「だってみんな、自分のすべてを曝け出している訳じゃないでしょ。仲良くなればなったで、自分のいいところを知ってもらいたいと思うのが、人間の性ってやつですよ」
確かに河合の理論は、正論であった。みんな、誰だっていいところを見てもらいたい。私だって、もちろんそうだ。
「でも、それは当然の事で、何故、会うと問題になるんだね?」
それまでおどけた表情で話していた河合は、急に真剣な表情に切り替わる。
「すべての人間が、善人ではないからですよ」
「ま、まあ……」
「それと、男と女…。どこかでお互いが興味あるから、わざわざ時間を割いて会ったりする訳で……」
「……」
まだ二十台前半である河合。こんな若いのに、鋭いところを突いてくるものだ。
「例えば俺が、誰か女の子と会ったりするのは、問題ない訳です。結婚している訳じゃないから。でも、課長だと……」
「わ、私はそんな事、考えた事さえないよ」
「まだ、人が少ないからですよ」
「……」
河合の目つきが、意地悪そうに笑っている。
「ブログって、楽しいだけじゃないんですよ、課長」
そういい残して、河合は自分の机に戻っていった。
体のどこかが、妙にざらついた感覚を察知していた。
(お絵描き番長)
わぁ~、何てほのぼのしたブログなんでしょうか。私は絵を描いていますが、こんなほのぼのとした絵をいつか描いてみたいものです。
(うめ)
こんばんは、うめちんです。気まぐれパパさんって、いつもブログのタイトル通り、ほのぼのしてますね。いつまでも暖かいパパでいて下さいね~。
(カイコチャン)
気まぐれパパさんたちご家族の食事の量…。やばい、私、全部一人で食べられちゃうかもしれない。
(ちゃち)
笑顔の数だけ、お子さんたちの幸せが増えているような気がします。
(新宿トモ)
気まぐれパパさんの家庭って、俺にとって理想な家庭ですよ。頑張って下さいね。
今日も新しい人が、コメントを残してくれている。読んでいて、心が躍る。早速、私はコメントをくれた人たちのブログへお邪魔した。
職業、年齢、性別問わず、気の合う自由な仲間を作る事に、生き甲斐を感じていた。
リアルタイムで、日常が色々な人たちと、リンクしているのだから……。
次の日の記事、またその次の日……。
コメントをくれる新しい人たちが、増えていく。
(海)
何かここへ来ると、自然と癒されます。気まぐれマダムさんのところから、来ちゃいました。
(らん)
はじめまして、新宿トモさんのところからお邪魔しました。コメント見て、どんな人なのかなって気になっていたんです。来て良かった。こんないいブログで…。
(ミィーフィー)
お子さんたちと、楽しい食事を過ごされたのですね。うふっ、こっちまで楽しさが伝わってくるようです。
(牧師)
ムッハ! こ、これは…。もの凄くおいしそうなステーキではありませんか。実は私、大好物なんですよ、ステーキ…。このようなステーキ、一度、食べてみたいものです。
ずっと気になっている牧師さん。本物の牧師さんなのであろうか。そろそろ気心も知れてきたので、聞いてみてもいいかな。
私は、牧師さんのブログを覗いてみた。
コメントで聞こうと思っていた事。先に新宿トモさんが質問をしていた。それについての答えも、牧師さんはマメにコメントしてあった。
牧師とは、ただの仇名であり、実際は違うらしい。それにしても、本物の牧師のように穏やかな人である。
ブログ……。
それは、みんなに見られる事を前提とした自分の日記でもある。
もはや、それは日記と言えるのであろうか。私には分からない。最近、インターネット絡みのテレビのニュースで、様々な事件が起きている。
顔の知らない男女が会い、関係のもつれから殺人へ……。
出会い系サイトといったもので、お互いを知り合う。当然、お互いの名前や姿形は分からない。だから自分をより必要以上に良く見せる事ができる。それぞれの想像はどんどん膨らんでいき、やがてその感情は収拾がつかなくなる。
その結果が、このニュースで流されるような事件に、発展していくのかもしれない。
常識とモラルの間で、自己を形成する人間。今の世の中、そのバランスがおかしくなりつつある。
部下の河合が、この間、ブログ上で知り合った子と、現実に会ったと言っていた。彼の言い方だと、あくまでも一対一、男と女という関係が成り立った上で会っているらしい。詳しくは聞いていないが、最後に言った河合の台詞。
