文庫 麦わら帽子

自作小説文庫

緑の指と魔女の糸 「からくれない」

2017-03-29 | 小説 緑の指と魔女の糸 シ
ある昼下がり。

私は気持ちよく、午睡を愉しんでいた。

夢を見た。

紫色の石や、水晶の砂でできた砂丘の夢を。

砂は、柔らかく、素足に埋もれる。

遥か遠くに、光の柱が立っていた。

その横に、誰かがいる。

後光を放ち、私を見ている。

沢山の布をまとい、…なんだろう、包帯のような細い布が、

花びらのように、風になびいていて。

優しく強い眼差し。ここへ、おいで、と、呟くの。

知っている、本当に理解している、私の大切な人のように感じた。

無限に拡がる紫の砂丘。暖かな風。

私は、呼ぶ声に応えるように、歩こうとしたけど、

その人のいる場所は、あまりに遠かった…。


そんな夢を、何度も見た。

私が、小学校に入学して、今は3年生。

ふと、眼を覚ますと、当然のように母が隣で眠っていた。

お姫様の部屋のような、きれいな部屋で、眠りの魔法をかけられた、オーロラのように。

母の腕には、包帯が巻かれている。

腕の痣の傷には、毎晩、母は悩まされていた。

白婆ちゃんが放った、最期の呪詛だ。

夜ごと母に苦痛を与え、眠らせない。

あれから、母は次第に憔悴していった。

傷みが常に、母を支配していた。

痣は、次第に大きくなり、母はそれを人目から隠した。

でも、母は我慢強く、弱音を吐かない。

いつも笑顔を絶やさなかった。

白婆ちゃんの命を奪ったことで、私には何の変化もない。

緑の指の力は、逆に、強くなってゆく …

… 何故?


私は、どうしたら、いいの、母さん。

判らない。私には、決められない。判らない…

教えてよ、母さん。私は、どうしたらいい?


緑の指の力が、次第に強くなっていくと同時に、

普通は見えない妖の姿も、見えるようになってゆく。

あろうことか、いつも一緒にいる夏ちゃんまで、影響を受けるようになった。

好奇心の強い彼は、妖を見つけると、珍しがってはしゃいだけれど…

「命が毛を逆立てるような妖は、危険。決して眼を合わさないで」

私は、それらの存在に、注意を払うようになった。

… 妖は、私の緑の指を狙っていたのだ。



その日の放課後もそうだった。

樹木よりも大きな目玉を持った妖に追われた。

『う、まそうだ… 旨そうな、指、喰いたい』

こんな時は、神社だ。母さんに教わった。

私と一緒にいた夏ちゃんも、神社を探し走った。

「確かにあったよね、神社」

「普段は、意識してないからな、こういう時は困る」

「夏ちゃんは、別の方角に逃げて。狙われているのは、私の指だから」

「そんなこと、できるか!」

ランドセルを揺らしながら、私達は逃げた。

神社の結界に入ったら、母さんが作ってくれた護符が効く。

「あった! 凛、もう少しだ!」

「うん…、夏ちゃん …!」

怖い。夏ちゃんは怖くないのかしら。男の子だから?

