
2024/10/02 wed
前回の章
区役所裏の東通り沿いにあるヌード劇場のTSミュージックの前を通り過ぎる。
ここではAV女優が多数来て、ストリップをする場所らしい。
フィッシュの名義人だった浜松はエロビデオオタクでもあったので、以前そう詳しく教えてもらった事があった。
すぐ先のT字路の角の店の前に村川の姿が見える。
TSミュージックのメガネを掛け、スキンヘッドの太った従業員と立ち話をしているようだ。
とても楽しそうにちょっかいを出し合っている。
豆タンクのような小太り体系の二人がじゃれあっている姿は、傍から見ると非常に滑稽だった。
「村川さん」
とりあえず声を掛けてみる。
「おう、岩上。よく来たな」
「仕事の話って?」
「とりあえず『伊幸伊』に行こう。平野さんたちも、おまえを待っているんだ」
「平野さん?」
思わぬ名前が出てビックリした。
平野という人物は、この辺の歌舞伎町一帯の大ボスである。
主に裏ビデオ屋のオーナーたちが取り巻きになっていた。
この村川も平野グループの一員である。
「岩上が来るって言ったら、みんな喜んでいたぞ」
「ちょ…、ちょっと待って下さいよ。俺はただ…、何の仕事をするのかって、まず聞きに来ただけですから」
訳も分からない状況で仕事を引き受けるなんて冗談じゃない。
こっちは百合子との間に子供が生まれるかもしれないのだ。
もう警察に捕まるような仕事は真っ平ごめんである。
「だから伊幸伊で話すって。みんな、焼肉を食べないでおまえを待っていたんだぞ」
「分かりました……」
これはとりあえず焼肉屋の伊幸伊まで行かないと済みそうもないな。
「よし、じゃあ行くぞ」
いつも無愛想な村川が妙に機嫌がいい。
まだ何の商売を始めるのかは分からないが、俺の能力が必須なのだろう。
あの村川が俺に対し、「力を貸してほしい」と電話で言ってきたのだ。
少し慎重に構えたほうがいいかもしれない。
東通りを歌舞伎町二丁目方面に向かって歩いていく。
ここから百メートル先に伊幸伊はあった。
ゲーム屋ワールドワン時代、競馬で大勝ちした時は、よく部下たちにここの焼肉を奢ってやった思い出がある。
当時出前も気軽にしてくれたので頼みやすかったのだ。
途中、式典をしている山下の前を通る。
暇を持て余している山下は、また俺に話し掛けてこようとしたので、手で静止してそのまま過ぎ去った。
喫茶店『ルノアール』に差し掛かる。
伊幸伊はその隣にあった。
ガラス張りの中を覗くと、客層は相変わらずヤクザ者だらけ。
どうして筋者はここが好きなんだろう。
東通りだけじゃなく、西武新宿駅前のルノアールもほとんどそうだ。
ここを利用する客なんてヤクザか裏稼業の人間ぐらいしかいないんじゃないかって錯覚すらしそうである。
身長百八十センチ、体重九十キロの俺と、漫画『ナニワ金融道』に登場する桑田そっくりな村川の二人に声を掛けてくるポン引きは誰もいなかった。
伊幸伊へ到着すると、「二階にいますよ」とすぐ従業員が声を掛けてきた。
村川や平野はこの焼肉屋の常連なのだろう。
狭い木の階段を上がり二階へ向かう。
「おう、ようこそ、岩上ちゃん」
大ボスの平野が俺たちの姿に気付くと、すぐ声を掛けてくる。
何度か顔を見た事があるぐらいで、こうして話し掛けられるのは初めての事だった。
「はじめまして」
「何だよ、堅苦しいなあ。君の噂は村川や高山から聞いていた。まあそこへ座りなよ」
その辺のヤクザ者より貫禄がある平野は外見とは打って変わったような優しい声を出す。
周りに座っている面子を見てみた。
「……」
ビデオ屋メロン時代、裏本の業者として出入りしていた當間が分かるぐらいで、あとは誰も知らない。
とりあえず平野に言われた通り腰掛ける。
「岩上はビールでいいか?」
「は、はあ……」
本当ならスコッチウイスキー・シングルモルト・スペイサイド地方のグレンリベット十二年が飲みたかった。
しかしそんなものが焼肉屋にあるはずがない。
グラスに注がれたビールを持ちながら全員で乾杯をした。
「村川さん…、一体どんな商売をするんですか? そろそろ教えて下さいよ」
目の前の焼けた肉を箸で引っくり返しながら村川へ話し掛ける。
「ヘルスだ」
「え、ヘルスって……」
フィッシュの跡地で風俗をするには狭過ぎないか?
