2024/10/17 thu
前回の章
三十歳になり、俺はキャバクラ通いを頻繁にするようになった。
たまに休みが取れても、一緒に飲みに行くような仲間がいない現状。
日々の仕事に追われ、そういった付き合いをしていなかったのが原因だろう。
しかしその分、経済的余裕はあった。
人間は孤独でいるのが寂しい生き物である。
必然的に誰かしらの元へ向かってしまうものだ。
その頃出逢ったキャバ嬢で、『ミサキ』という子がいた。
俺はこの子を妹代わりに可愛がり、他の女を口説いても、この子だけは大事に接した。
暇さえあれば一緒に食事をしたり、買い物をしたりして時を過ごす。
ゴリとは、あれからあまり会っていない。
お互い連絡をしていなかったというのもあるが、気がつけばしばらく時間だけが過ぎていた。
今の俺はミサキと一緒にいるのが一番楽しかったのだ。
いつも仕事が終わるのが朝方なので、普通の人の生活とは間逆な生活を送っている俺。
仕事の帰り道ボーっと歩いていると、乳母車を引いたおばあさんがゆっくり向こうから歩いてきた。
まだ朝の六時頃なので、人通りも少ない。
すると、遠くから一台の車が凄いスピードを出しながら狭い道を走ってきた。
何もこんな細い道で朝っぱらから、そんなスピードを出す必要性などどこにもない。
慌てたおばあさんは、急いで避けようとして道端に倒れてしまう。
対面から見ていてさすがに苛立ちを覚えた。
俺は道の前に立ち塞がる。
車は「パーパーパー」とけたたましくクラクションを鳴らすが、一切動じなかった。
停まらなければ俺を轢いてしまう状況なので、車は急停車する。
「……!」
運転手を見て俺は視界が狭くなるのを感じた。
窓が開き、運転手が顔を出して怒鳴りつけてくる。
「おいっ、邪魔じゃねえか! どけ…、ぁ……」
相手は俺の顔を見ると、一瞬にして黙った。
俺は近づき、ドアへ思い切り蹴りをぶち込む。
「随分としばらく見ない内に偉そうになったもんだな、え、大沢?」
「……」
その運転手とは過去俺のプロレス入りを潰し、ゴリの仲介により許した直後にまた裏切った事のある最低男の大沢だったのだ。
「またこんな事してみろ? 次は容赦しねえぞ。おまえの顔など見たくもない。とっととこの場から消えろ」
それだけ言うと、俺は倒れているおばあさんを助け起こしに行く。
背後でエンジン音が聞こえ、大沢は逃げるように走り去っていった。
朝から嫌な奴と会ったものだ。
夜になってゴリに電話を掛けてみた。
「あ、もしもし、今日さ、大沢の野郎と会っちゃってさ」
「そうなんだ。俺もまったく連絡ないから、どうしてるかなとは思ってたけど」
「それで特に用もなかったんだけど、ゴリに電話したんだ」
「岩上、次の休みっていつ?」
「明日なら休めるけど」
「じゃあ、たまには飲みに行かないか?」
「ああ、構わないよ」
そんな訳で、久しぶりにゴリと飲みに行く約束をした。
「あ、岩上さ。一人、俺の後輩も一緒に連れていっていいかな?」
「いいよ。珍しいね、後輩を連れてくるなんて。会社の後輩?」
「いや、地元の後輩なんだけどさ」
「へえ、そうなんだ」
「小学は同じだけど、中学は別の後輩なんだ」
ゴリと俺は中学が一緒だけなので、初対面になるだろう。
待ち合わせ場所を俺の行きつけの店であるJAZZBARスイートキャデラックへ指定し、先に行って飲んで待つ事にした。
ノンヴォーカルの静かなジャズが流れる中、耳を澄ませながらグラスを傾ける俺。
今掛かっている曲名など分からないが、こうしてボーっと酒を飲む時間は最高だ。
しばらくしてゴリが後輩を連れてやってくる。
「おう、久しぶりだな」
「久しぶり。あ、岩上、紹介するよ。俺の後輩の『川出』君ね」
「川出です。よろしくお願いします」
モサッとした感じでいまいちパッとしないが、その礼儀正しい口調に好感を覚える。
「よろしく、俺は岩上。ゴリとは中学時代一緒だったんだ」
「ええ、自分とは高校が同じですよね」
「え?」
「自分も西武台高等学校だったんですよ。一つ下の学年になりますけど。岩上さん、当時から学校で目立っていたので、よく覚えていますよ」
「へえ、そうなんだ。俺と高校一緒だったんだ」
「ええ、まあこれも何かの縁だと思いますので、よろしくお願いします」
ゴリの後輩にしては、かなりまともな子を連れてきたものである。
俺は気分よく酒を飲み、お互いの近況を話し合う。
「川出君は、今何の仕事をしているの?」
