岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

7 新宿クレッシェンド

2019年07月06日 17時40分00秒 | 新宿クレッシェンド

 

 

6 新宿クレッシェンド - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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 帰り道に行きつけの喫茶店、アラチョンの看板が視界に入る。
 無性に腹が減っていた。大好物のハンバーグを思い出すと我慢できなくなった。アラチョンに自然と足が向かう。
 店の中へ入ると、閉店一時間前のせいか、四人の客が一組しかいない。そのグループ客も、食後の一服を終え、席を立とうとしていた。
「おっ、いらっしゃい」
 マスターが声を掛けてきた。何だかんだいって、このマスターとは結構長い付き合いになる。
「ありがとうございました。ちょっと待っててくれよ」
 他の客の会計を済ませ、その客がいなくなると、店内には俺一人だけになった。マスターは食器を手早く片付け、俺のところへニコニコしながら歩いてくる。
「何だよ、座って待ってればいいのに…。相変わらず固い奴だなー。ほら、座って。今日はカウンターの方でいいでしょ?他に客いないしさー」
 マスターはカウンターの椅子を引いてくれる。素直に腰を下ろすことにした。それにしても何故、この人はこんなに明るいんだろう。そういう表情を普通に出せるのが、見ていてとても羨ましかった。
「注文はハンバーグでしょ?」
「やっぱり分かりますか……」
「何年、隼人ちゃん、うちに食べに来てると思ってんの。隼人ちゃんもう七年くらい来てくれてるのにハンバーグ以外のもの、頼んだことないじゃん」
「そう言われれば、確かにそうですよね……」
「最初の頃は変わった奴だなーって印象しか持てなかったよ。ただね、ここまで一つのものを頼まれるとさー、料理人冥利に尽きるなってね。いやー、本当、宣言出来るよ」
「何をですか?」
「だって俺のハンバーグをさ、そこまで気に入ってくれる客はいないもん。他の料理だって自信はあるけど、ハンバーグ作る時は、気持ちの込め方がやっぱ違っちゃうよなー。特に隼人ちゃんのやつ作る時は、気合入れまくりー」
 マスターの気遣いに自然と笑顔がこぼれる。
「おっと…、ごめんごめん…。腹減ってんだろう?すぐ作るから待ってくれよ」
 奥の厨房にマスターの姿が消え、しばらくすると、肉を焼く音といい香りが漂ってくる。
 気持ちがリラックス出来ている。あの、人懐っこいマスターのおかげだ。
 暇を持て余し、新聞を手に取り眺める。気付くと、自然に求人広告欄を探していた。今のダークネスを辞めるつもりは、まったくない。他の店がどのような広告を出しているのか、ちょっとチェックしてみたかっただけに過ぎない。
 急募、日払い、高額収入。
 どの店も書いてある内容は、さほど変わらない。もちろん、どこを探してもダークネスの求人広告は、掲載されていなかった。
「お待たせー」
 マスターがいつものハンバーグを運んでくる。今日のはちょっといつもと違う。ハンバーグ以外に、エビフライ、クリームコロッケまで付いていた。
「マスター、これ……」
「いいの、いいの。俺の気持ちだから…。たまには隼人ちゃんにハンバーグ以外の物も、味わってほしかったっていうのもあるしね」
「ありがとうございます。でもこっちを気に入ってしまって、今度からはエビフライって、言い出すかもしれませんよ?」
「それならそれで、俺が作る物には変わらないから、それも全然有りでしょ」
 俺とマスターは顔を見合わせて一緒に笑った。久しぶりに心から笑えたような気がする。空腹度が増していたので、一気に食べた。
「どうだった?」
 勝ち誇った顔のマスター。返答に困ってしまう。
「うーん、いけますけど…、やっぱ俺はハンバーグですね」
「やっぱりそうか」
 マスターは残念そうな表情を浮かべていた。でもすぐにいつもの笑顔を俺に向けてくる。正直、ハンバーグ以外のものは、お世辞にもうまいとは思えなかった……。
 このマスターはハンバーグだけ作っている方が、店ももっと流行るような気がする。さすがに笑顔で得意顔のマスターには、絶対に言えない台詞ではあるが……。
「マスター、俺、明日も仕事有るからそろそろ帰りますよ。ご馳走様でした」
「あいよ。ありがとな、隼人ちゃん」
 家に帰り、部屋の明かりを点け、携帯を見てみる。
 泉からの着信履歴は今日もない。酷い休日だったけど、最後にアラチョンのマスターに救われた。
 しかし、俺は何故、ハンバーグにあれほど執着するのだろう?
