知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌㉙

2021-07-27 19:38:45 | 日記

久しぶりに知床日誌を書くことにした。コロナ危機の中での知床エクスペディションは苦労が多い。私は昨年から参加者にPCR検査をお願いし、抗原検査を集合時に行うことで感染症への不安を少しでも減らそうとしている。自由に行動したいなら行く先の負荷に配慮しなければならない。しかし冷静に物事を進めるのは難しいことだ。
海は良くない。それでも前回はなんとか回ることができた。知床の人々はいつもながらに暖かく迎えてくれる。しかし当然ながらウィルスの侵入に神経質になっている。私は彼らとの無用な接触を避けるための努力を続ける。それは昔の沈黙交易のようだ。千島アイヌはこの方法で伝染病を防いでいたという。それは長い交易の歴史の中で学んだ知恵だったのだろう。私はまんさんの家の前に野菜を置く。まんさんはその後手ぬぐいでほっかむりして海岸のキャンプ地の私に魚を届けてくれる。ニセコから野菜を届け、知床から魚を運ぶ。ここではこんな冗談のような付き合いが未だに出来る。ありがたいことだ。 
コロナは終息しない。おかげで柴田丈広の言う「ぼくたちのオリンピック2020」、アリューシャン遠征も当分できそうにない。私たちはオリンピックに合わせて日本を脱出し、2001年から続けてきたアリューシャンのカヤックに再び取り組もうとしていた。そもそも私は昔からオリンピックに興味がない。スポーツは見るものではなくするものだ。1964年の東京オリンピックの時は授業をさぼって近郊の山によく行った。右手が不自由になったのもその頃だ。
1972年の冬季札幌オリンピックにはたまたま関わった。アルペン競技に興味があったからだ。そしてオーストリアのカール・シュランツがアマチュア規定違反で失格させられるのを見た。私は山の経験を買われて記録映画のチームに雇われ、アルペン会場の手稲山や恵庭岳でアイゼンを履き、カメラマンの助手としてピッケルとザイルを持って競技コースを走りまわっていた。恵庭岳のゴンドラでカール・シュランツや他の選手と一緒になった。オーストリアチームはヨーデルが上手い。さすがチロルの選手だなと思った。
アルペン競技はヨーロッパの伝統的スポーツだ。滑降競技の勇者、カール・シュランツはクナイスルの広告塔として目立ちすぎていた。それがミスターアマチュアリズム、IOC会長のブランデージの怒りをかった。そして本番前の公開練習のあとで札幌から追放された。シュランツはプロ、アマを超えたオーストリアの国民的英雄だ。しかしIOCはこの時代、アマチュアリズムに頑なにこだわっていた。そこにはまだ1934年、ナチスドイツによって開催されたベルリンオリンピックの苦い記億と反省があったのだろうか。カール・シュランツはその犠牲になった。
1984年のロサンゼルス大会からオリンピックは変わった。ロス五輪はプロアマを問わず参加できる国際イベントになった。しかしメディアをはじめとする巨大企業やそこに群がる人たちの利潤追求の場にもなった。人種差別や様々な対立が浮き彫りにされた大会でもあった。国威発揚と市民の熱狂をうしろだてに、覇権主義が再び力を持ち始めた時代の到来だった。
今日、日本では世界的感染拡大危機の中でオリンピックに反対する人が国民の8割を越えている。しかしこの国は五輪を強行する。NTTや電通などの巨大企業、スポンサーでもある有力新聞と一部の特権的富裕層、IOCやJOC、そして国や官僚の利権と面子を守るためだ。また政権の腐敗を市民の熱狂で隠すためでもある。アスリートファースト、安心安全、復興五輪、人類がコロナに打ち勝った証し、国民に向けたこれらの言葉はどれもむなしく胡散臭い。これはもはやベルリンオリンピックと同様、スポーツに名を借りたイベントでしかない。アスリートはローマのコロッセオで戦う奴隷戦士ではないはずだ。
私はオリンピックをやめるべきだと思う。そしてパラリンピックだけを開催すべきと思う。とりあえずパラリンピックはオリンピック精神を具現化していると思うからだ。しかし無理だ。オリンピックは儲かるがパラリンピックは金にならない。国民が熱狂しないからだ。ただでさえ弱者に冷淡な現代、コロナを言い訳にパラリンピックを中止することはあっても、オリンピックをやめることはないだろう。
北海道は20年前に破綻した公的ガイド資格制度に再びテコ入れを始めるという。私はアウトドアを観光資源にしても失敗すると常々言ってきた。しかしこの分野の市場としての可能性に期待する人は変わらずに多い。20年前は資格制度に組み込まれなかったシーカヤックも、今度はいよいよ含まれるらしい。当時シーカヤックは公的資格制度になじまないとして制度の外に置かれた。ヨットと同じ海洋スポーツだからだ。海は狭い意味での技術が通用するところではない。多岐にわたる知識とともに経験を積まなければならない。座学や短時間の講習で簡単に資格を与えるのは、シーカヤックだけではなく登山など他のスポーツにとっても危険なことだ。