「ブログって、楽しいだけじゃないんですよ、課長」
その言葉に、どんな深い意味合いが隠されているのであろうか。お互い興味を持った男と女がひっそりと会うのだ。そこに男女の関係がないとは言い切れない。
私は男なので男側の意見しか言えないが、いい女は確かに抱きたい。抱いてみたい。それは男本来の欲望というものである。
しかし私には女房も子供もいる。自分の欲望を叶えたい為に、それらを犠牲にする事はできない。
もしそれをしてしまったら私を産んだ両親と、同一レベルになってしまうであろう。
いや、それ以前に顔も知らない女と会った瞬間…。自分の想像していた女性像と、まったく違う人間が来たとしたら、その時男は何を考え、どう行動するのであろうか。
「ほら、早く…。私を気持ち良くさせなさいよ。早く!」
瞬間的に蘇る過去のおぞましき記憶……。
自分を産んだ母親。
この私を育ててくれはしたが、父親に捨てられたという現実が、母親を狂わせていた。
まだ私が高校三年生の頃だった。
部活から帰り、学生服のまま布団に寝ていると、妙に寝苦しさを感じた。体が重く、顔が熱い。あまりの寝苦しさから、目を覚ます。
両目を見開き、ギョッとなった。
私の母親が、衣服を何も纏わず、裸の状態で私の体の上にまたがっていたのだ。しかも、うっすらと薄ら笑いを浮かべながら……。
「か、母さん……」
実の母親の顔が、どんどん近づいてきたと思うと、私は唇を奪われていた。ヌメッとした感触の舌が、私の唇を強引にこじ開け侵入してくる。何故か、頭の中で爬虫類の何かを連想させた。
体全身が痺れた。血の繋がった同士の禁断の行為。
最近の母親は息子の私の目から見ても、壊れかけていると感じていた。
「やめろ!」
声に出したくとも、声帯から言葉が出る事はなかった。突拍子もない非現実的な行動に、私はパニックを起こし混乱していた。
母親の舌は千差万別の蛇のように、あらゆる不快な動きで思考能力を奪っていく。そんな状況下の中、私の下半身は意志に逆らって強烈に勃起している。
一度だって母親を女性として見た事などなかった。考えた事さえない。それがこの現状は何なのだろう。
腹の辺りから母親の手がモゾモゾと、下に向かって伸びていく。
どうする事もできない私……。
母親の手は、固く勃起していた私の下半身を強く握り締めていた。あがらう事ができず、されるがままの状態が続く。
私の手首をつかみ、強引に自分の胸へ持っていく母親。
罪悪感と気持ち良さが、交互に行き来する。完全に母親の表情は狂っていた。私を自分の息子だという意識はない。気がつけば私のズボンとパンツは脱がされ、下半身裸になっていた。
「ほら、早く…。私を気持ち良くさせなさいよ。早く!」
生まれて初めての性行為……。
私は血の繋がった母親が、最初の相手だった……。
長い髪を振り乱しながら、母親は私の上で一心不乱に腰を振る。
そんな中で、私の下半身は果てた。
母親は布団の上で、気が狂ったように大声を張り上げながら笑っていた。私はその様子を眺めている内に吐き気を感じ、トイレに駆け込む。便器に顔を乗せながらも、胃袋いっぱいに溜まった異物を思い切り吐き出した。
その日から私は、母親を恐ろしく感じるようになり、熟睡して寝る事ができなくなってしまった。
そして私が高校を卒業すると同時に、母親は姿を消した。
当然普通には大学へ行けず、働きながら何とかやり繰りし、大学へ通うようになった私。
四十歳になった今でも、両親を怨めしく思う時がある。
贅沢でなくていい。ただ、普通のささやかな幸せ溢れる家庭の中にいたかった……。
思えば、私はずっと理想の家庭を築く為に頑張ってきた。
気がつけば、自分一人ではない。周りに支えられて、今日まで生きてこられたのだ。
暖かい家庭。妻と子供たちの笑顔。
社内での仲間たちの信頼。
背中に乗っかっているものが、徐々に大きくなっていく。信頼の積み重ねが私の背中を重くしている。
定年退職まで、敷かれたレールの上を走らねばならない現状。
ふと、思う……。
私は…、私自身は、幸せなのであろうか。周りの人間の幸せを考えるあまり、自分自身の幸せを考えているのか。答えは分からない。妻のみゆきや、息子の卓、娘の佳奈。家族の楽しそうな笑顔で、間違いなく私は癒されている。
癒しと幸せ…。果たしてイコールなのだろうか?
