歌舞伎町のおぞましい光景。
以前見たテレビでこの街を映し出していたが、俺が見た限り、その番組は大袈裟だった。本当の怖さは、世間一般じゃ知らない場所で静かに行われているというところなのだ。
抜きがバレた時の恐怖……。
哀れにも顔面をグチャグチャにされている岩崎。
まだ彼は、鳴戸にやられているのだろうか?
このことを誰かに言ったところで、「店の金を抜いていたんでしょ?じゃあ、しょうがないんじゃない」と軽い言葉が返ってくるだけだろう。
ただ単に店の売り上げから、金をちょろまかした従業員に、オーナー自らが制裁を加えているだけとしか捉えてくれない。
この街では真面目に生きるだけで、いやそう見えるだけで一つの武器になる。それだけここには悪い人間が多くはびこっているのだろう。すでに、俺もその中の一人だ。
岩崎は一体、どうなるのだろうか……。
狭いゲーム屋から開放されたからか、全身から汗がドッと吹き出す。
岩崎がどうなったのかを考えていたら、気付くと家の前にいた。
考えたところで、何ができよう……。
自分の身を案じ、その場から逃げただけの俺。卑怯で臆病者。
疲れた……。
非常に疲れが溜まっている。
今、何時ぐらいだろう。
携帯を見ると、沢山、泉からの着信履歴があった。着信拒否を解くのを忘れていた。でも、今は泉のことまで考える余裕がない。
携帯を投げ出し、布団の上に横になる。自分が本当に何者でもない無力な弱者だと、痛感した。あんなになってまで俺を庇った岩崎の心理状態が、理解できなかった。
ホモで俺を求め、気に入っていたからなのか……。
あの最後に見た岩崎の目は、俺の安全を確認できて良かったといった感じの目つきだった。
その心境は、永遠に俺には理解できないだろう、そんな気がする。
結局のところ、俺はホモの岩崎に救われたのだ……。
俺は明日、またあそこへ行かなければ…、出勤しなければならないのか……。
俺一人がダークネスに行って、何ができるというのだろうか?
急に吐き気を催し、トイレに駆け込む。胃の中にあった物を全部吐き出したが、まだ何か残っているみたいだ。
ここ数日で、色々な出来事が起こり過ぎた。精神的に参っていた。まるで悪夢の中にいるみたいだった……。
頭が痛い。
傷も疼きだしてくる。
今朝、遠藤からもらった頭痛薬を飲んでみる。目を閉じて横になっていても、痛みが消えることはなかった。
隼人からの着信履歴があった。さっきまでお風呂に入って、携帯をチェックもせずに買い物へ行った自分を呪う。
買い物から帰ってきて、着信に気付いてすぐに連絡したけど、隼人はまだ私の番号を拒否にしている。
当たり前だ。あの時の隼人の目つきは、私を一生許してくれない…、そんな感じだった。
今頃、隼人は、仕事頑張っているのかな。もう私のことなんて何にも思ってないのかな。
でも、この着信履歴は何の為だったの?
密かな期待を胸に抱いてしまう。携帯から目が離せない……。
電話が鳴りそうな気配がして急いで携帯を取る。隼人かもしれない……。
微かな振動を感じ、相手が誰か確認もしないで、通話ボタンを押した。
「あっ…、この間はどうも」
声の主は、斉藤だった。かなりガッカリくる。
「はい、何の用ですか?」
自然と声も対応も冷たくなってしまう。
「いや…、あの時、いきなり不意打ちで僕、殴られちゃったでしょ?急にで状況つかめなくて、気付くと星野さんあの場所にいなくなってたから…。心配だったんだ」
「私は問題ないです。斉藤さんこそ怪我、大丈夫ですか?」
「うん、ただあの赤崎って奴はさ、知り合いに頼んでお礼させないとね。こう見えても僕って顔が結構広いんだよ。他にもそういう関係の知り合い、いっぱいいるしね」
ほんとにくだらない男だ。口で顔が広いと自慢して、他人に頼んで何とかしてもらうのが格好いいと思っている。
隼人は完全な一匹狼だった。喧嘩っ早いが、全部自分で何とかしてきた。単純に比較して、どっちが男らしいかは、一目瞭然だった。
「あのー…そういうのって、やめたほうがいいんじゃないのでしょうか」
「いやー、彼には僕の力ってものをね……」
何の力があるというのだろう。声を聞くのも嫌だった。
「すいません、切りますね」
「えっ、星野さ……」
プツッ……。
私は通話を切った。その後も斉藤はしつこく電話を掛けてくるので、携帯の電源をオフにした……。
目が覚める。
昨日ダークネスに出勤しようかどうか悩み、そのまま寝てしまったようだ。
