2024/12/31 tue
前回の章
家の前にあった映画館『ホームラン劇場』の社長だった櫻井さんから飲まないかと誘われる。
徒歩二分程度の距離にある櫻井さん家。
雀會の松永さんも一緒にいるらしい。
この二人は、まるで兄弟のように仲睦まじい。
川越の土産 川越お土産 川越 小江戸川越 川越お土産なら櫻井商店
現在は櫻井商店という駄菓子屋に近い店を経営している櫻井さん。
店仕舞いをすると、よくそこで二人は飲んでいた。
そこへ俺が誘われたという訳だ。
「お、智一郎だ」
松永さんが俺の登場に驚く。
大方櫻井さんが、松永さんへ俺が来るのを伝えてなかったのだろう。
松永さんのほうが一つ年上だが、櫻井さんはよくおちょくる癖がある。
「智一郎はウイスキーだろ?」
「ありがとうございます」
櫻井商店の中、三人の宴が始まった。
「智一郎よ。おまえ、笠間真理子って知っているか?」
「知ってるも何も幼馴染みたいなもんですよ」
俺より二つ下の真理子は、弟の徹也と同級生。
しかも同じ双葉幼稚園から一緒なのだ。
まだお袋が家に居た頃の幼少期、よく遊んだ仲である。
中学生になり、俺たちの代が卒業してから素行が悪くなった噂は聞いた事があった。
「お、知ってんのか」
「真理子がどうしたんですか?」
そういえば今年の川越祭りに連々会の詰所に顔を出しに来たな。
「久しぶり、智ちゃん! 来年は私も連雀で出るからね」と話し掛けてきた真理子。
離婚と再婚を繰り返し、現在二児のシングルマザーらしい。
「真理子とよ、一緒に飲んでいてさ。それで変な意味合いは無いぞ? もっと飲むかと俺の家へ連れてきたんだよ」
「……」
自分の家に女を夜引きずり込んで、変な意味合いは無いなど嘘に決まっている。
下心丸出しじゃねえかと突っ込みを入れたかった。
松永さんはこういう時、妙にカマトトぶる癖があるようだ。
「そしたらよ…、あの女、ふざけやがって!」
勝手に一人で話しだし、思い出したように一人でいきなり怒り出す松永さん。
「どうしたんですか? 真理子と何があったんです?」
「あいつ、やらせもしないくせによー…。上の子が高校で入学金がどうのこうの言いやがってよ!」
さっき自分で変な意味合いなど無いとか言いながら、やらせもしないで入学金と話す松永さんはとても滑稽だが、愛すべき存在である。
「松永さん……」
「何だよ?」
「それで入学金は用意できたんですか?」
「ふざけんじゃねえよ! 何で抱いてもいない女の子供の為に、関係無い俺が高校の入学金を用意しなきゃならないんだよ!」
「下心丸出しで、家に連れ込んで、真理子をやろうとするからですよ」
「別にそういうつもりじゃねえよ!」
「松永さんはそれで真理子に責任が発生したんですから、入学金を用意する義務ができたんですよ」
「だから、やってもねえ女に、何で俺が入学金用意するんだよ!」
本当にこの人は面白い。
しばらく入学金ネタでいじれそうだ。
「そうそう、富士見中で智一郎の時って、シミセンまだいた?」
「シミセンって、あのモンゴリアンビンタのシミセンですか?」
「そうそう、そのシミセン」
「それがどうかしたんですか?」
「今の初雁中学の校長って、あのシミセンだよ」
「えー、シミセンが校長?」
そう櫻井さんから聞いたので、久しぶりの平日休みを利用して、川越市役所裏にある初雁中学へ顔を出す事にした。
覚えているかな、俺を。
体育の女教師であるシミセン。
中学時代俺は悪さがバレ、体育の授業中、シミセンのモンゴリアンピンタをよく食らったものである。
モンゴリアンピンタとは、当時新日本プロレスのレスラー、キラーカーンが両腕を大きく広げ、そのまま相手の首筋目掛けてチョップをするモンゴリアンチョップをパクってピンタにして、アレンジしたものだ。
そんな技を多用するぐらいだから、当時中学生の俺たちから見たシミセンは、女の癖に恐ろしくデカく、超人ハルクホーガンを見ているような感じだった。