心の奥底で私は一体、何を望んでいるのだろう? このような考えをしている時点で、何かしら現状に不満を感じているのだ。
毎週水曜日には、部下の河合が自宅にやってくる。そこで私は新たなパソコンのスキルを徐々に習得している。
週に一度というペースではあるが、私以外の家族の人間にも、河合は確実に親密度がアップしていた。
「課長、だいぶパソコンも覚えたんじゃないですか?」
「おかげさまでね」
「俺も週に一度は、おいしいご馳走をいただけるので、毎週水曜日が待ち遠しいですよ」
「あら、河合さんたら、お上手ね……」
頬を赤く染める妻のみゆき。私が心の底から愛した女性……。
「卓君もある程度大きくなったらさ、お兄ちゃんがパソコンを教えてあげるね」
「ほんと!」
優しく頼もしいお兄さんができたかのように、顔をほころばせる息子の卓。
「ねえねえ、私には~?」
負けじと甘えてくる娘の佳奈。
一見、ほのぼのとした楽しい団らんのひと時ではあるが、そこに私の存在感はなかった。二十台前半の男と、四十歳の男。年の数だけでいえば、純粋に二倍の時間を私は生きている。河合を見つめる家族の表情。少しばかりの嫉妬を感じていた。
マンネリ化した日常にうんざりしていた私ではあるが、このような刺激だとどこかで面白くないと感じている自分自身がいる。身勝手なものだ。
食事を終え、河合が帰ると、みゆきは私にコーヒーを淹れてくれた。
「ねえ、最近さ」
「ん、何だい?」
「携帯であなたのブログ見てるけど、どんどん人が増えてない?」
「そうだね」
「一人一人にコメントを返している訳でしょ?」
「ああ」
「大変じゃないの?」
確かにここ最近、それは何となくではあるが、感じていた部分でもあった。一人一人のブログ記事をちゃんと読み、それに関するコメントを書く。礼儀としては当たり前の話ではあるが、人の人数が増えると時間的に厳しいものがある。
人間は本来働いた上で、その後にプライベートがある。私は妻子持ちだ。自分一人での時間を好きに使える訳ではない。
家族全員で食事をし、時には旅行へ行き、週末になればどこかへお出掛けをする。
当然睡眠時間もある訳で、限られた時間内しかブログには関われない。
人の数が増えれば増えるほど、私のプライベートな時間を使う事になる。
自分の限られた時間以外での、人数の集まり方……。
コメントを返すといった時間を作るには、睡眠時間を削るしかなかった。
深夜おのずと減る妻との性行為。みゆきは遠回しにその事を言いたかったのだろうか?
しかしブログは動いている。「ご機嫌パパ日記」は、ほぼ毎日のように動いているのだ。もう、私一人でやっているものではなくなっている……。
(お絵描き番長)
気まぐれパパさん。この間、私のブログでおおちゃくして、息子のホームページの記事のリンクを貼り付けてしまいました。間違って……。
気まぐれパパさん、息子のリンク先に行ったみたいですね?
おかげで息子に怒られました……。
何だ、このコメントは…。いつもやり取りしているお絵描き番長。本当に絵画教室の先生をしているらしいが、何故このようなコメントをしたのだろう? 私は理解に苦しむ。
お絵描き番長のブログに行くと、孫の記事が書かれており、その記事の中にリンク先に飛べるようになっていた。私は何だろうと思い、睡眠時間がないのを分かりながらも、リンク先へ行ってみた。
行った先は番長の息子が運営しているホームページで、自分の子供を中心とした内容であった。まだ二歳ぐらいの可愛い子供の写真が掲載されていたので、私は顔をほころばせながらコメントを残したのである。
(気まぐれパパ)
可愛いお子さんですね。目に入れても痛くないでしょう?
いつも、お絵描き番長にはお世話になっています。
別段、変なコメントは残していないつもりである。リンク先があったから、行ってみてコメントを残しただけの事だ。それを何故こんな言い方されなければいけないのだろう?