すっかり頭の痛みは治まっていた。本音をいえば、もうあそこでは働きたくなかった。とりあえず、辞めるにしても、履歴書で俺の情報は知られているので、ちゃんと筋を通して辞めないと、あとあとが怖い。
鳴戸の狂気じみた性格を考えると、何をされるか分からないという恐怖を感じる。俺は心底、鳴戸にビビっていた。
出勤時間が近付いていたので、仕方なく新宿へ向かうことにする。足どりが、非常に重い。
電車の中でどう言って辞めるかということばかり考える。
このまま逃げ出したかったが、そんなことをすれば鳴戸が何をしてくるか……。
想像しただけで、嫌になってくる。正攻法で堂々と言うしか、方法は残されていないのかもしれない。
考え事をしていると、あっという間に電車は新宿に到着した。
ダークネスのある通りまで来ると、さらに足取りが重くなる。
ピンサロの遠藤も、もうあの場所にいない。歌舞伎町に来て、たったの一ヶ月で自分を取り巻く状況が、こんなに変わるなんてまったく予想もつかなかった。
とても気が重い状態で、杉沢ビルの階段をゆっくり上がる。今の俺には鳴戸が店に来ていないのを願うばかりだった。恐る恐るドアのチャイムを鳴らす……。
水野がドアを開ける。店内をさりげなく見ると、鳴戸はいないみたいで、ちょっとだけ安心する。
「おはようございます」
「うむ、おはよう。昨日は色々と大変だったみたいだなー」
「え、ええ……」
正面の壁には、まだ赤い血がこびりついていた。岩崎の血だ……。
「参ったよー…。昨日の夜になって新堂も田中も、ここをいきなり辞めますって言いやがるんだよ。まあ、一応はとめたけどね。赤崎君はそんなことないよな?」
「えっ…、は、はぁ……」
「ただ確定した従業員が君一人で正月も近いし、その間はちょっと店の営業を閉めようと思うんだ。その間に新しい従業員入れてね」
「そ、そうなんですか」
「でも、岩崎の野郎…。一体、いくら抜いてやがったんだ、ちくしょう。赤崎君も不審な点あったら、ちゃんと言ってくれよって、あれほど頼んでたのに……」
「すいません…。でも自分には全然分かりませんでした。まだ入って一ヶ月ぐらいで……。本当に申し訳なかったです」
「まー、君にこんなことを言っても仕方がないか……」
相変わらず水野は大ボケ野郎だ。少し演技するだけで、コロッと騙される。それでいて変に金にセコイし、汚い……。
鳴戸相手だったら、こうはいかないだろう。
ここへ鳴戸がやって来たら厄介だ。長居は無用だ。今、ハッキリ辞めるとカタをつけるのが懸命だ。
「水野さん…。ここ、しばらく閉めるんですよね?」
「だって、しょうがないだろう」
今だ。このタイミングで言うしかない。
「……すいません、俺……。辞めさせて下さい」
「おいおい、いきなり何を言ってんだ?」
水野が慌てて席を立ち上がる。こいつだけなら楽勝だ。
「昨日の件とか見ていて、正直、怖いです…。自分には勤まりません。今まで大変お世話になりました」
言うだけ言って、深々と頭を下げた。
「いやー、考え直しなよ、赤崎君。君みたいな真面目な人材が必要なんだよ。本当ロクなのがこの街はいないからね。もちろん給料だって上げてあげるし……」
水野の台詞に何の興味も持てなかった。岩崎に散々金をもらってきた。今さら、こんなしけた奴に千円、二千円の日払いを上げてもらい、へつらって生きるのはごめんだった。それにここにはあの恐ろしい鳴戸もいる。出来れば、もう関わり合いになりたくなかった。
俺は水野の目を見て、もう一度、ハッキリと言う。
「すいません。お気持ちは非常に嬉しいのですが、自分にはもう無理です。今までお世話になりました」
「赤崎君…。鳴戸君も君には期待しているんだよ」
「すいません…。無理なんです」
「そうだ、お腹減ってないかい?これからさ、うまい焼肉でも食いに行かないか?」
「大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした」
俺は頭を下げ、そのまま店を出ることにした。水野は、呆然と俺を見送る。
歌舞伎町に来て一ヶ月。
初めての店、ダークネス……。
本当に色々なことがあった……。
店を出ると、すぐに階段を駆け降りる。鳴戸とは、絶対に顔を会わせたくなかった。
外へ出て財布をチェックすると、十七万入っている。このまますぐに帰るのも、ちょっと味気ない。しかし、風俗に行く気分でもなかった。
たった今、無職になったのに不思議と気分はスッキリしている。
岩崎はどうなったろう?
