木島さんって、ほんと、いい人ですよね。
優しいなあ、木島さんは……。
木島さんって、面倒見がいいなあ。
何かあったら、木島さんに言えば大丈夫だよ。
木島さ~ん、これ、どうやるんですかね~。
会社で言われるそんな台詞……。
うんざりだ……。
いい人がどうした。優しいから何だというのだ。面倒見がいい? そんなものは、私に頼っているだけだろ。何の努力もせずに……。
疲れた。もう疲れきっている。みんながみんな、依存してきているだけだ。
最近、会社の帰り道、そんな事ばかりを考える。
電車の座席に座るサラリーマン連中。だらしなく口を開けてヨダレを垂らしているのもいれば、鼾を掻きながら寝ている馬鹿もいる。共通しているのは、みんな、疲れきった顔をしているという点か。
その辺は私も変わらない。しかし、顔にわざわざ出したりしない。表情は常に笑顔で、怒ったりせず、明るい雰囲気でいるように努める。
家庭では、俺に尽くしてくれる妻と、父親にべったりの娘。そして私のようになりたいと言ってくれる息子がいる。
好かれるのはいい。だけどみんな、私に何を期待しているのだろうか。そんな事を時折考えてしまう。
どこにいても、本当の自分を出していないのではないか。表面的な私の行動や言動に、みんなが騙されている。
本当は、私自身、ストレスが体の中に充満しているのだ。
出来れば、色々と好き勝手に物事を言ってみたい。好き勝手に欲望の思うまま、行動をしてみたい。
生まれてから、四十年の月日が流れている。
二十五歳で今の妻、みゆきと結婚。
二年後の二十七歳で、長男の卓が生まれ、その三年後に、長女の佳奈が生まれた。
卓という名前に、何故したのか…。それは私がキン肉マンという漫画が大好きで、その主人公の名前をつけたかったからである。
佳奈という名は、妻のみゆきがつけた名前である。妻が昔、小説家を目指していたらしく、その時の主人公が、杉本佳奈。私は当然、反対したが、漫画のキャラクターからつけるよりは、全然いいわと、妻の意見に押し切られた形になった。
それぞれの両親の想いが詰まった子供たちは、名前のようにすくすくと、健康に育っている。
卓は、熱血漢で、正義感も備えた立派な十三歳になった。
佳奈は、可愛らしく、素直な十歳の子供らしく育っている。
近所や会社でも、美人だと評判の妻。料理もうまいし、よく気も利く。
周りから見れば、幸せそうな暖かい家庭に見えるであろう。
午後九時半。ほぼ、この時間に、私はマイホームの玄関先に着く。
インターホンを押す前に開くドア。
「おかえりー、パパ」
「お父さん、おかえり」
「あなた、今日もお疲れさま」
家族総出での迎え。
「ただいま」
満面の笑みで、家族に微笑む私。
「今日は、あなたの好きなハンバーグよ」
「そうかい。それは楽しみだ」
「佳奈ねー、パパが帰ってくるまで、我慢して待ってたんだよ」
「僕もだよー」
「そうか、そうか…。先に食べちゃっても良かったのに」
私は、二人の頭を優しく撫でた。
今日も、普段と変わりない一日が、終わろうとしている。
結婚生活十五年も経つのに、妻は以前と変わらなくベタベタしてくるのが好きである。
子供たちが寝静まるのを待つと、性行為を誘ってくる。
確実にみゆきを何度もいかせる事だけに、没頭し、私たち夫婦の性行為は終わる。
会社での出来事などを話している内に、みゆきはいつの間にか寝てしまった。
只今、夜の十一時。
ようやく私のプライベートな時間が始まる。
スースー静かな寝息を立てるみゆきに、布団をかけ、音を立てずに起き上がる。忍者のように足音を立てず、こっそりと寝室から出た。
私たち夫婦の寝室の横と正面には、卓と佳奈の部屋がある。
足のつま先まで神経を尖らせて、静かにゆっくりと廊下を歩く。
居間にある私のノートパソコンまで辿り着くと、ゆっくりと電源をつける。
私専用のパスワードを入れ、起動をさせた。
真っ暗なディスクトップの画面に、次々とアイコンが並び始める。私はショートカットで置いてある自分のブログのアイコンをダブルクリックして、自分で作ったページを開いた。