あそこ、確か五坪もなかったはずじゃ。
「あの場所を受付にして、デリヘルをするんだ」
「デリヘルってデリバリーヘルスですか?」
「ああ、そうだ」
確かにあの狭い店舗でも、受付ぐらいなら問題ないだろう。
他の場所でヘルス嬢の待機場所の確保と、客とプレイするのはホテルを使えばやれない事もない。
「ゲーム屋っていいもんですよね。風俗みたいに女のオマンコで飯を食ってんじゃなく、鉄火場で飯を食ってんだから」
この街で始めて働いたゲーム屋のオーナーである鳴戸の台詞を思い出す。
裏ビデオ屋の時もそれを思い出した。
あの時俺は、鳴戸の言葉に共感を覚え、自分の立ち位置を納得させていた。
今まで風俗には散々行ったが、自分がそこで働くとなると話は別だ。
従業員が主役でなく、女たちが主役の職業に対し、どこか軽蔑する自分がいる。
「村川さん…、せっかく誘ってもらって申し訳ないんですが……」
丁重に申し出を断ろうとすると、村川が説得に来た。
「岩上君には別に店舗で働いてもらうつもりはない。君はパソコンが得意だろう? だから風俗のホームページ作成や、売り上げの計算、広告などのデザイン全般を受け持ってもらいたいんだ」
「……」
先輩の坊主さんが週二回つきっきりの徹夜で教えてくれて授かったパソコンのスキル。
小説を書くようになったのも、プログラマーの坊主さんを抜ける部分が欲しかったから。
だからこそ俺はフォトショップでデザインをするようになり、ワードを使って小説を書き始めた。
村川の誘いは、パソコンを使って仕事をしたかった俺の心を揺さぶる。
別に俺が風俗で働くのではなく、運営に関わるだけ……。
必死にそう自分を納得させようとしていた。
この風俗店を運営するに当たって、オーナーは村川だけでなく、四人のオーナーが分割して出資するとの事。
大ボスの平野も、他の三人のオーナー同様中立な立場で加わっているようだ。
俺も含め集めたスタッフは全部で三名。
一人はメロン時代、裏本を作り、それを卸していた業者の當間。
もう一人は四人のオーナーの一人、有木園の兄だった。
「岩上ちゃんの噂は今まで色々聞いていたし、岩上ちゃんが一緒にやってくれたらとても助かるんだよね」
當間が人の良さそうな笑顔で話し掛けてくる。
前の裏ビデオ屋五店舗の統括の立ち位置も、彼が仕事を紹介してくれた事から始まった。
確かに女と関わる訳じゃないし、好きなパソコンをいじっての仕事なら、そんな悪い話じゃないかもしれない。
當間が陣営にいるなら、有名なAV女優などを店に取り込める可能性だってあるし、様々なアイデアを企画に練り込めるかもな。
仕事的には面白くなるだろう。
一つ不思議に思ったのが、有木園である。
弟が出資するオーナーの一人ではあるが、その兄が店で働く。
もし弟の徹也や貴彦が金を持っていて、いくら金を出すと言ったところで、俺は絶対に断るだろう。
兄としてのプライドがあるからだ。
珍しい苗字。
出身を聞くと案の定沖縄だった。
太い眉毛に超濃い顔つき。
正にザ・沖縄という感じだ。
「一緒にやろうよ、岩上ちゃん」
村川はこの状況を狙い、俺が陣営に加わるのをはなっから計算していた。
だが他に宛のない俺は、これを断ってどこで仕事をする?
また新人から始め、一から積み重ねなら、歓迎されたほうがいいはず。
それに、俺は百合子とこれから生まれる子供の為にも、金を稼がなきゃいけない。
サラリーマンをやって細々した生活を送りたいのか?
