河合から解放され、まずは会社に連絡を入れた。
昼になっていた。課長の立場で無断遅刻。どのくらいのペナルティを受けねばならないのか? 非常に電話をしづらかった。しかし逃げる訳にもいかない。家族を養っていくという義務が、私にはあるのだ。
「すみません…。木島ですが……」
「あ、木島課長。お体の方は大丈夫ですか?」
ビックリしたのが、私の遅刻に関して誰も驚いていなかったという点である。
「お体って?」
「今朝、河合君から連絡あって木島課長が昨日の夜から体調がおかしくなり、今日は休むと伝えてほしいと、代わりに頼まれたって……」
あいつめ…。私にあんな事を言いながら、自分ではちゃんと根回ししていた。悔しいがここは河合に合わせないといけない。
「あ、ああ…。そうだったね。彼、ちゃんと連絡してくれたんだ」
「具合良くなりましたか?」
「ああ、だいぶ良くなったよ。ありがとう。明日は必ず出勤するから、迷惑掛けてすまないね」
次は家だ。
きっと河合が事前に、それとなく連絡は入れているだろう。そんな予感がした。
「はい、木島です」
みゆきの声に、思わずホッとする。
「私だ…。昨日はすまなかった……」
「大丈夫よ。いつも頑張っているんだもの。河合さんから連絡あったわよ。昨日の内に。課長が酔い潰れたから、自分のマンションに泊めるって」
「そうか……」
みゆきも、まさか自分が河合に狙われているだなんて知りもしないだろう。
あの時安易にしてしまった返事。本当に私は、妻を部下の河合などに献上しなければならないのか……。
河合のねちっこい笑顔が、脳裏にチラつく。あいつがみゆきを抱く…。想像もつかなかった。
この現状をどうしたらいいのか? いくら考えても答えは出ない。クモの巣に引っ掛かった虫のように、どんどん身動きがとれなくなっている事だけは自覚していた。
とりあえず妻にさり気なく話し、毎週水曜日のパソコンを教えてもらう件はうまく断るしかない。ある程度、私の家族を団結させなければならない。
「あなた、どうかしたの?」
みゆきの声で、我に帰る。
「ん?」
「急に黙っちゃったから」
「いや、もう心配ないよ。多少、二日酔い気味だがね…。これから、家に帰るよ」
「ご飯は?」
「う~ん、まだ酒、残ってるからな…。あとでいいや、ありがとう」
昨日のひと騒動は、とりあえずこの場だけでも取り繕う事ができた。
家に帰ってから、ゆっくり今後の事について考えなければ……。
しばらく数日間、河合からのリアクションはなかった。
会社にいてもごく自然に接してくるだけで、あの日の事は幻だったのかと思うぐらいだった。
たまに背後から視線を感じ振り向くが、河合は背中を向けて机に向かっていた。
昼休み、社員食堂で遅めのランチをとっていると、女性事務員たちの会話が聞こえてくる。
「知ってる? 人事部に河合君、辞表出したって」
「えー、そうなのー」
「ちょっとショック。私、狙っていたのにな……」
「案外、裏で何をやっているのか分からないタイプだよ。ああいうの」
「でも、笑顔が可愛いじゃない」
「あんたは、いつもそればっかじゃん」
あとの会話など、どうでもよかった。河合が会社を辞める…。その事だけが脳裏に刻み込まれた。
もし事務員たちの会話が、単なる噂でないとしたら……。
一体、河合は何を考えているのであろう?
考えられる点は二つ。
本当に会社に対し嫌気がさし、ただ辞めるというもの。
もう一つは、会社を辞めてまで私の妻であるみゆきをいただく算段でもしているのだろうか。
河合のブログ「忌み嫌われし子のスペース」。あれは毎日のように更新しているのか?
