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2024/11/27 wed
前回の章
試合が終わる。
大の字にリングに横たわる俺。
先輩の岡部さんがリングサイドへ駆け寄り「智一郎! 智一郎!」と連呼している。
致命傷を受ける前にタップしていたので、実はそうダメージは無かった。
ムクッと起き上がる。
ロープに寄り掛かり「すみません、負けちゃいました」と岡部さんへ声を掛けた。
対戦相手が握手を求めてきたので応じ、左手で頭をポンポンと軽く叩いく。
あらら、負けちゃったか……。
リングを降り、最前列に陣取る俺の応援団へ一人一人手を握り頭を下げた。
徹夜でコンディションが?
言い訳だ。
俺は負けたのである。
本を全国書店へ出せて、自分の一番好きなテーマ曲で入場できたのだ。
充分だろ?
奥の選手用通路へ入ると、後ろを歩く徹也に声を掛けた。
「どんな気分だ? プロの試合のセコンドにつけて」
笑顔で聞くと、仏頂面の徹也は俺を見て「いい赤っ恥を掻いたよ」と吐き捨てるように言った。
「んだと、このクソガキが!」
俺が徹也の髪の毛を掴みながら壁に叩き付けると、慌ててター坊が止めに入る。
「智さん! 落ち着いて! 徹也さんも悪気あって言ったわけじゃ……」
「舐めてんじゃねえぞ、小僧が!」
徹也の頭を壁に何度も叩き付けた。
「智さん! お願いします! 智さん!」
「ター坊、おまえもどけよ!」
俺は一人で控え室に入り、スーツに着替えた。
何で俺は、いつもこうなんだろうな。
相手に対して怒りがないと、本気で戦わない。
前後に色々あったにせよ俺は小説を世に出し、自分の好きなテーマ曲で入場できたのだ。
その時点で幸せだった。
憎くもない相手に本気で殴る事はできない。
相手を潰すような技も出せない。
勝ち負けよりも、俺はそこを重視してしまう。
元々格闘家として向いていないのだ。
だがブランク七年半の試合を経て、俺はどこも壊れていない。
無駄に頑丈な身体だ。
馬鹿だよな、俺は……。
控え室を出ると、通路で俺を待っていた三枝さんが「お疲れ様!」と声を掛けてくる。
「三枝さん、ごめんなさい。負けてしまいました」
「いやいや、本当怪我が無くて良かった。本当に良かった」
同じ町内連雀に住む三枝さんは、元々は違う市の出身である。
十月に行われる川越祭りを見ていて、どうしても連雀町の山車を引きたくなり町内のマンションを買って引っ越してきた変わり者だ。
今までは挨拶程度の仲だったのに、こうまで親身になって俺を心配してくれている。
「ごめんね、控え室まで押し掛けちゃって」
「いえいえ、嬉しかったですよ」
試合に出て負けたのはいい。
ただ帰り際弟の徹也の「いい赤っ恥を搔いた」という台詞が許せなかった。
俺が賞を取った時も、やたらしゃしゃり出てきた徹也。
兄貴はこうしたほうがいいとか、出版社に対してこうだとか、とにかくうるさかった。
これは何に対しても言える事だが、相手がアドバイスを求めてきてこそ初めて意見を言っていいのだ。
人と言うのはとにかく言いたがりな生き物である。
頼んでいないのに口出しされるのは、ただの迷惑行為なだけ。
評論家という類がいまいち好きになれないのは、そういったものが原因でもある。
言うとやるは違う。
全然別物。
例えば今回のケースで例えるなら、自分で小説を書いて賞を取って本を出版し、プロのリングで自ら戦えばいいのだ。
それを何もしないでああしたほうがいい、こうしたほうがいいは、ただの絵空事に過ぎない。
本当にそのアドバイスがいいもので成功すると思っているのなら、自分で同じ事をやって成果を出し、それでそれを実践すればいいのだ。