私たちは遂に神社に辿り着いた。

私は、ポケットに忍ばせていた和紙を取り出した。

「汝(なんじ)は、天の配剤、呼び起こせ、真理の希求、此処ぞは出口、折り柄に花ぞ散る」

妖に 札を投げ打つ。「我わが友、いかなるところに生を変えりとも、我、願う。汝は善也り」

目玉のお化けは、光を放って消えた。

投げつけた護符は、散り散りになり、まるで花が散ったように宙から落ちてきた。

「すげーな、おばちゃんの護符!」

夏ちゃんが興奮して、云う。

だけど。私は、心細かった。

「夏ちゃんは、怖くないの?」

「別に。俺には、テコンドーがあるしな。絶対、凛と母ちゃん、護ってやるぜ」

妖に、テコンドーが効く訳ないでしょ。でも、

夏ちゃんが怖くないって云うのなら、心強い。

「高尾山で、白婆ちゃんが死んでも、緑の指の力は弱らないし消えない」

「ああ。一体どうなっているんだろうな」

「命を10年間生かすことって、母さんは云っていた。…命の生命と引き換えってこと?」

「…凛」

「…嫌。あの子は家族だよ。失いたくない」

命の成長は、人とは違った。

あんな小さな男の子が、今は中学生くらい大きくなった。

私達が、無言のまま座っていると、そこへ、息を切らした命が現れた。

「お姉さま、兄さま…、走るの、速すぎる…」

命は私の身を案じて、いつも学校にまでついてくる。

そうだ。目玉の妖が現れるまで一緒だったんだ。

キツネの妖のくせに、この子は足が遅かった。ううん。足が、弱いのだ。

そして、気の毒なほど虚弱体質だった。

命が、白いキツネの姿から、人形になった。

顔が真っ青だった。

「命、ごめんね。自分のことで私、必死だった」

「おまえ、用心棒のつもりだろ。全然役にたってない」

夏ちゃんの言葉は厳しかった。私は、命を座らせ、抱き寄せた。

「いいの、夏ちゃん。この子の気持ちが嬉しいの」

「命は妖力は使えねーの?」

「私の、妖力は … 」

命はぐったり眼を閉じたまま応えた。「ただ一度だけの為に、使えません」

それは。

時が来て、私の指から力を消すこと。きっと、そういうことなんだ。

命が突然、激しく咳きこみ、夏ちゃんが、溜め息と一緒に立ちあがった。

「待ってろ。水を汲んでくる。凛、そいつの汗を拭いてやれ。風邪を引くぞ」

とやかく云っても、彼は命の身体を気遣ってくれる。

まるで、幻のような生命。いつか消えてしまう夢のような命。

私達は、幻を愛しているみたい。

「お姉さまのまじないの言葉が聞こえました」

「耳はいいのね。母さんが教えてくれた呪文だよ」

「離れていても聞こえました。強く、迷いがなく、とてつもなく愛に満ちたまじない」

「消えた妖は、死んだのかな」

「あのまじないは、遠くへ追いやるだけです。此処ぞは出口、折り柄に花ぞ散る…汝は、善也。

死んだりしません。逆に、それが不思議なのです。

娘を襲う妖を、殺してしまわない」

「必要がないんだよ。護符もある。神社もある。私がいけないの。

見てはいけないものを、見てしまうから。

持ってはいけない指を持っているから。弱いくせに」

「お姉さまは、お優しい…」

「優しいのは、母さん。そして、命」

「…愛しております、お姉さま」

命の細い指が近づいてきて、頬に触れた。

いつの間にか、私は泣いていた。

災厄は、この私。夕焼けが,眼に沁みた。渡り鳥が、鳴いていた。

しばらくして、母さんが迎えにきた。

護符が散った時に、私達の身に起きたことを感じたらしい。

「頑張ったね、みんな」

母さんは笑うと、命をキツネに戻し抱き上げた。

「さあ、帰ろう。」

「母さん」

私は、慌てて母さんのスカートを引いた。

「私、もっと、強くなる」

「俺も、強くなるぞ」

夏ちゃんが、シシシ、と笑った。

「頼もしいわね。期待してる」

季節が移りゆこうとしていた。

これは、私達にはありきたりの、日常。

夏の終わりの、物語り。
















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緑の指と魔女の糸『高尾山事変4』

2017-03-27 | 小説 緑の指と魔女の糸 シ
母さんの体力が回復し、山を下る事になった。

私たちは、お借りしていた宝山殿の家の掃除を、丁寧に行った。

母曰く、これは最低限の礼儀なのだそうだ。

男所帯ながらも、きれいだった家も、

障子紙を張り替えたり、浴室のカビ取り、庭の草取りをしたら、

見違えるように綺麗になった。

