岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

闇 116(誓約書と疑似母編)

2024年11月25日 15時59分20秒 | 闇シリーズ

2024/11/25 mon

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後輩のター坊が、柔道場での練習を提案してくれる。

七年半もまともに身体を動かしていないのだ。

先日書いた誓約書。

要は試合中に汚しようが、命を落とそうが、一切主催者側の責任にはならず、また追及したりしないって約束をするもの。

俺に発破を掛けた責任を感じているター坊は、自分の事以上に必死で練習へ付き合ってくれる。

岩上整体を今までなら昼から夜の十時過ぎまで経営していた。

しかしター坊との練習時間ができたので、朝九時から夕方五時までに時間変更する。

とにかく食べて身体を動かす。

朝六時に起きて、また伊佐沼までのランニング。

着いたら丹念にストレッチをこなす。

腕立て腹筋スクワット。

五百回は余裕でできていたのが、三百回程度で身体が悲鳴を上げる。

ごめんな、本当サボっていたからキツいよな?

身体中の細胞すべてに謝る。

TBB総合整体の島田先生が言っていたじゃないか。

俺は一万人に一人の確立の筋肉を持っていると……。

辛いよな。

でも動かそう。

汗を掻く出方も、昔に比べて出なくなっている。

七年半サボったんだ。

取り戻せ。

それにしても寒いなあ……。

昔ならこんな寒さ、平気で弾き飛ばして肩から湯気が出ているくらいだったのに。

昔みたいにホームセンター島忠で毎回五キロの鉄アレイを買って、腕を振りながら帰ってくる金銭的余裕が無いのが悲しい。

八時頃家に戻り、バーベルを始める。

速攻でシャワーを浴びて、岩上整体を開けた。

整体内にいる時は、高周波を使ったトレーニング。

できる限り電圧を最高値まで上げ、地獄の痛みを堪えながら筋肉を刺激する。

研ぎ澄ませ、神経を集中させて……。

昔のように細胞がギャーギャーと歓喜の声を上げる感覚が無い。

ブランク?

気にするな。

冬眠しているだけだ。

一ヶ月程度の準備期間。

もう賽を投げてしまったのだ。

やるだけやってみよう。

患者が来る。

俺は白衣を纏い、患者の施術に入る。

生活のリズムを急に変えたから、身体が辛い。

弱音を吐くなよ。

自分で客寄せパンダになるって決めたんだろ?

叱咤激励を繰り返し、あの時の自分に戻ろうと懸命に思い出す。

整体の時間を終え、次はター坊のいる柔道場へ。

柔道着を着た俺は、投げられ放題。

いいさ、受け身の練習になる。

畳に投げつけられ、ダメージの少ないよう受け身を必死に取った。

時間が来ると、家に帰り倒れこむように眠る。

泥のように寝た。

 

金を稼ぐ為に、また格闘技の世界へ足を踏み入れたつもりだった。

しかし主催者側DEEPが提示したファイトマネーは三万円。

死のうが怪我しようが一切責任の追及はしないという誓約書まで書かされて、この金額か……。

いや、俺から復帰すると言ったのだ。

七年半のブランクがある三十六歳のロートルの商品価値が、三万円というだけの話。

深く考えるな。

自流の流れに沿って生きろ。

でもこれで岩上整体の継続は、本当に不可能という訳だ。

だけどまだ良かった。

来年の一月になれば『新宿クレッシェンド』が全国書店に一斉発売される。

そしてその四日後に総合格闘技の試合が待っているのだ。

実質資金不足による整体の撤退だが、世間的にも患者たちにも格好だけはつけられた。

あとは中途半端だったままの格闘人生に区切りをつける為だけに動こう。

問題はいつ整体を閉める告知をするか?

早く伝えると、患者が敬遠して来なくなるのでは?

いや、早めに伝えるのが誠意だろ?

俺は十二月末で岩上整体が閉まる知らせの紙を書いた。

一年ちょっとでこの整体もおしまいか……。

あ、あと総合格闘技へ出る事もブログ『智一郎の部屋』で知らせておこう。

 


みんな、興奮しろ!

岩上智一郎、三十六歳。

来年一月、新宿フェイスにて、現役復帰します!

俺が戦う姿を見たい奴は、新宿へ来いっ!

