知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌㊱

2022-07-27 17:21:36 | 日記

知床を終えるたびに色々と考える。漕いでいる時はその時々のことしか考えない。家に帰ってから久しぶりに探検について考えてみた。古くて新しいテーマだ。探検とはいったい何だろうか。多くの探検家は新たな領土と富を求めて未知の世界へと旅立った。その後の南極や北極、ヒマラヤなど第3の極地への冒険的探検にも国の威信や権威が見え隠れしていた。探検家の多くはそのような人たちだった。それは日本も例外ではない。しかしそうでない人もいた。知床日誌を遺した松浦武四郎やキャプテン・ジェ-ムス・クックがそうだった。
松浦武四郎やクックは探検家として異質だった。多くの探検家や宣教師が行く先の「非文明」を劣ったものとして征服し教化しようとする一方で、武四郎やクックはその「遅れた」文化を尊重した。異なる文化が互いを認め合うことは難しい。部族の長や王様は常に自分が世界で一番偉いと信じている。銃を持つ人が優越感を抱くように石器人も自分の武器が一番強いと思っている。しかし異文化に接する交易の民は初対面の知恵を時間をかけて習得した。直接の接触を避ける沈黙交易や、目を合わさない初対面の挨拶も、異文化接触の知恵なのだろう。武四郎やクックはその知恵を自然に身に着けていた。彼らは人一倍人間性に富んでいたのだろうか。他人は自分とは違う。他者に配慮することが自分を守る。それが無用な争いを避ける。松浦武四郎もキャプテン・クックも自分と他者という人間の本質を理解した人だったのだろう。
武四郎は滅びゆく蝦夷地先住民の生き方と生活圏を尊重し、明治政府の方針に異議を唱えた。そしてここがアイヌ民族の土地であることを記憶に残すために北のカイの国、ホッカイドウと名付けて伊勢に去った。カイは大陸を支配した元の記録によれば、13世紀元朝モンゴルと戦ったアイヌ民族と蝦夷地先住民を指す言葉だ。元はそれを骨鬼と記してクイと呼んだ。クックは18世紀、世界航海史に偉大な業績を残した。キャプテン・ジェームス・クックはロシアに征服されたアリューシャンのアリュート民族の悲惨な運命、ロシアコサックの残虐な殺戮、そしてその優れた海洋狩猟文化と知性豊かなアリュートの姿を後世に伝えた。クックはその後ハワイ諸島で不慮の死をとげた。ちなみにピーターパンのフック船長はジェームス・クックとは何の関係もない。
探検についてはこれくらいにして知床エクスペディションについて書こう。探検史については伊勢の柴田丈広がものすごく詳しい。時間がないのでここでは焚火と飯炊き、雨具について書く。その前にしつこいようだが書き足すことがある。帝国主義は自国民にも害を及ぼす。全体主義に移行するからだ。市民がその兆候を知って黙認し放置すれば暗黒の時代はすぐに来る。来てからでは遅い。全体主義は個人の意思と自由を認めない。ヒトラーがそうだったようにプーチンも確実にその道をたどっている。プーチン史観は一見真理を含んでいるように見える。しかし民族の優劣思想を根底に隠し持つ邪悪な歴史観だ。プーチンはピョートル大帝にはなれない。この5か月、ウラルや極東、モンゴル国境などロシア辺境の若者がウクライナで大勢死んでいる。ハンバーガーを食べて浮かれているモスクワの若者たちは、いつそれに気づくだろうか。世界は再び凡庸の悪がはびこる時代になるのだろうか。
まず焚火だが、木なら何でも燃える。雨に濡れても水に漬かっていても生木でも燃える。石は燃えない。だから石でかまどを作ってはならない。火は燃える条件を作らないと燃えない。少し太めの木を2本風に平行に並べ、その間で焚き付けの細木に火をつける。そして徐々に大きくする。空気の流れを一方向にして、並べた2本の木の間に火を閉じ込める。そうすればやがて両側に燃え移る。対流が起きれば火力が上がる。火事で階段に火が走るのと同じ理屈だ。火は閉じ込めると空気を求める。そして空気の流れに沿って高速で走る。結果を想像できない無知が招いた京都の悲惨な事故もこの条件下で起きた。これは雨の多い土地の焚火法だ。この方法は人類の拡散に合わせて東ネパールのアルン川流域から東南アジアの山岳地帯を経て日本にまで伝わった。しかしすでに日本にこの文化はない。これらの土地では木自体をかまどにする。石を3つ置いて木を燃やす方法は、砂漠などの乾燥地帯の方法だ。また井桁に組むのは荼毘やキャンプフアィヤーの焚火法だ。実用的ではない。
