「鋭いな。確かに…。そこでね、このアズサさんのブログへ飛んで見て」
私はみゆきの言う通り、支持に従った。これだけブログに関わっている人がいるのに、誰一人アズサが犯人だと気付く人間はいない。
「あっ!」
「ほら、アズサさんのブログ…。もう、なくなっているでしょ?」
画面には、こう表示されていた。
表示しようとしたスペースは存在しないか、スペースの作成者によりアクセスが制限されている可能性があります。
「ブログを辞めちゃったのかな、この人?」
「多分ね。トライさん、どこかのブログで、嵐が誰かって、IPアドレスというもので、分かるんですよって書いてあったのね。私には、何の事だかよく分からないけど……」
「なるほど、彼が、アズサって子だと分かり、文句を言う。それでビビッてブログを閉鎖した訳だ」
「う~ん、私ね。それはビックリしたというのあると思うけど、それ以外にあったと思うのよ」
「それ以外?」
「ほら、ここのコメント。あんたなんか彼氏と似合わないって、書いてあったりするでしょ?」
「うん」
「多分…、このアズサって子。トライさんの事が、大好きだったんだと思うよ」
「それで仲良さそうにしていた彼女に攻撃を?」
「うん」
「だってトライ君には何もないじゃないか?」
「馬鹿ね、女ってそんなもんよ」
妙に今日のみゆきは説得力がある。大したものだ。
「そこでね、何で私があなたに、こんな事を言ったか分かる?」
「いや……」
「確かにアズサさんは、人としてやってはいけない事をした。でも、女心っていうのかな。純粋にトライさんの事が、好きだったという部分もあると思うのね。しかも相手は、自分の仲がいい同級生でしょ?あれだけブログで名前は出されないまでも、色々書かれたし、今頃、どうなっちゃったかなって思うのよ」
「なるほどね……」
「そこで、あなたがトライさんにさり気なく、そろそろ勘弁してあげたらって言ってくれたら、私は嬉しいなと思ってね」
「う~ん、そっか……」
「難しいと思うけど、あれ以上、アズサさん宛ての記事を書いていれば、彼自身の信用というか、価値が落ちてしまうと思うのよ。まだ、トライさんも、ぴよさんも若いでしょ?だから、年上であるあなたが、うまくまとめられないかなと思ってね」
「そうだな~。よし、やってみるか……」
「うん」
みゆきは、満面の笑顔で微笑んだ。
(気まぐれパパ)
トライさんへ……。
こんばんは、気まぐれパパです。
実は、ちょっとお話ししたい事が…。よろしければ、メールアドレスを書いておくので、メールがほしいです。よろしくお願い致します。
「みゆき、これでいいかな? あとは彼が、メールをくれるかどうかだね……」
「充分よ」
この日、久しぶりに私は妻を抱いた。
私の上にまたがり、激しく腰を動かすみゆき。
快楽に溺れていた私がふと現実に引き戻された。
昼間あれだけ悩んでいたみゆきの首筋。嫌でも私の視線に、キスマークみたいなものが映し出されるのであった。
腕枕をしながら、私はさり気なく聞いてみた。
「なあ、ここの痣みたいのどうしたんだ?」
「よく、分からないの。虫か何かに刺されたんだと思うんだけど、痒くてかいていたら痣みたいになっちゃってね」
「結構目立っているぞ」
「そう? 気をつけるわ」
普通に受け答えする妻を見てホッとした。すべては私の誤解である。
「昨日河合に色々パソコン、教えてもらったんでしょ?」
「うん、まだインターネットの見方ぐらいしか分からないけどね」
「そうか」
「でも、面白いものね。来週の水曜日も来てくれるってさ」
「え?」
「あら、会社で聞かなかったの?」
「今日体調不良で休んだんだよ、あいつ」
「あらら、寝坊しちゃったのかな?」
「どうだかな……」
キスマーク疑惑が解けた時点で、私は河合に興味がなくなっていた。
あれから一週間が過ぎた。
河合は電話で連絡があったものの、有休を使ってその間ずっと会社を休んでいた。プライベートで私に連絡がある訳でもない。水曜日の日、みゆきは残念そうな表情でマウスを握っていた。
何か一週間であった事といえば、トライ君からメールが来た事だった。
私はみゆきの予想したとおりの事をまず彼に伝え、相手も悪かったと反省しているし、あのアズサさん宛てに書いた記事を消してあげてはどうかとお願いした。