松永さんが櫻井さんと話が盛り上がっている。
俺が声を掛けても陽気になった松永さんは気付きもしない。
俺は太腿をつねる。
「痛っ! テメー、智一郎。何しやがるんだよ?」
「入学金は用意できたんですか?」
「うっせーよ、この野郎!」
ポケットマネーでストーカー長子へ「やらせろよ」と言ったり、スナック女の知子と婚約したと思ったら、彼女の浮気により婚約破棄。
次は幼馴染の笠間真理子。
本当に松永さんはネタに事欠かない。
あれから時が経つ事二十数年……。
あのシミセンが初雁中の校長になっているなんて面白い。
俺は『新宿クレッシェンド』を手土産に、初雁中へ向かう。
学校の門をくぐると、女子中学生十名が掃除中なのに変な格好をしながらワイワイとはしゃいでいる。
まずは職員室を聞こうと一人の子に声を掛けてみる事にした。
「すみません…、職員室はどこにありますか?」
「それならすぐそこの……」
女生徒は詳しく説明してくれるが、俺は富士見中出身なので、いまいち分かりづらい。
あと肝心のシミセンがまだ校長でいるかどうかを確認しとこうと、さらに質問をしてみる。
「今の校長って、清水先生ですよね?」
「え、去年定年でもう辞めちゃいましたけど」
「え~っ!」
参ったな…、シミセンがいるからこそ意味があるのに……。
困った表情をしていると、女子生徒の一人が「今の校長か教頭に聞けば何か分かるかもしれませんよ」と親切心で教えてくれる。
「じゃあ、みんなで一緒に職員室へ案内しようよ」
「そうだね」
元気一杯の女子中学生たちは、よそ者の俺を取り囲むような形で親切に案内してくれる。
みんなもう十歳年を取っていれば、ハーレムだったのにな……。
「今日は清水校長に何か用だったんですか?」
俺は本を見せながら「一応俺、世間的に小説家になっているみたいなんだけど、シミセンに本をプレゼントしようかなとね」と説明。
「すげぇー、小説家だって!」
「これ、お兄さんの本ですか?」
「うん、そうだよ」
「シミセンって何ですか?」
「清水先生だから、略してシミセン」
「すげー、校長先生の事をシミセンだってー!」
「モンゴリアンビンタとか、君たちされなかったの?」
「えー、何それー! モンゴリアンビンタ?」
「うわー!」
女生徒たちは一斉に騒ぎ出す。
歩いている途中、一人の子が「あの~…、本のタイトルって何て言うんですか?」と聞いてきたので、クレッシェンドを手渡すと、数名の女生徒がキャピキャピしながら中身を見だし、背表紙裏にある著者写真を見て「本物だぁ~!」と騒ぎ出す。
「すげー、格闘技もやってるー!」
「整体の先生なんですか?」
「前にね、今は違うよ」
「クラスでムカつく男の子がいるんです。お兄さんやっつけてくれませんか?」
窓から他の生徒たちまでが顔を出し、女生徒たちは俺を囲みながら黄色い悲鳴をあげる。
何かこの状況って、マズくないか?
案の定その騒ぎを見た先生が駆けつけてきた。
こうなった事情を話すと、先生も納得してくれる。
「残念ながら、清水校長は去年で、定年退職されたんですよね」
「うーん…、仕方ないですね。残念ですが…。あ、良かったら、自分の本、せっかくなので初雁中へ寄贈しますね」
「ありがとうございます」
「清水先生にもし連絡取れたら、岩上がよろしく言ってたとお伝え下さい」
帰り道も女生徒たちに囲まれながら、校門を出る。
若い子って本当に元気というか、パワーに満ち溢れているよなあ。
俺にもこんな時代があったのか。
いい刺激にもなったし、まだまだ頑張らなきゃって思う。
あ、でもクレッシェンドは内容的に、中学生へ読ませるにはちょっと早かったかな……。
ま、いっか。
またKDDIの同期の幸が、あれだけいた人数を会社は契約解除した事を教えてくれた。
六十名以上いた派遣社員を一斉解雇。
あの会社もヤバいのかな?