あの日以来、私はブログを見ていなかった。今の精神状態では、正直ブログどころではない。
食事を終えたら久しぶりに携帯からチェックしてみよう。そして河合のブログも探し、本当に会社を辞めるのかどうか…。それを本人に確認しなければいけない。
ここ数日間、私は夜になると、ほぼ毎日のように妻と性行為を繰り返していた。他の男にこの体を奪われる…。そう考えると、いても立ってもいられなかったのだ。不思議なものである。あれだけマンネリというものを感じていたのに……。
(トライ)
ブログ徘徊中…。
ここ最近、気まぐれパパさん、更新ないですね~。元気ですか~。
(気まぐれマダム)
あれ~、まだ更新してないわ。パパさん、どうしちゃったのかしら…。ちょっと心配しています。
(しろたぬき)
こんばんは、しろたぬきです。う~ん、休養中かな?
(青い鳥)
今、チェンマイの日差しはとても暑いです。大汗を掻きながらゴルフ三昧の日々を送っています。夜は、肩こり酷いかな。
(新宿トモ)
少し心配しています。何か話したい事あったら、気軽に言って下さいね。
(ちゃち)
気まぐれパパさん、忙しいのかな? また、更新待っていますね。
(うめ)
こんばんは、うめちんです。パパさん、頑張れ~。うめちんも頑張ります。
(カイコチャン)
食欲の秋が過ぎ去ろうとしていますね。おいしいものは、いっぱい食べられましたか?
(らん)
忙しいのかな? たまにはパパさん、また、ほのぼのした記事を楽しみにしていますね。
(牧師)
今日は、いい写真が撮れました。コスモスの写真です。お時間取れましたら、是非、見に来て下さいませ。
(ミィーフィー)
あはっ! 気まぐれパパさん、少しお疲れですか?
(たかさん)
あれれ、最近、更新してないじゃないですか。奥さんとお子さんたちと、旅行でも行っているのかな? うちは相変わらず女帝が幅を利かしています。
(あさがお)
おはようございます。
あれ、まだ更新をしていないのですね…。
僕の素敵な朝のポエムを聞かせようと、はるばるやってきたのに…。残念ですね。
実は今日、彼女の内定式なんです。だから僕は、彼女と一緒にいたい。
明日は、さんまのおひたしです。
(ストーカー男)
ちょいさ~。
(ぴよ)
パパさん、こんにちは。ぴよは、パパさんの更新待っていますよ。
(お絵描き番長)
そうそう、パパさんの勤めている会社。以前、一部上場だって書かれていたじゃないですか? うちの息子に、「気まぐれパパさんの会社って、一部上場なんだって。」というと、息子は、「金融か何かだろ」って言ってました。
パパさんってサラ金の人?
それなら取り立てとか、してるのかな~。恐い……。
(ネコ)
こんばんは~、ネコです。パパさん、また更新、楽しみにしていますね。
(牧師ツマ)
はじめまして。うめさんのブログから来ました。色々見させていただきましたが、本当に暖かいブログですね。また、楽しみにさせていただきます。
ここ数日で、いっぱいみんなのコメントがあった。
ほとんど見ていて元気付けられるコメントばかりだ。嬉しいものである。
それにしても、このあさがお、お絵描き番長って何だ?
あさがおって奴は、私を馬鹿にしているとしか思えない内容のコメントばかり…。何がさんまのおひたしだ。彼女と一緒にいたい? 勝手にいろ。わざわざ私のブログにそんなものをコメントするな。
お絵描き番長は、一体何様のつもりなのだろう。私は別に金融業ではない。もし仮にそうだとしても、金融業だからっていつあなたに迷惑を掛けたのだと言いたい気分だった。それにこの息子も何様のつもりだ。以前リンクが番長の記事についていたから、そこへ飛んでコメントを残しただけで、文句を言うような奴である。ロクなものではないだろう。
このストーカー男も何がちょいさ~だ。まったく意味が分からん。
こいつらを除けば、いい人たちばかりである。
ん、次のところにも、まだコメントがあるぞ……。
(ミセス・マユミ)
人が記事を読んでいるのに、私が書いたコメントを消すなんて、いや~な感じ……。
私のスペースに来なくていいからね!
この偽善者!
