無職になった俺は、次にどの職業をしようか迷った。何一つやりたい事が見つからなかった。小説で食えない今、働くのは必須である。
ではどうしたらいいか……。
家でまた親父や三村が無茶をして、おじいちゃんを困らせるかもしれない。だから地元川越から離れる事はできない。
どうする?
サラリーマンには向いていない。
人に使われるのも難しいと思う。
自分自身は身勝手だけど、人から理不尽な事をされるのは嫌い。
いつも自分のしている事を多くの人に分かってほしいと思っている。
夢中になれる事には常に没頭。
ずっとそうやってやってきた。
頭の中に風景が浮かんでくる。久しぶりに俺は、その風景の絵を描いてみた。小説も書かず、数日に渡って何枚もの絵を描いた。
自分で商売をするしかない……。
地元で何をすればいいか?
バーテンダーのスキルを活かしてバーをやるか?いや、このご時勢でやっていけるのか自信がない。あれは新宿という土地柄も味方したからうまくいったのだ。
理想は暇な時、小説を書きながらできる職業がいい。
考えろ。過去やってきた事を思い出す。どうしても格闘技時代にぶつかってしまう。
待てよ……。
人の体を散々壊してきた。喧嘩で骨を折った事もある。ナイフで切られた事もあった。
人の構造。壊す事に掛けてはリアルにシミュレーションができる。しかしそれはあくまでも破壊行為に過ぎない。逆は何か?治す事だ。壊してきたからこそ、治しも分かる。
以前総合格闘技復帰する際、近所の腕のいい整体の先生から五年に渡って手ほどきを受けた時代もあった。人の治し方は、ある程度把握している。
人のいい先生だった。俺とは気が合い。当時新宿から仕事で帰ると、毎日のように顔を出した。先生は俺に自分の技を惜しみなく教えてくれた。中周波の器械も入れ、よくこれで筋肉トレーニングをした。俺からは正規の金額を取ろうとしない先生。いつも「五百円でいいです」と笑顔で言っていた。悪いからたまに「受け取って下さい」と、一万円札を置いていった。
しかし人の良さが災いし、整体の経営が行き詰まってしまう。もう四年前になるだろうか。先生は整体を閉め、連絡も取れなくなってしまった。何か事情があったのだろう。
近所のおばさんたちに、「あそこの先生、本当に腕良かったのにね~」と惜しまれていた。
「龍一ちゃん、肩凝りとか治すのうまいから、自分でやってみたら?」
そんな事もよく言われた。
マッサージのような相手を気持ち良くするようなもんじゃなく、本当に具合の悪い人を治してあげたい。それで喜んでもらう仕事っていいんじゃないか?
整体……。
もう俺が習った整体の先生はいない。連絡をしてみたが、繋がらない。ではどうしたらいいか?
決めた。俺は自分で整体を開業しよう。
患者がいない時は小説を書き、いる時は誠心誠意接する。いい仕事だ。
自分でブログにこの決意を書き込んでみた。知り合いにも言ってみた。ほとんどの人が、「いいんじゃない」と笑顔で賛成してくれた。
保健所へ行き、どうすれば商売をできるか聞いてみる。すると整体は特に免許がないので、自由に開業できるらしい。特別に申請をする必要もないようだ。
やっちまうか……。
俺はこの日から不動産を回る事にした。外に出た瞬間、大雨が降る。大きな雷まで鳴っていた。
ずぶ濡れのまま街を歩き、いい物件がないか探す。
前に技を伝授してもらった整体の先生の失敗は、二階の物件を借りた事だったんじゃないか?エレベータもなく、急な階段しか移動方法がない。元々体の悪い人が来るのだ。だから一階の物件じゃないと話にならない。
その時、暗い夜空に一陣の雷がピカッと光る。その雷の運命的なものを感じた。その方向を眺めていると、本川越駅前に空き物件があるのを見つけた。本川越駅ビルのぺぺ入口から真正面。駅の改札を出て、真っ直ぐ歩けば到着する場所でもある。俺のよく行くジャズバーはすぐ裏手だ。
ぜひ、ここを借りたい。自分でムチャクチャな考えと勢いでの行動なのは自覚していた。しかし、俺がサラリーマンをやってどうする?また不平不満を理由に辞めるだけだ。
俺は物件を管理する不動産へ電話を入れた。
十一月半ば。寒い日だった。
不動産へ電話を掛けた俺。探した物件から見える位置にあったので、俺は不動産屋へ向かう。坪数五・二坪の狭さ。見取り図も渡された。ベッドを一台置ければ充分である。
「この物件、家賃いくらですか?」
「え~とね~。十三万六千五百円だね」
「え、そんな高いんですか?一坪二万六千円もするんですか?」
「駅前で人気ある物件だからね」
こちらが年下かもしれないが客である。その客である俺が敬語を使い、礼儀を払っているというのに、この不動産のオヤジは何でこうも態度がでかいのだろう。
「もう少し負けて下さいよ」
「う~ん、無理だね~」
「じゃあ分かりました。ここ、抑えて下さい。俺、借りますから」
「結構金掛かるよ?」
「どのくらいですか?」
「ちょっと待ってね」
