パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その二十四

2007-03-02 10:37:08 | 自分史
 南2西2の南向きに松竹梅という一杯屋があって、その横に戸口があって、押して入っていくと、バアになっていて、カウンターがあり、その右側はちょっと広くなっていて、ボックス席になっていた。
そのカウンターにグラマラスな女がいて、ちょっと見には南方系の、つまり目が大きく、鼻はでんと構えていて、ゴーギャン描くところの『タヒチの女』そのものであった。(札商文芸にはこのバーでの巻込まれ型の喧嘩をテーマに『不透明の抵抗』を発表した。)

 そもそも、朝鮮半島から北方騎馬民族が日本列島に雪崩れ込む以前には、原日本人として、アイヌ人や九州の熊襲(これは同族と思われる)と、ポリネシアやミクロネシア・ハワイ諸島から流れ着いた南方系といえる民族がいたはずである。その証拠として、ハレ着やハレの日などの言葉は、ハワイの古語の『喜び』を意味する『ハレ』からきていると思われるからである。喜びの家の名前を『ハレ・ハウス』と命名したという事実がある。

 さて、そのカウンターにいたタヒチの女はS馬E子といって、実家は深川の先のキタイチャンだといった。父親は国鉄に勤務していたが、その前は樺太にいて、いわゆる戦後の引上げ者であった。
彼女との経緯は拙著『別離』に書いてあるが、彼女もセックスの味を知ると他の男に流れていった。が、断っておくが、私が振られたのではなく、彼女の親戚の叔母さんという人が店に現れて、一体、どういうつもりで付き合っているのか、と詰問してきた。つまり、結婚の意思はありやなしやと言う事である。わたしは正直に在りませんとお答えした。で、彼女はススキノへ進出して、ハイそれまでよ、と相成ったわけであって・・・。

 付き合った女性の話が多くなって、退屈した人もちらほらといるかも知れないが、次はがらりとトーンを変えて、油彩の制作ができなくなったお話を・・・。

 静物でも風景でも人物でも対象の在るものを描いているうちは、まだ制作はできるが、それをデフォルメして、いわゆる抽象画といわれる作品になると、各テーマが想念や交響楽や思想になってくるから、それをキャンバスにどんな形で、どんな色彩で、表現するのかということになって、明快な思いが心の中でどんどん熟成されて、それが迸り出るようにならなければそれはできないと言う事である。

 で、絵の描けなくなった絵描きはどうしたかというと、転身を考えた。つまり、高校時代に日記を書かせられて、書く習慣がついていたから、日々の体験を書いて、それも物語ふうに 仕上げて行くと、それは小説に成るのではないか、と考えて、妄想や夢想はお手の物であったから、事実が半分、妄想が半分で原稿用紙を埋めていけば良いわけであって・・・。
そうして書き上げた作品『蒼い接吻』を引っ提げて、同人誌『新創作』に乗り込んだという次第。

 これは絵描き仲間の芹田英治氏の紹介によるもので、彼はその同人誌の表紙を書いていたのであった。代表は早川平氏(北海高校の国語の教諭)、山田太郎(八軒中学の教諭、志賀成功氏(詩人)この夫人で山田太郎の姉の志賀子さん、彼等は学芸大学の生徒で他に平山氏、五十嵐氏、鈴木実氏(須田製版)などなど、そうそうたるメンバーであった。で、『蒼い接吻』は北海道新聞主催の同人誌優秀作の年度の上半期の五人のなかに入れた。


昔、昔、或る所に・・・/その二十三

2006-04-22 21:49:07 | 自分史
 クラシック音楽が好きだったし(敗戦後すぐ、占領軍のFEN=FAR EAST NETWORK の放送を聞いていたから)珈琲も旨かったので、『美松』にはちょくちょく寄った。
S子はいなくなったが、女はたくさんいる。とは思っても、なかなか、おいそれとはイカナイモンデゲス。デモ、数打ちゃ当たるという教訓!?もある事だし、と鷹揚に構えて、ちょっと可愛い子にホホエミ作戦で当たって見ることにした。

 その子は高校を出たばかりくらいに見えた。白い、細い目、長い真っ直ぐな髪の毛と、前の彼女には無いものだった。その子が遅番のとき、店を出るのを待って後をつけてみると、大通りのバス停にいくのが分かった。で、ベンチに掛けた彼女の横に座って『今帰り?』と声を掛けた。彼女は驚いたようだったが、私と分かると、にっこりと笑った。名前を聞いたり、当たり障りの無いことをあれこれ話しているうちに、彼女の最終バスは出てしまった。で、仕方なく?送っていく事にした。