気になりだすと、いても経ってもいられなくなる。岩崎の携帯に電話を掛けてみることにした。
「お客さまのお掛けになった電話番号は、現在使われていません……」
無情にもコンピューターのアナウンスが鳴り響く。気になるが、今の俺には何も出来ない。知る術も手掛かりもない。
あのいやらしい笑みで俺の左手に自分の右手を重ねてきた岩崎。今にして思えば、不思議な男だった。知り合ってたった一ヶ月で、俺に八十七万もの金を与えて行方不明になった。
一度ぐらい望み通り、相手してやれば、良かったのか……。
想像して身震いする。やっぱり俺には無理な話だ。
同情はする。でも、それとこれとは別問題だ。
さくら通りを歩き、一円のゲームの看板を見つける。
そういえば俺は、客としてゲーム屋へ行ったことがない。自然と足が向き、中へ入る。
「いらっしゃいませ!当店のご来店は初めてですか?」
店員が話し掛けてくる。中は結構奥行きのある広い店で、二十卓ほど台があり、そこそこ客も入って賑わっていた。ビンゴのシステムも、ダークネスとは全然違った。
「はい、初めてです」
「組関係とか、そちらの方は大丈夫ですか?」
店員が、組関係お断りと細かく書いてあるボード板を指して、聞いてくる。俺が組員に見えるのだろうか。ちょっとおかしくなる。
「違いますよ」
「はい、では台の説明がですねー……」
「分かるから大丈夫ですよ」
俺は適当に空いている台に座る。財布から二千円を取り出すと、店員に渡す。
「ドリンクはコーラで……」
「はい、かしこまりました。十六卓さん、ご新規二本です」
「はいっ」
何人、店員がいるのだろう。数えてみる。四人の店員が一斉に揃えて大声を出していた。店のコールもダークネスと違い、気合いが入っている。
俺はゲームに集中することにした。最初の新規サービス込みの五千点は、すぐに溶けてしまう。
ダークネスに来ていた常連の小倉さんの様に、一度もテイクしないで、格好つけて打ちたかった。しかし格好つけているつもりでも、五万円が一気に台に吸い込まれると、さすがに熱くなってくる。なるべく表情に出さないよう努めた。
いきなり画面上で、Kの四カードが揃い、台が点滅しだす。
「はい、十六卓さん少々お待ち下さい。そのままで少々お待ち下さい。はい、十六卓さん満タンキングの四カードです」
「はい、こちら四カードビンゴ完成でプレミア二万ポイントです。プレミア二万ポイントボード、OKです」
たまたま揃った四カードがビンゴだった。
ご祝儀の二万円をもらう。
俺はダブルアップを押す。すると「×五」とトランプの裏に表示してあるカードが出てきた。
これを当てれば、六千の五倍だから一気に三万になり、今までの負けを取り戻せる。迷ったが、ビックを押した。ハートのJが出て、一気となった。画面が赤く点滅して、派手な音を出し始めた。店員が、俺の台を確認して叫ぶ。
「はい、十六卓さん、やりました。一気の決まり手ハートのJで、一気ビンゴ完成、プレミア五万ポイントです。プレミア五万ポイント、ボード、OKです」
ビンゴを見ると、たまたまJでリーチになっていて、ハートが出れば、ご祝儀五万だった。
「おめでとうございます」
さすがに興奮してくる。一気に全部で十万の金を手にする。その後、調子良くなり、一気を飛ばし続けた。
終わってみれば、十三万も勝っていた。丁度、財布の中は三十万になった。僅か、二時間ほどの時間で……。
店員にありがとうと、お礼代わりにチップで一万円を渡す。
「いやー、受け取れないですよ」
「いえ、本当にこんな勝たしてもらって申し訳ないです」
「勝つ時もあれば、負ける時もあるのがポーカーですから……」
「それは分かりますけど、俺の気持ちです」
俺の熱意に押され、店員は渋々一万円を受けとってくれた。俺はお辞儀して店を後にする。
さっき、一万円チップを渡したから財布は二十九万、家の引き出しに七十万がある。合わせて九十九万の金額を、俺は持っていることになる。