幸は地元の九州へ戻るそうだ。
久しぶりに同僚の水原や松本へ電話を掛けた。
クールガイ泉舘は、電話をしても出なかった。
あのクソガキめ。
どこかでバッタリ会ったら虐めてやろう。
安田道枝へ、久しぶりに電話を掛けてみた。
もし彼女が出てくれるなら、もう一度くらい抱けるかもしれない。
そう思ったが、安田道枝が電話に出てくれる事はなかった。
考えが甘かったか。
川上キカイの本日の業務ではPCサーバーの手入れを行う。
こんなものまで扱うのだから、リース落ちとはいえ様々な知識が必要になってくる。
スーパーなどで使う大型レジなども大量に入ってくる事もあった。
各検品を済ませ、作業を淡々とこなす。
明日は、京子伯母さんの通夜。
とうとうお別れがやってくる……。
二十年十二月八日。
昨日今日で京子伯母さんの通夜、葬儀が終了した。
川越のやすらぎの里で行われる。
通夜の後で、奥にある身内だけの休憩室で過ごし、京子伯母さんの思い出を夜通し語り合う。
純一と理恵子は明るく会話をしてくれたが、麻衣子は俺と目を合わそうともしなかった。
生前俺が京子伯母さんに金を借りたまま嫌な気持ちで亡くなった事を許せないのだろう。
俺は恩を仇で返してしまった。
時には俺の親代わりににもなってくれた事がある従兄弟のおばさん。
思い出すのが高校時代、三者面談で親を高校へ連れて行かねばならない状況の時だった。
母親がいない俺。
親父はそういった事には面倒臭く、協力をしてくれない。
京子伯母さんは嫌な顔をせず、俺の親代わりに学校へ一緒に行ってくれた。
帰り道「智一郎…。おまえ、あそこのラザニア好きだったろ? ご馳走してやるから寄って行こう」とデニーズへ。
あの時食べたラザニアの味はとてもうまく、未だ鮮明に脳裏へ焼きついている。
そんな優しかった京子伯母さんに、俺は一つだけ文句を言いたい。
子が親より先に死んじゃ駄目だろ……。
残されたおじいちゃんの気持ちは計り知れない。
子供に先立たれたのだ。
どんなに深い悲しみだろうか。
でも、その悲しみよりも、残された従兄弟たちのほうが比べようもないほど深い。
従兄弟三兄妹にとって間違いなくいい母親だった京子伯母さん。
葬儀の最中、自身の立場だったらと考えていた。
もしも、自分の母親が亡くなったら?
現在どこで何をしているのか分からない。
どこに住んでいるのかすら知らない。
連絡先も分からない。
つまり俺の場合、亡くなったところで、それすら知りようがないのだ。
仮に知ったら?
その時になってみないと分からないが、今日の従兄弟たちのような悲しみは、少なくても感じられないだろう……。
そう考えると、俺は運がいい。
幼少時代でそういった感覚はすでに無いのだ。
親子の間に絆など存在しない為、言いようのない深い悲しみを感じようがない。
いい母親であったほど、残された子供たちの悲しみは深い。
「もう…、お願いだから俺に二度と関わらないで下さい。あれから今まで自分の好きなように生きてきたんでしょ? これからも好きなように生きて下さい。そして俺の前に、もう顔を出さないで下さい。頼むからそっとしておいて下さい。お願いします……」
当時処女作の『新宿クレッシェンド』でも使ったこの言葉。
すでに俺は生きながらにして、決別を済ませていたのだ。
親戚側に立った葬儀。
人生を生きている限り、逃げられない状況がまたやってくるだろう。
六十七歳で亡くなるなんて早過ぎるよ……。
作品…、間に合わなくてごめんね、京子伯母さん……。
お金返せなくて、本当ごめんなさい。
ゴリから食事の誘い。
京子伯母さんの一連関係で気落ちしていた俺を元気付けようと、奴なりに気を使ってくれたのだろう。
「従兄弟の伯母さんって、うちらの同級生の清水麻衣子のお袋さんって事だろ?」
「ああ」
「俺たちも、そういう年代に来たんだろうな」
今年母親を亡くしたゴリ。