「自分、郵便局の深夜の仕分けのバイトをしています」
俺たちの一つ年下になる訳だから、彼は二十九歳になる。
何故郵便局のバイトをしているのか少し気になったので、突っ込んだ質問をしてみた。
「深夜じゃ大変だね。まあ俺も歌舞伎町で夜働いているから、時間帯は変わらないだろうけどね。ところで前の仕事は何をしてたの?」
「いえ、前も何もずっと郵便局の仕分けの仕事ですよ」
「え? じゃあ、高校を卒業してからずっとやってるの?」
「ええ、そうです。サラリーマンの時間帯だと昼間、銀行にも行けないじゃないですか。買い物も満足に出来ないだろうし。その点、自分の時間帯だと少し無理して起きてればある程度は何でもできるじゃないですか」
言いたい事は分からないでもないが……。
何故かこの川出からも危険な匂いがプンプンしてきた。
「十年以上もでしょ? 郵便局に就職しちゃえばいいのに」
「ああ、それは年中言われますよ。ただ、あんなところで骨を埋める気にはなれませんよ。十年以上働いても、時間給ほとんど上がらないんです。それに長いので、職員からあれもこれも色々やってくれって頼まれごとばかりで、最近嫌気をさしているんです」
じゃあとっとと別に就職すればいいじゃないかと言いたかったが、俺は黙って彼の話を聞いていた。
「周りは大学生のアルバイトばかり。俺はといえばひと世代上ですよ? それをこんなにやっているのに、時間給百円も変わらないんですから。正直、嫌になってきますよ。日給九千円ぐらいになりますし、月に換算すれば、二十万ぐらいになりますから。別に金の為に働いている訳じゃないから、いいんですけどね」
では何の為に、彼は働いているのだろうか?
金の事しか言っていない気もするが……。
「まあまあ、堅苦しい話は置いといてさ、もっと楽しい話題にしようぜ」
ゴリが横から口を挟んでくる。
「楽しい話題って、女の話題とかか?」
俺がそう言った瞬間、川出は下をうつむき暗い表情になった。
「ん、どうしたんだい、川出君?」
「まあ、川出の話を聞いてやってくれよ、岩上」
「え、どうしたの?」
「先日、ずっと思い焦がれていた子から酷い仕打ちを受けたんだよ。川出、岩上ならある程度相談に乗ってくれると思うから、話してみたら?」
先ほど楽しい話題と自分で言いながら、川出の失恋話をさせようとさせるゴリ。
相変わらずとんでもない奴だ。
「話すと長くなるんですけど、聞いてくれますか?」
「構わないよ……」
川出は、ロンドンパブギネスのビールを一気に飲み干すと、淡々と語りだした。
やや上を向いて遠い目をしながら川手はゆっくりタバコの煙を吐き出した。
「岩上さん、西武台高校で一つ下に清水純子っていたの覚えてます?」
「清水純子?」
「ほら、目のパッチリした感じで痩せてて……」
「あー、はいはい。純子ちゃんね。当時は俺と同じ中学出身だったから、向こうからよく声を掛けてきたなー。あの元気のいい子でしょ?」
「はい…。その清水が自分がずっと好きだった奴なんです」
彼女は確か風の噂で結婚したとか聞いたような……。
でもあくまでも噂として聞いただけで確定的なものではない。
下手にこの事を話すと川出を傷つけるだけじゃないのだろうか。
俺はあえて黙っておく事にした。
「あいつとは小学が一緒だったので、昔はよく一緒に遊んだんですよ」
「ふーん…、幼馴染みたいなもんか」
「ええ、それに近いですね。女として意識するようになったのが、久しぶりに高校生の時にバッタリ会ってからです。自分は一生懸命、自分の気持ちを伝えましたよ。その時、向こうは彼氏がいるからってフラれましたけどね。あいつの事を考えると悔しいです」
「でも今、川出君は二十九歳なんだから、十年近く前の話じゃん。そんな過去の事をそこまで気にしても仕方ないじゃん」
「い、色々あったんですよ…、あの清水とは……」
そう言って川出は下を向き涙を溜めていた。
一生懸命涙を流すまいと堪えて、一点をジーっと見据えている。
この十年の間で二人の間で何があったのか……。
何やら厄介な展開に俺は引きずりこまれそうだ。
「いや、ゴリも楽しい話をって言っている事だしさ、川出君……」
「フラれただけならまだいいんです。フラれただけなら……」
俺の台詞を途中で遮り、川出は口を開く。
フラれたというのを繰り返し力説されてもこっちが困ってしまう。
「あいつは自分をずっと…、ずっと騙していたんです……」