若い頃についた傷は、やがて一生消えないトラウマになる可能性だってある。この私が未だにそうであるように……。
素直な彼は快く了承してくれた。嵐に関する記事をすぐに削除してくれたらしく、どこを探してもアズサという言葉すら見当たらなかった。
嬉しいものだ。こういう優しい気持ちがいい人間関係を作っていく。
考えてみれば、うちの部下の河合とトライ君は同世代二十台なのだ。河合もトライ君ぐらい素直だったら……。
あとはブログの仲間たちといつも通りのいい関係を保っていた。
私のブログも妻公認になったので、変な事じゃない限りいくらでも自由にできる。自分一人の楽しみだったブログ。今では夫婦揃って楽しむブログになっていた。
『ご機嫌パパ日記 その六十二』 気まぐれパパ
今日は、家族で電車に乗り、動物園に行って来ました。
息子や娘の喜ぶ表情。本当に可愛いものです。この可愛い時があるからこそ、たまに生意気な態度をしても、やっぱり可愛い…。妻がそんな事を言っていましたね。
帰りに、焼肉に寄り、せっかくだから、いい肉を食べさせようと奮発しました。
おかげで今週は、小遣いが減り、貧乏生活になりそうです……。
(らん)
楽しそうな情景に、いつも私自身、元気をもらっています。
お小遣いが減るのを覚悟で、子供たちに…。素敵なパパですね。私は、まだ結婚してないですけど、もし、したら、鬼嫁と呼ばれそう……。
「嫌だ、あなた。これじゃあ、私が鬼嫁みたいじゃないの」
「ははは、そんな事ないって。今、らんさんとかも言っていたように、私は将来鬼嫁になりそうな予感がとかって、そういう言い方が流行っているんだろ?」
「そうね、ふふふ」
夢を見た。
仰向けに寝ている私の上に、裸のまま、母親が乗ってこようとする。不思議と夢の中だったので、母親は昔のままだった。それなのに私は今の姿のまま……。
すぐ横では幼い頃出て行ったはずの父親が、知らない女を抱いていた。私たちなどまるで眼中ないように、セックスに没頭している。
「や、やめてくれ。母さん…。やめろって!」
「ほら、早く…。私を気持ち良くさせなさいよ。早く!」
そう言いながら母親は、私のズボンを脱がそうとする。懸命に抵抗する私。いつしか母親の顔が、この間行ったお触りパブの女の顔に変わる。
無我夢中で女に抱きつく私。これは夢なのだ。必死に自分に言い聞かせた。
薄暗い場所の遠くで、誰かが立っているのが見える。
ジッと目を凝らして見てみる。
「みゆき……」
何も言わず、ただ悲しそうな目で私を見つめていた。
慌ててお触りパブの女をどかし立ち上がる。
「みゆきー!」
そんな私を無視して、みゆきは去っていこうとする。
「待ってくれ。違うんだ…。みゆきー!」
追い駆けようとして、背後から肩をつかまれる。
「課長…。もう遅いんですよ」
「か、河合君…。今まで何を……」
「追い駆けるのは、俺の役目ですからね」
「何?」
妻のあとを河合が走って追い駆けていく。私は動こうとしても、足のつま先が地面に根をはったように動けない。
「おい、待て。河合君…。待て…、河合ー!」
体が動く……。
私は上半身を一気に起こした。もう冬になろうとしているのに、全身、汗を掻いていた。
「一体どうしたの? すごいうなされてたわよ」
みゆきが声を掛けてくる。部屋をぐるりと見渡す。いつもの寝室だ。
あれは夢だったんだ……。
「ねえ、どうしちゃったの?」
「……」
「あなた?」
「む…、昔の…。昔の嫌なトラウマが蘇っただけだ……」
「……」
そっと私の頭を包み込んで、自分の胸元へ持っていくみゆき。
一定の心臓の鼓動が聞こえてくる。何だか鼓動を聞いていると、癒されてくるような気がした。不思議と落ち着いてくる。
結婚する前に、妻へ私の呪われし過去を少しだけ話した事があった。
情けない事に自然と涙が溢れ出てくる私を、今と同じように包み込んでくれた。
「思い出しちゃったもんは、しょうがないもんね。私に言えばいいじゃない。こうやっていると、落ち着くんでしょ?」
「……」
「あはっ…。子供みたいなんだから……」
久しぶりの安らぎに、私は思う存分甘える事にした。先ほどのリアルな夢。これから何か、不吉な事が起きるとでもいうのだろうか?
