ある昼下がり。
私は気持ちよく、午睡を愉しんでいた。
夢を見た。
紫色の石や、水晶の砂でできた砂丘の夢を。
砂は、柔らかく、素足に埋もれる。
遥か遠くに、光の柱が立っていた。
その横に、誰かがいる。
後光を放ち、私を見ている。
沢山の布をまとい、…なんだろう、包帯のような細い布が、
花びらのように、風になびいていて。
優しく強い眼差し。ここへ、おいで、と、呟くの。
知っている、本当に理解している、私の大切な人のように感じた。
無限に拡がる紫の砂丘。暖かな風。
私は、呼ぶ声に応えるように、歩こうとしたけど、
その人のいる場所は、あまりに遠かった…。
そんな夢を、何度も見た。
私が、小学校に入学して、今は3年生。
ふと、眼を覚ますと、当然のように母が隣で眠っていた。
お姫様の部屋のような、きれいな部屋で、眠りの魔法をかけられた、オーロラのように。
母の腕には、包帯が巻かれている。
腕の痣の傷には、毎晩、母は悩まされていた。
白婆ちゃんが放った、最期の呪詛だ。
夜ごと母に苦痛を与え、眠らせない。
あれから、母は次第に憔悴していった。
傷みが常に、母を支配していた。
痣は、次第に大きくなり、母はそれを人目から隠した。
でも、母は我慢強く、弱音を吐かない。
いつも笑顔を絶やさなかった。
白婆ちゃんの命を奪ったことで、私には何の変化もない。
緑の指の力は、逆に、強くなってゆく …
… 何故?
私は、どうしたら、いいの、母さん。
判らない。私には、決められない。判らない…
教えてよ、母さん。私は、どうしたらいい?
緑の指の力が、次第に強くなっていくと同時に、
普通は見えない妖の姿も、見えるようになってゆく。
あろうことか、いつも一緒にいる夏ちゃんまで、影響を受けるようになった。
好奇心の強い彼は、妖を見つけると、珍しがってはしゃいだけれど…
「命が毛を逆立てるような妖は、危険。決して眼を合わさないで」
私は、それらの存在に、注意を払うようになった。
… 妖は、私の緑の指を狙っていたのだ。
その日の放課後もそうだった。
樹木よりも大きな目玉を持った妖に追われた。
『う、まそうだ… 旨そうな、指、喰いたい』
こんな時は、神社だ。母さんに教わった。
私と一緒にいた夏ちゃんも、神社を探し走った。
「確かにあったよね、神社」
「普段は、意識してないからな、こういう時は困る」
「夏ちゃんは、別の方角に逃げて。狙われているのは、私の指だから」
「そんなこと、できるか!」
ランドセルを揺らしながら、私達は逃げた。
神社の結界に入ったら、母さんが作ってくれた護符が効く。
「あった! 凛、もう少しだ!」
「うん…、夏ちゃん …!」
怖い。夏ちゃんは怖くないのかしら。男の子だから?
私たちは遂に神社に辿り着いた。
私は、ポケットに忍ばせていた和紙を取り出した。
「汝(なんじ)は、天の配剤、呼び起こせ、真理の希求、此処ぞは出口、折り柄に花ぞ散る」
妖に 札を投げ打つ。「我わが友、いかなるところに生を変えりとも、我、願う。汝は善也り」
目玉のお化けは、光を放って消えた。
投げつけた護符は、散り散りになり、まるで花が散ったように宙から落ちてきた。
「すげーな、おばちゃんの護符!」
夏ちゃんが興奮して、云う。
だけど。私は、心細かった。
「夏ちゃんは、怖くないの?」
「別に。俺には、テコンドーがあるしな。絶対、凛と母ちゃん、護ってやるぜ」
妖に、テコンドーが効く訳ないでしょ。でも、
夏ちゃんが怖くないって云うのなら、心強い。
「高尾山で、白婆ちゃんが死んでも、緑の指の力は弱らないし消えない」
「ああ。一体どうなっているんだろうな」
「命を10年間生かすことって、母さんは云っていた。…命の生命と引き換えってこと?」
「…凛」
「…嫌。あの子は家族だよ。失いたくない」
命の成長は、人とは違った。
あんな小さな男の子が、今は中学生くらい大きくなった。
私達が、無言のまま座っていると、そこへ、息を切らした命が現れた。
「お姉さま、兄さま…、走るの、速すぎる…」
命は私の身を案じて、いつも学校にまでついてくる。
そうだ。目玉の妖が現れるまで一緒だったんだ。
キツネの妖のくせに、この子は足が遅かった。ううん。足が、弱いのだ。
そして、気の毒なほど虚弱体質だった。
命が、白いキツネの姿から、人形になった。
顔が真っ青だった。
「命、ごめんね。自分のことで私、必死だった」
「おまえ、用心棒のつもりだろ。全然役にたってない」
夏ちゃんの言葉は厳しかった。私は、命を座らせ、抱き寄せた。
「いいの、夏ちゃん。この子の気持ちが嬉しいの」
「命は妖力は使えねーの?」
「私の、妖力は … 」