 幼い頃、妹の愛とよく見に行ったレストランのショーウィンドーにあるお子様ランチ。あの中にあるハンバーグが食べたい。妹の愛にも食べさせたくて仕方がなかった。
「おにーちゃーん……」
 愛の声が聴こえる……。
 また嫌な思い出が、頭の中に鮮明に蘇る。
 妹の愛を連れ、近所の公園に遊びに行く。
 俺は弟の怜二も可愛がったが、よりいっそう妹の愛を可愛がった。
 無邪気にお兄ちゃんと懐いてくる愛。俺もまだ幼かったが、愛のことが可愛くて仕方がなかった。甘ったれでどこへ行くにも、オンブって言いながら、俺の背中に飛び乗ってくる。
「しょうがねー奴だなー」
 肩車でご機嫌の愛は、両手で俺の髪の毛を鷲掴みして、グイグイ動かしている。ロボットでも操縦している気分になっているらしい。得意げな表情で、喜んでいる。
「おにーちゃん、今日、愛ねー。あれやりたいの」
「何だ?あれって……」
「イヒヒ、あの公園のブラブラするやつ」
「ブラブラするやつ…。何だ、そりゃ?」
「あーれ」
 愛の指差す方向を見ると、ブランコがあった。
「なんだ、ブランコのことか」
「そう、ブランコ。あれに乗ってみたいの」
「駄目駄目、愛には無理だよ。もうちょっと大きくなったらな」
 愛は俺の背中から勝手に下りだす。そしてブランコの方向へ向かって、元気いっぱいに走り出して行く。
「愛、ブランコ乗るの」
「駄目だよー。愛にはまだ危ないよ。別のにしなよ。そうだ、お兄ちゃんと砂場で一緒に遊ぼうよ。な?」
「ヤダー、あれがいいー。愛、絶対、あれ乗るー」
「お兄ちゃんの言うこと聞いてくれよ。愛はお利口さんだろ?」
「お利口さんじゃなくていいー。だからあれで遊ぶの~」
 デパートのお子様ランチを食べたいと言っても我慢させ、今度は公園にあるブランコですらも、愛に我慢させるのか?
 妹に対し、可哀相だなという思いはいつもあった。
「しょうがないなー。ちょっとだけだぞ」
「イヒヒー」
「何がイヒヒーだよ…。変な笑い方しやがって」
 愛のあまりの熱意に折れることにした。愛は楽しそうにブランコを漕ぎだす。
 ギィ…コゥ…ギィーコゥ……。
 ブランコは徐々に揺れる……。
「愛、あんまり大きく漕ぐなよ。危ないぞ」
「うわー、おにーちゃん、おもしろーい」
 愛はとても楽しんでいる。生まれて初めてブランコというものに乗ってみて、完全に虜になっている。あまりにも嬉しそうにしているので俺はずっとその笑顔を見守っていた。
 可愛い妹の愛。こんなに喜ぶのならもっと早くブランコに乗せてやれば良かった。これから出来る限り、ここに連れてきて、ブランコで遊ばせてあげよう。
 どのぐらい時間が経ったのだろう。愛は全然飽きる様子がなく、夢中でブランコを漕いでいる。
 俺は喉の渇きを覚え、水を飲みに行った。
 遠目で愛を見ると、心なしかブランコは加速が付いて、大きく揺れているように見える。思わず大声で言った。
「おいっ、危ないよ。愛、大きく漕ぎ過ぎだぞ」
「イーヒーヒー。おにーちゃーん」
 俺の声が何も届いてないのか、愛は、さらに大きく漕ぎだす。
「愛っ!」
 飲みかけの水を出しっ放しのまま、俺は愛の乗るブランコへ向かって一目散に走った。
「おにーちゃーん……」
 愛はとても興奮している。
「愛っ!」
 俺がどれだけ心配しているのかも分からずに、愛はニコニコしている。ブランコを漕いでいる状態で、愛は俺に片手をブンブン振り出した。
「バカ野郎、手を離すな。愛…、愛、手を離すなー」
「イヒヒ、おにーちゃーん、面白いよー。おにーちゃ……」
 途端に愛の体はバランスを崩した。
「バッ、馬鹿、愛ー……」
 全力で走った。
 バランスを崩した愛が、ブランコから投げ出される。まるで映画のスローモーションシーンを見ているようだった。
 地面にぶつかる前に受け止めようと、懸命に走った。
 間に合わないか…。
 そう感じた瞬間、俺は飛びついた。
 指先が触れた時、愛は、俺の目の前で頭から地面に激突した。グニャリと首が、ありえない角度で折れ曲がる。
「愛―……」
 あと二秒早く気付いていれば、間に合ったかもしれない。地面に横たわった愛はピクリともしなかった……。
 いくら呼んでも、愛は何も反応してくれない。
「愛!愛!愛!アイー……」