 

岩上智一郎


 

自分の決意した目の写真も添えてアップする。

突然の岩上整体の閉鎖。

突然の総合格闘技現役復帰。

少しは世間の反響を呼んだようだ。

整体の電話が鳴り響く。

ほとんどは何故閉めてしまうのかという質問だった。

本を出す事、試合に出る為トレーニングの時間、それに加えて整体での患者への対応。

身体が一つしかないから、難しくなったと格好をつけた。

きっかけは内野の金の持ち逃げ。

たかが二十万程度の金額で、岩上整体は沈没するわけだ。

さすがに周りには恥ずかしくて、誰にも言えなかった。

川越祭りの同じ連々会メンバーの三枝さんは、真っ先に試合を観に行くとコメントをくれた。

三つ年上の吉岡さんは止めろと、必死に俺を止める。

俺の身体を心配しての事だが、もう流れは動いてしまっているのだ。

今さらできませんは通らない。

俺がこの身体と命させ賭ければ、それで済む話だ。

トヨタ主幹である患者の中原さんが、岩上整体へ飛び込んでくる。

必死に整体を辞める事に反対してくれた。

本当に気持ちがありがたかった。

でも、真の閉店理由なんて絶対に言い出せない。

ずっとこんな整体を支えてきてくれた大切な患者の一人。

誠心誠意謝る事しかできなかった。

中原さんだけではない。

銀行員の渡辺信さんも、泣きそうな顔をしながら必死に止めてくれた。

美容師の小輪瀬さん、こしじの岩沢さん、伊藤弥生さん、長澤さん、橋口さん、甲斐さん、橋本さんなどはとても惜しんでくれる。

きょうちんは散々嫌だと駄々を捏ねたが、何とか納得してもらう。

彼女は家に帰って、ミクシーで早速俺の記事を書いていた。

 


二千七年十二月十日

リハビリ?

 

引越し作業も 無事終了しました。

…が若くない引越し作業で、私の身体はガタガタ……。

今日ベビーサインで終了後ランチに行きたかったものの、無理な事に気づき、サイン終了後実家にわたを預け、マイミク岩上整体さんに出陣。

…が、入り口に何かを書いてある事を発見……。

今月中旬で閉める?

そんなあ……。

それはともかく、がっちり肩を治してもらいました……。

本当ほぐしまくってもらいました。

来月も、強制的にお願いするつもりの私です。

だってこの肩を治してくれるのは、彼しかいないんですもん。

 

きょうちん


 

本当に彼女らしいな。

思わずクスッと笑ってしまう。

うん、来月ね。

きょうちんが望むなら、いつだって施術しますよ。

こんな形で岩上整体を閉めるのは、非常に不本意である。

でも、たくさんの人たちから優しい想いを頂いたなあ。

この一年を色々振り返る。

岩上整体の電話が鳴った。

「はい、岩上整体です」

「あのー…、前からずっと気になっていて、ホームページ見たら今月でもう閉まってしまうと…。なので予約をしたいのですが……」

こういう人もいる。

素直に気持ちが嬉しかった。

「了解しました。いつ頃でしょう? それと名前のほうを……」

「明日の二時に、名前は荻野です」

「かしこまりました。荻野様で二時。予約の方承ります」

あとここも何日だよ?

ありがたい話だ。

さて、そろそろター坊のいる柔道場へ向かうか。

 

体重計に乗る。

九十二キロ。

以前総合格闘技へ出た二十九歳の時と同じ体重。

あの年にジャンボ鶴田師匠は亡くなった。

あれから七年半…、本当に俺は不甲斐ない弟子だ。

ヘビー級の体重まであと最低でも八キロの増量。

増やせるか?

違うだろ。

増やすんだよ。

格闘家として価値なんて俺には無い。

小説で賞を取った小説家が、本を出し、その四日後に総合格闘技へ出るという物珍しさ。

俺の価値などそれだけに過ぎない。

思い違いをするなよ。

勘違いするな。

すべての物事の底辺でいい、俺など。

まだ何も築けていないのだ。

トレーニングを終え、岩上整体を開ける。

高周波を使ってのトレーニングの開始。

患者がいない内は、これで細部まで鍛えないと。

電圧のつまみを上げる。

「う、痛っ……」

まるで生け花で使う剣山で、つけている個所を何度も刺されるような感覚と痛み。

耐えろ、筋肉の質を上げるんだろ?

