
2024/10/15 tue
前回の章
ゴリ『雪の中四時間待ちぼうけ事件』から二日が過ぎ、日曜日になった。
あれ以来、ゴリから連絡はない。
まだ具合悪くて寝込んでいるのだろうか。
その事が気になり、今日も朝六時には目を覚ましていた。
俺から電話をするのも何故か躊躇ってしまい、起きてからもボーっと考え事をしていると、階段を上がる足跡が聞こえてくる。
「智一郎ー、お友達が来てるぞー」
おじいちゃんが誰か来たのを知らせてくれる。
一体誰だろう、こんな時間に……。
「誰が来たの、こんな朝早くに」
「岩崎君って言ったかな。おまえの中学の同級生の」
ゴリがこんな早くにわざわざ家まで来た。
何か俺に言いたい事でもあるのだろうか?
「ゴリか、上がってもらってくれる」
「分かった」
おじいちゃんの階段の下りる足音がして、すぐに別の足音が聞こえてくる。
部屋のドアが少し開き、隙間からゴリの顔が見えた。
「そんなとこいないで中に入んなよ」
「あ、ああ……」
あの件で風邪でもひいたのかゴリの顔色は悪い。
俺の部屋のソファーに黙って腰掛けると、ゆっくりこっちを向く。
「あ、あのさー……」
「ど、どうした?」
「『何か俺にできるか』って、一昨日言ってたでしょ?」
こいつ…、俺に何を要求してくるのか。
ここは慎重になり、デカい事は言わないほうが懸命だ。
言葉を選んで慎重に話をしないといけない。
「ああ、言ったけど…。何かして欲しい事あるのか?」
「ん…、ああ……」
「遠慮しないで言ってみなよ」
しまった。
つい、いつもの調子で言ってしまった……。
「金曜日にあの子、結局来なかったじゃない?」
「うん、それで?」
「何で来なかったのかなと思ってさ……」
俺自身一度も会った事のない女の気持ちや考えなど、分かるわけないだろうと言ってやりたかった。
しかし四時間も待ち続けたゴリの気持ちを思うと、下手な事は言えない。
「何か、緊急な用事でもあったんじゃないか?」
「うーん……」
「何だ、まだあの女の事、考えてるのかよ」
「ああ……」
「ゴリと約束してるのに四時間も待たせてすっぽかすような女、やめときなよ」
「別に何もあの女に期待してる訳じゃないんだ」
「なら何で?」
「岩上にさ…、何故あの時、来なかったのか直接本人に訳を聞いて欲しいんだ」
いきなりこんな朝っぱらから、こいつは何を言い出すんだ。
あれだけ待って駄目だったのなら諦めればいいのに、まだ納得がいかないらしい。
しかも俺が直接聞いて来いだって……。
一体、そんな事をしたところで何になるんだ?
「俺さー……」
「ああ」
「よく四時間もあの雪の中で待ったなって、自分を褒めてやりたいんだ」
自分でそれ言っちゃ、おしまいだろ。
俺は心の中で呟いた。
「確かにゴリは立派だったよ」
「そうか?」
「普通の奴じゃ絶対に真似できないよ。雪の上で四時間も待つだなんてね」
「だからあの女、約束したのにすっぽかすなんてって考えると、だんだん頭くるんだよね」
ヤバい。
せっかく大人しくしていたのに、自分から火を点けてしまったようだ。
このままゴリを野放しにしても、何かしでかしそうで怖い。
「でもあの女に当たるのはやめたほうがいいよ。俺にできる事があったら協力するし」
「ああ、そこで岩上に、何故、来なかったのかを聞いて欲しいんだ」
結局そこにまた戻るのか……。
俺も、腹を括らなくてはならなくなってきたのを感じる。
「べ、別に聞いてもいいけど、それでどうすんだよ?」
「いや、何故来なかったか、訳を聞ければいいんだ。そしたら納得できそうなんだ」
そんなどうでもいい理由で俺に直接聞いて来いだなんて、こいつは一体……。
何とかして思い留まらせないといけない。
「でもゴリは明日から夜勤でしょ? 俺がその女に聞くといってもどうすんだよ。何か方法でもあるのかよ?」
「俺、明日は夜勤だから朝は自由に行動できるんだ」
「でも俺は明日、朝から仕事だよ」
「有給休暇とれるでしょ? 岩上、あんまり使ってないって言ってたじゃん」
「何でそんな事の為にいちいち有休をとらなきゃいけないんだ。このボケ!」と普段なら言いたいところだが、雪の上で「ずっと待て」と言った負い目もあった。
「頼むよ、岩上」
真剣な眼差しで俺を見つめるゴリ。
ここは俺が折れるしかないようだ。
「分かったよ。俺が行けばいいんだろ?」
「ん…、ああ…。悪いな」
「これっぽっちも悪いだなんて思ってねえくせに」
「だって何でもやるって言ったじゃん」
こいつと関わると、確かに今まであまりいい事はなかった。
ゴリの為に有給休暇までとらされ、今回もこんな事をやるハメになってまで、俺は何でこいつとつるんでいるのだろうか?
