知床から戻り、森の中で艇を直している。私の舟はロシアか北朝鮮の船のようだと良く言われる。岩場での上陸と出艇を繰り返す艇は壊れやすい。パフィンのようなポリ艇でも時にパウが割れる。凪の良い時は浮かべて乗り、舳が陸に着いたらすぐに舟から出てくれと頼むが無理だ。海が静かなことは少ない。浜も砂浜ではない。壊れたら直す。直さなければ前に進めない。昔参加した人に「これぞフィールドメンテナンスの極意と」褒められたことがあった。わが社でも現場で直す、彼はそう言って修理を手伝ってくれた。彼は自衛隊で戦車を直している人だった。
今修理しているのは30年前のシースケープだ。公庫の融資を受けて購入したのを覚えている。それにしても水漏れがひどい。10分に一度アカ汲みをしなければ尻まで水につかる。応急修理では無理なのでニセコまで運ぶことにした。フネに水を入れて浸水箇所を探した。以前の修理箇所が大きく剥離し、フレックステープがそれを隠していた。徹底的に直すことにしてサンダーでゲルコートを削り、破損個所に薄くクロスとマットを重ね張りした。触媒の量にも注意した。多すぎると硬化が早まる。それは仕事を雑にする。ダメージは中央右のチャインだった。舟は壊れる。しかし直せば良い。昨年6月にはロープで縛った艇が風で飛ばされ、岩場に叩きつけられてフネが折れた。ウォーターフィールド、水野さんの「新艇」だった。現場で応急修理をしたが今回、同じ場所から再び水が入った。飯作りと並行して舟を直すのは大変だ。しかし怠けてはいけない。ともかく直さなければ前に進めない。
今回も一周はせずアイドマリから岬を目指した。昆布漁師の村田さんには小屋を使わさせてもらい、元役人のマンさんにはホッケの一夜干しとニシンの切り込み、トドの刺身をもらった。根室海峡から岬をオホーツクへと回り込んでカシュニまで漕ぎ、岸近くをゆっくりと漕ぎながら再びアイドマリへと引き返した。岬を2度通るのは苦労だ。事故からひと月余り、北からの時化が断続的に続いていた。水温もまだ5度以下だ。陸では焚火から離れられず、漁師合羽が役立った。暖かい。急な崖の草地では子連れのクマが無心に草を食べていた。ヒグマは基本的に草食動物だ。単独の大きなオスと子連れの家族をいくつも見た。交尾しているクマたちもいた。海岸には無数の流木や漁具、ロシア文字やハングルの書かれたボトルなどがあがっていた。途中、ポロモイの先で定置の船頭と話した。網を入れれば何か見つかるかもしれない、水温が低いので沈んだ人はなかなか浮いてこないと言っていた。この海では何年も後に遭難者が見つかることがある。
文吉湾のことを話すと船頭も同じことを言った。そしてエンジンが動いているうちに文吉湾なりポロモイやアウンモイの湾に逃げ込めば良かったのにと残念がった。船を壊しても陸に乗り上げれば良かった。しかし後悔先にたたず、事故後に原因がわかっても後の祭りだ。3mの波は小さくはない。しかし岬ではもっと波が立ち風を伴う。風の危険を指摘する専門家は少い。知床では浜の浮石さえ風で飛ぶ。海は竜巻が走り目も開けられない豪雨が突然襲う。そんな中では動力船の操船すら困難だ。
事故原因は明らかだ。船底の穴は文吉湾北西の暗礁によるものかもしれず、隔壁の穴が浸水の原因かもしれないが、そんな中で船を走らせたことが誤りなのだ。海では判断5秒が生死をわける。不可抗力の事故はない。老いた漁師は「フネに片足乗せたら用心しろ」と言う。しかし今や用心という言葉さえ死語だ。そして責任のなすりあいが始まり、議論がすり替えられようとしている。義務化される救命ラフトがあれば遭難者を救えたろうか。結論から言うと巨大な波と風の中で濡れずにラフトに乗り移ることはできない。事故は静かな海で起こるのではない。だから知床のような海では使えない。波に翻弄されながら冷たい水の中を必死で泳いだ人がいたはずだ。海底で見つかったGパンがそれを示しているように思う。ズボンを脱ぎPFDを捨てて必死で泳いだのだろう。せめて沖合300mだったらと思う。しかし1000mでは無理だ。心が痛む。