会場の外へ出ると、従妹の直孝と小学時代の同級生おぎゃんが俺を待っていた。
他の応援してくれた人たちは、それぞれ飲みや食事へ行ったり、または帰ったりしたそうだ。
奥から坊主さんが出てくる。
「またおまえ、手を抜いて戦ったろ?」
二十九歳の総合格闘技でセコンドについてくれた坊主さん。
俺の性格を昔から熟知している。
「いや、対戦相手が妙に試合前礼儀正しかったのと……」
「負けたから試合の映像撮ってたけど、帰ったら削除するから」
「えー! 坊主さん、頼みますよ」
「まあ帰って裕子と相談してからね」
「え、坊主も帰っちゃうですか?」
「俺はこう見えて結構忙しいの。おまえの試合だからって仕事抜け出して来てんだから」
「すみませんです、坊主さん」
坊主さんは忙しそうに駅へ向かう。
「おぎゃんと直ちゃんはどうするの?」
「いや、特にこれといって予定も無いし」
「僕もです」
せっかくの歌舞伎町だ。
俺は昔から通っている中華料理叙楽苑に、二人を案内する。
『新宿クレッシェンド』の表紙の撮影で、編集の今井貴子とカメラマンを連れてきた以来。
「これまた凄い雰囲気あるところですね」
それはそうだ。
薄暗い裏路地で、人なんてほとんど通らない。
叙楽苑の隣の建物は、巣鴨警察留置所で同部屋だったヤクザの原さんのいる事務所があるし。
今は刑務所行っちゃっているけど……。
「実際に格闘技見てみるとさ、俺は智ちゃんを小さい時から知っているから、最後のフロントチョークの時なんか、本当に死んじゃうから早くタップしてって思わず叫んじゃったもん」
七つ違いの直孝。
従妹の彼が急遽応援に来てくれ、俺の小説を読んでくれたのはとても嬉しかった。
親である修叔父さんが『新宿クレッシェンド』の発売日に本屋にあるだけ買ってきて、その一冊が直孝の部屋の前に置いてあったそうだ。
それまで小説を読んだ事も無い直孝だったが、作者の名前を見て俺だと驚き、読んだら止まらなくなったと感想をくれた。
直孝は埼京線なので、新宿駅へ。
俺とおぎゃんは西武新宿駅へと向かった。
駅に着くと着信が入る。
先日抱いた神父の妻の望からの電話。
俺が電話に出ると望は泣き出した。
まず俺の身体の安否がずっと気掛かりだったらしい。
「そんなにあれだったら、会場来れば良かったのに」
「目の前で見るのが本当に怖くて……」
「まあ試合には負けちゃったから、来なくて良かったけどね」
あえて戯けてみせる。
「また会いたいです……」
「うん、また時間合わせて美味しいもの食べに行こう」
人妻望との不倫。
すでに二度と抱いた。
彼女からすれば、感情の歯止めが利かなくなっているのかもしれない。
電話を切るとまた着信が入る。
こしじの岩沢さんからだった。
「良かった、無事で…。先生が試合なんて言うから、怪我しないか心配で心配で……」
親しい人間は、俺の試合の勝敗よりも、身体の安否を気遣ってくれる。
またこしじへ食べに行きたいな。
おぎゃんと話しながらも、頭の中では望の事を考えていた。
本川越駅に着いて、おぎゃんと別れる。
「今日は本当にお疲れ様。いやー、怪我が無くて本当に良かった。さすが昭和のレスラー!」
「いやいや、俺の試合に応援来てくれて本当にありがとう。俺が全日本行ったのって、平成だって!」
何故かおぎゃんは俺の事をやたらと昭和のレスラーと呼ぶ。
その言い方が相応しいのは、ジャンボ鶴田師匠の世代だ。
笑顔で別れて家へ戻る。
部屋に帰るとチャブーから電話が入った。
整体の片付けを手伝ってくれた事は感謝したけど、試合は来ないとか賞を取った時も眠いから来ないとか、変なところで希薄なんだよな……。
まあ一応出てみるか。