 国鉄(現JR)の踏切を越え、二人は手を繋いで、初夏の夜気の中を歩いていった。北15条位まできて、もうここで良いという。直ぐ近くだからというのを引き寄せて口付けをする。『それは蒼い味がした』と彼女の一人称で書いた作品が『蒼い接吻』で、これは同人誌『新創作』に提出して掲載され(400字詰で79枚)さらに当時の北海道新聞同人誌優秀作(現在の北海道文学賞)に入選。その年の上半期の応募作から五人の中に入った。(因みにY岸S子さんをモデルにしたのは『邂逅』で、これは未発表)

 で、本題に戻って、『美松』のウエイトレスのT橋K子とは、直ぐに連込み旅館に行く仲になったが、彼女はその事を『私たちの仲は、尻の底まで知合った仲だね』といった。
所が、我々が利用した旅館は、西創成地区にあった。その頃、佐藤吉五郎氏と大丸藤井の三階のギャラリイを借りて、油彩の二人展を開いていて、佐藤氏は西創成小学校の教師をしていたので、展覧会にきた父兄が、私が女の子と連れ込みに入ったのを彼につげたのだった。つまり、連れ込みの経営者が父兄だったというわけ。で、彼にいわれて、それ以後はススキノ方面を利用することにした。

 だが、彼女はセックスを知ると、周りの男を見るようになった。職場にいる男は黒のスーツに蝶ネクタイをしてるのがごろごろいるわけだったから、彼等から誘われたら、なかなか断れないものがあったらしい。で、ある夜、遅番の彼女を待って、行こうといっても、ついてこなかった。つまり、店のバーテンダーに鞍替えしたというわけ。つまり、振られたと言う事であって・・・。だからそれをバネに小説にしたら、北海道の五人に入ったというわけであって・・・。

 その頃、次男の芳男の同級生でU野M子という人が、スクエアダンスの会場で私を見初めて、何かとアタックしてきたが、小柄で、小太りで、丸顔でというスタイルは、和服は似合ったが、どうも好みのタイプではなかった。で、ある日お誘いがあったので、ちょっと用事でいけないと、断ったところ、乙女心を傷付けてしまったようで、彼女の姉が、毎日泣いてばかりいるが、何かあったのでしょうかと聞いてきた。それで、致し方なく、長女の美和子姉から聞いた、自衛隊の男とすすきのを歩いていたという話をして、いろいろとお付き合いが多いように見受けられたので、と丁寧にお断り申し上げたのでありました。


昔、昔、或る所に・・・/その二十二

2006-04-22 21:35:12 | 自分史
 お得意回りの途中で、一服しようと『美松』という喫茶店に入ったものだ。
ここはクラシックのレコードとピアノやチェロ、バイオリンの生演奏が売り物の店で、珈琲もおいしいという評判だった。

 このビルは三間幅(約5.5m)で、奥行きがあり、三階建てになっていた。一階の入り口を入ると右手に会計(レジ)左手のスペイスにグランドピアノと譜面台のステイジがあり、数段降りて客席があり、二階、三階は吹き抜けがあってステイジを見下ろせるようになっていた。
私はレジの女の子にブラームスの交響曲第一番をリクエストすると、階段をのぼって三階のカウンターへ腰を下ろす。

 と、そのカウンターの中にいたのが何と、山鼻小学校で同級生のT井君であった。(彼の瞳は黒くなく灰色で、髪は茶っぽかった。かなり色素が薄かった。現代ならいじめの対象になっていたかも・・・)
彼は蝶タイに白いYシャツで、注文したブルー マウンテンを真撃に落としていた。余りにも美味しかったので、お替わりを頼むと、又、新しく落とすというので、今のを使ったらというと、それではお金を貰えませんという。もっともだあと思った。
 白いと言えば、もう一人、同級生にT沢君がいて、彼も皮膚が白く弱視だった。彼は、声帯の素晴らしいのを持っていたらしく、教育大で音楽の先生をしているときいた。

 さて、と腰を上げて一階のレジへいくと、目のぱっちりとした可愛い子がいた。胸の名札にY岸とある。
『いつも良い音楽が聞けていいですね』というと、はにかんだように、にっこりと笑った。それはひまわりが咲いたように見えた。
レジの横に小冊子があったので、貰って帰った。それは『美松の手帳』という店の宣伝を兼ねたもので、季刊で客たちの投稿文も載せると言う事だった。で、ストラビンスキーの『春の祭典』を聞いて書いた散文詩を送ると掲載された。それを編集していたのがY岸N夫で、レジのS子さんの叔父だという。

