【歴史の歪み】
目立たない人物ほど危険だ。
クラウンベリーおじさんは、そういう人間だった。
彼は、《総管理局》に在籍していたが、そこに集うエリートたちは、誰も彼のことを「知らなかった」。
彼が、実に二百年という長い月日のなかを、次々と名前を変えては他の人物になりすまし、
この世界でひっそりと生き抜いてきたことも。
ある意味では同属のカルパントラだけは、彼の動向に眼を光らせていた。
周りの人間は、明らかに記憶を操られている。だから彼の不自然な経歴に、疑問すら抱かない。
彼はやり手だ。影の催眠術師。その卓越なる手腕を、歴史の歪みに利用した。
この世界を破壊するため。
自分を倖せにしてくれないこの国に、彼は怨恨を抱いていた。
事実が明らかになると、《中央》は、最高機密である『催眠システム』の見直しを余儀なくされた。
彼が仕組んだ『罠』がどこにあるか判らない。
管理されている暗示呪文が、そもそも誰の手によって作り出されたものなのかも定かではない、混乱した現状だ。
彼は、全ての機関に潜入可能な立場にあった。
《研究院》の端末の前で煙草をくゆらせていたとしても、彼は「ずっとここにいた人物」になりきることができるのだ。
『箱庭壊滅』のプログラムを組んだのも、彼かも知れない。
彼は、ついになにも語ろうとはしなかったが、カルパントラには確信があった。
どうしても聞いておきたかったことだが、彼は答えてくれなかった。
ただ、またいつものように、あの物憂げな表情で微笑しただけだ。
彼の一番重要な罪名は、確定しないままだった。
彼が国中にばらまいていた薬剤が、極めて悪質なものだったということが、唯一の理由になった。
実際、死者が出ていたし、彼は処刑を免れなかった。
こうして彼は(おそらくは望み通りに)、「なかなか死ねない」自分のシナリオのエンドタイトルを手に入れた。
この世界を破壊するのに、何故彼は、ひとの恋心や愛情を利用手段に選んだのだろう…。
その疑問は、果てしなく空しくて、哀しい。
クラウンベリーおじさんがしょっ引かれたことを聞いた『薔薇の庭園』の住人は、それぞれの想いに沈んだ。
「親切な方だったのにね」
ローズはヴィオラに、寂しそうに笑いかけた。
「あのひとは、レイの眼の健康を考えて、ブルーベリーのキャンディーをくれた」
ヴィオラはそう云って、心配そうに少年を振り返った。
「ぼくだったら大丈夫だよ」
彼はうつろに笑った。「全然、余裕」
あまり余裕があるようには見えなかった。
数日後。
《総管理局》は新しい物売りを送りこんできた。
こちらは完璧なおじさんだ。昨日まで、倉庫で力仕事に勤しんでいたような人物だった。
彼もまた、心を躍らせるような品物の数々を用意してきた。
ローズとヴィオラは、それらの品物に釘付けになっている。レイはその後ろで、ひっそりと待っていた。
「坊ちゃんもいかがですか。この薬、効きますよ」
このひとは配慮という言葉を知らないらしい。
「それから、できれば30フラワーセント程、まとめ買いをお願いしたいんですがね」
それでは、ローズが受けている支給額の三分の一が消えてなくなることになる。
「冗談はほどほどに」
レイが暗い声を出したので、おじさんは黙った。
これ以上、《中央》に財産を回収させてなるものか。
「これは次回の注文書です。ぼくには余計なものを用意しなくて結構。欠品のないようにお願いします」
あくまでも事務的に云ってやった。
傲慢でとりつくしまのない管理者になってやる。
さて、ひとつだけ疑問が残っていたわけだが、それについてヴィオラは次のように述べている。
「でも、おじさんは、わたしたちには悪意がなかったんだよね」
そう解釈できる心の寛大さは、尊敬に値する。