安らぎの空間の中、私はどこか心の奥底で何かに怯えていた。
「課長、お久しぶりです」
翌日会社へ出勤すると、部下の河合は一週間も休んだというのに、何事もなかったかのように済ました顔で出勤していた。
普通ならもっと申し訳なさそうな顔をしても、良さそうなものを……。
まあこの普通ならというのが、今では通じない世の中になっているのかもしれない。
「課長、仕事終わったあと、お時間少しだけでもとれますか?」
「ん、何だ、いきなり……」
「ちょこっと課長に、話しといておきたい事がありましたね」
この一週間の休み、体調不良とは言っていたらしいが、この分では何か企んでいるのだろうか。
夜中見た、夢を思い出す。
夢の中とはいえ、河合の顔を見ているとムカムカしてくる。
「う~ん……」
「頼みますよ、課長。大事な事なんです」
「でも君はうちのみゆきに水曜日、パソコンを教えると約束していたのに、電話一本よこさず来なかったじゃないか」
「すみません。それに関しては謝ります。悪いの自分なんで…。でもあの時は大熱で、本当にう~んう~んって、唸って苦しんでいたんですよ」
「分かった分かった…。まあ、今はとりあえずハッキリはできないけど、仕事終わったら、みゆきの方へ電話して、いいかどうか聞いてみるよ」
「えー、仕事終わってからとかじゃなく、今、聞いて下さいよ~。残業になりそうだとか、うまく言って下さいよ」
「勝手な奴だな」
「どうしても、話しておきたい事があるんですって」
「分かったよ…。うるさい奴だな」
私は家に電話をしてみた。
「今日さ、ひょっとしたら残業になるかも…。うん、行ってすぐに、これじゃあ、あれかなと思ってね。まあご飯は先に勝手に食べちゃってくれよ。うん、はい。じゃあ……」
電話を切ると、河合はすでに自分の机に戻っていた。あいつめ…。本当に調子のいい奴だ。
朝の会議を終え、業務に戻る。河合の話とは、一体何だろう? それが気になって、仕事に集中できないでいた。
昼休みになっても河合は社員食堂へ姿を現さず、私との接触はなかった。
携帯でブログをチェックしてみる。
(ぴよ)
トライから色々聞きました。何か、色々とお世話になったみたいで……。
ありがとうございました。
(気まぐれマダム)
焼肉…。おいしそうですね~。でも、マダムはどちらかというと、肉より魚派ですね。頑張ってお子さんたちに、優しい頼り甲斐のある背中を見せてあげて下さい。
たまにはお肉も食べたいわ~。
(ミィーフィー)
こんにちは。こっちまで、いい匂いがしてきそうです。いいですね~。あはっ!
気まぐれパパさんの家族。ちょっと羨ましいな。
(ネコ)
はじめまして、ネコと言います。賑やかなブログですね。パパさんの人柄が滲み出ているような感じがしますね。
私はちょうど今、里帰りで日本に帰ってきているところなんですよ。
(カイコチャン)
うわ~、やばい!その量…。私一人でペロリと食べられちゃうかも……。
集まっている、集まっている…。コメントがたくさん来ると嬉しいものである。
家に帰ってからの楽しみが、これでまた増えた。
ここで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。仕事中の時間の流れは遅く感じるのに、こんな時ばかりは早いものである。皮肉なものだ。
退屈な時間をメリハリつけずダラダラと過ごし、終業時間を迎えた。河合はテーブルの上をガサゴソと片付けている。
妻には嘘をついたが、別段今日は残業する必要性もない。帰り支度を済ませ、河合のところへ向かう。
「河合君、今日はどうするの?」
「あ、課長。えーとですね…。飯は、どうします?」
「まあ、たまには外食もいいかもな」
「何系が食べたいですか?」
「基本的にだいたい和食だから、たまには洋食とかいいねえ」
「じゃあ、洋食にしましょう」
僅か一週間ぐらいの間だったが、彼とはほとんど顔を合わせていなかった。プライベートで話すのが、久しぶりのように感じる。
彼の選んだ洋食屋へ入り、私はハヤシライスを注文した。
たまには妻の作る料理以外の味を楽しみたい。久しぶりの外食は新鮮でおいしく感じられた。いや久しぶりだからというより、この店のの味付けは抜群だ。今度機会があったら、卓や佳奈を連れてきてあげたい。
子供が生まれてから、どこか行って気に入った場所があるとみゆきに話し、家族一緒に行こうと相談してきた。おいしいものを食べたりすると、私だけではなく家族に食べさせてあげたい。常にそう考えてしまう自分がいる。その辺の絆が、家族というものなのかもしれない。
妻や子供の喜ぶ顔は、私にとって財産でもある。幸せを感じる瞬間でもあった。
