知床日誌⑱
今は閉鎖されているが斜里町ウトロのしれとこ自然村は知床で最も人気のあるキャンプ場だった。20年前、私はカヤックのフィールドを積丹から知床へと移した。そして自然村の赤澤歩さんに世話になってきた。フィールドを移した理由は色々ある。きっと知床に可能性を感じたのだろう。人も親切だ。札幌近くの積丹半島はその当時、シーカヤックの新たなフィールドとして賑やかになりつつあった。ベトナム戦争後にアメリカから来たアウトドア文化は、自然回帰や冒険願望を取り込んだ新しい動きだ。人はその流れに乗り遅れまいとした。この文化では地道な経験も修練も関係ない。道具を買えば誰でもアウトドアマンになれる。冬山登山もヒマラヤも、花見やハイキングも区別はない。すべてがアウトドアなのだ。それは私が長く続けてきた世界とは明らかに違った。人々は山スキーに代わってテレマークスキーに飛びついた。踵が上がるから自由の象徴だという。そしてこれからはテレマークの時代だと真顔で言う。その節操のなさにあきれた。変だ。これでは新手の商業主義の見本市に乗せられているようなものではないか。私はそう思った。今も感じる居心地の悪さは、おそらくそんなところからきているのだろう。しかし私はとりあえず生きるため周りに合わせた。そして目立たぬよう行動した。知床を選んだのはそんな理由からかもしれない。
知床は人間の失敗に手厳しい。昔、厳冬の50m/sの吹雪の中、羅臼岳の稜線でイグルーを作り命からがら下山したことがある。ここで生半可な知識は通用しない。知床の素晴らしさは原始性だけではない。自然の過酷さこそが知床の素晴らしさを作っているのだ。ここはアイヌ狩猟民や漁民が長く暮らした土地だ。彼らをアウトドアマンと呼ぶだろうか。赤澤さんは戦前この土地に入植した赤澤家の子孫であり、変化する知床を見続けてきた。赤澤家は戦時中、カムイワッカ鉱山から逃げ出す労働者をかくまって逃亡を助けた。戦後長く、カムイワッカの強制労働の歴史が地元で語られることはなかった。過酷な労働に耐えきれず、彼らは便所の床を破って逃げだす。そして海岸からイタシュベツの沢に逃げ込み幌別川の赤澤家にたどり着いた。赤澤家は彼らをむしろの陰に隠し、ほとぼりが冷めるのを待って山に送り出した。しかし半島の付け根で待ち構えていたのはカムイワッカの棒頭(ぼうがしら・監督)だった。捕まった彼らは荒縄に巻かれ、うらめしそうな顔をして赤澤家の前を鉱山に引き立てられて行ったという。戦時中硫黄を採掘していたカムイワッカ鉱山では朝鮮人を含む大勢が強制労働で死んだ。
今日の知床五胡はかっての入植地の跡だ。今も廃屋や植林地が点在している。赤澤家もそこにあったがトノサマバッタの被害、国の政策の転換などで農業を諦めざるを得なくなった。それで現在の場所に温泉を掘ってキャンプ場を営むようになった。私は去年までここをベースにカヤックをしてきた。赤澤は経験豊かな自然人だ。しかしそれを吹聴しない。そして先祖がそうだったように外来者に暖かい。しかし外来者ばかりのウトロで彼は軽んじられ、煙たがられてきた。ここは世界遺産を売りにする知床観光の中心だ。つまりアウトドア文化の中心だ。その中で弁の立つアウトドアマンや役人と付き合うのは容易ではない。赤澤は寡黙だ。しかし外来者は知識で物を言い、地位や立場におもねる人たちだ。
赤澤が取り組んでいる釣り人とヒグマの仲を取り持つ幌別川ルールは本来、行政が作るべきものだ。しかし役所がこの問題に真剣に取り組んできたとは言えない。今もルールは赤澤歩の熱意で成り立っている。しかし5年目を迎えてルールは上手くいっている。理由はルールが釣り人に支持されたことに尽きる。私は行政や識者が縄張りや立場を越えてこの問題に取り組み、赤澤を後押しすべきと思う。こういう時こそアウトドアの本場であるアメリカの取り組みを参考にすべきではないのか。しかしそうはならない。朝の3時前から釣り人とクマを見張る赤澤の活動はボランティアであり、その費用を出す根拠がないというのが役所の言い分だ。かってニセコで同じことを経験した私には赤澤の苦労がわかる。そして役人と学者の思考回路も理解できる。彼らは成果を求めるが手は汚さない。今年もまた赤澤は幌別川で釣り人とヒグマとの仲を取り持つだろう。昔のように赤澤歩と焚火の前で話がしたいものだ。
