パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その二十九

2007-03-02 12:35:07 | 自分史
 M村くんは中○機械の幹部にまで上がって、中小の木工場を買い取って中○木工を設立したり、縦横無尽の働きで大いに男を上げ、出世をしたのだった。
そんな彼の働きで、債権者会議も落ち着くところに落ち着き、在庫の商品を売りさばいて負債に当てることで一応の決着を見た。

 まだ決着の着いていないのが、銀行関係と高利貸しと親戚関係であった。この内高利貸しは法定金利以上の利子を取っていたので、強くは出ず(表立って返済を強要しない)、銀行は叔父などの保証があったから急がなかった。また、家と土地も公園用地だったのを安く買った後に売ってそれを借金に当てたが足りずに倒産に至った。
そして、銀行関係の借金を返済するために、私が店を始めて、つまり借金返済のための会社をやることになった。(これにはもう一つ、母の弟の誠次郎叔父からの借入もあったから、母が泣いて頼んだという経緯もあって、渋る妻慶子を説得して独立して店を持つことに踏み切ったのであった)

 で、私の、我々の結婚の事だが、倒産する前『峠』にいたH井慶子は、マスターの宮崎さんが店を止めたので、内の店で働いて貰っていたが、倒産を期に実家の蘭越町に帰っていた。
債務返済について大体の方針が決まってきたので、私は蘭越町へいって、彼女を説得して結婚することになった。

 結婚式は昭和38年の6/20に北2西6の労農会館で披露宴を、式は三吉神社で行った。
これは会費制で、その全てを同人誌「新創作」の仲間が当たってくれた。これには本当に心から感謝している。で、その夜は定山渓の旅館に一泊し、翌日の午後には札幌に戻って店を開いた。

 週刊誌や雑誌は東販から仕入れ、文具は北村商店や大丸藤井、後には母の直ぐ上の姉、澄子伯母の旦那が富貴堂を退社した後、自分で文具の卸を始めていたので、その湊屋からも仕入れた。
 仕入れは週刊誌が月、水、木、金、土に入ったので、ほとんど毎日、雨の日も風の日も雪の日も自転車で回った。運転免許は2、3年前にスクーターの軽免許を取っていて、それで得意先回りをやっていたのだが、法改正があって、新道路交通法では軽免で軽四輪を運転できたのが、普通免許に切り替わったので、運転できることになった。が、父の倒産時に軽四輪車を問屋に取られるよりはと琴似で定年後に文具と雑貨の店をやっていた義兄(長女・美和子の亭主)のY田さんにやってしまったので、自転車の仕入れと配達になったというわけ…。

 その頃には父も戻ってきていて、山鼻の少し南よりにアパートを借りて、父母と次姉と三人で住んでいた。私の店は『フジシン書店』と命名し、私と慶子でやった。
店売りはお客さんが来るのを待つ商売だが、週刊誌や月刊誌の配達のほかに、レコード付きの映画音楽全集や風林火山などの戦記物は自分が好きなこともあって、B4の更紙にガリパンでチラシを作り新聞の折込みにして撒いた。とにかく、二人しかいないので何でもやらねばならなかった。

 今でもあるが、問題は万引きだった。一人の店番に5人のお客さんが入っていたら、一人に対応している聞に他の客にも目線を配る必要があった。5円や10円の品物を扱う商売だから、消しゴムなどが手の中やポケットの中に入ってしまったら、もうどうしようもなかった。だから、そうなる前に現場を押さえなければ掴まえることはできない。
中高生は物は欲しいが金がないから万引きをする。面白くてやるのもいるのだろうが、やられたほうはたまらん。


昔、昔、或る所に・・・/その二十八

2007-03-02 12:25:04 | 自分史
 連れていってくれたのは、北大の助手の松崎さんと言って、東北の地方都市の造り酒屋の御曹司と言う事だったが、仏教系の大学へ就職したそうだ。この男、体が大きく、ラガーマンだったが、自分を百姓と言ったり、相手をオトッツァンと呼んだり、大きな顔に小さな目で、まあ学究肌とでも言うのか、知識をひけらかす事もなく、おっとりしたナイスガイであった。
マミイで飲み仲間になって、ちょっとその辺いってミッ力、と出掛けたのが、『バー峠』であった。

 店内は薄暗く、天井の梁に丸太を使ったり、壁なども粗削りの板をそのまま使ったりと、山小屋ふうな内装であった。だから、レコードも歌声喫茶ふうなフォークソングが多くかかった。で、その頃出始めた缶ビールが売り物で、最後の一本はマスターの晩酌?になっていた。
女の子は2、3人いたが割りかし小柄で、中の一人がH井慶子であった。

