河合がチェックにくる可能性もある。とりあえずパソコンを起動させた。
もうじき妻は薬によって、うまい具合に眠らせられるのだ。
何もできず、ただ状況を見ているだけの情けない私。
今まで生きてきて、これほど悔しいと思った事はなかった。
最後に見たあの笑い顔。まるで勝ち誇ったように見えた。
今後の展開がリアルに想像できた。
薬で意識が朦朧となるみゆき。
河合は、普段私たちの眠る寝室へ妻を抱き運び、一枚ずつ衣服を脱がせていく……。
体中の血液が、限界点まで沸騰しそうだった。
形だけ自分のブログを開きモニタ上に出すが、コメントも何も目に入らなかった。
みゆきは私の妻だ。それが……。
頭を掻き毟りながら、テーブルの上に両肘をつく。
気が狂いそうだ。私はこのまま、指をくわえているしかできない。
何で私ばかりこんな目に遭わねばならないのだ。
世の中、本当に不公平だ。
何故私が、こんな嫌な思いを堪えなければいけない。
理不尽だ。
世の中、おかしい……。
あんな奴、別に殺したっていいじゃないか……。
そうすれば、私はこの苦悩から解放される。
佳奈の為にも、あのような害虫を生かしておくと、何の為にもならない。
私は辺りを見回し、何か凶器になるものを探した。
素手では、あの男に絶対敵わない。以前不意に殴りかかった時、あっけなくかわされた。
幸いのところ河合は私を舐めきっている。
そこをうまくつけば……。
引き出しを開け、急いで凶器になりそうなものを探す。
「……!」
私が学生時代から愛用していた鉛筆削りようのナイフ。引き出しの奥で、鈍い光を放ちながら眠っていた。
静かにそれを取り出すと、私はゆっくり立ち上がり軽く息を吸い込んだ。
「ん、待てよ」
よくよく考えてみると、いくら河合が私の事をバラしたところで何だと言うのだろうか。奴が証拠として持っているお触りパブへ入る写真。そしてまだ推測の域であるが、先日河合の彼女の胸を弄っているところの証拠写真。それらを妻のみゆきに見せたところで何の効果があるのだろうか。
確かにみゆきはあとで責めてくるかもしれない。でも自分の妻を寝取られるよりは全然マシだ。それに何故、河合がその決定的瞬間でもある写真をわざわざ持っているのかという部分。そこがあるからこそ奴の計画的犯行と断定できるのだ。
あの男の為に今まで頭を悩ませていたのが馬鹿みたいである。先ほどまで人を殺そうと思っていた自分に腹が立つ。一度は死んでしまおうかとまで悩んだ身だ。ここまで考えられたなら行くしかないだろう。
まだ私が居間を離れてから十五分ぐらいしか経っていない。今行けば間に合う。妻を救う事ができる……。
「課長……」
不意に耳元で声が聞こえ、私は飛び上がってその場を離れた。
「……!」
いつの間にか、背後に河合が立っている。
「そんなナイフで、何をしようって言うんです?」
いつの間にこいつは……。
ここは何とか誤魔化さないといけない。
「い、いや…。別に……」
河合は、青ざめる私を見ながら冷たい視線で見つめる。
「くだらん真似はせんで下さいよ。今なら奥さんだけで、穏便に済むんですから」
「み、みゆきをどうしたんだ?」
「テーブルの上で、気持ち良さそうに眠ってますよ」
「……」
あの薬を飲ませやがったのか。
「試しに洋服の中に手をつっ込んで乳首を触っても、ぐっすりで反応ゼロでした」
「き、貴様……」
「あんたが俺の女の服の中に手をつっ込んだようにね。ここまではお互い様でしょうが」
「くっ……」
「そうそう、奥さんの乳首。ビンビンに立ってましたよ、課長」
頭の中が真っ白になった。
気づけば右手に持っていたナイフで、河合に襲い掛かっていた。
「ぐっ!」
もの凄い激痛が背中に走り、バランスを崩した。
目を開けると、目の前には床が見える。