チラッと川出の表情を見ると、さっきと変わらず目にうっすらと涙を浮かべ天井を見ていた。
こういう場合、俺は何て応対したらいいのだろう。
そんな俺にお構いなく川出は話を続ける。
「高校生の時に好きだと伝えてフラれて…。でも自分は中々諦められなかったんですよ。分かりますか、自分の気持ちが? 岩上さん……」
そんな訴えられるような目で見つめられても、なんて返答したらいいのか。
素直に「そんなの分かりません」と言ってやりたいのを堪えた。
「じ、自分は出来る限り割り切って考えるようにして、彼女も一切作らずにずっと真面目にやってきたんです」
「で、でもさー。純子ちゃんに彼氏がいたんじゃ、しょうがないでしょ?」
「それはそうですけど……」
「それにもう昔の話じゃん」
「違うんです」
川出は全身を震わせてデカい声を出した。
「ちょ、ちょっとそんなにデカい声出したら、店の人に迷惑だよ。少し落ち着いて…。一体、純子ちゃんとの間に何があったの?」
「自分は最初に告白してフラれた時点で諦めてたつもりなんです。それが高校も卒業して社会人になった頃、向こうから連絡があったんです。その時の自分の気持ちって分かりますか? まるで天にでも登るような…、と、とにかく嬉しくてたまりませんでしたよ」
「ああ、それは理解できるよ。それで付き合ってとか言われたのかい?」
「違います…。保険の会社に入社したから、保険入ってくれないかなって……」
「それでそんなに怒ってたの?」
内心、「俺を小馬鹿にしてんのか? 都合よく利用しようとしやがって。ふざけんな馬鹿野郎!」って、怒鳴って断ればいいだけの話だと思うが、とりあえず黙っておく。
ここは彼に気持ち良く話させてあげよう。
「いえ、清水も色々大変だろうと思って保険に入ってやったんです」
「え、入っちゃったの?」
「ええ、月七万ぐらいのやつに入ってあげましたよ」
彼は自慢げに言い切った。
しかしまったく格好よく見えない。
「え、そんな高いのに入ったの?」
俺はそんな知り合いの保険に付き合いで仕方がなく入るなんて、一番安いのでいいのにと思っているのでビックリした。
考えてみれば、彼の給料は二十万。
そこから毎月保険だけで七万も消えていくのだ。
「だってしょうがないじゃないですか。惚れた女に頼られたら、何とかするのが男だと思いません?」
こいつはここまで大馬鹿だったのか……。
手の施しようがない。
さすがゴリの後輩である。
「うーん、別にそこまで格好つける必要はなかったんじゃないのかな。でも、そこまでしたら純菜ちゃん、喜んでキスの一つでもしてくれたでしょ?」
「し、清水とは完全にプラトニックです」
「え…、でも彼女と付き合ったという訳じゃないんでしょ?」
「あいつは都合よく自分を利用しただけだったんです。その事に気付くまで二年間掛かりました。事の真相を知った時は怒りで我を忘れそうでした……」
完全に熱くなっている川出は顔を真っ赤にしている。
見ていて非常に滑稽だった。
ゴリは隣でニヤニヤしながら話を聞いている。
「そしたら保険を解約すればいいじゃん。あ、もうとっくに解約ぐらいはしてるか」
「い、いえ…。実はまだなんです……」
「はあ? 何でそこまでして……」
「聞いて下さい。あいつ、本当は高校出てからすぐに結婚してやがったんです」
「だったら、なおさら……」
「行きましたよ。あいつのところまで飛んで行きました。本当に怒って…。そしたらあいつ、生活が苦しいの。今の旦那とはうまくやっていけそうもないし、私を助けてって……」
「それで助けた訳?」
「そのあとで『私をもらってくれる?』ってなんて言われてしまい、つい断れずに……」
「へー、じゃあそれは川出君さえ良ければそれでいいんじゃないの?」
「その言葉を信じましたよ。そんな事言われちゃ……」
「…て事は?」
「騙されてたんですよ」
純子ちゃんも可愛い顔して結構エグいんだな……。
「そうなんだ……」
俺はそれしか言葉が出なかった。
川出の愚痴りはまだまだ続く。
店のマスターが迷惑そうな表情で時たまこちらを見ているのが気掛かりだった。
「この間、パチンコ屋行こうと思って、駅前のパチンコ屋の駐車場へ向かったんですよ。そしたら清水が旦那と仲良さそうに、その駐車場から出てきたんです」
「怒鳴ってやった?」
「いえ、悔しくて隠れてしまいました……」
一体、こいつは何を考えているのか理解不能だ……。
何故、自分が隠れなきゃいけないのだろうか?