まだ内面は割り切れないものがあるのだろう。
焼肉に行こうと店まで行くが、満員の大繁盛で何と一時間待ち。
それならとりあえずどこかで食べようという事になり、キッチンジャワへ向かう。
「ゴリッチョ、政治結社朋花とはまだ続いているの?」
「テメー、人の彼女捕まえて何が政治結社だ! まあ一応続いてはいるけどさ、朋花が政治が何たらかんたらってなると、俺は興味無いからいつも気まずくなんだよな」
「いっその事、ノリマンとより戻しちゃえよ」
「ふざけんじゃねえよ! 何がノリマンだよ!」
「まあ政治結社かノリマンか決める前に、注文しようぜ」
メニューを眺めていると、背後から怒声が響く。
見ると四十代のメガネを掛けた男が、大人しそうな店員に向かって大きな声で妙に絡んでいた。
聞き耳を立てると「メニューを聞く前に水を出さないのはおかしい」とか「辛さは何倍ぐらいがいいのか聞かないなんて失礼だ」とか、どう見ても嫌がらせをしているようにしか見えない
それでも店員は大人しくオーダーを受け、厨房へ注文を通そうとすると、またメガネ男が「おい、キサマ。だいたい客の扱いがなってないぞ」とまた怒鳴りだす始末。
耳障りだったので「店員さん、注文いいですか」と助け舟を出す。
店員をこっちへ呼ぶと、メガネ男は厨房に向かって「従業員の教育がなってない。どういう教育をしているんだ」と因縁を吹っ掛け出した。
あまりにもしつこかったせいか、店長も客に対して言い返すと「何だ、この店は! 話にならん」とテーブルを叩き、入口へ向かう。
すぐ帰ればいいものをメガネ男はドア付近で立ち止まり、また大声で文句を言い出した。
店にいる全員の客たちが迷惑そうに顔をしかめる。
知り合いの店というのもあり、非常に傍迷惑な客なので、俺は立ち上がった。
「おい、さっきからうるせーぞ!」
さすがに怒鳴りつける。
すると生意気にもメガネは俺に向かって「おまえがうるさいよ。黙れ」などと言い返してきた。
こんな形で俺に対し言い返してくるなんて、よほどの馬鹿か、もしくは痛い目に遭った事がないんだろうな……。
「誰に向かって口を利いているんだ」
声のトーンを低くしながら立ち上がり、メガネに近づくと、店長が「抑えて下さい」と間に入った。
その隙にメガネ男は逃げるように出ていく。
店長は申し訳なさそうに全員の客へ何故か雪印のコーヒー牛乳を配り、各席へ頭を下げた。
帰り道、ショットバーに寄り、ドライマティーニ、スカイダイビング、グラスホッパー、ジンリッキー、タンカレーストレートを飲むが、イライラは収まらず。
でもいい事をしたのだから、これはきっとパチンコが出るだろうとパチンコ屋へ行く。
しかし思い切り負けてしまい、苛立ちは頂点に……。
さっきのメガネ男がいたら、思い切り走っていって「ボマイェ~!」と膝を叩き込みたくて、しばらく街の中を徘徊するが出会わず。
今度会ったら、思い切り八つ当たりのボマイェしよっと。
ボマイェ(顔面への膝蹴り)。
ボマイェとは何か?
(スワヒリ語: Boma Ye)。
新日本プロレス中邑真輔、現在のフィニッシュ・ホールド。
助走をつけてから仕掛ける顔面への膝蹴り。
CHAOS結成後から使い始めている。
名称はスワヒリ語で「kill you」の意でアントニオ猪木の入場テーマ曲中の台詞「ボンバイエ」と同義。
ナックルパートの後に放ったり、後頭部へ放つ事もある。
また、ガードされることもあるが、場合によっては右足で仕掛けると見せかけて一旦動きを止めてから、左足で決めるパターンを使う。
ボマイェ返し返し。
本人曰く、この技は、高山善廣の必殺技であるニー・リフトを意識して使い始めたという。
今日は久しぶりにTBSの酒井さんと会い、お茶をしながら色々な話をした。
作家として完全に低迷期に入っているなあと実感する自分。
執筆意欲もあまり湧かず、ダラダラと無駄で無意味な時間を過ごしてきた。
こんな俺に会いたい?