自分でも不思議だった。
大沢は以前この話を聞いた事があるので、特別興味を示さず大人しく酒を飲んでいた。
二ノ宮は楽しくてしょうがないといった感じで、ワクワクしながら次の展開を待っている。
「で、岩ヤン、実際に駅まで行ったの?」
「まあ、慌てるなよ。それをこれから話すんじゃないか」
「すっげー先の展開が知りたい。早く話してよ」
「分かった分かった」
ここまで来て最後まで話さないのは逆に失礼である。
俺はまた続きを話し出した。
気分良く寝ていて、楽しい夢を見ていたような気がする。
どんな夢かは分からないが非常に楽しかったという記憶だけは覚えていた。
途中から急に何だかとても嫌な気分になりふと目を覚ますと、ベッドの傍にゴリが立って俺の顔を覗き込んでいた。
「おわっ。何だよ、そんなとこに突っ立って……」
「何だよ。朝、起きられないから起こしに来てくれって、自分で言ったんだろ?」
「今、何時だよー」
「もう五時半だ。早く支度しないと、六時の電車に間に合わないよ」
重いまぶたを必死に堪え、一気にベッドから起き上がる。
こんな事なら、昨日約束なんてするんじゃなかった。
身体が重く、気分は非常に憂鬱だった。
もたもたしているとゴリがせかしてくるので、手短に着替えを済ませる。
「…で、本川越で六時ピッタリの電車に乗れば、小平の駅でその女は乗ってくるんだな?」
自宅から駅まで歩きながらゴリと話をしている内に、自然と目が覚めてきた。
十分前には本川越駅に着き、丹念に打ち合わせをする。
「なあ、小平から必ず乗ってくると言っても、たくさん女の乗客はいるだろ?」
「大丈夫。横の車両で俺たちは乗って待ってて、小平でそいつが乗ったら、ちゃんと俺が教えるから。だから問題ないよ」
「今さらそんな事聞いて、どうすんだよ?」と言ってやりたかったが、ゴリが哀れ過ぎるので何も言い返せなかった。
「ほんとに俺、その子に聞くのか? この人混みの中、聞かなきゃいけないのか?」
「今更になって何、急に言ってんだよ。口だけかよ」
「分かったよ。聞けばいいんだろ」
ちょうど俺がムッとなった時、六時出発の電車が到着する。
俺たちは電車に乗り込み、ゴリがいつも乗る隣の車両へと移った。
いざ電車に乗ると、小平まであっという間だ。
朝の通勤ラッシュで車内はギューギューである。
何人かの女が小平から乗ってきたが、俺にはどれがそうだかまったく分からない。
ゴリは一点を集中して凝視していた。
そんな集中力を出せるなら、もっと違う方向に出せればいい方向に変われるのに馬鹿な奴だ。
「いたっ! あれだ」
ゴリの指差す方向を見ると、清潔感のある目鼻立ちが整ったロングヘアーの女が一人立っていた。
こんないい女にアタックするとは、ゴリも身の程知らずというか……。
「ほら、行って来なよ」
まるで他人事のように指図するゴリを見て、俺は少し殺意を覚えた。
「無理に決まってんだろ。こんなたくさんの人が乗ってて、本人に聞けるかよ。せめてさー、田無の駅で降りてからにしてくれよ」
「しょうがねえなー……」
このクソ野郎。
テメーがくだらない事を頼んでくるから、俺は朝っぱらからこんな場所にいるんだろうが……。
心の中で呟いてみたが、怒りの炎は消えそうにない。
「次はー…、田無…。田無でございます」
アナウンスがかかり、駅に到着する。
電車を降りると本当にすごい人の流れだ。
ゴリの惚れた女はどんどん先に進んで行く。
「おい、早くしないと行っちゃうだろ」
「今、行くよ」
深く深呼吸をして俺は人込みの中を強引に突き進み、ゴリの惚れた女に声を掛けた。
「あのー、すいません」
「は、はい。何でしょうか?」
知らない奴に朝っぱらから声を掛けられて、彼女はキョトンとしていた。
それにしても真正面から見ても、本当にいい女だ。
このレベルじゃ、ゴリもすっぽかされても文句を言えないぐらいいい女である。
「いえ、実はですね…。先週の金曜日、誰かに声を掛けられませんでしたか?」
「は、はぁ……」
「それって実は、俺の友達でしてね」
「あ、そうなんですか」
「…で、本人が言うには、金曜日仕事が終わってから、あなたと会う約束をしたと言ってましてね…。この駅の改札で待ち合わせしたらしいんですけど……」
「ええ……」
「そういう約束をあなたは彼としたのでしょうか?」
「は、はぁ……」
何とも話し辛い話題だった。
とにかく言い辛くとも、来なかった理由を聞かない事には何も始まらない。
ここは一気に単刀直入に聞くしかないだろう。