オヤジは電卓を取り出して叩き始める。
「そうだね。八か月分掛かるから、百万飛んで九万二千円だね」
「え~、そんな高いんですか?」
「しょうがないよ。人気物件だから。嫌なら借りなきゃいいんだよ」
こいつ、本当怒鳴りつけてやろうか。人を舐めた態度取りやがって……。
いやこれから自分で開業しようというのに、こんな事で怒ってどうする。堪えておけ。
「金を用意すればいいんですね。すぐ契約したいんですけど」
「ん~、大家には連絡入れておくから。十二月ぐらいになるかな?」
「まだ十一月は二週間残っているじゃないですか。早めにお願いしますよ」
「相談してみるよ」
「分かりました。では、よろしくお願いします」
「保証人も用意してもらって、あと審査も必要だからね」
「今日中に用意しますよ。そうすればすぐにでも借りれますね?」
俺は親戚のおじさんに保証人を頼みに行った。頭を下げ、必死にお願いした。親父に頼む訳にはいかない。あの男に何かしらの借りを作る訳にはいかなかった。
おじさんは嫌な顔をせず、保証人の書類にサインをしてくれた。心から感謝である。その日の内に不動産へファックスを送った。
整体を始めるに当たって、何が必要か家に帰って考えた。ベッドは必須。それと高周波の器械もほしい。あとは病院にある移動式カーテンみたいなやつ、パテーションって言ったっけな。
医療用品を扱っているところなんて知らないし……。
そういえば介護用品の店ならあったっけ。俺は実際に行ってみる事にした。ベッドはいくらぐらいするのか。そういったものを把握しとかなければ駄目だ。
物件は何とかなる。次に中身だ。思い立ってからすぐ開業。ムチャクチャな事をしているのは百も承知だ。しかしこの勢いで突っ走りたかった。人を治し本当の意味で笑顔にさせながら、空いた時間をす小説の執筆にも当てられる仕事。実現すれば、最高だ。
周りから見れば半ばヤケクソに見えるかもしれない。しかしどう見られようと構わない。俺の人生なのだ。やるのは俺。成功しようが、失敗しようが自分でケツを拭くしかない。
地元川越でずっと育ってやってきた。みんながどう俺に対し考えているかなど、本音の部分は分からない。今までの自分を信じよう。
三十四歳にして大きな賭けでもあった。
知り合いに医療メーカーを紹介してもらう。中周波の器械もあれば、高周波の器械もある。実際に器械を自分の体で試させてもらった。治療として使えるだけでなく、筋肉トレーニングとしても大丈夫。やり方次第でダイエットにも使えた。人間の手だけで人を治すのは限界がある。自分の手技と高周波の連動治療。
俺は二百万弱する高周波をリース契約する事にした。それとズボンのように履き、エアーによって足のむくみ、血行を良くしたり、冷え性を改善したりするエアーマッサージ機。ハイパーメドラーという器械も契約する。これで治すとかでなく、純粋に気持ちいいのだ。患者の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。案外高いもので八十万した。
うつ伏せになった際、息ができるように穴が開いた医療ベッド。これも一台十万円もとられる。医療用品は高いと噂で聞いた事あるが、本当に高いものだ。二台購入したので、単純にベッドだけで二十万である。
移動式カーテンのようなパテーション。一枚でこれも一万円。部屋の配置を考えると、最低五枚は必要だ。だからこれだけで五万円。
金が飛ぶように飛んでいく。仕方ない。自分で店を開業するとはこういう事なのだ。
メーカーの人間は、俺の事を何度も「先生」と呼んでいた。
「あの、その先生って言うのやめませんか?別に大した事をしている訳じゃなく、器械を契約しているだけなんですから」
「いえいえ、先生ですよ。白衣も似合いそうで」
「よいしょとか嫌いなんですよ、俺。神威って名前あるので、名前で呼んで下さい」
「でも……」
「お願いしますよ。先生って呼ばれると背中がむず痒くなり、気持ち悪いんです」
「分かりました、神威さん」
医療関係はこんなもんでいいか。
あとは実際に使う備品や冷蔵庫などを買いに行かねば……。
ご利益も必要か。そう思った俺は、先輩がお坊さんをやっている成田山川越別院へ向かう。この先輩とは俺が高校生時代、ガソリンスタンドでアルバイトをしている時に出会った。坊主のくせに小遣い稼ぎとしてアルバイトをしていたのだ。自分で「生臭坊主」と言っているぐらいだから、さばけた性格である。つき合いはこの頃から現在まで続いていた。
俺が成田山へ着き、受付に向かうと先輩の姿が見える。向こうも俺に気づき、隣の坊主に「あれが有名な神威龍一だぞ」とニヤニヤしながらほざいていた。
ご利益アップとして俺も受付に座り、坊主に写真を撮るようお願いする。その写真を俺はブログで載せてみた。
家に帰り、俺は絵を描いてみる。駅前の物件を見つけた時に光った雷。その様子を想像画として書き残しておきたかったのだ。