バアバアで悪かったわね。これは削除しなさいね。
何だ、この人は? 何を言いたいのかがさっぱり分からない。携帯からなので細かい作業はできないが、家に帰ったら早速よく見てみるか。
昼休みが終わり、自分の机に戻る。河合の姿を探したが、外へ出掛けたのかこの日は一日見ないで終わった。
明日は火曜日。今のままだと明後日には河合が、家へやってくる日であった。
早めに仕事を片付け、残業せずに真っ直ぐ家へ帰る。いつものように家族総出で私を玄関先にて迎えると、みゆきはすぐに食事の仕度へと取り掛かった。
今日も妻は、笑顔で料理を作っている。
息子の卓と娘の佳奈は、ニコニコしながら妻特製のハンバーグが焼きあがるのを心待ちにしていた。
「は~い、お待たせ~」
思えばみゆきとも、ほとんど喧嘩という喧嘩もせずに仲良くやってきた。
妻をめとらば才長けて、見る目麗しく、情あり……。
どこかで聞いた言葉だが、まさにみゆきはそのまんまだと自慢できる妻でもある。河合の奴が、みゆきを抱きたいという男心は分からないでもない。しかしみゆきは私の妻である。冗談じゃない。他の男に抱かせるなんて……。
そう思うものの、私はこれから一体どうすればいいのだろう。
食事を終え、久しぶりにパソコンを起動する。久しぶりといっても一週間ぐらいの期間である。これから私はパソコンなしでは、生活できないようになっていくのだろうか。
自分のブログを開く。河合の件でしばらく更新していなかった。
コメントをくれるみんなに心配を掛けてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。もちろん現状でも心配というか、不安はある。あれから何も変わってないのだから…。しかしブログのみんなには、何の関係ない事である。
私はみんなを安心させるような記事を書いてみた。
『ご機嫌パパ日記 その六十三』 気まぐれパパ
みなさま、一週間ほど更新もコメントもせず、すみませんでした。
ただ単に、仕事が忙しく、パソコンを開く時間すらなかったのです。ご心配をお掛けしてすみませんでした。
これからも私、気まぐれパパはほのぼのいる事をここに宣言致します。
それと、変なコメントをくれる方……。
ここはみんなが楽しくコメントをやり取りする場なので、意味不明のコメントはご遠慮下さいませ。
あと、ミセス・マユミさん。コメントいただきましたが、何故、あのように怒っているのか、さっぱり私には分かりません。私は善人とかどうかまで分かりませんが、別に偽善者ではありません。その言葉の真意が分かりかねます。
さて、このマユミという女…。何故、こんなコメントを残したのだろう? 私は過去の記事にもらったコメントを一つ一つ調べていった。
あった……。
ミセス・マユミの初コメントは、すぐ手前の記事に載っていた。
(ミセス・マユミ)
はじめまして、気まぐれパパさん。微笑ましい暖かい家族ですね。動物園に、焼肉…。楽しさのフルコースですね~。
今度、私も娘と父を一緒に連れて行ってみようかな。楽しそうでいいですよ~。
また、寄らせてもらいます。今度、ゆっくり見せて下さいね~。
ブログの性質上、一つの記事のコメント数が多くなると、どうしても一度では一気に載せられず、次に表示されるボタンで前のコメントが切り替わるようになっている。
これはこのマユミという人が勝手に勘違いして、自分のコメントが削除されたと思ったのだろう。それにしても勘違いでここまでのコメントをする人間。これではこの人からのコメントなど、今後はいらない。周りが不愉快なだけである。
自分でこのようなコメントを載せておいて、よく一日も経たない内で、私を偽善者呼ばわりできたものだ。
部下の河合の件でイライラしているのが、さらに増した。
一体、どんな女なのだ? 私はマユミのブログを見に行ってみた。
「……」
プロフィール写真を見た瞬間、呆れてモノが言えなかった。
自分のプロフィール欄に画像を一枚表示できるのだが、ミセス・マユミはハリウッドの有名女優の写真を使っていた。そして驚いた事に自己の記事に自分の顔写真を実際に載せているのだ。自分が綺麗だとでも言いたいのか? それともプロフィールのところの女優と、私は似ているとでも思っているのか? 恐ろしいほどの馬鹿女……。