命はぐったり眼を閉じたまま応えた。「ただ一度だけの為に、使えません」
それは。
時が来て、私の指から力を消すこと。きっと、そういうことなんだ。
命が突然、激しく咳きこみ、夏ちゃんが、溜め息と一緒に立ちあがった。
「待ってろ。水を汲んでくる。凛、そいつの汗を拭いてやれ。風邪を引くぞ」
とやかく云っても、彼は命の身体を気遣ってくれる。
まるで、幻のような生命。いつか消えてしまう夢のような命。
私達は、幻を愛しているみたい。
「お姉さまのまじないの言葉が聞こえました」
「耳はいいのね。母さんが教えてくれた呪文だよ」
「離れていても聞こえました。強く、迷いがなく、とてつもなく愛に満ちたまじない」
「消えた妖は、死んだのかな」
「あのまじないは、遠くへ追いやるだけです。此処ぞは出口、折り柄に花ぞ散る…汝は、善也。
死んだりしません。逆に、それが不思議なのです。
娘を襲う妖を、殺してしまわない」
「必要がないんだよ。護符もある。神社もある。私がいけないの。
見てはいけないものを、見てしまうから。
持ってはいけない指を持っているから。弱いくせに」
「お姉さまは、お優しい…」
「優しいのは、母さん。そして、命」
「…愛しております、お姉さま」
命の細い指が近づいてきて、頬に触れた。
いつの間にか、私は泣いていた。
災厄は、この私。夕焼けが,眼に沁みた。渡り鳥が、鳴いていた。
しばらくして、母さんが迎えにきた。
護符が散った時に、私達の身に起きたことを感じたらしい。
「頑張ったね、みんな」
母さんは笑うと、命をキツネに戻し抱き上げた。
「さあ、帰ろう。」
「母さん」
私は、慌てて母さんのスカートを引いた。
「私、もっと、強くなる」
「俺も、強くなるぞ」
夏ちゃんが、シシシ、と笑った。
「頼もしいわね。期待してる」
季節が移りゆこうとしていた。
これは、私達にはありきたりの、日常。
夏の終わりの、物語り。
了
私は気持ちよく、午睡を愉しんでいた。
夢を見た。
紫色の石や、水晶の砂でできた砂丘の夢を。
砂は、柔らかく、素足に埋もれる。
遥か遠くに、光の柱が立っていた。
その横に、誰かがいる。
後光を放ち、私を見ている。
沢山の布をまとい、…なんだろう、包帯のような細い布が、
花びらのように、風になびいていて。
優しく強い眼差し。ここへ、おいで、と、呟くの。
知っている、本当に理解している、私の大切な人のように感じた。
無限に拡がる紫の砂丘。暖かな風。
私は、呼ぶ声に応えるように、歩こうとしたけど、
その人のいる場所は、あまりに遠かった…。
そんな夢を、何度も見た。
私が、小学校に入学して、今は3年生。
ふと、眼を覚ますと、当然のように母が隣で眠っていた。
お姫様の部屋のような、きれいな部屋で、眠りの魔法をかけられた、オーロラのように。
母の腕には、包帯が巻かれている。
腕の痣の傷には、毎晩、母は悩まされていた。
白婆ちゃんが放った、最期の呪詛だ。
夜ごと母に苦痛を与え、眠らせない。
あれから、母は次第に憔悴していった。
傷みが常に、母を支配していた。
痣は、次第に大きくなり、母はそれを人目から隠した。
でも、母は我慢強く、弱音を吐かない。
いつも笑顔を絶やさなかった。
白婆ちゃんの命を奪ったことで、私には何の変化もない。
緑の指の力は、逆に、強くなってゆく …
… 何故?
私は、どうしたら、いいの、母さん。
判らない。私には、決められない。判らない…
教えてよ、母さん。私は、どうしたらいい?
緑の指の力が、次第に強くなっていくと同時に、
普通は見えない妖の姿も、見えるようになってゆく。
あろうことか、いつも一緒にいる夏ちゃんまで、影響を受けるようになった。
好奇心の強い彼は、妖を見つけると、珍しがってはしゃいだけれど…
「命が毛を逆立てるような妖は、危険。決して眼を合わさないで」
私は、それらの存在に、注意を払うようになった。
… 妖は、私の緑の指を狙っていたのだ。
その日の放課後もそうだった。
樹木よりも大きな目玉を持った妖に追われた。
『う、まそうだ… 旨そうな、指、喰いたい』
こんな時は、神社だ。母さんに教わった。
私と一緒にいた夏ちゃんも、神社を探し走った。
「確かにあったよね、神社」
「普段は、意識してないからな、こういう時は困る」
「夏ちゃんは、別の方角に逃げて。狙われているのは、私の指だから」
「そんなこと、できるか!」
ランドセルを揺らしながら、私達は逃げた。
神社の結界に入ったら、母さんが作ってくれた護符が効く。
「あった! 凛、もう少しだ!」
「うん…、夏ちゃん …!」
怖い。夏ちゃんは怖くないのかしら。男の子だから?