「ここの料理、結構いけません?」
「そうだね。今度、卓や佳奈を連れてこようかなって思ってたよ」
「ははは、それは良かったですよ。そんなに気に入ってくれるとは、俺もここにした甲斐があります」
「いい店を教えてくれて、ありがとうね。ところで今朝、会社で言ってた話したい事ってなんだい?」
「とりあえず、場所を変えましょうよ。ここじゃ、話すには賑やか過ぎます」
「どこへ?」
「軽く静かなバーで、酒でも飲みましょうよ」
「でも、みゆきには残業でって言った手前あるから、酒はな~……」
「電話すれば、俺も変わって一緒に言いますよ。これから一つのプロジェクトが終わって、みんなで軽く打ち上げに行くので、課長さん、お借りしていいでしょうかって」
「う~ん……」
「たまには、野郎二人でもいいじゃないっすか?」
「分かったよ。電話してみるから、途中で代わるぞ」
「いいっすよ」
私は家に電話を掛け、みゆきに会社の打ち上げに行くと伝えた。あらかじめ朝、残業で遅くはなると言っておいたので、妻も快く了承してくれる。
「課長、ちょっとだけいいですか? この間行けなかった事について、お詫びしときたいので……」
河合に携帯を渡す。
「あー、奥さん。この間は本当にすみませんでした。ええ、河合です。体調ですか? ええ、もう大丈夫ですよ。ご心配お掛けしました。また水曜日に伺いますので、今度はちゃんとパソコン、教えますから…。はい、ええ。分かりました。課長さんに代わりますか?あ、大丈夫ですか。分かりました。ええ、それでは失礼します」
私に携帯を渡しながら、河合は言った。
「これで、問題ないですね」
「河合君が強引だからだ。まあいいや。これからどこへ飲みに行くんだい?」
「俺のいきつけの店があるんです。そこ、静かで雰囲気もいいから、そこにしましょうよ。いいですか?」
「ああ、構わないよ」
静かなジャズが流れる小さなカウンターだけのショットバー。
今、私は部下の河合と二人で、飲んでいた。
「河合君、なかなかシックでいいお店だね」
「ええ、よくここで一人で飲むんですよ。あ、課長。酒ないですよ。何を注文します?」
「そうだなあ……」
「どんな感じなのがいいですか?」
「う~ん……」
「甘いのとか、さっぱり系とか、色々あるじゃないですか」
「甘いけど、スースーするような…。あれ、アイスでいうと…、何だっけ?」
「チョコミントですか?」
「そうそう。あれは、私、結構好きなんだよな」
不適な笑みを浮かべる河合。
「それなら、ピッタリのお酒ありますよ」
「え、そうなんだ?」
「ええ」
「じゃあ、トイレ言ってくるから、頼んでおいてくれるかい?」
「いいですよ」
私は河合に注文を頼み、店の恥にあるトイレへ向かった。
狭い店の狭い便所。自分の体が壁に何度もぶつかる。結構酔いが回っているようだ。小便の出る量も半端じゃなかった。
カウンターへ戻ると、バーテンダーがちょうどシェイカーでカクテルを振るところだった。
小刻みな動きで、リズミカルに降るものだ。見ているだけで楽しくなる。
透明のカクテルグラスに注ぐ状態を見ていると、私は驚てしまった。シェイカーから出てきたカクテルは緑色の液体だったのである。
「おい、河合君。あれ、大丈夫なのかい?」
「嫌だな~、課長は…。アイスのチョコミントだって、青緑みたいな色をしているじゃないですか。それが好きな訳でしょ?」
「という事はチョコミントが、カクテルの中に入っているのかい?」
「もう、違いますよ。俺が課長用に頼んだカクテルはグラスホッパー。クレーム・ドカカオのホワイトと、ペパーミントグリーン。それに生クリームをシェイクしたカクテルですよ」
「詳しいねえ……」
その労力を仕事に活かせばいいのにと言おうと思ったが、この場では返って野暮である。やめておいた。
「さ、課長。ショートカクテルは、冷たい内、一気に飲み干すもんですよ」
「あ、ああ……」
グラスに入っている半分ぐらいを一気に飲んでみた。喉越しに甘いものが通り、そのあとでヒヤッとした感覚になる。うん、うまい。とても冷たい液体のチョコミントをそのまま飲んでいるみたいだ。
私は残りを一気に飲み干した。もう一杯ぐらい飲んでみたい。同じものでおかわりを頼む。
「ほら、気に入ったみたいじゃないですか」
「……」
得意満面の河合。悔しいが言われる通りである。
今度はカクテルがさっきよりも早めに出てくる。なるほど、さっきは私がトイレに行っていたから、バーテンダーも作るのを待っていてくれたのだろう。憎い心遣いが嬉しく感じる。
あ、そういえば今日のブログの更新……。
それにコメントは来ているだろうか? 気になって携帯を開く。