なるほど、こんな自分を把握していない馬鹿な女だから、あのようなコメントを平気で書けるのか。
まったく世の中、色々な人間がいるものである。
自分のブログをサイド見直すと、大した時間も経っていないのに新しいコメントがあった。
(ぴよ)
こんにちわぁ~。トライに意味の分からん人がいるって教えてもらって来ました。
ぴよが思うに……。
ミセス・マユミさんの勘違いですね。
初めに気まぐれパパさんの記事の、その六十二に、マユミさんの初コメントがあります。で、そのあとに数時間経って同じ記事に、また例のコメントがあります。
きっと…。
返事きているか確認しにきて、コメントが切り替えないと表示されないのを勝手に自分のが消されたと、思ったんでしょうね……。
勝手な勘違いだわ。
気まぐれパパさんに謝りましょう……。
では…、お邪魔しました。
まだ高校生なのに、こんな私を擁護するコメントを残してくれるなんて……。
ぴよちゃんとトライ君の連携。嬉しいものである。
本当はガツンと、ミセス・マユミに言ってやりたかったが、もういい。彼女の擁護コメントで、私の気はだいぶ晴れた。
私は顔も知らないぴよちゃんに感謝をした。
私はみんなにコメントを返し、部下の河合の「忌み嫌われし子のスペース」を探してみた。様々な検索エンジンを使ってキーワードを入力しても、どこにも河合のブログは見当たらなかった。
はっ…、いけない。ブログで現実逃避している訳にもいかない。
河合の魔の手が、妻のみゆきに伸びているのだ。
明日会社に行ったら、河合が妻にパソコンを教える件、どうしても断らないと…。そして妻にもそれを了承させないといけない。
あの場の勢いで分かったと空返事をしてしまったが、私はみゆきを守らなくてはいけない。
子供たちを寝かせると、私は寝室で横になったままみゆきに話し掛けた。
「なあ、みゆき……」
「なあに、あなた?」
「今度の水曜の河合君の件なんだが……」
「うん、私、楽しみでね。先週、彼、具合悪くて来れなかったでしょ。だから明後日は、あ、もう明日か。明日はすごいご馳走を作っておくようにするわ。じゃないと、あなたも会社でいい顔できないでしょ」
複雑な心境だった。妻は河合の本性を知らない。どうやってうまく私の事は覗いて、説明すれば理解させられるのだろうか。
「河合君さ…。もう時期、うちの会社を辞めるんだよ。だからどうかなと思ってね……」
「え、そうなの?」
「ああ……」
「えー、でも水曜は家に来るんでしょ?」
「……。分からないな。彼も色々と大変だろうしね。あの性格だと、一度言ったから断れないだろ。うまくこっちから邪魔しないように断るのも、優しさじゃないかな」
「でも、私もパソコンもっと詳しくなりたいなあ……」
「……」
「あなただって、自分のブログとか持って、色々できるようになっているじゃない。私もやってみたいわ」
「で、でもさ……」
「あなたはいいわよ。ブログで色々な人と交流持って、好き勝手に楽しんでいるんだもん。私は子供を学校に送り出して、家の事をやったら、あとはいつもボーっとしているだけ…。そのぐらいパソコンを自由に扱えるようになりたいわよ」
駄目だ…。口に出して言いたいが、例の件があるから言えない。そこまで妻の意思を奪うのに、納得いく説明ができない。
「そうすれば、あなたも分かるわよ。私の気持ちが……」
「え、何が?」
「自分は勝手に女性のメル友とか作って、楽しそうにやって…。私が同じ事をしたら、あなたはどう思うかしら」
「……」
「メル友って言うんでしょ? ああいうの」
「違うよ。あれはブログ同士で繋がっている訳で……」
「どっちにしても、あなたは、パソコンをやるようになってから変わったわ……」
「私はいつだって私だよ」
「あなた…。ずっと私たち、長年夫婦をやっているのよ?」
「……」
確かに私は変わった。それは分かっていた。それを認めるのが嫌なだけだった。
「じゃあ、勝手にしろよ……」
「ええ、勝手にするわ……」
布団を剥いで私は寝室を出た。誰も私の悩みなど、分かっちゃくれない。