「はい、もしもし」
「ややや、岩上。何かおまえのブログ見ていたらさ、みんなおめでとうございますってコメント見ていてイライラしちゃってね…。だから俺は、絶対におまえの本なんか買うもんかって思ったんだ」
開口一番何を抜かしてんだ、コイツ。
「おい、おまえ、俺に喧嘩売ってんのか?」
「そんなんじゃない。ただ、俺も何クソと思って、自分の思っている事をパソコンで書いてみたんだ。それでさ、おまえの出版社にそれを渡して、本にするように言ってくれないか?」
チャブーの台詞を理解するのに時間が掛かった。
「あのさ……、頭大丈夫?」
思った事を文章にしただけで出版社が相手にするのなら、世の中本で埋もれてしまう。
「じゃあ、俺の書いた作品を発表するものは何かない?」
「俺たち三十六でしょ? 例えばさ、三十六歳の知らない男が自分の想いをただ書いてみたって作品をおまえは読みたい?」
「いや、そんなもん、読む訳ないじゃん」
「だろ? だから、おまえの言っている事はすべてにおいてムチャクチャだ」
「何で?」
昔ドラムの腕でヤマハとかいいところまで行ったはずのに、何故分からないのだろうか?
分かり易く説明するも、チャブはまったく理解をしない。
その内俺の試合も応援すら来ないくせに、何を抜かしてんだと苛立ってきた。
「ごめん…、ちょっと今、忙しいから電話切るよ」
まだ何かチャブーは言い掛けていたが、構わず電話を切る。
何でこう変な奴ばかり寄ってくるんだろうな……。
コイツがモデルの『膝蹴り』を近日中に完成させてやろう。
試合後の夜。
この日は知り合いからの電話攻勢だった。
裏稼業ゲーム屋『プロ』時代の同僚の大川。
てっきりシャブ中で消えたと思っていたら、顔はいいので結婚をしていたようだ。
時計の針はもう少しで深夜零時になる。
その時携帯電話がまた鳴った。
今度は誰よ…、確認する前にワンコールで切れる。
自費出版作家山嵐乃兎からだろう。
電話代さえ惜しいくらい金が無いなら、本当に働けばいいのに……。
俺だって試合終わったばかりだけど、現在無職なんだ。
あ、そういえば前回話した時、彼の奥さんが風呂場で亡くなったという話が中途半端だったな。
そこに関してだけは興味があった。
電話を掛けてみる。
「おう、岩上君。あんな、話したい事があったんや」
話があるなら普通に電話してくればいいのに……。
「ワイがよく行く近所の図書館、そこで働く女の話は前にしたやろ?」
「ああ、俺が山嵐さんに抱かれたがってんだから、行っちゃえばいいってやつですね……」
何故試合後の深夜、俺が電話代を払いながら、こんなどうでもいい話を聞かなきゃならないんだ……。
「そう、それでな、その女にワイも手紙送ったんや。気持ちは同じやって内容で。したらな、返事が無いんや。だから何べんか声掛けたら、今日近くの公園で待ってる言うんや」
「はあ……」
「したらのう、その女の前に三人の変な男がおったんや」
くだらない話であるが、面白そうな展開になってきた。
「チビ、デブ、ブサイクの日雇い労働者みたいな定職にもつけへんような半端な連中やで?」
「それ…、いや、それでどうなりました?」
それはあなたも変わらないのではと、危なく言いそうになった。
「その内のチビっこいのがのう、『あんた、彼女がどれだけ迷惑してるか分かってるのか』と生意気にもしゃしゃり出て来たんやで。何様のつもりや、あの無職が! ワイと女の恋路にしゃしゃり出てきよって」
いやいや、あなたも無職じゃないですか……。
しかも山嵐の勘違いで、その図書館の女性は困り果て、三人組にヘルプミーをしたのでは?
そういえば、徹夜で試合してきて、今俺何十時間置きっ放しなんだ?