違う……。
やり甲斐のある裏稼業で、またのし上がって金をつかみたいのだ。
「分かりました」
俺が静かに頷くと、四人のオーナーと當間、有木園は大きな拍手をして喜ぶ。
うん、きっとこの判断は間違いじゃない。
「岩上ちゃん、好きなもん注文しなよ」
「ありがとうございます」
大ボスの平野は上機嫌で酒を飲んでいる。
「當間」
「はい」
「最初の準備金でいくらぐらい必要なんだ?」
「そうですね、店の改装費や岩上ちゃんにホームページとか作ってもらわなきゃいけないんで、二百もあれば……」
「分かった。よし、みんな…、五十ずつだ」
平野の言葉で他の三人のオーナーは五十万円ずつを出し、テーブルの上に置かれる。
続いて平野も分厚い財布から五十万円を取り出し、テーブルの上に置いた。
目の前に置かれた二百万の金。
「店の店長は當間だ。岩上に有木園のお兄さん…、二人は當間とうまく協力して頑張ってほしい」
そう言いながら、村川は二百万の札束を當間へ手渡す。
裏ビデオ屋という打ち出の小槌を持つ四人のオーナーたちにとって、五十万という金額はそう痛くもないのだろう。
普通の会社と違い、裏稼業は金の流れが早い。
これが吉と出るか、凶と出るかは俺らスタッフ次第になるのだ。
店舗はすでに用意されている。
中を受付用に改装し、風俗嬢用の待機室と客とのプレイルームの確保、さらにホームページや宣伝などをやれば、すぐにでもオープンできるだろう。
三人の従業員である俺たちは、それぞれの役割分担を決める事にした。
俺はパソコン関係全般。
そしてチラシや割引券などのデザイン全般。
當間は店で働く女を集める事と、『フィッシュ』の店内改装。
有木園は最近でき始めた情報館やレンタルルームなどへの打ち合わせ。
「岩上ちゃん、ホームページって作るのにいくらぐらい掛かるの?」
「そうですね…、俺一人じゃ大変なんで、その筋に詳しい人間にも協力を仰ぎます」
「俺、パソコンまったくやらないから、そういうの分からないんだよね。ぶっちゃけいくらぐらい必要なの?」
「タダで協力って訳にはいきませんし、特殊技術なんで二十万円は用意してほしいです」
「二十万? そんな掛かるもんなの?」
「なら、業者にホームページ作成を依頼して下さいよ。おそらくその三倍は最低でも取られますよ、現状の価格だと」
「分かったよ…。じゃあ、岩上ちゃんに二十万渡しとくから」
當間は札束を二十枚数え、一万円札を目の前においてくる。
今でこそパソコンやスマートフォンなどの普及でかなり身近になり色々なものが安くなったが、二千四年のこの当時はパソコン一つ買うにしても安くて十数万。
ホームページ制作会社などは、現在では考えられない金額を取っていた。
少なくとも俺が提示した額の三倍、四倍は掛かる。
とりあえずホームページ作成に当たって詳しい人間……。
先輩の坊主さんに協力を仰ぎたいところだけど、あの人本当に忙しいからなあ。
自分以外にあと一人は最低でも確保したい。
すぐ連絡が取れて、俺よりもそっち方面で詳しい人間となると……。
近所の始さんならどうだろうか?