何の為に私はこんなに悩んでいるのだろうか? 河合の要望、みゆきを抱かせる事…。それさえ約束すれば、私自身は何も問題ないのだ。
河合の中で、他の男に女房を寝取られた男と思われるだけである。
みゆきもみゆきだ。そんなにパソコンを口実に、河合と会いたいのか? それならそれで、勝手にするがいい。
パソコンのある部屋へ向かい、ソファに寝転がる。今は妻と一緒に寝たくなかった。私は横になっている内に自然と眠くなり、いつの間にか寝てしまった。
実の母親に犯されている夢をまた見た。
気持ち良さそうに、私の上へ乗って腰を振る母親。そこには母親という仮面を剥いだ一人の欲望のままに動く女の顔だけがあった。
精神的な苦痛とは裏腹に、いう事を利かない私の下半身。勃起度はさらに大きくなり、母親の胎内でされるがままになっている。
「もう、いいや……」
私も思う存分、禁断の性行為を楽しんだ。
モラルが何だ。いくら自分を戒め節制しようとしても、体に流れる血は変わらないのだ。
父親と同じ女を抱いた。ただ、それだけの事に過ぎない。
もしそれが人間の所業ではないというならば、人間でなくても構わない。
人間という名の道があるなら、私は自ら喜んで踏み外そう。
河合…。人の弱みに付け込み、私の妻を交換条件で抱きたいというなら、勝手にすればいい。もともと赤の他人同士なのだから……。
みゆきもあいつにパソコンを教わるという事が、どういう結末になるのか身を持って知ればいい。
私は無我夢中で母親を抱いた。今までのすべての憎しみを込め、全身に力を込めた。
「……」
遠くに人影が二つ見える。
息子の卓と、娘の佳奈だった。
「父さん……」
「パパ……」
絶望に満ちた表情の我が子たち……。
その横で幼い頃、私を捨てた父親が見知らぬ女性を抱いていた。
醜い性行為を目にして、私は我に帰る。
遠くからみゆきが、走ってくるのが見えた。私は近づこうとするが、体が動かない。
「ほら、早く…。私を気持ち良くさせなさいよ。早く!」
母親は狂ったように、叫ぶ。
まったく体の自由が利かぬまま、私は母親に犯され続けた。
「……」
走っているみゆきの背後から、部下の河合が襲い掛かる。着ている服を千切り取られながら泣き叫ぶ妻。近寄ろうにもまったく動けない。
涙で視界が歪む。みゆきは最初だけ抵抗をしていたが、やがて河合に身を任せ、気持ち良さそうな表情に切り替わった。
卓と佳奈は、寂しそうな後ろ姿を向けて去っていく。
「もう、たくさんだ…。もう、たくさんだ~!」
体が動く……。
起き上がると、そこは見慣れた我が家だった。夢から覚めたようである。
私の体には、二枚の毛布が掛けられていた。大方みゆきが私の寝ている時に掛けてくれたのであろう。
ソファで寝たせいか、体のあちこちが痛い。
それにしても嫌な夢だった……。
全身、汗で濡れていた。
時計を確認すると、まだ朝の五時だった。妻も子供も起きていない。
軽くシャワーを浴びて、嫌な汗を洗い流す。
そろそろ妻が起きてきてもおかしくない時間だ。昨日の言い合いがまだ頭の中に残っていた。
今、みゆきと顔を合わせても、いい風には話せないだろう。
メモに「今日は早めに会社へ出勤する」とだけ書き置きをして、家を出た。
駅前の朝早くからやっているコーヒーショップで、時間を潰せばいい。コーヒーを注文してから、先ほど見た夢について考えてみた。
夢の中の世界、あれは私の願望なのか? いや、違う。両親共々私を捨てていった事に、今でも恨みを持っている。いつまで経っても消せない恨み。過去の凄惨なトラウマが、未だに私をその呪縛から逃してくれない。
両親にさえ、捨てられ、忌み嫌われた男……。
今の私は、新しく私が作り上げたのだ。
しかしその作り上げたものでさえ、今、崩れ去ろうとしていた。
夢の中のみゆきの表情。とてもリアルに感じた。今日は火曜日。このままだと明日になれば、河合は家にやってくるのだ。
「殺すか……」
咄嗟に呟いた言葉……。
はっ…、一体、私は何を考えているのだ。
しかし一瞬でも河合を殺したいぐらい憎く思ったのは、自問自答しても否定できなかった。