山嵐の嫁の話は今度にしよう。
さすがに眠くなってきた。
まだ電話口で山嵐がエキサイティングしていたが、構わず俺は電話を切っで眠った。
家の中で弟の徹也とすれ違う。
「いい赤っ恥を掻いた」
またそんな事を言われた時点で、俺は躊躇いもなくコイツを殴るだろう。
無視して家を出ようとすると、背後から「兄貴」と声を掛けてくる。
俺は無視したまま家を出た。
岩上整体を辞め、小説で賞を取った作家が試合に出て、今日から無職。
こんなの世間に知られたら、いい笑い者だ。
勝てば官軍という言葉があるが、昨日は打突を使ってでも勝つべきだったのかな……。
いやいや、それは違う。
大した生き方など俺はできていない。
しかし何かしらの信念に沿って、俺は生きている。
あ、そうか。
この暇な時間を利用して、群馬の先生のところへ行こう。
連絡をすると今日なら空いていると言うので、早速車へ飛び乗り群馬へ向かう。
正直これからどうしていいのか分からなかった。
小説を世に出したところで、この先の目標が無くなってしまったのだ。
妙に消極的な出版社サイマリンガル。
あの担当編集者の今井貴子は、いまいち信用できない。
俺としては新人作家が、賞を取り格闘技の試合に出た事で、たくさんのマスコミの目を引いた。
大きなところで読売新聞、そしてTBSテレビ、さらにスカイパーフェクトTV。
最高の宣伝材料になったはずなのに、まったく協力しない出版社。
どこにこれだけのマスコミを集められる小説家がいる?
俺が気に食わないのか?
それなら何故『新宿クレッシェンド』をグランプリに選んだのだ?
ヤキモキした気持ちの中、車を走らせる。
小説を世に出せば、勝手に道が開けると思っていた。
内野が金を持ち逃げした結果、生まれた総合格闘技復帰だったが、今の俺には三万円の価値しかない現実。
様々な不安と葛藤。
今の自分に価値などあるのか?
無駄に身体だけ大きくして、体重は百キロを超える。
勢いだけで突っ走ってきた。
残ったものは何だ?
本となった『新宿クレッシェンド』。
復帰戦で負けたという事実。
もう岩上整体すら無い。
春美はこれから結婚をしてしまう。
漠然としたただっ広い砂漠の中へ、一人食料も何も無い状態で放り出されたような感覚。
車は群馬の先生のところへ到着した。
「あら、岩上さんにしては珍しく元気が無いわね」
俺はここまでの現状を話した。
「だから格闘技は今世ではもう必要無いから、雷電が袖を引っ張って邪魔をしますよと言ったじゃありませんか」
「……」
俺の前世であり、守護霊だともいう雷電。
それが前日ゴリや古木英大を招き入れ、徹夜で試合へ行かせたと言うのか?
確かに試合で徹夜だろうが、コンディション不足だろうが、俺は自分の意思でタップして負けた。
「先生、俺はどうしたらいいんです?」
「書きなさい。あなたはとにかく書きべきです」
「書く事に苦痛は無いし、いくらだってスランプ無く書けますよ! でも俺は行きています。霞食って生きていける訳じゃないです」
先生はしばらく俺の顔をジーッと見ている。
「岩上さん…、あなたは神に選ばれました。これから先、理不尽な試練がどんどん続くでしょう」
神?
何を言ってんだ、この先生は……。
「試練? もう冗談じゃない! まだこの先腐る程嫌な思いをして、生きていくようだって言うんですか?」
「流れを大切に」
「流れを大切にしたら、こんな風になってしまったんですよ! どうしてくれんですか?」
「私のせいとでも?」
「いや…、言い過ぎました。全部自分で決めて、自分でやった事です……」
両手で顔を鷲掴みした。
「でも…、もう…、疲れましたよ……」
この先どう生きていけばいいのか?