ドッと疲れを感じた。
「ひと言怒鳴りつけてやればいいのに…。生活に困ってる奴が、何で夫婦仲よくパチンコをやれるんだよ。そこは怒らないと駄目じゃん」
「言うのは簡単ですよ。言うのは……」
「何かあるの?」
「そこで自分が怒鳴ってしまったら、こっちの負けじゃないですか。岩上さんもそう思いませんか?」
「うーん……」
彼の先輩であるゴリも手がつけられないほどの困ったちゃんだが、彼はその上をいっているかもしれない。
「そこで自分が怒ったら、きっと負けなんですよ。自分は人生の勝ち組でいたい」
勝ちでも負けでも、もう俺にはどうでも良くなってきた。
彼にとっては大事な話なのかもしれないが、俺は聞いているだけで苦痛だ。
そんな俺の思いも知らず、川出はどうでもいい愚痴を二時間も話し続けた。
ゴリの奴め、よりによって何故こんな男を連れてきたのだ。
のん気そうにゴリは、タバコを吸いながら酒を飲んでいる。
「それでですね……」
川出はまだ話を続けようとしたので、俺は遮る事にした。
「あ、あのさ川出君。純子ちゃんとは終わった事なんでしょ?」
「ええ、そうですが……」
「じゃあ、いつまでもその事を考えるのはよくない」
「岩上さんは当事者じゃないから、この気持ちが分からないんですよ」
分かりたくもないわ、ボケ。
心の中で呟くだけにしとく。
「そりゃあ、分からないよ。俺だけじゃなく、他の誰にも分からないと思うよ。誰よりも分かっているのは自分自身でしょ? それだけ一生懸命だったんだから」
「え、ええ……」
「じゃあさ、これからパーッと行こう。それがいい」
「え、パーッとって言いますと?」
「キャバクラだよ、キャバクラ。そういう気分の時はキャバクラが一番! だろ、ゴリ?」
ただ単に川出の愚痴りを聞いているぐらいなら、キャバクラへ行き、妹代わりに可愛がっているミサキと話をしていたほうがいいと思っただけである。
「ん、そうだな」
ゴリも嫌いじゃないので、快い返事をする。
「え、あの、自分…、キャバクラって一度も行った事がないんですよ……」
「大丈夫大丈夫、楽しいところだよ。純子ちゃんの事なんか、スパって一気に忘れられるぐらいいいところだよ。若い綺麗な子だってたくさんいるしね」
「は、はあ……」
「じゃあ、ここ出て行ってみようか?」
「構いませんが、ちょっとトイレ行ってきます」
川出が席を立ちトイレへ向かうと、俺はすかさずゴリを睨みつけた。
「おい、何であんなのを連れて来るんだよ?」
「わりー、岩上なら彼を何とかできるかなと思ってさ」
ゴリ一人だけでも大変なのに、あんな後輩まで加わったら溜まったもんじゃない。
ゴリの一つ下の後輩、川出。
今年で二十九歳。
仕事は郵便局の夜間アルバイト。
先輩であるゴリとの共通点は、共に生まれてこの方、彼女が一度もできた事がない。
あ、ゴリは人妻と一瞬だけだが関係あったから、少しだけ勝っているか。
さすが川手の先輩。
長所は、礼儀正しく義理堅いところ。
この点だけはゴリと比べ、人間的に素晴らしい部分でもある。
ゴリには何一つ長所などないのだから……。
逆に短所と言えば、すぐ愚痴る事。
人間誰でも愚痴りたい時はある。
しかし彼の場合、こちらが気を許すと際限なく延々と愚痴り続けるに違いない。
今現在、俺の横にはゴリと川出がいる。
この三人でいる事は、非常にデンジャラスな空間を醸し出すので、場所を変える為キャバクラへ向かっていた。
あとでJAZZBarスイートキャデラックのマスターには謝っておこう。
妹代わりに可愛がっているミサキのいる店へ到着する。
店内に入ると三分の二は席が埋まっており、まあまあの客入りだった。
「いらっしゃいませー、お客さまは三名でよろしいですか?」
「そう」
「ご指名はありますか?」
「あー、俺はミサキを指名で。あとはここ、みんな初めてだから」