『ご機嫌パパ日記』
私のホームページタイトルである。家族は、誰一人も知らない私だけの仮想空間。最近では、このような形式のページをブログとも呼ぶらしい。
そもそもホームページなのか、日記なのか、掲示板なのか、分からないようなジャンルでもあったが、アメリカで爆発的に流行り、こちらに上陸。
ブログとは、日本でもブレイクしている新しい形のホームページでもある。
のほほんとした毎日の日常を、楽しく描く日記のブログ。
ここでは、家族との楽しい食事の団らんのひと時などを中心に、記事を書き、ネット上にアップしていた。たまに、会社での、ほのぼのとした出来事などをも載せたりする。
私のハンドル名は、気まぐれパパ。まあ、ブログ上で使う仇名のようなものだった。
顔も名前も知らない人たち、老若男女が、様々なコメントを、私の記事に残してくれる。
最初はお互いが、手探り状態……。
ブログの記事を更新するのが、まるで毎日の日課のようになると、知らない人たちと様々なコメントのやり取りをし出す。
私の場合、前日に書いた自分の記事に集まったコメントを眺める。いくつ、コメントが集まったとか、そういうのはあまり気にはしないのだが、多く集まると、やはり嬉しくなる。人間、誰だって寂しい生き物なのだ。多かれ少なかれ、誰かしらと依存し合いたいのである。
ちょっとしたきっかけから始まったコメントのやり取りから、うん、この人とは物の価値観が同じだとか、思えるような人も中にはいる。まあ、私だけがそう思っても、向こうがそう思わないと、一方通行ではあるが……。
お互いの記事を行き来して、気付けば知らず知らずの内に、絆が深まるケースもあった。
ブログをやり始めて、三ヶ月が経とうとしていた。不思議なものである。
幸せな平凡な家庭を築き上げ、このまま年だけをとっていく。
息子や娘の成長だけを見守りながら、日々を過ごして行く内に、毎日の行動記録をつけたくなったのである。
日記帳を買ってきて、つけるという習慣はなかった。今さら会社が終わったあとで、いちいち日記をつけるのも面倒であった。
そんな時、会社の部下からブログの話を聞いたのだ。
仕事中でも、携帯を年がら年中いじっていた部下。私が注意すると、携帯をしまってはいたが、それでもこっそりと暇を見つけては眺めていた。
「河合君…。君は一体、何をそんなに夢中になっているのだね?」
社員食堂でランチタイム中、私はコーヒーを彼の分まで買って隣に座った。
「いや~、自分、ブログ、持ってるんですよ」
「ブログ? 何だね、それは……」
「簡単にいうと、自分の日記みたいなホームページですね」
「ほう、それは携帯でも見られるのかい?」
「もちろんですよ。最近のパソコンの進化は、すごいですよ」
「う~ん、難しいから苦手なんだよね、そういうのは……」
「簡単ですよ。部長も、やってみてはどうですか?」
まだ、部下の河合は二十台前半である。色々なものが吸収できる羨ましい年頃でもあった。
「いや、満足にパソコンも使いこなせないしね」
「そんな事ないですよ。ほんと、簡単なんですから」
「分からないよ。私には……」
河合は、目を輝かせながら立ち上がった。
「じゃあ、木島課長。こうしましょうよ」
「うん?」
「今日から曜日決めて、俺が課長の家に行って、色々レクチャーしますよ」
「おいおい、随分と急だな~。」
「いつも課長には、世話になってるんで……」
そう言いながら、満面の笑みを浮かべる河合。まあ、パソコンを覚えるには、いい機会なのかもしれない。
「課長、その代わり……」
「ん、何だね?」
「課長の奥さんのうまい料理を、またご馳走させて下さいね」
「ははは、前に来てくれたもんな。新築祝いの時だったっけ?」
「そうですね。もう、二年ぐらい経ちますかね?」
「そうだね。時間が経つのは、本当に早いものだ」
少し無理して、妻のみゆきの希望通りマイホームを購入してから、二年間が過ぎ去っていた。
「可愛いお子さんに、美人の奥さん。しかも料理の腕はプロ級ときてます。ほんと、課長って何でも手に入れたんだなって、みんな、言ってますよ」