帰ったら早速お願いしてみよう。
「あと當間さん…、店用のパソコンももちろん用意してくれますよね?」
「え、だって、そんなのは岩上ちゃんのパソコンを持ってくればいいじゃない。メロンの時もよく自分のを持ってきていたでしょ?」
「……」
裏稼業の人間は無知が多いと言うか、苦労というものをまるで知らない奴が多い。
あの時使っていたノートパソコンでさえ、二十三万円の金を自分で出して買ったものなのだ。
警察に捕まり、ノートパソコンは当然没収。
釈放される際帰ってきたが、あれ以来ノートは調子悪くなり、新しいパソコンを買おうか検討中なのである。
さすがにもう仕事で自分のを使用する事には懲りていた。
良かれと思ってやった行為が、結局はうまく利用される現実なのだ。
店専用のパソコンを用意させないと、また自分が貧乏くじを引くだけ。
もしも當間が首を縦に振らぬなら、この仕事自体俺は辞めたほうがいいだろう。
「當間さん…、それを本気で言っているのなら、俺はこの件から手を引きます」
「ちょっとちょっと…、何で急にそうなるのよ?」
「パソコンがいくらするか知っていますか? それに何故自分のパソコンを店用にしなきゃいけないんですか?」
「ん、いや…、まあ、そうだけどさ」
「ホームページの更新だって、入店してくる女の子の写真のデータ管理、さらに割引券やチラシのデザインとか、どうするんですか? 業者に一回ずつ頼みますか? その都度デザイン料やら色々金が掛かりますよ。その時になってあとで泣きつかれても嫌だから、最初にこう言っているんです」
「分かったよ…。じゃあ、店用のパソコン代でいくら掛かるの?」
「その前に、割引券とかのデザインも俺がやるんですよね?」
「うん、そのつもり」
「では、フォトショップを使うんで、それ相当のスペックを持ったパソコンを用意したいと思います」
「だからいくら?」
「そうですね…、必要なアプリケーションソフトは、俺が入れておきますから、二十万は欲しいです」
「え~、そんなに~?」
「……。じゃあ、この話はなかった事にして下さい。別の人に頼んでみれば、俺が言っている事分かりますよ」
席を立ち上がると、慌てて村川が止めに入る。
「おい、ちょっと待てって、岩上」
「だって當間さんと話をしていると、話にならないじゃないですか? 何の為に二百万円の準備金を用意したんです? 全部當間さんが担当する店の改装費ででしたら、俺自身用はないじゃないですか」
「おまえの話し方は横文字ばかりで、分からない言葉が多過ぎるからだ」
「……」
これでも充分分かりやすく説明したつもりなんだけどなあ。
「もっと分かり易く言え」
「…と言うと?」
「例えば業者に発注するのと、おまえに頼むんじゃ、どのぐらい違うのかとかよ」
「色々な業者がいるのでハッキリとは言えませんが、まずホームページ作成を業者に頼むと、安いところで五十万以上します。それが相場です。あと広告や割引家のデザインを業者に頼むと、別途でデザイン料が取られます」
「それはそうだろうなあ。…で、おまえがデザインできるのか?」
「できるから言っているんです。無駄な経費を使わないようにする為にも」
「それで店用のパソコンが欲しいって訳か」
「ええ、自分が言っている事っておかしいですか?」
「いや、おかしくない。じゃあ、そのパソコンに二十万円も掛かるって言うのか?」
「本当ならもっと掛かりますよ。デザインをする為に必要なソフトは、自分が無料で入れるってさっき説明したんです」
「デザインに必要なソフト? 何だ、そりゃ?」
パソコンに触れた事のない人間に対し、説明する行為がここまで厄介だったとは……。
「例えばフォトショップです」
「何だ、そりゃ?」
「分かり易く言えば、プロのデザイナーが使用するパソコンのソフトです」
「う~ん……」
「例えばファミコンありますよね?」
「ああ」
「ファミコンだけ買っても、ソフトがないとゲームできないじゃないですか?」
「まあ、そりゃそうだ」
「パソコンも一緒だと思って下さい。頭のいい赤ん坊ですが、こっちがこうして欲しいって指令を出さないと動かないんです」
「そうなんだ? …で、そのフォト何とかっていくらぐらいするんだ?」
「普通にメーカーから買えば、十万以上します。そういったものは自分で無料でパソコンに入れるからって説明したつもりですが」
「なるほどな。おい、當間。岩上にもう二十万渡してやれ」
「はあ……」
いまいち納得のいかない表情の當間。
ここまで説明しても分からないなんて、思ったよりも馬鹿かもしれないな。
ホームページ作成料の二十万と、店内用のパソコンを作るのに二十万。合計で四十万円を受け取る。
残りの百六十万円は店内改装する當間が預かった。
「いいか? おまえらの給料は店をオープンしてからじゃないと発生しないからな。どのぐらい期間が掛かるんだ?」
「自分のほうは一週間もあれば、店の改装ができます」