昔の嫌な思い出を楽しい思い出に塗り替えてくれたのが、今の家族である。妻のみゆき、息子の卓、娘の佳奈…。これらの存在が、私を孤独から救ってくれた。
それを崩そうとする奴などは……。
死んでしまえばいい……。
物騒な…。私が人を殺すなんて、できやしない。できる訳がない。
河合のあのいやらしい笑みが脳内をよぎる。
「……」
どうすれば、この状況を打破できるのか。
まだ出社まで一時間はある。気分転換に携帯でブログを見ようとした時、家から電話が入った。
「もしもし」
「あなた…。私が起きたら、すでにいなくて書き置きだけ…。子供たちもいるんですから、子供みたいな真似はやめて下さいね」
「……」
みゆきの言葉にはトゲがあった。私はそのトゲで無性にイライラしていた。
「ねえ、あなた……」
「うるさいっ! 分かってるよ、そんな事は……」
「な、何よ。その言い方は……」
「望み通り、明日河合を家へ連れて行けばいいんだろ?」
「ええ、そうして下さい」
感情的に、電話を切った。
私がこんなにも頭を悩ませているのに……。
展開は思いとは裏腹に、どんどん逆方向へと進んでいく。
かなり余裕を持ち、会社へ出社する。
朝一番でまずは河合を捕まえよう。最初に会社を本当に辞めるのか? そして明日の水曜日、家へみゆきにパソコンを教えに来るのか? その二点は確認しなければならない。
あいつが出社するまで、久しぶりに自分の机を整理した。
「課長、おはようです」
背後から河合の声がする。始業時間までまだ十五分はある。少しぐらいなら大丈夫だろう。
「おはよう。河合君、ちょっと話す時間あるかな?」
「あらら、奇遇ですね~。俺も課長に話あったんですよ」
「そ、そうか……」
「ここではまずいですよね。さ、外へ行きましょう」
嫌な笑みを見せながら、河合は先に歩いていく。
河合の背後を見ながら歩いていると、自然に殺意が沸いてくる。今ナイフがポケットにあれば、簡単に刺しているかもしれない。静かな殺意が私の中で充満していた。
二人で社内を出て、誰もいない場所を見つける。ここが正念場だ。みゆきを守れるかどうか。
「河合君、君は会社を辞めるのかね?」
とりあえず私から先手を打つ事にした。
「耳が早いですね~。そうですよ。辞めます」
「そうか……」
「明日、俺の言った要望…。実行しますよ」
「……」
こいつめ……。
「明日もともとは奥さんに、パソコンを教える約束してましたしね。酒持って、お邪魔しますから」
「……」
淡々と陽気に話す河合の顔を見て、憎しみが増加する。
「それで課長……」
「何だ?」
「食事のあと、子供たちを早めに寝かして下さいね」
「……」
「そのあと、俺と課長と奥さんの三人で酒を飲むんです」
「この間、私を眠らせた薬を使う気か?」
「嫌だな~。何でそんな事まで分かるんですか? ひょっとして課長って、エスパー?」
「ふざけるなっ!」
無意識に右の拳で殴り掛かっていた。
「おっと」
だが、簡単に私の拳は河合につかまれる。
「顔はまずいっしょ。顔は……」
「貴様……」
「まあ、続きを聞いて下さいよ。それで飲んでいる途中俺が課長に今日のブログ、更新とかいいんですかって聞くから、課長はそうだなとか適当に言ってその場から消えて下さい」
誰が、はい、そうですかなどと言うのだ。自分の妻を寝取ろうとしている男に……。
「……」
言葉がうまく出なかった。
「あれ、ちょっと見ない間に、随分と回復しましたね。この間まで、敬語で土下座していた人間が……」
そう、こいつは私に対して切り札を持っている。
「はいって選択肢しかありませんよ、課長」
「おまえって奴は……」
「ははは、そうすると、会社に居辛いじゃないですか~? だから俺、退職の準備を進めていたんですよ」
チェスでいうチェックメイト…。私には河合の要望に従うしか道は残されていない。
時間など、止まればいいのに……。
仕事中、それだけを考えていた。それなのに、時間の流れを早く感じている。
「課長、今日お昼、何を食いますか?」
河合はワザとらしく声を掛けてくる。完全に勝者の顔をしていた。
こんな男に、私の妻であるみゆきは抱かれないといけないのか。何とかできないのか?