「それで金曜日、俺の友達が改札で待っていたらしいんですけど、あなたが来なかったのを気にしてるんです。具合でも悪くなったんじゃないかって心配してまして……」
我ながらいいフォローだと思った。
「え、ええ…。実はあの日、会社で残業がありまして……」
「そうだったんですか、残業って二時間ぐらいしてたんですか?」
「は、はい……」
見え透いた嘘つきやがって、このクソ女が……。
あの大雪の降る中、四時間も待っていたゴリの姿を思い出すと、怒りが湧いてくる。
こんな女の為に……。
一気に頭に血が昇りだしてきた。
「おい、ねーちゃんよー…。あいつはなー…。あいつはあの雪の中、四時間もずっとあんたを待ってたんだぞ。そんな嘘ついて、自分が恥ずかしくないのか?」
女は下を向いて黙ってしまう。
ゴリはこの光景をどこかで見ているのだろうか。
電車待ちのホームにいる乗客の視線が俺に突き刺さるのを感じる。
そんなもの今の俺にはどうでもよかった。
赤い怒りが俺を包んでいる。
「何とか言ってみろよ! あんたには迷惑だったかもしれないけどなー、あいつはあいつなりに必死だったんだ。嫌なら嫌だってちゃんと言ってやれよ。ちゃんと断れよ」
「……」
「何で何も言わないんだよ?」
「ご、ごめんなさい…。わ、私…、好きな人がいるんです! ごめんなさい」
ゴリの惚れた性悪な女は大きい声でそう謝り、駆け足でその場を逃げていく。
「お、おい、待てよ……」
周りの人々が俺を見て笑っていた。
今の言われ方だと完全に俺が朝、駅のホームで告白して思い切りフラれたようにしか見えないはずだ。
恥ずかしい……。
とても恥ずかしい……。
視力のいい俺は遠くで柱の影から、こっちを見ているゴリが目に入る。
このやり場のない怒りは、一体どうしたらいいのだろうか。
こんなクソみたいなゴリのお願いを聞く形でわざわざ有休まで使い、朝っぱらから大恥掻いて……。
出来る限り冷静に静かに息を整えて駅のホームを歩く。
ゴリに近付くと、我慢していたものが吹き出した。
「おい、何なんだよ、あのクソ女はよ!」
「し、知らねーよ。俺にそんな事言ったって……」
「すげー赤っ恥だ。有休取ってまで会社を休んで、それなのに朝っぱらからこんな目に遭わなきゃいけないんだよ!」
「わりーな、飯でも奢るから機嫌直してくれよ」
「あのクソ女、『残業で行けなかった』とか抜かすから、ガツンと言ってやったよ」
「まーまー、落ち着こうぜ。な?」
「好きな奴がいるんだってよ。残念だったな」
「まー、しょうがねーよ。うまい物でも喰いに行こうぜ」
田無駅の改札を出て、食事できるところを探す。
しかしいくら探しても、こんな早い時間にやっているところといえば、立ち食いそばぐらいしかなかった。
俺とゴリは自然と立ち食いそばの方向に向かい、自動食券機の前に立つ。
ゴリがポケットの中をまさぐっている。
「いけね、給料日前だから俺、金、無かったんだ」
「いくら持ってんだよ?」
「うーん…。四百六十円しかねーや。でも何も入っていない素うどんなら奢ってやるよ。それでいいだろ?」
本当にふざけた野郎だ。
あまりのアホさ加減にさっきの怒りもどこかへいってしまった。
こんな朝早く付き合わされて、惨めな思いをして恥を掻かされて、こっちが金を出すのも癪だった。
とりあえずゴリに、何も入ってない素うどんを奢らせる事にした。
「あーあ…、これで二十円しかねーや」
「そんなの知らねーよ。自分が計算して遣わないからそういう目に遭うんだ」
「なあ」
「何だよ」
「あの天婦羅を乗っけて喰いたいと思わないか?」
「だっておまえ、あと二十円しかないって言ったじゃねーかよ。天婦羅一つ百円だぞ?」
「だからさー、岩上が出してくれよ」
もうこいつにはため息しか出てこない。
確かに俺もネギしか入っていないうどんを食べるのも寂しいので、自腹を切り、天婦羅を二つ注文した。
「あとさー」
「今度は何だよ」
「あの梅のおにぎりも食べたくねーか?」
「おまえが喰いたいだけだろ」
「エヘヘ……」
結局俺は、ゴリとほぼ同じぐらいの金額を出すハメになってしまった。
ゴリは元々休み。
俺はわざわざ有休を取ってまで朝からこんな目に遭っている。
納得がいかなかった。
ゴリの口元に天ぷらのカスがついていたので見ていると、彼は満足そうにニヤリと笑う。
静かな怒りの炎が、メラメラと俺の心の片隅で燃え上がっていた。
十八歳の頃のほろ苦い思い出である。
最後まで話を聞いていた二ノ宮は、腹を抱えて大笑いしている。
大沢は、ビールのおかわりを頼んでいた。
ゴリの事を思い出すと、無性にイライラしてくる。
何であんな奴と、いつも俺はつるんでいるのだろうか?