「お世辞のうまい奴だな」
「ほんとですって、じゃあ、課長、いいっすか?」
「まあ、いいけど、今日はさすがに無理だよ。妻に聞いてみないとね」
「了解です。いい返事、待ってますよ」
こうして部下の河合と私の、奇妙な逆師弟関係が始まった。
家族の許可をとった私は、週に一度のパソコン家庭教師を家に招くようになった。
毎週水曜日になると、部下の河合がやってくるようになり、我が家は賑やかになる。でかい口を叩くだけあって、河合のパソコンの腕というか知識はなかなかのものであった。
「いいですか? ここで、まず、右クリック。ここでこのファイルを開くんです。それから、コントロールキープラス、Ⅴを押して貼り付け。分かります?」
「い、いや……」
何を言っているのか、さっぱり分からない。宇宙人語にしか聞こえない私はおかしいのだろうか……。
「ほら、課長。そこじゃないって」
「あ、ああ……」
「それを選択して…。違いますよー。そこじゃなくて、そこ」
いつの間にか、会社での立場が完全に逆転している。
「あー、違う、違う。まったくー」
「あ、すまん、すまん……」
こんな感じで私は、パソコンのブログというものを始めだした。
二時間ぐらい掛けてパソコンのレッスンが終わると、妻のみゆきが普段より豪華な手料理をたくさん作って待っていた。
「おほ、さすが課長の奥さん。素晴らしいご馳走じゃないですかー」
「今日は河合さんがいらっしゃるからって、うちの主人、あれこれ作れってうるさかったんですよ」
いつもより上機嫌なみゆき。マンネリ化した日常に変化があったのが、嬉しかったらしい。
息子の卓も、娘の佳奈も、顔見知りすることなく河合に自然と溶け込んでいる。これは河合本来の持つ、独特の明るさがそうさせているのかもしれない。
子供たちも、親しみやすいお兄さんが出来たように思ってくれているみたいで、非常に楽しそうだった。
週に一度のパソコンレッスンも、なかなかいいものなのかもしれないな。
私は楽しそうな子供たちの笑顔を見ながら、いつの間にかニヤけている自分に気がついた。
『ご機嫌パパ日記 その一』 気まぐれパパ
はじめまして、初めてブログというものをいじる、気まぐれパパといいます。
パソコン自体、慣れていませんが、みなさま、今後ともよろしくお願い致します。
次回から、我が家の楽しい出来事などを、発表できたらなって思います。
最初は訳が分からない状況でも、自然と慣れはやってくるもの。キーボードを打つのもままならなかった私が、四苦八苦しながらもどうにか打てるようになってきた。
こんなに面白いものを私は今まで何故、やろうともしなかったのであろうか。
誰かがパソコンは何でも出来ると言っていたが、色々な事を覚えれば覚えるほど、そう実感する。
週に一度だけ更新する私のブログ。もちろん河合がそばにいてこそ出来る更新であった。
普段の会社内でも自然と親近感を河合に覚え、つい優しくなってしまう自分がいた。
仕事中は、真面目に受け答えする河合であったが、昼休みになると、積極的に私の席の隣にやってくる。
「先日はご馳走さまです。最近、仕事のほう、順調じゃないですか」
「ありがとう。君が色々と、サポートしてくれているからね」
「どうです、最近は一人でもブログ、更新、できるようになりましたか?」
「いやいや、君が来てくれている時限定だから、まだその四のままだよ」
「たまには、やってみればいいのに…。コメントはありましたか?」
「コメントって?」
「嫌だな~、課長は…。コメントですよ、コメント」
「分からないよ。何だね、それは?」
「ハ~……」
大袈裟な溜め息をつく河合。
「おいおい、何だよ?」
「いいですか? 課長が、書いている記事あるじゃないですか?」
「ああ」
「その記事の下に、コメントってあるじゃないですか」
「……」
コメント…。そんなもの、あったか? パソコンの操作に必死に食らいつくのがやっとで、そう言われても分からない。