「かしこまりました。お席へ案内します」
俺を先頭にゴリ、川出と続く。
「お飲み物は何に致しますか?」
「俺はウイスキーのストレート。ゴリと川出は?」
「ビール」
ゴリがダミ声で答える。
川出は何も答えないでいた。
「おい、川出君。飲み物は何にするの?」
「いや自分…、こういう場所は初めてなので、どうしたらいいんだか……」
「そんな事聞いてんじゃないよ。飲み物は何にするのって?」
「あ、ビールを……」
「かしこまりました」
男の従業員が下がっていく。
続いてキャバクラ嬢が三人、席にやってきた。
「いらっしゃいませー、智一郎君」
「ミントでーす」
「麻耶でーす」
俺たちの間にキャバ嬢が割り込んで椅子へ座る。
ミサキが話し掛けてきた。
「友達連れてくるなんて珍しいね」
「ま、まあね…。ちょっと場の空気を変えたかったんだ」
「ふ~ん、よく分からないけど…。あ、お酒ストレートでいいんでしょ?」
「ああ、ストレートで頼むよ」
ミサキが俺の酒を作っている間、ゴリを見る。
彼は麻耶という女の子と話をしていたが、面食いのゴリである。
お世辞でも可愛いとは言えない麻耶に不服そうだった。
キャバクラ初体験の川出はどうしているだろう?
さりげなく見ると、ミントとちゃんと会話をしていた。
「あれ、元気ないなー。どうしたの?」
「い、いや…、自分はこういうところ、初めてでして……」
「誰でも最初はみんなそうでしょ?」
「うん……」
「もー、元気ないなー。歌でも歌う?」
「え、う、歌はちょっと……」
「仕事は何してるの?」
「郵便局で……」
「え、公務員なんだ? すごーい」
「そ、そうでもないって」
この時、川出の鼻の穴が膨らんだのを俺は見逃さなかった。
「だって今、公務員って競争率すごいんでしょ?」
「ま、まーね…。でも大した事はないよ」
「へー」
「まあ、採用試験を落ちちゃった人は可哀相だけど、今の景気を考えると仕方がないのかなって割り切ろうとする自分が時々悲しくなるよ」
横から「おまえ、深夜のアルバイトだろ!」と突っ込んでやりたかったが、彼なりに格好つけているところなので、水を差すのはやめておく。
普段おとなしそうな川出だが、図に乗るととんでもない奴かもしれない。
あっという間に時は流れて時間がきた。
キャバクラに入ると時の流れの速さを実感する。
俺は金銭的に余裕があったが、二人はどうしたいのだろうか。
「ねえ、延長どうする?」
とりあえずゴリに話し掛けると、困った顔をしている。
「今日は俺、もう金がねーんだよ」
金がないのはいつもの事だろと、突っ込みたかった。
「え、岩崎さん、それしか金持ってこなかったんですか?」
いらぬ川出のつっこみ。
ゴリの顔が急に険しくなった。
先輩であるゴリに、川出も余計な台詞を……。
こんなところで二人の小競り合いなどごめんである。
俺はすぐ間に入り、フォローした。
「いいよ、ゴリ。ここは俺が、おまえの分も出してやるよ」
「わ、わりーじゃん」
「いいよ、別に…。遠慮するなよ。な?」
「ん…、ああ……」
川出は自腹で、俺はゴリの分も合わせて延長をした。
楽しい時間はまだまだ続く。
気心の知れたミサキとの会話はとてもスムーズに進む。
ゴリは人の金で飲んでいるというのに、つまらなそうな表情をしていた。
どうせタダ酒なんだから、素直に楽しめばいいものを……。
川出はというと、たまたまついたミントという子を相当気に入ったのか、もの凄いテンションの高さを持続しながら興奮している。
「ミ、ミントちゃんって彼氏はいるの?」
「ううん、いたらこういうお店で働いていないわよ」
「そ、それはそうだよね」
「川出さんでしたっけ?」
「うん、どうしたの?」
「川出さんみたいな人が彼氏だったら、俺も毎日が楽しいだろうなと思ってね」
