知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌⑱

2020-06-27 16:58:25 | 日記

知床日誌⑱

今は閉鎖されているが斜里町ウトロのしれとこ自然村は知床で最も人気のあるキャンプ場だった。20年前、私はカヤックのフィールドを積丹から知床へと移した。そして自然村の赤澤歩さんに世話になってきた。フィールドを移した理由は色々ある。きっと知床に可能性を感じたのだろう。人も親切だ。札幌近くの積丹半島はその当時、シーカヤックの新たなフィールドとして賑やかになりつつあった。ベトナム戦争後にアメリカから来たアウトドア文化は、自然回帰や冒険願望を取り込んだ新しい動きだ。人はその流れに乗り遅れまいとした。この文化では地道な経験も修練も関係ない。道具を買えば誰でもアウトドアマンになれる。冬山登山もヒマラヤも、花見やハイキングも区別はない。すべてがアウトドアなのだ。それは私が長く続けてきた世界とは明らかに違った。人々は山スキーに代わってテレマークスキーに飛びついた。踵が上がるから自由の象徴だという。そしてこれからはテレマークの時代だと真顔で言う。その節操のなさにあきれた。変だ。これでは新手の商業主義の見本市に乗せられているようなものではないか。私はそう思った。今も感じる居心地の悪さは、おそらくそんなところからきているのだろう。しかし私はとりあえず生きるため周りに合わせた。そして目立たぬよう行動した。知床を選んだのはそんな理由からかもしれない。

知床は人間の失敗に手厳しい。昔、厳冬の50m/sの吹雪の中、羅臼岳の稜線でイグルーを作り命からがら下山したことがある。ここで生半可な知識は通用しない。知床の素晴らしさは原始性だけではない。自然の過酷さこそが知床の素晴らしさを作っているのだ。ここはアイヌ狩猟民や漁民が長く暮らした土地だ。彼らをアウトドアマンと呼ぶだろうか。赤澤さんは戦前この土地に入植した赤澤家の子孫であり、変化する知床を見続けてきた。赤澤家は戦時中、カムイワッカ鉱山から逃げ出す労働者をかくまって逃亡を助けた。戦後長く、カムイワッカの強制労働の歴史が地元で語られることはなかった。過酷な労働に耐えきれず、彼らは便所の床を破って逃げだす。そして海岸からイタシュベツの沢に逃げ込み幌別川の赤澤家にたどり着いた。赤澤家は彼らをむしろの陰に隠し、ほとぼりが冷めるのを待って山に送り出した。しかし半島の付け根で待ち構えていたのはカムイワッカの棒頭(ぼうがしら・監督)だった。捕まった彼らは荒縄に巻かれ、うらめしそうな顔をして赤澤家の前を鉱山に引き立てられて行ったという。戦時中硫黄を採掘していたカムイワッカ鉱山では朝鮮人を含む大勢が強制労働で死んだ。

今日の知床五胡はかっての入植地の跡だ。今も廃屋や植林地が点在している。赤澤家もそこにあったがトノサマバッタの被害、国の政策の転換などで農業を諦めざるを得なくなった。それで現在の場所に温泉を掘ってキャンプ場を営むようになった。私は去年までここをベースにカヤックをしてきた。赤澤は経験豊かな自然人だ。しかしそれを吹聴しない。そして先祖がそうだったように外来者に暖かい。しかし外来者ばかりのウトロで彼は軽んじられ、煙たがられてきた。ここは世界遺産を売りにする知床観光の中心だ。つまりアウトドア文化の中心だ。その中で弁の立つアウトドアマンや役人と付き合うのは容易ではない。赤澤は寡黙だ。しかし外来者は知識で物を言い、地位や立場におもねる人たちだ。