「課長、今日は顔色があまり良くないですよ。どうかしたんですか?」
自分でそうさせておいて、よく言うものだ。
「課長、今日はいいお天気ですね~」
「いい加減にしろ、貴様!」
河合の度重なる挑発に、私は堪忍袋の緒が切れた。社内にいる人間の視線が私に突き刺さる。
ザワザワしていた職場は、シーンと静まり返った。
「すみませんでした、課長……」
ワザとらしく打ちひしがれた様子で、自分の席へ戻る河合。これでは私一人が悪者に見られてしまう。
それから終業時間まで、みんな私に対し、どこか敬遠しているような空気を感じていた。
多分河合は、この状況を狙っていたのだ。
帰り道、今、世界で一番嫌いな人間と私は一緒に歩いている。
すべてを投げ出して、逃げたかった。
「いや~、明日、奥さん、どんな料理を作っているのかな~」
「今日は君に、関係ないだろ。どこか行きなさい」
「あれ? 時間経って、また自信回復かな? 別に今日いきなり課長の家へ訪ねたって構いませんよ、俺は……」
「……」
また殺意が大きくなる。殺したい…。本当にこいつを殺してやりたい。
「あらら、また、無口になっちゃって……」
「何が目的で、私にくっついて来るんだ?」
「確認事項をと思って」
「確認事項?」
「明日、俺が課長の家に行ったら、どうするんでしたっけ?」
本当に嫌味な奴である。自分の妻が犯されるまでの手際を旦那である私にわざわざ言わせようというのか。
「言わないなら、課長…。あなたの今まで築いてきたものが、ガラガラと音を立てて崩れるだけの話です」
一瞬目の前が真っ暗になる。あがらっても無駄だ。すべてはこいつの言う通りになるだけなのである。
「あ、明日……」
「ええ」
「河合君が家に来たら、食事のあと、子供たちを早めに寝かせ……」
「はい、それから?」
「私らで酒を飲む…。き、君の合図で…。あ、合図で……」
「合図で、どうするんですか?」
「わ、私は…。私は……」
「え、聞こえませんよ? 大きな声で、ちゃんと言って下さいよ」
「わ、私は…、消える……」
「よし、よく覚えられましたね」
悔しさで目に涙が滲む。何故法律では、人を殺めてはいけないのであろうか。中には、こういう鬼畜もいる。こんな鬼畜を野放しにしておいていいのか……。
「では、俺、明日を楽しみにしてますから……」
私は、河合の後ろ姿をずっと睨んでいた。道に曲がりあいつの姿が見えなくなっても、しばらくその場から動けないでいた。
その日、私は妻を思う存分抱きたかった。
しかし昨日の言い争いでみゆきの機嫌は悪く、ほとんど口を利けるような状態ではなかった。
「ねえ、明日は河合さん、来るの?」
寝る前になって、みゆきはボソッと呟いた。
妻の口から出る河合という固有名詞。苛立ちが募る。
「ああ……」
手短に答えると、私は妻に背中を向けた。もう何もみゆきにはしてやれないのだ。明日になれば、河合の魔の手でうまい具合にやられてしまうだけ……。
「やったぁ~。嬉しいわ。何か彼、食べたいものとかの、リクエストなかったの?」
そんなにおまえは、河合に会いたかったのか…。神経がピリピリと唸る。あいつの食べたいもの…。それはみゆき、おまえだよと答えてやりたかった。
「おまえの得意料理、すべて作ってやればいいじゃないか……」
もはやヤケクソでしか、答える事ができないでいた。
「あなた…。昨日の態度といい、今朝の態度といい…、そして今…。ちょっと酷くないかしら?」
「さあね……」
「ひょっとして、あなた、河合さんにヤキモチを焼いているの?」
「ふざけんな!」
私はみゆきの頬を叩いていた。結婚してから初めて…、いや、生まれてから初めて暴力というものを振るってしまったのだ。
「……」
妻は頬を押さえたまま、私に背中を向けた。肩が小刻みに震えている。多分泣いているのであろう。