「人殺しになるつもりですか? まったく……」
上から河合の声が聞こえる。どうやら襲い掛かったが、簡単に避けられ、背中に強烈な打撃を食らったらしい。おかげで指の先まで痛みでジンジンしていた。
必死に体を動かそうとするが、左肩をガッチリと固められ身動きができない。
「き、貴様……」
「何ですか、まったく。そんな恨みの籠もった声なんて出して」
左肩がふっと軽くなる。河合が離れたのだろう。すぐ立ち上がろうと右腕を地面についた時、視界に河合のつま先が映る。
「がっ!」
その瞬間、急に火花が飛んだ。
倒れた状態で、顔面を蹴られた……。
その一発で私の意識は遠退いていった。
深夜のひと気のない公園が映る。
そこへ若い頃のみゆきが幼い息子の卓を抱いたまま歩いてきた。
なかなか泣き止まない卓を懸命にあやそうと声を掛けるみゆき。
背後から人影が徐々に迫ってくる。
「やめろっ!」
大声で叫んだつもりだが、まったく声が出ない。この夢の中ではその光景をただ見ているだけしかできない。
後頭部を強く叩かれ崩れるみゆき。
人影は乱暴に卓を抱いたまま、その場から逃げていく。
卓を抱いた人影は、血だらけの部屋でひっそりと息を殺し、ただ時間が過ぎていくのを待っているように見えた。
急に視界が切り替わり、水の流れる音が聞こえる。
すっかり衰弱した卓を両手に抱え、目の前にゆっくり歩く。
まさか卓を殺した犯人の視界を共有して、一緒の風景を見ているのか?
「やめろ、貴様っ!」
何度叫んでも私の声は聞こえない。
どんどん川が近づいてくる。
「やめろっ!」
両腕で卓を高く持ち上げ川に放り投げるところまで、ハッキリと私は見ているのに何一つできない。
橋の上から投げ捨てられた卓は、何の抵抗もできないまま、川に流されていった。
真っ暗な漆黒の暗闇。
頭がガンガンする。
妻は…、みゆきはどうなったのだ……。
全身に力を込め、何とか起き上がる。
あの時、右目辺りを蹴られたのか、視界に映る景色が変だ。物が二重に見え、ピントが合わない。
指で目の淵を触ってみると、赤い血がついていた。
「クソ野郎が……」
体中が痛い。しかしこの怒りに比べたら、そんなもの屁でもなかった。
「河合ーっ!」
腹の底から絞り上げるように、大声を張り上げた。
視界がおかしいせいで、まともに歩くのも難しいが、そんな事をいっている場合じゃないのだ。
急いで寝室へ向かう。
大きな音を立て、ドアを開ける。
二重に見える視界に映ったのは、衣服のはだけたみゆきのあられもない姿と、下半身裸になっている河合の汚い尻だった。
「おいおい、課長さんよ~。もうちょっとで、いくところなんだからさ。いいところを邪魔すんなや」
妻の膣に結合しているのをハッキリ確認すると、全身が炎に包まれたような怒りで覆われる。怒りで全身が震え、視界が徐々に狭くなっていく。
「もう少し倒れてろよ」
さっきまで布団の位置にいた河合は、私の目の前まで迫っていた。
「ぐっ!」
腹に凄まじい衝撃が走る。私は、汚物を口から巻き散らかしながら、床を転げ回った。
両手で腹を押さえ苦しむ私に、河合は躊躇なく蹴りをぶち込む。
「……」
息すらできない状況での、さらなる激痛…。髪の毛を持たれながら引きずられ、私は部屋の隅に動かされた。
「しばらくそこで、俺と、あんたの奥さんの様子をおとなしく眺めていろ!」
私に唾を吐きかけ、再び河合はみゆきの元へ戻っていく。
意識のない妻。そこに好き放題腰を振り続ける河合。
私は無力であった。
何もできず、何の役にも立たず……。
悲しみで涙が、溢れ出てくる。
神様、もし、本当にいるのなら、私に力を下さい。
河合を殺す力を下さい……。
体がいう事を利かない私は、床に顔を貼り付けたまま、その光景を見ているだけしかできなかった。