試合まで時間が無いんだ。

できる限りの事はしよう。

何セットの高周波トレーニングをしただろうか。

まだあの頃の研ぎ澄まされた感覚は戻っていない。

ちょっと休憩入れるか……。

時計を見ると昼の一時五十分。

そろそろ昨日の患者が来る頃だろう。

タバコに火をつけ、岩上整体テーマ曲を掛ける。

奇麗な音色は、俺の心を癒してくれる。

ドアが開く。

「すみません、昨日連絡した荻野ですが……」

入ってきた患者を見て、俺は驚いた。

「お、おぎゃん?」

小学一、二年の時同じクラスだった荻野務ことおぎゃん。

中学は別々だから、小学校卒業以来だ。

「久しぶりです」

「何だよ、先に言ってよ! おぎゃんだなんて思いもしなかったよ。来てくれてありがとう」

久しぶりの再会を懐かしんだ。

彼の肩を施術中「岩ヤン…、本当に総合格闘技出るの?」と聞いてくる。

「うん、ブランクあるから、どこまでできるか分からないけどね」

「ぼ、僕ね…。岩ヤンの試合…、応援に行くから」

「ありがとう……」

危なく泣きそうだった。

小学時代の同級生の絆。

クソ内野、絆っていうのはこういうのを言うだからな。

心の中でボソッと呟いた。

 

家に出版社サイマリンガルから作者寄贈用として『新宿クレッシェンド』の本が五冊届く。

まだ発売する前の本。

俺は手に取り、ギュッと胸に抱き締める。

俺がこの手で生み出したものだ。

俺にとって長男みたいなもの。

百合子との間にできた子供の事を思い出した。

あの時おろさず産んでいたら、どうなっていたのだろう……。

俺は罪深い。

目を閉じて黙祷を捧げた。

百合子と別れて、もう少しで一年が経とうとしていた。

あなたはステージを降りたのです。

群馬の先生の言葉を思い出す。

そう、俺には彼女の今を気にする資格すら無い。

病的に俺にしつこく食い下がった百合子。

確かに本当によく俺へ尽くしてくれたもんな……。

でも俺は、彼女を受け止めきれなかったのだ。

娘の里穂や早紀は、どうしているだろうか?

やめよう……。

俺はステージを降りてしまったのだから。

目の前にある五冊の本。

あげたい人は決まっていた。

最初はおじいちゃんへ。

不肖の孫ができるちょっとした恩返し。

まず昔から付き合いがあり、俺にパソコンのスキルを伝授してくれた坊之園智こと坊主さんへ。

俺の兄貴分的存在でその立ち振る舞いは見本にさせてもらった先輩の岡部さん。

あと二冊……。

口うるさいが俺の事を気に掛けてくれている弟の徹也へ。

残り一冊。

一番下の弟の貴彦は、結局岩上整体へ一度も顔すら出さない。

あいつはもういい。

多額の金をあげても、感謝すらしないような性格なのだから。

誰にあげる?

本当は自分で分かっていた。

何か心に引っ掛かっていただけ。

お袋が家を出て行ってから、世話になったんだろう?

最後の一冊は、親父の妹、叔母さんでもあるピーちゃんへ渡そう。

 

居間へ行き、おじいちゃんへ『新宿クレッシェンド』を手渡す。

「おじいちゃん! 俺の書いた小説。一番始めに渡すから」

「そうか、よくやったな」

色々この本ができるまで経緯を話した。

家で働くパートの伊藤久子が居間へ入ってくる。

おじいちゃんが持っている本を見ると「あら、智ちゃんの本になったのね。ちょっと見せて」と手に取った。

俺の小説を以前は酷評された。

でも整体では祝い金もくれ、何度も足を運んでくれた。

わだかまりより今となっては感謝のほうが強い。

「伊藤さん、どうです。俺の小説が世に出ましたよ」

「うん、あなたは偉いわ。頑張ったね」

そこへ叔母であるピーちゃんが入ってきた。

親父が家業を継いでから、元々反りが合わないぴーちゃんは、岩上クリーニングを辞めた。

しかし家の三階には住んでいるし、おじいちゃんの食事の世話をする為、昼と夜は一階へ降りて来る。

俺は走って部屋へ戻り、もう一冊の『新宿クレッシェンド』を持ってきた。

「はい、ピーちゃん。これ」

本を目の前に出すと、怪訝そうな顔で受け取り「何だよ、これ」と言ってくる。

相変わらず口が悪い。

いや、気にするな。

「賞を取った俺の本! 出版社からやっと完成して送られてきたんだ。もらってほしい」

黙ったままピーちゃんは、本をパラパラとめくる。

冒頭のシーンを読んでいるみたいだ。

俺は黙って様子を伺う。

しばらくしてからピーちゃんは口を開く。

「おまえの本は読んでいて暗くなるから、読むのが嫌だ」

「はあ?」

「こんなものに千円出して、買う人間の気が知れない」

「おい、何だとこの野郎!」

一気に血が頭に上った。

掴み掛ろうとする俺を慌てて伊藤久子が止めに入る。

「やめなさい、智ちゃん!」

しばらくピーちゃんを睨み付けていた。

俺がどんな想いでこの本になるまで色々やったと思っているのだ。

「智一郎、落ち着け」

おじいちゃんの間に入って来る。

俺は少し距離を取り、軽く深呼吸した。

何でいつもこうなるんだ?