会って何の話があるのだろう……。
小説の事から始まり、話題は格闘技やプロレスまでとにかく色々な話をした。
一つ分かった事……。
今のテレビ局は、プロレスラーが今している事など見向きもしていないという現実。
テレビ局が望んでいるものと完全にズレた事を今のレスラーたちはしている訳である。
体験に勝るもの無し。
そうテレビ局の人は言ってくれたが、自分にこんなアドバイスをしてくれた。
「岩上さんは他の小説家と違って、リングに上がったという貴重な経験がある。おそらく観る人たちじゃ分からないような心境や感覚、そういったものが分かっているはず。なら、それを生かした上での作品を書いてみたらどうでしょうか?」
ピンと閃くものがあった。
別に自身の体験談などではない。
まず本というのは娯楽の上で成り立っている。
つまり、今までのような身勝手な作風でなく、読み手をちゃんと意識したエンターテイメントな作品を……。
体験プラス、エンターテイメント。
うん、まずこれしかないか。
溢れ出る泉のように一つのシナリオが頭の中へ広がっていく。
なら、やるだけやってみよう。
こんな俺にまだ期待を掛けてくれていたという現実。
それが素直に嬉しかった。
「『新宿リタルダンド』なんですけどね。面白いんだけど、さすがに国には喧嘩売れないですよ」
俺の処女作『新宿クレッシェンド』の第六弾の『新宿リタルダンド』。
内容は俺が巣鴨警察署へ捕まった時の話。
石原都知事が発動した歌舞伎町浄化作戦。
多くの人間が捕まったが、俺は不起訴を勝ち取った。
何故そうできたかを赤裸々に書いたこの作品。
TBS側からすれば、さすがに扱いにくい内容なのだろう。
「そういえば岩上さん。整体を土日限定でやるとか言っていたのは?」
加賀屋のおばさんから店のスペースを使って整体をやる話。
京子伯母さんの件でバタバタしていて、結局話は流れてしまった事を伝える。
「須賀栄治君から聞いてて、整体も楽しみにしてたんだけどなあ…。まあ岩上さん、小説頑張って下さいよ」
酒井さんと別れ、家へ戻る。
書きたいから書く。
それは当たり前の事であって、自分が勝手にやっているもの。
でも、読み手がいなければ、それは何も成り立たない。
うん、まずはした事もない、プロット作りから始めてみよう。
そしてこれまでの作風とはまるで違う別の作品を……。
このまましばらく定着して働こうと思っていた川上キカイ。
俺は新しい作品『チンコ出した』の執筆を開始していた。
「はぁ…、はぁ……」
ヤバい。
呼吸が荒くなってきた。
「本田さん、小便行ってきていいすか?」
「ああ、構わないよ」
アルバイトの柳田は小走りに出て行く。
チャンスだ。
現在僕のいる場所は、会社の倉庫。
ここにいるのは今、僕たった一人だけ。
監視カメラが動いているかどうか、作業をするふりをしながら、さり気なく確認した。
うん、大丈夫。
今ならカメラは動いていない……。
ゆっくり右手をズボンのチャックへ持っていく。
念の為、左右をまた見回す。
用心に用心を重ねるぐらいがちょうどいい。
改めて誰もいないのを確認すると、僕は壁に寄り掛かり、そのまま腰を降ろした。
その体勢で足を真っ直ぐ前に伸ばすと、一気に手早くチャックを下ろす。
開いたジッパーの中へ右手を入れ、ブリーフの隙間へつっ込む。
オチンチンの先っちょを指でつまむと、そのまま外へ引っ張り出した。
「はぁ~……」
何とも言えない開放感が、全身を優しく包む。
ひんやりとするコンクリートの地面に手をつきながら、ゆっくり時間を掛けて天井を見上げた。
誰もいない倉庫内で一人、こうしてオチンチンを出して惚けている僕。
この風景を誰かが見たら、きっと僕の事を変態だと思うだろう。
でも、ハッキリ言いたい。
僕は断じて変態などではない!