薄いアルミ鍋でも米は炊ける。この方法を知っていれば災害時でもおにぎりが食べられる。鍋はどこにでもあるし米もどこかにある。水も濁っているかもしれないが必ずある。燃やすものは倒壊した家屋の廃材だ。洪水で流木もたくさん引っかかっているかもしれない。東日本大震災後に流行った「レスキューキッチン」がなくても米は炊ける。レスキューキッチンは灯油と発電機を回すガソリンが要るが、焚火ができれば誰でも米が炊ける。それにレスキューキッチンは高すぎる。具体的な米炊き法だがまず米に水を入れて直火にかける。そして時々ふたを開けて沸騰前から混ぜる。それを繰り返して米粒の固まりを常に崩す。やがてさらに米が煮えて本格的沸騰が始まる。さらに混ぜる。やがて鍋の中が地獄の窯状態になる。そこで直火からおろし熾火(おきび)を作ってその上に鍋を乗せる。13秒に一度鍋を回す。熾の熱が均等ではないからだ。5-6分それを繰り返す。この時ふたは開けない。そして蒸らす。そうすれば米は炊ける。赤子泣いてもふたとるなというのは料理下手な主婦の俗説だ。直火から良い「おき」を作るにはきゅうりサイズの雑木(広葉樹)の皮なしの枝が15本要る。飯炊きは重労働だ。
知床で生活する上で漁師合羽を越える雨具はない。使ってみればわかる。雨具に求められる機能は防水性や通気性ではない。防寒性だ。軽いナイロン雨具はそれがゴアテックスであっても冷たい雨の中で体に張り付き体温を奪う。知床ではウレタン素材の漁師合羽を強く勧める。ゴム系より2割軽い。サイズは大きめが良い。これがあれば雨の中で地面に座って酒が飲める。そしてどんな嵐にも耐えられる。漁師ガッパは無敵だ。今回も海岸には目立った痕跡や漂流物はなかった。それにしても保安庁や警察は半島ウトロ側の陸上捜索をやるべきと思う。現状では海岸を見ているのはこの3か月私たちだけだ。統一教会と勝共連合が巷をにぎわしている。何を今さらと思う。これが宗教と言うなら一つくらい心に響く言葉を語ってほしいものだ。他人をとやかくは言えないが、恥ずかしい限りだ。私は目の前の仕事を続けるだけだ。次の知床がすぐに始まる。

追記 もう一人優れた探検家を思い出した。ウラジミール・アルセーニエフだ。デルスウ・ウザーラを書いた人だ。

知床日誌㉟

2022-07-06 18:01:04 | 日記



遥かなる国後
6月25日からの知床エクスペディションは無事終了した。今回は今年はじめてカシュニを越えてウトロまで漕いだ。漕ぎながら海岸を注意深く見たが、特に変わった動きはなかった。ヒグマは相変わらず多い。20頭近く見た。冬眠中に生まれた子供が母親にまとわりつき、親を真似て動く姿は可愛くおかしい。新しい食べ物を見つけたのだろうか。栄養状態は良いようだ。ヒグマは賢い。彼らは雑食と用心深さ、環境適応の知恵を身に着けて有史以前から生きてきた。
知床エクスペディションの参加者は多種多様だ。私の知らない世界の話を聞けるので楽しい。今回は富山県魚津の佐伯夫妻が参加してくれた。佐伯さんは有名な立山ガイドの一人だ。また高橋庄太郎君が仲間とともに参加してくれた。彼らはツアー終了後に岬まで海岸を歩く予定だ。来年は徒歩での半島一周を目指すという。高橋庄太郎は20年近く知床エクスペディションに参加し続けている。