初めてポーカーをやって二時間ほどで、こうまで増えてしまい、正直笑いが止まらない。ポーカーにハマる客の心理状況が、少しだけ理解できたような気がする。
生まれてこのかた、これほどの大金を持ったのは、初めての経験だった。さすがに人生嫌なことばかりではない。たまにはこんなツキもついてないとやってられない。
気分がウキウキしてくる。もう一軒寄ってみようか……。
調子に乗って歌舞伎町をグルグル歩き回り、セントラル通りにさしかかった。
行く宛てもなく歩いている内に、ちょっとした、違和感を覚える。
気のせいか人の流れが全体的に、あずま通りへ向かっているような……。
道の端で客引き二人組が、大きな声で話をしているのが目につく。
「すげーぜ。店に爆弾が投げられたんだってよ」
「あくどい商売でもやって、大方恨みでも買ったんだろ」
「それにしても爆弾はねーだろ」
随分と物騒な会話をしているので、自然と客引きの声が耳に入ってくる。
爆弾……。
一体全体、何のことを話しているのだろう。声を掛けてみた。
「あ、あのー…、何かあったんですか?」
「ああ、あずま通りを横に入った道のビデオ屋があるんだけどさー。爆弾が投げ込まれたって、大騒ぎがあったみたいよ」
「ば、爆弾ですか?何で、また……」
「さあ、そんなの分からないよ。爆弾を店の中に投げ込まれたってこと以外はね」
「そうなんですか」
「まだ今なら野次馬がいっぱいいるから、あずま通り行けば、すぐにどこか分かるはずだよ。行ってみれば?」
「そうですね。じゃあ、行ってみますね。ありがとうございます」
客引き二人組は俺が話し掛けても、嫌な顔一つせずに受け答えしてくれた。俺は礼を言ってから、あずま通りに向かって歩きだした。通りに出ると野次馬が密集しているので、自分も野次馬の列に加わることにした。
「もうちょっと先に行けないかな」
「まだ煙、出てるよ。すげーな」
野次馬連中はみな、好き勝手に話をしている。まあ、俺も人のこと言えないか……。
背を伸ばして見てみると、爆弾を投げ込まれたという裏ビデオ屋は、真っ白な煙をモクモクと吐き出していた。
非現実的な光景を目の当たりにして、俺はしばらく煙の出る店を、呆然と眺めていた。さすが歌舞伎町らしいというか……。その時、誰かに肩を叩かれた。
「ずいぶんご機嫌そうじゃないですかー、赤崎君」
聞き覚えのある甲高い声がする。一気に鳥肌がたつ。
振り向くと、あの鳴戸が俺の後ろに立っていた。思わず固まる。
鳴戸は笑っていた。俺は、その笑顔が怖い……。
「どーしたんですか?水野さんから聞きましたけど、うちの店、辞めちゃうんだって?」
「は…、はい…。すみません……」
「ちょっと、お茶でもどーですか?」
「えっ…、いえ……」
「お茶でもどーですかと、私は言ったんですよー」
野次馬連中が鳴戸を見て、あとずさる。鳴戸はどんな場所でも鳴戸らしかった。こうも堂々と来られては、逃げ場などどこにもない。
「は、はい」
「じゃー、行きましょう。あなたは黙って言われた通り、私のあとをついてくればいいんです。分かりましたか?」
「……」
「分かったんですか?」
「は、はい……」
俺は黙って鳴戸のあとをついて行くハメになった。
自分の馬鹿さ加減を呪う。図に乗ってゲーム屋などで遊んでいるから、こんな目に遭う。こんなことになるならすぐに帰ればよかった……。
せっかく勇気を出してダークネスを辞めたのに、また俺はあそこで……。
いや、この恐ろしい鳴戸の下で、働かないといけないのだろうか……。
職場の式場に電話を掛ける。
「あ、もしもし…。ええ、星野です。すいません、今日ほんと具合悪くて…。ええ、はい、大丈夫ですか?は…、はい、ええ、心配して頂いて申し訳ありません。はい…、すいません。はい、明日には必ず体調良くして出勤致します。はい、ええ。そうですよね…。では、失礼致します」
仮病を使って仕事を休んだ。
隼人はだいたい、いつも夜の十一時くらいに狭山市の駅に仕事を終え、帰ってくるはずだ。
あれから連絡はまだない。今日中に何とかしたい。
隼人の顔が見たかった。