 声が枯れるまで叫び続けた。でも愛は返事すらしてくれない。涙が溢れ出て愛の顔が歪んで見える。それでも一生懸命叫び続けた。
「愛!愛!」
 近所に住んでいるおばさんが、異常事態に気付き、駆けつけてくれた。
 叫びながら愛の体を揺らし続ける俺をどかし、すぐに救急車を手配した。目の前で起こった惨劇が、信じられなかった。
 俺のせいで愛は……。
 救急車を待つ時間がとても長く感じた。それから先はよく覚えていない。人がとにかくいっぱいに集まって、ゴチャゴチャしていた……。
「おにーちゃ……」
 最後に聞いた愛の声……。
 いまでも耳にこびりついている。
 根負けして、愛のワガママを聞いた俺が馬鹿だった……。
 そばにいながら、その場を離れたことを今でも悔やむ。
 どれだけ悔やんでも、その思いは消えない。
 俺が小学校五年生の時の出来事だった。

 俺たちを捨てて、家を出て行った母親は、未だに愛が亡くなったことすら知らないのだろう……。
 でも、そんなことはどうでもいいことだった。
 気付けば俺は、泣いていた。
 涙が止まらなかった。
 愛が亡くなって何年経つのだろう。
 あの時の件で祖父と祖母は一気に老け込んだ。誰も、俺を責める者などいなかった。いっそのこと、みんなで俺を激しく罵倒してほしかった。自責の念にずっと駆られる。
 母親とは別の意味で、ずっと引きずっている愛。
 愛が好きだったハンバーグ。一度でいいから食べさせてやりたかった。
 でも、それは絶対に叶わない非情な現実が、俺に襲い掛かる。苦しむのは全然構わない。いくら苦しんでも構わない。
 だから愛を返してほしい……。
 どこからこんなに涙が出てくるのだろう?
 怜二が高校を卒業した日の夜、怜二が俺の部屋に来て、兄妹で話したことがあった。
「兄貴、今さらかもしれないけどさー。愛の件なんだけど…。ずっと、自分のせいだって思ってんだろ?」
「……。ああ…、悪いか?」
「そんな自分ばっかり追い詰めて、どうすんだよ」
「わからねーよ。分かってたら、こんな今でも苦しんでるかよ」
「別に、兄貴のせいじゃないじゃん」
「俺があの場所に連れて行ったんだ。俺があの場から目を離したんだ……」
「仕方ないだろ。そりゃー、まるっきり何も責任感じないっていうのは違うけど、兄貴は充分に反省してるじゃん」
「反省したからって、愛が生き返るのか?違うだろ……」
「ブランコに乗って、すごい楽しそうだったんだろ、愛……」
「ああ……」
「今頃、生きてたら二十歳か……」
「……」
「愛、絶対に今頃いい女になってたぜ」
「そうだな……」
「彼氏出来たのーとか言って、俺らのとこ連れて来てるかもな。小さい頃兄貴、俺よりも愛をすごいえこひいきしてたからなー。あの勢いだと、愛が連れてきた彼氏を、いきなり認めんとか言って、本当に殴りかねないからな」
「何、想像の世界で言ってんだ。そんなこと、する訳ねえだろ」
「いや、兄貴は絶対やるって。俺が認めた奴じゃないと駄目だって、いつも愛を困らせそうだ。そしたら愛は困って、いつも俺のとこに相談に来るんだ。兄貴を何とかしてちょうだいって……」
 俺を懸命に気遣ってくれる玲二。すごくありがたかった。
 想像していて目頭が熱くなってくる。成長した愛の姿がリアルに想像出来た。
 ヤバイ…、怜二の前で涙をこぼしそうだ。何とか誤魔化さないと……。兄貴が弟の前で、涙など絶対に流せない。
「何だテメー。玲二、おまえ、俺に喧嘩売ってんのかよ」
「何だよ、急に…。別に俺はそんなつもりで……」
「消えろよ。俺の部屋から出てけよ。ムカつくんだよ」
「何だよ、いきなり……」
「早く出て行け!」
「分かったよ」
 怜二が不機嫌そうに部屋を出て行くと、俺は静かに声を殺して泣いた。怜二に泣く姿を見せたくなかっただけだ。
 怜二が冗談で言った言葉が、鮮明に頭の中で映像化される。俺の中で勝手に大きく成長した愛は、色々喋りはじめる。
 学校に行っても沢山のラブレターをもらい、その内、彼氏が出来る。愛は、俺の性格を理解しているから、恐る恐る彼氏を紹介する。何だこのニヤけた軟弱な野郎はって、俺は殴る。愛は泣きながら怜二のとこに行き、愚痴をこぼす。怜二は愛を慰めてやる。兄貴は本当に短気だからなー…。あんな野蛮人、もう私のお兄ちゃんじゃないもん。そして愛は俺のことを毛嫌いするようになっていく……。
 やめよう……。