私の右手には叩いた時の感触が、まだピリピリと残っていた。
不思議と悪い事をしたという気持ちにはなれないでいる。長年仲良く過ごしてきた夫婦生活に、亀裂が入ったのを感じた。
訳も分からず叩かれた妻。そして板ばさみになっている私。
いっその事、河合の件は放っておけばいい。あとで泣くのはみゆき自身なのだから……。
すすり泣く妻の声が気になり眠れない。
私は寝室を出て、昨夜のようにソファで寝た。
とうとう水曜日がやってきた。
昨日と同じく妻が起きる前に、早めに家を出る。
みゆきと話し合い仲直りしても、何の意味もないのだから……。
どうせ今日でみゆきは、河合の奴に抱かれてしまうのだ。自分の妻がそうなっているのに、私は逆に共犯者として動かなければいけない。
十数年前の楽しかった日々を思い出す。
まだ若く綺麗だったみゆき。ひと目見て私は心を奪われそうになった。しかし過去のトラウマからか、真に女性を愛する事などできやしない…。そう、ずっと思っていた。
彼女は違った。過去をすべて話した訳ではなかったが、すべてを受け入れてくれ、優しく私を癒してくれた。
両親に捨てられ惨めに生きてきた私は、いつもどこかで自分を卑下していつからか忌み嫌われし子なのだと自覚するようになった。
根本的な部分で人間というものを信じられないのである。
笑顔で接してくる人間もひと皮剥けば、醜い本性が眠っていると思っていた。母親に犯されたせいで歪んだ性癖を覚え、女性自体をどこかで恨んでいる自分がいたのだ。
みゆきは些細な事まで、私にとって完璧だった。
本当にいい妻をもらえた。常にそう感じてはいる。
子も二人授かり、生活は順風満帆だった。
部下の河合が現れるまでは……。
肩を震わせながら、鳴き声を押し殺していたみゆき。いくら精神的余裕がなく、いっぱいいっぱいだったとはいえ、叩いたのはやり過ぎだったのではないか。
悲壮感に包まれながら会社へ向かう私。
まだ時間が早過ぎて会社の中には入れない。私は近くの公園のベンチに腰掛け、色々と考えてみた。
これから会社…。終われば河合を連れて家へ帰る。食事のあと酒を飲む。私は河合の合図で消える。妻は薬を盛られ眠ってしまう。そのまま河合は好き放題に……。
それを私は、ただ指をくわえて見ていろというのか。
最愛の妻が、自分の会社の部下に寝取られようとしているのだ。
旦那として…、いや、男としてそれでいいのか?
このまま河合の言いなりでいいのか?
最初の初体験が、母親という歪んだ性体験を持つ私は常に歪んでいる。
ならば、いっその事、河合を……。
駄目だ……。
殺せたとしても、そのあとどうなる? 間違いなく家庭は崩壊するだろう。子供たちは、殺人者の子供として烙印を押される。
とても河合が憎かった。殺したくて、うずうずしている自分がいた。
しかし現実問題、それは不可能な話である。
人間は、その一瞬だけの為に生きている訳ではない。
生から死までの間、どれだけ自分らしく好きなように生きられたら幸せだろうか。
自由…。それを望む者は多いが、そこには混沌とした試練や物事をクリアしてこそ、初めて自由があるのだ。
どうしても生きていく上で、モラルや良心といったものが芽生えてくる。
子供は残酷であると誰かが言っていたが、それはまだ幼いから人間の本能に、忠実に従っているだけなのだ。
言い方を代えれば、モラルや良心とは成長するに従って、育っていくものなのである。
もし、私が幼ければ……。
いや、無理な話だ。
もう四十歳の男なのだから……。
覚悟を決めるしかないのか。
妻が、河合に抱かれるのを……。
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