曇った空に光る一陣の雷の絵。自分で描いておきながら、しばらくこの絵を眺めた。
整体をやっている自分の姿がリアルに想像できる。白衣をまとい、患者に誠心誠意接しながら治す自分の姿を……。
そうだ。白衣も購入しないと駄目か。
トイレはウォシュレットにしよう。
自分の店の構想を考えるのは楽しみであるが、実際やるのは大変だった。
早く物件の契約を済ませようと、不動産をせっつくが、オヤジは「まだ待って」としか言ってくれない。「物件の中ぐらい見せてくれ」と言うと、事務員が鍵を持って案内してくれた。
前は金券ショップだったらしく、散らかったままである。埃の溜まった棚や、ビニール袋にまとめられた無数のゴミ。酷いありさまだ。
「契約したら、ちゃんと清掃して奇麗にしてくれるんですよね?空にした常態で?」
「ええ、それはもちろんです」
「写真撮らせて下さい。悪用はしませんから」
「構いませんよ」
数日後、ここが俺の城になる。不動産屋のオヤジの余裕ある態度が気に食わないし、心配でもあった。
「事務員さん、俺、どんな手を使ってもここを借りますからね」
「え……」
「この場所は俺が絶対に借りますから。今日俺、白のロングコート着ているじゃないですか?これって歌舞伎町時代、俺のトレードマークでもあったんです。何で今着てるかと言うと、気合い入れる時は未だに着るんですよ」
「は、はあ……」
事務員は俺の迫力に押されたのかキョトンとしていた。
サラリーマンはできない。みんなから器用だ。何でもできると言われるが、食っていく為の特殊なスキルなどない。だからここで自分の居場所を気づくしかないのだ。
一坪二万六千円以上もする十三万六千五百円の高い家賃。
他に電気代など経費は色々と掛かる。それらすべてをやり繰りしながら、やっていかなければならない。
新宿に十年いようが川越から通っていた。浅草までホテルへ仕事に行った時も川越から通いである。片道一時間半も掛けてである。俺は地元が大好きなのだ。周囲の人たちと仲良くしながら関係を築いてきた。整体をここで開業するのが楽しみである。
色々大変な事はあるだろう。覚悟はしている。自分でやるという事はそういう事だ。
契約まで必要なものをすべて揃えておこう。
とりあえずする事といったら、それぐらいだ。
俺は十一月末まで整体準備で駆けずり回った。
あと三日で十二月に入る。それなのに不動産から連絡はない。焦った俺は、不動産へ向かった。
「早く契約させて下さいって言ったじゃないですか?何でまだ駄目なんですか?」
「ですから審査があると言ったでしょ?」
金を借りる訳でもあるまいし……。
百九万二千円の代金はとっくに用意してあるのだ。中には敷金も入っている。保証人までその日の内に揃えた。それが何故、十日近く経つというのに未だ審査とか抜かしているのだろう?
不動産の怠慢にしか見えなかった。
翌日になり、不動産屋が言った。あの物件の管理は元々うちではないと……。
「管理会社へ行くので、必要な書類を明日までに揃えといて」
「分かりました」
住民票や実印証明書など必要な書類を揃え、明日に備える。
事務員が車を出してくれ、管理会社へと向かった。行き先は我が母校である富士見中学校の目の前にある『イケズ不動産』というところだった。
車内で事務員が言ってくる。
「神威さん、前に言ったような台詞は気をつけて下さいね」
「何をです?」
「どんな手を使っても借りるとか」
「だってそれはそちらがこうやって、ズルズル契約を引き伸ばしたから言ったまでです」
「でもですね」
「いいですか?俺は金を払う客。管理会社と言ってますが、ただの不動産でしょ?何で客の俺が、そんな気を使わなきゃいけないんです?まあ馬鹿な事はしないですから安心して下さい」
気まずい雰囲気のまま、イケズ住宅へ到着した。
中へ入ると、社長が俺の事は知っていると言ってくる。詳しく聞くと親父の弟、俺にとっておじさんと同級生だったらしい。これなら話は早い。契約を急かせたが、契約日は十一月三十日。十二月からじゃないと貸すつもりはないようだ。
契約を迎える前日の夜。前の会社の上司である佐山から電話があった。
千葉の支社へ転勤となったようだ。酷い事に決まったのを言われたのが、異動二日前。しかもメールで言われただけだったらしい。店長はあらかじめ知っていたそうだが、直前まで教えてくれなかったそうだ。
「最初は一ヶ月だけ本社勤務だからと言われ、川越で一年半。今度は千葉。北海道に子供いるのに全然帰れないですよ……」
気の毒に思ったが、今の俺には話を聞くぐらいしかできない。
今、神経を傾けないといけないもの。それは整体の開業である。全身全霊を懸け、精力を注ぎたい。
家の問題。親父と理解し合うのは、もう無理だろう。昔の時ならまだ良かった。やっている事がメチャクチャだったが、みんなから好かれる親父を見るのは嫌いじゃなかったのだ。ここまでの憎悪に何がこう変えたのだろうか?