 彼等の一族は由仁町のさらに奥の農家の出で、農家も機械化で次男三男は出稼ぎか、町へ出て他の仕事に着くしか無かったようだ。
N夫氏は『美松の手帳』の編集だけでは食えず、いろいろなことをしていたが、花見のシーズンになると、大きな竹の背負い寵を持ってきて、一晩泊めてくれと店に現れた。翌朝、六時頃に出掛けていったが、その先は円山のお花見の会場で、空き瓶を拾い集めて売るのだという。
 そんな彼も数年後、豊平のある店を借りて木彫の工房を開き、作品を夜、狸小路へ並べて売っていた。その時の客で京都から来た観光客の綺麗な女性と仲良くなって結婚したというが、荒れた生活をしていたから、数年後には患って亡くなったと言う事であった。
彼の遺作展が聞かれて、いってみると、綺麗な未亡人が切り盛りしていた。名を名乗って挨拶すると、お名前は始終聞かされていました、という。彼女は一切を処分すると京都へ帰っていった。

 一方、S子さんとの仲はというと、恋に恋するというやつで、デートは週一くらいでするが、なかなか発展せず、彼女からの電話を父が取って『最近夜遊びばかりして痩せてきたのでもう相手にしないで欲しい』といって切ってしまった。
彼女は喫茶店を止めて夜の商売に入ったが、そこで知り合った米兵の紹介で、真駒内のキャンプの将校の家のメイドになった。二年後に『美松』で会ったら、すっかりアメリカンスタイルの美人になっていた。 誘われて千歳の部屋にいったが、翌年、米兵と結婚するのだと言っていた。それっきりで・・・。


昔、昔、或る所に・・・/その二十一

2006-04-22 21:25:31 | 自分史
 昭和27(1952)年三月、 札幌商業高校を優等生で卒業すると、それからは『家業従事』というやつで、南16条西5の現在のテニスコートの西隣りにあった自宅から南2東2の店舗まで毎日通勤することになった。
 店は朝八時から夜九時まで開けていたので、交替で泊まり込んだ。で、父は日曜に休み、私と薫姉は土曜とか金曜を休日にし、私と姉と次弟の芳男が二人ずつ交替で泊まった。
給料は8000円で、休みの日には映画(殆ど洋画。『七人の侍』などの話題作以外は…)に行ったり、音楽会に行ったり、デッサン会に行ったりと、わりかし自由に過ごした。
デッサン会ではヌードモデル(もちろん女性)を木炭で描き、食パンを消しゴム替わりにして使った。

 その当時は、戦時中に北海道に疎開してきて、まだ東京に帰らなかった画家などがいて、その顔ぶれはそうそうたるものであった。渡辺伊八郎、早川重章、八木保次などなど…。それから護国神社の北側の豪邸に梁川剛ーの表札があったが、本人を見たことは一度も無かった。それに地元の若手たち、芹田英治、小野州一、高橋由明、田村宏などの偉才、多才がひしめいていた。

 薫姉は静修高校で美術部の部長をしていたから、続けて制作をしたいと言う事で、二人で金を出し合って、油彩の道具を買った。絵の具、筆、パレット、解き油、キャンバス。それらを入れる箱。そして三脚。二人の休みはダブらないから、交互に使えるわけだ。
で、全道展(全北海道美術協会)に出品したら、何と入選したのら。10号位の静物だった。

 只単に静物をあるがままに描いているのもつまらないので、段々とデフォルメしていって、最初の形がなくなってしまって、線とか、面とか、色彩の割合とか、或いは立体的な感じ、明度で画面を再構成することに熱中した。
全道展には何回か入選したが、他の公募展にもと色気を出して、新道展(新北海道美術協会)の創立展に出品したら、なんとこれが新人賞で入選。が、創立会員の中に気に入らないのがいたので、それっきり、これっきり。何と言っても道展、全道展につぐ三つ目の公募展だから、会員の質も薄まっていって、これと言う歯応えのある会員が少なかった。で、東京の春陽会やモダンアート展に作品を送ると、これがおもしろいように入選するのだ。

 だが、そんなに遊んでばかりいた訳では無く、仕事もちゃんとした。いわゆるお得意様回りというやつで、免許を取ったばかりのスクーターに乗って出掛けた。お得意先は北海道馬具工業、杉野商店、福山醸造、山登運輸、などなど…。
だが、最初、高校を出て直ぐの頃は最初の挨拶が旨くすんなりとはいかなかった。大阪のように、毎度多きにと大声で言えば良いとはいかず、なにしろ、ええとこのボンボンだったさかい、口の中でもごもごいうのが関の山で、馬具工業の山本専務には父親に似ない不肖の子だなとまでいわれた。