(たかさん)
同じ四十男同士ですね。男四十にして立つの、たかです。同世代という事もあって、前から気になっていました。
今回、初コメントになりますが、前から気まぐれパパさんのところは、こっそり覗いていましたよ。よろしくお願いしますね。
ほう、ほぼ私と同世代の男性…。えーと、ハンドル名がたかさんだから、たかさんさんって呼んだ方がいいのか? いや、さすがに変か。
私はたかさんのブログに飛んでみた。
ブログが表示するまでの間、カクテルを口に持っていく。うん、キンキンに冷えていてうまい。
「マスター。これ、最高ですね」
バーテンダーは、グラスを几帳面に磨いているところだった。
「ありがとうございます」
ボソッとお礼を言ってから、マスターはまた、丹念にグラスを磨きだす。
河合がマスターに話し掛けたので、私は先ほどのたかさんのブログを見てみた。
『男四十にして立つ!』 たかさん
こたつむり
十月二十八日、最低気温十六度。最高気温二十五度。
何故か、我が家にこたつが登場……。
ん~…。まだ、暖かいと思うんだが、いつもの如く、嫁(女帝)のひと言。
「寒いんじゃ!」
そう、嫁は寒がり屋さん……。
…が、ここで問題が……。
こたつ、イコール、居心地が良い……。
故に、こたつへ入ると出てこない……。
着いた名前が…、「こたつむり」です。そう嫁は寒がりで、気温が二十四度でも、こたつに入ると出てきません。
いつもの如く、俺と子供……。
「ねえ、寒いんだからさ…。コーヒー持ってきて」
「ねえ、ご飯炊いてよ」
「ねえ、アレとって」
ガクッ…。ちったー動けよな……。
そんな事だから、体重が増えるんだよ!
「課長、さっきから何を一人で携帯見ながら、ニヤニヤしているんですか?」
河合の声で現実に帰る。たかさんのブログ記事を読んでいて、自然とニヤけていたようだ。彼とは面識がないが、不思議と親近感を覚えた。
「いや、コメントとかをチェックしていたんだよ」
「まったく、こんな場所まで来て……」
「すまないねえ」
「まあ、確かに気になりますからね。コメントは……」
「お恥ずかしながら……」
「課長、飲み物どうします? 空になってますよ。」
「ん、ああ…。でも、そろそろ酔いが回ってきたかな……」
「課長…。まだ、話をしてなかったじゃないですか」
「あ、そうだったね…。悪い悪い」
「軽いのマスターに作ってもらいますから、それを飲めばいいじゃないですか」
「ああ、任せるよ」
再び私は携帯を覗き込んだ。自分で思うのもなんだが、完全にブログ依存症の一歩手前だ。
だが、こんなに楽しいものなど滅多にない。
私と同世代のたかさん。こういう人と、本当に知り合いになりたかった。同じような時間を過ごし、自分が働いて家族を食べさせていく。お互いの感情移入もしやすい。
それにしても、たかさんのおくさんは、女帝と言うのか。一家で一番偉いのが、たかさんの家では奥さんみたいである。最後の捨て台詞なんて、思わず笑ってしまう。
家に帰ったら、たかさんにコメントを返さないとな……。
「ん……」
携帯の画面が滲んで見える。気のせいだろうか? 画面だけじゃない。顔を上げると、カウンターに並ぶ様々なボトルまで歪んで見えた。
「……。……」
横で河合が何か話しているが、何を言っているのかさっぱり聞こえない。あれ? 景色が回っている。平衡感覚が……。
ここは、どこだろう……。
どうやら、私は布団で横になっているようだった。
河合が私を介抱してくれ、どこかに泊めさせてくれたのだろうか? 一瞬、目を開けようとしたが、まぶたが重く開かない。体を横に向けると誰かにぶつかる。
誰だろう? 手探りで触ってみる。柔らかな心地よい感触。
そうか! まだ、私は夢の中にいるのだ。
目をつぶったままの状態で、私は隣にいる人間の体を色々触り始めた。小気味良い感触を思う存分、手の平でまさぐり感じる。
隣にいる女性…。かなりいいスタイルの持ち主である事が分かる。今、触れている部分はお尻だろうか? そのまま手の平を徐々に上へと、ゆっくりずらしていく。
「う~ん……」
寝返りを打つ声が聞こえ、慌てて手を引っ込める。
「………」
私は馬鹿だ。これは夢なのだ。普段抑えている自分の雄としての本能を、介抱してしまえ。
豊満な女性の胸。私は鷲づかみにして、揉み心地を楽しんだ。
「ぐっ……」
背中に激しい痛みが走る。
「俺の女に何をやってんだよ!」
聞き覚えのある声が聞こえたかと思うと、また背中に痛みが走った。
あまりの激痛に目を開く。
「課長、あんた、何をしてんすか?」
見慣れない背景と、河合の顔が目を開いたばかりの私の瞳に映っていた。
夢ではなかったのか?