「今年の大掃除は、しなくてもいいようだな」

 宝山殿は、きれいになった家を見まわしてご満悦だ。

「長らくお世話になりました」

 母さんが深く、頭を垂れる。

「いつでも、帰っておいで。凜殿も、いつだって遊びにきていいのだぞ」

 破顔一笑する宝山殿に、私は抱きついた。

「せっかく、お山のワンちゃん達ともお友達になったのに、寂しいよ」

「大丈夫だ。あの子たちは、ずっと、凛殿のことを忘れたりしない。待っているよ」

 宝山殿は、優しく頭を撫ぜてくれた。



 荷物をまとめ、彼と別れる時、彼は母さんに云った。

「くれぐれも、独りで抱えこまずにいておくれ。紫殿は、決して独りではない。

 娘を護ってやるのだろう? 独りでは解決できないこともある」

 母さんは、そんな彼の顔を、食い入るように見ていて、やがて、云った。

「いつか、凛が人生に迷って、ここへ来るかも知れない。その時は、頼みます」

 私の胸が、不安に慄いた。

 母さんは、白ばあちゃんから、厳しい試練を受けている。 

 この先、何が起こるのか、私には判らない。

 母さんが、この先どうなってしまうのかも判らない。

 それを想像すると、心臓が壊れそうになる。不安で仕方なくなる。でも、私は、涙を耐えていた。

 


 奥深い霊山を抜け、リフトに乗って山を下ると、そこはまるで別の世界に見えた。

 私たちが、生きる世界。もうここには、宝山殿も、山犬もいない。はしゃぐ観光客。

 私たちは、境界を越えたのだ。

「…凛」

 母さんが、そっと髪に触れてきた。

「帰ってきたよ。もう、全て忘れて、楽しく生きよう」

「…母さん」

「ねえ、命が人に変化出来るようになったのよ」

「ええ?」

 私は、抱いている命を見つめた。

 命は、私達以外の人には見えない。妖の姿も、小さな男の子に変化した姿も。

 命は、白いパーカーにジーンズの姿で立っていた。

 丁度、私くらいの年齢の男の子。

 薄い茶髪に、グレーの眸。綺麗な、男の子だった。

「お姉さま」

 なんて云って、私に抱きついて来て、どぎまぎさせる。

 とんでもなく、イケメンな男の子。

「夏ちゃんに、お土産頼まれているんでしょ?」

 母さんが笑っている。

「うん。木刀。あるかな」

「探そう! それから、おいしい、天ぷら蕎麦を食べようよ」

 私たちは、手をつないでお土産屋さんに入った」

「木刀、あるね。でも、夏ちゃんが云っていた『洞爺湖』って書いてあるのがないなあ」

「それは、北海道に行かなきゃないよ」

「そうなの? えー、どうしよう。それに思ったより、木刀って高いんだね。

私も同じもの欲しかったのに」

「いいよ、母さんが買ってあげる」

 母さんは楽しそうに、木刀を2本手に取った。

「文字は自分で書けばいいじゃない?」

「うん。それもそうだね」

 母さんは、猫さんや夏ちゃんのお母さんにあげる『天狗黒豆まんじゅう』も買っていた。

 それから、お蕎麦屋さんに寄って天ぷらのせいろを食べる。母さんはビールも飲んだ。

 命もキツネ蕎麦を、美味しそうに食べていた。

 私は、話すなら今しかないと思い、ずっと胸に秘めていたことを話した。

「私、夏ちゃんと一緒に、テコンドーを習いたいの」

「テコンドー?」

 母さんは、ぼんやりとして応える。

「空手、みたいなもの。私、強くなりたいの」

「なんで?」

 母さんは、面白そうに笑う。

「私、母さんを護りたい、塾のお金とか大変?」

「それほどでも」

「じゃあ、習わせて」

 この時母さんは、フッと笑って私の頭を撫ぜてけど、



 これが、とんでもない事件に関わってくる事なんて

この時は、まだ、誰も知らなかった。

 
 母さんと命と、高尾山に行った。

 宝山殿と、山犬達と友達になった。

 命が、自分の意志で人に変化できるようになった。

 母さんが、独りじゃないと知って、安心した。

 私も。

 ここにいつでも帰ってきていいのだと、知った。

 …でも。

 白婆ちゃんの死が、まるで当たり前であるかのように消され、

 日常は、続く。
 
 母さんが恐れていたものを、この時の私は知らない。

 強い妖力、神通力を持つ母が、

 悪霊や魔物より、はるかに恐れていたものが、近づいていた。




 人間が。


 「高尾山事変」  了    
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緑の指と魔女の糸 「高尾山事変3」