アメリカのコーストガードは冬のベーリング海に出動する。波高6m以上の大時化の中でもだ。彼らは常にウナラスカやコディアック、アトカやプリビロフに船とヘリを待機させている。一方で日本はどうだろうか。事故後に態勢の強化が叫ばれている。海上保安庁の対策、特に沿岸捜索の態勢は充分だろうか。海岸の多くはまだ充分に捜されていない。保安庁には羅臼の「巡視船れぶん」にも搭載されているウォータージェットの救命艇があるのではないだろうか。これなら海岸の岩場をくまなく捜索できる。またUS-2が使えれば良かったのにと思う。海上自衛隊のUS-2は波高3mでも離着水できる救難飛行艇だ。US-2はかって伸坊次郎氏を太平洋上で救助し、外洋で多くの遭難者を救ってきた。
このひと月に起きたことを見て思うのは、同様の事故を起こさないための議論がほとんど成されていないことだ。運行計画の順守や尊重、無線や救命いかだの義務化やその徹底が本当に事故防止につながるのだろうか。それはただ責任回避の体裁ではないのか。責任の所在などどうでも良い。そんなものはどこかにあるに決まっている。今後2度とこのようなことが起きないための現実的、具体的な議論が今は必要なのだ。それは行われているだろうか。
事故は起こるべくして起きた。そしてその背景には自然保護に名を借りた、奥地を人々に見せようとしない知床全体の閉鎖的、排他的体質があるように思う。もし廃道寸前の知床林道を整備してシャトルバスを走らせ、岬の文吉湾避難港を解放すれば、人々の選択肢は大きく増える。それがないから人々は小型観光船に集中し、あるいは知床五胡の散策でお茶を濁し、海岸トレッキングで波にさらわれて死ぬ。この状態が30年以上続いている。タガが緩み危機意識が薄れるのも当然だ。私はそれが事故の遠因と思う。むろん林野庁、環境省の知床国立公園と世界自然遺産の基本方針は正しい。それがあるからこそ知床の自然環境は守られてきた。
私は知床林道を修復してアラスカのデナリ国立公園のような、管理された上での解放を行うべきと思う。また文吉湾避難港を積極的に活用すべきと思う。林道終点のルシャ、テッパンベツではサケマスの遡上やそれを追うヒグマの生態が見られる。現在それは特別許可を得た特定の人以外できない。文吉湾避難港では岬の草原台地のすぐれた景観や知床灯台を観察できる。
現状、知床林道は大瀬船頭の19号番屋が道の補修を続けている。しかしやがて番屋がなくなれば道は荒れるに任される。その後国が積極的に関与するのか、廃道を前提に放置するのかはわからない。今後の方針はそれぞれの立場により考えが異なるのだろう。文吉湾避難港はオコツク丸の番屋が長く守ってきた。しかし番屋が宇登呂に引き上げれば利用する人はいなくなる。この港の存在が今回の事故の生死を分ける鍵だったと思う。
知床奥地を解放すべきと思う。これ以上自然が壊されることはない。50年前に避難港を作り、ルシャの森林伐採のために林道を開いたことですでに自然は充分に壊されている。これ以上の破壊を防ぐためにも奥地を解放すべきと思う。地元や関係する諸官庁が眼前の利益と権限、面子にこだわらず、将来の知床像を描いてほしいと思う。日本の自然公園法はその保護とともに適切な利用を謳っている。知床の価値は限りなくある。そして人々はそれにもっと触れたいと思っている。知床100平方メートル運動の歴史が今日の宇登呂の高い環境意識の礎となっている。また国境の海での過酷な漁業が今日の羅臼の暖かな風土を形作っている。未来に向けての様々な議論が巻き起こることを願っている。