 勝手に想像しておきながら、自分が本当に惨めになっていく。俺は疲れているんだ。今日はもう寝よう。
『おにーちゃ……』
 俺が眠ろうとしても、愛の声がどこからか聴こえてくる……。
 
「おはようございます」
「おはようです。赤崎さん。昨日は、ゆっくり出来ました?」
「ええ、ありがとうございます」
 今日のダークネスは、客が帰ったばかりで暇だった。
「昨日で結構、金、使っちゃったんじゃないんですか」
 岩崎がニヤニヤしながら二万円を渡してきた。俺は軽く会釈して、金を受け取る。この分でいくと、一ヶ月でいくら金を貯められるのだろうか。
 仕事もだいぶ慣れてきた。常連の客にも少しずつだが顔を覚えてもらえて、完全に店の一員になったような気がする。
 岩崎は相変わらず、したたかだった。今は何もすることがないみたいで、暇そうに風俗店の紹介雑誌をボーっと眺めていた。
「赤崎さん。この子、結構良くないですか?」
「うーんと…、ちょっと自分の好みではないですね」
「そっかー、なるほど…。赤崎さんとは女の好みでぶつかることなさそうだから、仲良くキャバクラでも何でも一緒に行けそうですね」
「よく、岩崎さんは風俗行かれるんですか?」
「まあ、ぶっちゃけ、しょっちゅうですね」
「恥ずかしくないですか?例えば、こっちが裸になる時とか……」
「慣れですよ。慣れ」
「そんなもんですか」
「そんなもんです」
「俺、風俗行ったことないんですけど、いいもんですか?」
 咄嗟に出る自分の嘘。
「当たり前じゃないですか。そうじゃなきゃー、何でこの街に、これだけの風俗店があるんです。何件あるかどうか分からないぐらい、風俗店がありますよね?」
「ええ、確かに……」
「男は本来、みんな好きなんですよ」
「……」
 男はみんな好き……。
 この街を見ている限り、非常に的を射た意見だ。
「ただ、赤崎さんが言ったように、恥ずかしいとか、いまいち勇気が出ないとか…、あとは金が無いとか、色々な理由が、人それぞれあるだけですよ」
「物事の本質をついた鋭い意見ですね」
「あはは……」
 一緒に岩崎と笑うが、作り笑いするのがやっとだった。自分の失態は、冗談でもこの男の前では言えない……。
 プルルル…、店の電話が鳴る。
「はい、お電話ありがとうございます。ダークネスです。あっ、お疲れ様です。そうですね。今はノー卓です。昨日までは忙しくて常連さんもほとんど来てたんで…、ええ、そうですね。分かりました。では、コマの前のとこでいいですね。…はい、はい…、かしこまりました。では、準備しますね。はい、お疲れ様です」
「水野さんですか?」
「いえ、もう一人の怖いほうです。たまには飯でも食いに行こうって……」
「へー、珍しいですねー。鳴戸さんがですか」
 今までニコニコしていた岩崎が一変し、真面目な表情になる。
「多分、俺、行ってる間に水野さん、ここに来ますよ」
「え…、何でです?」
「探りですよ。あの二人は赤崎さんのこと、まるで疑ってませんから…。ただ働いてから十日以上経っているし、ちょっとだけ探りいれて、自分たちを安心させたいんですよ。基本的にオーナーなんてみんな、従業員のことを疑ってかかりますからね」
「まー、何、聞かれても問題ないですよ。余計なこと、一切言うつもりないですし……」
「俺は信用してるから大丈夫ですって。じゃ、鳴戸さん待ってるから行ってきますね」
「分かりました」
 岩崎が店から出て行く。
 そういえば、ここに入ってから店の中に俺一人になったのは初めてだ。ただボーっとしているのも悪いので、とりあえずテーブルを雑巾で拭いた。
 終わると、キッチンに溜まっているグラスを洗う。仕事的に客がいても苦ではないが、まったくいないと、遊びに来ているようなものだ。
 やることを終わらせると、椅子に座ってボーっとする。岩崎の推測ではこれからここに水野が来ることになっている。水野なら何を聞かれてもうまく誤魔化せそうだ。
 逆に鳴戸だとしたら……。
 想像するだけで恐ろしい。その時、店のチャイムがなった。
 ピンポーン……。
 モニターを見ると、水野が映っている。岩崎の言った通りだ。水野なら焦る必要はない。軽く深呼吸をし、リラックスしながら俺は、ドアを開けに行った。
「お疲れ様です」
「うん、お疲れさま。赤崎君、私にアイスコーヒー入れてくれるかね」
