は三十分の遅刻。
本当にコイツはボンクラだ。
「猪狩さん! 早番に誰か行かせないと、二人共潰れますよ?」
「岩上さんは早番の事まで考えなくてもいいですから」
店長であるおまえが何もしようとしないから、俺が動こうとしてんじゃねえか……。
ボタンの掛け違いのまま、遅番を終える。
朝になり、川上は三十分の遅刻をしてしまう。
咳もより酷くなり、具合いの悪さが目立つ。
「川上君、十五分につき二千円だから、四千円の罰金ね」
自分は無断欠勤に遅刻を何度してもお咎め無しで、部下には金を取るか……。
ボンクラじゃなく、コイツは真の屑だ。
「ちょっと猪狩さん! 状況が状況なんだし、彼は具合い悪いのに休みすら取れていないんですよ?」
川上に助け舟を出す。
「岩上さん…、この店を仕切っているのは自分です。岩上さんは遅番の事だけ考えていればいいですから」
「……」
俺は壁を殴りつけ、店を出た。
もう限界が近い。
群馬の先生が以前言った試練とやらがこんなものなら、俺は自分の流儀で勝手に動かしてもらう。
いつも通りに寝て、規則正しく起きる。
普段なら六時半の電車に合わせて新宿へ向かう。
今日は違った。
あえてゆっくり部屋で寛ぐ。
時計の針は進む。
夜の八時。
普通なら出勤する時間だ。
俺は八時半の電車へ乗る。
店から携帯に電話が掛かってきた。
あえて無視する。
九時半過ぎ、新宿へ到着。
わざとゆっくり歩いて店へ行く。
インターホンを押すと、猪狩が驚いた顔でドアを開ける。
「岩上さん! 何回も電話したんですよ?」
俺は猪狩を押しのけ中へ入る。
財布を取り出すと、中から二万円取り出した。
「十五分二千円の罰金なんだろ? 一時間半の遅刻。九十分だから一万六千円の罰金。ほら、受け取れよ」
「ど、どうしたんですか、岩上さん」
「遅刻したから罰金払うんだよ。ほら、受け取れ。釣りはいらねえから」
「岩上さんは遅刻の罰金はいいてすって……」
「おまえ、ふざけんなよ! じゃあ何故あんな状況で川上から罰金を取ったんだよ? 頭大丈夫か? 前にも言ったけど、裏稼業舐めてんじゃねえよ、この野郎!」
「い、岩上さん!」
「もう辞めるわ。おまえの下になんぞ、いられるか! ただガキじゃねえからよ…、まだ少しはいるよ。但し…、一日でも早く辞めさせろ! 分かったな?」
「……」
「分かったか聞いてんだよ?」
「わ、分かりました……」
猪狩は逃げるように外へ出て行く。
他の従業員たちが集まる。
「岩上さん! どうしたんですか?」
「本当に辞めるんですか!」
「もう…、限界だった……」
「思い留まって欲しいですよ!」
「あれだけ啖呵切ったんだ。もうあとには引けないだろ?」
「何を言ってんですか! 岩上さんこの店からいなくなったら……」
「だからまだ新人が入ってくるまでは、ちゃんとここへいるって」
「考え直して下さいよ!」
完全に空中分裂した『牙狼GARO』。
この日、猪狩は店へ戻ってこなかった。
翌日出勤すると、相変わらず早番は山本と川上の二人のみ。
「岩上さん! 本当に辞めるんですか?」
川上が心配そうに聞いてくる。
「誰かがこうリアクション起こさないと、この店は変わらないんだよ」
「じゃあ変われば残ってくれるんですね?」
「どうだろね…。それより川上、もう上がれ。帰ってゆっくり寝なよ」
「で、でも岩上さん……」
「早く着替えろ!」
「は、はい!」
川上は着替えに行くが、また振り返る。
「岩上さん……」
「何よ? 早く着替えて帰りなって」
「ありがとうございました!」
深々と頭を下げる川上。
「いいから早く着替えなって」
遅番の面子が出勤してくる。
「ほら、山本さんも早く着替えて下さいよ」
「いや…、今日は自分がこのまま遅番もやれって……」
「はあ? 何ですか、それは?」
「猪狩さん、休むんで、自分に二十四時間やれって……」
本当のキチガイか、あの馬鹿。
どこまでおかしくできているのだ。
「まあ山本さんに帰れと言っても無理なのは理解しました。あとは俺たちに任せて、奥の椅子で寝てて構いませんから」
「す、すみません、岩上さん…。実は結構限界だったんです……」
連日を川上と二人きりで店を回しているのだ。
疲れが相当溜まっているはずだ。
山本は奥の椅子へ腰掛けると、五分もしない内に鼾を掻きながら寝てしまう。
「本当に辞めちゃうんですか?」
渡辺がしつこく聞いてくる。
「だからもう言っちゃったんだって。しょうがないだろ」
山本はグッスリ寝ていて微動だにしない。
こんな日に限って皮肉にも店は暇だ。
さすがに今度の俺の爆発で、この店にあと一ヶ月もいられないだろう。
それだけの啖呵を切ったのである。
まだ今後どうするか分からない手探り状態での見切り発車。
それでも自身の中にある義に添いたかった。
猪狩の奴、店長としての自覚あるのか?
昨日は突然店から出て行き帰ってこない。
今日は今日で無断欠勤した挙げ句、山本を二十四時間働かせる暴挙。
あとは番頭の根間の判断次第というところか……。
店の電話が鳴る。
猪狩からだった。
「岩上さん、今から喫茶店の『クール』に来て下さい。待ってますんで……」
予測もしない行動に面食らう。
渡辺たちへ事情を説明し、店を任せて俺は外へ出た。
花道通りへ出て、歌舞伎町交番の手前にある喫茶店『クール』。
俺は階段を上がり中へ入る。
入って左手一番奥の席に猪狩は座っていた。
「どうも」
目の前のソファーに腰掛ける。
猪狩は泣いたのか目が真っ赤だった。
本当に情けない奴め……。
「岩上さん、一日でも早く辞めさせろと言ったじゃないですか……」
「ええ」
「きょ…、今日で…、今日で、うちを上がってもらって構わないんで……」
「はあ? 店は? そんなんで回るの?」
「し…、新人ばかりになりますけど…、じ、自分はやるしかないんで」
コイツなりに精一杯の勇気を振り絞って口にしているのが分かる。
ただ昨日の今日で俺を解雇とは、本当に愚策にも程があった。
「岩上さん……」
「何です?」
「罰金十五分二千円…。遅刻しても一万二千円の給料は削らず払っているんですよ。それでも罰金を取り過ぎだと言うんですか?」
ザ・馬鹿ここに極まる。
俺が怒ったのは、あんな二人で回させ風邪を引いた川上から罰金を取ろうとしたからである。
しかも猪狩自身は遅刻しても、罰金など払った事が無いのだ。
自分には甘く部下には厳しくのスタイルが気に食わなかっただけ。
ただ、それをコイツに話したところで絶対に伝わらないのは分かっていた。
こうして二千一二年一月三十日。
ジャイアント馬場社長の命日より一日早く、インターネットカジノ『牙狼GARO』の退職が決まった。