先ほどの件だけ振り返っても、俺は何も得をしていない。
別に損得勘定で人付き合いをしている訳じゃないので構わないが、明らかにゴリとの関係は俺が損をしているような気がした。
見返りを求めるのはあまり良くない事だが、今日やっている俺の祝賀会ぐらい、ゴリは来て祝福ぐらいしてもいいもんだ。
それを「眠い」のひと言で電話を切りやがって……。
友情の欠片も無く、義侠心も感謝もない。
あの馬鹿は、一体何を考えているのだろう。
自分の祝賀会だというのにイライラしていた。
何故、ここまでイラつくのか?
すべてのキーワードは『ゴリ』だ。
そんな時、背後から肩を叩かれた。
振り返ると、高校時代ケンタッキーでアルバイトした時、一緒に働いていた三枝みゆきだった。
「久しぶり~。どこかで見た事あるなあと思って肩を叩いたら、やっぱり岩上君だった。随分体、大きくなったねえ。今、何をしているの?」
「おう、三枝か。久しぶりだね~。俺? 明日からさ、全日本プロレスの合宿に行くんだよ。身体、高校時代から比べると大きくなったでしょ?」
「うん、ビックリしたもん」
「体重で言うと、二十キロぐらい増やしたからね」
「へえ、じゃあテレビに映ったりするの?」
「それは俺の今後の努力次第って感じでしょ」
「すご~い! ねえねえ、俺たちも一緒に飲んでもいい?」
「全然構わないよ」
三枝は一緒に連れていた子に声を掛け、同じテーブルに来た。
さっきまでイライラしていたのが嘘のようだ。
女の存在って本当に偉大だと感じる。
女好きの大沢も、いつの間にかそばに来てニコニコしていた。
二ノ宮はいつもと変わらないマイペースぶりで、普通にこの場を楽しんでいる。
ゴリの奴め、あとでこの状況を聞いたら悔しがるだろうな。
三枝と連れの子は、完全に俺のプロレス話に興味を持って聞いている。
先日、二ノ宮の彼女の文江さんがやった飲み会の性格の悪い女たちと比べたら、月とスッポンだ。
楽しくて仕方がなかった。
明日は合宿だから、今日の酒を控えないという思いが徐々に薄れていく。
大沢は自分が話し掛けても女性陣がつれないので、面白くなさそうに酒を煽っていた。
前回あれだけの騒ぎを起こしたのだ。
さすがにあのような酔っ払い方はしないだろう。
「ねえねえ、岩上君」
「ん?」
「もしテレビ出れるようになってさ。『初恋の人は?』とか聞かれたら、『三枝みゆきです』って答えてよ~」
三枝も結構酔いが回り、いい感じになっている。
うまく行けば、今日このままホテルへなんて展開も……。
明日が合宿だなんて忘れるぐらい楽しく酒を飲んでいると、大沢の目が据わっている事に気付く。
この間みたいに自分がうまく会話の中に入れず酒を飲み、また酔いだしているようだ。
「今度、岩上君、時間空いている時、一緒に食事しようよ」
「ん? ああ、そうだね。たださ、俺も合宿なんて初めてだから、今後どうなるか全然分からないんだよね。時間空くようなら連絡するよ。そうだ。三枝の連絡先教えといてよ」
「うん、いいよ」
その時だった。
「ついでにワンプッシュ」
事もあろうに大沢が、三枝の乳首目掛けて指で突いた。
「キャー、何、この人?」
電話番号を書きかけの三枝は自分の胸を押さえ、席を立ち上がる。
大沢は人差し指を突き立てたまま「もう一丁、ワンプッシュ」とほざいている。
「キャー」
三枝と連れの子は、駆け足でその場から外へ逃げていく。
また似たような事を繰り返しやがって、大沢の野郎……。
「おい、貴様……」
俺が立ち上がる前に、大沢は逃げた三枝たちを執拗に追い駆けている。
慌ててあとを追い駆けようとすると、入口で店員に「お客さん、お会計」と止められた。
俺は財布から一万円札を取り出すと「二ノ宮、あとよろしく頼む」と手渡し、大沢のあとを追った。
あいつ、かなり酔いが回っていた。
あんな状況で三枝たちが捕まったら、何をするか分からない……。
階段を駆け下り外へ飛び出すと、大沢は知らないサラリーマン風の男三人組と揉めているところだった。
まったく、あいつは……。
「ごめんごめん。こいつ、酔っているから相手しないで」
おそらく大沢が三枝たちのあとを追い駆けている途中、この三人組にぶつかったか何かしたのだろう。
いつも原因を作るのは大沢だった。
悪いのはこちらサイドである。
「おいおい何だよ、おまえは?」
相手の三人組も苛立っている。
俺にまで絡んでくる始末だ。
肝心の三枝たちは、どこへ行ったのだろう?