「分かりました。待ってて下さい」
 キッチンに行き、アイスコーヒーを作る。ガムシロップとクリームを入れて掻き回してから、水野に渡す。
「だいぶ慣れたかい?」
「ええ、お陰様で……」
「私と鳴戸は赤崎君みたいに真面目で、この業界に染まってない従業員が欲しかったんだ。バブルはとっくに弾け、もちろんこの歌舞伎町にだって、不況の波は押し寄せている」
「不況ですか……」
「うむ、以前はこの業界だって二十四時間、連日賑わっていたもんだよ。客が店からいなくなるなんて状況、昔じゃ、信じられないもんだった」
「そんなに忙しかったんですか?」
「ただ、その時代の従業員は結構悪さする奴が多くてね。以前はうちだってレートは十円だったんだ。やっぱり一円じゃ、どれだけ忙しくたって、稼げるのは限界があるからね。私の予想だと今、この店で金を抜いてる奴が絶対にいるんだ。誰だかはよく判らないんだがね。伝票をチェックしていると、おかしな点が、かなりある」
「え、誰がですか……?」
「分からんよ。だから鳴戸と話し合って、新しい従業員を入れようとね。運がいいことに赤崎君は、この業界にまるで染まっていない。まったくの素人で初心者だからな。だからもし従業員が、ちょっとでもおかしなことしてる素振りがあったら、私に逐一で報告してほしんだ」
 俺にスパイ行為をしろと、遠回しに言っているのだろうか。そのつもりなら少しタイミングが遅い。すでに俺は岩崎に、金をもらってしまっているのだから……。
「うーん、確かに自分はこの業界は入ったばかりで、右も左も分かりません。今は岩崎さんぐらいしか接する人いないですけど、自分の見た感じでは、おかしな点はないですね。かえって色々教えてもらって、世話になってるぐらいですから」
「ふむ、そうか…。じゃ、やっぱり新堂の奴か」
 新堂とはあまり話をしたことがないから、答えようがない。ここは正直に言うしかない。
「自分には遅番の方たちとは行き帰りの時しか面識ないので、その辺は何とも分からないです。無責任なことも簡単には言えないので……」
「そうか、悪かったね。変なこと聞いて……」
「いえ、とんでもないです。自分は水野さんに雇われている訳ですし、そのぐらいオーナーなら心配して当然だと思います。何かあったらちゃんと連絡します」
 水野は単純だ。俺の台詞に目を細める。
「お腹減ったなー。出前でも頼むか」
 俺は歌舞伎町内で出前をしている様々な店のメニューが収まったファイルを渡す。和食にイタリアン。歌舞伎町には何でも揃っている。うなぎ屋から寿司屋、そば屋に仕出し弁当屋。カレー専門店にスパゲティ専門店。中にはお好み焼きの出前というのもある。水野は丹念に、一つ一つメニューをじっくり見ている。
「うーん、さっぱりしたのがいいかなー…。そば屋でいいかな。うん、これでいいか。よし、赤崎君は何にする?」
 水野が俺にファイルを手渡してくる。オーナーである水野がこのそば屋を選んだのでは、この中から選ばないと失礼だし、あまり高価なものは頼めない。適当に目を通してすぐに決めた。
「自分はこれでいいです」
「じゃあ、電話してくれ」
「はい」
 そば屋のまこと屋に出前の注文を入れる為、受話器を耳に当てる。その瞬間、ズキンとこめかみの傷が疼き出す。どこかで、母親の笑い声が聞こえてくるような気がした。
「もしもし、第一杉沢ビル二階のダークネスですけど…。出前、よろしいでしょうか」
「毎度どうも」
 以前もここに出前を頼んだことがあるのか、店の対応は非常にスムーズだった。
「えー、天婦羅そばの上と、たぬきうどんのカレーセットのやつ、もらえますか」
「はい、ありがとうございます」
 受話器を置くと、傷の疼きも自然と静まる。幼い頃に刻み付けられた永遠の痛み……。
「やっぱ若いから食べるなー」
 水野が感心したように俺を見つめる。
「そんなことないですよ。そういえば今、水野さんはおいくつぐらいに、なられるんですか。随分と貫禄もありますし」
「私はもう五十六だよ。この店ポシャッたら、何の価値も無い只のジジーだ」
 水野と話をしていると、気の毒で可愛そうな人間に感じた。岩崎との汚い金のやり取りをしていることに、罪悪感をひしひしと覚える。この人は、見た目は胡散臭いけど、あの恐ろしい鳴戸に踊らされ、うまい具合に利用されているだけで、案外根はお人好しの犠牲者なのかもしれない。