あれはまさしく、ただのブルーベリーキャンディーだった。(レイが酔ったのは、ブランデーの所為だ)
毒物でなかったことは評価すべきことだったにしろ、騙されたことを同列に考えてはならない。
少年は、著しく自尊心(それが存在すればの話だが)を傷つけられた気分でいる。
なにが、「究極の快楽」だ。これでは、騙された方がまるでバカみたいではないか。
「多分、本当におじさんは貴方の眼の健康を考えてくれたんだと思うの」
「嘘までついて」
ヴィオラは主張を曲げなかった。
「ちょっとからかいたくなったのよ。だって、貴方ってすぐに騙されちゃうんですもの。かわいいよね。
わたし、彼の気持ちがよく判るわ」
かわいいと云われるのは複雑な心境だったが、でも本当は、一番哀しく思うのは、もう二度と逢えない、ということなのだ。
「それってきっと、好きってことだと思うのよ」
本当に、好きになれそうなひとだったから…。
「さて、そろそろ食事の支度をしなくちゃ」
本を読んでいたヴィオラが、憂鬱そうな声を上げて起きあがった。
「今夜は何にしようかな」
相変わらず、彼女は負け続けていた。
そしていまだに、その不自然な事態に疑問すら抱かない様子だ。
純粋すぎるのか、愚かなのか、どっちかだろう。
ローズは薄々と感づいているらしく、時折肩をすくめて嘆息する。哀れな娘だ。
「今夜はロールキャベツにしよう」
料理の本を手に流しに向かったヴィオラに、レイが云った。
「手伝うよ。一緒に作ろう」
「どうして」
「もうゲームで決めるのはやめにしないか。一緒にやった方が楽しいよ」
良心の呵責に耐えられなくなったらしい。
「よかった。わたしもその方がいいなって、ずっと思っていたの」
ヴィオラがにっこりする。ローズは満足げに微笑して、キッチンを出て行った。
「ふたりで頑張ろうね」
料理が楽しいと思える、その日まで…。
完
目立たない人物ほど危険だ。
クラウンベリーおじさんは、そういう人間だった。
彼は、《総管理局》に在籍していたが、そこに集うエリートたちは、誰も彼のことを「知らなかった」。
彼が、実に二百年という長い月日のなかを、次々と名前を変えては他の人物になりすまし、
この世界でひっそりと生き抜いてきたことも。
ある意味では同属のカルパントラだけは、彼の動向に眼を光らせていた。
周りの人間は、明らかに記憶を操られている。だから彼の不自然な経歴に、疑問すら抱かない。
彼はやり手だ。影の催眠術師。その卓越なる手腕を、歴史の歪みに利用した。
この世界を破壊するため。
自分を倖せにしてくれないこの国に、彼は怨恨を抱いていた。
事実が明らかになると、《中央》は、最高機密である『催眠システム』の見直しを余儀なくされた。
彼が仕組んだ『罠』がどこにあるか判らない。
管理されている暗示呪文が、そもそも誰の手によって作り出されたものなのかも定かではない、混乱した現状だ。
彼は、全ての機関に潜入可能な立場にあった。
《研究院》の端末の前で煙草をくゆらせていたとしても、彼は「ずっとここにいた人物」になりきることができるのだ。
『箱庭壊滅』のプログラムを組んだのも、彼かも知れない。
彼は、ついになにも語ろうとはしなかったが、カルパントラには確信があった。
どうしても聞いておきたかったことだが、彼は答えてくれなかった。
ただ、またいつものように、あの物憂げな表情で微笑しただけだ。
彼の一番重要な罪名は、確定しないままだった。
彼が国中にばらまいていた薬剤が、極めて悪質なものだったということが、唯一の理由になった。
実際、死者が出ていたし、彼は処刑を免れなかった。
こうして彼は(おそらくは望み通りに)、「なかなか死ねない」自分のシナリオのエンドタイトルを手に入れた。