2017-03-14 | 小説 緑の指と魔女の糸 シ

 朝、庭に出ると、真っ白なお婆ちゃんが立っていた。

「お、おはようございます」

 昨夜は、母さんが遅くに帰って来たから、私も寝不足だったけど、

 その人の眼を見たら、パッと目が覚めてしまった気分だ。

「おはよう、凛ちゃん。はじめまして」

 お婆ちゃんは、きれいな姿勢でお辞儀をする。

「私は、白水。貴女のひいばばよ」

「お婆ちゃん!?」

 わたしが駆け寄ると、お婆ちゃんはふわりとわたしを抱きしめた。

 植物の匂いがする。

「貴女が来てくれて嬉しいわ。ねえ、凛ちゃん。凛ちゃんは、

緑の指が欲しくないのかい?」

 こんな大事な話、二人でしていいんだろうか。

 でも、母さんはよく寝てるし。

「欲しいけど…、でも、友達と遊べないのは嫌だなあ。

学校にも行きたいし、母さんと旅行にもいきたいし、それに…」

「つまらぬことだよ」

 お婆ちゃんは、静かだけど、ピシャリと云った。

「おばばの夢はね、この緑の指で、世界を救うことなんだ」

「えええ、世界を?」

「ここで修行をして、砂漠へ行くのさ。緑のない砂漠に、オアシスを作るの」

「オアシスってなあに?」

「植物と、水が溢れる楽園だよ。世界には、飲み水すらない人が沢山いるんだ」

 聞いたことがある。泥水を飲んでいる女の子も、テレビで見たことがあった。

 あれは衝撃だったな。わたしは、あんな汚い水は、飲みたくないなあ。

 きっと、母さんが淹れてくれる紅茶も、おいしくならないだろうと思った。

「凜ちゃんも、おばばとこのお山で修行して、一緒に砂漠に行かないかい?」

「砂漠に…?」

「そう。沢山のひとの命を、貴女は救えるの」

 それは、確かに凄いことだ。

 でも。

 わたしは、直ぐには答えられなかった。

 そこへ、母さんが走ってきた。

「おばあ様! 直接凛と話すのはやめて下さいと、昨日云ったではありませんか!」

 母さんが本気で怒っているのは、その声で判った。

「昨晩、あれだけ話をしたのに、私たちはまだ、話し合う時間が必要なんです!」

「時間の無駄さね」

 お婆ちゃんは、一時も母さんを見ようとしなかった。

「お前の話を聞く気は毛頭ないよ。私の考えは変わらない。私が、この子を貰い受ける」

「そんなことが赦されるとでも? この子の母親は私。育てる責任があるんです!」

 母さんが、半ば無理やり、お婆ちゃんの手からわたしを奪い取った。

「お前はとんでもない出来そこないだ。お前の母親も愚かだった。

 緑の指の力を受け継ぐことすらできず、山を下って早死にした。犬死と同じことだ」

「母は、私をここまで育ててくれました。それに、私の神通力だって…!」

「穢れている。お前の力には闇が宿っている。神様ごっこはもう終わりにしなさい」

 そこへ、宝山殿がやってきた。

「白様。こんな場で、ましてや、幼子の前でおよしなさい。紫殿もこらえるのです」

 宝山殿は、私の手を取ると、有無を云わさず家の中へ戻った。

 振り返ると、母さんと、お婆ちゃんがまだ云いあっていた。

「今夜も、貴女を尋ねます。話を聞いて下さい」

「無駄だと云ったろう。…場合によっては、怪我だけでは済まないよ」

 ズキン。胸が苦しくなった。怪我では、済まない?