 ま、それも最初のうちだけで、慣れるとなんとかなるものだった。
福山醸造の庶務課に目のばっちりした瓜ざね顔の吉野さんという女性がいて、謄写版の注文をくれるときに、何と言うメーカーのにしましょうというと、彼女は「ミメオグラフィ…を」といった。が、それは謄写版の英語名で、それをいうと、真っ赤になって、うつむいてしまった。とても可愛いらしかったれす。


昔、昔、或る所に・・・/その二十

2006-02-10 00:12:19 | 自分史
 前出のY本T也先生だが、反抗した生徒を柔道で投げ飛ばし、その生徒が運動場の壁の羽目板に叩き付けられて怪我をしたので、責任を取って辞職したことを、卒業後数年して人伝に聞いた。
その後、真駒内の青少年会館で水泳のコーチをしていると言う事であった。ある日、地下鉄で座っていると、前に立っているのがY本先生であった。慌てて立って座席を勧めたが、断られた。かといって又、座るわけにもいかず、一つ空いた座席の前で先生と並んで大通り駅まで立っていた。

 さてここで、我輩の筆下ろしの事を記す時がきた。
三月に卒業を控えた前年の大晦日の夜、八時頃だったと思うが、大枚三百円を握り締め、我輩は一大決心を胸に決戦の場へと向かったのだった。そこは、今で言えば、南二条西一丁目の角の高田病院の並びの中通りの角、そこに一人の女が立っていて『お兄さん、遊んでいかない?』と言うたのでありんした。

 『うん』とうなずいた我が輩は女の後に着いていったモンサ。女は仲小路を進み、二階建ての大きな家の裏に回り、縁側から上がった。我輩も続くと、女は靴をしまって『どうぞ』 と二階へ上がり、幾つ目かの部屋へはいった。そこは八畳程の部屋で、奥のほうに一組の布団がひいてあった。女は、良く見ると『おかめ』のような顔付きだった。女はお茶とお菓子を持って来ると、火鉢の中を掻き回して火を起こしてから「お先にお願いします」といった。
我が輩は握ってきた300円を渡した。女はお金を受取って恭しく押し頂き『お床いりしててくださいね』といってから一度階下へ下がっていった。

 部屋の中を眺め回すと、小さな鏡台が一つと何か小物を入れるような低い小箪笥が一つある切りで、そこに住んでいるというようには見えなかった。我が輩は分厚いセーターとズボンを脱ぐと、薄い布団を捲って入った。 部屋が暖まっていなかったから、寒かった。女は戻って来ると服を脱いでスリップ一枚になり、布団を捲って入ろうとして言った。『駄目よ全部脱がなきゃ』。寒かったので、メリヤスの下着の上下を来たままだったのだ。しょうがないので、全部脱いでスッポンポンになった。

 女の手がまだ眠っているジュニァに伸びてきて、優しくもみだした。何しろ、17才10か月の少年だったから、ナニは直ぐにいきり立った。女は器用にコンドーさんを被せた。女の上に覆い被さると女の手がジュニァを誘導してなにやら生暖かいクレパスに押し込んだ。ギャロップを続けること数分、無事に大砲は発射した。で、抜くと、女は京花紙を渡したので、コンドーさんごと外した。女はその後を紙で拭いてくれた。(これがショートで、30分一本勝負なのだ。そして泊りがある)
女は表通りまで送ってきて『また、来てね』といった。

 この世界では、初めての客を『一見の客』とか『初見』といい、二度目で『裏を返す』といい、三度目でやっと『御馴染みさん』となる。
さて、高校生にとって300円は安いものではなかった。だから、月に一度が精一杯だった。でも、卒業までには『御馴染みさん』になっていた。
 そんなある夜、300円握って出掛けたが、おかめさんはいなかったので、せっかくだからと、他の女と上がった。そして一戦交えて表に出てくると、なんとおかめさんとばったり鉢合わせ。で、『なんで私のお客さんを取ったのよ』とおかめが言い、相手は『なによ私のお客さんを』と雪の上で、組んずほぐれつの大乱闘と相成った。イヤハヤ、色男は辛いネエ、てなもんや三度傘・・・?

 雪が解けた頃、この二人が石鹸を買いにきて私とばったり顔があった。さてそれから・・・。