少しばかり、気分が悪くなった。本音を言えば、だったらリンク先などつけて、飛ぶようにするなと言いたい。誰かに行かれるのが嫌なら、そんな事をはなっからしなければいいのである。
それでも感情を剥き出しにするのは他の目もあるので、私は差し障りないコメントを返す事にした。
(気まぐれパパ)
ご迷惑をお掛けしたみたいで、すみませんでした。リンク先が記事の中にあったもので、何かなと思って行ったら、とても可愛いお孫さんの写真がありましたので、ついコメントを残してしまいました。以後、気をつけます。
自分の常識の判断で、勝手に他人まで巻き込んではいけない。よく自分の物差しで計るなというが、実際その通りだと思う。
コメントを投稿した時点で、私の中にちょっとした心境の変化があった。
何で苦労して時間を費やしているのに、こんな不快な思いをしなきゃいけないんだ……。
今まで楽しくお気楽にやってきたブログ。
自由に記事を書き、楽しいコメントのやり取りをしていたはずなのに、いつの間にか普段と変わらない自分がネットの中にいた。
他の人の迷惑にならないよう最新の注意を払い、細かい気遣いをしてあげる。一番人に好かれる方法である。
これを社会人になって、ずっと繰り返しやってきたのだ。会社でも、家庭でも……。
息抜きがてらに始めたブログなのに、今現在息が少し詰まっている。出来る限りみんなの前ではいい人でいたい。しかしそれが最近になって、自分の首を絞めている事に気がついている。静かに蓄積していくイライラは、やがてストレスとなり私の体を蝕んでいく。
生活していく上で嫌な事があると、必ずプレイバックする過去のトラウマ。
幼き頃父親には捨てられ、母親には犯され…。そして最後には捨てられた……。
誰からも必要とされない忌み嫌われし子。
今でこそ、幸せな家庭を築き上げたが、これが本当に私の望んでいたものなのであろうか?
たまに思う時がある。私、一人…。孤独に、孤高にいるのが、一番お似合いじゃないのかと……。
両親の呪われた遺伝子。決して自分の子供は作るまいと、そう決めて生きてきた。妻のみゆきに出逢うまでは……。
彼女の持つ優しさに、私は過去を浄化され二人の子供を産んだ。
今現在の幸せ…。ずっとこれでいいと思い、頑張ってきた。
しかし私に流れる血は、薄汚れた呪われし者の血。二人の子供は、そんな私の血を受け継いでいる。
複雑な思いを胸に抱きながら、私は他の人のブログを眺めた。
『おおうめ日記』 うめ
バトン
こんばんは、うめちんです。新宿トモさんから回ってきたバトン。これを私が渡せるのは、牧師ツマさんしかいません。
牧師ツマさ~ん。見てますか~? バトン渡しましたよ~。よろしくお願いしますね。
トモち~ん、うめちん頑張ったよぉ~。
仲良くなってからしばらく経つ、うめさんという主婦のブログ。どうやらバトンというものが、ブログ内で流行しているようだ。
バトンを渡された人は、言われた質問に答え、仲のいい相手にバトンを回す。それだけの事ではあるが、見ていて非常に興味深く面白いものである。
バトンの渡し主は、新宿トモさん。では、トモさんにバトンを渡したのは誰だろう?
私は彼のブログを開いた。バトンの記事をちゃんと読んでみる。なるほど、新宿トモさんはらんさんからバトンを受け取ったのか。いずれ私のところにも、バトンは回ってくるのだろうか?
それと牧師ツマさんという方…。ひょっとして、私が仲良くさせていただいている牧師さんの奥さんなのだろうか?