「表舞台を歩きましたよ。本だって世に出しました! でも何故こんな風になってしまうんですか……」
根底に深く沈んでいた鬱積が、一気に出てくる。
「前に言ったと思いますが、あのクソみたいな両親の間で生まれ、蔑まされてきました。だから気付けば全日本プロレスへ行き、歌舞伎町で裏稼業をやり、死にそうになった事なんて腐る程ありましたよ! 小説書いてて気付きました。この身体に流れる呪われた腐った血を全部吐き出したかったって……」
「あなたは究極の絶望を味わいました」
「それで真の優しさを得たからって、何になるんです? 家じゃ親父が社長になり好き放題。戸籍上では世界で一番嫌な女が、気付けば母親になっている。本当にクソみたいな…、掃き溜めみたいな人生ですよ! そんな俺が神に選ばれ、まだこれからも試練がある? 冗談じゃない! 先生、神と会話できるって言うのなら、今すぐ言って下さい! もう試練なんていらない。頼むから平穏無事な日常をくれと……」
言いたい事を言うと、しばらく下を俯いたまま時間だけが過ぎた。
「私は言われた事をあなたへ伝えただけです。なので試練はずっと続くでしょう」
ここから先何があるの?
確かに家の問題は、何一つ解決すらしていない。
親父の傍若無人ぶり。
家の強引に住み着いた物の怪加藤皐月。
否定しかしない伯母さんのピーちゃん。
あれこれ口出しだけしてくる邪魔な弟の徹也。
我関せずの無関心な弟の貴彦。
家の事だけでウンザリする。
「少しは吐き出して、スッキリできましたか? こらからも書いて下さい」
「言われなくても書きますよ!」
「書く度にあなたは自分の心を浄化し、研ぎ澄まされていきます。その事を洗心と言います」
「洗心……」
「フワフワと浮ついた考えを持たず、地に足をつけて」
「地に足をつける……」
浮ついたとは、おそらく今後俺が期待するようないい出来事など、無いと言われたようなものか。
地に足をつけては、ちゃんとどこかしらで働かなきゃいけないって事。
書き続ける事に試練か……。
今回これといった収穫は無い。
しかしそれでも俺は生きていくし、生活だってしていかなきゃいけない。
帰り道、ずっと車の中で色々な事を考えながら運転した。
今の俺には、一筋の光明すら見えない。
「智ちゃん、夜にちょっと時間取れるかな?」
スガ人形店を継いだ一つ年上の先輩須賀栄治さんから連絡があった。
無職でプー太郎の俺には、暇な時間など腐る程ある。
「本、試合って智ちゃん色々忙しそうだったから、そろそろ落ち着いたかなとね」
そう言って栄治さんはバーへ連れて行き、これまでの功績を祝ってくれる。
その優しさと、心遣いが堪らなく嬉しい。
川越の大型商店街クレアモールを少し外れたところにある老舗のアビーロード。
そして腐れ坊主な有原照龍のいる成田山川越別院すぐ近くにあるバー。
たらふく酒をご馳走してもらう。
クレッシェンドの続編の『でっぱり』を書くきっかけになった栄治さん。
随分前に息子さんを病気で亡くしたが、今では娘さんを授かり幸せそうに暮らしている。
「智ちゃん誰だか分かる?」
メガネを掛けたカチッとした細身の男性を紹介される。
「いや…、えーと……」
「智ちゃん家にとても縁のある人だよ」
「余計分からないですよ」
「中野秀幸さんの弟の正剛さん」
「あー、秀幸さんの弟さんでしたか。自分とははじめましてですよね?」
菓匠くらづくり本舗の中野一族。
父親に中野清衆議院議員。
川越きっての名家である。
久しぶりに楽しい宴を過ごせた。
作者寄贈用として出版社サイマリンガルから『新宿クレッシェンド』が十冊届く。
まずは親父の五人兄弟の三人へ。
もう伯母さんのピーちゃんにはあげない。
あんな酷い罵倒をされ、この本が可哀想だ。
