大晦日の鎌倉寸描 !!!
バスが1時間に2本となった休日ダイヤを間違え、鶴岡八幡宮まで歩く破目になりましたぁ !!!
(歩いた経路順に、写真を掲載しています。)
◆外国人が多かった事、駅前の東急ストアで食材を買い物したかったのですが、人混みにうんざり、逗子・葉山行きのバスに乗っチャイましたぁ !!!
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◆令和6年は元旦に能登半島地震が、翌日には羽田空港のJAL機衝突・炎上事件、夏は記録的な猛暑が続き、9月には再び能登半島で記録的な豪雨と大災害・事件が続きました。
◆我的には令和5年大晦日の昼に弟が行き倒れで救急搬送されたとの連絡があり、病院へ駆けつけ遺体を見送り、葬儀社との打合せ等々で年越しとなりました。 年末になって納骨を済ませましたが、連れ合いは難病で入院中、残された姉妹が健気にもこの1年諸手続きに奔走して頑張ってくれましたぁ !!!
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◆地球温暖化の影響は益々厳しくなり、当地逗子鎌倉では夜温が下がらず、九華の栽培が難しくなったので、棚仕舞いする事にして、大きな陶器鉢を全て茅ケ崎の親戚へ進呈してしまいましたぁ !!!
◆重たい鉢を片付けた勢か、5月の連休明けから腰痛が酷くなり、一時は歩けない程の激痛に悩まされましたが、飲み始めた薬が合った勢か、家の周りを散歩してリハビリに努めている最中です !!!
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材木座の光明寺に日向 延岡藩 内藤家の墓所が在り 鎌倉市の指定史跡になっています !!!
鎌倉 材木座の光明寺には最大で4m程もある巨大な宝篋印塔が建ち並ぶ区画があります。
江戸時代の大名 内藤家の墓所です。 内藤家は光明寺を菩提寺としていました。
【内藤家墓所石塔群】 宝篋印塔(墓石)が58基、灯籠119基、石段9ヶ所、その他 手水鉢や地蔵などの石造物が一面を埋め尽くしており凄い迫力です。
高倉健の墓石です。
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◆内藤家は平安時代に平将門を追討したことでも知られる藤原秀郷の末裔と云われています。
その秀郷から時代が下って、頼俊の代に内舎人に任ぜられたことから、内舎人の「内」と藤原氏の「藤」をとって内藤という苗字を名乗ることになります。 日向延岡が嫡流のようで、他に陸奥湯長谷・三河挙母・信濃高遠・志摩鳥羽・信濃岩村田・越後村上といった庶流があるようです。 陸奥湯長谷は湯長谷内藤家、三河挙母は挙母内藤家と呼称されていたようです。 材木座 光明寺の内藤家墓所には嫡流の延岡家と湯長谷家、そして磐城平という一族の墓所となっています。
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◆材木座の外れ飯島から姥子台・小坪へ抜ける小坪隧道(トンネル)の手前左脇道を入ると、敷地外から内藤家墓所が眺められますが、光明寺の寺務所に参拝を申し出て、鍵を借りて墓所に入る事も出来ます。
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