文庫 麦わら帽子

自作小説文庫

秘密の花園 番外編 『TRAP 騙し合い』

2019-04-30 | 詩歌
【 Bad Trip 】




 猫足のバスタブに浸かっていたヴィオラは、レイが服のまま入ってきたのを見ていぶかしんだ。

「一緒に入らないの」

 少年は無言で笑うと、サイドテーブルにふたり分のミント水を置いた。

「これからはひとりで入るように」
「な、なんで」
「最近のヴィオラは、ぼくを見て配慮に欠けた質問をしたり、悪戯がすぎるから」
「いやだったの」
「当たり前です」
    
レイは椅子に座って鷹揚に足を組み、持って来た本を開いた。本気らしい。
 ヴィオラは、自分だけ裸になっている現実に突然抵抗を感じた。慌てて相手に背中を向ける。
     
「…なんか恥ずかしい」
「信じがたいはなしだろうけど、ぼくにも羞恥心がある」
「気づかなくて悪かったわ」
         
 バスルームは当然ながらひどい湿気だった。
ヴィオラの髪だけは洗ってやろうと待機する少年は、いくらもたたないうちに汗をかきはじめた。
どちらかと云えば寒がりの彼は、ヴィオラがノースリーブで過ごしていても、しっかりと長袖を着こんでいるたちだ。
そのかっこうでここにいるのは間違っている。
しかも、彼は本など読んではいなかった。
読んでいるふりを装い心は別のところにあるようだ。
その証拠に、本が逆さまになっている。
ヴィオラは盗み笑いをし、そっとあるモノに手を伸ばした。

レイの頭を支配していたものは、クラウンベリーおじさんからもらった、あの碧い錠剤だった。
 捨ててもいいと彼は云ったが、本気で捨ててしまうほどバカでも優等生でもない。
 こんなチャンスは二度とないに違いなかった。
 その「凄惨極まる」と云われる効果のほどは、風の噂に聞いたことがある。
 与えられるものは、究極の快楽。
 その効果に恐れ入った者たちは、この薬物の正式名など無視して、
『死』を意味するDとか、なにかの状態を表すOと呼んでいた。
 クラウンベリーおじさんは、帰り際に、「酒精飲料と併飲すれば、効果は倍増」と教えてくれた。
 本当にいいひとだ。

 確か、キッチンの棚に製菓用のチェリーブランデーがあった。
 計画を練りながら次第にドキドキしてくる。
 無論、実行に移す算段だ。知ることは罪じゃない。
 それは一体どんな快楽だろう…。
             

 その時、バスタブの中で、ヴィオラが弱々しい声を上げた。

「気持ちが…悪い…」

 ふと眼を上げた少年は、眼の前の惨状に一瞬言葉を失った。
 バスタブは血の海になっていた。少女は口の端から血を流している。
            
「ヴィオラ…!」
             
 レイは本を放りなげて駆け寄った。
 大量吐血だ。少女はぐったりしている。
 しかし、ローズを呼ぼうとして、ふとある事に気づいた。
 血は大量だったが、まったくにおいがしない。
 バスルームを飽和状態にしているのはラズベリーの甘い香りだった。
 立ち往生しているレイの腕のなかで、ヴィオラは笑っている。
            
「これは一体どういう…」
 床にバスキューブを包んでいた銀紙が落ちているのを見て、少年は全てを察した。
 クラウンベリー御用達の、ラズベリーのバスキューブだ。それにしたってひどい色。
            
「血に染まって見えたよ」
「迫真の演技だった?」
「お風呂のお湯を口に含むなんて」
            
 脱力している少年をあざ笑いながら、ヴィオラはミント水を飲み干した。

             
 まあ、それはよしとしよう。

      
 ヴィオラが大人しく自分の部屋へ引き上げてくれたので、レイは機嫌を直すことにした。
 ローズはキッチンで読書にふけっていたが、長湯する旨を伝えて少年は再びバスルームに向かった。
 もちろん、チェリーブランデーも忘れてはいない。
 バスタブにはまだ、血の海のようなお湯が残っていた。よく見れば、深いローズピンクだ。
 熱い湯を注ぎ足すと、少しやさしい色に変化した。
             
 クラウンベリーおじさんが犯した失態とは、どんなものだったんだろう。
 さらにおじさんは、「試すならバスルームで」と意味ありげな発言をした。
             
「間欠泉状態になりますので」

 怖気づきそうになったが、もうここまで準備をしてしまったし、ここでやめたらそれこそ「腰抜け」だ。
 レイは服を脱いでバスタブに浸かり、もう何も考えずに『D』を口にした。