俺がおかしいのか?

いや、違うだろ?

本をプレゼントしただけだ。

何でいつも、こうなる……。

群馬の先生の言葉を思い出す。

「なにかこう…、なんて言うのでしょうね…。おばさんの右側にカミソリ…、しかも相手に刃の部分を向けて五本。自分を守るのに一生懸命で、近づく相手にそのカミソリを上から下にギィッとおろす…。凄い嫌なイメージが見えました。あなたの親戚関係なの?」

そう、群馬の先生が言うように俺は今、カミソリを上から下にギィッと振り下ろされたような感覚。

「では、和解するのは無理ですか?」

「辛いでしょうけど…、あなたが傷つくだけです……」

そうなんだよな……。

こんな本一冊で分かり合おうとした俺が馬鹿だったのだ。

俺は『新宿クレッシェンド』を思い切り床へ叩きつけた。

「智ちゃん!」

伊藤久子が本を拾う。

「伊藤さん…、そんなんで良かったらもらって下さい」

俺は黙ったまま、二階へ上がり自分の部屋へ閉じ籠もった。

そして膝を抱えて静かに泣いた。

 

一時間ほどしてから、整体を開けないといけないと気付く。

たまたま昼に食事休憩と称して抜け出しているだけなのだ。

患者が来ているかもしれない。

俺には落ち込んでいる暇などないのだ。

部屋を出て階段を降りていると、一階の居間から親父の怒鳴り声が聞こえてくる。

「だいたいテメーみたいな奴がな、ここにいるんじゃねえ!」

「やめないか、智!」

いつもの光景。

ただ家に居座るピーちゃんの姿を見掛けた親父の機嫌が悪くなり、譲り合わない兄妹。

果てしなく続く罵り合い。

おじいちゃんや伊藤久子が止めに入らない限り、永遠に続く。

うんざりだった。

「さ、智さん!」

伊藤久子の声が聞こえる。

「智! まったくおまえは」

おじいちゃんの大声まで聞こえた。

親父がピーちゃんを殴ったのだなと分かる。

先程の一件で、ピーちゃんなど放っておきたかった。

俺が助ける義理なんて、これっぽっちも無い。

「ねえ、智ちゃん。ちょっと来てよ!」

玄関で靴を履いていると、伊藤久子が背後から声を掛けてくる。

気配で俺だと分かったのだろう。

おじいちゃんもいるし、仕方ないか……。

俺は靴を脱ぎ捨て、居間へ向かう。

ピーちゃんは鼻を両手で押さえながら、親父を睨み付けている。

床に滴り落ちる血。

いつもやり過ぎなんだよな、親父は……。

入ってきた俺を睨み付ける親父。

俺も黙ったまま睨み返す。

憎悪を憎悪で塗り固め過ぎ、混乱したままの家族。

「何だ、テメーは!」

親父は俺に対しても噛み付いてくる。

「もういい加減、気に食わないからって暴力は止めなよ……」

「うるせぇーっ! テメーには関係無えだろうが!」

いつもこのやり取り。

本当にうんざりする。

「暴力は止めろ」

「この女何にもしねえのに、ウロウロしてっからだろうが!」

こうなると親父は一切引かない。

何を言っても通じない。

またピーちゃんを蹴飛ばす。

俺は間に入り、強引に引き離す。

「止めろよ、親父……」

「うるせぇー、どけっ!」

「どかねえよ。いいから止めろ」

「離せっ!」

俺の顔面を掴んできたので、胸倉を掴み返しそのまま持ち上げた。

「止めろって、本当に!」

俺は一度だって親父を殴った事が無い。

一度でも殴ってしまったら、恐らくタガが外れしまう……。

「ピーちゃん! 頼むから三階へ行ってくれ」

おじいちゃんが困るのだけは嫌だった。

強引にピーちゃんを守りながら、居間から出させる。

親父が掴み掛ろうとするので、身体を張って止めた。

「おじいちゃんも自分の部屋へ行って。お願いだから……」

俺と親父だけになると「この恥っ晒しが」と捨て台詞を吐き、仕事へ戻った。

駄目だ、この精神状態じゃ整体どころじゃない……。

また部屋へ戻り、俺は廊下の壁を何度も殴った。

二階の廊下の壁は何ヵ所も穴が空いている。

すべて俺が殴って破壊したものだった。

血だらけになる拳。

本当に殺さないと分からないのかよ……。

自分の顔を両手で鷲掴み、しばらくそのままでいた。

 

今日はこのまま整体は休もう。

ター坊には悪いが、柔道場のほうも……。

もう何もかも嫌だ。

何で本を渡しに来ただけなのに、こうなってしまうんだ。

こんな状態で整体はもうちょっとで閉め、リングの上で戦うのかよ?

