【 Bad Trip 】
猫足のバスタブに浸かっていたヴィオラは、レイが服のまま入ってきたのを見ていぶかしんだ。
「一緒に入らないの」
少年は無言で笑うと、サイドテーブルにふたり分のミント水を置いた。
「これからはひとりで入るように」
「な、なんで」
「最近のヴィオラは、ぼくを見て配慮に欠けた質問をしたり、悪戯がすぎるから」
「いやだったの」
「当たり前です」
レイは椅子に座って鷹揚に足を組み、持って来た本を開いた。本気らしい。
ヴィオラは、自分だけ裸になっている現実に突然抵抗を感じた。慌てて相手に背中を向ける。
「…なんか恥ずかしい」
「信じがたいはなしだろうけど、ぼくにも羞恥心がある」
「気づかなくて悪かったわ」
バスルームは当然ながらひどい湿気だった。
ヴィオラの髪だけは洗ってやろうと待機する少年は、いくらもたたないうちに汗をかきはじめた。
どちらかと云えば寒がりの彼は、ヴィオラがノースリーブで過ごしていても、しっかりと長袖を着こんでいるたちだ。
そのかっこうでここにいるのは間違っている。
しかも、彼は本など読んではいなかった。
読んでいるふりを装い心は別のところにあるようだ。
その証拠に、本が逆さまになっている。
ヴィオラは盗み笑いをし、そっとあるモノに手を伸ばした。
レイの頭を支配していたものは、クラウンベリーおじさんからもらった、あの碧い錠剤だった。
捨ててもいいと彼は云ったが、本気で捨ててしまうほどバカでも優等生でもない。
こんなチャンスは二度とないに違いなかった。
その「凄惨極まる」と云われる効果のほどは、風の噂に聞いたことがある。
与えられるものは、究極の快楽。
その効果に恐れ入った者たちは、この薬物の正式名など無視して、
『死』を意味するDとか、なにかの状態を表すOと呼んでいた。
クラウンベリーおじさんは、帰り際に、「酒精飲料と併飲すれば、効果は倍増」と教えてくれた。
本当にいいひとだ。
確か、キッチンの棚に製菓用のチェリーブランデーがあった。
計画を練りながら次第にドキドキしてくる。
無論、実行に移す算段だ。知ることは罪じゃない。
それは一体どんな快楽だろう…。
その時、バスタブの中で、ヴィオラが弱々しい声を上げた。
「気持ちが…悪い…」
ふと眼を上げた少年は、眼の前の惨状に一瞬言葉を失った。
バスタブは血の海になっていた。少女は口の端から血を流している。
「ヴィオラ…!」
レイは本を放りなげて駆け寄った。
大量吐血だ。少女はぐったりしている。
しかし、ローズを呼ぼうとして、ふとある事に気づいた。
血は大量だったが、まったくにおいがしない。
バスルームを飽和状態にしているのはラズベリーの甘い香りだった。
立ち往生しているレイの腕のなかで、ヴィオラは笑っている。
「これは一体どういう…」
床にバスキューブを包んでいた銀紙が落ちているのを見て、少年は全てを察した。
クラウンベリー御用達の、ラズベリーのバスキューブだ。それにしたってひどい色。
「血に染まって見えたよ」
「迫真の演技だった?」
「お風呂のお湯を口に含むなんて」
脱力している少年をあざ笑いながら、ヴィオラはミント水を飲み干した。
まあ、それはよしとしよう。
ヴィオラが大人しく自分の部屋へ引き上げてくれたので、レイは機嫌を直すことにした。
ローズはキッチンで読書にふけっていたが、長湯する旨を伝えて少年は再びバスルームに向かった。
もちろん、チェリーブランデーも忘れてはいない。
バスタブにはまだ、血の海のようなお湯が残っていた。よく見れば、深いローズピンクだ。
熱い湯を注ぎ足すと、少しやさしい色に変化した。
クラウンベリーおじさんが犯した失態とは、どんなものだったんだろう。
さらにおじさんは、「試すならバスルームで」と意味ありげな発言をした。
「間欠泉状態になりますので」
怖気づきそうになったが、もうここまで準備をしてしまったし、ここでやめたらそれこそ「腰抜け」だ。
レイは服を脱いでバスタブに浸かり、もう何も考えずに『D』を口にした。
甘い。
ブルーベリーの味がする。
眼の健康にはいいかも知れない。