でも、電話も通じないし、どうしたらいいんだろ……。あれから一度でも私に連絡くれたってことは、プラスに考えなきゃね。
よし、決めた。
私、隼人の家の前でずっと待ってよっと……。
やっていることはストーカーみたいだけど、構わないわ。それで白黒をハッキリできれば、楽になるしね。
よーし、そうと決めたら念入りに綺麗になろっと。女の……、いや、私の意地を見せてやる。
お風呂場の脱衣所で衣服を脱ぐ。裸の状態で、鏡を見つめる。
「うん、プロポーションもまだまだいけるぞ。金欠になっちゃうけど、今日も泡風呂にしちゃおっと……」
こんなに気合い入れてお風呂に入るのって、初めてかもしれない。ちょっとは元気が出てきたぞー……。
鳴戸と近くの喫茶店に入る。様々な客層が座っている。席に着くと鳴戸は、俺の意思など無視して勝手に注文する。
「お姉さん、コーヒー二つね」
結構、美人なウェイトレスが笑顔で応対する。
「はい、かしこまりました。もし、よろしければセットで、ケーキなどいかがですか?」
ジロッと鳴戸が、そのウェイトレスを一別した。
「誰がいつそんなこと、頼みましたか?私はコーヒーを二つと言ったんですよー。他に何か頼みましたか?」
「は?」
「いつ、私がそんなこと言いましたかって、聞いてるんですよ」
「は、はい……」
「はいじゃないでしょ、はいじゃ。さっさとコーヒーを持ってきなさい」
「す、すみません」
ウェイトレスは逃げるように、その場を立ち去る。可哀想だったが、俺もウェイトレスみたいに、この場を走って逃げ出したい気分だった。この男は女でも容赦がない。
「そうそう、赤崎君。岩崎のことが気になりますか?」
「えっ?は、はい…。気にならないと言ったら嘘になります」
「でもねー、今はそんなことはどうだっていいんですよー」
自分で聞いといてかなり勝手な言い分だが、鳴戸が言えば、その通りに物事は進む。それがこの男の世界なのだ。
もう嫌だ……。
もううんざりだ……。
「私はねー、赤崎君に対して非常に期待していたんですよ。面構えも性格もいい。ましてや真面目です。ずっとそういう人材を探していたんです」
先程のウェイトレスが小刻みに震えながらコーヒーを持ってくる。ウェイトレスが行くのを待ってから、俺は必死に考えたことをまとめ、口を開く。
「……買い被り過ぎです。自分にはそんな価値ありません」
「いいですか?私があると言ってるからあるんです。あなた自身がどう思うかなんてね、こっちはそんなことは聞いてないんですよ」
「す、すいません……」
萎縮してしまう。やっぱり鳴戸は普通じゃない。
一体、いつまで俺はここにいるんだろう?
もう、ちゃんと店を辞めたのに……。
「いいですか?私はあなたを非常に気に入ってる。考え直しませんか?」
「……い…ぃ…ぇ……」
鳴戸にハッキリ言うのが恐ろしい。声が震えてしまい、蚊の鳴くような声しか出ない。もう、嫌だ……。
何で俺がこんな目に……。
「何ですか?ハッキリ言いなさい。ちゃんと話さなきゃー、聞こえませんよー。男でしょー。私は店に戻りなさいって言っているんです。聞こえたのですかー?」
「あ…、あのー……」
もういいや……。
どうなっても……。
殺されることまではないだろう。
断ると、何をされるのかだけ聞いて、それから自分の意思を伝えよう……。
そう思っても、なかなか口に出せない。
「あのねー、イライラしますねー。男でしょー?ちゃんと話しなさいよ」
周囲の客がこっちに注目しているのを感じる。
こっちだってあんたに会ってからずっとイライラしているんだ。この男の理不尽さには、そろそろ我慢の限界を超えそうだ。
俺は、何をしてんだろう……。
何故、鳴戸にここまで言われなきゃいけないんだろう……。
色々あってうんざりだ。いつもは怖く聞こえているはずの鳴戸の声が、とてもうっとおしく聞こえるのは、気のせいだろうか……。
ゆっくりと深呼吸をしてみた。
「何、さっきから黙っているんですか?」
こんな奴に岩崎は……。
あれから彼はどうなってしまったのだろうか?