三村だ…。あの女の存在が、殺しかけてしまうぐらい決定的なものにしてしまった。人のせいにするのはよくない。だが、そうでもしなければ俺の精神は持たない。
生理的に嫌いだった。昔から……。
あの女の存在を知ったのは、俺が小学三年生の頃。親父の配達につき合わされ、お客さんの家を一緒に回った。この頃親父は、まだ俺を可愛がってくれていたのだ。配達と称し、最後のお客さんの家に向かう。「ほら、龍一。おまえも降りろ」と車から出て、行った先が三村の家だった。
「あ~ら、僕ちゃん。いらっしゃ~い」
高音の猫なで声で話し掛けてきたのが最初だった。三村を見た瞬間、何故か分からないがどうも好きになれない自分がいた。三村の家へ入れられ、テーブルの上にはご馳走が並べられていた。ミートソース、ハンバーグ、ポテトフライなど俺の大好物のものばかり。
「ほら、遠慮しないで好きなだけ食べろ」
親父は笑顔で言うが、何故か喉を通らない。帰り道、ほとんど下を向いたまま黙っていた俺は、親父に殴られた。長男である俺を三村になつかせようとした。それを失敗したのが気に食わなかったのだろう。これで俺は、さらに三村が嫌いになった。
今思えば、これが因縁の始まりだった。
あの様子じゃ、お袋が家にいた頃からつき合いはあったはずである。
小学六年生の時、盲腸で入院した。動けない俺がクソをすると、親父はケツまで拭いてくれた。情けないやら恥ずかしいやらで何も言えなかった。でも感謝だけはした。夜中寝ていて、ふと目を覚ます。誰かが俺の額に手を当てたからだ。化粧品臭い手の匂い。目を開けると、そこには親父と三村の姿が見えた。
「あら、起こしちゃったかしら」
三村のキンキン声が響く。俺はそのまま目を閉じ、寝たふりをした。
六年前の総合格闘技に出る前日に起きた騒動。親父が昔からつき合ってきた三村を捨てようとした日でもある。親父の考えより、三村はしぶとかった。一緒に連れてきた女を蹴散らした。それから親父は三村から怯えるように逃げ回った。
俺が新宿から帰ってくると、いつも家のすぐそばで三村の車が停まっていた。俺の姿を見ると、「龍ちゃん、お父さんは?」とワンパターンのように繰り返し聞かれる。ほど毎日こんな調子だった。うんざりした俺は、いつからか三村を無視するようになる。
おじいちゃんは世間体を気にするので、三村の行動を非常に嫌がった。
弟の龍也は、「また三村の奴、張り込みしてたぜ?」とブツブツ言っていた。
近所の人たちと酒を飲むと、決まって三村の話題になる。まだこの頃ストーカーという言葉がメジャーでなかった時代だ。
「ねえ、聞いてよ、龍一君。私なんかさ、お父さんに頼まれて、俺の部屋の窓際に立ってくれって。何でか分かる?」
「いえ」
「三村さん、いつもあそこで見張っているでしょ?だから私を窓際に立たせる事で、女性のシルエットになる訳でしょ。それで頼んできたの」
こうまでして親父は一時的に三村を拒絶していたのだ。
町内の人が集まって飲んでいる店に三村が姿を現すと、「Mが来た」とみんな逃げたそうだ。このMの由来。三村の名前は『弥生』。弥生は三月。英語にすると、マッチ。その頭文字を取って、Mと呼んでいたらしい。それだけ町内の人からも嫌われていた訳だ。
それなのに親父は何故、あんな女と結婚したのだろう?不思議でしょうがなかった。何かの弱みを握られたのか?そうでもないと、あの豹変振りは理解できない。
いくら考えても答えなど出るはずがない。親父と冷静に話せる関係ではなくなってしまっている。その謎は半永久的に分からないままなのだ。
解決できない事を無理にしようとしても、時間の無駄だ。俺は開業準備の為、頭を切り替えた。
物件契約の日がようやくやってきた。指定された金額も用意しているので、スムーズに交渉は決まった。不満なのが、事務員へ家賃の値下げを伝えてくれと頼んでおいたのに、まるで無視された点である。まあこの状況でジタバタしても仕方ない。
帰り道、管理会社のイケズ住宅には、明日までにキチンと中の清掃をお願いしますと言っておいた。前に物件を見た時と変わらず、何一つ掃除をした形跡がないのだ。
「いや~、前の借主がなかなかやってくれないんですよ」
「あのですね。何の言い訳にもならないですよ?明日の十二月一日に切り替わった瞬間、俺に権利があるんですから。俺には何の関係もないじゃないですか」
「でももう夕方だし、せめて明日のお昼まで待ってもらえません?」
「俺はですね、医療機器メーカーにも器械を頼んであるし、明日の十時には整体に到着予定なんですよ?何の為に今まで契約を遅らせてきたんですか?」
金を取るだけとって、やるべき事は何もしない。明日から本当の意味で開業準備となるのに、これではさすがに文句も言いたくなる。
「まあそうなんですけど……」