當間が一週間。
なら、こっちはホームページの型だけでも二、三日で作っておくか。
「岩上は?」
「當間さんが終わる頃には形だけでもすぐに作っておきますよ。今日帰ったら早速明日にでも動くつもりですし」
「形だけって何だよ?」
「ですから…、風俗のホームページですよね? 店の説明する大まかな部分は作れますが、じゃあどういう女の子がいるのってなるとまだ誰もいないじゃないですか。だから形だけって言い方したまでです」
「そうか、分かった。當間のほうは大丈夫なんだろうな?」
「任せて下さい。プロ顔負けの腕を持っている奴が知り合いにいるんです」
當間は自信満々に言った。
一から店作りというのも面白いかもしれないな。
帰りの電車に乗る前に百合子へ連絡を入れた。
彼女は本川越駅まで迎えに来るというので、到着時刻を教える。
気の早い百合子は赤ちゃんの雑誌を色々買い込んでは俺に見せてきた。
子供か……。
百合子のお腹を見つめる。
見た目には何も分からない。
でも、この中で着々と育つ生命。
俺が留置所へ入っていた時もずっと待っていたんだ。
たくさん金を稼いで、こいつには楽をさせてやらないといけない。
早速家に帰ると俺は様々なアイデアを思いつき、
メモに書き写す。
百合子はそんな俺を不思議そうに眺め、「今日の仕事の話はどうだったの?」と聞いてくる。
「村川さんの言っていた新しい仕事って、風俗らしいんだ」
「え、そうなの……」
百合子に新しい仕事の話をすると、表情を曇らせた。
「どうしたんだ? もう警察にパクられる仕事じゃないんだぞ」
「それはいいんだけど…、色々な子と接触するんでしょ……」
内容が風俗だったのでヤキモチ焼きの彼女にとっては堪えられないのだろう。
「別に俺が店舗にいて、女の子と接する訳じゃないんだ。あくまでもパソコンとかそっちのほうを担当するだけだからさ」
「お店の女の子とは関係がないって事?」
「ああ、もちろん。ただ、ホームページで写真を載せる時だけ接触する機会はあるかもしれない。そのぐらいはしょうがないだろ?」
「う~ん…、まあね……」
いまいち気が乗らない百合子。
俺は利点を説明する事にした。
「考えてみなって。パソコンで仕事をするって事はだね、店が安定すれば家からでも仕事ができるって事になる。店を成功させればいい金だって入ってくるだろうし、おまえと一緒にいられる時間ももっと作れる。だから安心しろ」
「ちょっとの辛抱って事?」
「ああ、最初だけだよ。色々動かなきゃいけないのは」
「うん」
半ば強引に説得するように言うと、百合子は何か言いたそうな顔をしながらも頷いた。
「それとも俺が年下に扱き使われながら、真面目にコツコツとサラリーマンをしたほうが良かったか?」
「ううん…、智ちんにはそういうの似合わないし、もっと自由に色々頑張ってもらいたい」
「だろ?」
「へへ」
最近俺に対する呼び方が、智一郎の智から、智ちんに変わった。
何故ちんを付けるのかいまいちよく分からないが、彼女なりの愛情表現なんだと思っている。
「百合子、お腹は?」
「まだ食べてない」
「じゃあ、どこか食いに行こうよ」
「そうだね」
「何が食べたい?」
「寒いから温かいラーメンがいいなあ」
「じゃあ、十八番だな」
「うん」
俺たちは川越市役所近くにある抜群にうまいラーメン屋『十八番』へと向かった。
ここは昔親父に連れて行かれた店で、車の免許を取って初めてどこにあったっけと探しに行ったラーメン屋だ。
百合子はそのまま俺の家に泊まり、翌朝早くになって会社へ出掛けた。まだ
眠かったが、俺も早速動かないといけない。
ホームページ作成について、近所の和菓子の伊勢屋を営む始さんに協力を仰ぐ事にした。
子供の頃よく遊んだ蓮馨寺の斜め向かいにある。
俺より七つ年上の始さんは、学年が違うので小、中学校同じでも一緒に通った事はない。
早い時期から町内のお囃子をしていたので、俺が幼少の頃からよく可愛がってもらった。
始さんの親父さんもお囃子をやっていたが、若くして病気で亡くなってしまう。
なので始さんは奥さんの弘恵さん、娘の皐月、紗絵ちゃんと家族を養いながら和菓子屋を継いで頑張っている。
俺が坊主さんからパソコンを教わる数年前から、パソコンをやって仕事にも活かしているのであつかいはかなり達者だった。
この人はパソコンのスキルがあるので、一緒にやるなら心強い。
電話を掛けてみる。
「おう、智一郎か。どうした?」
「実は歌舞伎町で今度、ヘルスをする事になったんですね。それで店のホームページを作るようなんですが、始さんの力も借りたいなあと」
「へえ、面白そうだな。これから配達とかあるから、夕方ぐらいになったら顔を出しに来いよ」
「分かりました」
こっちの滑り出しは順調そうだ。
當間も一週間以内に改装が終わるって言っていたし、すぐ給料が発生するだろう。
そういえば有木園はその間、何をしているんだ?