少し気になったので、牧師さんのブログを見てみる。
「……」
どうみても牧師さんは、独身な様子である。牧師ツマという名前は、どこにも見つからない。ただ、ハンドルネームが、たまたまそうだっただけなのだろうか。
私はうめさんのところにある各部屋のリンク先から、牧師ツマさんのブログへ飛んでみた。
ブログ全体を見て驚いた。本物の牧師さんの奥さんだったのだから……。
ネット上とはいえ、本当に色々な人がいるものだなと、つくづく感心してしまう。これが一般世間だったら、ここまでお互いの親交を深め合う事ができるのだろうか。
誰かが、職業に貴賎はないと言っていたのを思い出す。
このインターネットの世界では、人間性が重視なのだ。職業や立場はそれぞれ違えども、価値観の似たような人間同士、自然と仲良くなっていく。
仕事先でも、私はブログの事を考えるようになっていた。
暇さえあれば、携帯でチェックしてしまう自分がいる。
例え時間が掛かったとしても、私はコメントをくれた人たちには、こまめにコメントを返すように心掛けた。
自分の日課の中に、ブログへ費やす時間というものが、当たり前になっている。
これを現実逃避というのであろうか。
ここ最近の私の行動を妻のみゆきは、あまり面白く思っていないらしい。確かにそうだ。みゆきは間違っていない。以前なら、毎週日曜日は子供たちとどこかへ行っていた。もちろん今でもそれは変わっていない。しかし、行く目的が私の中で、ジワリジワリと変わっていたのだから……。
子供や妻を楽しませるというよりも、ほのぼのした状態の写真を撮り、ブログのみんなに見てもらいたい。そんな感覚になっている。
家族の写真を見てくれるブログの人たち。当然、妻も喜んでくれるとばかり思っていた。
「あなた……」
「何だい、みゆき?」
「最近、少しブログというものに、関わり過ぎのような気がするんだけど……」
「まあ、確かに見てくれる人も、以前とは比べ物にならないぐらい多くなったしね。それは仕方ない事だよ」
「今、あなたは自分の子供たちと、正面向いて、ちゃんと向かい合っていると言える?」
卓、十三歳。佳奈、十歳。大事な時期でもある。私は、正々堂々向かい合っていると、言えるのであろうか。
「もっと家庭をちゃんと見て」
みゆきの言い方に、私は不快なものを感じた。嫌な言い方ではあるが、私がこうして働き、家だって建て、生活だってできているのだ。子供の事を何も考えていない訳ではない。少し私に対して言い過ぎのような気がした。
人間一人だけでは生きていけない。家族だって必要だし、周りの仲間も必要である。形は違えども、今、私にはネット上の顔も知らない仲間ができている。
そんなブログなど表面的な付き合いだと、人は言うかもしれない。それだって分かり合える人はいるはずだ。
「何故、今になってそんな事を言い出すんだい?」
険しい妻の表情。あまりそのような顔を見た事のない私は、話しているテーマの深さというものを考えてみた。
「写真だってそう…。うちの佳奈。あの子は十歳なのよ?」
「そんな事ぐらい、分かっているよ」
「顔を知らない人に晒されて、今、ニュースとかで幼児誘拐殺人とか、おかしな人だっていっぱいいるのよ」
「……」
「毎週毎週、何かあるとカメラを持って撮影…。家族用に記念としてなら文句はないわ。でもね、最近のあなた、ブログの人たちに見せたいが為に撮っているようにしか感じないの」
「でも、悪い人たちじゃないよ?」
「コメントをくれている人はね…。でもね、知らない人だって、あなたのブログを見ているのよ? その辺まで分かって言っているの?」
「……」
返す言葉がなかった。
「何かあったら、どうするの? そんなつもりじゃなかったじゃ、通らないのよ?」
確かに佳奈に何かあっても、私は誰がどうしたのか。そしてハンドルネームが分かったところで、どうする事もできない。顔や名前が分からない嫌な部分でもある。
「じゃあ、どうしたらいいんだ?」
「もう、ブログとか辞めようよ……」
「それは無理だよ。ここまで毎日のようにやってきて……」
「どっちが大事なの?」
まったく嫌な選択をさせるものである。家族とブログ…。どっちが大事かなんて、決まりきっている。家族をどうやって切り離せと言うのだ。ハッキリ言いたかったが、みゆきの意地悪な言い方に、私は苛立ちを感じていた。
「うるさいぞ、おまえ……」
「何で、そんな言い方しかできないの?」
ずっと仲良くやってきた私たち夫婦の絆に、亀裂が入ったような気がした。
「もう、疲れているんだ…。今日は寝るよ」
困り果てた表情をするみゆきの相手をするのに、正直、苛立ちを隠せなかった。
布団をかぶり、目を閉じても、この日はしばらく寝つけなかった。
『ご機嫌パパ日記 その四十七』 気まぐれパパ
今日は何事もなく、平凡な一日でした。う~ん、書く事がないなあ~。
妻に、私のブログの存在も知られているので、安易な記事は書けなくなってしまった。写真も載せられないだろう。機嫌をますます損ねるだけである。
今日はみんなにコメントを返すのも、控える事にしておいた。本来の生活で支障をきたしてもしょうがない。