 彼女は映画通であったから(狸小路の帝国座に7、8年勤めていたと言う事で)話が合って、彼女との交際は結構長くなって、4、5年は付き合っていたと思う。で、新創作同人会の春の遠足に羊が丘にいったり、朝里温泉で開いた例会に出席したりしたものであった。
彼女の妹がススキノのビルの2Fの喫茶店に勤めていて(そのビルは自社ビルで、兄弟が法人で所有しているとのこと)そこの次男坊と結婚した。そこの4Fに住んで一男一女を設けたのが、K一郎くんとA妃くんであった。

 「好事魔多し」の諺のとおり、良いことが続けば次には悪いことがやってくるというわけで、それは起こった。父の店の倒産である。
四月の末、父が私と三男の英三をよんだ。そして、月末の手形か落とせないという。これはまさに晴天の震露であった。それで、父は姿を隠すから後を頼むというのだ。私が28才、英三が22才の時であった。父は東京の吉祥寺の勇吉叔父の所にいった。

 それからが戦場のような、地獄の日々が続いたのであった。二人は店に泊まり込み、表には『社員慰安旅行のため休ませて頂きます』と書いて貼り出し、カーテンも板戸も閉めたままで、ひっそりと息を殺していた。が、電話は鳴り放しで、それを睨み付けながら何もできなかった。

 負債額は1000万弱だったが、がんがんやってくるのは問屋関係で、銀行や高利貸しは慌てず騒がずで、こっちのほうが気味悪かった。で、問屋関係が債権者会議を開くといってきた。が、こっちは初めてのことだし、20もの問屋にやいやい責められるのは適わないので、札商で同級生だったM村巌君に電話して作戦を練った。といっても、こっちには払う金なんか全然無いのだから、頭を下げて勘弁してくださいというしか手は無かった。

 近くの会館の二階の大広間を借りて、債権者会議が開かれた。
問屋たちはぞくぞくと集まった。私と英三が舞台を背にして並び、私の側にM村君にすわってもらった。(彼は北海学園卒業後、私のところにきて『相談がある』といった。それは就職の話で、全国的な機械メーカーか、地元の機械メーカーかの二者選択で迷ったらしかった。で、全国的な会社は東京の大学を出たものが多く、学園出は入社しても、東南アジアなどドサ回りが多いと聞いていたのでそういうと、彼は道内のメーカーを志望し、入社したのであった)
で、債権者会議では私は何もいわず彼に表立ってもらった。問屋はF野の息子は弁護士を雇ってきたといった。


昔、昔、或る所に・・・/その二十七

2007-03-02 12:17:30 | 自分史
 前出のマミイのママの『噂の彼氏』と拙者が言われていたそうな…。本物でない、つまり噂だけの彼氏と言う事で、まあ本気で口説こうと思ったことは無かったのだから、まあ、良しとしなければなるまいねと。
でも、一度だけキスをしたことがあったんだけど、彼女が煙草をのんだ後だったモンで、その味は煙草臭くて、ちょっとロマンチックでなかったちゅことやね、こっちはあまいキスを期待してたけんね、煙草臭いと言った訳。

 その事を、数年後に彼女が東京へ帰って、札幌に遊びにきた時に、当時の常連たちとススキノへ繰り出して、道路を渡りながら彼女が披瀝したのだったが、その時には本物の彼氏がいて、複雑な顔をしていた。その彼氏は北大の講師で(当時)、常連たちが牽制しあって、だれもが手を出さなかった時に口説かれたので、タイミングがバッチシだったようだ。

 で、直ぐに妊娠したり、それを処置したり、ススキノの新宿仲町に開店(移転)しようとして、大工に足元を見られて手付金を編し取られたり、彼氏に逃げられて、夜逃げ同様に着の身着のまま汽車に飛び乗って東京へ帰ったりと、まるで小説のような出来事だったが、噂だけの彼氏はそれを『海峡』という題で、彼女が青函連絡船の中で札幌の生活を回想するという構成で書いてみた。海に関する小説や戯曲を募集する雑誌があって、応募したが入選しませんでした。スンマセン。

 さて、その『マミイ』から西へ道路を渡ると、東向きに東映劇場があって(つい先年に閉館した)そこから二条通りを渡った向かい側に二軒のバーが並んでいて、一つは『サブリナ』、もう一軒が『ブラック』という。