あげるのは南大塚にいる長女の悦子伯母さんの家。
富士見中学校裏で三進産業を営む京子伯母さんの家。
あとは親父の弟で従兄弟直孝の父親でもある修叔父さん。
あと七冊……。
グランプリ授賞の日、真っ先に祝ってくれた先輩の吉岡さんにプレゼントした。
残りはまた考えて渡せばいいか。
三進の京子伯母さんは、目を細めながら「智一郎はよくやった。偉いね」と褒めてくれる。
何でもたまに俺のブログ『智一郎の部屋』を見ているようで「おまえの作品は片親の主人公とか普通の設定が無いね」と言われた。
確かに自身の半生に置き換えてしまう為、親子の絆だったり、親からの愛情というものが分からない。
要は偏った作品しか書けていないわけだ。
「ほら、ソーメン茹でたから食べていきな」
親子もお袋も滅茶苦茶。
でも幼少の頃から俺はこうやって両親ではない周りから、たくさんの愛情を受け取って生きてきたのだ。
夜になり同級生の飯野君からの誘いで、モスバーガーへ行く。
ミクシィーで再会して以来、岩上整体は無くなってしまったが、こうして定期的に会っている。
試合などの感想を聞き、『新宿クレッシェンド』の本を目の前に出され「これにサインいいですか?」とお願いされた。
俺が挫けず頑張ってこれたのも、この友人が支えてくれたからこそ。
深々と頭を下げた。
試合から一週間が経った。
ゴリからは何の連絡も無い。
試合前…、いや試合当日あれだけ俺を振り回し結菜の一件でギャーギャー騒いで巻き込んだくせに、あいつは一体何なんだ?
こちらから連絡するのは尺たが、電話せずにはいられなかった。
「あー、もしもし」
「ゴリ、おまえさ…、俺の試合終わって一週間経つけどさ…。試合勝ったのとか、怪我しなかったとか、まるで無いわけ?」
「あー、連絡無かったから負けたんだなとは思っていたよ」
コイツ、試合当日自分のせいで、俺が徹夜で試合行ったという自覚は、まるで無いのか?
「もういいや……」
電話を切った。
人間としてあいつは終わっている。
すぐにゴリから着信が入る。
「何だよ?」
「あー、今から飯でもどうかなと」
「何だって?」
「ほら、結菜の件で世話にはなったからさ。飯ぐらいご馳走しようかなと思って」
徹夜で試合の原因を作った事を飯くらいで帳消しにできると思っているのか?
頭来た。
凄い高いものを奢らせてやろう。
「ステーキならいいよ」
「え、ステーキ……」
「血の滴る美味いステーキ奢れ」
「み、宮?」
そういえばステーキ宮最近行ってないな……。
俺はステーキ宮で手を打つ事にした。
ゴリがシビックを運転して家まで迎えに来る。
ゴリが運転するシビック。
通称ゴリビック。
宮へ到着してメニューを眺める。
「おいおい、千五百円までのものにしてくれよな」
「はあ? それじゃ一番この小さいのしか食えないじゃん!」
「ライスはお代わり自由だからよ」
そう言ってゴリは、ニヤリと笑った。
チャブー同様コイツの話をまとめた『ゴリ伝説』も、いつか絶対に書いてやる。
南大塚に住む親戚、親父の五人兄弟の長女である悦子伯母さんから連絡が来る。
試合前叔父さんに八万円借りたばかりなのでバツが悪いが出ると、遅くなったけど、俺が小説で賞を取ったお祝いをしていないからしたいという話だった。
南大塚は悦子伯母さんに叔父さん夫婦、そして俺の二つ上の長男和ちゃん、弟に圭という家族構成。
俺が二十歳前後、この和ちゃんには本当に世話になった。
ちょうど全日本プロレスへ行く前である。
元々坊主さんは和ちゃんの同級生であり、俺が暇を持て余し南大塚へ行った時に知り合った。
不思議とウマの合う俺と坊主さんは、気付けばよくつるむようになり、金の無い時代、時間を共有する。
仕事を辞め金の無かった俺に、和ちゃんは新しい職場へ行く為の交通費や飯代を出してくれた。