赤澤が取り組んでいる釣り人とヒグマの仲を取り持つ幌別川ルールは本来、行政が作るべきものだ。しかし役所がこの問題に真剣に取り組んできたとは言えない。今もルールは赤澤歩の熱意で成り立っている。しかし5年目を迎えてルールは上手くいっている。理由はルールが釣り人に支持されたことに尽きる。私は行政や識者が縄張りや立場を越えてこの問題に取り組み、赤澤を後押しすべきと思う。こういう時こそアウトドアの本場であるアメリカの取り組みを参考にすべきではないのか。しかしそうはならない。朝の3時前から釣り人とクマを見張る赤澤の活動はボランティアであり、その費用を出す根拠がないというのが役所の言い分だ。かってニセコで同じことを経験した私には赤澤の苦労がわかる。そして役人と学者の思考回路も理解できる。彼らは成果を求めるが手は汚さない。今年もまた赤澤は幌別川で釣り人とヒグマとの仲を取り持つだろう。昔のように赤澤歩と焚火の前で話がしたいものだ。

新谷暁生

知床日誌⑰

2020-06-25 22:15:51 | 日記


知床日誌⑰

私は雨具に漁業用雨具、通称「漁師がっぱ」を使う。1986年のネパールヒマラヤ、チャムラン(7319m)遠征では雨期のヒルだらけのベースキャンプまでの24日間をこの分厚い雨具とゴム長靴で歩いた。もちろん通気性はないが水がしみて濡れることもない。何よりもこれがあれば雨の中でも家畜の糞尿にまみれた地面に座って酒を飲める。多少重いが見てくれより動きやすい。極寒の海で漁師が使うのだから当然作業性は良く動きやすい。私はこれなしに海には出られない。雨具に求められる機能の第一は防寒性だ。そのために外気を遮断する適度な厚さが必要だ。一般的なナイロン素材の雨具はたとえそれが高価な通気性素材であっても時間が経てば体に張り付き、雨の水温が体温を奪う。つまり濡れなくても時に低体温症を引き起こす。漁師がっぱは通気性がないので蒸れる。しかし蒸れても死なない。雨が降らなくても風が吹けば寒い。これ以上実用的な雨具はない。

毛にまさる肌着はない。速乾性が売りの肌着も、乾く条件がなければ優れた機能を発揮できない。唯一ウールだけが濡れた中で保温性を保つ。間違っても木綿を使ってはならない。大正12年2月、この時代を代表する登山家、板倉勝宣が吹雪の北アルプス松尾峠で遭難死した。遭難の理由は板倉だけが木綿の肌着だったためと言う。同行していた槇有恒らは毛の肌着を着用していて生還した。北海道では近年、トムラウシ山や羊蹄山、知床岳などでガイド登山中の凍死事故が起きている。ガイドには責任がある。装備を客任せにせず、出発前に点検して不備があれば貸すなりすべきだ。ゴアテックスは優れた素材だが豪雨の中でそれ一枚では、仮に体が濡れなくても体温を奪われる。雨具の下にウール肌着か薄手のウールセーターを着るだけで命が助かる。道案内だけがガイドの仕事なのではない。客の身の安全に気を配ることが最も大きな仕事と言える。

私は知床の参加者に漁師がっぱを貸す。だれもそんなものを持っていないからだ。必要なら肌着や羽毛シュラフも貸す。過酷な条件で役に立つのは天然素材だ。春の知床ではドライスーツも貸すがガスケットがよく破損する。艇もそうだが自分の道具でないとどうも扱いが荒くなる。しかしそれは致し方ないことだ。壊れたら直せばよい。道具は必要な時になければならない。暑ければ裸で良いが人は北風に弱い。そして北風や冷たい雨、雪は自然のなかであたりまえのことだ。私たちはそれに備えなければならない。