この世界を破壊するのに、何故彼は、ひとの恋心や愛情を利用手段に選んだのだろう…。
その疑問は、果てしなく空しくて、哀しい。
クラウンベリーおじさんがしょっ引かれたことを聞いた『薔薇の庭園』の住人は、それぞれの想いに沈んだ。
「親切な方だったのにね」
ローズはヴィオラに、寂しそうに笑いかけた。
「あのひとは、レイの眼の健康を考えて、ブルーベリーのキャンディーをくれた」
ヴィオラはそう云って、心配そうに少年を振り返った。
「ぼくだったら大丈夫だよ」
彼はうつろに笑った。「全然、余裕」
あまり余裕があるようには見えなかった。
数日後。
《総管理局》は新しい物売りを送りこんできた。
こちらは完璧なおじさんだ。昨日まで、倉庫で力仕事に勤しんでいたような人物だった。
彼もまた、心を躍らせるような品物の数々を用意してきた。
ローズとヴィオラは、それらの品物に釘付けになっている。レイはその後ろで、ひっそりと待っていた。
「坊ちゃんもいかがですか。この薬、効きますよ」
このひとは配慮という言葉を知らないらしい。
「それから、できれば30フラワーセント程、まとめ買いをお願いしたいんですがね」
それでは、ローズが受けている支給額の三分の一が消えてなくなることになる。
「冗談はほどほどに」
レイが暗い声を出したので、おじさんは黙った。
これ以上、《中央》に財産を回収させてなるものか。
「これは次回の注文書です。ぼくには余計なものを用意しなくて結構。欠品のないようにお願いします」
あくまでも事務的に云ってやった。
傲慢でとりつくしまのない管理者になってやる。
さて、ひとつだけ疑問が残っていたわけだが、それについてヴィオラは次のように述べている。
「でも、おじさんは、わたしたちには悪意がなかったんだよね」
そう解釈できる心の寛大さは、尊敬に値する。
あれはまさしく、ただのブルーベリーキャンディーだった。(レイが酔ったのは、ブランデーの所為だ)
毒物でなかったことは評価すべきことだったにしろ、騙されたことを同列に考えてはならない。
少年は、著しく自尊心(それが存在すればの話だが)を傷つけられた気分でいる。
なにが、「究極の快楽」だ。これでは、騙された方がまるでバカみたいではないか。
「多分、本当におじさんは貴方の眼の健康を考えてくれたんだと思うの」
「嘘までついて」
ヴィオラは主張を曲げなかった。
「ちょっとからかいたくなったのよ。だって、貴方ってすぐに騙されちゃうんですもの。かわいいよね。
わたし、彼の気持ちがよく判るわ」
かわいいと云われるのは複雑な心境だったが、でも本当は、一番哀しく思うのは、もう二度と逢えない、ということなのだ。
「それってきっと、好きってことだと思うのよ」
本当に、好きになれそうなひとだったから…。
「さて、そろそろ食事の支度をしなくちゃ」
本を読んでいたヴィオラが、憂鬱そうな声を上げて起きあがった。
「今夜は何にしようかな」
相変わらず、彼女は負け続けていた。
そしていまだに、その不自然な事態に疑問すら抱かない様子だ。
純粋すぎるのか、愚かなのか、どっちかだろう。
ローズは薄々と感づいているらしく、時折肩をすくめて嘆息する。哀れな娘だ。
「今夜はロールキャベツにしよう」
料理の本を手に流しに向かったヴィオラに、レイが云った。
「手伝うよ。一緒に作ろう」
「どうして」
「もうゲームで決めるのはやめにしないか。一緒にやった方が楽しいよ」
良心の呵責に耐えられなくなったらしい。
「よかった。わたしもその方がいいなって、ずっと思っていたの」
ヴィオラがにっこりする。ローズは満足げに微笑して、キッチンを出て行った。
「ふたりで頑張ろうね」
料理が楽しいと思える、その日まで…。
完