参加者が一様に驚くのはロシアが実効支配する対岸の国後島の近さだ。晴れていれば海岸の崖まで良く見える。しかしはっきりと見える後は必ず嵐になる。今回は霧と雨が多かったが、それでも島の最高峰チャチャヌプリがたまに見えた。ここはもう日本ではない。ロシアだ。羅臼の漁師は戦後80年近く、この国境の海で拿捕や銃撃の危険に怯えながら漁を続けてきた。島がこれほど近くにあることを、政治家だけでなく多くの日本人は知らない。モスクワのロシア人も知らない。尖閣や竹島は見えない。しかしクナシリとハボマイはすぐそこにある。私たちが北方領土と呼ぶこれらの島々が日本に帰ることはあるのだろうか。
水温は10度近くまで上がったが相変わらず冷たい。ウリクラゲが無数にいる。雨が多かったのでみんな体を濡らし、寒そうだった。テントもシュラフも湿って重い。たまの晴れ間には防水バッグから寝袋を出して乾かした。知床では完全防水の漁師ガッパが欠かせない。これを着ればどんな嵐にも耐えられる。雨具に必要な機能は防水性ではない。防寒性だ。ナイロン雨具はたとえそれがゴアテックスであっても、冷たい雨の水圧で体に張り付き体温を奪う。高価なゴアテックス雨具を使うなら、それが直接肌に触れないよう空気層を持つものを下に着なければならない。私はウールセーターを奨めている。薄いクルーネックのカシミヤやメリノウールが良い。毛は濡れても必ず身を守る。北海道の遭難事故は雨具の不備によるものが多い。近年のトムラウシや知床岳、羊蹄山なとガイド登山中の事故は、直接的にはガイドの判断の誤りによるものだ。しかしその背景にはゴアテックス雨具と速乾性をうたう化繊肌着への過信がある。事故をただ悪天候のせいにしてはならない。
知床羅臼では過去に2度の大きな海難事故が起きている。1954年5月10日には「5・10海難」が起き10数隻50数人が失われている。この時は根室海峡と太平洋でも多くの船が沈み、数百人の犠牲者がでている。1959年4月6日には「4・6突風」により15隻85人が遭難している。低気圧は知床付近で急激に発達する。西のウトロ側では朝が凪でも低気圧通過後すぐに風が強まる。羅臼側では時を置いて山越えの暴風、いわゆる「ダシ」が突然吹き出す。時にその強さは岸壁に駐車したトラックを海に落とすほど強い。これらの海難は知床特有のこのような気象条件下で起きている。当時の漁船は焼玉エンジンで馬力も小さい。突然の大時化で無理に港に戻ろうとした船は横倒しにされて転覆し、風波に逆らわず必死で国後まで逃げた船だけが助かった。KAZU1もそのような中で遭難したのだろう。
知床半島はオホーツク海に突き出た海上の山脈だ。古来ここはオホーツク人とその後のアイヌ民族の生活の場所だった。往時の暮らしの痕跡は岬やイダシュベ、ポロモイなど海岸近くの僅かな平坦地に竪穴住居跡として残っている。人々は流氷原の空気孔に顔を出すアザラシを獲り、夏には遡上するサケマスを捕獲し、ヒグマを獲っていた。アイヌは北海道の先住民だが、狩猟だけで生きてきたわけではない。彼らは日本海から朝鮮、大陸までを縦横に行き来する交易民族であり、その活動範囲はカムチャッカからベーリング海にまで及んだ。しかし16世紀以降、徳川幕府と松前藩の圧政で徐々に力を失い、場所請負制の下で和人商人に従属して漁業労働者となり、やがて日本に同化させられていった。
今日、日本ではアイヌを国内の少数民族と位置付けている。しかし先住民族とはしていない。それ故、その権利の回復、土地の返還や伝統的狩猟などの復活を認めていない。文化の復興とはウポポイなど箱ものの建設や歌や踊り、或いは言語や道具の復活だけを言うのではない。サケマスの自由な捕獲、狩猟など本来の生活に根差した「技術伝統」を甦らせなければ真の復興とは言えない。先住民族としてのアイヌの人権の復権は果たされていない。