ミニマリストという言葉がある。個人装備を徹底して軽量化する人を指す。私もその端くれだが防寒具を減らしても漁師合羽を持つ。着替えはあるが使わず、多くの場合着干しする。上陸して設営や焚火を始めて1時間もすれば生乾きになり、そのまま寝袋に入れば朝までに乾く。しかし嵐が続く時は雨漏りのするタープの中、濡れた寝袋で震えながら過ごすことになる。木綿のパンツは濡れると漏れたオシメ並みに不愉快だ。それならはかなければよい。私はウールももひきを直接履いてパンツをはかない。私のセンスは経験に根ざしている。快適な野外の暮らしなどない。濡れて寒いのが当たり前の世界だ。特にカヤックではそうだ。昔、冬山を登っていた時代、雪洞の中で凍って硬くなった寝袋を音を立てて引きはがし、潜り込んで体温で氷を解かして眠った。本当に必要なものはそう多くない。そしてそれを知るにはやはり経験が必要かもしれない。私は今でも使わないお洒落Tシャツやサングラスを持って海に出る。そして肝心なものを忘れる。前回はノコを忘れた。まだ修行が足りないと思う。

新谷暁生



知床日誌⑯

2020-06-24 18:32:33 | 日記



知床日誌⑯

知床岬は太平洋へとつながる根室海峡とオホーツク海とを分ける岬だ。対岸の国後島はかっては日本だったが、終戦でソビエト・ロシアに占領された。島は羅臼から僅か約30キロだ。木々の色や火山の噴煙まで見える。崖まで見える日は注意しなければならない。必ず嵐が来る。ここを外国と呼ぶならこれほど近くに国境がある海は日本では他にない。しかし多くの日本人はそれを知らない。知っているつもりても住む人の心情までには思いが至らない。政治家にとってここはパフォーマンスの場でしかない。戦後、知床にはエトロフや国後からの引き揚げ者が多く住みついた。そして漁業に従事した。島は故郷だ。しかしもう返ってこないと人々は知っている。知床羅臼側では戦後長く、この海で拿捕、銃撃の危険を冒して漁業が営まれている。

知床岬はカヤックにとって危険なところだ。沖まで瀬が伸びており危険なブーマーが生まれやすい。岬が静かなことはまれだ。暗礁は時に5m以上も上下して現れ、通過にはいつも神経を使う。波があっても風が弱ければ良いが、電信柱のような不規則な波と速い潮の中で漕ぎ続けるのは恐怖だ。みんなを励ますしかない。私も怖い。口がカラカラで唾も出ない。沖を回れば良いだろうと言う人もいるが陸寄りのほうが安心だ。何かあっても必ず岸にたどり着ける。怪我はするが死ぬことはない。私はいつも岬が平穏なことを祈っている。しかし南極半島から波が押し寄せるホーン岬ではさすがに沖を漕いだ。岸に衝突する波はまるで爆発のようで高さ50mにも及ぶ。二回回ったがもう二度と行かない。

北や北東の波は危険だ。何枚もの重く高い波が重なって押し寄せる。波に向かって漕ぎ続けるしかないが、どこかで曲がらなければならない。羅臼側には漁師が「潮切り」と呼ぶ細い水路がある。ここに入ればとりあえず安全だ。しかし沖に出過ぎていると入り口を見落とす。だいぶ前に一人のカヤッカーが岬を回りそこね、国後島まで流されたことがあった。そしてロシア国境警備隊に捕まり、その後日本に送還された。出発前、彼はウトロの浜で「海を漕ぐのは自由です」と言って出て行ったという。それはそうだが生きていて良かった。、知床では漕ぎ始めて三、四年目の単独カヤッカーのトラブルが時々ある。どこを漕いでいるかわからぬまま岬を回り、ペキンノ鼻の先でようやく陸地に着いた人もいたし、中間ラインの向こうで巡視船に回収された人もいる。私は昔、知床のカヤック用水路誌を書いた。知床財団の山中さんには嫌な顔をされたが、それは海上保安庁のホームページにも使われているらしい。しかし刻々と変化する海でガイドブックは役に立たない。そもそも水路誌はガイドブックではない。知らない海で道を求めるのは自分だ。海図がなくても地図さえあれば海は漕げる。アリューシャンでもパタゴニアでも私はそうやって未知の海を漕いできた。詳細な地図は要らない。20万分の1の航空地図でも間に合う。あるだけで有難い。海図は座礁したら困る帆船や動力船のものなのだ。