本を出したって褒めてくれたの、おじいちゃんだけじゃんかよ……。

髪の毛を掻き毟る。

銀行員の渡辺信さんから着信が入った。

「あれ、先生まだ食事中なんですか?」

「あ、信さん。どうかしましたか?」

「いえね、さっき昼頃来たら食事中で、今もまた来たらまだ戻っていないようなので」

時計は二時半を過ぎていた。

「あ、ごめんなさい。今から行けます。あと五分くらいで着きますので」

俺にはこうして待ってくれている患者だっている。

もう岩上整体をやる日にちなんて、あと少ししかないんだろ?

患者を裏切るなよ。

俺は急いで整体へ向かう。

入口のところで信さんがタバコを吸っていた。

「すみません、信さん……」

「ん、あれ? 先生顔色あんま良くないですよ? 大丈夫なんですか?」

「あ、大丈夫ですよ。今開けますから」

整体へ招き入れる。

コーヒーを淹れ、彼へ出す。

「あっ! これって先生の本じゃないですか!」

今日、整体が終わったら先輩の岡部さんへ渡そうと持ってきた『新宿クレッシェンド』。

本を見て、信さんは興奮していた。

「とうとう本になったんだあ…。先生、ちょっと読ませてもらってもいいですか?」

「ええ、どうぞ」

信さんは本を見ながら、俺の事をべた褒めしてくれる。

うん、これが普通の反応なんだよな。

自分だって思うもんな、凄い事できたって。

でも、何で家ではああなってしまうんだろう……。

否定しかしない叔母さんのピーちゃん。

そしてまったく話にならない傍若無人な親父。

「先生…。どうしたんですか、先生?」

信さんが俺の顔を不思議そうに覗き込んでいる。

「あ、何でもないですよ。すみません」

信さんは急に真面目な顔つきになった。

「あれ、どうかしましたか?」

「先生ね…。自分でどれだけ凄い事をしてるのか自覚あるんですか?」

「え、凄い事って?」

「先生ね、一人でこの整体開けてさ、小説だって賞取って、こう本になっている。俺だってそうだけと先生の施術が好きで、ここへ来る患者だってたくさん見てる。でも先生はもうここを辞めて、格闘技のほうへ行っちゃう……」

「あ、それについては本当に申し訳ないと思っています」

「何でね、それならに全然嬉しそうじゃないんだよ!」

「え?」

「あんたね、普通じゃない事やってんだよ! だから俺だけでなく色々な人が先生のところへ集まってる。それを辞めて好きな格闘技へ行くんだろ? 何で全然嬉しそうじゃないんだよ!」

二つ年上でいつだって温厚な信さんが、初めて怒った口調で俺に言った。

うん、そうだ。

俺って全然幸せなど感じていない。

両手で顔を押さえて泣いてしまった。

感情が抑えられなかったのだ。

「先生ね、ごめんなさい。乱暴な言い方して。俺はね、先生の事が人間的に凄い好きなんですよ。だから余計にここが無くなるのが堪えられない辛いし残念だし、でもね先生が決めた道なんだったら、やっぱ応援したいし……」

「……」

声がうまく出せなかった。

信さんは俺の肩に手を乗せる。

「何かあったんでしょ? 俺、話くらい聞きますよ」

俺は初めて患者に、色々な事を時間を掛けて話した。

同級生の内野に騙された金を取られた事。

それに伴いまた金を稼ごうと格闘技へ復帰するも、ファイトマネーはたった三万円だった事。

家の簡単な内情。

信さんは黙って頷きながら聞いてくれた。

「うーん、なるほどねー…。先生がまったく嬉しそうじゃないのが、分かりましたよ。確かに笑えないもんな……」

この日は整体も閉め、トレーニングは休み、信さんととことん語り合った。

 