「でも今はこの店をやってるから違うじゃないですか。昔みたいにもっと客来るように、俺、頑張りますよ。今は何も戦力にならないかもしれないですけど…。でも自分の目線で見た感覚で、新しいものが出来るようになれるかもしれないですし…。とにかく客が少しでも喜べるようにしたいです」
 俺は何故か、ムキになって熱く本心を語っていた。水野はニコニコしながら頷く。
「ありがとうよ。ぜひ、頼むよ。鳴戸も、君には期待してるしね」
「ええ、頑張ります」
 水野と世間話をしていると、ドアのチャイムが鳴った。
「お待ちどうさまです。まこと屋です」
「おいくらですか?」
 水野が応対に出る。
「そうですね、両方千円ずつです」
「おい、赤崎君、千円だって……」
「……」
 目の前の光景が、信じられなかった。
 水野はまるでここに千円乗せろというように、右手を差し出している。まったく悪びれた様子もなく、平然と手を出したまま、俺を見ていた。
 オーナーから何を頼むかと言われ、半強制的に俺に出前をとらせておいて、それはないだろう。千円くらいをケチりやがって……。
 顔に出さないよう、感情を押さえるのに苦労した。さきほど水野に同情した自分が馬鹿みたいだ。非常にムカついてくる。
 財布から千円札を一枚出して、水野に渡す。とぼけた面したせこいオーナー。胡散臭さが、これでもかというぐらい爆発だ。
「はい、どーもー、お疲れ様です」
 本当にしけたオーナーだ。プライドを疑ってしまう。一気に嫌いになった。
「早く食べないと伸びちゃうぞ」
 大きなお世話だと言ってやりたかった。
「は、はい。頂きます」
 こんなしけた奴と一緒に飯を食うのは癪に障るが、これでも一応、現時点では腐っても俺のオーナーなのだ。
 信用され、期待されている俺は、あくまでも優等生面を通さなくてはならない。うどんとカレーを交互に胃袋に放り込む。
 しけた奴が横にいるから、とてもまずく感じた。
 チラッと横目で水野を盗み見る。想像通り、下品な食い方でそばを啜っていた。天婦羅の切れ端が口髭にくっついて、鼻クソがくっついているようにも見える。
「ケッ、しけた奴は食い方すらしけてやがる。小汚ねー野郎だ」
 そっと心の中で呟いてみる。水野と目線が合うと、ニッコリ微笑んでみせた。
 水野は、完全に信用している目つきで俺を見て、微笑む。歯も煙草のヤニですっかり黄ばみ、汚らしかった。

 水野が帰ってから、一時間ほどして岩崎が帰ってきた。
「どうも、お疲れ様です」
「いやー、あの人と二人きりの食事は、心臓に悪いですよ」
「それは大変でしたね」
「そうでもないですよ。自分の場合、あの二人とは、二年ほど付き合ってきてますから、手馴れたもんですよ」
「確かにあしらい方が手馴れてますね」
「ハハ…、そういえば水野さん、何か言ってましたか?」
 おちゃらけた岩崎が、一瞬にして真面目な顔つきに変わる。
「岩崎さんが以前言ったようなことをズバリ言ってきましたよ。あまりにもドンピシャで、笑いを抑えるのに苦労しました」
「あの二人の行動は先読みしやすいだけです」
「実際にすごいと思いますよ」
「そんなことないですよ」
「そういえば、水野さん。俺に飯何を食うんだって自分から勧めといて、実際に出前が来たら、千円とられましたよ。赤崎君、千円って右手を突き出してきて」
「相変わらずセコいなー、あの人は…。一年前に歌舞伎町でケチコンテストやったら五本の指に入った実績を持ちますからね」
「え、そんなのって、本当にあるんですか?」
「冗談です」
 岩崎との会話は小気味良く進むからとても面白い。
「でも赤崎さん、鳴戸さんだけは要注意ですよ」
「……ですね」
「昔ここ、ダークネスの前の店の話しですけど」
「ええ」
「当時の店の名前はフロッガー。日本語にするとカエルですよ、カエル…。笑っちゃいますよね。そんなダサい名前の店でしたけど、三年前は実際にあったんです。レートは十円でした。その時のオーナーは、水野さんともう一人の人がいて、今と同じ共同経営だったんですよ」
「まだ、その時は鳴戸さん、絡んでいなかったんですか?」
「その時の店の店長が、鳴戸さんです」
 言葉が途切れた。
 全然、話の展開が読めなくなっている。これからどうなるのだろうか?