「お前が間抜けで、のこのことあの子をこの山に連れてきたのが運の尽きさ」

「私は、おばあ様なら理解を得られると、信じています」

 わたしは、宝山殿の手をぎゅっと握った。

「怖いです。何故、お婆ちゃんはあんなに怒っているの?」

 宝山殿は、わたしの頭を撫ぜると、温かいお茶を淹れてくれた。

「ひとの価値観はそれぞれだからね。二人の意見が合わなくても、それは不自然なことではないのだよ」

 わたしと、宝山殿は向かい合ってお茶を飲んだ。

 命が、わたしの膝の上に乗ってきた。

「白様の植物に作用する神通力は、神がかっている。

一時、この山の松の樹が、虫にやられて随分枯れ果てたのだが、

白様が、おひとりで死んだ樹々を蘇らせた。この山が豊かなのも、

白様の力のお蔭なのだ。彼女は、その力で、砂漠化した地球を救おうとしているんだよ」

「聞きました。わたしも一緒に行こうと、誘われました」

「あの方は、博愛主義なのだ。自分の人生を賭しても、困っているひとや、

この地球を救いたいのだよ。それは、並大抵の覚悟ではできるものではない」

しかし、と、宝山殿は言葉を続ける。

「きっと、紫殿は、凛殿の生活を、ありきたりな幸せを、望んでいらっしゃるのだろう」

「どっちが正しいの?」

「それは、先刻も云ったように、人それぞれだ。紫殿は、ただ普通の母親として、

凛殿の幸せを望んでいる。それは手前勝手な事では、決してない。普通の事だ。

人として、普通の事なんだよ」



 その後の お婆ちゃんと母さんの話し合いがどうなったのかは知れない。

 母さんは、昼過ぎに再び奥深い山に入っていた。

 二人は、わたしの未来について、話し合っている。

 ううん、戦っているんだ … 。

 そう想うと、わたしは涙を止められなかった。

 わたしは、どうしたい?

 学校にも行かないで、このお山で修行して、お婆ちゃんと、砂漠を目指す?

 それは、正直、とても魅力的な話だった。

 でも … でも … どうして?

 夏ちゃんの笑顔が、邪魔をするの。

「お土産? 木刀がいいな! 」

 そんな事を云って笑った夏ちゃんと、遊びたい。

「ねえ、一緒にオレとテコンドー習おうよ、凛ちゃん!」

「オレも一緒に、凛ちゃんのお母さん、守ってやるよ…もちろん、命の事も!」

「オレ達、最強のコンビになろうぜ」

 … 夏ちゃん。私がこのお山を離れられなくなったら、約束した事、全部ダメになる。

 わたし、夏ちゃんに会いたい。

 あの素敵なお家に帰りたい。

 猫平さんや、商店街の人たちと、今まで通り、会いたい。

 会いたいよ … !