ドアが開く。

「昇ちゃんから聞いたけど、岩上君ここを閉めちゃうんだって?」

森田昇次郎のお袋さんが入ってくる。

「あ、お母さん、大変申し訳ございません。散々良くしてもらったのに……」

「ううん、しょうがないよ。人間色々あるもんね。岩上君は本だってこれから出すし、色々忙しくなっちゃうからね」

「……」

「また腰をやっておくれよ。これが最後になっちゃうのかな」

俺はいつものように施術を始める。

本当にこの人にはお世話になった。

定期的に顔出してくれ、よく差し入れだってしてくれる。

ここ最近の忙しさで、せっかく頂いた糠味噌を駄目にしてしまった。

その事はさすがに言い出せない。

施術が終わると、森昇のお袋さんはジッと俺の顔を見て口を開いた。

「私はね、うんと小さい時からあんたの事は知っていたんだよ。うちの昇ちゃんから聞いてね。ほら、同じクラスだっただろ? 小さい内からお母さん出て行ってしまい、六軒町のすぐ近所で別の男の人と一緒に飲食店をやってるってね。私はずっと昔から気になっていてね。そんなあんたが駅前で整体を開業したって聞いてね。だから、私はあんたの力に少しでもなってあげたいなあってね。そう思ったんだ」

本当に優しいなあ……。

心に刺さっていた無数の棘が、かなり溶けていく。

俺は深々と頭を下げた。

俺のお袋とはもう十数年も会っていないし、今どうしているかなんて分からない。

出て行ったお袋のあと、育ててくれた叔母さんのピーちゃんはいつからか酷い人間関係だ。

あれならまだ他人同士のほうがマシだろう。

母さん……。

僕には、母さんと呼べる人間がいません。

だから、あなたの事を心の中だけでいいので、「母さん」と呼ばせてもらっていいでしょうか?

駄目だったら、しょうがないです。

だって嫌な思いなど、させたくないから……。

口には出せなかったが、心の中でそう思った。

森昇のお袋さんが帰ると、俺はパソコンを立ち上げワードを起動する。

書こう、小説を……。

タイトルは『擬似母』。

 


擬似母

 母さん……。

 僕には、母さんと呼べる人間がいません。

 だから、あなたの事を心の中だけでいいので、「母さん」と呼ばせてもらっていいでしょうか?

 駄目だったら、しょうがないです。

 だって嫌な思いなど、させたくないから……。

 

 時田次郎。二十三歳。…と、言っても明日でもう二十四歳になる。

 血液型B型。兄弟はいない。いや、僕が生まれる前だったらしいが、兄さんがいたらしい。でも、体が弱く一歳にもならない内に病気で亡くなったそうだ。

 そして、僕が三歳の時に、父さんは癌で亡くなった。

 ずっと女手一人で育てられてきたが、いつも母さんは苛立っているようだった。

「次郎、おまえは何でいつもそんな卑屈な顔をしてるんだい!」

 普通に居間で立っていただけなのに、母さんは、僕を容赦なく叩いた。「ごめんなさい」を連呼しても、母さんは自分の気の済むまで僕を叩く。だから両腕で顔を叩かれないようにガードするのに精一杯だった。

 頭はそんなに良くない。テストも半分ぐらいいけば、まあ、マシなほうだ。

 だからテストを家に持って帰る日は、とても怖かった。何故なら、世間体を気にする母さんは悪鬼羅刹のような表情で、僕を叩くからである。

 何度か死のうかなって考えた時期もあった。だけど、写真でしか見た事のない兄さんが、幼い姿のまま、決まって夢に出てきた。

「兄ちゃん!」

 夢の中なのに、僕は兄さんに向かおうとすると、兄さんは決まって僕を突き飛ばした。言葉を交わした事はない。それでも何となく兄さんは、まだこっちに来ちゃいけない。そんな風に言っているような感じがした。

 生きるという事は、死ぬことよりも辛く大変な事だと思う。だからこそ、喜びや悲しみなどの感情があるのかもしれない。

 小学校四年生になったぐらいに、母さんは、家へ知らない男の人を入れるようになった。

 ある日、母さんがいない時、僕が一人で留守番をしていると、知らないおじさんが家に入ってきた。僕を見ると、「坊主、腹減ってんのか? これでお菓子でも買ってきな」そう言って、クシャクシャの千円札を投げてきた。

 僕は、恐る恐るその千円札を拾うと、猛ダッシュで家から飛び出した。その金でお菓子を買い、ゲームセンターに行って遊んだ。普段、できないような事をしているから、楽しいはずなのに、何だかジトッとした視線で、常に背中を見られているような嫌な感じがした。