カヤックは歴史ある道具だ。素材は変わったが手漕ぎは変わらない。この危なっかしい小舟は水深が20cmと浅くても進み、外洋を行くことも出来る。カヤックは現代にあっては唯一自由な乗り物かもしれない。私はその自由さに憧れて海を漕ぎ始めた。シーマンシップは普遍的な常識だ。そしてそれはカヤックにも当てはまる。知床の海でカヤックが認められるようになるには長い時間が必要だった。カヤックは場所によっては禁止されている。特に北海道では漁港の利用が条例で禁じられている。原因を作ったのはカヤッカー自身だ。海の生活者を忘れて自由を主張したことが結果的に排除された理由だ。漁港や斜路は税金で作られている。しかしそれは漁業者の生活の場所だ。そこで納税者としての権利を主張するのは間違いではないが他者への配慮もない。シーマンシップは言葉ではない。互いに尊重し合う気持ちだ。カヤッカーは漁師ではない。だから彼らの邪魔をしてはならない。へりくだってもならず馴れ馴れしくしてもならない。私はその土地の生活者を尊重して漕いできた。漕ぎ続けることだけが彼らに受け入れられる道だった。自由には代償が伴う。

新谷暁生


知床日誌⑮

2020-06-21 17:46:01 | 日記



知床日誌⑮

日誌12の写真は札幌近郊の定山渓天狗岳だ。標高は1100mほどで、このあたりには珍しい急峻な山だ。札幌の奥座敷、定山渓温泉近くで豊平川と合流する小樽内川上流の山であり、奥には札幌国際スキー場と余市岳がある。私はこの山で登山を学んだ。17の時この山で右手をナタで負傷して動かなくなったが、それでも山を止めることはなかった。60を越えて今度は知床のカヤックの事故で左手が不自由になった。不運を嘆いても始まらない。しかし未だに同じことを続けているのは正直のところどうなのかと思う。もう73なのだ。私は1992年のカラコルム・ラカポシ遠征の前後から海を漕ぐようになった。海の世界があまりにも強烈だったので、それを伝えるために知床のガイドになった。私は山の経験だけで海を漕いできた。海には山と同様の何かがある。山以上に危険と思えることもある。しかし自由だった。

定山渓天狗岳は学校だ。私たちはこの山を「定天」と呼んだ。写真の左には東尾根と中央稜という2本の顕著なリッジが頂上に突きあげている。雪は深く頭まで潜る。手がかりは雪を払って探す脆い岩とハイマツだけだ。下部の垂壁を越えたところで雪崩に飛ばされたことがあった。私はその時、面発生表層雪崩というものに初めて遭った。それは教科書に書かれているようなものではなかった。斜面全体が突然割れ、一瞬で起こるのだ。私は雪崩と一緒に崖を飛び越えたが、急すぎて雪崩が先に行ってしまった。それで助かった。幸運だった。私は垂直のラッセルの登攀で雪を学んだ。そして確保の支点選びに慎重になった。雪は信用できない。だから雪面にピッケルを差し、足で踏んで支点にする尤もらしい方法はとらない。確保は確かでなければ意味をなさない。定天では垂直の岩稜に生えるハイマツが支点だった。その後この山では確保者のピッケルが雪から跳ね上がり、腹に刺さって重傷を負う事故が起きている。私はその中央稜の厳冬期第2登を行った。