腹が減っているけど金が無い時も、いつだって奢ってくれた。
つまり俺にとって南大塚の家族は昔から世話になり、頭の上がらない一族なのだ。
今回はお祝いで焼肉をご馳走になる。
このご恩は、いつか必ず返したい。
川越の街を歩いていると、小説の件で聞かれる事が多くなった。
一番多いくだらない質問が「どこで本を買えるのか?」というものだった。
そんなの本屋に決まってんだろと言い返したかったが、冷静になるよう努める。
酷い人間になると俺を見ると道端で立ち止まり、手を目の前に出され「智一郎さん、本下さい」と言ってくる馬鹿も数人いた。
中には本を買ったからサインが欲しいという常識的な人も多数いる。
あとは昔から知っている社長連中は、「吉田謙受堂って、おまえの同級生だろ? あそこで本を五十冊注文したからよ」と数十冊単位で『新宿クレッシェンド』を買ってくれた人はかなりいた。
川越のほとんどの本屋は、ポップを立てて『川越の作家さんです』とメモを添え、俺の小説を平積みして販売してくれる。
例外が一軒だけあった。
小、中学校同級生の吉田智行が働く実家の吉田謙受堂である。
修叔父さんを始め、その店で大量予約した人は口を揃えて話してきた。
「何故あいつの店は、智一郎の本を店に置いていないんだ?」と……。
俺は本屋じゃないから、そんな事は分からない。
吉田謙受堂へ直接聞いてくれとしか言えなかった。
おそらく俺が聞いただけで、あの店で『新宿クレッシェンド』は千数百冊は売れたはずである。
それでいながら店に平積みもしなければ、予約しないと置いていない状況。
わざとしか思えなかった。
外を歩いている際、一度吉田智行とすれ違った事がある。
「おい、何でおまえのところ、俺の本を置かないんだよ?」
そう怒鳴りつけた。
「月に新刊が何冊出てると思ってんだよ。岩ヤンの本だけ置けねえよ」と、生意気に言い返してくる。
近所で同級生のよしみがあるから、虐めていなかったが、この時は殴ってやろうかと思った。
先輩の岡部さんにも、その事を聞かれたので答えると「吉田は同級生じゃねえなあ」と呆れていた。
俺から金を持ち逃げしたヤクザの内野が言っていた台詞。
「俺たちの代は、横の繋がりが薄い」は、その通りという皮肉な事実。
同級生の成功をどこかで妬み、素直に祝福できないのだろう。
それは俺の取ったグランプリを怪しい賞と称した人形の秀月守屋淳一や、あえて本を置かない吉田謙受堂の吉田智行が顕著である。
金が本当に尽きてくる。
そろそろちゃんと働かなければならない現状。
三十六歳にもなって文無し。
情けない限りである。
裏稼業は引退したって、初めてのブログ『新宿の部屋』で書いちゃったしな……。
俺はインターネットで求人広告を色々眺める。
『寮完備、月三十万円確実 工場』
あまり人目に触れない仕事がいいよな……。
一応名ばかりだが本を出した小説家が総合格闘技に出たあと、アルバイトなんて格好悪いにも程がある。
工場仕事なら、あまり人にも接触は少ないだろうし。
俺はそこへ連絡してみる事にした。
説明を聞いて理解したのが、大手工場へ派遣する会社なようで、西武新宿線の狭山市駅近くに寮があるらしい。
派遣場所は狭山の工場団地にある大日本印刷。
駅から送迎バスが出ているので、それに乗って行く。
川越駅からも大日本印刷行きの送迎バスがあるそうなので、俺は狭山の寮は断った。
家から通えるよならそのほうがいい。
こうして俺の大日本印刷への派遣が決まった。
但し派遣会社が指定した病院での健康診断、そして住民票を始めとする様々な書類などの準備がある。
工場で働く申請などで、実際に働くのは約一週間後。
どうなるか分からないが、俺の新たな生活が始まろうとしていた。