最初に申し上げます。
FINAL STORYですが、作者はあのひとをを「曖昧にした」と言っています。それを受けて、わたしは、あのひとはどんなに考察を重ねても確定できないと思っています。
あのひとを確定できるのは、作者だけだと思っています。
作者は、各々のあのひとを壊したく無いと言っています。
なので、わたしもそれにならい、どちらの可能性もある…と考えています。
ですが、わたし自身は、あのひとをアルバートさんだと思っています。
わたしの中では、95%アルバートさん、5%テリィですね。
何故なら、
その方が、
・構成上も美しく、
・作品のメッセージ的にもより合致していますし、
・何よりアルバートさんというキャラクターが大好きだからです。
では、
考察に入ります。
考察と言っても、ここでは、いくつかのエピソードについて、テリィ派、アルバート派、双方の見方を比較してみます。
まず、漫画では描かれていないエピソード。
○キャンディとアルバートさんの往復書簡
漫画のその後、2人の関係性が少しずつ変わって行く様子が読み取れます。
…テリィ派には、親子関係止まりに見える
…アルバート派には恋愛関係に進んだと見える
○テリィからの手紙とスザナの死亡記事
…テリィ派には、キャンディとテリィは結ばれると思う根拠となる。
…アルバート派には、で?だから?邪魔者がいなくなったからって…ハイそうですか…ってくっつくかなぁ?と、思う。
○ラガン家のホテル開業の写真。
アルバートさんが呼ぶけれど、キャンディは端で写った。この写真は小説で描かれるキャンディの最も新しい状況を伝える。この写真が飾られた部屋に、キャンディとあの人は住んでいる。
…テリィ派は、キャンディの思い出として部屋に飾られていたのだと思う。
…アルバート派は、キャンディとあのひとをの共通の思い出として飾られていたのだと思う。(あの人がテリィなら、イライザが写っている写真は飾らないだろうとも思う。)
○エイボン川のほとりの家
…テリィ派は、エイボン川といえば、イギリス、ストラトフォードはシェイクスピアの聖地、そこでシェイクスピア劇団の仕事をしているテリィと、キャンディは一緒に住んでいるにちがいないと考える。
…アルバート派は、エイボン川はどこにでもあるし、ロックスタウンのように架空の地名かもしれないと考える。1920年代から、シカゴはマフィアが力をつけて、無法地帯になる。富豪のアルバートさんは、マフィアに命を狙われるので、国外に転居…したと考える。イギリスも十分考えられる。
※住んでいる場所だけが記載されていて、
他は読者の想像…妄想なんです。
○代々伝わる象嵌細工の宝石箱
…テリィ派は、代々伝わるというのが、貴族のテリィっぽいと考える。
…アルバート派は、アードレー家も代々続く家柄、それくらいあるだろう。と、思う。それから、テリィは貴族の跡取りではないから、代々続くモノを受け継げないだろうと考える。
○腕を広げて迎えるあの人「明かりもつけずに、どうしたんだい?」
…テリィ派は、アルバートさんっぽいけどテリィも腕を広げるくらいするだろう。どうしたんだい?って言うだろう。と、思う。
…アルバート派は、アルバートさんのイメージそのまま!やっぱりあのひとはアルバートさん!と思う。
どちらが、ミスリードを誘う文章なのか!?
●テリィっぽい地名、テリィっぽいアイテム
●アルバートさんっぽいしぐさ、言葉じり。
これはもう、作者が明かさなければ答えは分からないと思います。
ただ、わたしは、
やはり、
キャンディキャンディという作品は…、
ポニーの丘で出会った王子さまのバッジを拾い。
「泣いてる顔より笑った顔の方が可愛いよ。」
この言葉を励みに生きてきた女の子のお話なので…、
その女の子が成長し、その王子さま自身と奇跡的な出会いを繰り返し関係を深め、結ばれる。
という方が、お話の起承転結が美しく、完璧な構成で、ストーリーの完成度が高くなります。
ですので、キャンディキャンディというストーリーは、あのひとはアルバートさんの方が良いと思うのです。
テリィがあの人では、丘の上の王子さまのエピソードは、活きません。アルバートさんは、キャンディに気持ちを告げずに自分が丘の上の王子さまと申し出る事もしないのではないでしょうか?
元々、連載が短ければ、テリィというキャラクターは登場しない予定だった。テリィは予定外のキャラクターだったというのも、あの人はアルバートさんだ、という根拠です。
…ですが、構成上の美しさなど関係無い、キャラクターとして、テリィと、キャンディというカップルは結ばれるべきふたりなのだ!と、言われれば…。激しく求め合う2人が結ばれて終わる…というお話も有りだよな…と、思います。
物語の構成としてみると、破綻していて不恰好ですが…。このカップルが好きなら、いいんじゃないでしょうか?構成なんて、そんなこと、どうだって…。
そうして、最終的に思う事があります。
それは…、
本当は、キャンディキャンディというストーリーのキモは、穏やかな愛が育まれるところだったんじゃないかと思うのです。
7巻からですね。
アルバートさんがキャンディの勤める病院に運ばれて来たところから!