 今の岩崎と同じ立場だったのか。それがどうやって一人のオーナーをどかし、自分がその位置に行けたのだろうか?
 共同経営とはいえ、現在の力関係は、どうみても鳴戸の方が上だ。主従関係がたったの三年で、こうも逆転するとは……。
 一体、鳴戸は、どんな魔法を使ったのであろうか?
「鳴戸さんが店長の時なんか、俺なんて比較にならないほど、金を抜いてましたよ。俺が鳴戸さんの下でやってた時も、ほんとすごかったです。もちろんその分、店は今なんか話しにならないくらい忙しくて、従業員を新しく入れても仕事がきつくて、ほとんど一日で辞めてしまう状況だったんですよ」
「じゃあ俺は、入った時期が恵まれてたんですね」
「仕事の暇さだけで見ればそうですけど、一概にはそうとも言えないですよ。赤崎さん、例えば今、手に入る金が二倍、三倍だったら、同じこと言えますか?」
 考えてみた…。答えは一つしか考えられない。
「言えないですね……」
 また一つ、歌舞伎町の住人として染まったような気がした。
「でしょ?」
「でも、派手に抜いたのは分かりますけど、それからオーナーには、どうやって上がったんですか?」
「ハッキリ言うと、水野さんてちょっと間が抜けてるじゃないですか」
 岩崎の確信をついた言い方に、どう返答したらいいか困ってしまう。
「ま、まあ……」
「うまい具合に鳴戸さんが口車に乗せて、水野さんは簡単にその話しに乗る。…で、前のもう一人のオーナーを協力して、うまく追い出したんですよ」
「だいたいの内容は掴めましたけど、一体…、オーナーを追い出すなんて、どうやったらそんなことが可能になるんです?」
「もう片割れのオーナー、名前は島谷っていうんですけどね。その人、店の上がりだけで満足すればいいのに、借金してまで競馬に使うほど狂っていたんです。パチンコとかならよかったのに……」
 回りくどい岩崎の言い方。早くその先を知りたいのに……。
「何でパチンコならいいんです?」
「パチンコと競馬、同じギャンブルです。でも、何が決定的に違うか分かりますか?」
「競馬は一瞬で決まるギャンブル、パチンコは時間を使って勝ち負けが決まるギャンブルということですか?」
「それも当たりですけど、まだあるんです。同じ十万円を使うのに、パチンコで使うのは大変だけど競馬は一瞬です。いくら金儲けしてても、その一点に張る金額が多くなるだけで、根本的な勝ち負けは何も変わらないところなんですよ。競馬の怖いところは百円でも百万円でも、負ける時は同じ一瞬という点なんです。当たれば天国ですけど、そんな周りが見えてない人間が大金を賭けて当たると思いますか?前の島谷というオーナーは、競馬に完全狂ってました。負け続け熱くなり、首が回らなくって水野さんから借金をしてたんです」
「簡単に言うと、その金の貸し借りが水野さんに対して、頭が上がらなくなったということですか?」
「そこに鳴戸さんは、目を付けたんですよ。まず、店を流行らなくする。当然客は来ないから売り上げもないし、金が抜けなくなるから、自分も今まで抜き放題だったという資金源は止まるけど、最低でも給料は日払いでもらえる。オーナーサイドは、従業員の給料や経費、家賃など、収入がなくて赤字経営でも、金は出る一方です」
「……」
 狙いが分かってきた……。
 でも俺に構わず、岩崎は話し続ける。
「店が調子いい時、儲けは半分ずつ…、赤字になると片方は借金してて金が無い。今回に限って言えば、負担は水野さんだけにのしかかる。水野さんの資金源が僅かになるまで、鳴戸さんはじっと待ってたんです。水野さんは間が抜けていて、お人好しな部分があるから、いつもオロオロするだけ」
 なんてエグイ話なんだろう。普通じゃ考えられない。
 でも、この歌舞伎町では誰も気付かなかったら、騙されておしまいなだけだ。ここでは許される行為なのだ。
 会社登記もしないで闇でやっている商売だから、泣き言も法律も一切通用しない。騙されるほうが悪いだけなのだ。
「鳴戸さんは機を見て、水野さんに、自分の暖めておいたプランを話し掛けます。さて、そこで赤崎さんに質問です。鳴戸さんのプランとは何でしょう?」
 岩崎も充分、鳴戸のエキスを吸ってきた人間だ。鳴戸に似通った部分を非常に多く持っている。
 俺は吐きそうになった。でも、もう後戻りは出来ないところまで来ていた。
 考えるふりをして目をつぶると、真っ暗な暗闇になる。