「おい、おまえは何だって言ってんだよ」
一人が、キョロキョロ辺りを見ていた俺の肩を押してきた。
「おい、人が大人しく謝ってんのに今、何をした? 相手を間違えるなよ」
俺が凄むと三人組は下を向いて黙ってしまう。
あれ、そういえばさっきまで横にいた大沢がいない……。
少し先の道路を走る大沢の姿が見えた。
信号が青だというのにお構いなしに走っている。
一台の車がクラクションを鳴らしながら急ブレーキを掛け、急停車した。
大沢は停まった状態の車に自分から派手にぶつかり、勢いよく倒れ込む。
俺は急いでそこへ向かった。
車を運転していたおばさんが、真っ青な顔で出てきて大沢へ声を掛けている。
明らかに自分がぶつけてしまったと錯乱しているようだ。
「大丈夫です。悪いのこいつですから、行っちゃって構いませんよ」
その場まで行き、おばさんに話し掛ける。
「で、でも……」
「ビックリさせてすみません。こいつ、かなり酔っているもんでして……」
おばさんと会話をしている時、大沢は不意に立ち上がり、また別方向へ大声を出しながら駆け出していく。
「と、とにかく気にしないで下さい。では、そういう事で」
慌てて大沢を追い駆けた。
いくら酔っているとはいえ、こうも繰り返しやられると溜まったもんじゃない。
「ん?」
大沢の走っていく方向から、チンピラ風の連中がゾロゾロと店から出てきた。
大きな分厚いガラスでできた壁。
大沢は、「うわ~」と奇声を発しながら一人のチンピラの肩を掴み、ガラスの壁に力一杯叩きつけた。
その勢いで大きなガラスにひびが入る。
「何じゃ、このガキャー!」
周りにいたチンピラが、一斉に大沢を殴りだす。
当たり前だ。
気分良く飲んで店から出たところをいきなりガラスの壁に叩きつけられたのだから……。
誰だって怒る事を大沢はやったのだ。
しかもまったく懲りず、何度も同じような事を……。
相手は十五人いる。
完全なリンチ状態。
傍から見ていても、やり過ぎだ。
どうする……?
明日は全日本プロレスの合宿という大事な日なのだ。
大沢にはいい薬である。
しかしこのまま中学時代からの同級生を放っておいていいのか?
多勢に無勢。
明らかに大沢は伸びていた。
それでもチンピラは攻撃をやめない。
倒れている顔に蹴りを入れていた。
「やめろ、おいっ!」
気付けば俺は、その群れに突っ込んでいた。
また攻撃を加えようとするチンピラの一人を体当たりでふっ飛ばす。
見ていられなかったのだ。
「何じゃ、おまえは、コラッ!」
後頭部に痛みが走る。
やり返そうとしたが、今の俺はプロ意識がある。
下手したら全身凶器になってしまう。
こちらから殴ったりする事はできない。
チンピラたちは俺が手を出さないのに調子付き、集団で殴りかかってきた。
伸びている大沢の顔面を蹴るチンピラ。
俺はそいつの襟首を掴んで引き剥がす。
その間に何度も殴られ、蹴られた。
この人数じゃ話にならない……。
迷わず俺は仰向けに意識を失ったまま倒れる大沢の上に覆いかぶさった。
「何、偉そうに抜かしてんだよ、おい」
「何だ、この野郎」
「粋がってんじゃねーぞ、コラッ」
たくさんの罵詈像音とともに、無差別に蹴られまくる。
うつ伏せ状態で全身に力を込めながら、俺はひたすら耐えた。
正直、情けない気持ちでいっぱいだった……。
もの凄い屈辱感。
いつまで無抵抗の俺に好き勝手してやがんだ。
俺はまったく手を出してないのに、やりたい放題だ。
この人数でこれだけ無抵抗でやられているんだ。
少しぐらい、こっちがお返ししてもいいよな……。
その時、嫌な音が聞こえた。
ウゥー、ウゥー……。
近所迷惑も考えないやかましいサイレンが聞こえたと思うと、俺にあれだけ加えていた攻撃が一気にやむ。
手首を誰かに掴まれている感覚がする。
顔を上げると制服を着た警官が、俺の手首をつかみ手錠を掛けるところだった。
さっきのチンピラたちは……。
起き上がり周りを見ても、その場にいたのは俺と大沢の二人だけ。
チンピラはサイレンの音を聞き、一目散に逃げたようだ。
やり切れない思いが、全身を覆いつくす。
警察官に連行されてパトカーに乗せられると、目の前が真っ暗になった。
大沢は、もう一台のパトカーに乗せられる。
「派手に暴れやがって、このガキが……」