 甘い。
 ブルーベリーの味がする。
 眼の健康にはいいかも知れない。
             
 そう思っているうちに、突如クラッときた。
 しかし、その眩暈のような感覚が、果たして『D』の効力なのか先に飲んだチェリーブランデーの作用なのかは判然としない。
 その眩暈は次第に激しくなってきた。





 そのとき。
 ローズはどうにも嫌な予感をぬぐいされず、本を閉じて立ち上がったところだった。
 戸棚を開け、チェリーブランデーがなくなっていることを確認する。
 やはり、あの子が持って出たのは間違いない。
 ローズはなんとなく少年の挙動不審な動向に気づいていたのだ。
 ローズは気持ちを固めると、まっすぐにバスルームに向かった。
          
 彼女の判断は正しかった。
 バスルームの少年は、抜き差しならない状況に追いこまれていたのだ。
 血の海のなかに(正確には、ラズベリーの湯のなかに)、沈没すること数分。
 ローズの判断が遅れていたら、少年は不慮の死を遂げているところだった。
(しかも溺死。シャレにもならない)

「レイ、なにをしているの!」

 ローズは少年を湯の中から引っぱりだし、手馴れた手つきでお湯を吐かせた。
 真っ赤なお湯に混じって、碧い石が吐き出されたことには、残念ながら気づかなかった。
 どうもバスルームが騒がしいので、ヴィオラは寝台を抜けだした。
 ちょうどレイがかろうじて上着を羽織ったあられもない姿で、バスルームからまろび出てきたところだ。
 ヴィオラが駆けつけると同時に、彼は大量の血を吐いた。

「お風呂のお湯よ」
      
 悲鳴を上げかけたヴィオラは、母親の言葉に赤面した。
 …そうだった。


「なにをするつもりだったの」
            
 珍しくローズの口調が厳しい。
 レイはまだショック状態から抜けだしていなかった。            
 一体、なんだったんだろう。よく判らない。良かったのか、悪かったのかも。

「間欠泉に、なりたかった…」

             

 ろれつの回らない口調でつぶやくと、少年は前後不覚に陥った。
 
「間欠泉って?」
             
 無邪気にたずねる娘に、ローズはピシャリと云い放った。

「貴女は知らなくてよろしい」




『キャンディーの秘密』続く

秘密の花園 番外編 『TRAP 騙し合い』

2019-04-29 | 秘密の花園 別章

【クラウンベリーおじさんの憂鬱】
       
 週に一度巡回してくる、物売りのクラウンベリーおじさんは、《総管理局》の回し者である。
《中央》は(善人面をして)国の利益を、国民に等しく(?)還元しておきながら、
その一方ではこのような人間を使って、個人の財産を回収しようとしている。
そしておそらくは、抜け目なく個人の生活を監視しているに違いなかった。
しかしながら、その回し者の口車にまんまと乗せられてしまう人間を、
「騙される方が悪い」などと、容易に否定しないで戴きたい。
とりわけ『箱庭生活』というものは、想像以上に退屈で過酷なものであったからだ。
今日もまた、クラウンベリーおじさんがやってきた。
彼はいつも生け垣の向こう側で、カウベルを振って合図する。
子供たちの反応は敏感だ。
先に外へ飛び出すのは決まってヴィオラ。
その後にそそくさと庭の主であるローズが続く。
一番敏速なはずの剣士のレイが出遅れるのは、注文書を用意する手間に足をひっぱられる所為だ。


       
              