「課長のブログで、記事を見た人の感想ですよ。コメントがあれば、コメントって書いてある欄に、数字が出るんです」
「数字?」
「もらったコメントの数です」
「ほほう…。でも、私のブログなど、見る者がいるものかね?」
「ちょっと待って下さいね……」
そう言うと、河合はポケットから携帯を取り出し、画面を見ながら細かい操作していた。
「ほら、課長。コメントあるじゃないですか。見てみて下さいよ」
彼の携帯画面を見ると、ご機嫌パパ日記という文字が見えた。
「これは?」
「前にも言ったじゃないですか。携帯でも、ブログって見れるんですよ」
「え、そうなの?」
「ほら、実際にこうやって、見れてるじゃないですか?」
携帯画面に写る私のブログ。こうして見ると、不思議な感じだ。
「ここですよ、ここ。えーと、課長の記事、その四にコメント、二つありますよ」
「どれどれ?」
私は、彼の携帯を借りコメントを見てみる。
『ご機嫌パパ日記 その四』 気まぐれパパ
今日の我が家の食事は、外食です。私の部下も一緒に招き、近所の中華料理店に行って来ました。
お恥ずかしい話、私は部下がそばにいないと、このブログの記事一つ、ロクに更新すら出来ないのです。なので、今日はいつもお世話になっているそのお礼も兼ねて。
大きな車海老のエビチリに、娘と息子は大きく鼻を膨らませ、大変、喜んでいましたね。奮発して来た甲斐がありました。
コメント
(新宿トモ)
はじめまして。
新宿トモと言います。気まぐれパパさんの家族、とても暖かそうですね。文章から幸せな雰囲気が、こちらにまで漂ってくるようです。
(気まぐれマダム)
こんにちは、気まぐれマダムです。気まぐれパパ様、はじめまして。
同じ気まぐれ同士、名前に釣られて来てしまいました。ほのぼのして、いい感じですね。またお邪魔させて下さいねー。
いいようのない嬉しさが込み上げてきた。こんな私のブログを見て、感想を残してくれる人がいる。
「今度、更新する時は、このコメントくれた人たちに、ちゃんとコメントもしないと駄目ですね」
「何で?」
「課長、例えばですけどね。課長は、おはようって挨拶されたら、どうします?」
「それは、おはようって返すに決まっているじゃないか」
「じゃあ、次にその人を自分が先に見つけたら?」
「それは、私のほうから挨拶するだろうね。あ……」
なるほど、ブログの世界でもそのような事は常識なのか。コメントを初めてもらい、私はこれだけ嬉しかった。相手だって私に興味がなかったら、コメントなどしないであろう。
お互いのコメントのやり取り…。そういったものの積み重ねが、ブログの楽しみの一つでもあるのか。
次の水曜日になるのを、まだかまだかと、楽しみにしている自分がいた。
今のところ私一人では、ブログの更新も何もできないのである。部下の河合に頼るしか方法はなかった。
ここ最近水曜日だけはお互い残業もせず、ひたすら定時まで仕事をするといった状態になっている。誰の誘いでも断り、河合を連れ、我が家へ帰る日。
この間コメントをくれた新宿トモさんに、気まぐれマダムさん…。どんな人なのだろうか。初めてコメントをくれた二人。いいイメージしか湧いてこない。
新宿トモさんは名前の通り、新宿で住んでいる人なんだろうか。年は若いような気がする。危険な香りがしているような感じも受ける。
気まぐれマダムさんはすごい大金持ちの美人妻といったところであろうか。とても上品で本物のブルジョワ階級…。いや、考え過ぎか……。
私は単なる平凡なサラリーマン。どんな人たちが、ブログをやっているのであろうか。
河合が横に座り指導しながら、早速今日の新しい記事を書き始めた。
『ご機嫌パパ日記 その五』 気まぐれパパ
こんにちは、気まぐれパパです。日記その四で、初コメントをいただき、何だかくすぐったいような感じですが、嬉しいという感情でいっぱいです。
こんな平凡な日記を見て、しかもコメントまでいただけるなんて、恥ずかしいやら、嬉しいやらで少し困惑しています。
新宿トモさん、気まぐれマダムさん。コメントをありがとう!