 サブリナのママは小柄な人で、いつも和服を着て、控え目に振る舞っていた。で、控えめでなく、派手めだったのが、キョウコさんといって、すらりと背が高く、髪は軽くカールしていて、笑うと鼻に皺が寄って、高い声で笑うので、とってもチャーミングであった。(後日分かるのだが、愚妻と帝国座で一緒に働いていたことがあるそうな…)
ブラックのほうはというと、ママは黒いベレー帽に黒いスーツという出で立ちで、なんか芸術家風に装っていたっけ。
 サブリナの方はキョウコさんしか目立たず、だから他の女性は印象に残っていなかったが、ブラックの方はヨウコさんやアキコさんや、有象無象が4、5人いて、いつもワアワアと賑やかであった。だから、しっとりとした雰囲気で飲みたい時はサブリナで、陽気にやりたいときはブラックでと、使い分けができるのだった。

 そのブラックにどういう風の吹き回しか、小柄で小さい(ダブッテルヨ)可愛い女の子が入った事があって、レコードに合わせて、可愛いベイビー…などと歌って受けていた。閉居後に誘ってみると着いてくるので、遂に行くとこまでいったのだが、家まで送っていくと、これが二条の東五丁目で、 余りにも近すぎるので、それっきり付合いを止めてしまった。

 ブラックでは、白竜、銀竜など京花紙を買ってくれたりしたが、ママの家が近いらしく、店に電話を借りにきては、私の声で男性を呼び出させて、相手が出るとママに替わって、飲み代の ツケを催促することもやっていた。貸すときは簡単に貸すけど、これの回収が大変なようであった。

 東映劇場の南隣りの角に薬局があって、南に行くと、喫茶店シャトオやラーメン屋などが並んでいて、さらに下がるとバー『峠』があった。
そこのマスター宮崎さんは目が大きく鼻筋が通って、なかなかの渋い良い男だった。そこに連れられていくとH井慶子がいた。


昔、昔、或る所に・・・/その二十六

2007-03-02 10:59:14 | 自分史
 どうも、女性との話が多いようで恐縮だが、所詮世の中、男と女しかいないんですからア、と開き直るより無かったりして。『悲しみよ、こんにちは』のフランソワーズ・サガン女史も、マスコミに男女のあれこれが作品の内容に多いようだが・・・と聞かれて、これと同じ事を答えている。私が彼女の作品を好きだったから、模倣したと言われそうだが、でも、なんとか 似せようとしてもそうはいかないものだし、第一、真似しなくても、北海道の五人の中に入れるのだからそれで良いのだア、ソレデイイノダア・・・。
 世の格言に『英雄、色を好む』と言うのがあるが、好むと言うより強い種はより多くの子孫を残して、自分の血を絶やすこと無く、国中に広げようとするから、結果的に子供を、それも男子を多く得たいと思うから、色を好むように見えるだけであって、男(牡)は本能で女性(メス)を追いかけ、種の保存を確実にしたいとするのであって、別に男の浮気を(一夫一婦制だから浮気となるが、徳川家康は浮気でない)弁解するわけではないが、男が女を追いかけるのは本能の命ずるところなのであって・・・。

 デッサン会に来ていたО山内T子さんは、赤いベレー帽に胸当てスカートで、ちょっと見は『エデンの東』に出ているジュリー・ハリスのような感じで、絵描き仲間では『聖処女』と噂されていた。彼女は幼児期から喘息を患らったというが、キッスをしても、喉をぜいぜい言わせるだけで、息を止めないから空気が無制限に入ってきて、ロマンチックではないのだ。
さらに胸が小さいからかパットを入れているのは良いとして、肌が鮫肌というのか、ざらざらしていて、皮下脂肪が厚いせいか、ウエットスーツの上から愛撫しているような具合で、何か白けてしまうのだが、感じなくてもちゃんと妊娠するのだからびっくりしてしまった。もちろん、処置するように渡すものはわたしたが、なんか当てが外れたというか、こういう事もあるのだと勉強になりました。

 南2条の西3丁目の南向きに北海道劇場という映画館があって、その西角に果物やさんがあって、その手前側の隣に小さなバーがあって、看板には『ニッカバー・マミイ』とあった。
入った時が丁度開店の日だったので、お手伝いに来ていたのが、ススキノの今のキャバレエ青木の裏通りのクラブ白鳥 (2F)の上のゲイバー『ベラミー』のママ『おちかさん』。島田の鬘を被って和服を着飾った所が淡島千景さんに似ているからだそうな。
似ているといえば、マミイのママは淡路恵子に似ていて、サインしてと言われたことがあるという話で・・・。