2018年、ロシア議会はアイヌをロシア国内の先住民族と認めた。これを根拠にロシアが北海道に侵攻する可能性は荒唐無稽な話ではない。プーチンの歴史観によれば北海道はアイヌの国だからだ。それならウクライナと同じようにアイヌ民族の解放を謳って北海道に侵攻することができる。戦後ソビエトは占領地の日本人を長くシベリアに抑留し重労働に当たらせた。現在ウクライナでは160万人のウクライナ人をロシア国内に強制移住させているという。スターリンが死んで初めて日本人抑留者の帰還事業が進んだように、プーチンが生きている限りこれからもこの蛮行は続くのだろう。日本はアイヌ民族の実質的な権利回復を行うへきだ。そして国連決議に従って明確に先住民族と認めるべきだ。日本が民主国家と言うならこの問題を解決済みとして曖昧にしてはならない。それにしてもロシアが先にアイヌの先住権を認めたというのは悪い冗談のような話だ。自由主義社会の体裁を装い、体よく資本主義の恩恵を享受する覇権国家にとって、環境や人権は専制独裁を続けるための方便でしかない。
1945年、第2次大戦終結後、旧ソビエト連邦はサハリンと千島全島を手に入れた。アメリカは沖縄と日本を占領した。択捉以南を含む千島のソビエト領有は大戦の帰結なのだ。批判を承知で言うが北方領土返還交渉が上手く進まなかったのは、日本が頑なに「固有の領土」論にこだわったためではないだろうか。大戦の結果を受け入れた上で、あらためてこの父祖の地を何とか返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。せめて目の前に見える、あまりにも近くにあるクナシリとハボマイの2島だけでも返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。シコタンとエトロフは見えないから返してくれなくても良い。ただとは言わない。条件次第ではロシア軍の駐留も認める。そのような交渉はできなかったものだろうか。
アラスカはアメリカがロシアから買った土地だ。当時の帝政ロシアはクリミア戦争の戦費がかさみ、金に困っていた。1867年、アメリカ合衆国はロシア帝国からアラスカ及びアリューシャン列島、そしてプリビロフ島を720万ドルで購入した。今日のウクライナ戦争という暴挙に、ロシアはやがて疲弊する。もし自由社会が本気で現在のロシアを干上がらせ暴走を止めることが出来れば、ひょっとして日本の領土交渉の突破口が開けるきっかけになるかもしれない。しかしプーチンの野望はこれからも消えない。何よりもロシアと対等に渡り合い、真剣にこの問題に取り組もうとする政治家は日本にはいない。政治的思惑だけで4島を勝手に2島に決め、個人の政治的野心と利権を追うだけの政治家にこの問題の解決はできない。安倍晋三がプーチンと取り決めた2島とはハボマイとシコタンだ。2島合わせてもその面積は国後の5分の1もない。プーチンはほくそ笑んだに違いない。これをまとめれば日本に恩を売るだけではなく、更に大きな利益を日本から引き出す足がかりになる。妥協してはならない。プーチンの野望を打ち砕く努力を、恐れずに続けなければならない。しかしその勇気がこの国の指導者にあるだろうか。何よりも今日の日本の政治家は、そもそも底辺の人々や辺境の人たちに関心がない。
国後はすぐそこにある。羅臼や標津の漁師はこの海で漁をしている。国境を越えれば拿捕され、時には銃撃される。羅臼の公園に「4・6突風」で息子を失くした老人の像が建っている。戸川幸夫原作の「オホーツク老人」の映画化を記念して建てられたものだ。この映画は「地の涯に生きるもの」として1960年に公開された。像は主演の森繁久弥そのままの姿で寂しげな笑顔を浮かべて佇んでいる。老人はマニラ麻の魚網をネズミから守るため、半島奥地の氷に閉ざされた番屋に一人で暮らした。ネズミを捕る飼いネコにエサをやるためだ。6月28日、KAZU1の乗船者とみられる方の遺体がサハリン、コルサコフ付近の海岸で発見された。遺体は岬から北西に流され、20マイル以上の沖合を北に流れる反流に乗ってサハリン西岸にまで達したのだろう。着用していたという赤いPFDが他のものより浮力があったためだろうか。そのため違う潮に乗ったのかもしれない。亡くなられた方の冥福を祈るとともに、多くの人がこの辺境の土地に関心を持ってくれることを願っている。