簡潔に記事を書き終えると、私は河合に聞いた。
「ねえ、河合君。コメントをくれた人たちには、どうやって返せばいいんだい?」
「ちょっとマウス、いいですか?」
「ああ、どうぞ」
河合は手馴れた手つきでマウスを巧みに操作する。
「いいですか? まず、このその四でのコメント……」
「うん」
「新宿トモと、気まぐれマダムっていますよね?」
「ああ」
「そのコメントの下…。名前の下に、アドレスあるじゃないですか?」
「アドレス?」
「HTTPから始まる相手の住所みたいなものです」
「え、住所? どこに住所なんてあるんだい? 何県なの?」
「まったく頭固いなあ~…。いいですか? アドレスっていうのは、このインターネット上にある住所の事なんです」
「え、何それ?」
「う~ん、分かりやすくいうとですね。空…、いや、宇宙でいいです。宇宙に住所って言ったって分かります?」
「いや、そっちはさっぱり詳しくない」
「無限の空間じゃないですか。でも宇宙にそれぞれが自分の場所というものを持っていたとしたら、ある程度の場所を表す取り決めがないと混乱しますよね?」
「まあ、そうだね」
「だから個人の場所。ネット上でのスペースを表示する住所なんですよ」
「へえ、じゃあ、新宿トモさんって、新宿なんだ?」
「何を言っているんですか…。それは名前の上だけでしょ。俺が言いたいのはですね…。う~ん、まあいいや…。とりあえず課長、マウスでそのアドレスの上をクリックしてもらいますか?」
「何で?」
「いいから言われた通り、やって下さいよ」
「は、はい……」
まったく短気な部下を持ったものだ。分からないからその事を聞こうとしているだけなのに…。今日の食事は漬物と味噌汁だけで充分だって、妻のみゆきに言っておこう。
指示された通りアドレスをクリックしてみる。
「おぉ……」
パソコンのモニタ上に、別のウインドーが開きだした。
「おい、河合君。何だね、これは?」
「何をこれぐらいで驚いているんですか。今、気まぐれマダムのアドレス押したでしょ。だから、マダムのブログの窓が、開いただけじゃないですか」
「窓って?」
「もう…。今さっき、自分でウインドーって言ってたじゃないですか」
「あ、ああ…。なるほどね…。それにしても河合君、知らない同士なのにマダムとか呼び捨てにするのは感心しないなあ」
「いいじゃないですか。課長は、芸能人を呼び付けで呼ばないんですか?」
「え……」
「それと似たようなもんですよ。まだ、覚えてもらわないといけない事、いっぱいあるんだから、どうでもいい質問や、無駄話は避けて下さいよ」
「あ、はい……」
こんなやり取りをしている間に、モニタはマダムさんのブログが完全に開いていた。
『気まぐれマダム』 気まぐれマダム
我が家の姫
おカマの日(笑)。四月四日に生まれた姫のお宮参り、明日の予定だったのに、お天気悪いらしい~。
来週に延期になりそう…。
今日のブログ、前のところから引越しを試みたけど、調子はどうかな。
気まぐれマダムさんもまだブログ、始めたばかりだったんだ。いや、前もブログをやっていて引越し…。どういう意味だろうか。調子はどうとか…。体の具合でも悪いのだろうか。
「ほら、課長。ここにコメントを投稿するって、あるじゃないですか?」
「ああ」
「押して下さい」
「でも、体調悪いみたいだし……」
「はあ?」
「いや、調子はどうかなって書いてあるから、またの機会にしたほうが、いいんじゃないのかな」
「……」
「なんだい河合君?」
「あのですね…。どこが体の具合悪いなんて、書いてあるんですか?」
「いや、引っ越したばかりで、疲れたのかなと……」
「……」
「どうしたんだよ、河合君」
「引越しって、他のブログから、たまたま新しく引っ越してきたってだけじゃないですか。ちゃんと文章読んで下さいよ~。そんな事、気にしないでいいから、とっととマダムの記事見て、コメント書いて下さいよ。俺、会社終わってから、まだ、飯も食ってないんですよ。早くして下さい」
「そ、そんなピリピリするなよ……」
「早く」
「はいはい……」
明日会社で何かミスをしたら、逆に怒鳴ってやろう。内心そんな事を思いながら、私はマダムさんの記事へコメントを書き出した。
姫のお宮参りという事は名前の通り、ご結婚されてまだ若い奥さんなんだな。文章全体が可愛らしく感じる。きっと清楚で美人な奥さんなのだろう。
(気まぐれパパ)
はじめまして、コメントありがとうございました。
明日、天気が良ければいいですね。陰で良くなるよう祈っております。
引越し、お疲れさまでした。
「そしたら、投稿ボタン押して下さい」
「……。おぉ…。すごいねぇ、河合君。私のコメントが、ほら」
「はいはい、すごいですよ。さ、次、行きましょう」
「え、次って?」
「新宿トモって奴ですよ。コメントしなくていいんですか?」
「あ、ああ…。そうだったね」
「さっきと同じように今度は、新宿トモのアドレスをクリックして下さい」
なるほど、これがアドレスという訳か…。パソコンって本当に便利なものである。私は自力で新宿トモさんのブログへ行けたのだ。
「おお…。音楽が鳴っているよ、ここ…。これはドビュッシーの月の光かな?」
「音楽ぐらいで驚かないで下さいよ。そんな事したら、本当は開くの重くなって、みんな嫌がるんですから」