 母さんは、何人もの知らない男を次々と、家に上げた。

 僕は、障子のふすまからジッと見ているだけだ。母さんは、そんな僕に気がつくと、烈火の如く怒り出し、百円玉を握らされ外へ追い出された。

 寒い冬の季節でも、構わず外に出される僕。百円でできる事など非常に限られる。お菓子を買ってしまうと、時間が潰せない。だから決まってゲームセンターへ行って、学生服を着た中校生たちがやっているゲームを眺めながら、時間をひたすら潰した。

 中には僕を可愛がってくれるお兄ちゃんもいた。小学生の僕がいつも一人でゲームセンターへ来ている事に疑問を抱いたのか、いつも「あれ、おまえの母ちゃんは?」と同じ事を聞いてくる。

「いないよ。僕、一人」と答えると、お兄ちゃんは僕の頭の上に優しく手を置いて、「そっか、じゃあ、俺と遊ぶか」と満面の笑顔を見せてくれた。お兄ちゃんの右のこめかみには、何故か三本の傷があった。

「ねえ、お兄ちゃん。その傷どうしたの?」

 仲良くなってしばらく経ち、僕はそのお兄ちゃんに尋ねてみた。

「ん、ああ…。これか…。う~ん、おまえの母ちゃんって優しいか?」

 お兄ちゃんは、僕の質問には答えず、逆に質問をしてくる。僕の母さんは優しいか?

「分かんない……」

 いつもぶたれてばかりで、邪魔者扱い。本当は「優しくなんかない」と叫びたかった。

「そっか…。お兄ちゃんのこれはな。お兄ちゃんの母ちゃんにつけられたんだよ」

 学生服のお兄ちゃんは、寂しそうな顔でこめかみの傷を指で撫でた。

「痛かった?」

「そりゃあ、痛いさ、はは…。だけど、体よりも心のほうが痛かったなあ……」

 そう言いながら、お兄ちゃんは、僕にソフトクリームを買ってくれた。

 

 小学六年生の時だった。

 学校から帰ると、居間のテーブルで母さんが突っ伏しながら、泣き崩れていた。

「お母さん、どうしたの?」

 心配で駆け寄り、肩に手を置く。すると、母さんは僕の手を乱暴に払いのけた。勢いで地面に尻餅をつくと、母さんは泣き崩れた顔を上げ、ゆっくり僕のほうを見た。

「次郎、ごめんね…。ほんとごめんね……」

 咄嗟に身構えてしまう。いつもこのパターンから母さんは豹変し、急に僕を殴りつけるからだ。だが、この時はいつもと違った。

 両腕で顔をガードしていると、その上から優しく僕を抱き締める母さん。

「ごめんね、次郎…。母さん、馬鹿だった」

「お母さん……」

「お腹、減ったでしょ? 今日は、どこかおいしいところでも食べに行っちゃおうか?」

「うん!」

 目は真っ赤で、化粧も崩れていたが、母さんは優しく僕に微笑んでくれた。

「何が食べたい?」

「う~んとね~……」

 僕は、ゲームセンターでいつも会うお兄ちゃんとの約束を思い出した。

 その日、好きな食べ物を聞かれた。僕は、「お子さまランチを食べた事ないから、一度でいいから食べてみたい」と答えた。

「ははは…、ほんと、おまえとは何か似たようなものを感じるよ。お子さまランチか…。よし、分かった。今はまだ無理だけど、あとちょっとしたら、俺がご馳走してやるよ」

「ほんと?」

「ああ、嘘はつかねえよ。俺、おまえの事、不思議と気に入ってるからな。お子さまランチを近い内、食わせてやるよ」

 そう言って、こめかみに三本傷のあるお兄ちゃんは、小指を差し出した。

「指切り?」

「ああ、指切りげんまんだ。嘘ついたら、針を千本飲んでやる」

「針を千本も飲んだら、死んじゃうよ?」

「ははは、だから嘘をつかなきゃいいんだろ」

「そうだね。お兄ちゃん、嘘ついちゃ駄目だよ」

「ああ、つかねえよ。俺は、赤崎隼人ってんだ。おまえは?」

「と、時田次郎」

「次郎…。って事は兄貴がいるのか?」

「ううん、いないよ……」

「そっか、じゃあ約束な、次郎」

「うん、隼人兄ちゃん」

 優しいお兄ちゃんは、気遣ってか何故兄がいないのかを聞いてこなかった。

「もうちょいでバイト代入るんだ。それまで待ってろよな」

 小四の時に知り合った隼人兄ちゃんは、高校生になっていた。だからアルバイトをして金を稼ぐ事もできる。自由に金を使える隼人兄ちゃんが羨ましかった。

 お子さまランチは、隼人兄ちゃんが食べさせてくれる。男同士の約束をしたんだ。だから、母さんとは別のものを食べたい。

「次郎、何を食べたいんだい?」

「う~ん、オムライス」

「じゃあ、ドイツ食堂のオムライスを食べに行こうか?」

「ほんと?」

「ああ、本当だよ」

 いつもより不自然過ぎるぐらい優しい母さん。そんな事、どうでもいいぐらい嬉しかった。

 そしていつも誰からしらいる知らないおじさんが、家にいないという状況も素直にホッとした。

 僕は、母さんと手を繋いでドイツ食堂へ向かった。

 