私はラカポシ北陵で一生分のピトンを打ち込んだ。ネパールヒマラヤに較べカラコルムの雪は信用ならない。日射が強く雪が腐るので確保の支点は雪を払って岩に求めなければならない。ここに定天のような木はない。毎日私たちは巨大雪庇の崩壊と氷河雪崩に怯えながらルートを伸ばした。ピトンが不足して古いドイツ隊の残置ハーケンも抜いて使った。しかし力不足を悟り下山した。何よりも文登研(文部省登山研修所)で学んだ若い隊員たちの技術が信用ならなかった。ザイルを巻くのも懸垂下降もすべてにとろい。時代の断絶を感じた。しかし隊員の自然への正直さと山への真摯な思いが無事故につながった。良いチームだった。今では懐かしい思い出だ。

今日は1978年カラコルム・バツーラ2峰隊の隊長、西郡光安昭について書くつもりだった。長く失礼していたが今年、突然年賀状をもらった。私はバツーラで高山病に罹り這うように山を下りた。その時ベースキャンプまで付き添ってくれたのが西郡隊長だった。その後私は一人隊を離れてオールド・フンザ・ロードを下山した。病み上がりの体は弱っていた。沙漠の日射と酷暑は強烈だ。歩けなくなった私はオアシスのアンズの木の根元に横たわった。村人が遠巻きに見ていた。時々吐いた。そのたびに人々は飛び下がった。脈は震えるように弱い。死ねば遥か下のインダス上流の濁流に投げ込まれるのだろう。その時一人の女の子がしなびたリンゴを手に恐る恐る近づいてきた。私は有難くそれを受け取った。そしてなめるように食べた。蟻が這いまわり体をかじった。私は耐えて朝を待った。今思えばあの子は観世音菩薩の生まれ変わりだったのではないだろうか。

私は私を助けてくれた大勢の人がいたことに気付く。西郡隊長もその一人だ。年賀状をいただいてしばらく経ち、私はお礼の手紙とともに自分の本を送った。それからしばらくして奥さんから丁寧なハガキをいただいた。そこには西郡光昭が3月27日に亡くなったと書かれていた。私は言葉を失った。そして悔やんだ。信州大学山岳部OBであり、宮城県の保険所の所長を長く務めた隊長は、1970年の三浦雄一郎氏のエベレスト登山隊にも参加した医者であり、すぐれた登山家だった。今私は慚愧の念に堪えない。恩は返せなかった。西郡隊長は今でも私にとって隊長と呼べる唯一の人だ。短い交流だったが本当にお世話になった。ご冥福をお祈りする。

新谷暁生

知床日誌⑭

2020-06-20 17:39:42 | 日記



知床日誌⑭

北海道はヒグマの生息地であり人とクマとの関係が長く続いてきた。都市化か進み住宅地が山に拡がった札幌では、今もクマが現れて騒動になっている。北海道では開拓期以前にはアイヌのクマ猟が続けられていたが、明治大正期からは開拓農家を襲う凶暴なヒグマと人との戦いが始まった。1887年の札幌丘珠事件や1915年の道北苫前サンケベツ事件は入植地の広がりとヒグマの生息域が重なったことで起きている。これらの事件では複数の人間がクマに殺されている。そしてそれは昔話ではない。札幌では毎年クマが市街地を徘徊し、道南の島牧村では海沿いの集落に頻繁に出没して騒ぎになっている。今年は古平町で山菜取りの人がクマに連れ去られる事件が起きている。今も昔と変わらず騒ぎのたびに人々のクマへの恐怖はつのる。

ヒグマはネコ科のトラのように獲物として人を襲うことはあまりない。クマが人の近くに現れるには理由がある。エサがそこにあるからだ。その点で畑は良い餌場だ。デントコーン畑に座り込めば何日でもエサに困らない。放牧された家畜もそうだ。捕まえやすい。日高では半殺しの馬を後ろ足で歩かせ、前足を背負って国道を越えて海岸まで運んだクマがいたという。最近の話だ。札幌の西には定山渓から喜茂別まで山が続き、豊平川源流のこの地帯は今もヒグマの生息域だ。そこに町が拡がり畑だけでなく家庭菜園で作物が作られ始めた。クマにはウドもフキもカブもトウキビも同じだ。ドングリや山ブドウ、コクワの実も果樹園のナシやサクランボも区別はない。だから彼らは市街地に出る。昨年は羅臼で犬を狙うクマが騒ぎになった。驚いて足を折る人も出たが、このクマはまだ獲られていない。