ここまで毎日のように積み重ねてきて、今さらブログを辞める事などできない。その時によって、人間の環境は変わるのである。私は前よりも増して、携帯でブログを随時、頻繁にチェックするようになっていた。
毎週水曜日に来る部下の河合。
私自身、彼にはパソコンの件で世話になり、恩義は感じている。しかし今の自分のスキルを考えると、もう彼の指導はいらないような気がした。
家族と必要以上に馴れ合いになられても、いまいち面白くない。妻のみゆきとあのような言い合いにはなったが、河合にいい顔をされても嫉妬心からか不快に感じる自分がいた。
仕事を終え、帰り支度を整えると、河合が擦り寄ってくる。
「今日は奥さん、何のご馳走を作っているんでしょうかね、課長」
「知らんよ、そんな事までは……」
「あれ、ちょっと不機嫌ですね? 何か家であったんですか? 綺麗な奥さんと、夜の生活がうまくいってないとか……」
まったく、いつも鋭いところを突いてくる嫌な奴だ。
「うるさい!」
多分、彼がこの会社に入社してから、初めて私は怒鳴ったのかもしれない。河合は目を丸くして驚いていた。
「悪いが、今日は家に来なくても大丈夫だ」
「は、はい…。すみません、課長……」
珍しく神経がささくれ立っていた。ハッとして社内を振り返る。残業で残る社員のほとんどが、私を眺めていた。
やり場のない怒り。
私は荷物を持ち、黙って会社を出た。このまま真っ直ぐ家に帰るのも嫌だった。
家族、会社、ブログ……。
今の私の生活のすべてである。今まではその三つの歯車が、うまく回っていた。どこかでその歯車にズレが生じているのを感じ取っている。
元々あった家族と会社。そこへブログというものが加わり、自然と日常の日課になっていた。楽しくやってきたつもりだった。それが、何でこんな風に……。
「お客さん、元気ないですね~。どうです? うちで一杯」
考え事をしながら駅までの道を歩いていると、客引きに突然声を掛けられた。
「おいおい、仕事あとで疲れているんだよ。勘弁してくれ」
「やっぱりお疲れですか? なら、うちは癒し系の子、多いですよ」
「……」
今まで、女遊び一つした事のない私。
「ここは、何の店なんだい?」
「お触りパブです。男はみんな、おっぱい大好きですよ。お客さん、巨乳好きでしょ?」
「な、何だね…。いきなり……」
「少しぐらい寄ってみても、損はないですって」
いつもならみゆきの奴、部下の河合が家に来るつもりでいるだろうから、今頃張り切って料理を作っているはずだ。その姿を想像するとイライラしてくる。
「ちょっと待っててくれ」
私は携帯を取り出して、家に電話を掛けた。
「はい、木島です」
娘の佳奈の声だった。良心が心の中で暴れている。
「お母さん、いる?」
「あ、パパ。お仕事終わったの? ママねー今、台所にいてね。手が離せないみたいだよ。」
「うーん、そっか……」
「もう、帰ってくるんでしょ? 今日は河合のお兄ちゃんの来る日だから、佳奈、楽しみにしてるんだよ」
締めつけられるような感覚が、体を襲う。我が娘の楽しみを自分のエゴで奪った父親。しかし河合に今日は来るなと、すでに断ってしまったのだ。
何て、答えればいいのか……。
「きょ、今日ね……」
「うん。どうしたの、パパ?」
「実はまだ、お仕事終わってないんだよ」
「えー、そんなー」
落胆している愛娘、佳奈の声。大事な宝物を奪ってしまったような気がした。
「ママに代われるかい?」
「河合のお兄ちゃんだけでも、来れないの?」
河合だけ…。瞬間的に、頭へ血が登る。
可愛さ余って憎さ百倍…。今なら、この意味が痛いほど分かる。
「佳奈! パパの言う事を聞きなさい」
電話口の向こうで、佳奈は声を殺して泣いていた。そんなに私よりも、河合に会いたかったのか? 可哀相な事をしたという気持ちよりも、憎しみが沸いてくる。
誰からも好かれず、誰からも必要とされず……。
昔、ずっと頭の中で唱えていた呪文のような言葉。
今まで築き上げてきた大事なものを、思い切り崩したい気分だった。
「あなた、一体、佳奈に何を言ったのよ?」
妻のみゆきの声が聞こえる。佳奈の泣いている様子に異変を感じ、台所での作業を止めてきたのだろう。
私は、忌み嫌われし子なり……。
誰からも好かれず、誰からも必要とされず……。
私に流れる血は、呪われた血脈なり……。
過去の嫌な記憶が、徐々に心の奥底からこぼれ出している。
「今日はまだ仕事が片付かないから、みゆきに電話代わってくれと言ったんだ」
「何で、それで佳奈が泣いているの?」
「ママに代わってというのに佳奈がダダをこねたから、いう事を聞きなさいと言っただけだよ」
「…って事は、今日は河合さん、家に来れないの?」
こめかみの血管が、ピクピクなっていた。どいつもこいつも……。
「とにかくこれから接待なんだ。急に予定が入ったから仕方ない。うちの大事な取引先なんだ」
「そう、分かったわ。ごめんなさいね。仕事、大変だろうけど、頑張って……」
「終わったら電話するよ。ご飯は先に食べてておくれ」
妻の声は少しトーンが落ちているように聞こえる。河合が来ない事がそんなに悲しいのか?