今は閉鎖されているが斜里町ウトロのしれとこ自然村は知床で最も人気のあるキャンプ場だった。20年前、私はカヤックのフィールドを積丹から知床へと移した。そして自然村の赤澤歩さんに世話になってきた。フィールドを移した理由は色々ある。きっと知床に可能性を感じたのだろう。人も親切だ。札幌近くの積丹半島はその当時、シーカヤックの新たなフィールドとして賑やかになりつつあった。ベトナム戦争後にアメリカから来たアウトドア文化は、自然回帰や冒険願望を取り込んだ新しい動きだ。人はその流れに乗り遅れまいとした。この文化では地道な経験も修練も関係ない。道具を買えば誰でもアウトドアマンになれる。冬山登山もヒマラヤも、花見やハイキングも区別はない。すべてがアウトドアなのだ。それは私が長く続けてきた世界とは明らかに違った。人々は山スキーに代わってテレマークスキーに飛びついた。踵が上がるから自由の象徴だという。そしてこれからはテレマークの時代だと真顔で言う。その節操のなさにあきれた。変だ。これでは新手の商業主義の見本市に乗せられているようなものではないか。私はそう思った。今も感じる居心地の悪さは、おそらくそんなところからきているのだろう。しかし私はとりあえず生きるため周りに合わせた。そして目立たぬよう行動した。知床を選んだのはそんな理由からかもしれない。
知床は人間の失敗に手厳しい。昔、厳冬の50m/sの吹雪の中、羅臼岳の稜線でイグルーを作り命からがら下山したことがある。ここで生半可な知識は通用しない。知床の素晴らしさは原始性だけではない。自然の過酷さこそが知床の素晴らしさを作っているのだ。ここはアイヌ狩猟民や漁民が長く暮らした土地だ。彼らをアウトドアマンと呼ぶだろうか。赤澤さんは戦前この土地に入植した赤澤家の子孫であり、変化する知床を見続けてきた。赤澤家は戦時中、カムイワッカ鉱山から逃げ出す労働者をかくまって逃亡を助けた。戦後長く、カムイワッカの強制労働の歴史が地元で語られることはなかった。過酷な労働に耐えきれず、彼らは便所の床を破って逃げだす。そして海岸からイタシュベツの沢に逃げ込み幌別川の赤澤家にたどり着いた。赤澤家は彼らをむしろの陰に隠し、ほとぼりが冷めるのを待って山に送り出した。しかし半島の付け根で待ち構えていたのはカムイワッカの棒頭(ぼうがしら・監督)だった。捕まった彼らは荒縄に巻かれ、うらめしそうな顔をして赤澤家の前を鉱山に引き立てられて行ったという。戦時中硫黄を採掘していたカムイワッカ鉱山では朝鮮人を含む大勢が強制労働で死んだ。
今日の知床五胡はかっての入植地の跡だ。今も廃屋や植林地が点在している。赤澤家もそこにあったがトノサマバッタの被害、国の政策の転換などで農業を諦めざるを得なくなった。それで現在の場所に温泉を掘ってキャンプ場を営むようになった。私は去年までここをベースにカヤックをしてきた。赤澤は経験豊かな自然人だ。しかしそれを吹聴しない。そして先祖がそうだったように外来者に暖かい。しかし外来者ばかりのウトロで彼は軽んじられ、煙たがられてきた。ここは世界遺産を売りにする知床観光の中心だ。つまりアウトドア文化の中心だ。その中で弁の立つアウトドアマンや役人と付き合うのは容易ではない。赤澤は寡黙だ。しかし外来者は知識で物を言い、地位や立場におもねる人たちだ。
赤澤が取り組んでいる釣り人とヒグマの仲を取り持つ幌別川ルールは本来、行政が作るべきものだ。しかし役所がこの問題に真剣に取り組んできたとは言えない。今もルールは赤澤歩の熱意で成り立っている。しかし5年目を迎えてルールは上手くいっている。理由はルールが釣り人に支持されたことに尽きる。私は行政や識者が縄張りや立場を越えてこの問題に取り組み、赤澤を後押しすべきと思う。こういう時こそアウトドアの本場であるアメリカの取り組みを参考にすべきではないのか。しかしそうはならない。朝の3時前から釣り人とクマを見張る赤澤の活動はボランティアであり、その費用を出す根拠がないというのが役所の言い分だ。かってニセコで同じことを経験した私には赤澤の苦労がわかる。そして役人と学者の思考回路も理解できる。彼らは成果を求めるが手は汚さない。今年もまた赤澤は幌別川で釣り人とヒグマとの仲を取り持つだろう。昔のように赤澤歩と焚火の前で話がしたいものだ。
新谷暁生