 このママさん、東京は中野区江古田の生まれで、キャバレエなどにショーの踊り子を入れる商売の、札商の先輩でラグビ一部出身のS松氏が北海道観光に連れてきたのが最初で、札幌が気に入ってお店を持たせてもらったと言う事らしい。
で、ここでは小生は『ムッシュウ』と呼ばれておりましたです、ハイ。なんかイイ男過ぎてフレンチボーイのようだと言う事らしいんでゲシテ・・・、ホンにスンマセンことで・・・。
 
 で閉店後、おちかさんのお店へ連れていってもらったことがあって、最初はずいぶん大柄な女を集めたモンダと感心していたが、喋ると声が太いから、やっと分かったが、ホントに怪しげな雰囲気でありました。音楽に乗ってストリップを始めたが、着物をぱっと広げてもイチモツが無いのでまたびっくり。で、まだ入りたてで、ひょっこのボーヤがいて豆子とか言っていたのが、今のカルーセル・麻紀だった。


昔、昔、或る所に・・・/その二十五

2007-03-02 10:48:00 | 自分史
 前回、北海道新聞社主催の同人誌優秀作』に入選して、北海道の五人の中に入ったと言う事を話したが、その五人の中に、今を時めく大作家の渡辺淳一氏がいたのだ。彼は当時、札幌医科大学の学生だった。
その後、医大の和田寿郎教授が無許可で心臓移植をし、大問題になったのであった。で、彼はその一件を『ダブルハート』という題で作品にし発表した。それが原因で、詰め腹を切らされた格好で医大を止め、プロの作家として船出をしたのであった。

 話し変わって、他の人のことは調べていないが、私は北海道新聞社の同人誌優秀作に二度入選している。
もう一つの作品は「心の中の儀式」で、これは妹が兄の彼女の事を探偵に調べさせ、その探偵に酔った揚げ句に襲われたり、それを交番に届けに行って、ハンサムな警察官に恋心を抱いたり、というまったく取り止めのない話だが、それでも北海道の五人の中に入れたのは、小説というものを心得ているからだと、その時の批評家の先生が申しておりました。ハイ。

 さて、北一条西三丁目の中通りの南向きに、夜はバー、昼間は喫茶店の『オ・シャレ』という店があった。
初めは喫茶店に寄ってみたのだが、入り口を入ると右手に厚手の一枚もののカウンターがあって、左手にはボックス席が20席程あった。造りが重厚な夜の雰囲気を持っているから、昼間の喫茶店としても結構な感じを味わえた。昼間を喫茶店として借りていたのは、寺島さんと敏子さんで、二人は東京から駆け落ちをしてきた間柄だという噂であった。
彼等はバレエのダンサーという話で、後に札幌市内のバレエ教室の合同発表会に彼は結構な力量を示したのであった。彼のすらりとした均整の取れた体も素晴らしかったが、彼の面貌はこれまた素晴らしく、イブ・モンタンとアラン・ドロンを足して二で割った様ないい男であった。

 後年、彼が東京へ戻って、新宿歌舞伎町で『火の車』という居酒屋をやっていて、そこへH間の社長が尋ねていっていった言葉が『F野さんの知り合いはいい男ばっかりだねえ』と感嘆仕切りであった。で、彼のいうF野さんの知り合いは、『パー峠』のマスター宮崎さんなどなど・・・。で、彼等に共通なのは、皆が渋い二枚目と言う事であって、H間の社長は小さい頃に父親を亡くしていたので、父恋しの心がそういう気持ちにさせたのではないかと推測したのであって・・・。

 で、その『オ・シャレ』の夜の部の事だが、ママはでっぷりと貫禄のある田原摩耶さんで、写真家の、前歯の抜けた小川さんが駄酒落にフランス語を混ぜてバーテンをやっていた。
そこにホステスとして働いていたN子さんは、旦那もすすきのでバーテンをしていて、子供がいなかったから誘われて、手伝っていたのだという。彼女はいわゆるロンパリ(斜視)で それを気にしてるせいか、ちょっと寂しげな風貌があって、それが細身の彼女の魅力のひとつになっていた。彼女と割りない仲になった時、旦那に気付かれて『女房があんたと結婚したいといってるが・・・』と店に乗り込まれたが『嫌、単にホステスと客の関係で・・・』と逃げを打った。

 その後、K子さんという私より背の高い女の子もいたが、その子の家は狸小路の6丁目でストリップ劇場をやっていた。一人っ子で甘やかされて育ったせいで、何度も家出をした末にホステスになったのだという。夜明けのキッスをして唇が痛くなったっけ・・・。