よく、思い出せ。昨日、仕事が終わって河合と酒を飲んで……。
「ぐわっ!」
また、私は河合に足蹴にされる。
「俺の女に今、何をしてたんだって、さっきから聞いてんすよ。俺は!」
布団の上に倒れた私は、そのままの体勢で横を見る。見知らぬ女性が、鼾を掻きながら寝ていた。この女性が部下の河合の彼女だというのか? いや、普通に考えて当たり前だろう。ここは河合の部屋なのだから……。
だんだん現実を理解していくごとに、体に鳥肌が立ち始める。酒に酔った勢いとはいえ、私は取り返しのつかない事をしてしまったのではないだろうか……。
倒れた私の胸ぐらを強引につかみ、立たせる河合。
いつもの見慣れたニヤけ顔ではなく、もの凄い怒りの形相で私を睨んでいた。ちゃんと目を合わす事などできなかった。
「す…、すまなかった……」
「課長…、ふざけんで下さいよ。人の女の体を弄んで、すまないのひと言で済ませるつもりなんですか?」
「い…、いや……」
「どう落とし前をつけるんですか?」
「落とし前って……」
「分かりました。じゃあ、俺も覚悟を決めます……」
河合は部屋の隅にある、電話のある方向へ向かっていく。
「お、おい…。河合君」
「何すか?」
「本当にすまなかった。私が悪かった……」
「いや、いいっすよ。別に…。もう覚悟、決まりましたから……」
投げやりな河合の喋り方。非常に気になった。
「覚悟を決めたって?」
「時間、見て下さいよ。今、何時ですか?」
私は、部屋の中を見回し、背後の壁に掛かる時計を見る。
「……」
時刻は朝の十時を回っていた。完全に会社は遅刻だ…。いや、そんな事よりも昨日から私は家に帰っていないのである。ヨレヨレになったスーツのポケットから、携帯を取り出すと、家からの着信が何十回も掛かってきた履歴があった。
前門の虎、後門の狼とは、こんな状況をいうのであろう。
「俺がこれからどこへ電話しようとしているか、分かりますか?」
心臓が悲鳴を立てるように大きな音で動いている。考えられるのは、家か…、もしくは会社へ…。どちらにしても、そんな事を言われたら、私の人生は終わりだ。
「ま…、待ってくれ…。頼む…。お願いだ……」
「課長の人生…。部下の彼女に手を出した最低男として、レッテルを貼られるんですよ。会社からも、家族からも……」
リアルに想像できた。頭がおかしくなりそうだ。
「お願いします…。それだけは、勘弁して下さい……」
必死に頼んだ。妻や子供たちから軽蔑の眼差しで見られるなんて、とても堪えられない。気付けば床に額を擦りつけ土下座をしていた。情けないとかそんな感情は、どこにもなかった。ただ、ひたすらお願いした。
「何でもします…。何でもしますから……」
懇願するように河合の顔を見上げると、一瞬だけ口元をニヤリとしたように見えた。気のせいだろうか? いや、そんな事よりも今は謝るしかない。謝って許しを乞うしかないのである。
「そんな事せんでいいですよ。課長」
「じゃあ……」
「俺の言う事を一つだけ聞いてもらえますか?」
「あ、ああ…。私にできる事なら……」
「場所を移しましょう」
「待ってくれ…。その前に、妻にだけでも連絡をとっていいか? 今頃、心配しているはずだ」
「何を言っているんですか? 課長…。誠意が何も感じられないですね…。俺から奥さんのほうへ、報告しますよ。俺の女の体を弄んだってね。溜まらないですわ。酒に酔いつぶれ、勘定だって俺が全部払い、それから背負って自分のマンションまで連れて寝かせていると、朝になって人の女の胸をまさぐっているんですからね…。呆れて物が言えませんよ」
「頼むからやめてくれ!」
悲鳴に近いような声が自分の口から出る。
「じゃあ、俺の言う通り、さっさと従って下さい。いいですか? 今の課長に選択権などないんですからね」
「……。はい……」
負け犬となった私。主従関係は、プライベートでも仕事場でも完全に入れ替わってしまったのだ。