「え…、そ、それってどういう意味かな」
「あ、変な事言っちゃってごめんなさい。会ったばかりだというのにね」
「いや、そんな事ないよ」
完全にキャバ嬢ペースの川出。
こりゃあきっとこの店にハマるだろうな。
俺は川出の反応が面白く、ミサキとの会話より彼の台詞に聞き耳を立てていた。
「もっと私、川出さんの事よく知りたいな」
「え、そ、そう……」
「うん、あ、私の出勤日なんだけど、一応教えておこうか?」
「うん、ぜひ頼むよ」
「じゃあ、お店の名刺に私の電話番号とメールアドレスを書いておくね」
「え、いいの」
「だって川出さんなんだもん…。でも、初対面なのにこんな事言っていると、私軽く見られちゃうかな?」
「ううん、そんな事ないよ。ミントちゃんと話していて、僕は君が真面目な子だって分かっているつもりだから」
「ありがとう。優しいなあ」
このミントという女も、とんでもない女狐である。
巧みに川出の心理状況を把握して、手玉に取ろうとしていた。
まあ、俺が口を挟む問題ではないので放っておく事にする。
そうこうしている内に、また時間がやってきた。
「川出君、延長するだろ?」
一番盛り上がっている川出に聞いてみた。
「岩上さん、自分はちょっと……」
「え、何で? これから何か用事でもあるの?」
「いえ、用事はないのですが、ちょっと手持ちが……」
「何だよ、おまえだって一回分しか金持ってないんじゃねえかよ!」
ゴリが先ほど恥を掻かされた分の怒りをぶつけてきた。
「やめなよ、ゴリ」
何という醜い争いだろうか。
形的には止めながら、内心目クソ鼻クソ同士の争いに心が弾む。
それにしてもゴリより五千円だけ多く持っていない事が判明した川出。
よくもまあ先輩であるゴリに向かって、あんな無礼な言葉を言えたものである。
「…ったく、さっきはあんな事を抜かしやがってよ」
珍しくゴリが怒っていた。
よほど女の子のいる前で恥を掻かされたのが許せなかったようだ。
本当ならもっとこの低次元の争いを見ていたかったが、延長するかどうかの返事を待っている従業員が気の毒なので、間に入る事にした。
「じゃあいいよ。ここは俺が全員の分出すから」
「え、岩上。それじゃあ、おまえにわりーじゃねえかよ」
ゴリが申し訳なさそうに言ってくるが、内心ラッキーと思っているに違いない。
「じゃあ、岩上さん。ここは借りとくって事でいいですか?」
人が奢ってやるというのに、また川出は余計な事を……。
「ここはいいから、な?」
「え、でも……」
本当は延長してミントと話したくてウズウズしているくせに……。
「いいからいいから」
面倒なので川出に有無を言わせないよう、三人分の金を従業員に渡した。
いい感じの酔い方でミサキの店をあとにする。
ゴリは奢りだというのに、いまいち不服そうである。
「おまえや川出君はいいよな」
「何が?」
「ミサキちゃんは可愛いし、ミントも綺麗系だろ」
「ちょっと岩崎さん。自分のミントを呼びつけで呼ぶのやめて下さいよ」
また川出が恐ろしい台詞を平気で口に出す。
「何が自分のミントだよ。さっきは余計な事抜かしやがって」
ゴリの怒りが再度爆発した。
「岩崎さんと一緒にしないで下さい。自分は給料入ったら、ちゃんと岩上さんにお金を返しますから」
「おいおい、二人ともやめなって!」
さすがにこれ以上二人で話をさせていると、殴り合いの喧嘩になりそうだ。
俺は仲裁に入る。
「あ、岩上さん。今度給料入った時、今日の分は必ず返しますから」
「いいよ、別に」
「そういう訳にはいきませんよ」
この男、結構頑固な部分があるんだな。
「あのさー、ゴリに奢るって言ってるのに、後輩の川出君には金返せなんて筋道が通らないでしょ? だから今回はいいよ」
「でも給料入ったら必ず……」
こいつは人の話に対して、何も聞く耳を持ってないのだろうか?