本当にこいつは細かい奴だ。明日から仕事中は、私ももう少し厳しく接してやろう。
『新宿の部屋』 新宿トモ
生きるという事について
数年前まで俺はイケイケだった。正々堂々をコンセプトに様々なジャンルへ挑戦してきたつもりだ。
唯一の自分の武器が、いつ倒れても構わないというものだった。自分の好きなように、やりたい事をやってきたのだ。いつ倒れても悔いはない。
ずっとそう思ってやってきた。
文章から察するに、若い男なんだという印象を受ける。まあ、あまり記事を眺めていても、また河合の奴がグチグチとうるさいだろうから、早めにコメントを書く事にした。
(気まぐれパパ)
はじめまして、気まぐれパパです。コメント、ありがとうございました。今になって一度、過去の自分を振り返り、見つめ直しているのですね。
人生は自分のものです。悔いのないよう頑張って下さい。
二回目となれば、操作も手馴れたものである。もう河合に頼らなくても、私は自分自身でコメントを書けるのだ。
勝ち誇ったように河合の顔を見ると、呆れた表情をしている。
「コメントを返せるようになったぐらいで、そんな得意面されても……」
「今日でレッスンも五回目。その気になれば、私は吸収率が早いのだよ」
「じゃあ、そのレッスンも今日で終わりにしますか? まだ、課長は、画像の貼り付けとか、リンクの作り方とか、色々な事を知らない」
嫌な笑い方で俺を見る河合。確かに今の状態で、天狗になっている場合ではないのである。まだまだ私は色々と学びたい事があるのだ。
「い、いや…。これからも、お…、お願いします……」
「分かってますよ。いいブログ、作りましょうね」
妻のみゆきは前回よりも、さらに豪華な夜食を作っていた。悪い事ではないが、いまいち歯痒い部分もあった。
この家だって、この豪華な食事だって、私が汗水流して働いているからこそだ。私に気を一番使うのが、本来の趣旨ではないのか……。
河合を楽しそうに見つめるみゆきを眺めながら、ついこんな事を思っている。嫉妬心であろうか。いや、すっかりマンネリ化した夫婦生活を送っている私は妻に対し、女として見ていない事実を自覚していた。
ではこの歯痒さは、一体何なのであろう。
息子の卓や娘の佳奈までが、私よりも部下の河合になついているせいだろうか。
パソコンのブログという新しい世界を知ってしまった。最近水曜日が待ち遠しい。こうなったのも、週に一度来る河合のおかげである。
しかし何故、こんなにヤキモキしているのだ?
とりあえず明日からは、一人で記事を書けるようにしてみよう。
部下の河合は、来るたびに様々な新しい技術や、やり方を私に教えてくれた。
いつの間にかブログを更新するという事が、私の日常の一部にもなっている。
毎日の更新、そして毎日やり取りするコメント。ブログを開くたびに私はワクワクしていた。
初期の頃からコメントのやり取りをしている気まぐれマダムさんに、新宿トモさん。
最近では牧師さんという人まで、コメントをくれるようになった。名前の通り、教会の神父なのだろうか? 非常に気になる。
毎晩妻が寝静まると、私のブログ日記の時間となっていた。
ある日の事だった。
私がパソコンを開き、いつものようにブログを更新していると、妻のみゆきがトイレで起きてきた。
「あら、あなた。まだ、パソコンで何かやっているの?」
「ああ、覚えてみると、パソコンって面白いものでね」
「私には全然分からない世界だけど、いつも何をしているの?」
「ああ、私のブログを更新しているんだよ」
「ブログ?」
「分かりやすくいえば、ホームページだよ」
「へえ、あなた、まだ三ヶ月ぐらいでしょ? すごいわね」
「これからは何をするにも、パソコンが必須になると思うんだ。まだ、卓や佳奈も小さいけど、これから嫌でもパソコンに触れなきゃいけない時が、来ると思うしね。その時、私が少しでも教えてあげられたらって思うんだよ」
「確かにそうね。いつまでも頼りがいのあるお父さんでいて下さいな」
「もちろん」
「ところで、どんなホームページを作っているの?」
「ああ、見てみなよ」
私は、自分のブログを妻に見せる。真剣な表情で画面を見つめるみゆき。私より五歳年下の三十五歳ではあるが、その横顔は美しい。外見からは、実際の年齢を感じさせない。
「あら、嫌だ。私たちの事まで書いてあるじゃないの、フフ……」
「ああ、ご機嫌パパ日記という題名だからね。実際に日記をつけた事とかないけど、こうやって日常の日々を記録しておくって、大事だと思うんだ」
「あら、私や佳奈の写真まであるじゃないの、フフ…。卓まで……」
「いつまでも仲良くやっているというのをネットで、みんなに見せつけるのも悪くはないだろ?」
「そうですね。でも、私の写真写りが、いまいち悪いわね」
「そんな事ないよ。いつだって綺麗だよ。ほら、このコメント見てみなよ」
(新宿トモ)
こんばんは、新宿トモです。
とても仲良く見えますよ、写真。奥さん、すごい美人じゃないですか。ビックリしました。娘さんも可愛いし、息子さんも、いい男になるんじゃないですか。
このたび、自分の小説を賞に応募する事にしました。いつも、気まぐれパパさんを始め、みなさまの暖かいお言葉、感謝しています。
俺、頑張りますね!