ホモで金に汚く、ずる賢い奴だったが、あの時俺を庇ってくれたのは事実だ。
「あ、あのー……」
「何ですか?早く言いなさいよ」
「い…、岩崎さんはどうなったんですか?携帯に掛けても通じなくて……」
「さー、私にも分かりません。ただ、ちゃんと生きてはいますよ。それよりもさっきの話です。私はあなたを買ってるんです。戻りませんか、もう一度」
俺は自分の意思でしっかり鳴戸を見据える。ここでハッキリしないと、俺は疲れっぱなしだ。鳴戸も俺を見据えている。
自分の意思で意見をちゃんと言え。心臓の鼓動が早くなり冷汗が吹き出す。年末で寒いのに、背中が汗でびっしょりになっている。
「お、お断りします……」
嫌な沈黙が流れる。心臓が壊れるんじゃないかってぐらい、ドキドキしていた。
「もう一度だけ聞きますよ…。今、何て言ったんですか?」
こんな、一緒にいるだけで神経をすり減らす奴なんかに、たとえ仕事でも使われたくない。俺は席を立ち上がり、鳴戸の目をしっかり見据え、口を開いた。
「お断りします!すいません。俺は今までお世話になりましたけど、もう限界です。辞めさせて頂きます。本当にお世話さまでした」
鳴戸は、予想外の俺の反応に戸惑った表情をしていた。周囲の視線も俺に突き刺さるが、もう何も気にならない。
いくらなんでも命まではとられないだろう。そう考えると、少しは楽に感じる。
いいたいことを伝えると、一礼して喫茶店をあとにした。
鳴戸が追い掛けてくる様子は微塵もなかった。
よくもあの鳴戸に、あんな口を利けたもんだ。自分で言っておきながら、ビックリしている。まだ心臓がバクバクなっていた……。
堂々と歩いていたつもりだったが、喫茶店からしばらく離れると、俺は一目散に駅へ向かって全力で走りだした。
私は隼人の携帯に電話してみる。まだ着信拒否だった。
辛いけど今は落ち込んでいる暇はない。
ちょっと早いけど、隼人の家に行ってみよう。準備しないと……。
何か疲れた……。
これからどうするか考えなきゃいけないのに、俺は酷く疲れている。
鳴戸相手に退かなかった自分を誇りたいが、その為に使ったエネルギーと、神経のすり減らし方は、半端ではなかったみたいだ。
リアルな現実は、財布に入っている二十九万だ。
でも、俺はその金の使い道も分かりゃーしない。
今は何も考えたくない。とにかく家に帰って寝たい。
俺は西武新宿駅のホームをフラフラと歩き出した。
鏡台の前に座る。
念入りに化粧をしようと思ったが、化粧水をつけた時点でやめた。化粧なんていいや。ありのままで行こう。
簡単に身支度を整え、また鏡を見た。自分に、自信がない顔をしている。鏡の中の私と目を合わせてみた……。
また、無職になった。
金を稼ごうと思って、新宿の歌舞伎町を目指した。一ヶ月働いて九十九万の金が貯まった。今までの俺からしたら信じられない金額だ。
当初の目的はある程度達成しているはずなのに、何故かスッキリしない。俺の周りで犠牲になった人間が多過ぎるということだろうか。
いや、エグイ光景を散々見てきたせいかもしれない。いくら考えても答えなんて出る訳ない。
分かっていることは、職がなくなり、九十九万の金が残ったという現実しかないのだ。
当初の目的、金は多少手に入れられた。それと引き換えに俺の心と精神が汚れ、歌舞伎町に似合う人種に、なったというところだ。
自分に今の俺は好きかという問いをしても、答えられないのが正直な気持ちだ。人間は自分の望むことをやろうとすると、その分、何か大事な物を失うことになるのかもしれない。
生きている限り、その矛盾に近い螺旋は、永遠に続くのだろうか。愛が羨ましかった。俺の心の中で永遠に変わらない美しき存在……。
もう何も考えるな……。
俺は今、神経が疲れている。まともに物事を考えられない。
くだらないことを考えながら歩いていると、もう家の近くまで来ていた。早く布団に入って、ゆっくり眠りたい。
「あれ……」
急に足元がグラつく。
視点が定まらない。
景色がグラグラ揺れて見える。
地面が目の前に見えたと思ったら、俺はぶっ倒れていた。
何で、俺は倒れているんだ……。
「はーやーとー……」
女の声が聞こえる。
どうなってしまったのだ?