イケズ住宅の社員が困った表情で煮え切らないので、しょうがなく俺は医療機器メーカーへ電話をした。明日十時に高周波やベッドを持ってくるのをお昼にと無理を言う。客である俺からの願いなので、メーカーは渋々了承せざる得ない。
翌日朝の九時頃、物件に行くと、何も片付けた様子がなかった。怒った俺はイケズ住宅へ電話をし、呼び出す。
「何で全然やらないんですか?もう十二月一日ですよ?いい加減にして下さいよ。無理言って俺が昨日メーカーに電話して、到着時間を遅らせたの聞いているでしょ?」
「もうちょっとしたら、職人が来ますので」
初日からふざけた真似しやがって……。
この社員を殴りたかったが、とりあえず我慢した。五・二坪の狭い物件なのに、何故早くやらないのだろうか?不思議でしょうがない。
一度家に帰り、十一時頃また整体へ向かった。ようやく清掃が始まったようで、中にはギッシリとゴミがある。イライラが増した。
しばらくすると、前の借主である金券ショップのオーナーがトラックで荷物を引き取りに来た。俺は不機嫌さを隠さず、「このままじゃ困るんですけど?」と嫌味を言う。
「すみません、すみません。すぐやりますから」
腰が低いのでそれ以上文句を言わず、俺も片づけを一緒に手伝った。お昼になり、医療機器メーカーの車が到着する。まだ中に物を入れられる状態じゃないので、俺は平謝りに頭を下げた。
「先生、どうなってんですか?全然片付いていないじゃないですか」
その台詞を俺がイケズ住宅に言いたかった。それに先生と呼ばれるのは嫌だと言ったのに。まあ今回は俺のせいではないが、こちらの落ち度である。誤魔化すように「焼肉でもご馳走しますから」と二階にある焼肉屋へ連れて行く。自腹でご馳走し、機嫌を直してもらう事にした。
食べ終わって下へ戻ると、中は空になっている。金券ショップのオーナーは何度も頭を下げ、「もし何かほしい物があれば自由に使って下さい」と言うので、テーブルや椅子、そして棚をもらう。「私、腰が悪くてですね。近い内お邪魔させてもらいますよ」と調子のいい事を言っていたが、結局彼は一年経っても来なかった。完全な社交辞令である。
ベッドや高周波を運び、奇麗に並べる。しかし物件の中が酷過ぎた。壁はヤニで薄汚れ、床はコンクリートのまま、タバコの焦げ跡があちこちにある。話にならないのはトイレだった。便器に溜まる水は濁った黄土色に染まり、何度水を流しても奇麗にならない。
イケズ住宅に文句を言い、壁紙とカーペットを新しくするよう伝えた。トイレの件も言うと、「歯ブラシみたいなもので擦れば落ちますよ」と言われ、トイレはこの日、一日掛けて掃除をしたが、まったく奇麗にならなかった。
あとになり、「やっぱりブラシであまり擦らないで下さい。便器に傷がつき、余計に汚れてしまうので」と電話があったので、俺は、「おい、うちは整体をやるんだぞ?あんな汚ねえ便器で商売できるかよ?便器ごと交換しろよ!」と、さすがに最後の最後で怒鳴ってしまった。
十二月二日。壁紙やカーペットの種類を決め、発注する。
俺は家に帰り、看板のデザインを考えた。
まず整体の名前だ。分かり易く『神威整体』に決める。パソコンを起動し、レイアウトを考え色々作ってみた。
変わった感じにしたかったので、右から左に掛けて『神威』。下に『整体』と判子を押したようなデザインにする。看板を見た人が一瞬、「何だ、こりゃ?」とじっくり眺めるように意味を持たせたつもりだ。フォントは『昭和モダン体』が一番しっくりきた。珍しい自体であるが、自分の好きなようにしたい。
早速看板屋へ頼むと、『昭和モダン体』のフォントがないと言われる。開業日を四日と決め、ネット上でも告知していた俺は、仕方なく断念しなければならなかった。
足りない買い物をしに駆けずり回り、時間だけが過ぎていく。
しかし忙しいのはいい事だ。あれだけ憎しみを感じた親父や三村を思い出す暇さえない。
道を歩いていると、三十歳からピアノを習った先生にバッタリ会う。この先生とも五年近くのつき合いになる。本当に時が経つのは早い。市民会館でピアノ発表会をやってから、三年も経ったのだ。
「オープンする日にちが決まったら、教えて下さい」
「とりあえず明後日の四日ですよ。でもそんな気を遣わないで下さいね」
俺は簡単に挨拶だけ済ませ、買うものを整理してみた。
電話の権利も買わないと話にならない。
整体用のパソコンも必要だ。俺は久しぶりに新宿へ向かい、パソコン本体、スキャナー付きプリンターを購入。ラミネートする器械も必要だ。光沢紙も。電気屋へ行き、冷蔵庫、オーブントースター、電子レンジ、電話機を買う。
立地条件は駅前なので、文句なし。あとはどう宣伝をしていくかだ。
自分の店だ。好きなようにしたい。今まで描いた絵や小説をプリントアウトし、整体へ飾る事に決める。
『十二月四日よりオープン』と書き、入口の扉へ貼っておく。
治療料金はどうするか?