彼のコメントを読んでいる妻の表情は、はにかんでいた。お世辞でも綺麗と言われて、嫌がる女はいない。
「何だか恥ずかしいわ。でもこの人、小説を書いているんだ? すごいわね~」
「うん、色々あるみたいだけど、こうして知り合ったんだから、応援したいよね」
「本当に賞を取れたら、すごいじゃない。作家がお友達になるんだもん」
「はは、そんなミーハーな考えで、彼に接したら失礼だよ。素直に応援してあげなきゃね。まだ三十四歳らしいよ。みゆきと一歳違いだね」
「へえ、そうなんだ。あら、他にもコメントがあるじゃない」
「ああ、こちらは牧師さんっていってさ、穏やかでいい人なんだよ」
「本物の牧師さんなの?」
「う~ん、どうだろ。今度もう少し仲良くなったら、聞いてみようかと思ってるんだ。あとはこの気まぐれマダムさん。いつもこの人のブログ見ると、ヨダレ出ちゃってね。すごいご馳走ばかりなんだ。これ見ると、俺ももっと頑張らないとってね」
「へえ、どんなブログなの?」
私はマウスを操作して、気まぐれマダムさんのブログを開く。昨日はフレンチのフルコース。そして今日は、高級寿司屋の記事であった。
「はぁ…。こういうところに通える人が、本当にいるんだね~」
みゆきはマダムさんの記事を見て、感心しきっていた。
「コメントを見た感じ、お高くとまってないんだよ。すごい明るくてね。いい人だよ」
「それにしても、すごいわね~」
「そうだね。パソコンをしてなかったら、まったく縁がない人たちだしね」
奇妙な繋がり。お互い顔も名前も、住んでいる所さえ知らない仲なのである。そういった人間同士が、毎日ようにコメントのやり取りをしているのだ。
日常の一部となっているブログ。それは人間の心の繋がりなのかもしれない。
「あら、あなた」
「ん?」
「この間、温泉行った時のところのコメント」
「ああ、牧師さんだろ?」
「ええ、何かホッとするような事を書いてくれるのね」
「うん、だって、まずはお帰りなさい…。なかなか言えないよ。俺さ、仕事明けだったから、楽しかったけど、体的には疲れていたんだよ。でもさ、この牧師さんのコメント見て、何かホッとしたんだよね」
「うん、分かるわ。ブログって面白いのね。何だか、あなたのブログのコメント見るの、楽しみだわ」
そういえば、部下の河合が携帯でブログを見られるとか言って実際に見ていたな。あれはどうやるのだろうか? 明日辺り、会社で聞いてみるか。
この日初めて妻が横で見ている状態で、私はブログを書いた。変な事は書いていないつもりでも本人が真横にいると、なかなか記事を書きづらいものがある。
『ご機嫌パパ日記 その二十九』 気まぐれパパ
初めて妻が横にいる状態で、今、ブログを書いています。別にコソコソしている訳ではないのですが、なかなか恥ずかしいものですね。
今日、珍しく仕事でケアレスミスをしてしまい、大恥を掻いてしまいました……。
仕事の失敗…。やはり、こればかりは慣れるって事がありませんね。
「あら、嫌だ。あなた、仕事で何かしたの?」
「え、大した事じゃないんだけどね……」
密かにやっていたものの存在を妻に知られる。
心の奥底で、そわそわした妙な感覚を覚えた。
私は今まで「気まぐれパパ」という仮面を、この空間で作り上げていたのかもしれない。
ここ最近になって、日常の中にすっかりと組み込まれているブログの更新。会社から帰ってくると、密かな楽しみにもなっている。
よく気がつき、私に尽くしてくれる妻。
なついている息子と娘。
私にはこの家族があり、とても大事なものである。どんなに嫌な事があっても、面白くない事があっても、常にこの絆を守っていかなければならない立場にあるのだ。
その為には、会社でストレスを感じようが、私は我慢しなければならない。
前に考えた事がある。
今のこの現状を死ぬまで続けていくのかと……。
妻のみゆきと知り合い、恋に落ちて、結婚をした。
子供も二人産んだ。
幸せだった。それはもちろん、今もそう感じている。
自分の理想の家庭を築き上げた。思い描いたような、暖かい家庭を妻と協力して、作り上げたのである。