え、誰に言っているんだって?
ふん、独り言だよ、ただの独り言。
野暮な事聞くなよ。そんな事じゃ、女にモテないぜ。
あきらかにいけない行為だってもちろん理解している。
しかしこれは、しょうがない事なんだ。
「……」
よし、そろそろいいな。
僕は落ち着いてオチンチンをしまい、チャックを閉める。
これで今日一日…、いや、あと半日は問題ないだろう。
さて、仕事を張り切って頑張りますか。
木製パレットに積まれているプリンターの山へ近づくと、検品表をチェックしながら品物と照らし合わせた。
えーとプリンターの型はまず…、『2360N』のNECからにしよう。しかしこうも毎日のように様々な物が送られてくるが、もう少し現場で働く身にもなってほしいものだ。
最近になってからだよな、リース返却物件の品でパソコン関係の物が増えてきたのは。
学校関係なら、まとまった数の品が来るからまだいい。
だが持ち込み客の品のチェックは非常に面倒なものだ。
愚痴を言ったところで何も始まらないが。
一番の問題はうちの会社の場合、営業なんだよなあ……。
営業力が弱いのはしょうがない。だけどもうちょっと商品を入れるタイミングぐらい考えてほしいもんだ。
バランスよくと願っても、なかなか難しいのかもしれない。
だけど残業代すら出ないのに、夕方六時以降になってこちらに届くなんてどういう事なんだ。
せめて定時より二時間前にしてほしい。
もう愚痴はいいって。
それより黙々と作業しないと、また時間に追われるだけ。
バーコードシールに書いてある番号と合わせながら、一つ一つ商品をチェックしていく。
「本田さん~、すみませんでした」
アルバイトの柳田がトイレから戻ってくる。
多分長かったから、小便と言っていたが、大をしてきたのだろう。
まあ僕にとってはどうでもいい事だが。
「今、こっちのパレットの検品を始めているからさ、柳沢君は開梱を始めてくれるかな」
「分かりました。プリンターは型ごとに分けてですよね」
「そう、だいぶ仕事の要領を覚えてきたね」
「へへ、もう一週間ぐらい経ちますからね、俺も」
彼は重いプリンターを一人で持ち上げると、そっと床へ置く。
僕も検品する前に一緒に手伝ったほうが効率いいのかな?
でもそれだと検品にどうしても時間が掛かってしまう。
あともう一人ぐらい現場に入ってくれると助かるんだけどなあ。
まあとりあえず、目先の物から片付けていくか。
僕と柳田は黙々と作業へ没頭した。
今日も無事仕事を終え、電車に乗って帰ろうとする。
階段を降りてホームへ行くと、いつもまばらな駅の中はたくさんの人が待っていた。
何でも先ほど人身事故があったせいでダイヤが乱れ、電車の遅れは三十分ほどらしい。
ただでさえ疲れているのに、ここでボーっと待つのは面倒だ。
売店で雑誌でも買っておけば良かったな。
そんな事を考えている内に電車がやってくる。
案の定車内はギューギュー詰めで、ラッシュ時の山手線とタメ線を張るほどだ。
次の電車がいつ来るか分からない状況なので、ホームにいた大勢の人々は強引に満員電車へ乗ろうとする。
もちろん僕も。
強引に背中から人混みに向かって中へ入った。
だけどビクともしない。
まだ僕の体の半分以上は外へ出たままだ。
もっと力強く中へ押し込むと、そこでドアが閉まりだす。
何度か足にドアがぶつかり、うまく閉まらない状態。
仕方なく僕は体を反転させ、背中を外側へ向けた。
それで数回ドアの開け閉めを繰り返すと何とか納まる。
こんなにも混む電車に乗るなんて久しぶりだ。
次の駅に到着すると、この車両から降りる人間は誰一人なく、逆にまた数名の人が強引に入ってくる始末。
目の前に背のチビっこい女性は、僕のお腹辺りに顔を埋めているような形になった。
ちゃんとこの人、息できているのかな?