相場は三十分三千円で、六十分五千円から六千円。俺はクイック整体として二十分二千円。三十分で三千円。一時間で五千円と決めた。
料金表を作り、印刷をする。ラミネートを掛け、いつでも外に貼り出せるようにしておく。この整体の名刺のデザインもしないといけない。自分でデザインし、知り合いの印刷屋へ発注する。
この一ヶ月で非常に金を吐き出した。どうやって回収するかだ。自分の店である。しばらく休みを取るのはやめよう。正月も近いが、それも返上。
高周波があるから、ダイエットコースも作ったほうがいいだろう。料金設定が難しい。エステなどである低周波によるダイエット。大した効果もないのに、いい値段を取っているのだ。ぼったくりな商売はしたくない。なので整体と同じ料金設定にした。
次に客層だ。飲み屋のお姉ちゃんがよく来る整体にすれば、自然と男性患者も増えるだろう。
俺は夜になると、キャバクラやスナックなどの飲み屋を六軒ほどハシゴした。「整体をこれから開業するんだ」と公言しながら飲み歩く。
「ねえ、店終わったら飲みに行こうよ?」と誘ってくる女もいたが、下手に知り合いにでも見られたらマイナスイメージにしかならない。「落ち着いたらね」とだけ答えておいた。今回の目的は女を口説く事ではなく、神威整体の宣伝なのである。
最後に行ったキャバクラでは、当時俺のプロテスト入りを壊した同級生が飲んで酔っ払っていた。嫌な奴に会ったものだ。向こうは俺を見るとビクビクしながらも、「い、一緒に飲まないか」と機嫌を取ってくる。冷酷な視線を浴びせながら俺は「消えろ」とだけ言った。これで運が落ちなければいいが……。
金だけがどんどん目減りしていく。
十二月三日。明日で開業だ。やりだけはやった。あとは発注したものが届くので、徐々に手直ししていけばいい。
地元でする初めての商売。ワクワクした。準備段階でたくさんの知り合いが顔を出しに来てくれた。ひと通り現段階で準備を終えた俺は、整体のすぐ裏側にある行きつけのジャズバーへ行った。
ここで流れるノンヴォーカルのジャズを聴きながら、ウイスキーを飲み、マスターこだわりのアイスコーヒーを飲むのが大好きだ。
気がつけば、ここに九年は通っている。酒を嗜みながらゆったりと過ごすのは、自己を振り返るにあたってちょうどいい。だからセッションがある生演奏の混み合った日よりも、客がほとんどいない空間の通常営業のほうが好きだった。
たまに会話をする常連客。あくまでもこの場で偶然会うから話すまでで、それ以上のつき合いはない。基本的に一人が好きなのだ。孤独とは寂しいもので、人間が成長し老いる過程の中で一番やっかいなものでもある。人間一人でいられても大丈夫なように作られていないからだ。偉そうにこんな事を考えている俺も、一人でいるのが辛く寂しいから、このようにジャズバーへ来ている。
以前三つ下の常連客と接するようになった。よくお互い顔を見合わせていたが、礼儀のしっかりとした好青年だったので、こちらも自然と会話をするようになっていたのである。
彼の名は『木崎修也』。大手IT系企業に勤める三十三歳の独身。
この日もたまたま飲みに来ていた。
「神威さん、ちょっとお話が」
木崎は飲んでいたビールをカウンターの上に置き、真剣な表情で声を掛けてくる。
「何でしょう?」
「いや、あのですね。よく神威さんってここへ、色々な女性を連れてくるじゃないですか?」
当時新宿歌舞伎町で裏稼業をしていた俺は、同世代と比べると話にならないぐらいの金を稼いでいた。金があれば、それだけで女には必然的にもてる。思い違いをしていた俺は、休みの度に違う女を連れ歩いていた。自分のアクセサリー代わりに、女性と接していた時期でもある。
「随分前の事を言いますね。それが何か?」
「お恥ずかしい話なんですが、実は私、今まで彼女というものができた事がないんですよ」
俺は彼の顔をまじまじと見た。男から見ても、そこそこの外見。身長もあるし、仕事だって誰に言っても恥ずかしくない事をしている。その彼が何故、今まで彼女ができた事がないのか不思議だった。
「本当に?」
「ええ、いいところまではいくんですが……」
木崎修也のこれまでの人生について、そこまでの興味はない。しかしそんな彼の女性癖には少しばかりの興味を覚えた。
「いいところまではと言いましたが、俺で良ければ聞かせてもらえますか。そのエピソードを」
木崎は周囲を見渡し、小声で口を開く。
「ここじゃ話し辛いので、場所を変えませんか?」
常連で来ている彼にとっては格好のつかない話でもある。その気持ちは分かった。
「じゃあ先に俺はチェックして、外で待っていますから」
俺はそれだけ言うと、マスターに勘定を済ませジャズバーから出て行った。
外へ出ると吐く息は白く肌寒い。もうじき冬になろうとしていた。五分もしないで木崎が出てくる。
「すみません、お待たせしまして」
「場所を変えないと、言い辛い話なんですか?」
「ええ、あそこで話するにはちょっと」
俺たちは近くのバーへと移動した。
「ドライマティーニを」
「私はビールを」