これ以上川出を相手にしていると、気分良かったのが台無しだ。
会話を途中で打ち切るようにして、ゴリへ声を掛けた。
「なあ、ゴリの席に着いた麻耶ちゃんだっけ?」
「ん…、ああ……」
「そんな好みじゃなかったら別の子指名すれば良かったじゃん」
「いや、さすがにおまえが金を出している訳だしさ。まあ、ミサキちゃんだったら、良かったんだけどな、へへへ」
「おいおい、ミサキは俺が妹代わりに可愛がっているんだぞ。変なちょっかい掛けんじゃねえからな」
「あの店に、たまたま客で行って、あの子が席に着く場合はしょうがないだろ?」
「おまえさ……」
人のご馳走で酒を飲んでおきながら、何て言い草だろうか。
「あのー、岩崎さん。自分的にはその場合……」
会話の途中で川出が口を挟んでくる。
ウザさを感じた俺はゴリとの会話をやめた。
どっちみち今日はキャバクラが終わったらミサキから連絡があり、食事をする約束をしていた。
こいつらは放って帰る事にしよう。
「じゃあ、そろそろ俺は帰るよ。またね」
「あ、今日はすいませんでした、岩上さん」
「何だよ、もう帰るのかよ?」
「明日は仕事早いんだ。悪いけど、もう寝ないと辛いから。結構飲んだしね」
「お疲れさまです。お金、今度給料入ったらお返ししますんで」
別れ際も川出は、さっきのキャバクラ代の件をしつこく言っていた。
川出との衝撃的な出会いから一週間が過ぎた。
相当あのキャバ嬢に入れ込んだ様子だったが、今後の展開が楽しみである。
携帯が鳴り出す。知らない番号だった。
「もしもし……」
「先日はすみませんでした」
どこかで聞き覚えのある男の声。
しかし誰だか分からなかった。
「え~と、どちらさま?」
「あ、すみません。川出です」
「何だ、川出君か。そういえば、何で俺の番号を知ってるの? あの時教えたっけ?」
「いえ、岩崎さんに電話して、岩上さんの番号を聞いたんですよ」
あのゴリ野郎…、勝手に人の番号教えるなよな。
「あ、そう……。で、何か用だった?」
「いえ、特に用と言うわけではないですけど」
その時キャッチでミサキから電話が入った。
「あ、ごめん。キャッチ入ったから、またね」
川出とミサキの電話。
どちらを取るとなると、そんなの一目瞭然である。
何か川出が言い掛けていたが、迷わず彼からの電話を切った。
「おうミサキ、どうした?」
「この間、智一郎君がお店来てくれたじゃん」
「ああ、それで?」
「う~ん、ちょっと話すと長くなるから、これからお茶でもしようよ」
「今すぐ?」
「うん、駄目?」
「別にいいよ。じゃあ、車でおまえのところまで迎えに行くよ」
「ありがとう。じゃあ、着替えて待ってるね」
手早く準備を済ませ、家を出る。
ミサキのマンションまで車で十分も掛からない。
彼女を拾うと、近所のファミリーレストランへ入った。
「話ってどうしたんだ? 何かあったの?」
「うん……」
何か言い辛そうな感じのミサキ。
「どうした? ハッキリ言いなよ」
「あのね、この間一緒に来た岩崎さんって人いるでしょ?」
「岩崎…、ああ、ゴリの事?」
「うん、そう、その人! あの人がさ…、あれから三回もうちの店来てさ」
「え、だってまだ一週間しか経ってないだろ?」
「うん、それで何故か知らないけど、私を指名するの」
「あの野郎……」
週に三回もキャバクラに行く金があるのなら、あの時奢ってやるんじゃなかった。
いや、そういう問題じゃない。
帰り道、ミサキの事を話しながらいやらしく笑っていたゴリ。
影でそんな事をしてやがったのか。
「でね、いつもジッと私の事を見ているんだけど。『ミサキちゃんって話をする時、唇が右に少し釣り上がる癖あるんだね』とか言われちゃって」
確かに言われてみればミサキは話す時、唇が右に少し釣り上がっている。
「自分でもそんな事分からなかったのに、何かあの人怖いなあと思ってさ」
万年女日照りのゴリ。
次のターゲットをミサキにするつもりなのか?