本当の窮地に追い込まれ、自分で何が一番大事なのかを思い知らされた。
やはり私の家族が一番大事である。みゆきと結婚し、卓と佳奈を産み、ずっと築き上げてきたのだ。それが今、ほんの些細な事で積み木が崩れるように、崩れ去ろうとしているのだ。
男の本能とはいえ、自分の意識外での行動……。
本当に恐ろしいものである。
世の中、キャバクラや風俗がなくならない訳である。男の本質をついた商売なのだから…。これで失敗をした男性が、どれだけ山の数ほどいるのだろうか。
「何をボーっとしてんですか。俺の話を聞いてます?」
河合の声で、現実に引き戻せられる。私は彼の指図に従い、駅前の喫茶店に来ていた。
「河合君のしてもらいたい事って、一体……」
「俺、課長の奥さん……」
「……」
「メチャメチャタイプで、一度でいいからやってみたかったんですよ」
まったく悪びれもせずに河合は笑いながら話していた。血液が頭にどんどん上昇していくのを感じる。気がつけば私は立ち上がっていた。
「ふざけるな!」
「まあ、座って下さいよ。そんなに熱くならないで」
「いい加減にしろ! 一体、どういうつもりなんだ?」
私の返答を無視して、ポケットから携帯を取り出す河合。口元は相変わらずニヤけている。
「おい、私の言葉を聞いているのか?」
それでも河合は返事もせずに携帯をいじっている。殴りつけてやりたかった。しかしそれをした瞬間、私の築き上げた人生は終わりを告げる。
「これ、見て下さいよ」
そう言いながら、彼の携帯を私に手渡してきた。奪うようにして携帯を手に持つ。画面にはどこかのブログ画面が出ている。
『忌み嫌われし子のスペース』 忌み嫌われし子
面白激写画像ゲッチュッ!
フハハハ…。世の中の諸君、元気でいるかな?
この忌み嫌われし子が、下界にわざわざ降り、新しい記事を更新しにきてやったぞ。
今日はあるサラリーマンをやっている二十代の男から、面白い写真が届いたのだ。この男の会社の上司。真面目で誰からも好かれる上司らしい。絵に描いたようなマイホームパパで、仕事が終わると真っ直ぐ帰る。
そんな男が、ある日、何と家に嘘をついて、お触りパブへ帰り道コソコソと寄ったらしいのである。
二十代の男から、証拠写真なるものを受け取った。見てみると、その上司、真面目そうな面をしているのが分かる。それが、周りを気にしながら、店へ入っていく姿は、下手なお笑い番組などよりも、数段面白いであろう。
みんなも見てみな。この例の上司の画像を…。笑えるだろ?
何が忌み嫌われし子だ……。
イライラしながら見ていると、目の前が真っ黒になった。
携帯に映し出された画像…。それは私の姿であった。かろうじてモザイクが顔に掛かっているものの、見る人が見れば一目瞭然である。
「き、貴様……」
「俺じゃないですって」
「ふざけるな!」
「まあ、おふざけで写真提供したのは認めますけどね」
「……」
「今、俺に怒れる立場じゃないでしょ?」
「……」
こいつはどこまで私をおちょくる気なのだろう。よく考えてみる。最初私にパソコンでブログをやりませんかと勧めてきたのは、こいつだ。
まあ、それで今の私のブログが生まれた訳だが、河合は妙に家族の人間に好かれていた。ずっと好青年を演じ、みんなの機嫌をとってきたのだ。
疎外感を覚えた私は、毎週水曜日、本来なら河合が家に来る日に、ストレスから断り、やるせない気持ちで帰るところをお触りパブに寄って現実を誤魔化した。
しかし店へ入るところを河合に携帯で写真を撮られていた。この時点でおかしいと気付けばよかったのだ。
もう私にはほとんど教える事がない。だから奥さんにパソコンを教えましょうという口実で、まだ我が家に通おうとしていた。
昨日話があると言い私を誘った時点から、すでに罠だったのかもしれない。最近は飲む機会が減ったとはいえ、あれだけの酒で私が意識を失う…。考えてみればおかしい。薬でも盛られたのか?