個々に酒を注文すると、彼は早速話を切り出した。
「前にイベントで知り合った子がいましてね。その子とは何度か食事に行き、もちろん私の気持ちも伝えてあります。だけどその子は彼氏という訳じゃないけど、私と同じような立場の男がもう一人いるらしく……」
「でも何度かデートをそれでも重ねてはいるんでしょ?」
「ええ、それで急に彼女が向こうを選ぶと言い出しまして」
「う~ん、原因は?」
「分かりません」
これだけの状況じゃよく分からないが、何となく分かった事がある。俺はそれを確かめてみようと思った。
「その子にキスぐらいはしましたか?」
「いえ、タイミングと言うか、なかなか合いませんでして」
なるほど、これでハッキリした。
「分かり易く言えば、木崎君は判断力に欠けている。だから獲物…、あえてその子を獲物と呼ばせてもらうけど、途中で逃げられたんですよ」
「え、どうして……」
「まず一つ言える事は、男と女がプライベートに一対一の状況を作ってくれる。口に出さないまでも、セックスというものは意識します。実際に木崎君、その子と会う時それを意識はしてたでしょ?」
「え、ええ、まあ……」
「それに関しては、向こうも同じだと思うんですよ。実際にセックスするかどうかではなくね。それにお互いが好意を持っていなければ、そのようなシチュエーションは成り立ちません」
「それはそうですね」
「この件に関して言えば、数回デートを重ねたのに何もそれをアピールしなかった木崎君が悪い。多分、もう一人の相手が野獣になって彼女の心を射止めたのでしょう」
「そんな」
「俺の感覚で言えば、デートなんてセックスの始まりですよ。それをいつまでもじらすから、こういう事になったと思います」
「でも彼女は……」
「その辺が女って生き物の難しいところなんですよ。要はうまくいくタイミングを自分で知らない内に逃していた訳です」
彼は感心したような表情で俺を見ている。もっと話をしたかったようだが、明日は開業日である。俺は彼と別れ、寝る事にした。
十二月四日。神威整体開業日がやってきた。
この日は身内や知り合いがドッと押し寄せ、祝い金や花をもらい、たくさんの人たちと話をしている内に一日が終わった。
この中で唯一不機嫌な事は、憎き三村が来た事だ。ノックもせずドアを開け、「まったくあなたは偉いわ。どっかの誰かさんみたいに保証人なってくれとか来ないし、自分の力でやってんだもんね」と訳の分からない事を言っている。
そして「はい、これお祝いね」と祝儀袋を渡してきた。当然俺は「入りません」と言う。「お父さんからだから」と食い下がる三村。「結構です」と俺。「中身は私からだから」と三村。「なら余計に入りません」といった押し問答を繰り返す。結局三村は祝儀袋を投げ捨てるように置き、去っていった。中身を見ると、一万円しか入っていなかった。
こんな金額を渡すぐらいなら、はなっから来なければいいものを……。
今まで引っ張ってきた因縁が、こんな形でチャラにできると思うなよ。俺は三村が置いていった祝儀袋をそのままゴミ箱へ捨てた。金を粗末にするのは良くないというぐらい承知している。しかし時には例外だってあるのだ。いくら白い目で見られようと、俺の考えは変わらないだろう。
今日はお祝いの日。本当の本番は明日以降からである。
夜になれば、営業代わりに川越の街を彷徨い、飲み屋へ行く。
長距離で有名な商店街クレアモールを歩いていると、中国人の女の客引きが「お兄さん、マッサージ、マッサージ」と声を掛けてきた。
「いいよ、間に合ってるから」
素っ気なく断り歩いていると、その女はしつこくあとをつけて「マッサージ、マッサージ」と繰り返してくる。
ウザかったので、俺はその女を肩で担ぎ上げ、「そんなにマッサージって言うなら、俺の整体に来やがれ」と強引に神威整体へ運んだ。
「いや~、降ろして~」と背中をポカポカと叩きながら叫んでいたが、俺も酔っていたので周囲など何も気にしなかった。
整体につくと、中国人の肩を触った。寒い時期に立ちっ放しの仕事である。非常に肩が凝っていた。
「私、仕事中ね。もう行くよ」
「うるせー!目の前に交番あるんだから、でかい声出すなよ」
「私、帰るね」
「安心しろ。変な事しないから。肩を楽にしてやるよ。一切金はいらないぞ。暖かいお茶でも飲むか?」
白衣に着替えると、安心したのか中国人女は大人しくなった。
高周波と手技と使い、肩の凝りをほぐしてやる。足の長さが若干違うので調整し、骨盤のずれを治す。
「お兄さん、すごいね。私、体楽になった。お金払うよ」
中国人女はグルグル両腕を回しながら喜んでいる。
「いいよ、いいよ。俺が勝手にやったんだから。その代わり、君のところに来る客に宣伝しといてくれよ」
「OK、OKね。私、ちゃんと紹介する」
「ははは、ありがとう」
彼女が道端で声を掛ける「マッサージ、マッサージ」が、如何わしいものなのは分かっていた。ただ実際に行った事がないので、リアルにどんな事をしているのか分からない。
「ねえ、君のマッサージってどんな事をしているの?」