「おはようございます、ローズ様」
クラウンベリーおじさんは礼儀正しい紳士だ。
年齢不詳だと噂されるのは、そのダサいスタイルの所為。
くたびれて色落ちした作業服に、帽子を目深くかぶっている。
時折ちらりと素顔がのぞくが、そんなに「おじさん」ではないかも知れなかった。
この国特有の孔雀石の眸はきれいだし、一応長い髪も手入れは行き届いている。
もっときちんとすればいいのに。そう思う者も少なくない。
「今日も余計なものを色々持ってまいりました」
それはおじさんの常套句。これから商談をはじめる合図となった。
おじさんが用意している品物は、不思議と買い手の嗜好や趣味を心得ていて、
ついつい予定外のものを買うはめに陥ることになっている。まさに相手の思う壺。
美しい更紗布。虹色の刺繍糸。銀細工の指ぬき。ドライフラワーに、花の精油。
ターゲットにされたローズは、手芸に興じる予定はなかったのに、手作りリースキットから目が離せなくなった。
玄関先を模様替えしようかな、なんて思いはじめる。
間違いなく配給の対象外になるであろうお菓子も、籠いっぱいに用意されている。
(このあたりは絶対に計画的。やりかたが汚すぎる) ヴィオラはお菓子しか見ていない。
ローズの服を引っぱってせがんだものは、毒々しい色のラムネ菓子だった。
ふたりが品物を物色している間、レイは辛抱強く後ろに立って待っている。
彼がクラウンベリーおじさんとこっそりアイコンタクトをとったのに、女性ふたりは気づかない。
「いつもご利用いただいているお礼です」
今日は、おじさんがヴィオラになにかをサービスした。
小さな紙袋に入っていたので、中身は不明だ。
「どうもありがとう」
少女は大喜びで家のなかへ戻っていった。
ローズは袋の中身を確認する必要に駆られ、娘の後を追っていった。
「ご苦労様です」
レイは、今週の注文書と引き換えに、頼んでおいた生活備品を受け取った。
「それで、例のものは」
 声を潜めると、おじさんは心得たもので、無言で笑ってそれを手渡す。
 錠剤の入った小瓶だ。
「こんなものが役に立ちますか」
「気分が腐ったときはこれに限ります」
 レイはどこかうっとりとして錠剤をながめた。
 それは合法スレスレで認可されている、云わば公認ドラッグ。
《中央》が行った調査によると、この国の殆どの者が、慢性的になんらかのフラストレーションに悩まされている現状が明らかになった。
そこで《医務局》は、軽度の鎮静剤を解放。
それを《研究院》が、「いつでも手軽に使えるドラッグ」に作り変えて販売した。
特徴は一粒でスカッとできること。しかも短時間でケリがつく。中毒症状は皆無。
絶対安心のドラッグだ。                
しかし、公認はされていても、そんなドラッグに手を出していることなど、なるべく人には知られない方がいいに決まっている。
知ればローズだって気を病むだろう。
例え、少年が抱えこむ「モヤモヤ」や「イライラ」が、思春期にありがちな、ごく自然な症状だと判っていてもだ。

      
               
「ところで、あのゲームの調子はいかがですか」           

クラウンベリーおじさんは、話題を転じた。先週購入した、駒を使う簡単な陣取りゲームの件だ。
 二重商称でもある、俗称「cheat」の名のごとく、対戦相手を最初から欺いて絶対に勝たせない、イカサマゲームだった。
 その門外不出のカラクリは最大企業秘密であるため、買い手にも明かされないが、
マニュアル通りに駒を進めれば、何故か不思議と勝てるのである。
 先攻後攻問わず、相手の機略も及ばず。ただし、理屈が判らないのでマニュアルを丸ごと頭に叩きこむ必要が生じる。
 面白半分でゲームを購入した少年は、このイカサマをうまい具合に日常面で活用した。

 最近、ローズは子供たちに食事の支度をさせるようになった。
 ヴィオラも年頃の娘になったし、レイだって、一応は守人としての立場がある以上、身の回りのことをこなさなくてはならない。
 しかし子供たちにしてみれば、それは悲劇の発端でしかなかった。
 毎日続くと本当に気が滅入ってくる。
 そこでふたりは交代で食事当番をすることにした。
 そしていつからかそこにゲーム的要素を加えては、ささやかなスリルを味わうようになっていたのだ。
 簡単なゲームで勝敗を決め、負けたものが一日の食事当番を担うというルール。
 できるなら、その手の面倒は避けて通りたいのが人情というもの。
 ましてや、男の自分が料理の腕を上げるよりも、ヴィオラの将来を考えて、当番を「譲ってあげる」方が、親切というものだろう。
 少年はもっともらしい理由をでっちあげて、このゲームを使った。
 今のところ、連敗するヴィオラはその真意に気づいていない。
 負ける方に落ち度があると思い、自分を呪い続ける日々が続いている。
「お陰さまで、楽をさせて戴いています」
 レイは真面目くさった表情で告げた。クラウンベリーおじさんは心得顔でうなづいた。
     