俺の横に座っている警官が睨んできた。
睨み返し、ハッキリと言った。
「俺は一回も、手を出してないっすよ」
「黙ってろ!」
両手首に掛けられた手錠を見ながら思った。
今日、この一日は、一体何だったのだろう……。
パトカーに乗せられ移動中に、俺はプロテスト合格した時の事を思い出していた。
プロテストの時コーチ役を務めたレスラーの渕さんが、奥にある部屋をノックして入る。
俺もあとに続く。
俺の目の前にはあの有名なジャイアント馬場が…、いや、ジャイアント馬場社長が椅子に座っていた。
片手に葉巻を持ち、足を組んでゆっくりと構えながら俺を見ている。
思わず指のつま先まで力を入れてピーンと背筋を伸ばし、直立不動の姿勢になってしまう。
目の前が次第に真っ白になっていく。
まるでモヤが掛かったみたいだ。
頭の中で整理していた事など、どこかに吹っ飛んでいた。
まるで夢の中にいるみたいだ。
極度の緊張が俺を包み込む。
気をつけの姿勢で、大場社長を見据えるのがやっとだった。
かつてこれほどの威圧感というか、圧倒的な存在感を醸しだす人がいただろうか……。
ジャイアント馬場社長の凄さは、目の前に対峙して初めて本能的に理解できる。
はっきり言って俺の数少ないボキャブラリーでは、何て形容していいか例えようがなかった。
ただ、固まるだけである。
ジャイアント馬場社長は葉巻を口に含み、天井を向いて煙を静かに吐き出す。
そしてゆっくりと俺のほうを向いて、口を開く。
「やる気はあるかね……」
全身に電撃のようなものが走り抜ける。
色々と自分の考えを言いたかった。
自分の感覚を話したかった。
どれだけプロレスが好きか喋りたかった。
全神経を研ぎ澄ますが、極度の緊張で口が開かない。
ジャイアント馬場社長が俺を見てくれている。
俺は何の為に一生懸命やってきたんだ。
「はい……」
搾り出すように…、たったその一言しか言えなかった。
それでも今まで二十一年間生きてきて、一番感情を込めて言葉にしたつもりだった。
渕さんが、肩をポンと叩いて笑っている。
「じゃ、社長。この辺で失礼します」
「うむ」
頭を深々下げてから部屋を出る。
廊下に出ると、一気に開放感が全身を覆う。
「どうだ、緊張したろ?」
渕さんが話し掛けてくる。
緊張したなんてもんじゃなかった。
「は、はい。我ながら情けなかったです」
「ハハ…、最初はみんなそんなもんだ。ほら、これ持っておけ」
一枚の紙切れを手渡される。
一つの電話番号と本田、浅子という名前が書いてある。
「これは……」
「道場の電話番号だ。そこに書いてある本田と浅子って若手レスラー、知ってるだろう? 今のシリーズが終わって一週間ほど休んでから、今年最後の合宿がある。まーおまえみたいに新人は住み込みで、先輩レスラーの世話もしながら鍛えて身体を作るって感じだけどな。十二月の十五日、この日に道場来い。あ、住所も書いておくよ」
「はい。よろしくお願いします」
「言っとくけど道場になると、今日のテストみたいな楽な事だけじゃねーからな」
「はい、頑張ります」
どんどん俺は少しずつ、前に進んでいる。
このたった一枚の紙切れが、自分にとってかけがいのない物になっている。
「あと一時間もすれば興行が始まるけど、おまえ、見てくか?」
プロレスの試合を生で初めて見たかったが、まず俺を支えてくれた人たちに今日の事をすぐ報告したかった。
「ありがとうございます。でも、今日は帰ります」
「そうか、じゃー、十五日な」
「よろしくお願いします。失礼します」
客席のほうを見ると、チラホラと客が座っていた。
「おおー」
どよめきが起きる。
声のほうを見てみると、ジャイアント馬場社長が会場に入るところだった。
普通より高く作られている体育館の入り口に対して、頭を低くしながら入ってくる馬場社長。
生で見ると、とんでもない大きさだった。
そしてその場にいるだけで、客のどよめきを誘う人間が存在するのを初めてこの目で見た。
今日は俺にとって、生涯忘れられない日となった……。
パトカーが停まる。
そこで俺は現実に引き戻された。
地元の本署まで連行され、俺と大沢は別々の部屋に入れられる。
意地悪そうな顔つきをした警官が、俺の正面の椅子に腰掛けた。