「私、お客さん捕まえる。店に連れて行けば千円ね。一日五千円だから五人連れて行けば、一万になるね」
「いや、そういう給料的なものじゃなくさ。マッサージ内容って?」
「一時間一万と、一万五千円ある。一万円、マッサージ。あと手だけね。一万五千円、マッサージ。あと本番ね」
「思い切り違法じゃねえかよ。どのくらいやってんだ、商売は?」
「う~ん、五年はやってるね」
道路一本超えただけの近距離で、よくそんな商売をやるものだ。川越は風俗に関して非常にうるさい街である。以前ファッションヘルスができた事があったが、一ヶ月もしないでパクられたぐらいである。世界各国にチャイニーズタウンがあるが、中国人のすごさが少しだけ分かったような気がした。
「だから私、おまわりさん来るか、ちゃんと見張ってるよ」
「そういう問題じゃないけどな…。まあいいや。せっかく日本に来たんだ。つまらない事で捕まるなよ?」
「おお、気をつけるね。ありがと、ありがと。私、仕事中ね。そろそろ行くよ」
「ちょっと待って。これ、持ってきな。外は寒いだろ」
俺は来客用に買っておいた使い捨てカイロを二つ渡した。
「お兄さん、いい人ね。ありがと、ありがと」
「パクられるなよ」
「大丈夫。頑張るね」
こうして神威整体の初日が終わった。
開業二日目。知り合いは顔を出してくれるものの、肝心の患者が来ない。始めたばかりなのだ。仕方がない。俺は暇な時間、小説をひたすら書いていた。
夜になって見知らぬ中年男性が入ってくる。
「やってんの?」
「ええ、どうしましたか?」
「いや~、一ヶ月ぐらい前なんだけどさ。車運転してて、横から激突されちゃってね。俺の車三回転ぐらいしたんだ。その時左肩を強く打って、肩から上にあがらないんだ。医者も毎日行っているけどね」
「ええ、それは大変でしたね」
「で、あそこの商店街のところで客引きしている中国人のお姉ちゃんいるでしょ?」
「え?」
「ほら、マッサージって通行人に声を掛けてる子」
「ああ、はいはい」
昨日俺が、拉致同然にここへ連れてきた中国人女だ。
「あの子がさ、肩痛いならここ来ればって言うからさ」
「……」
冗談で言ったつもりなのに、本当に宣伝してくれていたのか。俺は中国人女に感謝を覚えた。
「あれ、黙ってどうしたの?もう終わり?」
「いえ、肩より腕が、上にあがるようになるまでやらせて下さい」
「頼むよ。どこ行っても駄目でさ」
俺は患者の痛む患部を診て、様々な治療法を試した。体の奥まで指を入れるには限界がある。こういう時こそ高周波の本領が発揮されるのだ。
手技で『二点療法』というものがある。これは痛むところを指で押さえ、別の経絡を押してそこの痛みを感じなくさせる方法だった。体はすべての場所に通じ合う箇所があり、その経絡を押すと、痛みが最悪でも治まるのだ。コツは指先で、相手の血の流れを感じ取れるかどうか。この辺の感覚はバーテンダー時代の決め細やかな作業に通じるものがあった。
痛みを引き起こす箇所をトリガーポイントと言う。
例えば脇の下。この箇所は色々な筋肉の繋ぎ目である。首、背中、腕、胸などすべての筋肉が脇の下と繋がっている。肩が凝っている人の脇の下を押すと、大抵が痛がるはずだ。言い方を代えれば、ここを治すとそれだけで楽になるケースもある。
左脇の下を右親指で押さえ、痛がる患者。トリガーポイントだ。この時肘より下の部分、総指伸筋というところを左親指で押さえる。人によって微妙に場所は違うが、そこの経絡を押さえる事で脇の下の痛みはかなり引く。その右親指で押さえた場所をグリグリ動かしマッサージをするのだ。すると血流が良くなり、脇の下を押さえる辺りまで血が流れ込む。血行が良くなれば、凝り固まっていたものが自然とほぐれる。
俺はこの二点療法で押さえる指の部分に高周波をつけた。電気を流し、さらに指で悪い箇所を見つける。高周波の二点プラス指を加えた新しい療法。『三点療法』と名づけ、得意技にしていた。
医者は知識があるが、原因が分かっても一回で治そうとする人は少ない。俺は医者ではない。だからこの一回で治すぐらいの気構えで患者に接した。
「あれ? 肩より上に腕があがっているよ? 先生、大したもんだ」
患者は嬉しそうに腕を上げ下げしている。一時間半ぐらい時間を掛けた甲斐があったものだ。
「それは良かったですね」
「何で? 何回も医者にも行ったし、接骨院だって行った。でも、こんなに腕が上がる事なんて一回もなかったぞ?」
「だから私がこうやって整体を開業したんじゃないですか」
「申し訳ないなあ…。あ、先生、いくらだい?」
「えっと五千円ですが、新規キャンペーン中ですので三千円でいいです」
「一時間半もやってもらって、何を言ってんだよ。先生、少ないけど取っといてくれ」
そう言いながら患者は一万円札を手渡してきた。
二日間で患者が一人。それでも充分過ぎるぐらい嬉しかった。こうやって心を込めてやっていけば、いつか報われるさ。
嬉しそうな表情で出て行く中年患者を見て、俺は深々と頭を下げた。
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