介抱して自分のマンションへ連れてきてくれたのはありがたかったが、何故私の寝ている横に、こいつの彼女が寝ているのだ?
そして自分のブログに、わざわざ私の画像を載せておく。
いきなり私の妻、みゆきを抱きたいと言い出す始末。
駄目だ…。どんなに考えても整理しても、私に落ち度があるのは間違いない。寝惚けながらとはいえ、河合の彼女に手を出してしまった事には変わりはない。
言いようのない自己嫌悪。ガキじゃあるまいし、何故私はあんなになるまで酒を飲んでしまったのだ……。
「さ、どうするんですか?」
「な、何をだ……」
「奥さんですよ」
「……」
「人生終わるか…。それとも一回だけ奥さんをレンタルするか……」
「……」
嫌な選択を言ってくる河合。人の妻に対し、何がレンタルだ。みゆきはものじゃないんだぞ……。
「課長、答えないなら、別にいいですよ。俺は課長のした事をするだけですからね」
「ま、待ってくれ……」
「じゃあ、一回ぐらいいいじゃないですか?」
一回とか、そんな問題ではない。モラルというものがこいつにはまったくないのか? 何を考えているのか、私にはさっぱり理解できないでいた。
自分の保身を考えるのか…。それとも妻を一度だけ、献上してこの場をやり過ごすのか。
「私一人の問題ではない……」
「バッカだなあ~…。そんなの俺が課長の家に行った時、酒で酔わせてしまえばいいだけですよ。ぐでんぐでんにね」
相手の事を何も気遣わない男。思いやりも何もない。すべては自分の快楽の為だけに、ベクトルが向いている。
「貴様…。人の妻を捕まえて、よくもそんな言い方を……」
「貴様? そんな言い方? 課長こそ俺の女の体を勝手に触りまくって、よくそんな台詞が出ますね~」
「……」
「埒があかないから、もういいです。奥さんの件は諦めます。その代わり覚悟して下さいね、課長」
「ま、待ってくれ……」
「都合いいんですよ。俺はさっきからね。自分をとるか、それとも家族をとるか…。それを聞いているんですよ。まあ家族を守ろうとしても、課長自身が終わるから、守れませんけどね」
みゆきが、この男に抱かれる……。
想像しただけで、気が狂いそうになる。
「た、頼む…。少しだけ…。少しだけ考えさせてくれ……」
必死に懇願した。河合は冷酷な笑みをしてから、口を開いた。
「何、ギャグを言ってるんですか? どっちにします?」
疲れた…。思考能力が、どんどん低下している。もう、何も考えたくない……。
五歳の時、父親は突然、私と母親を捨てて出て行った。高校に入って、母親に犯された。学校を卒業すると、母親も出て行った。
残されたのは、両親の呪われた血だけ……。
ああは絶対にならない。そう思いながら私は必死に頑張ってきた。
妻のみゆきと子供を作り、家まで購入した。すべてが順調だった。河合が家に、来るまでは……。
ずっと生まれた時から、忌み嫌われし子だと思っていた。生まれる事を望まれず、誰からも祝福されず……。
こんな私が幸せな家庭を築こうとしていたのが、間違いだったのか。
今、私が崩れたら、みゆきや卓、佳奈はどうなるのだ。
みゆきが酔って、思考能力がない時なら…。妻がその行為を分からなければ……。
「課長…。選択肢は一つしかないんですよ?」
「分かった……」
今の私は蛇に睨まれた蛙である。あがらう事も何もできず、ただ蛇に飲み込まれるのを待つだけの存在。
河合は小さな器械を取り出して、私に見せた。
「今の会話、ちゃんと録音しときましたからね」
吐き気が一気にきて、トイレに駆け込む。情けない姿で便器に顔を突っ込み、私はゲーゲー吐いた。嘔吐物と一緒に涙も流していた。
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