悪魔のような笑い声を立てながら、河合は妻の体を自由に弄っていた。
私の願いなど、何も届かない。
目の前で、最愛の妻が犯されているのに、体一つ満足に動かせない。
この恨み、一生私は忘れない。
いつになってもいい……。
一生を懸けて、この男へ復讐してやる。
よくも平穏無事に暮らしていた私の家族を…。みゆきを……。
「何やってんの! やめて!」
入り口の方から、佳奈の声がした。
まさか、この地獄絵図な光景を娘が目の当たりにしているとでもいうのか……。
「何だ、お譲ちゃんか。ビックリさせやがって……」
みゆきの体から河合が離れる。一体何をするつもりだ。
「や…、やめ…、ろ……」
私は立ち上がろうとするが、まったく体が動かない。声すらも満足に出せない状態だった。懸命に足掻き、佳奈のいる方へ体を向けようとした。
「あ、そっか…。課長…。お譲ちゃん…、奥さんよりもいい使い道ありますよ」
「い、いや……」
「大人しくしろよ、このクソガキが!」
佳奈の泣き叫ぶ声。情けない…。親として、私はこんな状況下で、何もできないのか。
一瞬、妻の目が開いたような気がした。いや、錯覚ではない。みゆきが意識を取り戻したのだ。
「このぐらいの年が大好きっていう変態共、結構いるんだよね」
頼む、みゆき…。佳奈を助けてくれ……。
「やめてっ!」
視界に服が舞う。
まさか、河合の奴…、佳奈を脱がしているのか?
「ほら、動くんじゃないよ。君の写真を欲しがる連中がいるんだから」
この鬼畜め。佳奈までも……。
「みゆきーっ!」
自分の吐いた異物の異臭が、鼻に浸入するのも構わず、有りっ丈の声で叫んだ。
「みゆきーっ!」
私の声で現実に戻れたのか、みゆきは上半身を起こし、虚ろな視線でボーっとしていた。
「みゆきーっ。みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ! みゆきっ!」
何度も妻の名前を連呼して叫び続ける。
自分でお腹を痛めた子供が今、目の前で乱暴されている姿を見て、みゆきは表情を一変させた。
「か、河合君…。あ、あなた…、何をやっているの?」
視界から、みゆきの姿が消えた。河合に向かって飛び掛ったのだ。
私はこの地獄絵図のような現状に対し、祈るしか方法はない。
自分の力のなさが悔しい。視界外の状況を見る事もままならず、情けない私。しかし今はそんなものより、みゆきや佳奈の安否をひたすら祈るばかりである。
数人の荒い息遣いだけが、私に状況を物語っていた。
みゆき…。佳奈……。
「おらっ、静かにしろや!」
派手な物音が立ち、辺りはシーンと静まり返る。
「……」
心臓が激しく動き、大きな音を立てていた。一体、どうなったのだろう?
「あらら~、奥さん、ぐったりさんですね~」
「……!」
河合に抱きかかえられ、再び布団に運ばれるみゆきの姿が映る。意識を失っているのか、妻は力なく首をうな垂れていた。
「か、河合ーっ!」
乱暴にみゆきを布団の上へ寝かせ、着ている衣服を破って脱がしだす河合。
「あぁーーー!」
旦那である私を嬉しそうに見ながら、河合は自分の下半身をみゆきの膣に挿入しだす。
「課長、最高っすよ。奥さん、いい締まり具合だ」
目の当たりで展開される凄惨で屈辱に満ちた性行為。
無意識の妻に対し、河合は欲望の赴くまま、激しく腰を振っている。
何故、みゆきが、このような目に……。
何で私が、こんな思いをしなければならない……。
「あぁ、気持ち良くて、いっちゃいそうだ。課長、中出ししちゃいますよ!」
「殺してやる……」
心の底から、その台詞を吐き出した。悔しさと憎悪…。そして殺意……。
「いきますよ、いきますよーっ!」
「殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…。殺してやる…」