俺の頭に誰かの手が優しく触れた感覚がする。
誰なんだ…。
次第に意識がなくなっていく……。
愛が笑いながら、俺を覗き込んでいる。
怜二も横にいる……。
祖父も祖母も、家族がみんなで俺を覗き込むように囲んで見ている。俺はムクッと起き上がった。
向こうの方から、親父とアラチョンのマスターも、俺に向かって歩いてくる。あまりにもみんながニコニコしているので、俺もつい、つられて笑ってしまう。
不思議と落ち着く空間だ。
辺りが急に真っ暗になる。
血だらけで顔がグチャグチャの男が、遠くから立って俺を見ている。原型がよくわからないが、直感でそれが岩崎なのだと分かった。
鳴戸と水野がどこからか現れて、血だらけの岩崎に近付き、ボコボコに殴りだす。俺はあまりにも酷いので止めさせようとするが、何故か、体がまったく動かない。まるで足が大地に根を張り、真っ暗な地面と融合したような感覚だ。
新堂と田中が、その光景を無表情で見ていた。
遠くで母親が笑っていた。
「ハハハ……」
俺は母親を睨みつけ、ボソッと呟いた。
「このヒステリーが……」
急に目の前の風景がパッと変わり、現実の世界に切り替わる。
どこかいつもと違う。以前見たことのある懐かしい風景だ。
俺は右手に受話器を持っていることに気付く。真正面を見ると、母親が大笑いしながら電話機の本体を持って、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっている。
いつの間にか、俺の姿は幼い頃に戻っていた。
母親は電話機の本体から手を離した。俺にすごい勢いで向かってくる。反射的に目を閉じた……。
…が、いつまで経っても俺に電話機はぶつかってこない。
俺は、ゆっくりと恐る恐る目を開ける。
愛が小さな両手で電話器を持っていた。周りにあれだけいた人が、すべて消えていた。俺は笑顔で愛に近付く。
「ありがとな、愛…。お兄ちゃんを守ってくれたのか?」
「うん、愛はいつでもお兄ちゃんのそばにいるもん」
無邪気な笑顔で、愛は俺に微笑む。
「そうか…。ありがとな、愛……」
俺は愛をギュッと抱き締めた。
どんな風になっても、愛は俺のそばにずっといてくれていた。
「苦しいよ、お兄ちゃん……」
「愛……」
「苦しいよ。隼人、苦しいよ」
ん……、愛の声じゃない。
目を開けると、俺は別の誰かを抱き締めていた。慌てて離れると、目の前に泉の顔があった。俺を心配そうに覗き込んでいる。
「い…ず…み……?」
「ビックリしちゃった。いきなり抱きついてくるから……」
いまいち状況が把握できない。ボーっとしている俺の頭に、そっと触れてくる泉。そのまま流れに身を任せると、泉は自分の膝の上に、俺の頭をもっていく。
「大丈夫?」
「何で、ここに……」
目を閉じる。まだ夢の中なのか……。
さっきまで愛と一緒にいたはずなのに、何故……。
再び目を開けると、俺の部屋で泉が膝枕をしていた。居心地の良さを感じる。夢じゃないのか。現実か……。
あれ…。俺、外で倒れたんじゃなかったっけ?
「ごめんね……」
俺の頬に涙がポタリと落ちてくる。泉の涙で、現実なのだということに気がつく。俺は身を起こして、ジッと泉を見つめる。
「おい、ここは、現実なのか……?」
泉は静かに頷く。
「隼人、家の近くで急に倒れたの…。私、急いで駆けつけて…。でも、一人じゃ部屋まで運べなくって困っていたの。そしたら怜二君がちょうど家に帰ってくるところで、一緒に運んでくれたの。ここまで…。怜二君、ニヤッてしながらあとは頼むよって、また出掛けちゃって…、私、なんて言ったらいいか分からないけど…。ごめんなさい。あのね……」
泉の話が途中で止まる。俺が急に抱き寄せたからだ。
あの時、傘も差さずにずぶ濡れになって立っていた泉。もう、あんな思いはさせない。
心地良い感触の膝枕で目覚めた俺に、優しく微笑んだ泉。
今までの楽しかった思い出が蘇る。
『こ、今度、良かったら、じ、時間作ってくれないかな……』
初めて俺が泉を誘った時の台詞。
『え…、じ、時間て?』
泉はそう言いながら、頬を赤らめた。
心臓がバクバク激しい音を立てながら、『い、一緒に食事に行かないか?』とだけ答えた俺。
最初のデートはたいしたレストランじゃなかったけど、泉と一緒にいられたというだけで楽しかったな……。
何度もデートを重ね、俺たちは一緒にいるのが当たり前になっていた。
俺が仕事を辞めてしまい、歯車が狂いだした。
愛想を尽かされた俺はその時、初めて本気で考えたのだ。歌舞伎町へ働きに行き、様々な経験をした。あの街で怖い目にも遭ったが、少しは成長できたのだ。いいきっかけになったと思う。心に余裕ができたのかもしれない。