ところでこのような制度を作ることで得をするのは誰なのだろうか。講習の義務化は主催者に利益をもたらし監督官庁の力を強める。雪崩講習を例にとってもそれは明らかだ。問題は金さえ積めば誰でも資格が手に入ることだ。これらの制度には必ず学識経験者とその権威を有難がる人たちの姿が見え隠れしている。
役に立つことを教えるのならまだ許せる。しかし実際は中学の理科程度の基本知識を教えることで、誤った自信を持たせるだけだ。だから事故が無くならない。問題なのはこれらの講習がより大きな資格制度の必須要件になっていることだ。すでにこれはネズミ講だ。このような仕組みをあらためない限り、資格を与えても事故は続く。
3年前、軽井沢に住むアメリカのシールズを名乗る人物が知床に来た。仲間の2人は米海軍のパイロットだった。しかしその自称シールズは日本人蔑視のかたまりのような人だった。毎日トラブルが続いた揚句、最後に彼はツアー代金を踏み倒そうとした。思い通りにならず不愉快だったというのがその理由だ。私は参加者全員の安全に責任を負う。しかし限度を越えた迷惑を許すわけにはいかない。2人の同行者の名誉のために詳しくは書かないが、私はあらゆる手を使って最終的に金を払ってもらった。仲間の2人も彼には手を焼いていた。聞けばあこがれの知床を案内してくれると聞いてアメリカから飛行機に乗り、今回はじめて東京で会ったのだと言う。彼らは合衆国海軍の情報収集能力の不足を後悔していた。
私は多くのヨーロッパ人に出会った。知り合いも多い。確かにニセコにも似たような人はいる。しかしここまでひどいのは初めてだ。彼が語る経験はすぐに嘘とわかる。ビンラディン暗殺まで自分のチームがしたのだそうだ。こんな人が軽井沢に住み、防衛省に出入りしてホラを吹いているのだ。霞が関や軽井沢にはそれを信じる日本人が大勢いるのだろう。アメリカ海軍の名誉のために言うが彼は米国人ではなく北欧人だ。もっともこんな詐欺師のような人は国籍を問わずどこにでもいる。
ガイドの仕事は多岐にわたる。それは安全を守ることだけではない。時にはゲストを叱らなければならないこともある。特に他に迷惑をかけるようなことがあれば尚更だ。ゲストに信頼されることは大切だがそれはお客に迎合することではない。毅然たる態度が時には重要だ。ゲストと寝食を共にする知床では、自然のリスクとともに人間のリスクが大きい。
ところでコロナ対策に見られるようにこの国はなぜ国民の命をこれほどまでに軽視するのだろう。PCR検査、ワクチンの確保。厚労省と国の対策は常に後手に回っている。なぜなのだろうか。菅内閣のブレーンとしては竹中平蔵氏がよく知られている。彼らがこの国の方向を決めているのだろうか。デービット・アトキンソンという英国人もブレーンの一人だ。この人は京都の美術工芸修復を専門とする会社の社長であり、菅総理と安倍前総理に観光政策などをアドバイスしてきた。竹中氏と同じく中小企業はいらないという考えの持ち主だという。この会社は日光東照宮の修復も手掛けたというから実績のある会社なのだろう。しかし復元された国宝は今ではカビと剥離で目も当てられない状況だという。なぜだろうか。自社の利益を取りすぎて見てくれだけの修理で済ましたとしたら、カビも剥離も説明がつく。しかしそんなことがあるだろうか。私はそこに日本人とその歴史、日本文化を見下す無知の体質を感じる。そしてこのいい加減な修復工事は当時の安倍総理の後ろ盾がなければ出来なかったのではないだろうか。文化庁も問題はわかっているのだろう。しかし時の権力に忖度するしかなかったのだろう。
日本の政治家はいつのまにか国民を見なくなっている。私たち庶民はそれに合わせて生きるしかない。これはなにも菅氏や安倍氏に限ったことではない。外人との交流を自慢し有難がる町村長は多い。さすがにファーストネームで呼び合うことを自慢するような恥ずかしい人はいないだろうが。
驚いたのは、この英国人が経営する美術工芸修復会社の社主が、なんとあの知床に現れた自称シールズの妻だったことだ。私はこれでうなずけた。軽井沢でも東京でも、彼のまわりの日本人は庶民を見下すことを当然とする同じ体質の人たちなのだ。彼らは自分が特別な人間であり、平民は黙って従い、利用するものだと本気で思っている。だから知床でも私を従わせようとした。こんな人たちの言うことに耳を傾け、それが政策に反映されれば東照宮だけでなく国民もえらい目に遭うのは目に見えている。今起こっていることを見ればそれが良くわかる。
私たちは物言わぬ国民だ。しかしまわりで起きていることを考えるべきだ。哲学者ハンナ・アーレントは言う。市民が思考を停止し、周りに迎合して多数が同調すれば、やがて人間誰もが本質的に持つ「凡庸の悪」が姿を現す。そしてそれが全体主義を生むきっかけとなる。ハンナ・アーレントは自身のユダヤ人としての体験と戦後のアイヒマン裁判をきっかけに、終生ファシズムの起源を研究した。この国も再び危険な国家主義に傾き始めているのではないだろうか。
アリュートは初対面の人と目を合わせない。アクタン島で私は実際にそれを体験した。これは冒頭に書いた沈黙交易にも通じる知恵なのだろう。値踏みはするが見下さない。先ず相手に敬意を払う。私はそうやって海を漕いできた。知床の人たちとの沈黙交易は今年も続く。