ヒグマは本来臆病な生き物だ。普段は植物を食べることが多い。だから春先から夏にかけての糞はウシのようだ。それに木の実や高山植物の実が混じる。イラクサや蟻、蜂の巣も好みだ。肉も食べる。魚は秋の主食だ。ヒグマはその時期に手に入るもので腹を満たす。その点で彼らは人間と同じ雑食動物といえる。食性が変化するのは環境が変わった時だ。北海道では明治期からの人の増加が彼らを変えた。人の近くには野菜や果物があり、海辺の村には良い臭いのする魚が干されている。それを拒む理性は彼らにはない。そしてそれに固執する。苫前の妊婦殺しや1970年の日高山脈の3名の事故はそのような中で起こっている。ヒグマはエサを自分のものと認識し、近寄るものを襲う。だから知床で私はエゾシカやトド、クジラの死骸に近づくなと言う。それはクマのものなのだ。昨年は定置網のそばを通っただけで山からクマに吠えられた。クマは網の中に魚の所有権を主張し、それを私たちに取られると思ったのだろう。何年か前には何故か敵意を持って私に向かってきた若いクマを追い払ったことがある。クマガスは外れたら意味のない銃より身を守る道具として役に立つ。

クマの被害に遭わないためにはその習性を知るべきだ。私は若いころ(中学生だった)余市岳でクマに追われた。またヒマラヤでクマに襲われて川に隠されたヤクの死骸を見た。1970年の日高の事故では稜線に散乱する登山パーテイのザックや破られた米袋を見て変だなと思った。そして沢に降りた。福岡大学の事故はその数日後に起こった。事故には必ず理由がある。クマは本来大人しい動物だ。しかし人が不用意に行動することで猛獣化する。またその性格には個体差とともに地域差がある。星野道夫の事故もカムチャッカとアラスカの環境の違いを忘れたことで起こったように思う。

知床のヒグマは半島の狭い土地の中で古来生きてきた。川にはサケマスが遡上し、山から海岸までの豊富な食べ物を得て彼らは生きてきた。知床は住みやすい土地だった。そしてそれは猟師にも同じだ。アイヌだけでなくカラフトのニブフも宗谷を越えて知床でクマ猟をした。50年前頃まで半島の台地にニブフのクマ送りの跡があったと知床財団の山中さんに聞いたことがある。知床はかってクマとともに狩猟民にとっても天国だったのだろう。

しかし今日その全てが危うくなり始めている。メディアや学者は無用に恐怖をあおりテレビでおもしろおかしく知識を広める。やがてそれでは済まない事態が起こる。そうなる前に積極的な対策を始める時なのではないか。クマを誘因するゴミの始末やエサやりの禁止は当然だが、今は危険な個体を全て駆除する覚悟が役所には必要だ。しかし本気でそれに取り組む気はないようだ。国も道もこの問題は金のない各市町村と猟友会任せだ。かって間引きが野生を健全に保ってきた。しかし春熊駆除の禁止から30年、エゾシカの天文学的な増加に見られるように生態系はすっかり変わった。今はDNA解析で危険な個体を同定する前に、他にすることがあるのではないだろうか。私は環境問題にもグローバル化の弊害が現れているように思う。生態系の保護だけが保護なのではない。環境問題と人権問題は表裏一体と思う。ヒグマは沿海州の猟師、デルスウ・ウザーラが言ったように「臆病な人」なのだ。

新谷暁生