睨みながら尋問してくる。
「おまえ、名前は?」
「岩上智一郎……」
「年は?」
「二十一…、一体、何なんですか?」
「あそこで、何してたんだ。相手は何人いたんだ?」
「俺は手…、手なんか、出してないっすよ」
「ふざけんなっ!」
警官は凄み出すが、やってもない事を言うつもりなど毛頭もない。
はなっから疑ってかかる警察官の態度が気に喰わなかった。
「手は出してねーよ」
「何だ、貴様。その口の聞き方は? それに酔っていやがるな」
「出してねーって言ってんのに、しつけーからだよ」
最悪の展開になってきたのを感じる。
確かに、酒は結構飲んでいた……。
「じゃあ何で身体中、そんなに血がついてんだ?」
「こっちは無抵抗のまま、殴る蹴るやられ続けただけなんだよ。その時、できた出血だろ。こっちは被害者なんだ」
「あそこの通りのお店から通報があったんだ。ガラス張りのドアまで壊しやがって」
しつこいオマワリだ。
面を見ているだけで吐き気がしてくる。
「俺じゃねーんだよ」
「ふざけんな!」
「ふざけてねーよ」
「仕事は?」
「全日本プロレスだよ」
「何?」
「全日本プロレスだって言ったんだよ。聞こえねーのかよ? こっちはついこの間、プロテスト受かったばっかりで、プロ意識ってもんがあんだよ。だから相手のチンピラが十五人ぐらいいたってな、絶対に手を出してねーんだ。分かったかよ? こんな手錠掛けて、こんなところ連れてきやがって……」
「おい」
尋問している警官は、別の警官を呼んで、何か話をコソコソしていた。
話し終えると、一人の警官は部屋から出て行く。
「俺の連れは、どうなってんだよ?」
「おまえには関係ない。こっちの質問に答えろ」
「何で関係ねーんだよ? ふざけんじゃねーぞ、おい」
遠くで大沢らしき声が聞こえてくる。
別の部屋で暴れているみたいだ。
何であんな奴、助けに行ってしまったのだろう……。
出てくるのは、溜息と後悔の連続ばかりだった。
「おい、こっち来い」
「あ?」
「こっち来い、おまえに電話だ。変われ」
家にでも電話しやがったのか……。
警察のやり方は本当にムカつきやがる。
受話器を警官からひったくるように取り上げた。
しかしこの状況じゃ、何を言われても仕方ないか……。
「もしもし……」
「何をやったんだね、君は?」
電話の声は親じゃなかった。
でも聞き覚えのある声だった……。
まさか……。
誰なのか、すぐに理解できた。
必死に受話器に向かって喋る。
「俺…、絶対に…、手は…、出してません…。本当です……」
「何をだね?」
「絶対に、手を出してません。信じて下さい」
ジャイアント馬場社長に初めてハッキリと言えた台詞がこんなんじゃ、本当に泣けてきそうだ。
でも馬場社長にこの状況を信じてもらわないと困る……。
必死だった。
「いいかね……」
静かに馬場社長は語りかけてくる。
俺の身体はそのひと声で緊張に包まれた。
「は、はい……」
「手を出した出さないじゃなくて、問題は君がそこにいたというのが重要なのだよ」
「す、すいません」
「渕から明後日来ると聞いていたが、来なくて結構だ」
「えっ?」
「ガチャッ…、ツー…、ツー……」
「社長ー…!馬場社長ーっ……!」
いくら叫んでも電話は切れていたので、俺の叫びは届かなかった……。
身体中の力が抜け、その場にへたり込む。
涙で目の前が、どんどん真っ白になっていった……。
「貴様、暴れるな」
「離せよー。離しやがれっ!」
廊下の方から声が聞こえてくる。
俺は腹の底から怒りが湧きあがってきた。
無言のまま立ち上がり、声のするほうへ歩いていく。
「離せよー」
廊下に出ると大沢が、三人の警官に取り押さえられながら暴れていた。
まだ酔っている状態で、この状況を何も把握してない。
俺の姿が目に入ると、声を掛けてきた。
「おい、岩ヤン。あいつらやりに行こうぜ。おい……」
視界が狭まって、俺の目は大沢以外、映らなくなっていく。
右拳をガチガチに握り締め、ゆっくりと大沢に近づいた。
絶対に許せない……。
絶対に、こいつを許さねぇ……。
「おい、貴様。何するつもりだ」
傍にいた警官が俺の肩を掴むが、そんな事はどうでもいい。
「邪魔すんな」
肩をつかんでいる手を払いのけると、ムキになって迫ってくる。
「何だ、貴様ー」