泉からの電話がきっかけで、仕事以外では、いつもこいつのことばかり考えていたような気がする。
俺たちは何度もすれ違った。
でも今、泉はこうして俺の腕の中にいるんだ。自然と抱き締める腕に力が入る。
俺にはこいつが必要なんだ。
まだまだ俺は、こいつと一緒に思い出を作ってかなきゃいけない。
「隼人、本当にごめんなさい……」
「もう…、いいよ」
「はや…と……」
「いいって、何も言うな……」
泉のいい匂いがする。これは俺だけの匂いだ。
「……ねえ、何か何でもいいから欲しいもの言えって、前に言ってくれたよね?」
「ああ、今日で無職になっちまったが、金はある。何でも言えよ」
「そういうんじゃないの」
「じゃー、何だよ」
「まず、私の着信拒否をやめて欲しいの」
「ああ、悪かった。すぐにやめるよ」
俺は携帯を取る為に泉から離れようとするが、泉は両手を俺の背中に回してきて動くことが出来ない。
「まだあるの……」
「何だよ……」
「隼人の両腕が何もしてないことが不満」
俺は、泉をまた抱き締め直す。
「あとね……」
「何だよ…。まだ、何かあんのか?」
「だってまだ欲しいもの、何も言ってないじゃない」
「ああ、そうだな。何が欲しいんだ?」
「隼人にずーとね…。そばにいて欲しい……」
俺は抱き締めている両手にちょっとだけ力を入れる。どのくらい抱き締め合っていたんだろう……。
泉の肩に手をかけて、ある程度の距離を置いた。泉の顔が間近にある。お互いしばらくジッと見つめ合い、やがて泉は目をつぶる。
自然にキスをした……。
長い…、とても長いキスだった。
その間、俺の目の前には、妹の愛の姿が見えた。
『愛……』
『お兄ちゃん、言わなきゃ駄目だよ!』
『何が?』
『もう私の事で自分を責めないで』
『……』
『お兄ちゃんのせいじゃないんだよ』
『愛……』
『いつまでも気にしないで、お兄ちゃん』
『でも…、あっ……』
幼かったはずの愛の姿が、少し成長したかのように大きくなっている。
『私だって成長しているんだよ。もう気にしないで』
『愛……』
『今いる人を大事にしてあげて』
『おまえも成長してるんだな、愛……』
『そうだよ、お兄ちゃん。愛だって成長してるんだよ』
『そっか……』
『いずみさんを大切にしてあげてね』
『ああ…、分かったよ、愛……』
ニッコリ笑って、愛の姿は徐々に透けていく。俺は、ジッと妹を見つめた。
『じゃあね、お兄ちゃん』
『愛!』
もう、愛の姿は見えなくなっていた。
長いキスが終わり、俺は少しだけ目を開けてみる。
目の前では泉がジッと俺の顔、いや、目を見つめていた。
愛、大事にするよ、こいつを……。
軽く息を吸い込み、恐る恐る口を開く。
「…して…る……」
「えっ、何?聞こえないよ?」
愛……。
もう、お兄ちゃん、この言葉を使ってもいいんだよな?
「隼人、どうかしたの?」
不思議そうに俺を見る泉。
ゆっくり目をつぶり、耳を澄ませた。
もう愛の姿は見えない。声も聞こえない。
もう…、もう、いいんだよな?
目の前にいる人を大切にするからな、愛……。
「ちょっと、隼人?」
泉の顔を真剣に見つめて、ゆっくりと口を開く。
「あ……、ぃ…、してる……」
「えっ?」
「愛してる……」
泉の目に、涙が溜まっていた。
「もう一度、言って……」
ブランコから落下し、目の前で亡くなった妹の愛。ずっと自分のせいだと責任を感じていた。だからこそ一度も言えなかった台詞。今、俺は、自己の作り上げた呪縛から、初めて解放されたのだ。
俺の勝手な思い込みで、泉はどれだけせつない思いをしてきたのだろう。もういいんだ。心の底から想いを込め、言葉を捧げよう。
「愛してるよ、泉……。おまえを愛してるんだ!」
力一杯声にした俺の台詞に、泉は優しく微笑み掛ける……。
「やっと……、初めて言ってくれたね…。うれ…し…い……。嬉しいよー」
「ありがとう」
精一杯の笑顔を俺は作って見せた。
泉は、泣きながら俺の胸に顔をうずめてくる。繊細で壊れやすい大事な宝物を扱うように、そっと優しく抱き締めた。
愛、これでいいんだよな?
『おにーちゃーん……』
遠くで、愛の声が聞こえたような気がした……。
―了―
題名「新宿クレッシェンド」 処女作品 作者 岩上 智一郎
2004/01/18~2004/02/04
執筆期間 18日
手直し調整 2006/10/08 原稿用紙 402枚分
第一次校正 2007/09/22~2007/10/03 411枚分
第二次校正 2007/10/18~2007/11/02 428枚分
第三次校正 2007/11/08 428枚分
当時表紙で出版社と揉めた話
本気でやれば何か変わるさ!
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