あいつ、弟がオーナーだからって、胡座を掻いているだけなんじゃ……。
まあ人の事なんて、どうだっていいか。
まずは店の立ち上げに対し、自分がやらなきゃいけない事をやろう。
商売柄、どうしても不安を抱かせてしまう。
だからこそ百合子を一刻も早く安心させられるように動かなきゃ。
まずやる事の整理だ。
ホームページ作成に、パソコンを一台用意する。
他の誰もパソコンを扱えないので店がオープンしたら、俺だけでそれらをすべてこなさないといけない。
パソコンをやった事がない人間は、簡単に物事を言う。
自分ではまるでできないくせに。
それらも念頭に入れながら準備を進めないと、後々大変だ。
風俗で働くという意識でなく、一つの店をオープンさせ成功させるプロジェクトとして割り切れば、冷静かつ迅速に物事を進める事ができるだろう。
成功した暁に待っているのは多額の報酬。
サラリーマンでは稼げないような金を再び手にして、俺は百合子と生まれてくる子供の為に……。
夕方になってから始さんの店にお邪魔する。
まずホームページを作ると具体的に言っても、どのようなものを作りたいのか?
そういったデザインなどを決めるのはすべて俺の役目である。
ドメインも契約しておいたので、早速仕事の話を進めた。
「なあ、智一郎。俺の同級生で松永っているだろ?」
「ええ」
松永さんは始さんの同級生。
うちの町内連雀町のお囃子繋がりもあり、始さんとはかなり仲がいい。
「あいつも色々な仕事をしてきたから、こういった作業にはとても詳しい。だからあいつも仲間に入れないか?」
「う~ん……」
単純に作成料としてもらった二十万を十万ずつ山分けしようと思っていた俺は、もう一人加わる事で報酬が三分の一になってしまう為、即答を避ける。
「おまえは新宿、俺も家業があるし、いざって時の為にももう一人いたほうがいいと思うんだよな」
「分かりました。松永さんにも協力を仰ぎましょう」
こうして始さんの同級生松永も入れる形になり、俺は二十万の金を三等分した。
「では先に報酬を渡しておきます。均等に一人、六万五千円ずつで……」
「おい、智一郎。おまえがもってきた仕事だぞ? おまえが十、俺たちで五ずつでいいよ」
「いえ、こういうのって差をつけず、均等にしておいたほうがいいと思うんで」
「…たく…。ほんとおまえのそういうところは親父さんそっくりだな」
「あんな奴と…、一緒にしないで下さい……」
「悪かったな」
「いえ……」
「とりあえず残った五千円ぐらいおまえが受け取っておけよ、な?」
「ありがとうございます。では、俺が七万っていう事で受け取っておきます」
親父にそっくりだ。
よく地元の人間からはそう言われる事が多々あった。
顔の作りが似ているのはしょうがない。
同じ遺伝子の元で生まれてきたのだから。
しかしあの親父と生き方や性格が似ていると言われるのだけは嫌だった。
おじいちゃんが一代で築き上げた店と地位にしがみつき、ただその財産を自由に使って遊び呆ける男。
自分で生んだ子供を教育などまったく無視し、異性にモテるのをいい気になって浮気のし放題。
学校の養育費など払いもせず、すべておじいちゃん任せ。
それでいて俺ら三兄弟を育ててくれた育ての親である妹のピーちゃんには理不尽な暴力を振るう。
様々な人間を見てきたが、腐った人間という意味合いで俺の親父はトップレベルに入る。
ヒステリックだった母親は虐待を繰り返し、俺が小学二年生の冬、家を出て行った。
幼き俺の左まぶた上に二つの傷跡を残し、身勝手に出て行った母親に対し、常に憎しみの対象でしかなかった。
俺が小説を書き始めるまでは……。
新宿歌舞伎町のいかがわしいビルの地下でひっそりと書いた処女作『新宿クレッシェンド』。
あれは自身が受けた虐待の記憶だけを主人公にプレゼントした作品。
完成させたあと、不思議と心の中にあったモヤモヤが少しスッキリしたような気がした。