私たちは遂に神社に辿り着いた。
私は、ポケットに忍ばせていた和紙を取り出した。
「汝(なんじ)は、天の配剤、呼び起こせ、真理の希求、此処ぞは出口、折り柄に花ぞ散る」
妖に 札を投げ打つ。「我わが友、いかなるところに生を変えりとも、我、願う。汝は善也り」
目玉のお化けは、光を放って消えた。
投げつけた護符は、散り散りになり、まるで花が散ったように宙から落ちてきた。
「すげーな、おばちゃんの護符!」
夏ちゃんが興奮して、云う。
だけど。私は、心細かった。
「夏ちゃんは、怖くないの?」
「別に。俺には、テコンドーがあるしな。絶対、凛と母ちゃん、護ってやるぜ」
妖に、テコンドーが効く訳ないでしょ。でも、
夏ちゃんが怖くないって云うのなら、心強い。
「高尾山で、白婆ちゃんが死んでも、緑の指の力は弱らないし消えない」
「ああ。一体どうなっているんだろうな」
「命を10年間生かすことって、母さんは云っていた。…命の生命と引き換えってこと?」
「…凛」
「…嫌。あの子は家族だよ。失いたくない」
命の成長は、人とは違った。
あんな小さな男の子が、今は中学生くらい大きくなった。
私達が、無言のまま座っていると、そこへ、息を切らした命が現れた。
「お姉さま、兄さま…、走るの、速すぎる…」
命は私の身を案じて、いつも学校にまでついてくる。
そうだ。目玉の妖が現れるまで一緒だったんだ。
キツネの妖のくせに、この子は足が遅かった。ううん。足が、弱いのだ。
そして、気の毒なほど虚弱体質だった。
命が、白いキツネの姿から、人形になった。
顔が真っ青だった。
「命、ごめんね。自分のことで私、必死だった」
「おまえ、用心棒のつもりだろ。全然役にたってない」
夏ちゃんの言葉は厳しかった。私は、命を座らせ、抱き寄せた。
「いいの、夏ちゃん。この子の気持ちが嬉しいの」
「命は妖力は使えねーの?」
「私の、妖力は … 」
命はぐったり眼を閉じたまま応えた。「ただ一度だけの為に、使えません」
それは。
時が来て、私の指から力を消すこと。きっと、そういうことなんだ。
命が突然、激しく咳きこみ、夏ちゃんが、溜め息と一緒に立ちあがった。
「待ってろ。水を汲んでくる。凛、そいつの汗を拭いてやれ。風邪を引くぞ」
とやかく云っても、彼は命の身体を気遣ってくれる。
まるで、幻のような生命。いつか消えてしまう夢のような命。
私達は、幻を愛しているみたい。
「お姉さまのまじないの言葉が聞こえました」
「耳はいいのね。母さんが教えてくれた呪文だよ」
「離れていても聞こえました。強く、迷いがなく、とてつもなく愛に満ちたまじない」
「消えた妖は、死んだのかな」
「あのまじないは、遠くへ追いやるだけです。此処ぞは出口、折り柄に花ぞ散る…汝は、善也。
死んだりしません。逆に、それが不思議なのです。
娘を襲う妖を、殺してしまわない」
「必要がないんだよ。護符もある。神社もある。私がいけないの。
見てはいけないものを、見てしまうから。
持ってはいけない指を持っているから。弱いくせに」
「お姉さまは、お優しい…」
「優しいのは、母さん。そして、命」
「…愛しております、お姉さま」
命の細い指が近づいてきて、頬に触れた。
いつの間にか、私は泣いていた。
災厄は、この私。夕焼けが,眼に沁みた。渡り鳥が、鳴いていた。
しばらくして、母さんが迎えにきた。
護符が散った時に、私達の身に起きたことを感じたらしい。
「頑張ったね、みんな」
母さんは笑うと、命をキツネに戻し抱き上げた。
「さあ、帰ろう。」
「母さん」
私は、慌てて母さんのスカートを引いた。
「私、もっと、強くなる」
「俺も、強くなるぞ」
夏ちゃんが、シシシ、と笑った。
「頼もしいわね。期待してる」
季節が移りゆこうとしていた。
これは、私達にはありきたりの、日常。
夏の終わりの、物語り。
了