ちょっと心配だ。
背中に誰かの肘が当たり、グイグイと前に押される。
腹に顔を埋めた女性は苦しそうに「うぅ……」と呻く。
こんな状態で押すなんて常識のない奴だな。
さすがに苛立ち後ろを見ると、中年親父が迷惑そうな表情をしながらまだ肘で、僕の背中を押していた。
こっちのほうが本当に迷惑だよ、まったく。
人身事故のせいでこんな風になるなら、飛び込む人ももっと場所を選んでほしい。
何か辛い事があってホームから飛び込んだんだろうけど、電車に乗る人々のその後を考えればそんな事できないはずだろう。
でも、それでいて鉄道会社は多額の損害賠償金を遺族から請求するんだろうな。
ダイヤの乱れがどうのこうのって言いながら。
ん、待てよ?
ダイヤが乱れたからって過去、一度も電車賃を払い戻しなんてないぞ?
…となると、鉄道会社って酷くないか?
確かにバラバラになった死体片付けの費用ぐらいなら請求してもいいと思うが、ダイヤの乱れぐらいじゃ、別に客へ払い戻す訳じゃないし、電車を走らせる本数だって通常より減る。
逆に経費としてなら浮く形になるんじゃないの?
どうでもいい事を考えている内に、息苦しくなってきた。
マズいなあ……。
こんな満員電車の中でオチンチンを出す訳にいかないし……。
でも、シチュエーション的には最適な場面ではある。
僕って露出狂なのかな?
違うって。
これは命に関わる事なんだから、露出狂ってわけじゃない。
あと一駅か……。
時間にして三分ほど。
徐々に荒くなる呼吸。
何で僕はこんな奇病に掛かってしまったのだろう。
さり気なく周りを観察してみる。
ギュウギュウ詰めなので、みんな懸命に立っている事だけに専念しているようだ。
今ここで僕がオチンチンをこっそり出したとしても、誰にも気付かれる事はないかもしれない。
でも、ちょっとしたタイミングで腹に顔を埋めているチビっこ女性が「プハッ」なんて言いながら離れたら、一貫の終わりだ。
オチンチンを車内で出した事がバレてみろ。
これは社会的にもマズいし、下手したら猥褻罪として逮捕されてしまうかも……。
そんな事になってみろ。
会社からはクビを言い渡され、すべてを失ってしまう。
ヤバい。
だんだん思考回路が鈍ってきた。
仕方なく僕はそっと右手でズボンのチャックに触れ、静かにジッパーを降ろす。
チビっこ女性には気の毒だが、これは僕の命が掛かっているんだ。
すまない。
さらに顔が埋まるようにして自分の腹をつき出す。
「む…、ううぅ……」
女性の呻き声が聞こえたが、なりふり構っていられない。
僕はオチンチンを外へ出した。
辺り一面人間で密集されたこの空間。
そんな場所で今、僕は大胆にも自分のオチンチンをこうして曝け出しているのだ。
快感に近い高揚感が電気のように体内を駆け巡る。
「ふ~……」
よし、息が普通にできるぞ。
僕はすぐオチンチンをズボンの中へしまい、何事もないような表情をしながら腹を引っ込めた。
まだ数枚程度だが、この作品を書いている内に『パパンとママン』の主人公努の続編にできそうかなと感じる。
小田柳に話したら喜んでくれるかな…、そう思いながら出勤したら、突然の派遣社員の契約解除が通達される。
上司の小田柳たちは必死に止めてくれたらしい。
しかし上の決定なので、抗議は認められなかったようだ。
もちろん俺だけでなく本間も解除。
うちらだけでなく社内の各部所の派遣社員はすべて切られるようだ。
「先生…、せっかく楽しくいい感じで一緒に仕事できていたのに…、力不足で本当すみませんでした」
「いえいえ、小田柳さんが謝る事じゃないですよ。こちらこそ数ヶ月間ありがとうございました。本当お世話になってしまい、感謝しています」
こうして俺の川上キカイ生活は終わりを告げる。
年末が近付いていた。
また新たな仕事を探さなきゃいけないのか……。
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