そういえば過去、俺が妹代わりに可愛がっていた大畑瑞穂を気に入っていた頃、『岩上が妹代わりに可愛がっている女って、俺の好みなのかもしれないな』という物騒な台詞を言っていたっけ……。
俺と十歳年の違うミサキ。
この子をゴリの毒牙に掛ける訳にはいかない。
ここは早めに芽を摘み取っておいたほうがいいだろう。
ミサキと別れると俺はゴリに電話を入れ、彼の家まで向かった。
俺がゴリの家に到着すると、彼はすぐ玄関先から出てきた。
「おう岩上。話って何だよ?」
「おまえさー……」
「何だよ?」
「ミサキにまで手を出すのやめろよ、ほんと……」
「何で知ってやがんだよ?」
「俺とミサキの仲だぜ。そんなのあいつから言ってくるに決まってんじゃん」
「いや、結構タイプだったからさ」
「そんなキャバクラ行く金あるなら、この間の金、回収するぞ?」
「いや、先週三回も行っちゃったから、金ないんだよ」
「はあ……」
こいつはいつまで経ってもこうだから、彼女ができないのだろう。
「ミサキちゃん、駄目っぽいか?」
「当たり前だろ! 俺らと十歳も年が違うんだぞ? 少しは考えて行動しろよ」
「ん…、ああ……」
「あと、川出に俺の番号勝手に教えたろ?」
「ああ、それが何か?」
「この間、言うに言えなかったけどさ。あんなデンジャラスな奴、何で連れてくるんだよ」
「いや~、正直、俺の手にも余っていたからね」
「だからって何で俺のところに連れてくるんだよ?」
「岩上なら彼を救ってやれる事ができるんじゃねえかなと思ってさ」
「冗談じゃねえって…、ゲッ……」
噂をすれば何とやら……。
俺の携帯に川出から着信が入った。
「出てやれよ、へへ」
ゴリは面白そうに笑っている。
「はい、もしもし」
「あ、川出ですけど……」
「どうしたの?」
「いえ、さっきキャッチ入ったって電話を切ったまま、連絡なかったので」
「あ、ああ…、それは悪かったね」
特に用件はないと言っていた奴に、何故折り返し電話などしなければいけないのだ。
「よし良かったら、岩上さん、これからご飯でも食べに行きませんか?」
「え……」
「別に松屋や吉野家じゃなくてもいいですよ。ガストでもてんやでも構いませんよ」
「……」
「この間、ご馳走になっちゃったじゃないですか。なので、今日は自分にご馳走させて下さい。松屋なら、一番高い牛焼肉定食を。吉野家なら特盛り牛丼におしんこと卵もつけちゃいますよ?」
さすがゴリの遺伝子を持った後輩である。
言う事すべてが恐ろしい。
「いや、今さ…。ゴリと一緒にいるんだよね」
「え、そうなんですか。別に岩崎さんが来てもいいですけど、自分は岩上さんの分しかご馳走しませんよ?」
何故かゴリに妙なライバル意識を持つ川出。
何が彼をこう掻き立てるのだろうか。
「まあそんな尖らないでさ。俺がみんなの分持つから、もうちょっといい場所で食事しようよ、ね?」
断るつもりでいたのに知らず知らずの内、食事の約束をしてしまった自分が怖い。
「じゃあ、岩崎さん家まで近所なので、これから歩いて向かいますよ」
こうして俺の人生に、ゴリの後輩川出までが絡みつつあった。
こんな事なら、ミサキと一緒にお茶をおとなしく飲んでいれば良かった……。
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