呪いを込めて、私は何度も呪文のように呟いていた。
「あぁ…、いっちゃった……」
河合の悪意に満ちた笑顔。ついこの間まで私の部下だった男に今、自分の女房を犯されているのだ。
こいつは何を考え、何故こんな行為をしでかしたのか。
いや、そんな事はどうでもいい。
私の妻に乱暴な真似をし、子供の佳奈にまで手を出し、私にまで……。
絶対に許さない。妻を…、子供を……。
どんなに時間を掛けても、絶対に許さない。
「妊娠しちゃうかな? 課長、奥さん、メチャクチャ気持ちいいじゃないっすか?」
自己の性欲を済ませ、倒れている私の目の前で、河合は裸のまま座り込んだ。
「あは、すごい悔しそうな表情だね。そっか、こりゃあミュージック掛けて気分でも出そうか」
そう言って河合は視界から消えた。少しして居間にあったCDプレイヤーを持ってきて、目の前で音楽を掛けだした。曲は言うまでもない。アルルの女だった。
「こういう地獄絵図みたいなシーンだと、この曲ってほんと映えるでしょ?」
「殺してやる……」
この快楽思想主義者め。絶対におまえを許さないぞ。
「あ、しまった。奥さんとやっている時、この曲を掛けとけば、もっと雰囲気出たのになあ。残念だ」
「何の恨みがあってここまでしやがった……」
今まで生きてきた中で味わった悔しさ、悲しみ、憎悪…。負の感情を眼力に込め、睨みつけた。
「おぉ、こわっ! 課長、そんな目つきもできるんですね~」
「何だと?」
「本当にその目を見ると、お袋に似ているって思うよ」
「なに?」
「似たもの夫婦とはよく言ったもんだ。俺のお袋に似ているって、言ったんですよ」
「……!」
冷酷な笑みを浮かべながら、河合は淡々と口を開いた。
激痛で自由に体を動かせない私。
「何の恨みがあるって言ったな?」
「ああ、答えろ」
「こうまで鈍過ぎるとほんと嫌になっちゃうよ」
「ふざけるなっ!」
「おい、ふざけてんのはおまえのほうだろうが!」
「何だと?」
「まあいいや…。ここまで来たんだ。少し長くなるけどちゃんと聞いとけよな」
「私に何の恨みがあるんだ? 答えろっ!」
「以前アルルの女の話をした時の事を覚えている?」
「だから何だ?」
「あの時俺は最大のヒントをあげたつもりだったんだけどな」
「なに?」
「だから俺はこのミチフィオって人物が、この話の中じゃ抜群に好きなんですよ。そう言わなかったっけ、俺」
「……」
意地悪なカウボーイのミチフィオは、フレデリに何かを吹き込み自殺へ追い込んだ。自分がミチフィオだとでも言いたいのか、この男は?
「何故ならこの男の凶行っぷりが、自分と非常に重なるからね」
「貴様……。何故だ! 何故こんな目に私たちを遭わせたんだ?」
「俺が生まれる前の話だけどね……」
私の声などまったく聞こえていないかのように気にせず、河合は勝手に話し出した。
「一人の女が身籠った状況で、実家に帰ってきた。その女の両親は、一度、結婚に失敗した我が娘を激しく怒ったらしい。当たり前だよな。やっと実家に帰ってきたと思ったら、今度は妊娠してんだから……」
「だから何だ?」
河合の目つきが鋭くなる。目からまた火花が散った。こいつに殴られたのだ。
「いいから黙って聞いていろよ」
「……」
「両親の反対にあいながらも、その女は身籠った我が子を産んだ。親父が誰かなんて、周りは知らねえ状態でだ」
人の妻を私の目の前で、犯しておきながら、こいつは何を抜かしているんだ。
「その生まれた子ってのが、この俺だよ……」
「それが何だって言うんだ、クソ野郎っ!」
顔面に激痛が走る。こいつに顔を蹴飛ばされたらしい。鼻の奥からドロリと血が出て、うまく呼吸できないでいた。
「人をはらませておいて、それが何だだと……」
「……」
今、こいつは何て言ったんだ?