おそらく俺は自身を作品に投影する事で、過去の傷を浄化させられる事実に気がついたのだろう。
今になって分かる。
滅茶苦茶だった母親だが、親父がもっと親身になって接していたら、あんな風にならなかったんじゃないのかと……。
別に母親を許した訳じゃない。
今後の俺の人生とはまるで無縁、無関係になっただけ。
だからこそ、『お袋』という表現を使わず、今日まで『母親』という表現に未だ拘っているのだ。
すべては過ぎ去った過去の話。
俺は百合子と我が子の為にも、幸せで明るい未来を築いていかなければならない。
オーナーたちの意向で店名は『ガールズコレクション』と決まっていた。
現時点で分かっている情報は元裏ビデオ屋の『フィッシュ』の場所というぐらい。
なので店の住所や電話番号、そして簡易な地図などを作成した。
向かいにヌード劇場の『TSミュージック』があるのは非常に分かりやすい。
それに区役所の真裏に位置するので、客も場所が分からないという事はないだろう。
他の風俗店のホームページを見ながら、どの店のが見やすいかなどを検討していく。
俺、始、松永の三人はホームページの型を作り、あとは料金システムや働く女の写真さえ揃えば完成というところまで持っていった。
この作業で三日間。
あと四日の内に店で使うパソコンを用意すれば俺の仕事はとりあえず終わる。
「始さん、俺、歌舞伎町で打ち合わせがあるんで、明日パソコンを買いに行くのお願いしてもいいですか? フォトショップを多様すると思うんで、CPUはできれば『ペンティアム4』の二・五ギガ以上。メモリーも最低五一二は必要です。ハードディスクは百以上。予算は二十万以内でお願いできますか?」
「智一郎、それならよ。いっその事自作でパソコン作っちゃわないか?」
「自作でですか?」
「ああ、そうすれば自分仕様での一番いいものができるだろうし、価格だって安く済ませる事ができる」
「確かにそうですね」
「明日何時なら時間空いているんだ? おまえも一緒に行こうよ。それで相談しながら一緒にパソコンを作っちまおう」
「分かりました。では、打ち合わせ終わったら連絡入れますね」
店用のパソコンについて始のアイデア通り、店頭で売っているものよりも自家製でいいスペックのものを作る事に決めた。
確かに諸々がセットで売られるパソコンよりも、自分でCPUやメモリーは高性能のものを使い、必要なアプリケーションソフトは自分たちで入れたほうが、格安でいいパソコンが作れる。
百合子に仕事が着々と進む過程を説明すると、彼女はお腹を優しく撫でながらニコリと笑顔で頷く。
「順調に行けば、一週間で本当に店はオープンするだろう。立ち上げ時ってもんは、いつだって忙しいものさ。とりあえずホームページ作成料で俺の取り分が七万ある。電車賃やら色々付き合いがあるだろうから、三万は財布に入れておくけど、残りはおまえが管理してくれ」
「いいよ~、智。出てきた時だって三十万渡してきたでしょ?」
「馬鹿、そんなのいちいち気にすんなって」
「じゃあ、智とのデート代として取っておくからね」
「変な気を使うなって」
こいつと温かい理想の家庭を作りたかった。
生まれてくる子供にはたくさんの愛情を。
そして一緒にいる百合子にもたくさんの笑顔を。
狭く暗い穴の中で膝を抱えながら、そんなイメージが強い自身の幼少時代。
だからこそ温かい家庭に対する欲望は人一倍強い。
いつも母親の虐待に怯えながら日々を過ごし、操り人形だったあの頃。
母親が出て行ったあと待っていたのは、親父の理不尽な暴力だった。
勉強ができても強くならないと殺されちゃう。
そんな想いが強く心に根付き、気付けば喧嘩は負け知らず。
そしてより強さを求める為に全日本プロレスの門を叩いた。
肘さえ壊していなければ、本当ならあのリングの上で戦っていたはず……。
それが今じゃ歌舞伎町でこんな事をしなければ生きていけないような生活を送っている。
でも、それでいい。
温かい家庭を築けるなら何だっていい。