咄嗟に出た嘘。それはこのまま真っ直ぐ家に帰らないつもりでいるのかもしれない。電話を切ると、客引きの兄ちゃんが笑顔で擦り寄ってきた。
「お話は終わりましたか?」
四十年間ずっと自分の理想を築きあげる為に、ひたすら頑張ってきた。何もかも我慢して必死にやってきた。
それで得た私の理想とは、こんなものだったのか。たまには自分にご褒美をあげたっていい。私は軽く息を吸い込んだ。
「お客さん?」
よし、自分を少しだけ崩してみよう。楽になれるかもしれない……。
「君、胸の大きな子はいるかね?」
「もちろんですよ」
薄暗い店内。
お触りパブの店内は、独特のエロスの匂いが充満していた。店員に案内させるまま、私はふかふかのソファに腰掛ける。
耳鳴りがしそうなぐらいの大音量で、ロック風の音楽がガンガンにかかり、思わず耳を塞ぎたくなる。すぐそばでは私と同じ年代ぐらいの中年サラリーマンが、だらしない顔をしながら見ず知らずの女の胸に、顔を何度も埋めていた。
こんなお下劣な場所に来て、私は一体、何を考えているのだろう。入場料金だけで、八千円もの金を取られ、指名料でさらに二千円上乗せ…。一万円あれば、子供たちにおいしいものを食べさせる事ができる。みゆきが喜ぶような服を買ってあげられる……。
やめろ。
もう沢山だ……。
ずっと家族に尽くしてきたのに、今日のあのみんなの態度はない。佳奈もみゆきも、河合河合と口走る。中年男の見苦しいジェラシー。自覚していても苛立ちを隠せないでいた。それに対し、私は自分をスッキリさせにきたのではないのか?
罪悪感と苛立ちが、私の中で喧嘩をしていた。苛立ちはどんどん膨れ上がり、罪悪感が徐々に消えていく。
そういえば今日の私のブログ…、誰からコメントが来ているんじゃないか?
暗闇の中私は携帯を開き、自分のブログをチェックする。
『ご機嫌パパ日記 その五十三』 気まぐれパパ
何だか最近、書く記事がなく、更新するのも、一苦労の気まぐれパパです。
何か面白いスカッとするような事、起きないものですかね…。仕事だけは忙しい……。
(気まぐれマダム)
何だか、ここ最近の気まぐれパパさん。元気ないように感じます。何かあったのですか?私は相変わらずワイン三昧で、酔っ払った日々を送ってま~す。
(新宿トモ)
あれれ、最近、忙しいのですか? もし、何かあったら、気軽に自分に吐き出して下さいね。少し心配してます。
特に何かをブログに書いた訳ではないのに、ブログ友達が私を気遣うコメントをしてくれていた。お互い顔も本名も知らない仲なのに……。
温かい何かを感じる。嬉しいものだ。さらにコメントは続いていた。
(ちゃち)
なかなか言い出せない言葉ってありますよね。私は、ジッと溜め込んじゃうほうかな。
(カイコチャン)
そんな時は、いっぱいおいしいものを食べるべきです。満腹になれば、嫌な事も忘れられますよ。
(うめ)
こんばんは、うめちんです。面白いスカッとした事ですか…。平凡な日常を送るうめちんは、いつも代わり映えない日常を送っています……。
「こんにちは~」
声がして顔を上げると、目の前に店の女が立っていた。薄暗いので、表情はよく見えない。
「あれ、メール見てたの?」
「ん、いや……」
画面を見られるのが恥ずかしく感じ、私は携帯をしまった。
「指名してくれて、ありがとね。ここは、何回目?」
会話をしながら、女はさり気なく私の腰掛けるソファに座る。
「は、初めてだよ」
「え、そうなんだ? 初めてで指名してくれるなんて、嬉しいなあ」
女の手はそう言いながら、私の太ももを撫でだした。
「乗っていい?」
「え?」
「ラッコちゃんスタイル」
「何の事?」
「ふふふ……」
私の両膝の上に、向かい合った形で座る女。点滅する店内のライトで、女の顔が見える。お互いが向き合って重なる事を、ラッコちゃんスタイルというのか……。
まだ、二十二歳ぐらいだろうか? もしうちの佳奈があと十年経って、このような仕事をしたら……。
想像とは裏腹に、私の下半身は元気いっぱいになっていた。