「それが自分の子供に対して言う台詞かよ、親父っ!」
「……っ!」
頭の中が真っ白になった。
「なあ、親父っ! あんた、ずっと俺が、あんたの子だって気付かなかったよな?」
「な…、何を馬鹿な……」
「実の母親を実の子供がはらませるなんて、あんた、何を考えているんだ? そりゃあ、高校生の時じゃ、女とやりたくて溜まらない時期だろうよ。だからって、自分の母親とセックスする馬鹿がどこにいるんだよ!」
高校時代、母親に犯されたトラウマ…。あの時から、私は絶望に包まれていたが、肝心な事を気付かないでいた。
私は実の母親の胎内に、自分の精子を出していたという過去……。
「実の親を妊娠させ、その生まれた子の存在などずっと気付かずに、自分は温かい幸せな家庭を築いている。どんだけ俺が惨めだったか、おまえに分かるのか?」
この悪魔みたいな男が、私の子……。
いや、そんなはずがない。
近親相姦…、日本だけでなく多くの世界で禁じられた行為として認知されている。それは劣性遺伝による障害を持った奇形児が生まれる確率がグンと上がるから。通常の組み合わせよりも従兄弟同士で四倍になり、もっと身近な親子、兄弟の場合は約十二倍という数字に膨れ上がる。そのせいか日本での近親婚は、直系血族または三親等内の血族間における婚姻届は受理されない。
しかし規定として近親者同士の合意に基づく性交については、ないのが現状。
嫡出子と称される婚姻関係にある男女から生まれた子。
非嫡出子と称される近親相姦によって生まれた子。婚姻関係から生まれなかった正統でない子供という意味合いが込められる。法律上にすら非嫡出子という言葉は出てこない。
それに以前誰かから聞いた事がある。「近親同士の性行為では、妊娠をしづらい。九十パーセント以上の確率で子供はできない」と……。
その根拠的なものは分からない。ひょっとしたらタブーとして扱われてきた題材な為、そう語り継いできただけかもしれない。
「おい、何を黙っている? ちゃんと話を聞いてるのか?」
「ああ…、聞いている。おまえが私の子供? でまかせを言うのも大概にしろ」
「ほう…、面白い事を抜かすな。自分の母親の子宮へ精子をぶち撒けておいて、よくもまあそんな台詞を言えたもんだな」
「き、近親関係における性行為では、妊娠しづらいはずだ。その数値は九十パーセント以上だと言う」
こんな男が私の息子? 冗談じゃない。絶対に認めない。認める訳にはいかない。
「ああ、俺も人づてではあるが、そういった関係では妊娠しづらいと聞いた事があるよ。何でも通常より十分の一ぐらいの確率じゃないとならないってな」
「そうだ。今になって何故そんなでまかせを言う?」
「でまかせ? 人間ってのはよ…、数字じゃねえんだよ。今、自分で答えを言ったんじゃねえのか? 九十パーセント生まれないって。じゃあ、俺がその残りの十パーセントだったとしたら?」
「ありえない……。仮に生まれたとしても、奇形児になってしまう可能性だってある」
「ああ、その通りだ。頭のおかしい奴が生まれやすいってのは定説だよな。だが、それだってあくまでも数字…、確率の問題に過ぎず、こうしてまともな人間だって生まれる訳だ」
「貴様がまとも? ふざけるなっ!」
「あははは」
突然河合は腹を抱えながら大笑いしだした。
「何がおかしい……」
「だって課長ってさ…、俺の名前知らないでしょ」
「河合…、河合明人。ちゃんと部下の名前ぐらい知っている。それが何だって言うんだ?」
「その名前ってほんとは俺じゃないからさ、あははは」
「何がおかしいんだっ!」
「だって河合明人って人間は実在してたけどさ、もうこの世にいないから」
「実在してた?」
「課長もあの会社入るの苦労したでしょ? 何で俺が入れたと思う?」
「ま、まさか……」
背中に冷たいものが走る。
河合…、いや河合明人の名を語った男は私の目の前で残虐な笑みを浮かべた。
「うん、そうだよ。俺は非嫡出子としての自分の人生を変えようと、河合明人に成り代わったのさ」
「こ、殺したというのか……」