「どけっ! おまえら、邪魔するな……」
邪魔する警官の手首をつかみ捻りあげる。
「貴様っ」
その光景を見ていた多数の警官がつかみ掛かってくる。
「どけよ。おまえらも殺すぞ……」
振り払い、どかしながら大沢に近づいていく。
「大沢ーっ!」
ありったけの力を込めて、大沢の顔面目掛け右拳を叩きつけた。
大沢の唇がグチャッと潰れる感触がして、歯が取れる瞬間がスローモーションのように見える。
散々鍛えてきた。
初めてその力を解放したのが、こんな奴の顔面だった。
鍛えぬいた自分の力がここまで威力あるとは思ってもいなかった。
大沢は警察本署の廊下で仰向きに倒れ、細かく痙攣していた。
口からおびただしい鮮血がほとばしり、床を赤く染める。
「何してんだ、貴様!」
背後から何人かに組みつかれ、地面に倒される。
身動きがまったく取れなくなってしまった。
もうどうでもいい……。
目の前の風景が歪み、涙が溢れて出してきた。
今までの一年が無駄になったのだと、自分自身悟った瞬間でもあった……。
生きているのが嫌になった。
どのぐらいこうやって、警察に拘留されているのだろう。
もうどうなっても良かった。
俺の右拳にはベットリと赤い血がついている。
大沢はしばらくしてから、酒が抜けたようだ。
俺の所に来て、さっきから土下座をしながら平謝りをしている。
顔の下半分は俺の殴ったアザで、お化けみたいにパンパンに腫れ上がっていた。
いくら謝られても、大沢を許す事などできやしない。
警察官もその状況を黙って見ていた。
「失せろ…。俺の目の前に、汚ねー顔、近づけんじゃねーよ」
もはや大沢を殴る気力すら湧いてこない。
こんな奴は殴る価値すらないのだ。
天井についている一点のシミを意味もなく、ずっと眺めていた。
「おい、そこのデカいの。親が迎えに来たぞ」
大沢の親が警察本署に迎えに来たらしい。
その姿が見えてきた。
俺は自然と睨みつける。
大沢の親はいかにも公務員といった感じの固そうな親で、自分の息子のグチャグチャになった顔を見ても一切表情を崩そうとせず、平然としていた。
「よし、おまえは帰っていいぞ」
「ほら、史博。警察の方々にちゃんと謝りなさい。おまえが壊したガラスのドアは、俺が弁償すると交渉してきた。あとでそっちにも謝りに行くぞ」
その台詞を聞いて、一気に怒りが湧いてきた。
大沢の親父に近づき、睨みを効かす。
「おい、ふざけんじゃねーよ。納得いかねんだよ。あんまり舐めんなよ」
「何だね、君は…。こっちが弁償するんだから、もういいだろ」
俺の魂は、一枚のガラス以下だと抜かすのか……。
「おい、偉そうにしてんじゃねーぞ。何が弁償だ、おいっ?」
警察官が慌てて間に入る。
俺は構わずに大沢の親父に詰め寄った。
「やめろ、智一郎」
振り返ると、俺のおじいちゃんが背後に立っていた。
「何で、おじいちゃんが……」
「まったくおまえの親父は俺が迎えに行けって言うのに、行かないから俺が来たんだ。まったくしょうがない奴だ。おまえもよそ様に迷惑を掛けるんじゃない」
「ご、ごめん……」
「俺にじゃない。警察の方々に謝りなさい」
おじいちゃんだけには頭が上がらなかった。
小学校二年生の時、お袋が家を出て行った。
親父は父親としての意識など、何もないただの遊び人。
そんな俺たちを一生懸命育ててくれたのが、おじいちゃんである。
言われるまま形だけ頭を下げた。
本心では絶対に謝らなかった。
おじいちゃんに言われたから形だけ、頭を下げただけだ……。
「岩ヤン…、本当にごめん……」
大沢が謝ってくる。
一切、無視した。
許せるはずがなかった。
「もういい、史博。行くぞ」
大沢の親父の台詞にムカッとくるが、おじいちゃんの手前怒鳴る訳にはいかない。
おじいちゃんがいなければ、確実に殴っていただろう。
拳をギュッと固く握り締めた。
「渕から、明後日来ると聞いていたが、来なくて結構だ」
ジャイアント馬場社長の電話越しの言葉が蘇る……。
とても重く、そして冷たい言葉だった。
俺は、明日からどうやって生きていけばいいのだろうか?
応援してくれたみんなに、何て弁解すればいい?
あれだけ頑張って積み重ねてきたものが、こうも脆く崩れ去るとは思えなかった……。
夢であってほしかった……。