隣にいる中年サラリーマンみたいに、すっかり理性をなくしたようにはなれない。こんな状況の中でも、私はまだモラルを持っていたい。
「そんな真剣な表情して、どうしたの?」
女は私の下半身を弄りだす。何ともいいようのない快感と興奮が頭の中で駆け巡る。
「あら、すごい元気いっぱいじゃない」
片手で私の下半身を、そしてもう片方の手で器用に、女は自分の服を脱ぎだした。はち切れんばかりに飛び出す胸。私は見ただけでさらに興奮し、下半身を固くした。
「おっぱい好き?」
「……」
「もう、いまいち弾き切れてないなあ……」
私の手首をつかみ、女は自分の胸へと持っていく。今まで味わった事のない大きな胸の心地よい感触。自我がどんどん薄れていく。
女の舌が私の口内でうねりながら、歯茎に沿ってゆっくり動いている。
気がつけば私は女の胸に顔を埋め、体のあちこちを触りだしていた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎ去っていく。
ワンタイム一万の金を払い、その分の五十分が終わりを告げる。
まだこの楽しい遊びを続けるには、もう一万円を払わねばならない。金銭的にも時間的にも余裕がなかった。
本来ならば部下の河合が家に来て、家族が楽しく過ごす日に、一体私は何をしているのであろう。店の外に出ていると、そんな現実が私に押し寄せてくる。
財布から定期券を取り出し改札に向かう途中、背後から肩を叩かれた。
「……!」
「真っ直ぐ家に帰ったんじゃなかったんですか、課長」
いやらしい笑みを浮かべながら、背後には部下の河合が立っていた。心臓の鼓動が早くなる。
落ち着け……。
ここは駅前だ。お触りパブに入ったのを見られた訳ではない。
「小腹が減り、飯を食っていただけだ」
「ふ~ん」
「何だ、その顔は?」
河合は携帯をポケットから取り出して、私に突きつけるように見せた。
「……!」
携帯の画面。それは先ほど私がお触りパブに入ろうとしている画像だった。だらしない鼻の下を伸ばした表情で、写真に納まっている私。
「どういうつもりだ?」
「いえ、ちょっと筋が違うんじゃないかなって思いましてね」
「何の筋だ?」
「だって水曜日は、いつも俺が課長の家に行くって決まっている日じゃないですか。それを自分の都合で、しかも急にキャンセルして自分は女遊びですか。俺、どんな用事があっても、水曜日だけはいつだって空けていたのにな~」
「……」
普段ならニヤけた表情の河合が、この時だけは真面目な表情だった。
「さすがにね、課長が店に入っていくのを目撃した時はショックでしたよ」
「……」
「俺が課長に何かしましたか? それはプライベートでの付き合いもあるから、たまに失礼な発言もしちゃう時だってありますよ。でもね、それって親しみを込めているだけで、悪気などこれっぽっちもないんですよ?」
「そ、それは……」
「どうせ、二十そこそこのガキの予定など、どうでもいいと思っているんでしょ?」
「い、いや……」
「会社にこの画像をばら撒きながら、みんなに言っちゃおうかな」
「お、おい、河合君……」
「冗談ですよ。冗談」
「……」
「家族と会社、どっちがいいですか?」
「な、何をだ?」
「この画像を見せるの……」
「た、頼むからやめてくれよ。な?」
「う~ん、どうしよっかな?」
「な、河合君」
「じゃあ、俺の希望聞いてくれます?」
「あ、ああ……」
「今すぐ、家に電話を掛けて下さい。」
「か、掛けてどうしようって言うんだ?」
「別に深い意味合いなどないですよ。俺、腹が減っているんです。なので、せっかくのご馳走を食べたいじゃないですか」
「し、しかし……」
「残業の件なら、俺も口裏を合わせますよ。ね?」
こいつはどこから私を見ていたのだ? 何を企んでいる? どう考えても素直に言葉をそのまま受け取る事などできない。
だが、今の私は他に選択肢がない……。
今の私は家に電話をする以外、この窮地を脱出する術はないのだ。
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