 二つの影が浮かび上がる。
 一つは愛。
 もう一つは母親。
 愛は悲しそうな顔で俺を見る。
 母親は、『だからあんたは私の子なんだよ、ハハハ……』と、大笑いしている。こめかみの傷が疼きだす。俺は軽く深呼吸してみた。
「もう分かりますよ。その店は駄目でしょう。店を一度潰して新規開店。新しい店としてオープンするんです。もちろんレートも一円に下げて…。前の店とは全然別物ということを客にアピールするんです。私は今まで真面目にやってお金をちゃんと貯めてきました。でも島谷さん、もうあの人は終わりです。あの人を切って、これから私と一緒に共同経営として、うまくやって行きませんか…って、感じで言ったんじゃないですか?」
 パチパチパチ……。
 岩崎は拍手をしている。顔は真面目だ。
「素晴らしい。赤崎さんはいいですね。ここまで緻密な答えを言うとは、思いませんでしたよ。ビックリです」
「岩崎さんの話の持って行き方が、抜群にうまいだけです。俺はただ、その流れに乗って物事を言ったまでです」
「謙虚だな、赤崎さんは…。これ、その答えに対する賞金です。今日は気分いいんで特別にボーナス代わりです」
 岩崎が金を俺に渡してくる。五万円あった。
 俺は黙って受け取る。そしてすぐ自分の財布を取り出してしまう。
 一体、岩崎は、このダークネスからどれだけ金を抜いているのだろうか?
 しかしそんなことはもう、どうでもよかった。岩崎は五万という金額を渡しても、まるで痛くも痒くもないのだ。きっとその数倍以上の金を抜いているのだろうから。
 もともと岩崎自身の金ではない。今まで何故俺にと思っていたが、もう金をもらっても、必要以上、岩崎にペコペコすることはないだろう。
「いやー、赤崎さんとは、運命的なものを感じてますよ」
 続けて岩崎は話しだす。いつもより饒舌だった。非常に興奮しているようだ。負けずに俺は、自分で感じ取ったものを言い続ける。
「見事、水野さんを丸め込んだ鳴戸さん。でも、その時点で水野さんは、資金がほとんどない状態だった。だから鳴戸さんは、今まで貯めてきた金の一部をこのダークネスの開店資金に当て、面倒な現場の確認は、水野さんにやらせる。この商売、みんなが言ってるように悪い従業員が多い。もし現場で、従業員が何かトラブルを起こし、店の売り上げが減ったり、余計な経費が掛かったりしたら、形式上、水野さんが責任をすべて被るように持っていった…。こんなシナリオだったんじゃないですか」
 主従関係を逆転させた下克上のシナリオ。
 水野が気付いた頃には、時すでに遅し。鳴戸の用意した蜘蛛の糸に、がんじがらめに絡まり、身動き出来ない状況になっていた。
 可愛そうで哀れな水野。金が無いから、格好すらつけられない。だから従業員である俺に、たった千円の食事代をケチったのかもしれない。
 しかし、現時点で俺は、騙している側の人間に回ってしまっているのだ。主犯ではないが、充分、立派な悪党になっている……。
「いやー、鋭いなー、赤崎さんは…。初めて会った時から普通の人とは何か違うなって、自分は感じてたんですよ」
「口の達者なクズですよ。俺なんて…。ただのクズ……」
 本心だった。
 今まで自分は、どちらかというと正義感は強い方だと思っていた。金で心は動かされない。何のメリットも無いかもしれないけど、自分の中で大事にしてきた部分だった。
 確かに金を稼ぎたかったが、出来れば綺麗に…、いや、誰にでも自慢できる稼ぎ方がしたかった。
 でも現実に、汚い金をもらって生活している。当然、陰で泣く人間もいる。ここでは水野だが、俺は状況を知っていながら平気な顔をして水野に嘘をついている。今までの考えなど、所詮、甘ちゃんな理想論でしかない。
 もう愛は、絶対、俺に笑いかけてくれないだろうな……。


 

 

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7新宿クレッシェンド-岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)12345678910111213帰り道に行きつけの喫茶店、アラチョンの看板が視界に入る。無性に腹が減っていた。大...

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