そう思っているうちに、突如クラッときた。
しかし、その眩暈のような感覚が、果たして『D』の効力なのか先に飲んだチェリーブランデーの作用なのかは判然としない。
その眩暈は次第に激しくなってきた。
そのとき。
ローズはどうにも嫌な予感をぬぐいされず、本を閉じて立ち上がったところだった。
戸棚を開け、チェリーブランデーがなくなっていることを確認する。
やはり、あの子が持って出たのは間違いない。
ローズはなんとなく少年の挙動不審な動向に気づいていたのだ。
ローズは気持ちを固めると、まっすぐにバスルームに向かった。
彼女の判断は正しかった。
バスルームの少年は、抜き差しならない状況に追いこまれていたのだ。
血の海のなかに(正確には、ラズベリーの湯のなかに)、沈没すること数分。
ローズの判断が遅れていたら、少年は不慮の死を遂げているところだった。
(しかも溺死。シャレにもならない)
「レイ、なにをしているの!」
ローズは少年を湯の中から引っぱりだし、手馴れた手つきでお湯を吐かせた。
真っ赤なお湯に混じって、碧い石が吐き出されたことには、残念ながら気づかなかった。
どうもバスルームが騒がしいので、ヴィオラは寝台を抜けだした。
ちょうどレイがかろうじて上着を羽織ったあられもない姿で、バスルームからまろび出てきたところだ。
ヴィオラが駆けつけると同時に、彼は大量の血を吐いた。
「お風呂のお湯よ」
悲鳴を上げかけたヴィオラは、母親の言葉に赤面した。
…そうだった。
「なにをするつもりだったの」
珍しくローズの口調が厳しい。
レイはまだショック状態から抜けだしていなかった。
一体、なんだったんだろう。よく判らない。良かったのか、悪かったのかも。
「間欠泉に、なりたかった…」
ろれつの回らない口調でつぶやくと、少年は前後不覚に陥った。
「間欠泉って?」
無邪気にたずねる娘に、ローズはピシャリと云い放った。
「貴女は知らなくてよろしい」
『キャンディーの秘密』続く
猫足のバスタブに浸かっていたヴィオラは、レイが服のまま入ってきたのを見ていぶかしんだ。
「一緒に入らないの」
少年は無言で笑うと、サイドテーブルにふたり分のミント水を置いた。
「これからはひとりで入るように」
「な、なんで」
「最近のヴィオラは、ぼくを見て配慮に欠けた質問をしたり、悪戯がすぎるから」
「いやだったの」
「当たり前です」
レイは椅子に座って鷹揚に足を組み、持って来た本を開いた。本気らしい。
ヴィオラは、自分だけ裸になっている現実に突然抵抗を感じた。慌てて相手に背中を向ける。
「…なんか恥ずかしい」
「信じがたいはなしだろうけど、ぼくにも羞恥心がある」
「気づかなくて悪かったわ」
バスルームは当然ながらひどい湿気だった。
ヴィオラの髪だけは洗ってやろうと待機する少年は、いくらもたたないうちに汗をかきはじめた。
どちらかと云えば寒がりの彼は、ヴィオラがノースリーブで過ごしていても、しっかりと長袖を着こんでいるたちだ。
そのかっこうでここにいるのは間違っている。
しかも、彼は本など読んではいなかった。
読んでいるふりを装い心は別のところにあるようだ。
その証拠に、本が逆さまになっている。
ヴィオラは盗み笑いをし、そっとあるモノに手を伸ばした。
レイの頭を支配していたものは、クラウンベリーおじさんからもらった、あの碧い錠剤だった。
捨ててもいいと彼は云ったが、本気で捨ててしまうほどバカでも優等生でもない。
こんなチャンスは二度とないに違いなかった。
その「凄惨極まる」と云われる効果のほどは、風の噂に聞いたことがある。
与えられるものは、究極の快楽。
その効果に恐れ入った者たちは、この薬物の正式名など無視して、
『死』を意味するDとか、なにかの状態を表すOと呼んでいた。
クラウンベリーおじさんは、帰り際に、「酒精飲料と併飲すれば、効果は倍増」と教えてくれた。
本当にいいひとだ。
確か、キッチンの棚に製菓用のチェリーブランデーがあった。
計画を練りながら次第にドキドキしてくる。
無論、実行に移す算段だ。知ることは罪じゃない。