「今日はもうひとつ、とっておきのモノをご用意しました」
 合法ドラッグの決して安くはない料金を受け取りながら、彼は云った。
「そんな安っぽい快感よりも、もっとすごい体験ができる」
 彼が差しだしたのは、明らかに「ヤバイ」雰囲気を醸しだしている、碧い錠剤だった。
 自分が手に入れたものとは、雰囲気からして違う。
「こいつを噛み砕かずに、ゆっくりと口の中で溶かすんです。アノ感覚が味わえますよ」
 クラウンベリーおじさんの孔雀石のような眸が、少年を探るようにきらめいた。
「アノ感覚?」
「そう、アレです。判るでしょう」
 思い当たったらしいレイは赤面して眼をそらした。
「ああ、アレね。…でも、ぼくは」
 思わず後退した。「まだ、こんな年齢なので」
「庭を管理しているからって、将来の伴侶が得られる可能性まで保証されたわけではないのですよ。
貴方だって、もしかしたら一生、それを経験することなく死んでゆく運命かも知れない。知りたいと思ったことはないですか」
 ないわけがないではないか。しかし、はっきりあるとは云えない。
 クラウンベリーおじさんはやや砕けた感じになって、懐から煙草を取りだした。
 いつも通り少年にも気前よく分けてくれる。
「…《軍部》のキャンプの惨状には眼も当てられません」
 彼は暗澹たる気分で云った。《軍部》に籍を置きながらも、レイはあまりキャンプには出向かない。
あそこはどうも陰険で、男くさくて嫌なところだ。
薔薇の香りとお菓子の甘いにおいに飼いならされた者には、生理的な拒絶反応が出るような場所だった。
 しかし興味はある。少年はクラウンベリーおじさんが時折入手する《軍部》情報を聞くのがたのしみだった。
「狂気に陥った男社会というものはむごいものだ」
 おじさんは嘆息する。「私はその現状を目の当りにしてきました、貴方の所属する
《軍部》はその最たるもので、行き場をなくした欲望をもてあます若者は、同性の仕事仲間に慰めを求めて徘徊する…」
「マジですか」
 レイは真っ青になった。
 あの《軍部》の荒くれ者たちが? 
 なんて気色の悪い話だろうか。
「軍のキャンプなんてもはや無法地帯のようなものです。
 クラウンベリーおじさんは、自らの体験を物語っているかのように、物憂げな表情だった。
「貴方ももうじき十三の節目を迎える。国が貴方を大人として扱うようになれば、連中の視線も変わってきますよ。
くれぐれも警戒を怠らぬように、ということですな」
 レイは最悪の状況に追いこまれている自分を想像して身慄いした。
 おじさんは少年の反応を見て笑う。
「貴方のように無菌状態で育った子供は、闇に囚われる傾向が強いといいます。知りたいと思うことは悪いことではない。
むしろ無知であることの方が罪です」
 クラウンベリーおじさんは、いつも饒舌だ。そこには不思議な説得力があった。
「これを貴方に差しあげましょう」
 彼は、ふたつの錠剤をパラフィン紙に包んで手渡した。キャンディーのように見えなくもない。
「サービスです。ただし、絶対秘密にしておいてください。こいつは違法行為になります」
「受け取れません」
「それでは捨ててしまってけっこう。これくらいの量では中毒にはならないし、後々料金を請求するつもりもないことだけは云っておきます」
「貴方を疑っているわけではないんです」
「判っています。君は、いい子だ」
 突然、おじさんの口調が変わった。「他の庭の管理者ときたら、傲慢でとりつくしまのない連中ばかりでね。
この庭は唯一、心が和む場所だ。私は君に逢えるのがたのしみなんだよ」
 口調が砕けてくると、身近な兄のような感じがしてくる。
 白状してしまうと、本当は、レイは少しこのおじさんに惹かれていた。
 時折見せる素顔は端整でなんと云っても頭がいい。彼の深いバリトンは、聞いていると気持ちがよくなってくる。
それに、時折垣間見せるあの物憂げな表情。
それは露骨に心臓を突いてくる。            
「陶酔」とか「心酔」とかいう言葉を、少年が知らないのは不幸な事実だった。
おじさんの持つ独特な波動に、すっかり毒気を抜かれていた。
 少年がここまで警戒を解くのは珍しいことでもあった。        
 周りの女性たちはみんな文句なしにやさしい存在だったが、やはり時には、同性の力に頼りたくなることもある。
(もっとも、カルパントラばあちゃんなんかは、オールマイティーで頼りがいがあるのだけども)
 レイは、心のどこかで兄のような存在を求めていた。
 クラウンベリーおじさんは、それにぴったりの人材だった。

「私は君に、ちょっとしたプレゼントをしたかっただけだから」
「貴方は、これを使用したことがあるんですか」
 おずおずと少年が聞いた。
「ありますよ。ただ、私は重大な過失を犯した。場所と時間を選ばなかった。おかげで、大衆の面前で大恥をかきました」
「それって、一体どういう…」
 そこへローズがやってきたので、ふたりはすばやく「商談中」の顔を作った。
「クラウンベリーさん、娘が戴いたものはなんでしょうか」
 何故かヴィオラは、それを秘密にしておきたいらしい。自分の部屋に入るなり鍵をかけてしまった。
「ラズベリーのバスキューブです」
 おじさんはにっこりと笑って答えた。



 『Bad Trip』へ続く