「おいし?」

 両肘をつき頬を支えながら、僕を覗き込むように母さんは言った。

「うん、おいしい!」

「そう、良かった」

 つけ合わせのサラダは少しだけしょっぱかったけど、それでもオムライスは抜群のうまさだった。デザートにオレンジのシャーベットまで出てくる。とても幸せな気分だった。

 ドイツの国旗が店内に飾ってある以外、どの辺がドイツ食堂なのかさっぱり分からなかったが、それでも楽しいひと時を過ごせた。

 ルンルン気分で家に帰る。久しぶりに親子の会話をしたような気がした。

 もうちょっと経ったら、隼人兄ちゃんがお子さまランチをご馳走してくれるんだ……。

 そう思うと、こんな幸せでいいのだろうかと怖くなる。

「次郎、一緒に母さんとお風呂入ろうよ」

「えー、いいよ~……」

 小学校六年生にもなって、母さんと一緒に風呂へ入るなんて、正直恥ずかしい。

「たまにはいいでしょ、ほら」

 半ば強引に風呂場へ拉致される僕。

 恥ずかしさもあったが、それより母さんと仲良く一緒にいられるという事が嬉しかった。

「背中、流してあげるよ」

「いいよ~、自分で洗うから」

「いいから、後ろ向きなって」

 母さんと一緒に風呂へ入るなんていつ以来だろう。今までは、きっと何か原因があったのだ。元々、母さんは優しいのだ。

 父さんが、病気で亡くなってしまい、寂しかったのかもしれない。まだ幼い僕じゃ、父さんの代わりにはなれない。大きくなったら立派になって、母さんをたくさん喜ばせてあげよう。

 そんな事を考えながら、鏡を見た瞬間だった。

「……!」

 鏡越しに映った鈍い光。慌てて僕は振り返る。

 何故か母さんの右手には、剃刀が握られていた。

「お、お母さん…、それ、どうすんの?」

「あ、これはね、無駄毛処理に使うんだよね」

「無駄毛?」

「うん、でも今日はちょっと違うんだ」

「え、どうすんの?」

「次郎、手を出してごらん」

 言われるままに手を差し出す僕。すると、ヒリッとした鋭い痛みが走った。

「あらあら、何をしてんの、次郎。駄目でしょ、動いちゃ……」

 一本の赤い筋が、僕の右手首に見える。いや、筋ではなく血だった。

「お、お母さん!」

「ほら、いい子だから動かないで」

 僕の右手首を強引につかみ、母さんは剃刀を横に当てた。

「や、やめて……」

「大丈夫。大丈夫だから…。母さんもすぐあとを追うから」

「嫌だよ! やめて、お母さん」

「次郎! お願いだから言う事を聞いて!」

「や、やめてよ。お母さん……」

「もうこれ以上はたくさんなの…。何人の男に騙され続けられたんだろ。もう母さんね。生きる気力なくなっちゃったの。次郎、お願いだから動かないで」

「お母さん、どうしちゃったんだよー?」

「二人で楽しいところへ行こう、ね?」

「嫌だっ!」

 今にも母さんは、僕の右手首に剃刀を当て、引こうとするところだった。空いている左腕で、渾身の力を込め、母さんの肩をつっぺした。

 ガラン……。

 凄まじい勢いで後ろへ反っくり返る母さん。

「お母さん!」

 いくら叫んでも、母さんは目をギョロっと見開いたまま、天井を見つめているばかりだった。

「お母さ~んっ!」

 母さんの後頭部から真っ赤な血が流れ、風呂場の床を赤く染めている。

「お、お母さん……」

 風呂場の床へ頭をぶつけ、母さんは死んでいた。

 僕が、殺しちゃったんだ……。


 

何かスラスラ書けるなあ……。

でもそろそろ柔道場へ行く時間か。

ター坊が待っている。

そして戦う時間が徐々に近づいてくる。

 

 


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