それは一体どんな快楽だろう…。
その時、バスタブの中で、ヴィオラが弱々しい声を上げた。
「気持ちが…悪い…」
ふと眼を上げた少年は、眼の前の惨状に一瞬言葉を失った。
バスタブは血の海になっていた。少女は口の端から血を流している。
「ヴィオラ…!」
レイは本を放りなげて駆け寄った。
大量吐血だ。少女はぐったりしている。
しかし、ローズを呼ぼうとして、ふとある事に気づいた。
血は大量だったが、まったくにおいがしない。
バスルームを飽和状態にしているのはラズベリーの甘い香りだった。
立ち往生しているレイの腕のなかで、ヴィオラは笑っている。
「これは一体どういう…」
床にバスキューブを包んでいた銀紙が落ちているのを見て、少年は全てを察した。
クラウンベリー御用達の、ラズベリーのバスキューブだ。それにしたってひどい色。
「血に染まって見えたよ」
「迫真の演技だった?」
「お風呂のお湯を口に含むなんて」
脱力している少年をあざ笑いながら、ヴィオラはミント水を飲み干した。
まあ、それはよしとしよう。
ヴィオラが大人しく自分の部屋へ引き上げてくれたので、レイは機嫌を直すことにした。
ローズはキッチンで読書にふけっていたが、長湯する旨を伝えて少年は再びバスルームに向かった。
もちろん、チェリーブランデーも忘れてはいない。
バスタブにはまだ、血の海のようなお湯が残っていた。よく見れば、深いローズピンクだ。
熱い湯を注ぎ足すと、少しやさしい色に変化した。
クラウンベリーおじさんが犯した失態とは、どんなものだったんだろう。
さらにおじさんは、「試すならバスルームで」と意味ありげな発言をした。
「間欠泉状態になりますので」
怖気づきそうになったが、もうここまで準備をしてしまったし、ここでやめたらそれこそ「腰抜け」だ。
レイは服を脱いでバスタブに浸かり、もう何も考えずに『D』を口にした。
甘い。
ブルーベリーの味がする。
眼の健康にはいいかも知れない。
そう思っているうちに、突如クラッときた。
しかし、その眩暈のような感覚が、果たして『D』の効力なのか先に飲んだチェリーブランデーの作用なのかは判然としない。
その眩暈は次第に激しくなってきた。
そのとき。
ローズはどうにも嫌な予感をぬぐいされず、本を閉じて立ち上がったところだった。
戸棚を開け、チェリーブランデーがなくなっていることを確認する。
やはり、あの子が持って出たのは間違いない。
ローズはなんとなく少年の挙動不審な動向に気づいていたのだ。
ローズは気持ちを固めると、まっすぐにバスルームに向かった。
彼女の判断は正しかった。
バスルームの少年は、抜き差しならない状況に追いこまれていたのだ。
血の海のなかに(正確には、ラズベリーの湯のなかに)、沈没すること数分。
ローズの判断が遅れていたら、少年は不慮の死を遂げているところだった。
(しかも溺死。シャレにもならない)
「レイ、なにをしているの!」
ローズは少年を湯の中から引っぱりだし、手馴れた手つきでお湯を吐かせた。
真っ赤なお湯に混じって、碧い石が吐き出されたことには、残念ながら気づかなかった。
どうもバスルームが騒がしいので、ヴィオラは寝台を抜けだした。
ちょうどレイがかろうじて上着を羽織ったあられもない姿で、バスルームからまろび出てきたところだ。
ヴィオラが駆けつけると同時に、彼は大量の血を吐いた。
「お風呂のお湯よ」
悲鳴を上げかけたヴィオラは、母親の言葉に赤面した。
…そうだった。
「なにをするつもりだったの」
珍しくローズの口調が厳しい。
レイはまだショック状態から抜けだしていなかった。
一体、なんだったんだろう。よく判らない。良かったのか、悪かったのかも。
「間欠泉に、なりたかった…」
ろれつの回らない口調でつぶやくと、少年は前後不覚に陥った。
「間欠泉って?」
無邪気にたずねる娘に、ローズはピシャリと云い放った。
「貴女は知らなくてよろしい」
『キャンディーの秘密』続く
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