「お、なかなか冴えているじゃん。でもさ、大変だったんだよ。両親健在だけど、親不孝で半ば勘当されているような奴を探すのって。年齢もほとんど一緒じゃないと不都合な事多いしさ、血液型だって」
「何故そんな真似を……」
「決まってんだろうがっ! あんたに仕返しする為だけにだろうが」
急に表情が変わる。生まれた時から己の運命を呪い、その捌け口をすべて私に向けていた現実。
「今でも俺は、自分の存在が嫌で溜まらない。すべておまえのせいだ!」
「……」
これまでの怒りが嘘のように引いていく自分がいた。我が遺伝子を引いた人間が、目の前にいる。それを自覚してしまったからかもしれない。
「ずっとさ、俺はアルルの女を聴きながら毎日を過ごした。自分の中で勝手に復讐に誓う曲としてな」
「……」
それでああまでアルルの女にこだわっていたのか。
「以前バーであんた、亡くなった息子の話をしていたよな?」
「……」
あの時もアルルの女をリクエストしていた。ひょっとしたら、遠回しに自分の存在を私に知らせたかったのかもしれない。歪み過ぎた性格が、それを素直に現せなかった。
「本当は長男じゃなく、あんたにとっちゃ次男だったんだ。愉快犯の犯行って事で警察には片付けられちまったんだろ? 真実を教えてやるよ。あの子を殺したのは腹違いの兄であるこの俺だっ!」
「な、何……」
以前私が立てた仮説。あまりにも現実的に当てはまらないのですぐに切り捨てたが、まさか……。
「俺を産んだあとの母親、まあつまりあんたの母親でもあるが、あいつは神経が完全に狂っていた。毎日のように酒を飲み、いつだって酔っ払っていた。夜になると外をほっつき歩き、誰にでも構わず股を開いた。もうああなっちゃ、ただの性欲マシーンだよな。俺は祖父と祖母に育てられたんだ」
それは私にとっても同じ祖父と祖母でもある。母親が家を出て行ってからまるで音沙汰などなかった。それは私が祖父の家の場所や連絡先を知らなかったせいもある。母親はそういった事を何一つ教えてくれなかった。
「そのじーちゃんもばーちゃんも早く亡くなっちまって、狂った母親だけが残った。そりゃあ学校じゃ、ほんと酷い苛めに遭ったさ。でも一人だけこんな俺に親切にしてくれた同級生がいてな。そいつにだけは俺の出生の秘密を教えた事がある。だけど次の日には学校中その事が知れ渡っていたんだ。親友と称し近づいた同級生は俺の秘密を聞くと、面白おかしく他の連中に噂を流したって訳だ。苛めの対象になるのも当たり前だ」
「苛め……」
「何を驚いているんだ? 実の母と息子との間に生まれた子供なんて、聞いた事もないだろう。日本最大の不道徳の中、俺は生まれてきたんだからな。生まれながらにしてタブーな存在…、そして忌み嫌われる存在だったんだ。それでも学校には行ったさ。あの狂った母親と一緒にいる時間が少しでも少なくなるなら、まだ学校で苛められていたほうがマシだったんだ。ある日、俺が学校から帰ると、居間の中には真っ赤な血が飛び散っていた。見るとあの母親が自分で手首を切っていたんだ。いや、違う。切ったなんてもんじゃねえ。包丁で手首を深くまで叩き切った。そんな言い方が一番適しているな。知ってたかい? リストカット程度じゃ、人間ってなかなか死ねないらしいぜ。母親は身を持って息子にそれを教えてくれた訳だ。それでよ…、俺を見るなり大粒の涙を流しながら『ごめんね、ごめんね』って何度も泣きながら死んでいった。最後の最後で人間らしい部分を見せてくれた訳だ。そんでもって汚い字で紙に何か書いてあった。課長さん…、いや、親父よ……。その紙に何て書いてあったと思う?」
「……」
おぞましい彼の人生のこれまでを私は黙って聞く事しかできないでいる。
「あんたの名前と、どこで調べたのか知らないが、あんたの住む住所が書いてあったんだよ。そして最後に『あなたを産んで本当にごめんなさい』ってな……」
「……」
あの狂った母親が、自分の手で生涯を終わらせていたという衝撃の事実。
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