守られいたキャンディが、守る立場になる!
そして、アルバートが回復していくに連れて…。
キャンディが、アルバートに惹かれて行く。
深い愛に、気がつき、目覚めていく。
こここが!
ここが!作品の肝だったのではないかと思うんですよ。
そして、最後の、風来坊のアルバートさんが大おじさまだと種明かしされるところ!
これが素晴らしい見せ場だったはずなんです!
すべて、駆け足描写で…、アルバートファンとしては、残念です。
そうして、最大の見せ場は、
丘の王子さまの正体が明かされるシーン!!!!!
そのシーンは本当は
アルバートの大きな見守る愛に気がついて、キャンディの中にも、アルバートへの揺るぎない穏やかな愛が育っている事にを自覚している、その状態で、丘の上の王子さまだった!と種明かしされているのがベストだったのです!
そういうシーンだったはずなんです!
なので!
だから!
FSでは、丘の上の王子さまとタネ明かしするシーンが、漫画とは違って、変えられていたのだと思います。
FSで、丘の上の王子様とタネ明かしのシーンが変更されていたのは、「キャンディの中にもアルバートさんへの気持ちが恋に変化した状態で、打ち明けるシーンにしたから」だとおもいます。(「FSの往復書簡でキャンディの心が恋へ変化が描かれた。」とアルバート派のわたしにはそう読めますんで。)
このシーンの時期の変更をしたということは、名木田先生が、キャンディとアルバートさんの恋愛をきちんと描く意思をお持ちなんだ…。キャンディとアルバートというカップルも名木田先生は愛して下さっているんだ…。と、推定する根拠でもあります。
結論として…。
作者はあのひとを明かすつもりは無いとしています。
ですので、わたしは、それぞれの胸のあのひとを大切に、思い描けば良いと思っています。
最後になりましたが、
わたしは、あのひと考察が好きではありません。何故なら、あのひと考察は、あのひとを確定することによって、それ以外の結末を排除するために行われる事が多いように見受けられるからです。
「最終的に作者はあのひとを○○に決めたから、それ以外はあり得ない、考えないでね…。」と、言いたいが為に考察を行うように感じられるのです。それは、作者の意図を無にしている事になりませんか?
それぞれのあのひとを、互いに大切に出来たら良いと思いませんか?
…もちろん、あの人は○○だ!と、主張するのは自由ですし、熱く語るのを止めろと無粋な事は言いません。
多いに、熱く、熱く、
キャンディキャンディのあの人を語って頂きたいと思います!
ですが…。
5%くらいは…。まあ、それもありなんじゃない?と、ほんのちょっと譲り合えたら、キャンディキャンディファン全体で、なごやかにこの作品を楽しめるのではないかと思います。
最低限、
あの人は○○で××じゃないから!と、××ファンに合意を強要することは、止めていただきたいですね。
失礼ですよ。
ご一考、いただければ幸いです。
それから…。
よく、FINAL STORYで作者はあの人をテリィに変えたとの意見を見かけますが…。
その時に思い浮かぶのが、ある作品です。
映画、マイ・フェア・レディの原作、バーナード・ショーのピグマリオンという作品では、主人公のイライザとヒギンス教授は、恋仲にはならなかった。だけど、原作から映画にしたマイ・フェア・レディという作品のラストシーンは、教授とイライザは恋仲を予感させて終わっているのだそうです。
もとは、このピグマリオンという作品は人気のお芝居だったんだそうです。観客らは、2人が恋愛関係になることを望みました。映画にする際に、監督がそれを望み、原作者も了承したそうです。
そんな風に、名木田先生も長年テリィとキャンディの愛の復活を望む読者に応えた※1のかもしれない…とは、一瞬、思ったりします。
「生きていても、二度と会えない」そんな辛い運命から、2人を解放したいと思ったかもしれない。キャンディとテリィを愛する沢山のファンの為に…。
…。
でもね…。 やっぱり、丘の上の王子さまてしょ!?
沢山のテリィファンの為に、スザナに死んで貰って、想像の余地を与えただけ※2じゃないかなー。と、いうのがわたしの見解です。
…どちら(※1か※2か)が名木田先生の真意か?
謎ですね。
言えることは…、
名木田先生は、
『それぞれのあのひとを壊したくない。』
そう、おっしゃって下さったのです。
それぞれの胸のあのひとを、大切にしましょう。
以上。
あの人考察でした。
FSは、本当に正確に読めば、2人のあのひとが見えてきます。
その人の希望の結果になるように都合の悪い箇所は読み落とし、拡大解釈、曲解を繰り返していることに気がつかない人もおりますが、それはそれで、その人にとっての真実なのでしょう。
shushu
それに…。
FINAL STORYは、わたし的には、決定的な最終稿じゃないと思ってます。
次の記事に書きます。