逆にいえば、今、こんなに幸せでいいのだろうか? そんな不安に駆られている。
幼少時代、私は幸せか不幸せかといったら、間違いなく後者だった。
父親は他所で女を作り、私と母親を捨てて出て行った。
まだ私が五歳の頃だった。
色褪せた思い出ではあるが、母親が狂ったように泣きじゃくっていたのをジッと見つめていた過去の記憶。
悲しみに満ち溢れた表情でいっぱいの母親に、私は高校を卒業するまで育てられた。
「いい? あなたのお父さんは、私たちを捨てたのよ。あんな風にだけはならないでね」
何かある度に、繰り返し言われた母親のそんな台詞。確かに正論だと思った。
実際にこの年になった今でも、父親の事は憎んでいる。
出て行ってから、連絡一つない父親。どこかで自由を満喫しているのだろう。自分で作り上げた義務を放棄して……。
反面教師という言葉がある。
人のふり見て、我ふり直せ。
このような言葉の意味合い。身を持って理解しているつもりだ。
だから自分で家庭を作る時は、思い描いた暖かい幸せな家庭にしたかったという想いが強い。
何人かの女性と交際し、傷つけ、傷つけられてきた。今の妻、みゆきと出会い、初めて女性というものが信じられるようになった。
こいつとなら、私の子供を産んでもいい。そう本能的に感じた。
そうして結婚まで、やっとの思いで漕ぎ着けたのだ。
私にとって家庭を守り、幸せを維持するのは義務である。義務を遂行して、初めて権利が生まれるのだ。
男に生まれ、家庭を作りながらも挫折した奴はクズである。これは誰の前でもハッキリ言える。逆に、自分のお腹を痛めて生んだ子を虐待したり、捨てたりする女もクズだ。
私の母親は、どんな種類の女になるのであろう。
想像をすると、身震いが未だにしてくる。
悲しさと歓喜。この二つの感情しかなかった母親。
いや、正確には、父親が出て行ってからだが……。
ずっと、世に忌み嫌われし存在だと、自分で思いながら成長してきた。
誰にも必要とされない人間。
誰からも愛されない人間。
常に私は、孤独であった。
俗にいう本当の母性愛が欲しかった。父の背中を見ながら、楽しく子供時代を送りたかった。
どんなに願っても、人間すべては平等ではない。
子は、親を選べないのだから……。
だからこそ、親になった人間は、子供に愛情を注いでやらねばならない。これが私の義であり、主張でもある。
今の自分を振り返ると、どうか。幸せである。だが、いつまで続くのだろうか? この幸せが……。
部下の河合は、家に来る度、私に様々な技術を教えてくれた。
デジカメで撮った家族の写真を加工する技術。
ブログで、ページが開いた瞬間、音楽が鳴るようにもした。
気まぐれマダムさん、新宿トモさん、牧師さんといった、私のブログの常連以外にも、どんどん新しい人が増えてきた。
自分のブログが、色々な人に見てもらえる。嬉しくて仕方がない。
ひょっとした拍子でやり始めたブログ。
今までは仕事を終え、会社から帰ってからしかパソコンに触れなかったのが、携帯でも暇さえあればコメントがあるかどうかと、チェックするようになっていた。
河合はそんな私を見る度、ニヤリと嫌な笑い方をする。
「木島課長、気になってしょうがないんすね?」
「ま、まあね……」
「俺もそうなんですよ。コメントが集まれば集まるほど、気になりますもんね」
「そうなんだよ。すっかり日課になってしまったというのかな」
上司と部下の関係。それが我自宅では立場が逆転する。
「この間、ブログで仲良くなった子と逢ったんですよ。まあ、オフ会ってやつですけどね」
「オフ会?」
「みんな、実名を隠し、ハンドルネームでブログやってるじゃないですか?」
「うん」
「バーチャル空間同士だった人間が、現実に実際会う。それをオフ会っていうんですよ」
「何故、オフなの?」
「だってパソコンをつけている時は、オンじゃないですか」
「なるほど、外で会う時はそれでオフか」
「でも、色々な問題ってありますけどね」
「問題?」
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