 わたしが泣いていると、宝山殿が、無言で頭を撫ぜてくれた。

 わたしが決断できる事ではなかったのだ。

 だから、母さんが動いた。

 その時、母さんは、命を賭して、わたしの為に行動していた。




 山中が騒然となったのは、日付が変わろうとしていた時刻だった。

 山犬たちがけたたましく鳴き、宝山殿が家を飛び出していった。

 山の何処かで、お婆ちゃんが死んだのだ。




 眠れないわたしは、それでも子供は眠っていなさいという言葉に従って、

用意された布団の中にいた。

 お山の人々が騒ぎ出す直前、ふいに、一緒に布団に入っていた命が飛び起きた。

 命は、障子を開け放って月明かりを入れている窓の方を見て、毛を逆立てていた。

 母さんに何かあったことは明らかだった。

「命、母さんを護って … わたしは、何もできない … 」

 そう云うと、命は、わたしの鼻の頭を舐めてから、外に飛び出していった。

 母さんが、ボロボロの雑巾のようになって戻ったのは、その3時間後だ。

 家を飛び出していった命が、母さんを連れて戻ってきた。

 わたしは、部屋を飛び出して母さんに駆け寄った。

 着ている服はボロボロ。顔にも傷を負って、血が流れていた。

 わたしは、母さんの左腕にある痣に気付いて、鳥肌がたった。

 青黒い、文字のような痣…

「ああ … 凛、心配かけて…ごめんね。もう、心配はないから」

 弱々しく笑う母さんに、嫌な予感がした。

 お婆ちゃんは、死んだ姿で見つかったと、人々の押し殺した声で知った。

 …顔は、完全に潰されて…、あれは、妖の力を使ったのだろうな…。

 妖の、力。

 … 魔道を、開いたのだ、あの女は…
 
 母さんは、魔道を開き、妖魔を呼び寄せた。

 わたしにはすぐ、理解できた。

「どうして…」

 母の胸に顔を埋めて、云った。「どうして、お婆ちゃんを…」

 宝山殿は、それを静かに見ていた。

 母は、直ぐには答えなかった。

「普通に産んであげられなくて…ごめん、凛…」

 わたしは、十分に、普通だよ? 

 母さん、何故、泣くの? 何故、お婆ちゃんを … ?

「でも、もう、心配ない … 、貴女は、普通に、生きられる … 」

 それは、

 どういう意味?

 宝山殿が云った。

「魔道を開いたか、紫殿」

「はい …、 申し訳ありません … 」

「む…、そして、それは、閉じられたか? 」

 母さんが、訴えるように宝山殿の腕を、掴んだ。

「申し訳ない … そこまでの余裕もなく … 」

 わたしの脳裏いっぱいに広がったのは、閻魔大王の笑顔だった。…、何故?

「罪を犯してはならないと、…約束したんでしょう?」

 熱に侵されたような表情で、母さんはわたしを見た。

「閻魔様と!! 人を傷つけてはならないと、ましてや、命を奪うなどという…!」

 母さんの眸に、みるみるうちに泪が溢れた。

「これで、私は、いいの。私は、独りでも、大丈夫」

 こんな時に、笑わないでよ、母さん。

 ずっと、憧れて、想い焦がれてきた、閻魔様。

 いい訳がないでしょう!?

「わたしの為に、あの約束を破ってしまったのなら」

 わたしは、勇気を振り絞った。

「わたしが、閻魔様に赦しを乞う! 母さんは、わたしの為に罪を犯したんだって!

そう云うから!!」

「… 凛 … 」

 母さんが、優しくわたしの頬を撫ぜた。

「私も、修行を積み、凛殿と一緒にあの聖域に参ろう」

 宝山殿も云ってくれた。

 でも、何故か、母さんは笑うだけ。

「私はもう、独りで大丈夫だから … 」

 だからって、わたしは引かない。

「わたしは、決めたの。母さんを独りにはさせない」

 宝山殿も、云った。

「私も、決めたよ。人の世は、複雑なのだと、物申すつもりだ」





 

 この地球は…

 この地球に、住まう人々は、実に複雑な思考に支配されて、生きている…

 そこには、どんな信仰も理屈も、通用しないことがあり得るのです。


「凜殿、一緒に参ろうか」

「わたしは、妖には慣れていません」

「大丈夫。今の貴女にしかできないこともある」


 そう云われて連れて行かれた闇の中で、

 わたしは初めて、闇から呼ばれた妖の姿を見た。

 闇を、どこまでも深くする存在。

 たった独りで、この山のこの聖域を呑みこんでしまうような、

 深い深い、闇。

 宝山殿が手渡した、弓。

 目を見張るほどに輝かしい、光の矢。

 全てを、浄化する矢。

 少し重いので、彼の力添えも借り、山をさ迷い歩く、闇の妖を祓った。

 放った光と共に、わたしの中の何かが、叫んだ。

 それは、命の叫び。命の慟哭。命の執着、執念。

 わたしがあげた叫びが、闇の妖の力を奪ってゆく。

 痛々し気に響く、あの子の声。

 ごめんなさい。

 わたしの所為です、ごめんなさい。

 そう、唱えながら …

 わたしは、叫び続けた。







 わたしは、元の世界に戻ります … 。


 以上が、「高尾山事変」の全貌だ。








  続く


























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